義経は頼朝を倒せたか?
司馬の「義経」を読んでフラストレーションがたまったので建ててみた。
うまくやってたら頼朝と北条氏を倒して義経が天下取れてたと思うんだよね。
義経が逃げる途中でウンコ漏らしてたら勝ったかも知れないとふと思う >>151
帰ってから自分を絵師に自分を描かせるくらいでないとな >>138
頼朝の弟であることに意味なんかないよ。
頼朝の言う通りにしたところで、蒲と同じ道を辿るだけ。
てか、頼朝が無力だから義経も蒲も死んだんじゃん。
北条は良き補佐役になってくれるであろうし、邪魔者は片付いたし、
これで未来は頼家のものって、この無邪気さこそが痴呆というんじゃないの。
義経と頼朝が仲良く出来れば、北条を駆逐できたかも。 会話ってw
当時は兄弟は相続上の敵でしょ。親・子でさえ犠牲にしても自己の権力を
維持しないといけないわけだから。 ∧∧
( ,,) 『やっぱり・・・・。』
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〜(__) 郎党を食わせていかなきゃいけんもんね
大将は辛いよ 義経が北条政子に夜這いをかけ、堕とせば頼朝を倒せた >>162
「追捕使」「地頭」でもって武士の地位を「非人」から「国の公職」にまで高めた事で、
鎌倉殿(頼朝)は、全国の武士の圧倒的支持を得たから。 庶弟は家子であって欲しいもんだけどな。
欲で以て要らない翼を付けたもんだ。 最初、頼朝に追われる身となって、義経は西国にいこうと思ったが、
出港の前日に嵐に見舞われ、船がみんな沈んでしまい行けなかった
らしい。 既に頭が居る平泉より
義経を担いでくれそうな奴を西国で探す方が展望はあるような 義経は、日本を捨ててユーラシアへ雄飛し、ジンギスカンになった、
でいいじゃね。 島津氏が鎌倉から薩摩入りしたのは1275年
それまでは鎌倉に居住していた 頼朝を倒す以前に平教経が義経を仕留めたら源氏の負けだったかもね 秀衡の言うとーり、大人しく奥州に留まってれば良かったんだよ。
そしたら源氏と平家は相討ち・・・いや、屋島や壇ノ浦のような
義経の活躍がなかったとするなら、間違いなく頼朝が敗れてただろうに。
そのうち清盛が死んで、自動的に天下が回ってきたかもしれない。 むしろ立場が逆だったら面白かったかも。
頼朝:平治の乱の後の落ち武者狩りを逃げ切り、改名して奥州に逃げ込む
義経:常磐と共に伊豆に島流しされる(今若、乙若は別の所に島流し) 司馬の「義経」俺も読んだよ。行家が本当にジャマだった。
九州落ちの船が難破してしまったのがつくづく悔やまれる。難破して助かってからどうして落ち延び先を奥州に変えてしまったのかな。
山陽道へは出られなかったの?
義経を豊後で迎えようとした緒方は上野沼田に配流
他に味方らしい味方の武士がいなかったんだろ
>>182
義経の逃亡ルートは解明されたわけではないが、
義経が美作国の山寺で亡くなったいう「噂」はあった 頼朝って無能だよね、政治的なことは北条がやってただろうし
藤原氏が全面協力すれば鎌倉倒せただろうがその後、グダグダになりそう 義経が九州に逃げてたら
足利尊氏とか西郷隆盛みたいに力を蓄えて
反革命とかできたかもなあ。 承久の乱とかで義経が先頭にたち幕府軍と戦うとかありえたんじゃね。 さらに奥州藤原もあるから
義経 頼朝 奥州
の三国志時代になったかも。義経と藤原が組んで
同時に鎌倉に攻め込むとか。 義経は平家の残党をなんとか助けようとした
みたいな話なかったっけ_? 義経っていまいち人気でないよね。なんでだろう。
女性受けしそうな人物なのに。 >>202
伝説だけが一人歩きしてるからね。桃太郎伝説の桃太郎のようなもん。
戦時教育の反動(逆恨み)で、義経を貶めようとする人もいるけど
結局は誰も本当の義経を知らないし、知ろうともしないという。
司馬や宮尾が描く義経像もえらく稚拙で伝説の域を出ないし、
あんたらは本当に「作家先生」ですか?と。
個人的にはすごく興味深い人だし、やっぱり特別な人だと思う。
だって、実父が源氏の棟梁、義父が平家の棟梁、養父が奥州王ですから。
義経の存在そのものが時代の縮図になってるといってもいい。 >>204
作家が正確な人物像を描けくことは困難というのは理解するけど、
より正確な義経の行動なりを知るには何を読んだらいいですか。 戦術に優れた項羽は3万で劉邦率いる50万の連合軍を蹴散らすことさえあったが
最終的に勝ったのは劉邦のほうだった
アルプスを越えイタリア半島に攻め込んだハンニバルは無敵だったが
非難されても戦いを避け続けたファビウスが最終的な勝利を得た
義経が挙兵してたとえ1、2度大勝したとしても歴史は変わらなかったと思う 武家政権は確実に立ち上がったろうけど
頼朝が天下を取れたかはわからんよ 奥州は義経自身が味方につけ、朝廷工作は異父弟の能成や叔父の行家がやるとしても義経自身の兵や武士の味方が少ないな
義経の身近に武士が何を求めて戦っているか理解している人はいなさそうだし、いたとしても頼朝以上に上手く取り込むことはできまい
後白河がもう少し頭よくてせめて西国は鎌倉の支配下に入らないようにしておけば奥州だけでも自立できただろうけど
義経の立場からどうこうできることじゃない
ロシア帝国初代皇帝は源頼朝と源頼家を記念
http://akiba.geocities.jp/pxzuwp/0204/48/314.html
ロシア帝国初代皇帝ミハイル・ロマノフの誕生日は、源氏そのものだった。
義経=ジンギスカン説はここに結実する。
ミハイルが皇帝に選出された日は、日本の建国記念日だった。
つまり、アメリカの初代大統領ワシントンは誕生日が2月11日。
ロシアの初代皇帝は皇帝就任日が2月11日という、傑作な世界史になっていた。 そもそもなんで奥州はあそこまで義経に味方してくれてたの? あの時の鎌倉相手ならまだ勝つ見込みがあると思ってたんじゃないか?
鎌倉と戦うに当たって武勇名高く京でも人気の義経を担ぎ上げたとか けど京で名を上げる前も義経かくまってくれてたりしたわけじゃn。 義経にしても『平治物語』(下巻)によれば、騎射を行うのは鞍馬を出てからである。
つまり義経は下総を根拠とする坂東武者である陵助重頼を語らってその手引きで鞍馬を出る。
その重頼を誘う義経の言葉の中に「物射て遊ばん」というのがあるが、義経は鞍馬を出て近江の鏡宿で自分で元服した後、
重頼に弓箭と馬を用意させ、東国への道すがら、重頼に「馳挽、物射」(つまりは騎射、歩射)を習いながら下ったという。
その後、義経は下総で一年ほど過ごすが、そこで狩猟をしていたことが記されている。
いずれにしろ義経が騎射術を習得したのは、鞍馬を出てからと考えるのが妥当であろう。
とすれば『平治物語』にみえるように、奥州に向かう途中(諸国流浪中)や、また、名馬の産地である奥州に行ってからであろう。
義経の身体能力をもってすれば、騎射術の修得も早かったのではなかろうか。
それにしても、戦術的能力の向上には実戦経験が重要である。
自力救済(公権力に頼らず当事者相互で紛争を解決すること)の私戦を繰り返している東国武者とは違い、
義仲追討戦以前の義経に実戦経験があったかどうか疑問である。
あったとしても、鞍馬にいた時の辻冠者原との戦闘ぐらいであろうし、奥州では戦闘はなかったと考えられる。
そうした実戦経験という面では、義経が鞍馬から直接奥州へ赴かずに、諸国を流浪し、しかもその間、恵まれた生活はしておらず、
山賊や野盗まがいのことをしていたと考える方が、戦士能力の育成をという面では、筆者には説得力がある。
しかしその一方で、義経の戦士能力は、戦術的能力よりも戦略的能力にあることを第三章で指摘した。
その点では、戦術的能力が劣っているのは、実戦経験が少なかったからであるとも考えられる。
結局は類推の積み重ねで何とも言えないのだが、鞍馬を出てから義仲追討戦に向かうまでの義経の実戦経験の有無については気になるところである。
近藤好和『源義経』ミネルヴァ書房(2005年) >>213
それは奥州藤原氏の盟友・藤原基成と義経の義父・一条長成が親戚だったから
京で育てれば平家から目をつけられ、寺に預けても逃げ出してしまう、かと言って愛妻の子なので殺すのも忍びない
長成はそんなどうしようもない義理の息子を遠くの親戚に預けたということ >>213
やっぱ、ウマがあったんじゃないかな・・・。
単に源氏の「血統書」が欲しかったという人もいるけど
平家全盛にそんなもん、たいして価値ないだろうし。
後の頼朝がしたように、下手したら逆に足元を救われかねない。
なんとなく浮かぶんだよね。
犬コロのように檻を脱走し、泥塗れて白河の関を超え、
その先に広がる奥州の都を目にした時の、義経の衝撃的な顔が。
少年時代が暗く閉ざされていたからこそ、黄金の浄土都市で過ごした日々は
義経の骨の髄まで影響を及ぼしたはずだと自分は思う。 もしタイムマシンがあったら1186〜87年頃の鎌倉に行って原爆を落とす
頼朝も北条一族もその他関東の御家人連中も皆殺し
この状態で義経が一から国を作り直すか見もの 義経が頼朝を倒すって構図はありえなさそうだな。義経に政治、戦略的視野が無さ過ぎる。
藤原秀衡がもうしばらく健在ならなぁ・・・。後白河も奥州側の勢力が固まれば何をするかわからんお人だし。 もし義経が天下を取っていたら日本人の気質そのものが変わっていたかもしれない。 >>218
義経は馬鹿というより若すぎただけ。
31で死んだんだっけ?
清盛や頼朝が31才の時どうだったか考えてみなよ。 むしろ頼朝があと20年長生きしていればどうなっていたかな 難しいな。あまり、変わり映えしない気もする。
源氏将軍がもう少し続いて、北条氏独裁が遅れたか。
厚遇・冷遇を問わず源氏一門は評定衆の外、いわば外様に変わりない。
となると、頼朝親裁後はよほど力の均衡が保たれない限り、評定衆を占める
御家人間の権力闘争。
よほど変わり映えするとしたら、頼朝自身が北条時政を討つパターンが
ある時だけじゃないだろうか。 頼朝は優秀な息子が居なかったのが痛いな
義経と範頼をしっかり自分の膝元にでも入れて庇護してれば息子達守ってくれたかもしれないのに
義経も義経で周りに武辺者しか居ないのが致命的だった
弁慶も戦略とかは考えられても政治とかはできなさそうだし
秀衡がもうちょい長生きしてくれたらと言うのもあるが ただ北条氏ってなり上がり方が陰湿で嫌な感じするけど
政治家としては一流でしょ。元寇耐え切ったりしたわけだし。
北条一族(特に時政と義時)はただの政治屋って印象だな。
将軍を名乗るだけのカリスマもない、陰湿な性格ゆえに仁徳もない、
なにより華がないのが致命的で現代の評価は石田三成にすら劣る。
正直、実務能力なら大江広元の方が上だと思うし、
義経の配下にもそういうタイプの人間が一人か二人はいたのではないのかな?
能力を発揮する機会がなく歴史に埋もれてしまっただけで。 義経の配下には権力がある奴がいないでしょ。
奥州の人らぐらいか。
義経の配下ではないけど異父弟の一条能成は公家として義経に協力している
最終的には参議にまで登ってる人だから有力な政治家ではあったんじゃないかな 公家じゃなあ。
兵隊をまとめる家柄とか器のある人物が少ないでしょ。
頼朝は関東の武士まとめてたわけでしょ。
奥州と関東の戦力差がどれくらいあったかわからないけど。
せめて平家の残党とか取り込めてたらなんとかなったのかもしれないが。 頼朝が義経討伐の兵を挙げる前に死んでいれば義経にも十分勝ち目あったと思う。 >>230
頼朝がいなくても北条政子がいればなんとでもなったような気がする。 上策・義経直属の兵で鎌倉を奇襲する。
中策・宇治勢多を固め西国の武士を集める。
下策・九州四国に退く。 >>233
義経直属の兵ってどれくらいいたんだろう?
少なそうだな。
朝廷を味方に付けて勢力を増やし奥州と組んで挟み撃ちで関東に攻め込む
ってのがベストだと思うんだけど。 直属はせいぜい二百じゃない?
「中策」に奥州を足した戦略がベストだろうが、
下策をとらざるを得なかった理由があったはずだ。 義経の手勢じゃ京は守りきれないだろう
かと言って畿内の武士が義経の味方になって頼朝を防ぐとも思えないな
朝廷工作と平家の取り込みを成功させていればまだどうにかなりそうだけどねえ 奇襲作戦なら成功させれそうだけどな。鎌倉を裏側から奇襲とかできないものか。 修験者とか浮浪者に変装させた直属部隊をバラバラに鎌倉に侵入させて期を見て各方面から奇襲とかどうだろう 気づかれたら個別撃破だからリスク高すぎだが面白い。 そもそも義経が頼朝の弟と信じていたひとがどれだけいたのかね >>233
比叡山に逃げ込むってのはどうだろう?
当時あそこは日本版梁山泊ともいえる存在だったし
>>240
それ、まんま水滸伝の北京大名府攻めだな 当時の中国に亡命って手段は駄目かね?
源実朝がやろうとしてたらしいし。 >>243
本来は西国武士と比叡山の兵力を期待して「中策」の予定だったみたいね。
でも西国武士は義経に味方する義理もないから兵力不足、比叡山も荷担に踏み切れなかった。
やっぱ奇襲が一番だよ。危険だけど。 危険って言うか無理だろうね
まとまった兵力が無いんじゃまず鎌倉まで行けないし
全員隠密活動で一城砦都市を落とすってのはちょっと現実離れしてる
もし仮に鎌倉を落とせたとしてもすぐに潰されるのがオチだ 船を使えばどうだろう?鎌倉なんて海岸沿いなんだから
船で近くまで寄って上陸すればいいじゃん。
あの時代船は西国の専売特許だったんでしょ? それだと上陸後は徒歩で戦わなきゃならなくなる。
騎馬による鎌倉奇襲より可能性が薄いだろうな。 鎌倉ってさ。
山山山山
山鎌倉山
山町町山
海海海海
って地形じゃん。山から火矢で攻撃すれば簡単に壊滅できそうだけど。 山は城壁代わりそこで敵を防ぐ。山を取られたら攻め落とされたも同然。