戦術で戦略を突き崩した偉人
戦略>戦術
だと思うが、逆をやってのけた偉人を晒してくれ。 どちらかというと、敵の戦力を潰すって事と治安を維持するって事の区別が決定的についていなかった気がする。 難しいね。
例えば「厳島の戦い」の毛利なんかも考えてみたが、劣勢を跳ね返したからと言って、戦術>戦略ではないと思うしね。
この場合、やはり毛利が戦略的にも上回っていたと思える。 67
ラムズフェルドは、占領したらおしまい。石油利権ゲット!みたいにおもってたんだろうけど。
イラクって、宗教対立が激しくて、反米思想も強く、
民主主義で統治できるほど甘くはないところだった。
大戦略や三国志みたいなシュミレーションゲームじゃ、絶対味わえない現実。
三国志も、統一後、統治シナリオあったら、大変だろな。
功臣の謀反やら、粛清やら、どの国任せるかとか・・・。選択肢が∞すぎてゲームにならない。
二元的に考えられる戦争よりも多次元的で複雑怪奇。
日本がWW2後、米軍に対する、蜂起やテロがなかった(と思える)のは、天皇がいたからだと思う。フセインをもっとうまく使えたらよかったのにと思われる。
米軍も彼なみに住民抑圧しないと統治できないことを知ってしまったのは、WW2後、日本が戦っていたロシア・中国とアメリカが戦うことになった展開に近い感じがする。 >>70
イゼルローン攻略→アムリッツア→同盟衰退
逆に突き崩しちゃったのでは 圧倒的に不利な状況を切り抜けたという意味では七年戦争かな
戦術で突き崩したというか、時々負けながらも頑張ってたら外交状況が運良く好転した感じだが 桶狭間では、義元の首級こそ挙げたものの、今川軍に巻き返されて信長軍は逃げ帰っている。
信長自身が討ち氏にする怖れも大きかった。
大将首を奪られたくらいでは怯まない、多弾頭化された今川家と所領に敵を引き込んだ織田家、
両家戦略は引き分け。わずかに信長の果断速攻が勝ち目を分けた。
長篠の合戦、三千丁の鉄砲の半分を武田支城の攻略に当てたため、馬柵前での武田軍壊滅ではなかった。
閑散とした戦場、当時の屏風画あり。支城陥落での戦意喪失。
上杉武田の諸衝突、戦国最大のヤラセとの説あり。謙信の一騎駆け、江戸時代に疑問の声上がる。
戦国英雄伝なるもの、後世サムライ政権と軍国主義の都合で、そーとー脚色されてるから
鵜呑みはキケン。
分析、とてもおもしろく、読ませていただきました。
感謝します。
物量や政治状況で事前に敵を凌駕するのが戦略ではないかと >>82
分かれているかどうかは別にして
戦略は戦術よりも上位の概念である
とはいえるんじゃねーの。
まず、戦術決めてから戦略を考える
なんてことは無いわけだし。 戦略でまけてたけど、
戦術で逃げるぐらいはできるだろうな。
織田の朝倉攻略のとき、
朝倉・浅井が連合して襲い掛かってきた。
これは戦略の失敗。
でも、秀吉のがんばりもあり、撤退に成功したね。 戦術で戦略が負けたときは新しい戦略が生まれるときなんだろうな。 戦略>>戦術の分かりやすい例として、川中島合戦第4回な
戦術で勝った謙信が前半押してたが、結局敗走してしまい北信濃攻略という
信玄の戦略勝ちに終わる。
逆に、戦術>>>戦略の分かりやすい例として、三方ヶ原合戦な
信玄来襲の際、家康と挟み撃ちにしようと考えた信長であったが
結局信玄の巧みな戦術によって家康はコテンパンにされ、信玄戦略
は失敗に終わるww
戦略:格戦術を統一した目的と目標のために統合する総合的な計画
戦術:個別の戦闘における作戦
戦術が戦略より優位な場合とは、
絶対的不利を奇跡的勝利で切り抜けた場合とか
戦略的失敗で不利に陥ったのに、勝利した場合とか
戦略方針を無視して、戦闘を行い勝利し、
戦略そのものが戦術的勝利によって変更された場合とか
になるかと思いまするが、いかがなものでしょうか
知らなかったけど人力鉄道の歴史サイトがあった。
http://www.kk-net.com/~tabuchi/JINSHA.htm
韓信と義経に一票ずつ。
戦略的不利を完全に覆したといえばこの二人が印象深い。 外出かな?上田籠城の真田幸村。
徳川家主導で関ヶ原に勝つつもりだった家康に、外様優位の領土配分を押し付けたね。
秀忠の四万が間に合わなかったため、豊臣家臣団に戦場を委ねるしかなかった。
福島加藤は断絶に追い込まれるものの、この戦略失敗は幕末まで後遺症となった。
秀忠が遅れたのは雨で足止め食ったからという話もある 川越野戦はむしろ戦略的事例だよな
「少数で大兵力を撃破する」という無理な戦術課題を達成しただけで。
基本は篭城の救出戦だもの。 >>49
いや、スキピオの登場がネックなわけだから、ハンニバルは大国を戦術で突き崩せなかったと
いうより、戦術的天才に巻き返されたというほうが正しい。
まあ、スキピオはハンニバルが持っていないもの全てを持っていたわけだが。
よーするに、小さな局地戦勝利で
戦略的不利を覆した人ってことかな?
てか、戦術的に敗北したのに戦略的には勝利したって戦いを挙げた方が早いぜ。
近代以前ではこれはかなり珍しいよ。
川中島だって、武田方の戦略的勝利といわれるが、
土地は確保したけど幹部クラスがかなり戦死している。
当時の封建社会では、当主の死というのはその軍を著しく弱体化させる。
一方、幹部クラスの戦死が少なかった上杉は、元気に関東に出陣している。
果たしてこれを武田の戦略的勝利と呼べるかね。
局地戦ではところどころ負けたが最終的に勝ったとはまた違うからね。 現代だって、戦術的には負けたのに、
戦略的には勝ってしまいましたってのは、
第一次大戦のイタリアとか、ほんの極わずか。 日本じゃ孫子の影響かなんか知らんけど、戦略>戦術という認識が多すぎ。
欧州じゃクラウゼビッツしかりで、戦術>戦略じゃね?
アレキサンダーとかカエサルとかハンニバルとかナポレオンとかフリードリヒ大王とか、
全部傑出した戦術家って感じじゃん。 ナポレオンはしばしば兵站を無視して行軍したし、
ハンニバルのアルプス超えなんて大量脱落者を生み出した無茶苦茶な戦略だし、
フリードリッヒ大王にいたっては、自ら敵だらけの、
戦略的には非常にマズイ状況を生み出してるよな。
本来、役割の違いでどちらが上位概念とかではないのだが、
戦略>戦術っていわれることが多いね。
思うに銀英伝の影響が直接でなくとも間接的に強いと思う。
まあ、銀英伝も孫子の影響を受けているから、
根源をたどればやはり孫子の影響なのかな。 そこで神風ですよ。
戦略でも戦術でもボロ負け必須だったのに。
全てにおいて負けって状況がひっくり返った激レアケース。 フリードリッヒ大王はエカテリーナの旦那(名前忘れた)がいなかったらどうなっていたやら。
ミトコンドリアだな。
原始バクテリアに取り込まれたが、共生関係を持つことにより
地球生命のほとんど全てに子孫を遺し、宿主にとって必要欠くべからざる存在になった。
大古の戦術的勝利。 オスマン帝国の第二次ウィーン包囲を打破ったロートリンゲンのカルル大公やポーランドのヤン・ソビエスキーは名将だけど。 >>105
神風は関係ないよ。
モンゴル軍は戦闘でも日本軍にまったく歯が立たなかった。 関ヶ原に間に合わなかった秀忠。
実は、親父が敗走してくれることを望んだ、との説は
いけませぬか。 >>112
関が原で家康が敗退、下手をして命を落とした場合
伊達・最上が裏切り上杉と組んで東北勢が関東を蹂躙
関が原で勝った西軍は濃尾平野から東海を制圧されると予想される
そんな中で信濃の山奥に残った秀忠は何を目論んでたのか…
続きどうぞー♪ 上杉は伊達と組むはありえるが、
そのまま飛び地併合で最上瀕死、そのまま越後まで制圧。 秀忠すら、大会戦により一気に勝敗がつけられる、
とは想像すらしていなかったと考える。
家康の懐刀の本田軍師もだ。
おそらく濃尾平野での東西の対峙、局地戦での睨みあい。
まあ、せっかちの三成が、すべてをぶち壊した、とも。
それを上回った謀略、政略家の家康が一枚役者が上かも。 秀忠は、我が子国松より、家康の子供、竹知代が跡取りになる、
これを知ったのは、後日の話か。
本多さんは、やはり宗教がらみで、家康嫌いが本音。
>>115
>秀忠すら、大会戦により一気に勝敗がつけられる、
>とは想像すらしていなかったと考える。
基本的に禿同。そしてこれは家康も同様。
秀忠の不手際がなかったとは言えないが、3万8千の
徳川主力を温存しておくというのは関ヶ原が不調に
終わった場合の「保険」。
保険だから使わずに済めばそれに越したことはない。
それにこれは、関ヶ原が勝利に終わった場合でも、
まったく消耗していない主力が残っているのは、
関ヶ原に参加していない全国の勢力に対する睨みに
もなる。
ただ、家康も安全策ばかり考えていた訳ではなく
関ヶ原では調略していたとは言え背後に吉川や毛利
が布陣している桃配山に本陣を構え、いくさの後半
では山を降りて更に前進している。
(これがなかったら小早川が動いたかどうか疑問)
いざという際の保険と、いざという時に勝負をかける
両方の采配が出来る器量が、徳川家康が天下を手中に
した要因だろうね。 >>117
>>115で書いたことにもつながるけど、
戦略と戦術は連動していることが重要。
戦術なき戦略は机上の空論。戦術だけで戦略がなければ
行き当たりばったりで先が読めない。
しかし、この連動を最後まで続けるのはかなり困難な
こともまた事実で、最終的な勝利者以外はどこかでその
連動が崩れている。
信長は戦略と戦術をうまく連動させてきてはいるが、
かなりタイトロープだったのも事実で、本能寺はそれが
崩れたことを示すものだと考えられるね。 料理の鉄人にとっては、レシピが戦略構想。で実技が戦術。
と仮定して「関ヶ原」を見れば、家康・三成。ともに
レシピである戦略構想は、あった。しかし、いざ実技の
段階になると、はるかに手際よき家康の戦術、料理の腕前が
勝っていた…。三成が手にしたかった食材をいち早く家康が手にして、
見事に調理した。
なんて考えは、いけませんか。 羽柴秀吉が、上杉謙信を恐れる信長を尻目に
北陸道を小当たりにして退きながら、
近江平野で決選を主張した慧眼は、すごいと思う。
卓抜した戦略眼。やはり謙信を「田舎武将」扱いする
秀吉の凄味が際立ちますが、さて、こんな秀吉を、謙信はいかに
戦術で突破していきますやら。
誰か考えてみてぇ。 そんな話あったっけ?
ってか謙信は相手に小当たりに退かれながら、ジリジリ攻めていくなんて戦術や
戦略は取らないんじゃね? 基本電撃戦から相手を自分の動きに合わさせる、
主導権を絶対に手放さないで機動打撃に持ち込むってパターンだから、
秀吉の偽退に引っ掛かってジリジリと釣り込まれて近江平野で包囲なんてされる
くらいの戦術眼だったら、信玄の包囲戦略・戦術に軽く撃破されてると思うよ。
秀吉の凄みは、外交と物量戦・城攻めじゃない?
小牧・長久手では内線作戦から家康に各個撃破されてたけど、謙信の軍隊は
機動性でも打撃力でも家康軍より数段上だと思うよ。
戦術的な駆け引きは別として
織田領を蹂躙するなら近江は避けて通れないでしょ
まともな野戦も無しに近江まで下がるなんて戦略は、織田軍のイメージ丸下がりで
上杉軍の勢いつけるだけじゃないかね。
国人離れに繋がるし、敵対勢力も勢いにのるだけな気がするが。
だね。当時の封建社会で、首都近辺まで引き込んでの会戦なんて自殺行為。
そんなに押し込まれたら寝返り続出だよ。
実際、秀吉はそれやって信長からめっちゃ怒られたわけで。
縦深防御なんて高等戦略ができるようになるのは、
国家が一つにまとまった近代以降でしょう。 でも実際、謙信が存命していたら
北陸路を突き進んで近江には来てただろうな 中世以前でも縦深防御の例は多数ある。
ただ、多くの場合人口疎密地帯であって、
北陸時から人口集密地帯である近江の場合、
進撃すればするほど補給が楽になるわけで。
縦深防御の意味があまりない。
なんで秀吉は近江に引き込む事を主張したのかわからん。
単に勝家と喧嘩したかっただけの気がする。 秀吉としては長浜場を軸に謙信と一戦交えたかったんじゃね?
具体的な戦術よりもまず目立つことに大事を置いていた希ガス 琵琶湖を中心とした湖上貿易圏をがんばって作り上げてきたのが、信長・秀吉じゃないの?
それをわざわざ近江まで上杉軍引き込むなんて、経済圏の安定に甚大な影響あるでしょ。
経済発展の第一は防衛・治安の安定なんだし。
聡明な秀吉がマジでそんなこと言ったのか? 原典は何? つかさ、上杉は近江に行ったりしないと思うよ。
上杉軍の強みは日本海貿易を支配し補給が楽な日本海側を西進し因幡〜但馬まで進出してくる毛利軍との合流を目指し敦賀に守備兵力を残して守りを固めつつ
一向衆・旧朝倉・旧武田・旧浅井・旧六角の蜂起で織田軍を牽制しつつ若狭→丹後で明智・細川軍を毛利と挟撃大破→将軍を擁して上洛し本願寺救援だろう。
下手に近江へ侵攻したら織田軍に包囲を受ける危険があるし…まぁ武田が美濃に軍事的圧力をかけまくってくれたなら北近江へ進出する選択肢も生まれようが。
基本は毛利か武田との合流し織田挟撃を目指す戦略でいかないと。
>上杉軍の強みは日本海貿易を支配し
織田攻略に背後に支配欲があったと?
謙信が本願寺救援ていう理屈も詳しく
例えばハンニバルは最終的に敗れたが、それを戦略に敗れたとは言いたくないんだよな。
戦術的に大敗しまくって、最終的に持久戦とっただけなのを戦略の勝利とかいうのは
如何なものかと。
ハンニバルは戦術で大国を打破できなかったなら分かるんだけど。
ハンニバルは戦略で負けただろ?
ハンニバルは同盟都市の謀反を促しローマを弱体化させてから倒す、という持久戦をとる。
対するファビウスは、地中海はローマが支配しており、ハンニバルには本国からの補給・連絡が無い点に着眼した戦わずに逃げる持久戦をとった。
快進撃を続けるカルタゴ軍に、逃げてばかりの持久戦にしびれを切らしたウァロがカンナエで戦いを挑むもローマ兵7万を全滅させてしまう。
一方のハンニバルはそのままローマに攻め込まず、マハルバルに『あなたは勝ち方は知ってるが勝利の活かし方を知らない』と名言を言わしめる。くらいの戦略性の無さ。
ここでローマに攻め込んでたら・・・
とまぁ、ザマで最終的には負けた訳だが、ハンニバルの包囲殲滅術に多部族からなる軍隊の統率力はまさに史上最高の戦術家であると思うが、
戦術が戦略に破れた典型でもあるだろう。 追加するとチンギス=ハーンを初めとするモンゴル帝国こそ、戦術で戦略をぶち壊した典型だと思う。
モンゴルの弓騎兵はハンニバルの戦術、まさに包囲殲滅術。
機動力を生かして何倍、何十倍もの数の敵を囲んで一斉掃射で皆殺しにするという残酷な戦い方だが、まさに戦術で戦略を破る典型じゃないだろうか。
>>135
そんな戦略誰でも取れるでしょ。制海権から兵から金からすべて備えてるんだから。
しかも4回も大会戦で敗れて精兵10万以上失っても、まだ余裕でそっから戦略転換しても
間に合うくらいの大国なんだから、戦略に敗れたとか言われてもピンとこないよ。
ローマ陥落に関しては副将の言のが、ハンニバルの判断より正しいとは思わんけどな。
そんなこと100も承知でしょさすがに。敵側の首都を落とすことが勝利の条件でもないし。
ってか攻城兵器も持ってなかったし、落とせないんじゃね?
だから、戦略に敗れたとかいうより大国に勝てないとかにしたほうがいいんじゃないこれ。
4回もボコボコにされて、再度カンナエで決戦という戦略的方針のミスして、それでも
戦略で勝ったとか言われてもと思うのよ。
だからこのローマ対ハンニバルで戦略>戦術だとかは全然思えない。
ってかこれは凄い戦略だってが知りたい。 小国がたいした野戦もせずに大国打破した
例とかね。
>>137
> そんな戦略誰でも取れるでしょ。制海権から兵から金からすべて備えてるんだから。
制海権・兵・金=戦略
ハンニバルは誰でもとれる戦略に負けた
糸冬
だから大国に敗れただけってことでしょ。
別にハンニバルが凄いとか凄くないとか言いたいわけじゃなくて、
これって大国>戦術なわけ。
ハンニバルがローマ側なら決戦でも持久戦でもどんな戦略でもOKなわけよ。
よって戦略が戦術より上位であるという根拠はどこから来てる?と疑問に
思ったんです。
例えばハンニバルとローマくらい経済格差があって、さほど野戦もせずに
戦略的にひっくり返したって例はあるのかな?
たぶんあると思うんで、詳しい人がいたら教えてほしいと思いました。
すみません。 >>139
歴史認識が間違ってる。カルタゴはローマに匹敵する大国。もう一度調べ直せ
後、何を言ってるか分からん。日本語で(ry
ってかなんでそんな怒ってんだよ基地外かお前?
ハンニバルの戦争はカルタゴ本国の支援ほとんどなかっただろ。
ってか趣旨が伝わらんみたいだしもうええわ。
>>戦略が戦術より上位であるという根拠はどこから来てる?
カンネー以降、ローマがハンニバルに対し戦術上の勝利を行うことなくハンニバルを追い詰めたことかな。
ザマでの勝利が決定的だったが、それより前にハンニバルはイタリアの先っぽに追い込まれてたわけで、戦略的に詰んでたと思う。 例えば同じような国力で対決することになって、相手がハンニバルだとする。
これを戦略的に打破するのって困難じゃね?
天才だって不死身じゃないし複数いないし
居るあいだは戦わないとか、居ないところをネチネチ攻めるとかも立派な戦略なのでは? 別に怒ってないよ。不愉快に感じたならスマソ
カルタゴ本国からの補給隊はローマに徹底的に潰されたんだ。ハンニバルの弟ハスバルドルも合流手前にやられている。
点を作る手段が戦術であるならば
点と点繋ぐ線を作る手段は戦略と言えるだろ?
ローマは線を消した。それこそ戦略の勝利だと思う。 制海権があるっていう前提があるじゃん。
これは言っておきたいんだけど、別にハンニバルを擁護したとか讃えたいとかってわけじゃ
なくて、144みたいに同じような条件なら戦略優勢とか言えないんじゃないって
言いたかった。 でも別に戦術が優越してたら戦略ではどうにもならないとか
思ってるわけでなくて、どうなのかなと思ったんでレスしてみた。
1の前提って正しいのか?と。
戦略っていうのは、戦術上で勝てる状況をいかに整えるかって側面もあるからね。
同じような前提条件って考えても意味がないかと思う。
国力が拮抗してれば戦争自体も起こりづらい気がするし。 現代でも米露中のバランス崩れるとロシアや中国はすぐ暴れ出して情勢不安定にするからね
軍事バランスの維持も重要な戦略の一つと考えられる 政略は死語じゃないか?政略結婚ぐらいしか使わないし。
戦争になってからは戦術。それまでの過程は全てが戦略というのが一般的。
よって、世に言う政治・政策の類いは全て戦略だと捉えていいと思う。
国家戦略とは言うけど国家政略とは言わないし。 でもどういう風に軍隊をぶつけるかとか、いわゆる戦術の一環な気もするよな。
戦略と戦術って明確に区別すべきものかな?
クラウゼビッツとかは区別してたけど、リデルハート?とかは区別すべきもん
じゃないとか言ってた気が。
結構むつかしい問題だよな。 外交と戦略は別もんでしょ。
全然必要とされる能力が違うよ。 戦略があって外交もその目的に沿って展開されるものでは?
戦略って国家なりが目指す大方針みたいなもの? いやまあそうなんだが、それだと何でもかんでも戦略に含まれることになるからな。
戦術とかも決戦戦略っていえば戦略みたいなもんだしさ。
厳密に定義で分ければ違うもんでしょ。 まぁ、戦略の定義が広すぎるのに納得できないのは分かるけど
>>152にもあるけど多分リデルの書いた戦略論のことかな?読むといい
戦術は軍。敵の兵力を潰して勝つ方法。
戦略は国。戦わずして勝つ方法。
孫子も相手の十倍の兵力を用意して威嚇するのが一番。相手を戦わずして降伏させるべしってたしか言ってたはず。
戦術に優れている国と戦略に優れている国とじゃ後者の方が安定感は段違い。
例えばWW1WW2のドイツは戦術派でイギリスは戦略派。 それは戦略に優れた国じゃなくて、経済力とか国力に優れた国じゃないのか?
国力の増進は内政でしょ。
まあこれも富国強兵戦略とかなんにでも戦略ってつけられるけど。
孫子は読んだけど、抽象的すぎてどうかと思ったな俺は。
まあ孫子の真髄は戦わず勝てなる戦略なんだろうけど、クラウゼヴィッツとかは
敵野戦軍撃破が第一目標とか言ってるし、なにがなんだかw
経済力や国力に劣ってたら、敵が「敵対したらやばそうだと思ってる国」と仲良くしてプレッシャーかけたりとか
相手に間違った行動を取らせるとかそんなカンジ >>158
似たり寄ったりの面積と人口の国でも国力や経済力に差が出るだろ?北朝鮮と韓国みたいに。
そこが戦略の高みなわけよ
その圧倒的な国力を保有した国を戦術でぶっ倒すんだからまさに奇跡ジャマイカ!
弱小勢力が戦術だけで巨大な帝国を築いた例は数少ないが結構ある。マケドニアのアレクサンドロスや普通の小金持ちのおっさんだったイスラムの預言者ムハンマド。モンゴルのチンギスハーン。ナポレオン等々
絶対無理って不可能を可能にできたから英雄なんだぜ!そこが歴史のロマンじゃないか!
全然否定しないんだけど、定義の問題がどうなんかと。
韓国と北朝鮮の差は経済思想とか内政・行政力の違いだろうし。
軍事学とかでの戦術・戦略の定義とかで一般的なのは、戦略は盤上の駒の動かし方
で戦術は戦い方みたいな区分けだから。
そりゃ全て戦略に区分されるなら戦略>戦術は当然だと思いますよ。 >>107
それは戦術的ではなく戦略的勝利ではないか。
しかもミトコンドリアではなく、ミトコンドリアを取り込んだ嫌気性細菌の。
嫌気性細菌はミトコンドリアを取り込むことによって動物、さらには植物となり、地球上のありとあらゆる場所に進出することが可能になり、、、
ついには人類を生み出し、宇宙に飛び出した。
これはミトコンドリアを取り込んだ嫌気性細菌の戦略的勝利だろ。
ミトコンドリア目線はパラサイト・イヴの悪影響。 >>1の言うような逆をやった人をお手本にすると、
国でも会社でも間違える事になるな。 アレクサンドロスはメムノン生きてたらここで名前すら挙がらなかったろうな >>158
抽象的か?
結構具体的だと思うけど
要するに外交とかで勝て、やるなら勝てる時、実際に戦うなら情報大事、スパイ突っ込め
こんな感じだし 軍略といえば戦争の手段と考えられがちですが、
軍略とは国家(歴史においては藩などの領地)の大計を誤りなく次の時代へ誘導するために考えだされた知恵のことです。
「軍略とは国家の進退、戦略とは軍隊の進退」という言葉で表現されるように、「軍略」と「戦略」は別のものと考えられています。
古来より多くの日本人によって愛読されてきた『孫子』が説いているのは軍略ではなくて戦争に勝つための戦略です。
軍略の根底には常に経済観念(損得勘定)があり、単に戦争に勝つことだけを論じているのではありません。
軍略は「時、邑(ゆう)、所、術」の要素から構成されています。「時」は時代の流れ、「邑」は社会事情、「所」は目的や領域、
そして「術」はそれらを活用する方法論で、その中心は人材の活用法です。 >>167は本当に孫子を読んだ事があるんだろうか。
孫子こそまさに乱世の中で国家をいかに生きのびるべきかという事を
説いた本だと思うが。
「戦争は本来国家の為にならない。可能な限り戦わず謀略や政治で勝つようにせよ。」
「仕方なく戦争をやる場合にしても可能な限り短期で決着をつけるように。
長引くと国家運営に支障をきたす。」
「自国から物資を持っていくより敵の領地から物資を奪えば経済的利益は計り知れない」
などなど普通の兵法書と違って明らかに戦いが国家運営と密接な存在であることを強調してる事が
孫子の特徴だと思うんだが。
むしろ完全な戦争マニュアルになってるのは孫子じゃなくて呉子だろ。