源義経=チンギス・ハン説を議論しよう
高木アキミツの成吉思汗の秘密を読んだのだが、義経がチンギスになった可能性はあったのだろうか?
俺は衣川で死なずに逃げ延びたぐらいはあったと思うのだが。 定/金/伸/治のジ ハ ー ド 読めばいいよ
それで全部解決するよ 今文庫版も出て買いやすく読みやすくなったからね
あれをモンゴルと日本の指定図書にして小学校低学年〜情操教育すればおk
と言ってみる 本気じゃないよスマソ そもそも鎌倉武士の戦い方しか知らん義経が、モンゴルの軽装騎馬による戦術
(機動力生かして遠距離から包囲して騎射)を出来るとは思えん。 断崖を駆け下りる奇襲とパルティアンショットになんの関係があると? >>69
義経は、鎌倉武士の戦いというより、奥州藤原氏の武装形態の方が馴染んでいたのではないでしょうか?
馬を操るにしても。
おそらく、義経のトリッキーな用兵は、鎌倉武士でさえ違和感があったと思います。 <<<<<<<<<<<<<<<<<(`;ω;´) ヒューン むしろ義経のゲリラ戦法は、浪々の身の段階で身につけたものじゃないか。 >>71
パルティアンショットはイラン系遊牧民特有の技術、モンゴル人は使わない >>24は「さいとうたかお」のチラ裏、乙。
あたいの霊感出羽、実は「義経」=静御前=仁義巣韓。
男色家の頼朝が静(=女装した実の弟)の仮初の夫婦として呼び寄せた女が超戦略家で
あったことを隠蔽するため「義経追討」の下致を発した。その女は恋人の「金売り吉次」
や父親の弁慶と逃亡。女の武器で平泉氏の庇護を得るも急襲され絶望。流浪の果てに
異国の王に変化。「巴御前」伝説はその真相を伝える為のキーワード。 >>83
ヴォォォォーイッ!?
北条政子が吠えてます(>_<) >71
使うてば。匈奴時代にはすでに猛威振るってる。
「騎馬に乗りながら背面に射る」だけなら日本も源平合戦のころにはすでにあった。
が、鎌倉武士は軽装騎兵ではないし、騎兵のみの軍団による包囲殲滅戦法なんか
しなかっただろうが。 軍備は変遷がある。
モンゴル軍も
騎馬だけから、城攻め武器も使った軍団に代わっている。
地域の特性にあわせて、かえてもおかしくない 義経=ジンギスカンは無理があるにしても、今で言う軍事顧問、兵法を編み出したのは同根の人種かもしれません。
高木氏の本にある通り、平泉の富の源泉がどこから来て、どこに消えたのか?本当に興味があります。
私は藤原3代の前の安倍氏に、その影響を見ますが、彼らは前9年の役後も結構生き残っているんですよ。
黄金はもちろん、鉄、交易品の数々は、吉次に代表される武装商人によってもたらされたのは確実でしょう。
彼らの行動範囲が、どこまで広がっていたのか。
最近、奄美の喜界島で、同時期の遺跡が見つかって大騒ぎになっています。
中尊寺に使われている夜光貝の産地は奄美産の様子ですので、ここすら武装商人団の1拠点だった可能性があります。
義経というより、この交易集団の範囲&行方が判れば、大陸への逃避行くらい何でもないかも知れません。 90
光秀=天海説
は、私もかなりそう思う。
これでスレたててほしい。
89勉強になります。・
>>90に同意
義経がチンギスか・・・・・・
それより安彦良和先生の安東(あんとん)
面白いぞー 日本て恥ずかしいね
義経をチンギスハンって言ったり
小野小町を世界の三大美女のうちに勝手に数えてるし
ってか義経=チンギスハンは同一人物と証明できますか? おまいら日本の歴史人物を韓国人起源だと言われて怒るくせに
モンゴルの英雄に日本人起源なんて言うなよ
モンゴル人聞いたら怒るぞ
>>103
日本人は特別な存在だから、日本人起源はとても名誉なことなんでしょうw トンでも論は日本では主流にはならんよ
だからこそファンタジーはファンタジーとして楽しむのもあり
まぁ江戸の講釈もんに癇癪起こしても始まらんだろ。
と思うくらい、江戸時代の義経像は高かったらしい。
実際はその下地を生かして幕府を貶めようとした明治期あたりだろ。
だからこの伝説は復讐をテーマにしてる点で単なるマンセーじゃないってとこだな w 元の記録では鎌倉幕府との戦闘(元寇)の他に蝦夷地のアイヌとも戦闘したという記録があり、
現に海を渡りアイヌと戦闘したとか、逆にアイヌが海を渡り、モンゴルと騎馬戦したという記録がある。
だから、源義経=チンギスハン説ではなく、更に北方に落ち延びてアイヌにかくまわれて、
アイヌを鍛えたと見るほうが適切ではないか? チンギスハン=本能寺で逃げ延びた信長説を強くもってた時期もあったが、
モンゴルに失礼なので流石に捨てた。 ヌルハチと相撲とって舎弟にしたり、イワン雷帝と一戦交えたりした後、
ラストはインディアンの酋長になったアレか? >>109
いや、あれはクビライがモンゴル皇帝を名乗った1260年に樺太アイヌらしい「骨嵬」とかいう
連中が、間宮海峡を渡ってアムール川周辺にいてモンゴル帝国に帰順していた女直などの現地住民を
襲撃して来たんで、彼らがモンゴル帝国側(クビライの方だったと思うが)に救援要請を出したのが
きっかけ。
クビライ政府側がたびたび起きる襲撃を対して、メインの対カイドゥの中央アジア遠征とか南宋遠征、
日本遠征などの合間を縫って応急処置的に現地の女直などの兵力を編成して迎撃に当たらせていた。
最終的に弘安の役が終わったクビライの晩年に再び女直などを中心に編成した兵力一万ほどを狗橇
(イヌゾリ)に載せて凍結した間宮海峡を渡って樺太に侵攻させ、当地の「骨嵬」の勢力を討伐して
臣従させた、ってことらしい。あとで樺太に軍を駐留させたそうだが、騎馬部隊はどうだったろうか。
>>110
これについては論文がある。主要典拠は『元史』と『高麗史』だったと思う。
中村和之「『北からの蒙古襲来』小論―元朝のサハリン侵攻をめぐって―」『史朋』26号 1992年 >>115
超時空戦国大名オダノブナガ。
姉妹作品に超時空太閤トヨトミヒデヨシ、超時空宰相コイズミジュンイチロウなどがあります。 超時空糞宰相ゴミズミジュンイチロウ
あんな日本をガタガタにした売国奴、非国民をおなじような場所に立たせるでない。 これ日本史板にあったスレやん。
何で歴史難民板にあんの? 新説・日本の歴史第21弾 義経北行説を検証する ttp://home.att.ne.jp/banana/history/Dai21-Yoshitune.html 義経=チンギスカン説は根拠を示さない朝鮮人の種々起源説と違って、色々それなりの根拠がある。モンゴルに失礼だというが、チンギスカンの生誕から青年期の記録が曖昧であることも確かである。
一方、義経いなければ平家は滅びなかったろうと言われるほどの軍事天才の義経が死んだ以降、客観的なチンギスカンの活躍が始まる。すなわちこの説を否定するアリバイがない。そして、この説の根拠は私が記臆する限りこれだけある。
1義経の首が夏のあついさかりに一月もかけて運ばれたこと(義経の首の判別が不能)
2義経の身代わりになった伝説がある
3義経の北行伝説がある。(この場合、数騎の移動では伝説にならない。かなりの数の移動があったと考えられる)
4チンギスカンはモンゴル人ではなく外国人である可能性がある
5旗揚げの時、九本の白旗をあげた(源氏は白旗、義経は九郎判官と呼ばれた)
6チンギスカンの鎧は鉄でできていた(これはチンギスカンの軍隊が鉄の鎧を着ていて強い軍隊であったことを予想させる。ちなみに旧来のモンゴルの鎧は革製であった。)
7チンギスカンは漢字が読めた
8チンギスカンが作らせたモンゴル文字は50音順に近い。しかも,日本語のかなと同じものがいくつか含まれている(ただし多くの文字はウィグル文字を基本としている)
9チンギスカンの作戦が義経の作戦と似ているところがある
この他にも色々根拠があり,単なるこじつけではない。偶然にしてはあまりにもできすぎているような気がします。 モンゴルは親日らしい。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/MONGOLIA/kankei.html
>2004年11月に在モンゴル日本国大使館が実施した世論調査では、「日本に親しみを感じる」と答えた回答が7割を超えたほか、
>「最も親しくすべき国」として第1位になるなど、現在のモンゴル国はきわめて良好な対日感情を有する国となっている。
モンゴルは中国を嫌っているらしい。
モンゴルの極右勢力が過激な「反中」運動を展開―中国紙
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0721&f=politics_0721_005.shtml
>歴史的に何度も中国からの侵攻を受けたモンゴル国は、中国に対する激しい敵対心を抱いており、
>中国人がモンゴルで襲われるほどである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E4%B8%AD
>歴史的に中国との関係は悪く、今でも一部の民衆には反中感情がある。
>例えば日本人観光客が中国人に間違えられるとトラブルに巻き込まれ、
>中国関連の施設に「看板等に使用している漢字を3日以内にモンゴル語に変えなければ、強制的に撤去するかペンキで塗り潰す」
>という過激な内容警告文を出され、さらに独立記念日に活動家に襲撃される事もあるくらいである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E5%9B%BD
モンゴル国の国際関係
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%96%A2%E4%BF%82
南に隣接する中国とは、伝統的に関係が悪い。「娘が中国人と結婚したら一家の恥」との通念が今でも通用しているし、国政選挙でも中国との関係改善の是非が争点になる。
モンゴルが漢字文化を一切受容しなかったのも、モンゴル人が中国人を嫌ったためである。
モンゴル人にとって「中国人のようだ」というのは最大の悪口となり、選挙でも「あの候補は家系に中国の血が入っている」というのは最大のスキャンダルとなる。
日本人を含めた東洋系外国人が、街頭で「中国人か?」と聞かれることはまずない。中国人は蔑称であり、喧嘩を売っていることになるからである。
通常であれば、「中国生まれのモンゴル人(または韓国人)か?」と聞かれる場合が多い。ただし、日本とはまだ縁遠いため、日本人かと聞かれることは少ない。
モンゴル人と中国人との衝突事件、あるいは中華料理店に対する襲撃事件は、ニュースにもならないほど日常的に起きている。
学校教育で、中国人に敵意を煽る教育は行なわれていないが、家庭教育で敵意を植え付けている場合が多い。
モンゴル人の子どもが語る「学校の怪談」でも、中国人による殺人事件が頻繁に登場する。
現在、中国人が嫌いなモンゴル人は9割、好きなモンゴル人は1割と言われる。
衣料品や、家庭電化製品は、中国製がほとんどであるが、モンゴル人は、「中国の商品は構わないが、中国人の思想が気に食わない」と語る。
確かに義経=チンギス。ハン説は私も若い頃には、馬鹿馬鹿しいと考えたが 類似点が
200以上も有っては嘘とも思えない チンギス。ハンがモンゴルで死ぬ時に残した言葉も
気になる 我 大命を果たし思うこと無し 故郷で死にたかったと言っている モンゴルが
故郷では無いと言う事 我はニロン族の出身なりニロン族のキャート族なりと言っている
ニロン族とは日本族と言う意味でキャート族とは京都族で有る それと源頼朝がチンギス ハーン
がテムジンの時にモンゴルに調査団を派遣している 何のための調査団か今もわからない
チンギス。ハーンが死んだ時 その巨体は一丈から八尺の並の体格に縮んだと書かれている
義経=チンギスハンは、俺の中では、もう確信になってしまった。 北条の支配に反発する武士が義経を追って、モンゴルへ渡って行ったと
いう事は、考えられないだろうか?
モンゴル騎兵と武士は流鏑馬ができるという意味で似ていると思うのだが。 チンギスハーンはある年の8月15日に死んだと伝えられているが不思議な事に。その日に
京都の鞍馬山では義経の霊を慰める祭りが行われる チンギスハーンが死んだ日に
なんで義経祭りがおこなわれるのか? 俺個人の考えかる知れないが チンギス ハーンを漢字で書けば成吉汗となる
これを訳したら吉を思って成功した男となる 吉(静御前)静よ俺は成功したど
訪ねてこいと言う意味になる
チンギスハンの墓を発掘したら不味いだろ
大した教育受けてないテムジンがあの戦術あの力量は有り得ないし
チンギスハンよりも側近部下がそんまま付いていたと思われるから厄介だ モンゴル人力士がほとんど日本人と変わらない
レベルで流暢に日本語喋ってるのを見ると、
逆に義経が数年でネイティブレベルにモンゴル語を
マスターしたとしても不思議はないと思う。 最近読んだ本に
「義経は小男、チンギス・ハーンは大男だから義経=チンギス・ハーン説はありえない。むしろ弁慶=チンギス・ハーンだ」
と書いてあった 一の谷、屋島、壇ノ浦で活躍した約200騎の義経の家来はどこに消えたのだろう。
馬の世話をする者を合わせると500人から600人の武者は義経をしたって
平泉まで向かった可能性がある。平泉にあった軍資金はどこに消えたのか。
吉野山で鎌倉の追っ手200騎に包囲された「義経かくれや」では、佐藤兄が身代わりになって
脱出している。
吉野山から平泉まで、うっそうとした日本列島を縦断して鎌倉の包囲網をかく乱して
脱出した一騎当千の武者たちが東北の田舎サムライに簡単に殺されるだろうか。 力道山は関脇まで相撲界で活躍してからアメリカに渡っている。イチロウも20代を日本球界で活躍してから
アメリカに渡って世界新記録を出して今も活躍している。
義経は15歳から20歳までの間、どこで何をしていたのだろう。藤原氏の勢力範囲は岩手から北海道にかけて
あったはずであるから、無駄に過ごしていなかったと思う。アイヌのホンカイ様伝説はこの時期のものでは
ないだろうか。もし、この時期のものであるならアイヌの中に義経をしたって家来になったアイヌ武者も
たくさんいただろう。 義経郎党は20歳代に日本全国北海道、東北、関東、中部、信越、近畿、中国、四国、山陰、九州
を駆け巡っていた。寝泊り、食料、馬のえさ、案内人はどうしていたのだろうか。
これだけ行動範囲の広かった武将は義経郎党だけである。
藤原秀衛は佐藤兄弟に相当の金塊を持たせたのではないか。一の谷の逆落としでは、馬のあつかいに優れた武将を
数百人必要とした。これらの武将の心をひきつけるには人格とオーラと資金が必要であったと思われる。
これらの武将が大物の浦で忽然と消えるとは、とてもおもえない。
ばらばらに分かれて平泉に向かったのではないだろうか、
家のあとを継ぐ者は地元に戻っただろうが、義経のオーラに魅了された剣に自身のある次男坊、三男坊は義経に夢をかけて平泉まで
追いかけただろう。
義経一党と泰衡の家来を合わせると3000騎4000騎になるから、少数で
大群を討つ義経戦法からすると十分鎌倉に勝つことが出来ただろう。
なぜ、戦わなかったのか。兄と弟だったからだとおもう。日本の歴史上、弟が兄を殺して天下を取ったことがない。
残るはひとつ消えることである。 鞍馬寺の本山は比叡山延暦寺である。延暦寺は天台宗であるから、当時も日本全国に天台宗の
お寺があったはずである。
鎌倉の追手からどのように逃れて吉野山から平泉まで約1000キロの山道を到達できたか?
稀代の英雄を20代の若さで失うのは惜しいと思い鞍馬寺の僧侶が延暦寺の僧侶に相談して
寺から寺えと駅伝のように逃がしたのではないか。寝泊まり、食料、道案内はすべて解決する。
寺であるから秘密も守られるし、鎌倉も手出しはできない。しかし、完ぺきではない。平泉に
到着すると、鎌倉もうすうすきずく、秀衛が存命のうちは手出しはしないが、亡くなるとそうはいかない。
鎌倉と一戦交えても所詮朝敵である。平将門の乱と同じで日本全国を敵にすることになる。
藤原氏の生き残る道はない。一か八かの考えで、義経の首を差し出し藤原氏は鎌倉に従うとの意思表示をして生き残りをねらった。
平家を滅ぼした鎌倉は、義経の首ではなく何かの理由をつけて藤原氏を滅ぼすことが定のうちであった。
どの道、義経と藤原氏は滅ぼされる運命にあった。こんなことは藤原秀衛は百も承知していたとおもう。だから子供のころから義経を
可愛がって平泉まで連れてきたのである。鎌倉も義経が生きていることは知っていたはずである。源平の戦いほどの戦はしなかったし、
泰衡の首はとったが、義経の怒りを買うほどのことはしなかった。 義経を慕って平泉の地へたどり着いた武将達は数百騎いたのではないかと思われる。これらの武将達の生活費は相当な金額であり、いつまでもやっかいになってばかりいられない、いずれはこの地を去らなければならない。
鎌倉と戦うにしても、自分達の身内と戦う事になるのでそんな事はしたくない。戦う事で自分を主張したい武将達にとって農業・漁業で生計を立てることは出来ない。戦いを探して他の地に行くしかない。
これまでに身につけてきた力を試してみたい、そこにその力を試す大きな大陸がある、軍資金の金は黒竜江の地にしこたまある。死の床で秀衛から渡された錦の袋の中にあった地図を頼りに少しずつ北海道に渡ったのではないだろうか。
北海道に渡った武将達は二手に分かれた。一方は弁慶を頭とした先遣隊であり、先に大陸に渡り足場を作っておく。北海道の西に小さな岬があり弁慶岬といい京都に武具を注文した弁慶がその地に立って船を待っていたと伝えられている。
一方は義経を隊長とした本隊で樺太に渡り、北上して尼港事件のあった地であるニコライスクに行き、砂金の宝庫である黒竜江の下流域で軍資金を確保して先遣隊である弁慶隊に合流する。
ニコライスクで伝えられている伝説として「この地にたどり着いた日本の武将がこの地を去った後、漢国の王様になった」というものがある。これは間宮林蔵がこの地の酋長から聞いた口碑伝説を北海道テレビが二十数年前ドキュメントとして放送していた。
大陸に渡ったが金に困って満州あたりで山賊として生き、山賊として死んだという説を聞いたことがある 十数年前、満州族の血を継ぐひとに「成吉思汗」の漢字を提示したら、チェンジースーハンとの答えが返ってきた。
高木あきみつ氏の「成吉思汗の秘密」の中に書いてあった「克羅」の漢字を提示したら、クローという答えが返ってきてその意味は「満州では成吉思汗のことをクローと呼んでいる」と、また「源義経」の
漢字を提示したら、「ウエイーチー」と答え、その意味は「満州の昔の歴史と地理の本の名称」だと言っていた。
そのひとは、お婆ちゃんが満州族の出身だといっていた。今はシナに同化され純粋な満州族は残っていないとも言っていた。日本で資金をためカナダへ移住して家族を呼ぶのが夢だと言っていた。
成吉思汗はウラル山脈を越え、ドイツの辺りまで攻め込んでいったようである。ドイツ人の成吉思汗に対する恐怖心は大変なものだっただろう。ドイツ人の事であるからただ恐怖心だけで何もしなかったとは思えない。
シーボルトが鎖国の日本にオランダ人に成りすまして訪れたのは、ドイツ皇帝の命を受けて成吉思汗の研究にきたのではないか。有名なシーボルト事件は日本の地図を海外に持ち出そうとした。
「恐怖のアンゴルモアの大王」が源義経である事を知っていて、それを調査してドイツ皇帝に報告してまた日本に戻ったのではないか。
先遣隊である弁慶隊はウラジオストクへ渡ったのではないだろうか。智謀の優れた弁慶がウラジオ辺りの部族と戦ったり懐柔したりして
足場を固め本隊である義経隊を待ち合流する。合流地点は黒竜江の中流域ではないだろうか。なぜか、義経隊が手に入れた黄金は数十トン
に及ぶと思われるからである。大量の黄金を一度に運ぶには船を使い、馬に引かせて上流に上って行くのが楽だし、大陸の中央上部に構えられる。
ちなみにウラジオとは、日本語(浦塩)ではないだろうか。ロシア語では「東方を征する」という意味らしいが、
ロシアが沿海州を手に入れたのは1860年の北京条約であるから義経の時代から約450年も後である。その地にはシナ人・アイヌ人・日本人の
東洋人(ツングース系)の人間が住んでいたのではと思われ、浦塩がロシア語の東方と言う言葉になったのではないか。
それからナホトカとは、国後(クナシリ)・択捉(エトロフ)・はば舞(ハバマイ)などアイヌ語ではないだろうか。
源義経のとてつもない才能を見抜いたのは、
5歳で平清盛が自分の子供と比べ比類なき才能を恐れたが、殺すには忍びなく鞍馬寺に預けた。
10歳で鞍馬寺と延暦寺の僧侶が認めて清盛との約束を破り、僧侶にさせるのではなく自由にさせた。
15歳で藤原秀衛が認めて平泉に引き取った。
20歳から25歳で一の谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで天皇及び日本全国の人々が認めた。
そして、30歳以後世界へと羽ばたき、アレキサンダー大王・フレデリック大王と肩を並べる大王に
なったのではないか。