源義経=チンギス・ハン説を議論しよう
高木アキミツの成吉思汗の秘密を読んだのだが、義経がチンギスになった可能性はあったのだろうか?
俺は衣川で死なずに逃げ延びたぐらいはあったと思うのだが。 >>15
この説って「ムー」レベルのdでもなのは認めるが
日本人の大部分の認識も押しなべてそうなんじゃないか?
dでもをdでもとして楽しめるホビーカテの醍醐味を存分に味わってみようじゃないか
以前、この説は関東軍の謀略だった説をどこかの本でで見た記憶がある 源氏の紋章と似てたとかいろいろあるらしいね。でも、やっぱモンゴル人の英雄だよ。
他国の英雄は実は日本人って、なんかチョンみたいでやだな。 江戸時代沢田源内の「金史別本」という偽書が義経チンギス・ハン説の嚆矢らしいね。 犯人は
天の雲すら盗めると豪語する
あいつだ!!
雲盗り暫平
ウリナラ起源説を聞いた日本人のように、この説をモンゴル人が聞いたら不快になるんだろうか? >>25
そりゃ怒るだろう
ただしモンゴル人は郷土への執着心が希薄なので
同じ民族だった、くらいのニュアンスなら親近感を持たれるかも知れんね >>18
いいねえ。
さんざん妄想ふくらましたあげくに950くらいから
「んなわけねー!!」を連呼したい。 >>33
当時のモンゴルには文字がなく、正しい発音は今となっては分からないらしいよ。
チンギスハンとジンギスカンみたいな感じで。 >18
>以前、この説は関東軍の謀略だった説をどこかの本でで見た記憶がある
義経=チンギス説の御大とも言うべき小谷部全一郎の現地調査は
日本軍のバックアップの元に行われたから、タブンそれのことかと。
小谷部の調査で出てきた証拠って胡散臭いのばっかしなんだよね〜
ウラジオストックの方で見つかったと言う「大日本源義経墓」と掘られた石碑とか。
なんぼなんでも「大日本」はねぇ…
軍が関連してるのがバレバレ(苦笑
後、笹竜胆の紋の入った遺跡関連。
頼朝・義経の清和源氏が笹竜胆を使っていた証拠はなく、
源氏=笹竜胆になったのは江戸時代になってからの創作で、
義経関連の遺跡で笹竜胆が出てきたら、江戸時代以降の捏造と疑った方がいい。
しかし、義経がチンギス・ハンである可能性も捨てきれない訳ではない。
最終的な結論は更なる調査に委ねるしかない! 義経北行の一行の足取りについては、結構色々な古文書が残っているようだが、
総勢何人くらいだったんだろうな。
>>8のとおりで、衣川まで一緒だった家来は全て死んでしまったわけだし。
・・・静と落ち合って愛の逃避行? ムー的にはwベンケイ一行が先に大陸に渡りある程度地慣らしした上で義経は渡ったらしい。 >>38
だから、それはもう具体的に明らかになっている。
>>23で書いた通り、沢田源内の捏造だよ。 ヨシ!じゃあ結論は出た事だし(・∀・)
みんな解散! このスレは終了しました。
本当にありがとうございました。 テムジン=牛若丸 だと 静が強奪されてレイプされるので嫌 定/金/伸/治のジ ハ ー ド 読めばいいよ
それで全部解決するよ 今文庫版も出て買いやすく読みやすくなったからね
あれをモンゴルと日本の指定図書にして小学校低学年〜情操教育すればおk
と言ってみる 本気じゃないよスマソ そもそも鎌倉武士の戦い方しか知らん義経が、モンゴルの軽装騎馬による戦術
(機動力生かして遠距離から包囲して騎射)を出来るとは思えん。 断崖を駆け下りる奇襲とパルティアンショットになんの関係があると? >>69
義経は、鎌倉武士の戦いというより、奥州藤原氏の武装形態の方が馴染んでいたのではないでしょうか?
馬を操るにしても。
おそらく、義経のトリッキーな用兵は、鎌倉武士でさえ違和感があったと思います。 <<<<<<<<<<<<<<<<<(`;ω;´) ヒューン むしろ義経のゲリラ戦法は、浪々の身の段階で身につけたものじゃないか。 >>71
パルティアンショットはイラン系遊牧民特有の技術、モンゴル人は使わない >>24は「さいとうたかお」のチラ裏、乙。
あたいの霊感出羽、実は「義経」=静御前=仁義巣韓。
男色家の頼朝が静(=女装した実の弟)の仮初の夫婦として呼び寄せた女が超戦略家で
あったことを隠蔽するため「義経追討」の下致を発した。その女は恋人の「金売り吉次」
や父親の弁慶と逃亡。女の武器で平泉氏の庇護を得るも急襲され絶望。流浪の果てに
異国の王に変化。「巴御前」伝説はその真相を伝える為のキーワード。 >>83
ヴォォォォーイッ!?
北条政子が吠えてます(>_<) >71
使うてば。匈奴時代にはすでに猛威振るってる。
「騎馬に乗りながら背面に射る」だけなら日本も源平合戦のころにはすでにあった。
が、鎌倉武士は軽装騎兵ではないし、騎兵のみの軍団による包囲殲滅戦法なんか
しなかっただろうが。 軍備は変遷がある。
モンゴル軍も
騎馬だけから、城攻め武器も使った軍団に代わっている。
地域の特性にあわせて、かえてもおかしくない 義経=ジンギスカンは無理があるにしても、今で言う軍事顧問、兵法を編み出したのは同根の人種かもしれません。
高木氏の本にある通り、平泉の富の源泉がどこから来て、どこに消えたのか?本当に興味があります。
私は藤原3代の前の安倍氏に、その影響を見ますが、彼らは前9年の役後も結構生き残っているんですよ。
黄金はもちろん、鉄、交易品の数々は、吉次に代表される武装商人によってもたらされたのは確実でしょう。
彼らの行動範囲が、どこまで広がっていたのか。
最近、奄美の喜界島で、同時期の遺跡が見つかって大騒ぎになっています。
中尊寺に使われている夜光貝の産地は奄美産の様子ですので、ここすら武装商人団の1拠点だった可能性があります。
義経というより、この交易集団の範囲&行方が判れば、大陸への逃避行くらい何でもないかも知れません。 90
光秀=天海説
は、私もかなりそう思う。
これでスレたててほしい。
89勉強になります。・
>>90に同意
義経がチンギスか・・・・・・
それより安彦良和先生の安東(あんとん)
面白いぞー 日本て恥ずかしいね
義経をチンギスハンって言ったり
小野小町を世界の三大美女のうちに勝手に数えてるし
ってか義経=チンギスハンは同一人物と証明できますか? おまいら日本の歴史人物を韓国人起源だと言われて怒るくせに
モンゴルの英雄に日本人起源なんて言うなよ
モンゴル人聞いたら怒るぞ
>>103
日本人は特別な存在だから、日本人起源はとても名誉なことなんでしょうw トンでも論は日本では主流にはならんよ
だからこそファンタジーはファンタジーとして楽しむのもあり
まぁ江戸の講釈もんに癇癪起こしても始まらんだろ。
と思うくらい、江戸時代の義経像は高かったらしい。
実際はその下地を生かして幕府を貶めようとした明治期あたりだろ。
だからこの伝説は復讐をテーマにしてる点で単なるマンセーじゃないってとこだな w 元の記録では鎌倉幕府との戦闘(元寇)の他に蝦夷地のアイヌとも戦闘したという記録があり、
現に海を渡りアイヌと戦闘したとか、逆にアイヌが海を渡り、モンゴルと騎馬戦したという記録がある。
だから、源義経=チンギスハン説ではなく、更に北方に落ち延びてアイヌにかくまわれて、
アイヌを鍛えたと見るほうが適切ではないか? チンギスハン=本能寺で逃げ延びた信長説を強くもってた時期もあったが、
モンゴルに失礼なので流石に捨てた。 ヌルハチと相撲とって舎弟にしたり、イワン雷帝と一戦交えたりした後、
ラストはインディアンの酋長になったアレか? >>109
いや、あれはクビライがモンゴル皇帝を名乗った1260年に樺太アイヌらしい「骨嵬」とかいう
連中が、間宮海峡を渡ってアムール川周辺にいてモンゴル帝国に帰順していた女直などの現地住民を
襲撃して来たんで、彼らがモンゴル帝国側(クビライの方だったと思うが)に救援要請を出したのが
きっかけ。
クビライ政府側がたびたび起きる襲撃を対して、メインの対カイドゥの中央アジア遠征とか南宋遠征、
日本遠征などの合間を縫って応急処置的に現地の女直などの兵力を編成して迎撃に当たらせていた。
最終的に弘安の役が終わったクビライの晩年に再び女直などを中心に編成した兵力一万ほどを狗橇
(イヌゾリ)に載せて凍結した間宮海峡を渡って樺太に侵攻させ、当地の「骨嵬」の勢力を討伐して
臣従させた、ってことらしい。あとで樺太に軍を駐留させたそうだが、騎馬部隊はどうだったろうか。
>>110
これについては論文がある。主要典拠は『元史』と『高麗史』だったと思う。
中村和之「『北からの蒙古襲来』小論―元朝のサハリン侵攻をめぐって―」『史朋』26号 1992年