白村江の戦い→大化の改新は日本史最大の闇よな
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大化の改新は知ってても
白村江の大敗戦については知らない人多い
教科書でもさらっと触れる程度
当時の日本としては太平洋戦争レベルの対外戦争の敗北 とても重要な基礎知識
「言語はすぐに変化して変わっていき分岐してしばらくすると互いに通じ合わなくなる」
具体的に世界最大のインド・ヨーロッパ語族を例にすると
この祖語を話していた集団は8700年前
つまりわずか8700年間でインド語派やイラン語派やスラブ語派(ロシア語等)やゲルマン語派(英語等)など無数の言語に分かれた
つまり15000年前の縄文語を受け継ぐ言語があったとしても全く異なるものになっていても不思議ではない 一時期トンデモ縄文語が流行ったらしいが学術的には縄文語について何もわからないらしいね つまり縄文語は日本語なのか?を議論するのは全く無意味なんだな
インドヨーロッパ祖語がその子孫である英語ロシア語イラン語いずれとも異なるように 縄文語の石板記録でもあれば
日本語と同系統の言語かどうか研究の余地がある
しかし記録も文字も残っていないから妄想議論しかできない アイヌ語と日本語は系統が違うらしく
じゃあアイヌ語って縄文語と近いのでは?とかおもったりするが、何も言えんらしい 縄文時代は11000年間あるからね
>>399の印欧祖語が現在のバラバラの言語になった時間を超えて経ってる
そしてそこからさらに5000年後が現在 自分は縄文時代には日本人と日本語の原型が出来上っていたような気がする
もちろん稲作をもたらした大陸の人々や古墳時代以降の帰化人の流入はあった
でも言語が一変するような征服があったとは考えづらい
出雲の国譲りの話は平和的だし、出雲大社が現存している
熊襲討伐だって、熊襲を服従させつつ、熊襲の存続までは否定していないだろう >>405
じゃあアイヌ語の存在とアイヌ語による本州の地名の立場は? アイヌ語の本州地名とかこじつけもいいとこの眉唾論じゃん 〇〇内とかの地名のある北東北は征服されたんだろうな
ただし、古代の蝦夷=アイヌではないらしいね
古代の蝦夷は稲作もやっていた
アイヌは明治まで狩猟主体だからな 大和政権は基本的に戦争が弱いから
謀略や政略で各地を治めていった 大和政権による北九州〜瀬戸内の征服の話がないのが不思議だね
当時は関西の次に重要な地域だったはずなのに >>401
印欧語の基礎語彙は言うほど変わってないし
変わっててもかなり規則的だぞ
だから印欧語族という概念が発見されたんだし >>411
英語もロシア語もイラン語も似てるってことかね 旧高句麗領の地名付け替え記録から
高句麗語らしきものが一部のみ判明しているが
数詞など日本語そっくりで韓国語とは似てる部分なし >>412
英-ラテン-ロシア-ペルシャ-ヒンディー
one-unus-odin-yek-ek
two-duo-dva-d?-do
three-tres-tri-se-teen
four-quattuor-chetyre-ch?h?r-chaar
five-quinque-pyat'-panj-paanch
yek-ekのとこ以外はほぼ規則的な変化 古代〜現代に朝鮮語は日本語よりも激しく変化したらしいね
もっとも日本の室町時代にハングルができるまで表音文字を持たなかった
朝鮮ではハングル以前の状況を知るのは困難だろうが 13世紀に北から流入したエベンキと女真族の混血民だから
昔のそれとはまったく異なるはず 数詞の判明分
【判明分】 3 5 7 10
【日本語】 mi itu nana towo
【琉球語】 mi ichi nana tu
【高句麗】 mil utu nanun tek
【韓国語】 seis tases ilgop yel 古代朝鮮語の方が現代朝鮮語よりも日本語と共通点が多かった
という説もあるね >>405
>出雲の国譲りの話は平和的だし
建御名方「」 経緯は何であれ出雲大社が残ってるのは不思議ではないな
征服した相手の神も否定するというのは一神教の発想にすぎん >>420
出雲大社を作ったのは征服したヤマト側
代々の神主である出雲国造もヤマト側の人
怨霊封じのためだ 天満宮だって菅原道真の怨霊を封じるために藤原氏が壮大な社殿を作った 当時の人々の考え方は
非業の死を遂げた敵は怨霊となって祟るため
その怨霊を封じるために神として祀りそのために社殿を建てている 隼人塚もヤマトが隼人を征服した時に怨霊が祟らないように建立したようだ >>427
それは怨霊が祟る思想がなくなった時代だね
しかも殺した相手ではないね >>423
>>430
おまえら日本史の基礎知識すら知らないやつはこのスレから出ていけ
中世までは怨霊で歴史が動いている >>429
せっかく平城京から長岡京へ遷都したのに
早良親王の怨霊が祟り続けるため
やむをえず長岡京を捨てて
平安京への遷都したのが京都の始まりだもんな 中村真理子の「天智と天武」めちゃおもろいよ
怨霊信仰の話も興味深かった 明治維新で日本人の生活がガラッと変わったけど異民族には支配されてない 中国の歴史みたらわかるように
異民族国家同士の戦国時代や乱立時代を経て混血していってる
混血の度合いが更に高い日本でも古代までにそういうことを経ているはずだ 中国では出雲大社のように敗者を祀る宗教施設なんて聞いたことがない
中国では敗者は徹底的に痛めつけられ、その痕跡すらも残させないのが一般的
出雲大社などがある日本は中国よりも敗者も存続を許される平和的な社会だった
と思うよ 大和政権は戦争が弱いのもあったけど
例えば東北の蝦夷などは同化政策
宥和政策も使い殲滅戦はしてない
最終的には首領を騙して処刑した 祟りとか怨霊を怖がる文化なんだろ
平将門等お上に弓引いた賊も神として祀られてる >>438
殲滅していないだけで平和ではないぞ
日本でも武力で戦いで統一していった 安倍さんも神として祀らないと日本の不幸が終わらない 吸収していったが正解じゃね
為政者と住民を別物と考えて為政者は滅ぼしても住民と土地をセットで吸収する
ただ住民には前の為政者の記憶は残ってるから神様として取り込んでいくパターン >>443
それは世界史ほとんどの帝国で同じ
為政者層だけ殺して一般住民はそのまま吸収 >>444
西洋の場合は前の神様を悪魔にしてしまって文化的レイプが行われてるけど
それが日本の場合なんとなく吸収して神様が増えていってる感じがする 大和朝廷は3万の大軍を朝鮮に送るも大敗してほぼ全滅
坂上田村麻呂に4万の軍勢を与え
東北征伐に向かわせるも戦闘では殲滅できずと
とにかく弱い >>446
記紀ですら熊襲相手に女装して近づき酒飲ませて騙し討ちしてきたことを記録してるもんな 中国では征服された王朝の関係者は殲滅され、生き残った者も社会の最下層に
落とされる
それに比べると、日本は権力闘争に敗れても、地域の有力者としての存続は
認められることが多い
出雲の国譲りの後も出雲国造として出雲大社の宮司につながっているとか、
関ヶ原の後も島津氏や毛利氏が大藩として残っているとか 関東の毛野国や蝦夷や熊襲は
数百年以上存在してた
それは戦争が弱いのもあるが
倭国は西日本と朝鮮半島で精一杯だったというのが大きい
というか倭国の範囲は西日本~朝鮮半島だから 稲佐の浜で大国主命が抗議自殺したってのが富家の伝承だから
怨霊こわい古代人はさぞかし恐怖だったろ
富家ってのは出雲大社の信徒でご先祖がなんと大国主 >>445
西洋と日本というより一神教と多神教の違いだろ >>448
それはウソ
中国でも異民族を取り込んで混血してやってきた
例えば隋の煬帝と唐の高祖は従兄弟で祖父は匈奴系で鮮卑重臣の独孤信 庶民というのは誰に支配されても気にしない
漢民族は長く満蒙人に支配されてたし
江戸の庶民も徳川から薩長に支配者が変わっても気にしない >>452
それなら出雲大社のようなものが中国にもあるのか示してみなよ
日本は藤原氏は近衛家などとして今でも続いているし、足利氏も子爵家として
残っていた。中国でこんな例があるか? >>454
論点をすり替える君は愚か者
君がウソを書き込んだから
事実>>452を示した 出雲大社は異民族の神社じゃないし
藤原も足利もずっと日本の支配者層だからじゃんw 日本は徹底した世襲社会で支配者層が変わらないからな
いまだに天皇と公家と薩長の末裔がお上 白村江の戦い
朝鮮出兵
明治維新
太平洋戦争敗戦
この4つが日本史上に置いても特に大きい出来事だからね
歴史のifとしては白村江で大勝してたら
日本国は存在してないし
東北や北海道は別の国だったかもしれない 半島には固執していても
南九州には全く興味がなく
日本書紀で隼人が朝貢し出すのは白村江の戦いより後
その後も隼人の反乱があり平安時代にようやく隼人を完全征服できた 当時の交通事情考えたら北九州から南九州行くより半島行く方が楽だもんな >>456
論点をすり替えてるのはお前だよ
隋唐の中国としては例外的な話を持ち出して、ごまかしているだけやん
中国には敗者への残酷な仕打ちを表す話が無数に残っている
とても日本の比ではない
例外的な話を持ち出しても、それを否定することはできない ただし鹿児島県にも前方後円墳があり
少なくとも一部エリアを少なくとも一時期は支配していた
一方で青森県・秋田県・岩手県(最南端を除く)・山形県北部には前方後円墳がない
そこには別の民族が住んでいた 別の民族というより別の文化圏もしくは別の国だったんでしょ 白村江の戦いがなくても日本国は成立していたよ
「日出る処の天子」の国書を送った段階で、日本には冊封を潔しとしない
独立国としての気概があった >>467
違うよ
遣隋使を送った隋や唐は>>452にもあるように北方民族系の国家
つまり倭としては対等な立ち位置を自負していた >>468
煬帝は日本の国書を見て「蛮夷は無礼だ」と激怒した
しかし高句麗遠征に日本の協力が必要だと考えて強硬措置は控えた
隋唐は血統は鮮卑系だったが、日本に対してはあくまで中華としてふるまった
聖徳太子は隋の血統が鮮卑系であることを果たして知っていただろうか >>469
もちろん知ってる
倭の五王が朝貢した相手は漢民族の南朝
そしてその南朝を征服して中華統一したのが鮮卑系の隋 世界史的に隋唐を征服王朝とするのは一般的じゃないから 秦だって当時の華人からすれば中原じゃない
蛮族だろ 明→清と王朝交替した時、日本の儒学者たちは清を夷狄とみなしたが、
飛鳥時代の日本人にその意識があったとは思えないね
隋の出自が鮮卑であることも日本側が知っていたかどうかは疑わしい
当時の隋は東アジアの超大国
その隋と対等の国交を目指した聖徳太子の見識は素晴らしい 出自とかどうでもいいだろ
大国とは敵対してもいいことないんだから、なるべくいい関係を築くだけだ 朝鮮半島から来た大和政権は
ずっと領土を待つ朝鮮半島の動向と
その後ろにいる大国
隋唐のことを気にしてた
なので東北や南九州なんてしょぼい土地のことは後回しになってたのはある 中国では王朝が交代するたびに人口が半減してきたのは事実 それはデマ
混乱期に調査の網羅ができなかっただけの話 >>79
すぐに観たい人ばかりになる為に公文書を何千か所も晒しちゃうし
等身大のあれを今時のゲーム差無し優勝が気持ちよくなったな ゲームもアホだろうし
はご ころもきせぬ 他なんかあるのか 言うてまた掘ってまた出資せなアカンの?
高卒と同じ
おーすげー
ほんのり甘めのくるみパンすき
ミスチルヲタが来るたびに全部引いてるやつすごいと思うが他人に乗っかってダサw >>489
反米の人は負けた
ところで中国による台湾支配は遅くて江戸時代なんだな
しかも平戸生まれの日中ハーフ田川福松が台湾を最初に治めた 調べてみたが非常に面白いな
田川福松(中国名:鄭成功)は1624年に肥前国松浦郡の平戸生まれ
父は鄭芝龍(カトリック洗礼名Nicholas)
母は田川マツで平戸藩士・田川七左衛門の娘
1644年に中国で明が滅ぶと
父の鄭芝龍らは亡命した明の皇族を擁立し隆武帝を立てた
田川福松は父の紹介で隆武帝に謁見し気に入られる
しかし隆武帝は清を倒すための北伐が失敗し殺された
一方で田川福松の弟・田川七左衛門(父と同名、中国名:鄭宗明)は
長崎で商売が大成功し兄・田川福松への資金と物資援助を行なった
1658年に田川福松は清を打倒するため北伐軍を起こすが南京で大敗
そこで当時オランダ(東インド会社)領の台湾を拠点にするため攻撃
1662年に田川福松はオランダ軍を排除し台湾で政権を築いた
そのため今も台湾で田川福松は台湾人の象徴「開発始祖」「民族の英雄」とされている そういえば台湾は国もなく歴代中国へ朝貢もしていなかったよな
なぜだ 首狩り族しか住んでないような蛮地とされてきたからじゃないか
北センチネル島みたいな扱い
海から急峻な山が立ち上がり耕作地も作れず危険冒して侵略しても旨味がない
大航海時代に鉄砲と大砲持ってポルトガル人が上陸して台湾の歴史が始まる 台湾は凶暴な民族4つくらいがしのぎの削り合いをしてた
同じようなポジションなのに琉球は平和理に統治されてたので何の影響でこんな違いが出たのか不思議 台湾は一つのでかい島だけど
琉球は細かい島の群島じゃん さすがにこのスレでも300年ぐらいから538年の仏教伝来の間に何があったのか語られることはないね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています