白村江の戦い→大化の改新は日本史最大の闇よな
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大化の改新は知ってても
白村江の大敗戦については知らない人多い
教科書でもさらっと触れる程度
当時の日本としては太平洋戦争レベルの対外戦争の敗北 あれは大和に匹敵する勢力を誇った上毛野を弱体化させるための戦い >>1
そこは中心人物の鎌足が闇だからだよ
白村江の戦いの前から鎌足の記述が完全に消える
白村江の戦いが終わると鎌足の記述が復活する
何かが隠されている というか大化の改新前の記録はほぼ燃やされて無いから
そこで皇統が入れ替わったかも
外国人に統治されたかもわからない >>1
釣りだろうが順序が逆
>>4
大化の改新や白村江の戦いその前後もし記録あるだろ
せめて日本書紀くらい読めよ
もちろん記述の全てを100%信じる必要はないがかなりのことはわかる 鎌足~不比等の親子が渡来系なのだと思うよ
中臣の出身にしては色々とおかしい 蘇我氏って負けたから悪者にされて名前も入鹿とか蝦夷に変えられたんだろ
勝ったらクーデター鎮圧で済んでたのに 半島で戦ってたのは皇統とは別勢力がメインで皇統はちょっと手伝っただけやからな 順番逆だわ
大化の改新が百済復興勢力のクーデターで白村江で敗北して朝鮮半島撤退から壬申の乱までが百済派を滅ぼし皇統を元に戻そうとする戦い
唐や新羅と国交回復することで律令国家の体裁を整えることになる 渡来系とか言ってるけど日本人はぜんぶ渡来系だぞ
いつ来たかの違いで >>10
日本書紀を読もうぜ
天皇は朝鮮半島の領土のことを非常に気にして記述が多い
例えば聖徳太子の祖父の欽明天皇は朝鮮半島の任那領を守るのに必死 蘇我馬子は天皇記 国記というものを編纂したが
乙巳の変で燃やされた
もちろん古事記や日本書紀より古い 日本書紀はほぼフィクション
まだ古事記のほうが信頼できる >>12
弥生系(大和朝廷)はね
それ以前の縄文系はもっと古いので土着と呼んでもいい シンプルに言うなら古代日本のエリアは
朝鮮半島南部~九州北部~静岡あたりまで
もちろん当時は日本などという名前ではない
天皇家は朝鮮から製鉄とともにやってきた 闇っていうか何もわかってなくてあまり多くを語れないだけやん 古事記でも出てくるし当時としては朝鮮から来たことや朝鮮半島を支配してたことは別に隠すことじゃないし その頃まで日本は文字も無かったって不思議だな
中国だと三国志とかそれ以前から文字あったの 朝鮮って言葉を使うなら現在の漢民族とは違うことを明確にしてから使って欲しい 倭の五王のやったことが全く記されてないくらいスカスカな記述やからなぁ >>20
任那を奪われてしまい
朝鮮半島の方針は『任那の調(=税)』を新羅に課すことで一時的決着
さらに百済と組んで『任那の調』を百済に課すことで決着
こうして大和朝廷は半年利権を維持 中大兄皇子が百済派なのか新羅派なのかすら論争の決着がついてない 大学で調べてもなかなか出ない300〜550年の間日本はどうだったのか? 大和朝廷はその中の一勢力でしかないし倭を代表してる訳でもないのが倭の五王の記述から推測できるよな
向こうの文献に散々書かれてる倭に関することがさっぱり書かれてない歴史書しか持ってないんやから 北九州の小国邪馬台国の記述をありがたがって
これが日本の元に違いないって思わないとやっていけない始末 西暦550年なら適当だけど
大和朝廷 朝鮮半島~西日本
毛野国 関東
蝦夷国 東北
熊襲国 南九州
その他小さい王国が乱立してたんではなかろうか 関東は親王任国となる毛野・常陸・上総の3大勢力があったんだろ
古墳の多い地区でもあるし 邪馬台国って連合王国みたいなもんやから一つの国と違うよな 高句麗語かもしれないと言われている旧高句麗領の地名から判明している言語は
数詞など大和言葉とそっくり 唐におもねり自国の文化捨てたとか何とか
明治維新で西洋化したののもっときついやつなんかな? >>40
文法は似てるけど漢語以外の語彙がだいぶ違うねえ 類似点だけを見れば、百済語や扶余諸語ばかりか中国、アルタイ、アイヌ、ドラヴィダと様々な説が出てくるけど相違点でもって否定される
今のところはっきりと紐付けされるのは琉球語だけなんだよね 新羅語(韓国語)←基本語彙は全く似てないが文法は日本語とそっくり
高句麗語(らしきもの)←数詞など基本語彙は日本語とそっくり 言語ってどれと比較してもどこかしら類似点があるものなんだよ 東の果てで文化の最終到達地だったからだろう
朝鮮人が上から目線で日本を見てる理由かな >>30
そんな感じだよね
九州北部であんな時代に300年も続いてた磐井なんて一豪族なんて思えないし太宰府は磐井の王城跡地を再利用したんだろ
岩戸山古墳の位置する八女丘陵では、前方後円墳12基(岩戸山古墳含む)・装飾古墳3基を含む古墳約300基からなる八女古墳群が分布する[7]。その築造は4世紀前半から7世紀前半に及び、筑紫君一族の墓に相当すると推定されている どういうこと 日本のことならにほんと呼んでたけど
だから英語でJapan言ってるやん 福岡と奈良で似た地名がかなりあるのは北部九州からの遷都が行われたことは自明 >>33
たぶん進撃の巨人が藤原家による歴史の改ざんをヒントにしてる >>53
飛鳥時代:日本(やまと)
平安時代:日本(にっぽん)
江戸時代:日本(にほん)※本居宣長による
以降はにっぽんとにほんで使い分け まさに白村江で大敗北をした後
倭国?は唐の属国扱いだった
西暦700年頃の遣唐使が
唐の女帝 武則天に倭国?を日本と改称したいと届け出て認可されたのが日本の始まり
これについては武則天が日本と命名した説もある
武則天は年号コロコロ変えたり他国の名前変えたりするのが大好きな人だったのでこっちの説も有力かも >>52
しかし白村江の戦いのときは皇極天皇が九州に移ってるんだぞ
九州王朝なんてあるわけがない >>60
そら磐井の乱がその100年も前の話だから当然 >>59
よくもまあこんな胡散臭い個人ブログ持ってきたな 政変後最初にやった大きなことが国の存続をかけるレベルの覚悟で百済の復興戦争
なぜだ ちなみに磐井の乱の時も
大和朝廷は朝鮮出兵しようと九州に軍を送り込んだら
それが磐井の軍と衝突した
白村江以前にも大和朝廷は数百年間に渡り
朝鮮の領土や権益を守るために何度も出兵してる
最後の最後に白村江で大軍を差し向けて大敗しすべて権益を失った
その後に誕生したのが日本国 白村江に際して二度も遷都している
朝倉橘広庭宮(おそらく福岡)→ 近江大津宮(滋賀) >>65
百済がやられると高句麗が挟撃される→新羅属国化すると朝鮮半島素通りで日本にとって脅威
敗戦後は防人置いたり防備固めてるし、唐を警戒してるのは間違いなさそう >>68
日本書紀だよね
古事記と風土記は書いてないって言うか出兵とは絡めてない 大和朝廷自体が
朝鮮人による占領政権だからな
うちは代々鹿児島なので
朝鮮人朝廷に逆らってた立場だが 日本の正史は日本書紀だぞ
古事記は鎌倉時代ぐらいに発見されて江戸時代に本居宣長が国学で取り上げて
ようやく注目されるようになった 神社って祭神を平気でコロコロ変えまくるの不思議だよな
社史も嘘ばっかだし 嘘や不正が大好きなのが日本人なのよ
現代もそうだろ? 記紀はどっちが正とか偽とかいう議論で読むものではない
歴史書ってものは手が加えられていることを前提でその編纂意図を読み解くものだ 古代では文化的な先進は朝鮮だけど軍事的には日本優位なんだよな 朝鮮南部に日本の勢力地があったというけどチョソンが本場でイルポンを操ってただけでは >>82
大学生の時に新書を出典にして論文書くなって教えられなかった? >>82
利休は切腹してない追放されただけっていう本を出してる著者だな 上でも述べたが日本国(西暦700年頃誕生)以前の大和は
朝鮮~西日本が領土だからね
渡来人なんて呼び方すらおかしい訳よ 白村江の戦いから仏教伝来までの空白期間って何してたの?
と言う疑問を差し込む余地なく大化の改新(これも色々と疑問があるが)だったからな >>70
✕日本書紀は不比等が改ざん
〇日本書紀は不比等が書いた >>66
藤原氏つえええなんてこと書いてないよ
逆に藤原氏の支配者ぶりを表から隠すために書かれたもの >>88
渡来人がオンドルみたいの作って羨ましがったけど日本の気候に合わずすぐに腐ったみたいな記述が古事記だか日本書紀だかにあったぞ >>93
そら古事記も日本書紀も
白村江のかなりあと書かれたからな 西暦414年に建てられた好太王碑に書かれている内容
百済・新羅はもと高句麗に服属する民で、これまで高句麗に朝貢してきた。ところが、倭が辛卯の年(三九一)以来、海をこえて襲来し、百済や新羅などを破り、臣民とした。そこで好太王は、三九六年にみずから水軍をひきいて百済を討伐した。…百済王は困って好太王に降伏して自ら誓った。「これからのちは永くあなたの奴隷になりましょう」と。…三九九年、百済はさきの誓約をやぶって倭と通じたので、好太王は平壌へ行った。そのとき新羅は使いを送ってきて好太王に告げた。「倭人が国境地帯に満ちあふれ、城を攻めおとし、新羅を倭の民にしてしまいました。私たちは王に従ってその指示をあおぎたいのです」と。…四〇〇年、好太王は歩兵と騎兵あわせて五万の兵を派遣して新羅を救わせた。その軍が男居城から新羅城に行ってみると、倭の兵がその中に満ちていたが、高句麗軍が到着すると、退却した。 その当時に何万人も朝鮮へ渡るってどうやって行ったの >>97
まあ王の業績を盛るために初っ端から嘘かいとるからな >>72
さっきから日本書紀を否定して古事記を持ち上げてる君は無知すぎる
古事記は推古天皇の時代(=聖徳太子の時代)までしか書かれていないのを知らないのか?
大化の改新や白村江の戦いが古事記に出てこないのは当たり前だ >>95
だとしたら何世代か前のご先祖の生まれを知らなかったってことかな >>97
その後の王権とは断絶があるんじゃないのっていう話になるよ遭難ばかりしてるし >>97
船以外何があるの?
3万人の兵を数百隻の船で送り開戦した
当時の倭の人口は100万人程度らしいので国運をかけた大戦争だった >>99
朝鮮への出兵と磐井への出兵を絡めてるのは日本書紀だけだし同じ釜の飯とかもあるから盛ってる?改竄してる?っていう話 古事記と日本書紀は編纂目的が違うからどっちが正しい間違ってるって論争はナンセンス 古事記と日本書紀の大まかな記述は一致しているし正反対なことが書かれているわけではない
細かい部分で片方だけに書かれていることがあるといった感じ
だからこそ古事記も日本書紀もおおまかには信頼できる 歴史ってのは勝者が代わる度に書き換えられているからな
タイムマシーンでもできないと本当のことは分からない
せめて歴史に名の残る人物の墓を発掘してDNA鑑定くらいはしないとな(特に天皇家な) そもそも記紀は表記の仕方からして違う
もっともここにいる奴らからしたら日本語の成り立ち問題なんてどうでもいいんだろうが 古事記と日本書紀はほぼ同様のことを伝えているだけでなく
考古学的な発見も記述と合致している
だから大きな流れとしては正しい
しかし細かいところでは怪しい
例えば古事記は推古天皇までだがこの後の乙巳の変
本当に蘇我氏が悪かったのか怪しい >>106
20年くらい前に自分のDNA調べたけど興味深かったぞ
当時はミトコンドリアDNAで母方の祖先だけだったけど今は核DNAでできるしオススメ 日本書紀は国外に向け領土支配の正統性を説くための歴史書
だから漢文で編年体で書かれている
古事記は壬申の乱以降の天武天皇の継承の正統性を謳うための国内に向けた歴史書
だから万葉仮名混じりで、論理的な理解のために物語で書かれている >>110
それでも大まかな内容としては相違がないから日本の歴史の流れとしては信頼できる
一方で同じ王朝が継続していたのかとうかなどは不明 古事記が推古天皇までしか書かれていないのは編纂当時にしてそこまでが歴史だから
それ以降の舒明・皇極夫婦、天智・天武兄弟、そして天智の子弘文は皇位継承争いの議題
都合の良い歴史を語った上で、皇位を継ぐのに相応しかったのは誰でしょう、と問う手法の歴史書が古事記 最近の研究で縄文人と弥生人のDNAは現代日本人の3割でしかなく
他7割は古墳時代に入ってきた渡来人によるものだと分かってきている
なぜその時代にそんな大量の渡来人が入ってきたのか?
想像が膨らむね >>102
もっといたわ 大体300万人以上はいたと言われてる >>113
役職名だった
複数人の大王を直系で繋いだために史実が間延びした
その両方 このあたりを歴史苦手な奴でもわかりやすく読める漫画とかある? 古墳の話か?
一族や縁のある豪族が点在してただけだろ >>119
ここらへん題材にしてるの自体、火の鳥くらいしか思いつかん 皇統に関わる問題だからな
軽く扱うと大ヤケドするから映像化も難しい
萩尾望都の日出御子も脅迫受けて未完なんだっけ たった150年くらい前にいた西郷隆盛像ですら本人と似てないらしいし何を信じたらいいのやら >>133
わかりやすくはないし、途中からオリジナル展開になるから学べるわけじゃないぞ >>131
そんなもんだよ
どの時代も正しい情報が残るとは限らない
現代の情報化時代ですら改竄に捏造を民主主義国の政府ですらやっている そう思うと手塚治虫はやはり凄いし
もののけ姫も凄い映画だな >>136
誇張が多いけど
薩長同盟の裏書き保証を署名していたのは事実だから雑魚ではない
とはいえ教科書で取り上げるほどの重要人物ではないだけ >>139
それは倭人によるものだけど
昔から住んでいたというより進出っぽい 日本へ渡来→前方後円墳の日本文化→朝鮮半島南端へ進出
かな 何度も言わすな
古代の倭国
大和朝廷とは南朝鮮~西日本を支配する王国 教科書から削除された人物で竜馬ばっかり言われるが楠木正成もだから 稲荷山古墳出土鉄剣に雄略天皇(ワカタケル大王)が刻まれていて
辛亥年は471年なのでその頃には関東の田舎でも文字が認識されていた >>136
夏目漱石の吾輩は猫であるにも名が出てくるから司馬遼太郎で云々は単なる坂本龍馬下げなだけ しらんけど白村江の戦いって大化の改新のあとじゃないっけ?
ボロ負けした中大兄皇子が帰国して各地に城を作って外敵に備えたらしい 古代も文字はあった
倭国は朝鮮を領土としていたのだから
朝鮮に文字があった頃には倭国にもあったと考えるのが自然 船で出てったということだが補給はどうしてたんだ?
まさか現地調達? 任那の文化圏はほぼ日本と同じだから
当時の食い物もさほど変わらんのでは
何でも辛くするのはモンゴル支配以降だし >>62
>>148
韓国では倭は百済に従属する勢力でありその立場により兵を送ったとする見解が国民的定説であるので 朝鮮人からすると
古代の朝鮮南部が倭国の支配下だったことは黒歴史
なので現代朝鮮人は知らない しかも現代日本にとっても朝鮮南部の支配は
最近の朝鮮併合からの植民地支配→敗戦を連想させる黒歴史
なので現代日本にとっても黒歴史
お互いそこは触れないようにしたい 唐の援軍てどれくらいいたんだろうな
そのあたりのはっきりした記録はあるのか どうせ当時の日本なんてオンボロ船だろう
唐の水軍に勝てるわけがない >>160
そういう意図いらんのだわありのままを教えて欲しいんだわ ありのままを伝えると
天皇家は朝鮮からやってきて
数百年間
朝鮮半島~西日本を統治していました
白村江の戦いで朝鮮半島を失いその後関東や東北を制圧し日本を建国しました
となるが天皇家が存続する限り
ありのままは伝えられないでしょ 根拠のないことをありのままとか言わないほうがいいよ >>139,159,160
韓国で古墳が見つかって掘ってみると日本独自の前方後円墳だったから慌てて埋め戻したらしいなw >>167
後期の古墳しか見つからないため
倭が朝鮮半島へ進出して作った古墳で間違いない 大和朝廷による統一→任那の日本府、大化の改新→白村江の戦い、
秀吉の天下統一→朝鮮征伐、明治維新→日韓併合
国内が統一されると朝鮮に進出するのは、日本史の法則だよ >>172
鎌倉末期〜室町に北九州や瀬戸内の海賊が倭寇として朝鮮を襲撃していた >>174
それでも日本書紀で大雑把な流れはわかる
ただし白村江の戦いの前後の期間になぜか鎌足についての記録だけ完全に記述がない
藤原不比等が親の鎌足の出自を隠している よく唐相手にケンカ売る気になったよな 勝てると思ってたんか 聖徳太子とか菅原道眞とかその頃のやつらは中国なめてるだろ 舐めてたからこそこてんぱんにされて
その後属国扱いになる
今の日本国みたいに 属国なんかになって無いよそんな証拠は中国にも無いし 中臣は百済人(新羅人)みたいな論議もあるけど親戚が半島に残ってるだけで本人は生まれも育ちも日本でしょ
外国からひょこっとうやってきた外国人が政権中枢に入り込んでいけるほど朝廷はスカスカではない 日本と新羅ってのがおそらく同じ民族だったのが当時では常識だったんだろう
弥生人 wikiによると倭軍は総勢4万以上だったとのことだが、そんな大軍を当時動員できたんか? それをやったからこそ
総力戦だったからこそ
敗戦後はもう完全に諦められた訳 白村江で敗れても唐が日本に攻めてくることはなかった
だから日本は通常の冊封国には絶対に許されない「天皇」の称号を
使い続けることが出来た 秀吉「ワシは朝鮮を属国だと思って唐入りを命じたんだが」 >>188
敵の唐と新羅が仲間割れを起こして争い始めたから
倭なんかに構ってる余裕がなくなった
ラッキーだった トンデモ説だけど百済の王子余豊璋ならそれなりの待遇をもって迎えられるだろう 日本も少なくとも秀吉の出兵ぐらいまでは中華思想持ってたよね 攻めるも何も倭国は唐に降伏し
郭務悰を代表とする唐の進駐軍3000人が九州に常駐した
つまりマッカーサーみたいなんもん
郭務悰が唐に帰ったあと
新羅派の天武が実権を奪い返し
日本建国へと向かう 中国→日本
文永・弘安(蒙古襲来)
日本→中国
文禄・慶長(秀吉の明征)
昭和
日本のほうが攻めてるな >>200
トンデモ本の類だな
唐の歴史書にもそんな記述は全くないのに >>199
この妄想はなんと倭国側の主張なのよなw
郭務悰というのは唐の文官とされるが日本書紀にしか出てこない
日本側の創作と思われる
実際に日本に進駐軍を置いたのは唐でなく新羅だった
という説もありその後の壬申の乱への流れを考えると
そちらのほうが妥当かもしれない 日清戦争は領土戦争というより朝鮮の権益を巡るものだから別枠かね
勝ち負けという意味では日本→中国だろうけど 朝鮮は護る為の戦いしかしてないのにチョッパリが何時も攻めて悪いやつだ
いっつもチョッパリが負けて帰ってるのだから諦めろ >>205
白村江の戦いも朝鮮半島の権益を巡る争いだから同じ 日本には国内を統一すると朝鮮に進出する傾向があるんだよ
任那の日本府、白村江の戦い、秀吉の朝鮮征伐、日韓併合もこれで説明できる
日本に攻められた朝鮮が中国に頼るのもいつものことだよ 日本は悪い国だな
慰安婦おばあさんに謝罪するのは当然だ 当時の日本の軍船て手漕ぎのゴンドラみたいなやつだろ あんなんで勝てるわけがない ё<当時の朝鮮は中国と日本に朝貢していたのれす
朝鮮人は昔も今も日本に憧れてるのれす 中国も帆船が登場したのは北宋時代らしい
この頃手漕ぎなのは変わらん >>214
ヤマト王権が出来てから
朝鮮半島へ船で進出していた
その証拠が半島南部の前方後円墳 渡来人が大量に日本列島へ来て日本人が出来たように
舟での行き来は当時から可能 可能というか頻繁に往来していたからね
当時のメインの交通手段はどこ行くのも舟 日本列島の内部の移動も
陸に道路がなかったため海と川で船による移動がメインでした 明治時代に鉄道ができるまで
江戸時代の荷物移動も船だったことを思い出そう 新羅語(韓国語)←基本語彙は全く似てないが文法は日本語とそっくり
高句麗語(らしきもの)←数詞など基本語彙は日本語とそっくり ずっと漕いでって到着する頃には疲れてたから負けたんでは? 渡来人が元々そっち系の人の血だろうから
天皇が朝鮮人でも全くおかしくない
縄文人性格気弱すぎるからな >>227
天皇のまわりの古代豪族も同じだろ
一方で異民族は古事記や日本書紀で『土蜘蛛』などと表記されている >>228
追いやられたり殲滅させられたのは先住民であって日本人ではない 朝鮮系である大和朝廷やその子孫である西日本人は東北人を蝦夷といい差別し
鬼として描写したんだよね
その名残が秋田のなまはげとか東北各地に残る鬼伝説 え?韓国の南側って日本の領土だったの?
それなら日本に返せよ! >>231
考古学的な発見と合致しているから
古事記・日本書紀は妄想ではなく大きく捉えた史実
ただし抜けていることは多いし
細かいところで言い伝えミスとか
藤原不比等主導による日本書紀編纂時の一部書き換えはあるだろう >>235
まずは日本書紀を読もうよ
特に半島の日本領任那の奪還したい話など
大量に書かれているから ロシアがドンバス地方救うためって理由で戦争したのと同じようなもんだろ 数百年間支配した母国である百済を
いよいよ失うという国難
もちろんそれを許すと唐が目の前にやってくる
まさにロシアがウクライナがNATO入りしようとして発狂したのと同じ構図 でも当時の百済は腐敗してて滅ぶべくして滅んだらしいけどな 福岡から壱岐は見える
壱岐から対馬が見える
対馬からは釜山が見える
縄文人すら見えるところには船で渡ってたから弥生以降なんて頻繁に朝鮮と九州は人が行き来してた 誰でも読める簡単な言葉の日本書紀とか古事記ないん?岩波文庫とかやめてくれ 古代以来日本は朝鮮を対等の国とはみなしていなかった
百済も新羅も王子を人質として日本に差し出していた
秀吉は朝鮮に明国進攻の道案内を命じた
朝鮮通信使は日朝対等関係の象徴とみなされているけど、老中の松平定信は
朝鮮通信使を日本への朝貢使節とみなしていた
その意識を受け継いだ明治政府は朝鮮国王を日本の太政大臣と同格とみなした
戦後教育ではこれらの事実が隠蔽されている 何言ってるかわからんけど
1393年に朝鮮半島統一した李氏朝鮮はずっと中国の属国で
日清戦争の1894年の下関条約で日本のおかげで独立国になったんでしょ
隠蔽されてないと思うけど 百済も新羅も王子を人質として日本に差し出していた事実は歴史書では
あまり取り上げていないし、朝鮮通信使をやたらに取り上げても、これを
朝貢使節と見なしていた当時の日本側の意識を無視している
これは一種の隠蔽だよ 白村江戦はそれまで数百年間支配していた
朝鮮半島の権益をとうとう失うという 日本史に置いて最重要事項
太平洋戦争敗戦以上のインパクトがある 白村江の敗戦、秀吉の朝鮮進出の挫折、明治以降の大陸進出が
大東亜敗戦で挫折
そしてその後の内向きの時代
日本史はこの繰り返しだよ 権益つうか普通に日本領な
中学までは任那が三角形で存在してたのに高校の教科書から無くなってた
全斗煥が来日して裕仁天皇が遺憾の意と仰ったあの頃だ 高句麗の好太王碑にも
倭が新羅や百済を配下にしてたとあるな 好太王碑は西暦414年
つまりその頃には倭国も文字を使ってたのはほぼ確なのよな 朝鮮側としては古代日本の朝鮮進出をあらゆる屁理屈を駆使してでも
否定したいんだよ
それを認めると、日本の朝鮮支配を肯定することになると考えて
古代日本の朝鮮進出をとにかく否定したい朝鮮側とそれに呼応する日本の
サヨク学者は日本の古代史研究をすごく歪めているよ 「歴史は歴史」と割り切る余裕がまだ朝鮮側にはないんだろうな
ただし日本がそれに合わせる必要はない 白村江惨敗でビビりまくった倭国の防衛政策が
西日本各地への朝鮮式山城の築城というのが笑える 大山倍達や力道山を半島からの密入国者と言うやつがいるが
違う
当時の半島は日本に併合されていた
つまり日本領
日本から日本に引っ越しをした朝鮮人が正しい >>260
正確には
唐・新羅連合の侵攻に備えて
倭・百済式の山城を整備した
ところが
唐・新羅が対立し始めて
どちらも倭を取り込もうとした そら敗戦で数万人の百済人も倭国に避難してきたんだから当然よ >>249
とんでも理論だな
韓国の学校では属国だったなんて間違ったこと教えてないぞ中学からやり直せ 韓国ソウルにある有名な『独立門』は
1896年に清国からの独立を記念して李氏朝鮮が建設した
これは前年1895年に清国と日本で締結された下関条約により清国の属国であった李氏朝鮮が清国から独立したことによる >>265
ところがソウルの独立門は1945年に日本から独立した記念に建てられたと思いこんでいる
その50年前の1896年から独立門は存在しているのに 気候が寒冷で土地が肥沃でもない朝鮮半島で、当時の技術で食糧自給なんて
できた訳がないんだから、中国か日本のどちらかについて食料を調達するしか
なかった。それが朝鮮半島の歴史 アレキサンダー・ボビンによる耽羅語は日本語の方言説 縁のない外国に攻めていくほど余裕があったとは思えないから
当時は半島に親戚の集団でもいたんだろう
ネトウヨ史観ではそれが日本が半島を支配していた証拠らしいけど
普通に考えて半島から日本に来た連中が故郷の危機に馳せ参じて返り討ちにあったんだろうよ >>271
それはあんたの妄想でしかない
魏志倭人伝は日本と朝鮮を異民族と認識している 渡来氏族が当時の日本を仕切ってたし皇統だってそっち系
こんなんは昭和の小学生でもイメージてきてたことやで
別にそれをして皇室=韓国由来とは思わんしね そも満蒙の皆さんに何度も上書きされた半島メンが
どーとらとかヘソがアフタヌーンティかますレベル 上のほうで出てきた学習マンガ日本の歴史
小2小3だかの俺も蘇我氏を悪く描きすぎじゃねとは強く感じたね
さて門外漢は読み専に戻ります あーこれだけ言わせて
ゆうきまさみの新九郎で今川義忠があのキャラあの顔なんは
平安期までにゆるゆると陽の当たるとこに南下した土蜘蛛さん系
の有力国衆と交配した結果なんかなーとかねちんを愛でつつ思った しかしヤマト王権が最初に戦った長髄彦は先に日本へ来ていた渡来系だよな
土蜘蛛だから非渡来系とは限らない >>279
戻るいうた爺やけど
それはおもしろく至極まっとうな見方やね
いやほんとありがとう まあでもざっくりなイメージとしちゃ
基本のマナーも知らん野蛮人としていいならわしたのが
土蜘蛛って蔑句なんかなとは思うけどね 渡来系同士でも先行とは別民族で別風習で別言語はありうる
大陸も半島も多種多様な民族と言語があった >>282
まあそうだよね
まず知りたいのは新羅と百済の違いね
子供のじぶんには埼玉千葉くらいの差と思ってたけどww >>284
むしろ高句麗と百済が先祖は同じため同じ神話を持っている 鹿児島はすでにそんなイメージできてるけど
土佐あたりについて明らかにされるのはいつになるんや >>286
ええそうなん?
そこらへんなんか読み下されてる好著あれば教えて 薩摩隼人なんて平安初期まで反乱してたよな
意外にも九州完全支配はかなり遅い >>288
まずネットでええやん
無難なところはwikipediaからスタート >>291
えええこの歳でウィキんのかよお
拡大自在やから老眼にも優しいけども
でもあれだね知らない自分がしあわせに感じるわ
楽しみが待ってるわけだしさウィキ氏よろしく ほなの兄さん相手してくれてありがとな
センセ方にはお目汚しほんとごめんなさい >>295
日本側の記紀の記録によれば
ちょうど蘇我馬子および(その姪の)推古天皇および(その甥の)厩戸皇子の時代
厩戸皇子(聖徳太子)の祖母は二人とも蘇我馬子の姉妹であり全員が蘇我系の時代 沖縄にとって敵国のアメリカ人ハーフが沖縄知事になりこいつが反戦左翼で中国の味方して反基地運動の先頭に立ってるわけで
日本に来る外人はみんなジャパナイズされて変な日本人になってしまう
むかしからそういうお国柄 >>275
秦氏などの渡来氏族出自の貴族は蕃氏と呼ばれ、ほかの貴族よりも格下扱いで
官位も低かった。経済力を持っていたが、政治への関与は限定的だった。
桓武天皇の母・高野新笠は渡来氏族出自だけど、来日してから5代目・6代目
くらいで実際はほとんど日本人に同化していただろう
しかし母が渡来氏族出自であったことは、桓武天皇の即位の際には大きな
ハンディとなった 百済王から桓武天皇までたどると、12代、300年もたっていて時代が全く異ります
01 武寧王 (第25代百済王。倭国生まれ。西暦461年に即位)
02 純陀太子 (即位前に死去)
03 斯我君 (西暦505年に倭国へ帰化)
04 法師君
05 雄蘇利紀君
06 和史宇奈羅 (和史[やまとのふびと]を賜る。史は帰化人系下級官僚のカバネ)
07 和史粟勝
08 和史浄足
09 和史武助
10 高野朝臣乙継 (娘の入内により高野朝臣を賜る)
11 高野朝臣新笠 (桓武天皇の生母)
12 桓武天皇 (第50代天皇。西暦781年に即位)
このように武寧王が即位したのは桓武天皇が即位した320年前の西暦461年です
百済はこの途中の660年に滅びんで再興を賭けた663年の白村江の戦いで敗けると
百済の王族や技術をもった民などが日本へ亡命帰化して日本が百済を部分吸収しています 桓武天皇に百済王の血が入ってるということは
源氏も平氏も全て百済王の子孫
江戸期までの婚姻により全ての武士は百済王の子孫
明治以降の婚姻によりほとんどの日本人は百済王の子孫 コグリョ → こうくり ← わかる
シルラ → しらぎ ← まあわかる
ペクチェ → くだら ← はあ?? 百済大国とか名乗ってて後半の音だけが残ったみたいな感じなのかね
ちゃんさんみたいに クダラのラは国の意味で
新羅のシラのラと同じ 新羅のギは城の意味 古墳掘ってDNAやら遺物やら調べれば一気にいろんなことわかるのにな >>308
日本の古墳15万のほとんどは調査可能で調査してる
継体天皇の今城塚古墳も調査発掘済
その結果の今城塚古代歴史館がある 1500年経ってほとんどの日本人に百済人の血が入っている
よっぽど山奥で外部と通婚もなく濃い血の村を除けば >>309
仁徳天皇陵を掘れと言っているんだよ
倭の解明も一気に進む >>312
朝鮮の血に一番近いのが近畿なんだよなぁ
九州はそうでもない もしかして朝鮮人の血が入っててヤベーとかいう煽り? >>316
はい 私のDNAはより純ジャパに近いので でも朝鮮人がやべーのってエベンキの血が入ってからでしょ 百済の血は女系だから途中で切れてる可能性もあるよ
確実に血を繋いでると言えるのはY遺伝子を持つ男系だけだから >>300
母系の遠い先祖の一人が百済王だったということに過ぎない
源氏平氏の連中のほとんどは桓武天皇の母が帰化人出自だったことを
知らなかったと思うよ
もっとも桓武天皇の母だって数百年前から日本に住んでいた人々の子孫で
実際には日本人と見なすべき人だよ ウィキペディアには新羅王の先祖は越前から朝鮮に渡ったという
説が載っているね
結構信憑性がありそうだけど、これについて大騒ぎしないのが、
朝鮮人と異なる日本人の奥ゆかしさだと思う 天皇家は朝鮮半島から来たんだし
故郷のための戦いだし 天皇家の子孫じゃない日本人っているのだろうか?
ここ100年で帰化した人を除いて 天皇家の子孫じゃない日本人っているのだろうか?
ここ100年で帰化した人を除いて 千年以上経ってるんだからほとんどの日本人に天皇家の血も朝鮮の血も入ってるだろうな 地域差で朝鮮との類似したDNAが発表されている
近畿が最も朝鮮に近く東北や九州は薄い >>331
その数値見た?
0.1%も差がないだろ 天皇は元を辿れば土着のシャーマンなのに朝鮮出身とかアホ言えw
中国やヨーロッパの皇帝や国王とは性質が違うんだよ 鬼もツノがあるけど
実際にツノが生えていたわけではなく
入れ墨のような風習とか兜とかじゃないかね そもそも渡来家の大和朝廷および臣民は
蝦夷つまり東北人を鬼と呼んでいた 異界のもの象徴の一つとして鬼という概念があって
それとは別に
言語も風習も異なる異民族に対してもその鬼のイメージと呼称を与えただけだと思う >>342
ロシア人がシベリアまで到達したのは江戸時代 ヨーロッパ人によるアメリカ到達よりかなり遅かったよね
陸続きとはいえ極寒の地 ロシアは日本の戦国時代の頃に
ようやくウラル山脈を超え始めた
だから日本の古代史にも中世史にもロシアは無関係 精強な狩猟遊牧民族がいたからな
小銃が発明されるまで手を出せなかった せめて江戸時代の間に樺太と千島までは日本領土化しておけばよかった
そうすれば石油や魚介資源など現代日本も大いに助かった なに言ってんだこいつ
千島と樺太は実行支配してたのに敗戦のどさくさで全部取られたろ >>348
おまえ歴史も学んでいないのか?
江戸時代に組み込めてないから固有の領土ではないとして千島列島も樺太も取り上げられた 北樺太は石油が出るけど、戦前の日本の需要にも全く及ばない程度の
産出量だった >>349
そんなのロシアの勝手な屁理屈で国際的には正当性は認められてない >>348
まず樺太は多民族混在で日本の影響力も南方のみ
さらに千島列島は全く
だからこそ千島樺太交換条約で新たに千島を得た
そういう状況だったから日本は北方四島を守れるか守れないかまでに境界線を撤退せざるを得なかった そう言えばこの前の地震で新潟の何処だかで地割れから石油が噴き出したらしいな >>296
遣隋使送った倭男王タリシヒコは蘇我馬子か >>354
正式の「日出づる処の天子」は推古天皇だが、タリシヒコは男性名であること、
中国は原則として女帝を認めていないことを考えると、推古天皇の代理として
聖徳太子が国書を出したんだろう
蘇我馬子は最大実力者だが、あくまで「大臣」に過ぎず、「タリシヒコ」では
あり得ない 本当にオオオミだったのかな
オオキミだったのかもよ 「王妻號?彌 後宮有女六七百人 名太子爲利歌彌多弗利」とあり、妻は?彌、後宮に600-700人の女がおり、太子の名は利歌彌多弗利という。
これが聖徳太子のことを言ってるとは思えないな
もちろん推古もありえない 隋の正式の使節は日本に来ていたんだろうか
隋の歴史書の日本国内に関する記述は伝聞による不正確なものが
多く含まれていると思うよ 裴世清は第2回の遣隋使の答礼使節か
「タリシヒコ」の名は日本書紀には記述のない第1回遣隋使に関しての
隋書の記述に出てきているんだね
第1回遣隋使については蘇我氏主導で行われたのかもしれないね
そして第2回遣隋使で日本側は堂々と「日出づる処の天子」と称した
わけか 対馬がずっと日本のものであり続けてるのが面白いというか不思議というか興味深いというか そこはシンプルでわかりやすい
朝鮮半島南部も倭国だったから必然的に壱岐対馬もずっと支配下にあった 魏志倭人伝では対馬以南は朝鮮人とは異民族であると認識しているね
古代に朝鮮南部が日本の政治的・軍事的影響下にあったのは事実だろうと
思うけど 済州島がずっと日本ではなく
沖縄は独立に近い状態でやがて日本へ
というあたりもよくわからない これを見ると百済新羅の習俗は日本に近くて尿で顔を洗う靺鞨の不潔さは併合前の朝鮮人の習俗に近そう
隋書「高句麗伝」「百済伝」「新羅伝」「靺鞨伝」を一挙紹介!600年前後の朝鮮半島諸国の文化・風習とは?【ゆっくり歴史文化探検】
https://www.youtube.com/watch?v=vRMG9vwMOMw ウンコと違って尿には雑菌が含まれてないから
不潔というのとはちょっと違う 尿に雑菌が含まれてなくても雑菌が好む養分が豊富だから貯め起きしてると腐敗してえげつないニオイになる 地図で見ると済州島は朝鮮本土からそれほどは離れていないね
済州島から見ると九州よりも朝鮮本土の方が近い
これに比べると沖縄は日本本土から本当に遠い
沖縄にとっては九州よりも中国本土の方が近いぐらいだ
江戸時代初期に島津氏に征服されるまで沖縄が独立状態なあったのは
この遠さ故だろう
そんな沖縄の人々が日本語系統の言語を話しているということは、
日本人が遠い昔から積極的に海洋進出してきた証だよ >>370
ところが済州島は耽羅国としてかなり長く保った
白村江の戦い後の混乱期は日本へ朝貢していた >>371
それは初めて知りました
済州島の歴史は興味深いね 耽羅国の言語は半島と異なっていた
今は同化して同じ言語となっているが済州方言として独特 >>370
むしろ日本語の祖語を話す連中が沖縄の方から来たんじゃないの >>375
そこは日本列島→琉球諸島の順
日本語と琉球語は稲に関する単語を共有しているため稲作開始以降の分岐となっている
ちなみに琉球での稲作はかなり遅くグスク時代の遺跡からようやく見つかる それは単に本土から稲作と共に稲に関する語彙が伝わっただけでないの?
そもそもそれ以前から琉球に人住んでるだろ >>377
本土の平安~鎌倉初期の前のまで
琉球は狩猟採種のみで農耕が遺跡から全く見たらない
その頃にようやく農耕が始まるとともに人口が増えてグスク時代が始まる
この時に初めて琉球諸島の文化圏が統一された
つまり日本列島で農耕前の縄文人がどんな言語を話していたかも明確ではないように
このグスク時代以前の琉球先住民がどんな言語を話していたかわからない
ただし南方系の言葉が少し残っていることから先住民の言語は南方系の可能性もあるなど謎が多い 縄文人が1つの言語だったかどうかすらわからないしな
東日本には広くアイヌ後の痕跡の地名が残るが
西日本には無いしな 稲作は南方から伝わった説もあったから沖縄は早いのかと思ってたけど意外だ
青森でさえ2000年以上前には稲作が到達してたらしいのに 大陸系やアイヌ系や南方系が混血して日本人の原型が成立し、それが沖縄にも
移住して先住民(高砂系?)と混血して現在の沖縄人の原型になったのではないか
沖縄の稲作が遅れたことを考えると、その移住時期は縄文以前ではないか 沖縄は気候や土壌的に稲作に向いてる方じゃないから根付くのにも時間がかかったのだろう 昔は
稲作は島伝いに南方から伝わった!
という無茶な意見を信じてる人もいた 少なくとも今の沖縄人には台湾原住民のDNAの痕跡は全くというほどみられないらしい
不思議な話なのだが 日本語の語彙って農耕と共に伝わったのかな
それにしては大陸系の言葉と音素からして違うが 城壁と稲作と日本語(系)を広めたグスク時代に
先住民の言語も駆逐されたのだろう >>387
大陸にどれだけ多様な言語があるか理解してるのか?
シナ・チベット語族
ミャオ・ヤオ語族
オーストロアジア語族
タイ・カダイ語族
朝鮮語族
チュルク語族
モンゴル語族
ツングース語族
古アジア諸語
エニセイ語族
ニヴフ語族
ユカギール語族
チュクチ・カムチャツカ語族 >>390
稲作との繋がりで考えたらもっと限定されるだろ 稲作をもたらした民族と倭の支配権を握った民族が同じとは限らない
むしろ世界中を見ても稲以外を見ても
もたらした民族は別 朝鮮や華北に比べると日本人の遺伝子は多様だそうだ
朝鮮や華北の方が異民族の殺害が徹底して行われたんだろうな いやその辺を追われて流れて来たのが吹き溜まった結果じゃね それでも中国も朝鮮も混血しまくった結果成立している
もちろん日本はさらに多様な混血の結果
したがって例えば
・稲をもたらした民族
・日本語の核をもたらした民族
・倭を支配権を得た民族
それら全て異なる可能性も大いにある 岩波新書の「日本人の骨」では縄文人の子孫が弥生人になったと述べているね
古代日本の支配者になった人々は、いち早く稲作文化と大陸文化を受け容れた
縄文人出自の人々ではないかと思う >>387
たぶんそう
日本語において農耕関係の語彙は稲作関係の語彙より成立が古いとされて
日本語の元になった言語を話してた民族は稲作の前にひえやあわなどを栽培していただろうと推定されてる
西遼河流域で日本語と朝鮮語の元ができて、その民族がが日本列島に上陸
その民族が稲作と出会ったのは西遼河流域〜日本列島のどこかということになるが
おそらく朝鮮半島南部にいるとき
https://note.com/way_finding/n/n8cbcfaae3dfa
日本語と朝鮮語の祖先が西遼河流域にあり半島を経由して来たというシナリオは土器、遺伝子、比較言語学全てが裏付けてて
海外の研究は概ねそうだろうという方向
日本と韓国の学会はどちらも歴史的経緯から日本語と朝鮮語は同一起源って説は嫌がってるみたいだがw とても重要な基礎知識
「言語はすぐに変化して変わっていき分岐してしばらくすると互いに通じ合わなくなる」
具体的に世界最大のインド・ヨーロッパ語族を例にすると
この祖語を話していた集団は8700年前
つまりわずか8700年間でインド語派やイラン語派やスラブ語派(ロシア語等)やゲルマン語派(英語等)など無数の言語に分かれた
つまり15000年前の縄文語を受け継ぐ言語があったとしても全く異なるものになっていても不思議ではない 一時期トンデモ縄文語が流行ったらしいが学術的には縄文語について何もわからないらしいね つまり縄文語は日本語なのか?を議論するのは全く無意味なんだな
インドヨーロッパ祖語がその子孫である英語ロシア語イラン語いずれとも異なるように 縄文語の石板記録でもあれば
日本語と同系統の言語かどうか研究の余地がある
しかし記録も文字も残っていないから妄想議論しかできない アイヌ語と日本語は系統が違うらしく
じゃあアイヌ語って縄文語と近いのでは?とかおもったりするが、何も言えんらしい 縄文時代は11000年間あるからね
>>399の印欧祖語が現在のバラバラの言語になった時間を超えて経ってる
そしてそこからさらに5000年後が現在 自分は縄文時代には日本人と日本語の原型が出来上っていたような気がする
もちろん稲作をもたらした大陸の人々や古墳時代以降の帰化人の流入はあった
でも言語が一変するような征服があったとは考えづらい
出雲の国譲りの話は平和的だし、出雲大社が現存している
熊襲討伐だって、熊襲を服従させつつ、熊襲の存続までは否定していないだろう >>405
じゃあアイヌ語の存在とアイヌ語による本州の地名の立場は? アイヌ語の本州地名とかこじつけもいいとこの眉唾論じゃん 〇〇内とかの地名のある北東北は征服されたんだろうな
ただし、古代の蝦夷=アイヌではないらしいね
古代の蝦夷は稲作もやっていた
アイヌは明治まで狩猟主体だからな 大和政権は基本的に戦争が弱いから
謀略や政略で各地を治めていった 大和政権による北九州〜瀬戸内の征服の話がないのが不思議だね
当時は関西の次に重要な地域だったはずなのに >>401
印欧語の基礎語彙は言うほど変わってないし
変わっててもかなり規則的だぞ
だから印欧語族という概念が発見されたんだし >>411
英語もロシア語もイラン語も似てるってことかね 旧高句麗領の地名付け替え記録から
高句麗語らしきものが一部のみ判明しているが
数詞など日本語そっくりで韓国語とは似てる部分なし >>412
英-ラテン-ロシア-ペルシャ-ヒンディー
one-unus-odin-yek-ek
two-duo-dva-d?-do
three-tres-tri-se-teen
four-quattuor-chetyre-ch?h?r-chaar
five-quinque-pyat'-panj-paanch
yek-ekのとこ以外はほぼ規則的な変化 古代〜現代に朝鮮語は日本語よりも激しく変化したらしいね
もっとも日本の室町時代にハングルができるまで表音文字を持たなかった
朝鮮ではハングル以前の状況を知るのは困難だろうが 13世紀に北から流入したエベンキと女真族の混血民だから
昔のそれとはまったく異なるはず 数詞の判明分
【判明分】 3 5 7 10
【日本語】 mi itu nana towo
【琉球語】 mi ichi nana tu
【高句麗】 mil utu nanun tek
【韓国語】 seis tases ilgop yel 古代朝鮮語の方が現代朝鮮語よりも日本語と共通点が多かった
という説もあるね >>405
>出雲の国譲りの話は平和的だし
建御名方「」 経緯は何であれ出雲大社が残ってるのは不思議ではないな
征服した相手の神も否定するというのは一神教の発想にすぎん >>420
出雲大社を作ったのは征服したヤマト側
代々の神主である出雲国造もヤマト側の人
怨霊封じのためだ 天満宮だって菅原道真の怨霊を封じるために藤原氏が壮大な社殿を作った 当時の人々の考え方は
非業の死を遂げた敵は怨霊となって祟るため
その怨霊を封じるために神として祀りそのために社殿を建てている 隼人塚もヤマトが隼人を征服した時に怨霊が祟らないように建立したようだ >>427
それは怨霊が祟る思想がなくなった時代だね
しかも殺した相手ではないね >>423
>>430
おまえら日本史の基礎知識すら知らないやつはこのスレから出ていけ
中世までは怨霊で歴史が動いている >>429
せっかく平城京から長岡京へ遷都したのに
早良親王の怨霊が祟り続けるため
やむをえず長岡京を捨てて
平安京への遷都したのが京都の始まりだもんな 中村真理子の「天智と天武」めちゃおもろいよ
怨霊信仰の話も興味深かった 明治維新で日本人の生活がガラッと変わったけど異民族には支配されてない 中国の歴史みたらわかるように
異民族国家同士の戦国時代や乱立時代を経て混血していってる
混血の度合いが更に高い日本でも古代までにそういうことを経ているはずだ 中国では出雲大社のように敗者を祀る宗教施設なんて聞いたことがない
中国では敗者は徹底的に痛めつけられ、その痕跡すらも残させないのが一般的
出雲大社などがある日本は中国よりも敗者も存続を許される平和的な社会だった
と思うよ 大和政権は戦争が弱いのもあったけど
例えば東北の蝦夷などは同化政策
宥和政策も使い殲滅戦はしてない
最終的には首領を騙して処刑した 祟りとか怨霊を怖がる文化なんだろ
平将門等お上に弓引いた賊も神として祀られてる >>438
殲滅していないだけで平和ではないぞ
日本でも武力で戦いで統一していった 安倍さんも神として祀らないと日本の不幸が終わらない 吸収していったが正解じゃね
為政者と住民を別物と考えて為政者は滅ぼしても住民と土地をセットで吸収する
ただ住民には前の為政者の記憶は残ってるから神様として取り込んでいくパターン >>443
それは世界史ほとんどの帝国で同じ
為政者層だけ殺して一般住民はそのまま吸収 >>444
西洋の場合は前の神様を悪魔にしてしまって文化的レイプが行われてるけど
それが日本の場合なんとなく吸収して神様が増えていってる感じがする 大和朝廷は3万の大軍を朝鮮に送るも大敗してほぼ全滅
坂上田村麻呂に4万の軍勢を与え
東北征伐に向かわせるも戦闘では殲滅できずと
とにかく弱い >>446
記紀ですら熊襲相手に女装して近づき酒飲ませて騙し討ちしてきたことを記録してるもんな 中国では征服された王朝の関係者は殲滅され、生き残った者も社会の最下層に
落とされる
それに比べると、日本は権力闘争に敗れても、地域の有力者としての存続は
認められることが多い
出雲の国譲りの後も出雲国造として出雲大社の宮司につながっているとか、
関ヶ原の後も島津氏や毛利氏が大藩として残っているとか 関東の毛野国や蝦夷や熊襲は
数百年以上存在してた
それは戦争が弱いのもあるが
倭国は西日本と朝鮮半島で精一杯だったというのが大きい
というか倭国の範囲は西日本~朝鮮半島だから 稲佐の浜で大国主命が抗議自殺したってのが富家の伝承だから
怨霊こわい古代人はさぞかし恐怖だったろ
富家ってのは出雲大社の信徒でご先祖がなんと大国主 >>445
西洋と日本というより一神教と多神教の違いだろ >>448
それはウソ
中国でも異民族を取り込んで混血してやってきた
例えば隋の煬帝と唐の高祖は従兄弟で祖父は匈奴系で鮮卑重臣の独孤信 庶民というのは誰に支配されても気にしない
漢民族は長く満蒙人に支配されてたし
江戸の庶民も徳川から薩長に支配者が変わっても気にしない >>452
それなら出雲大社のようなものが中国にもあるのか示してみなよ
日本は藤原氏は近衛家などとして今でも続いているし、足利氏も子爵家として
残っていた。中国でこんな例があるか? >>454
論点をすり替える君は愚か者
君がウソを書き込んだから
事実>>452を示した 出雲大社は異民族の神社じゃないし
藤原も足利もずっと日本の支配者層だからじゃんw 日本は徹底した世襲社会で支配者層が変わらないからな
いまだに天皇と公家と薩長の末裔がお上 白村江の戦い
朝鮮出兵
明治維新
太平洋戦争敗戦
この4つが日本史上に置いても特に大きい出来事だからね
歴史のifとしては白村江で大勝してたら
日本国は存在してないし
東北や北海道は別の国だったかもしれない 半島には固執していても
南九州には全く興味がなく
日本書紀で隼人が朝貢し出すのは白村江の戦いより後
その後も隼人の反乱があり平安時代にようやく隼人を完全征服できた 当時の交通事情考えたら北九州から南九州行くより半島行く方が楽だもんな >>456
論点をすり替えてるのはお前だよ
隋唐の中国としては例外的な話を持ち出して、ごまかしているだけやん
中国には敗者への残酷な仕打ちを表す話が無数に残っている
とても日本の比ではない
例外的な話を持ち出しても、それを否定することはできない ただし鹿児島県にも前方後円墳があり
少なくとも一部エリアを少なくとも一時期は支配していた
一方で青森県・秋田県・岩手県(最南端を除く)・山形県北部には前方後円墳がない
そこには別の民族が住んでいた 別の民族というより別の文化圏もしくは別の国だったんでしょ 白村江の戦いがなくても日本国は成立していたよ
「日出る処の天子」の国書を送った段階で、日本には冊封を潔しとしない
独立国としての気概があった >>467
違うよ
遣隋使を送った隋や唐は>>452にもあるように北方民族系の国家
つまり倭としては対等な立ち位置を自負していた >>468
煬帝は日本の国書を見て「蛮夷は無礼だ」と激怒した
しかし高句麗遠征に日本の協力が必要だと考えて強硬措置は控えた
隋唐は血統は鮮卑系だったが、日本に対してはあくまで中華としてふるまった
聖徳太子は隋の血統が鮮卑系であることを果たして知っていただろうか >>469
もちろん知ってる
倭の五王が朝貢した相手は漢民族の南朝
そしてその南朝を征服して中華統一したのが鮮卑系の隋 世界史的に隋唐を征服王朝とするのは一般的じゃないから 秦だって当時の華人からすれば中原じゃない
蛮族だろ 明→清と王朝交替した時、日本の儒学者たちは清を夷狄とみなしたが、
飛鳥時代の日本人にその意識があったとは思えないね
隋の出自が鮮卑であることも日本側が知っていたかどうかは疑わしい
当時の隋は東アジアの超大国
その隋と対等の国交を目指した聖徳太子の見識は素晴らしい 出自とかどうでもいいだろ
大国とは敵対してもいいことないんだから、なるべくいい関係を築くだけだ 朝鮮半島から来た大和政権は
ずっと領土を待つ朝鮮半島の動向と
その後ろにいる大国
隋唐のことを気にしてた
なので東北や南九州なんてしょぼい土地のことは後回しになってたのはある 中国では王朝が交代するたびに人口が半減してきたのは事実 それはデマ
混乱期に調査の網羅ができなかっただけの話 >>79
すぐに観たい人ばかりになる為に公文書を何千か所も晒しちゃうし
等身大のあれを今時のゲーム差無し優勝が気持ちよくなったな ゲームもアホだろうし
はご ころもきせぬ 他なんかあるのか 言うてまた掘ってまた出資せなアカンの?
高卒と同じ
おーすげー
ほんのり甘めのくるみパンすき
ミスチルヲタが来るたびに全部引いてるやつすごいと思うが他人に乗っかってダサw >>489
反米の人は負けた
ところで中国による台湾支配は遅くて江戸時代なんだな
しかも平戸生まれの日中ハーフ田川福松が台湾を最初に治めた 調べてみたが非常に面白いな
田川福松(中国名:鄭成功)は1624年に肥前国松浦郡の平戸生まれ
父は鄭芝龍(カトリック洗礼名Nicholas)
母は田川マツで平戸藩士・田川七左衛門の娘
1644年に中国で明が滅ぶと
父の鄭芝龍らは亡命した明の皇族を擁立し隆武帝を立てた
田川福松は父の紹介で隆武帝に謁見し気に入られる
しかし隆武帝は清を倒すための北伐が失敗し殺された
一方で田川福松の弟・田川七左衛門(父と同名、中国名:鄭宗明)は
長崎で商売が大成功し兄・田川福松への資金と物資援助を行なった
1658年に田川福松は清を打倒するため北伐軍を起こすが南京で大敗
そこで当時オランダ(東インド会社)領の台湾を拠点にするため攻撃
1662年に田川福松はオランダ軍を排除し台湾で政権を築いた
そのため今も台湾で田川福松は台湾人の象徴「開発始祖」「民族の英雄」とされている そういえば台湾は国もなく歴代中国へ朝貢もしていなかったよな
なぜだ 首狩り族しか住んでないような蛮地とされてきたからじゃないか
北センチネル島みたいな扱い
海から急峻な山が立ち上がり耕作地も作れず危険冒して侵略しても旨味がない
大航海時代に鉄砲と大砲持ってポルトガル人が上陸して台湾の歴史が始まる 台湾は凶暴な民族4つくらいがしのぎの削り合いをしてた
同じようなポジションなのに琉球は平和理に統治されてたので何の影響でこんな違いが出たのか不思議 台湾は一つのでかい島だけど
琉球は細かい島の群島じゃん さすがにこのスレでも300年ぐらいから538年の仏教伝来の間に何があったのか語られることはないね 倭国が東北や九州に関心を示さず
朝鮮半島に固執したのはその先に広大な土地があること知っていたから
中国が台湾そして沖縄や日本にさほど関心を示さなかったのは
西に南に北に広大な土地があるから 中国が島国に関心がなかったのは広大な土地があるってのもそうだけど、海を越えた先の統治が容易ではないとわかってたからだと思う 中国って明代まで陸軍国だし
水軍って維持するだけで大変だからね 中国が台湾を領有していたことはなくて
ポルトガルが征服するまで複数の未開部族が支配する島だったわけか >>501
南宋はモンゴルの水軍にやられたぐらいだからなw 海洋国家なら台湾も意識するだろうが
あの頃の支配する民族が入れ替わる中国が
台湾なんて気にしてなくても仕方ないな >>504
でも常に朝鮮半島と西域とベトナムを意識していたよ 台湾だけでなく琉球も朝貢こそすれ完全放置
小さい島でその先に肥沃な大陸がないことがわかれば当時としては意味のない土地 でも琉球には皇帝からの使者を派遣して琉球で出迎えてたよな
台湾は? 長崎の出島に来てた白人や、それ以外の漂着者みたいのとの子供も実は結構生まれてると思うから、日本人の中にヨーロッパの遺伝子持ってるのもけっこう混ざってると思ってる >>508
それは琉球が朝貢してきたからお返ししただけでしょ
朝貢しなくてもやっていけた台湾は本当にのんびりやってたのかもな >>492
その時に台湾は日本に軍事援助を申し出たとwikipediaにあるな
ただし日本は江戸時代に入って鎖国なので断ったそうだ
ここで協力しておけば台湾が中国の領有となる前にチャンスだったな 信長か秀吉の時代なら台湾を手中にしてたか
鎖国はクソだ >>509
その通りだよ
わずかだけどいるにはいる 日本で一番白人遺伝子を受け継いでるのは秋田県、次いで長野県なんだよなー
秋田は渤海城柵で説明つくけど長野はなんだろうね
中世以前に記録の残らないなにかあって
山間部だから他所と混血しないで因子が残されたとか 三内丸山遺跡は紀元前3000年頃
そこで長野県の黒曜石が出土したほか
全国各地と交易していたことがわかってる
長野にもそれなりの部族社会があったのは確かだが
縄文人たちも我々の想像以上に陸路海路でダイナミックに移動していた 遠距離で直接交易してたんでなくて物々交換の数珠繋ぎでそうなっただけ
今は縄文人が均質的な集団じゃなかったことがわかってきてる フトシの日出ずる処に天子ありは単に中華より東にあるからそう表現した説もあり
それを中華は自分の国がやばいから斜陽と解釈しもう怒ったゾー!したらしい オリエントもアジアも原義は日出づる処だから
実際その通りだろ >>519
アジア以外もしくは東アジア以外の人たちにとっては東だからそう
中国にとっても倭が東であることは認識してたから『日いずる処』は問題ない
問題は『日没する処』
これは倭から見たときのみ中国が西になる
中国にとって中国が西という感覚は当然ない
西域が『日没する処』だ
すると『日没する処』を方角とは受け取れない
斜陽の意味になる 2世紀 7世紀
大陸(満州) 朝鮮族 混血(漢族+朝鮮族)
↓移動
半島 弥生族 混血(弥生族+朝鮮族)
↓移動
列島 縄文族 混血(縄文族+弥生族)
ざっくりこういう理解 20万年前にアフリカで誕生した現生人類(ホモ・サピエンス)は、7万〜8万年前に故郷・アフリカを離れ、世界各地へと広がっていった。旧約聖書に登場するモーセの「出エジプト」になぞらえ、「出アフリカ」と呼ばれる他大陸への進出と拡散で、西に向かったのがヨーロッパ人の祖先、東に向かったのがアジア人やオーストラリア先住民・アボリジニらの祖先となった。
縄文人は、東に向かった人類集団の中でどういう位置づけにあるのか。「最初に分かれたのは、現在、オーストラリアに住むアボリジニとパプアニューギニアの人たちの祖先です。その次が、縄文人の祖先だと考えられます。しかし、縄文人の祖先がどこで生まれ、どうやって日本列島にたどり着いたのか、まったくわかりません。縄文人の祖先探しが、振り出しに戻ってしまいました」
アフリカを出た人類集団が日本列島に到達するには内陸ルートと海沿いルートが考えられるが、縄文人の祖先はどのルートを通った可能性があるのだろうか。「海沿いのルートを考えています。大陸を海伝いに東へ進めば、必ずどこかにたどり着く。陸地に怖い獣がいれば、筏で海へ逃げればいい。海には魚がいるし、食料にも困らない。一つの集団の規模は、現在の採集狩猟民の例などを参考にすると、100人とか150人ぐらいではなかったかと思います」と斎藤教授は推測する。
https://i.imgur.com/xZ5JHl6.jpg
アボリジニの古代から伝わる楽器ディジュリドゥの演奏
https://www.youtube.com/watch?v=pxGXzDG58xs
アイヌのムックリの演奏
https://youtu.be/Pvv6xzfLyT8?si=7OvfJV1zPWFMvqmJ&t=45 >>525
それY染色体の父系のみ
ところが遺伝子全体で見ると
日本人の遺伝子に縄文の比率は1割しかない
これはどういうことかというと
縄文人よりそれ以降の渡来人が圧倒的に多いのに
男系子孫を日本人に広めたのは縄文男系となる
男系子孫を広めたのは
天皇家と藤原氏 渤海国の主力は旧高句麗にいた
高句麗が唐新羅連合に敗れてから成立 >>527
最新の研究だとそもそも現生人類発祥の地はアフリカじゃない説が唱えられてる 男系縄文人の遺伝子であるY染色体のD1a2a系統は
本土の日本人の3~4割を占める
琉球人の5~6割を占める
アイヌ人の8~9割を占める
日本以外では
ミクロネシア人の6%を占める
朝鮮人の4%を占める
北京の漢族の2%を占める
中国人全体では0.1%未満 >>532のD1a2a系統は約2万年前に日本列島で誕生(=この系統を特徴づける突然変異が発生して子孫に伝播)
つまり縄文人の極一部は朝鮮半島および中国北部、ミクロネシアへ進出した
アイヌ人は極一部だけ北方民族と混血したがほとんど縄文人
日本人は渡来人と大幅に混血して縄文比率が低い >>536
アイヌの9割がD1a2a
つまり縄文人の子孫であることが科学的に確定済 9割が縄文男系のアイヌ人と
3割が縄文男系の日本人と
どちらが縄文人に近いかは明らか 岩波新書の「日本人の骨」は縄文人=弥生人の立場だね
自分はこの方が説得力があると感じる
縄文時代には大陸系+アイヌ系+南方系で日本人の原型はできあがっていた
のではないか
もちろんその後の稲作をもたらした人々、古墳時代以降の帰化人の流入は
当然のこととして 果たして縄文人だと思ってたのが本当に縄文人だったのか
なんてことに将来なる可能性は無い? >>540
そういう遺伝子を無視した論はすべて潰れた
現実は>>532だった >>543
縄文人は皆Y染色体のD1a2aを有していたのか?
ちょっと考えられないね
縄文人の何割かがD1a2aを有していたというなら理解できるが >>544
D1a2a以外に縄文時代にいたのはC1a1とC2系統
C1a1とC2は現代日本人な数%ずついる
アイヌはC1a1はいなくてC2が1割くらい その後に
弥生時代にやってきたO1b2系統
古墳時代にやってきたO3a2c系統
この二段階が渡来系の主力と判明してるね 南洋形質のみだと脳容量の肥大化が望めまへんのよ
タイ王国にならんくてよかったやねー ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています