【御同朋】浄土真宗(真宗)総合サロン108
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浄土真宗(真宗)系の全宗派の話題を包括して取り上げる総合スレの第107弾です。
「どうして浄土真宗では○○をしてはいけないの?」という素朴な疑問から
批判・要望、各宗派を取り巻く諸問題、教義・教説、堂宇・荘厳、
全国各地の真宗寺院・念仏道場・説教所に至るまで、ありとあらゆる話題を取り扱います。
阿弥陀如来から見ればみな罪悪生死の凡夫。楽しく語らいましょう。
浄土真宗各派の情報交換の場としてもご活用ください。
真宗大谷派・東本願寺系諸派総合スレッド Part56
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/kyoto/1596777323/
前スレ
【御同朋】浄土真宗(真宗)総合サロン106
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/kyoto/1635059788/
【御同朋】浄土真宗(真宗)総合サロン107
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/kyoto/1641332231/ まぁ、なんだその
おそらくネタだろうが完全に論破されているのに「僕ちん論破されてないんでちゅー」は
かなり痛い奴だわな 米伝道師、ウクライナ侵攻はイエス・キリスト再臨の兆しと主張 3/9(水) 6:45配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/164640ef54dbea682dbca2757a60e4db5f0798f9?page=1
数千年にわたり、キリスト教終末論の信者たちは、かなり強引な方法で時事問題とキリストの再臨が近い証を結びつけてきた。
彼らは、『エゼキエル書』、『ダニエル書』、『マタイによる福音書』といった旧約聖書の預言書や新約聖書の『ヨハネの黙示録』の預言的なことばを引き合いに出しては、ありとあらゆる理論を構築した。
↓
この記事で言及されている部分が集められていたスレ
↓
聖書の記述と近年の出来事の一致点まとめ
http://egg.5ch.net/test/read.cgi/shugi/1627904338/
日経平均株価にアララト山の山頂が描画されている
http://egg.5ch.net/test/read.cgi/shugi/1576318170/
聖書以外の経典も含めた凶兆まとめ
http://fate.5ch.net/test/read.cgi/watchbakusai/1620970690/ 反論が無いくらい見事な論破だったな
↓ ↓ ↓
994名無しさん@京都板じゃないよ2022/03/20(日) 21:14:18.70ID:STXHbjkx0
坊主の宗教体験が一番胡散臭いわw
偽仏教の大乗経典に基づいた宗教体験なんて偽の宗教体験に決まってるだろw
ハイ論破w 阿弥陀如来は信者に対して「みんなのことを救うから私のことを信じて!」とか思ってるんだろうな。 お彼岸のお座に行ったら、本願寺ではウクライナの難民支援を始めるのね
とりあえず募金してきたで 阿弥陀如来なんていませんw
嘘つきたちが作った偽経典の中に書かれる嘘仏なのでw
ハイ論破w カッコつけて大乗ごっこなんかせんでええんやで
一人の人間ごときのやることなんて小乗で十分なんやで
遠くの大乗より近くの小乗やで
まずは小乗を極めんとな 日蓮正宗の迷惑な勧誘(折伏)を一般常識で撃退しましょう。
日蓮聖人によれば「正しい法華経を実践すると
成仏の相(死後硬直が無い)現証が発生する」と説かれています。
日蓮正宗信徒は勧誘時に「日蓮正宗信徒の遺体は白く死後硬直が無いのを見た、
これは日蓮正宗のみが正しい証拠であり、他宗は死後硬直が有るので地獄に堕ちた証拠」と発言します。
また日蓮正宗寺院・法華講員のHPに日蓮正宗信徒には死後硬直が無い、難病が完治したなど妄想体験談が掲載されています。
皆さん確認して下さい、死後硬直無いと言う事は法医学を覆す出来事です。
日本医師会にも日蓮正宗のみに死後硬直が無いと言うエビデンス(証拠・根拠)は存在しません。
病院で処方される薬は、医学会においてエビデンス(数多くの比較試験で効能が実証)され承認・処方されます。
エビデンスに基づかない偽薬は処方されません。
勧誘を受けたら
「日蓮正宗と他宗の比較が必要です。仲間内の体験談で無く、日蓮正宗のみに死後硬直が無いと言うエビデンスを見せて下さい、
それまでは連絡をしないで下さい」と断りましょう。
法華講員は「私が見た」「医者が言っていた」などレベルの低い回答で逃げ出しますので、「それは偽薬です」と一笑しましょう。
医師学会の公的データが有るのか否かが大切です。
日蓮正宗住職、法華講員は大聖人様の成仏の相を信じていません。
本当に信じているなら本山を上げ命懸けでエビデンスを求めるでしょう。
医学会で認められれば日蓮正宗が正しい証明となるのですが、残念ながら成仏の相は偽物だからです。
宗教に関係なく死相は誰も穏やかです。「日蓮正宗だけ」は無知です。
コピペ拡散希望です。 > カッコつけて大乗ごっこなんかせんでええんやで
> 一人の人間ごときのやることなんて小乗で十分なんやで
> 遠くの大乗より近くの小乗やで
> まずは小乗を極めんとな
親鸞も弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、 ひとえに親鸞一人がためなり、って言ってるしね
そこは真宗の大事なとこだ その通り。すべてを救う仏でないとこの私が救いから漏れる。
弥陀の願、すべてを救う願た゛から私もその救いの中にいる 阿弥陀如来は信者に対して「みんなのことを救うから私のことを信じて!」
とか思ってるんだろうな・・・・・・その通り
おまえは他の仏の救いからもれているから阿弥陀仏が救うと言っている。 阿弥陀如来なんていませんw・・・・その通り
この世には阿弥陀如来しかありません。 >>12
ん?どう言う事?
結局阿弥陀仏は「阿弥陀仏を信じていない人間も救う」と言う事でしょうか? その通り・・・・仏を信じていない人間には菩提心がない
菩提心無き者は救われない、仏になろうという菩提心すなわち願いが必ず必要です 阿弥陀経の中に説いてある通り
諸仏の教えを聞いて信じ発願し仏国に生まれたいと願う者は悟りを得る と説かれている 舎利弗、衆生聞かん者は応当に発願し彼の国に生れんと願うべし・・・・・
阿弥陀仏を説くを聞いて、名号を執持すること・・・・・
是の諸仏の所説の名及び経の名を聞かん者は、是の諸の善男子・善女人、
皆一切諸仏と共に護念する所と為り、皆阿耨多羅三藐三菩提を退転せざることを得。・・・
若し人有りて已に発願し、今発願し、当に発願して阿弥陀仏国に生れんと欲はん者は」
是の諸の人等、皆阿耨多羅三藐三菩提を退転せざることを得て彼の国土に於て、
若は已に生れ、若は今生れ、若は当に生れん・・・・ これらすべてをまとめると、次のようになります。
まず諸仏の教えや仏の名を聞けば、皆例外なく諸仏に護られる身となり、名号を執持する身となり
発願して退転せざる身となって仏の国に生まれ阿耨多羅三藐三菩提を得る身になるのを信じなさい。 信じるというのをどこに入れるのかが問題ですね。
1教えを聞いて信じた者は・・・・・このようになる。
2教えを聞いた者は・・・・このようになる というのを信ぜよ。
1の場合は信じることが条件の一つになる
2の場合は信じることが条件とならない 至心、信楽、欲生って三心釈が示されてるよ
つーか諸行をひま無く、諸法が無我に行じられてるのが分かったのでそれをその回向の数から阿弥陀と名付けた、って順番であってさ
インストラクターを信じたけど痩せられなかった、信じて痩せた、信じてなかったけど痩せた、信じないので痩せてないみたいな信はそもそも仏や如来に対する態度として成立してない、雑行雑修って呼ばれるものだよ >>15
では阿弥陀仏を信じて「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えても「仏になろうとする菩提心が無ければ救われないし(往生浄土しない)」と言う事でしょうか? 至心、信楽、欲生って三心釈・・・その通り
そして結論はその心は仏の心であって衆生の心ではないと結論。
「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えても・・・その通り
唱えるという字をなぜか使わず称えるという字を使ってハカリしると書いている
法然上人であれば三心を衆生の心とみて真実の心で信じ浄土に生まれたいと願って
念仏を唱えると説くらしい。もしその心がなくても念仏を唱えれば自然と三心がそなわる
とも言っている。 >>22
ん?どっちなん?
阿弥陀仏を信じて念仏を唱えても仏になろうという心が無ければ救われないの?
阿弥陀仏を信じて念仏を唱えたら自然と救われるの?
どっち? ここで問いに答えている真宗関係者ってさ、決まりきった学問しかしてなさそうだから、
経験したことのない問いには答えられなさそうだよね。
例えば、高校の定期テストや大学入試の傾向と対策ばかり勉強して点は取れているけれど、
ちょっと捻った問題には全然答えられない高校生みたいな。 ネット世界と現実は必ずしも同じではないという事実
昨今の人間性は、即れすネット文化と物流高速社会に
慣れ過ぎて、辛抱と時間をかけるゆとりが無くなってきた
という事実
何より...
ココは5ちゃんだ、という事実... > もしその心がなくても念仏を唱えれば自然と三心がそなわる
> とも言っている。
それはなぜかといえば、如来や菩薩とは衆生には畢竟必ず三心がそなわるものだと信知しているものだから
法然さんの念仏は善導流、内容は五念門だし
不果遂如来 不取正覚、果遂の誓いに帰依することがセットだよ、機の善悪に心をかけて礼拝しないことがそもそもの謗法だわ、という親鸞は和讃にしてんね >>26
その三心は必ず備わる物なら>>15「仏を信じていない人間には菩提心がない 」これをどう思いますか?
三心と菩提心は別物かもしれませんが >>25
現実の僧侶は文明の利器に頼らず歩いて時間をかけてお参りに行っているし、
インターネットの発達した昨今でもネットを利用せずに布教活動しているから褒めたたえるべきだよね! 数百年前に理論が完成しているはずなのに、今だに質問が飛んできてそれにこたえられないってことは、
実はまだ理論が未完成なんじゃないかと思うわ。
少なくとも、阿弥陀如来は全ての人間を救うとか言ってるのにいろんな宗教が存在して救えてないんだから
阿弥陀如来はどんだけ怠けてるんだと思うわ。 >「仏を信じていない人間には菩提心がない 」これをどう思いますか?
基本的にそういうのは同語反復なんよ
例えば一切衆生悉有仏性、ってあるでしょ
「全ての衆生、人間も草木にも法性を喜び、仏願に随順する「仏性」がある」っていう、涅槃経とかにある大乗仏教の合い言葉みたいなもんだけど
この言葉は「唯除一闡提」、「唯除五逆、誹謗正法」という言葉と真面目系の浄土教ではずっとセットになってきたものなんよ
「仏の法を誹謗し、自らの仏性に逆らう者」は、「法性、仏法を喜び仏願に随順する気持ちがある者」のうちには入らないよ、というのは至極当たり前のことを言ってると思わない?
仏智を喜ばない、如実や事実を喜べない者に、仏智を喜び、如実や事実を喜べる心があるとは言えない。
仏、目覚めを信楽する心が菩提心なんだから、菩提心の無い人に菩提心が無いのは当たり前でしょう
仏を信じるというのを、自分の自覚したいという気持ちを信じる、ということに置き換えてみるといいよ
仏、ブッダってのは自覚とか目覚めって意味の言葉なんだから >>29
阿弥陀如来は今すぐ救うとは言ってないからその主張は誤ってるけどな
そういう返答をもらっても無視したりすぐ忘れたりするんだろうけど 還相回向というけれども
仏になると我々に具体的にどんな回向してはりますの?
じいさんばあさんが往生してから
なにか具体的にお仕事されてる気がしないのですが? じいさんばあさん
彼岸を渡った瞬間
家族の記憶も消えてしまったんじゃねーのかな?とw
お浄土がもし存在してたら回向なんてしないで好き勝手なことしてるだけだとおもうわ 生きてる間は
おもうがごとくたすけとぐることありがたし
と宗祖は言われるが
お浄土にいったじいさんばあさんは思うがごとく助けられる能力あるのかな?と
ぜったいないわw >>30
いやそうじゃなくて三心ってのが必ず備わるものと書いていたので「菩提心がない」ってのが矛盾してる気がした訳です
阿弥陀仏を信じて念仏を唱えても仏になろうとする心が無ければ救われないと言うのは本当ですか?
阿弥陀仏を信じる事により救われると言ってる人もいるし
菩提心が無いと救われないと言ってる人もいるし
どっちなのかだけでも教えて欲しい >>35
菩提心がないと行による果は得られないよ、仏教ではそう
三心を具すと浄土の大菩提心を具すからね
でも自力の菩提心はいらないってのは法然上人もいってるね 無量壽経によると阿弥陀仏が誓われた48願のなかに、衆生の往生を誓われた願が
3つ有ります。19願と20願と18願
この19願には阿弥陀仏が十方の衆生は菩提心を起こしもろもろの功徳を修し
至心発願して我が国に生まれんと欲す・・・・ >>36
だからそれだと矛盾しませんか?
・三心は必ず備わる
・三心を具すと菩提心が備わる
であるならば菩提心は必ず備わると言う事になりませんか?
「仏を信じていない人間には菩提心が無い」とはどう言う状態なのでしょうか?
真宗の人は「阿弥陀仏は全ての人を救う」とか「三心は必ず備わる」などと言っておいて
後になって「その場合は救われない」とか「信じてないなら菩提心が無い」と覆してくる事が多いね 質問というか雑談というか、
浄土宗って何のために存在してるんですかね?
法然上人の教えを親鸞聖人が正しく受け継いだものが真宗
親鸞聖人以外の弟子が曲解して受け継いだものが今の浄土宗
じゃあもはや浄土宗って邪教じゃないですか
法然上人もお嘆きになられてる事だと思いますが 菩提心とはどういうものかの定義からして様々だから。
大乗仏教において一般的に言われる菩提心は悟りを求め、獲得したいと願う心。
源信『往生要集』上巻によると、
菩提心は、これ浄土菩提の綱要なり。 ゆゑにいささか三の門をもつてその義を決択せん。
行者、繁きを厭ふことなかれ。 一には菩提心の行相を明かす。 二には利益を明かす。
三には料簡せん。
初めに行相とは、総じてこれをいはば願作仏心なり。 また、上求菩提・下化衆生の心と名づく。
別してこれをいはば四弘誓願なり。 これに対して、今生において四弘誓願のような菩提心を発こすことが出来ない凡夫が
如来の本願に乗じて往生すると説くのが法然。
法然は菩提心を含む諸行を往生の行とせず、念仏のみを往生の行とした。
仏道の根基を菩提心であるとする高弁は『摧邪輪』において「菩提心を撥去する過失」を
あげて法然を批判したが、「浄土宗のこころは浄土にむまれむと願ずるを菩提心といへり」
(『三部経大意』)とする法然と、菩提心に対する受けとめ方が違うことが良くわかる。 また『漢語燈録』「逆修説法」において、散善(三福九品)の三福を解釈する中、
「いま浄土宗の菩提心は、先ず浄土に往生して一切の衆生を度し、一切の煩悩を断じ、
一切の法門を悟り無上菩提を証せんと欲する心なり。」とする。
そして、上品下生の所で、経に「但発無上道心」と説かれるのは、菩提心の往生であると言い、
菩提心について、各宗の不同なることを示し、「善導の意は、自ら先ず浄土に生じて
菩薩の大悲願行を満足して後、還りて生死に入りて、遍く衆生を度せんと欲す。即ち此の
こころを以て菩提心と名づくなり。」と言う。 >>38
三心は必ず具す、がおかしいんだな
念仏唱えれば必ず三心を具す、とは少なくとも親鸞さんは言ってないね 諸宗の説く菩提心はそれぞれ相違があれど、皆此土でのこと。
浄土宗の菩提心は願生心であるが、それは浄土往生後、悟りを開き(上求菩提)、
衆生を救済(下化衆生)することに繋がる。
>>38
法然は今生において諸宗の説くような菩提心を発することを往生のための必要条件しないが、
そのことが三心具足の念仏と矛盾するわけではない。
参考
善導における菩提心について
岡崎 秀麿(著) 印度學佛教學研究 63(1), 45-50, 2014
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/63/1/63_KJ00009742170/_article/-char/ja/
菩提心について - 法然を中心として
小池 秀章(著) 印度学仏教学研究 48(2), 675-678, 2000-03
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/48/2/48_2_675/_article/-char/ja >>43
そうですか
では>>26の「衆生には畢竟必ず三心がそなわるもの」は間違いと言う事ですか?
「仏を信じない人間には菩提心が無い」についてどう思いますか? >>40
菩提心にも色々あるのかもしれませんが今回の議論の発端である>>15には
>その通り・・・・仏を信じていない人間には菩提心がない
>菩提心無き者は救われない、仏になろうという菩提心すなわち願いが必ず必要です
こう書かれていますので
菩提心=仏になろうとする心
要するに通仏教の悟りを求める心の方だと思います >>45
私は>>26さんではありませんが、法然の言葉に
「ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生するぞと
思い取りて申す外には別の仔細候わず。 ただし三心四修と申すことの候うは、
皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候うなり」(『一枚起請文』)
とあるように、三心は「決定して南無阿弥陀仏と思ううちに」あると受けとめています。
今生において阿弥陀如来の本願に出会うことが出来なくても、あらゆる人が
次生、次々において本願に乗じて三心具足することが出来ると信じる、
つまり「衆生には畢竟必ず三心がそなわるもの」可能性があると私は信じています。
「仏を信じない人間には菩提心が無い」については、
「仏を信じない」ことは、「菩提心の無いこと」の必要条件
「菩提心の無いこと」は、「仏を信じない」ことの十分条件
「仏を信じること」は、「菩提心のある」ことの必要条件
「菩提心があること」は、「仏を信じる」ことの十分条件
このように理解しています。 仏になろうとする心(菩提心)が無い人が、仏を信じているということはあり得ないが、
仏を信じている人が、仏になろうとする心(菩提心)が無いことはあり得る。
そして仏を信じていない人が、仏になろうとは思うことはない。
日本国籍を有しない人が、日本のパスポートを利用して出国することは無いが、
日本国籍を有する人が、日本のパスポートを利用せずに出国することはあり得る。
(よど号ハイジャック事件など)
日本国籍を有しない人が日本のパスポートを取得することは出来ないが、
現時点で日本国籍を有していない人であっても、後日、日本国籍を取得すれば、
日本のパスポートを取得することが出来る。 >>48
訂正 一行目
誤 : 仏になろうとする心(菩提心)が無い人が、仏を信じているということはあり得ないが、
正 : 仏を信じていない人が、仏となろうとする心(菩提心)を有していることはあり得ないが、 >46
通仏教的な「悟りを求める心」である菩提心であれ、「願生心」である浄土宗の菩提心であれ、
仏を信じない人にはどちらの菩提心も無いでしょう。
ただし、現時点で仏を信じていない人であっても、将来において仏を信じる可能性があり、
その時まで阿弥陀如来が待ち続けて下さると信じるのが浄土教。
「救われる」「救われない」という表現も、現時点での「受身」と将来における「可能性」では
受け取り方が変わってくるからな。 > いやそうじゃなくて三心ってのが必ず備わるものと書いていたので「菩提心がない」ってのが矛盾してる気がした訳です
三心ってのが必ず備わるものと確信してるのが仏菩薩、って書いとるんです、わかりにくくてすいません
至心に回向したまってる菩薩の方は、一生之間能荘厳、最期まで念仏者に必ず付き添い付きまといわからせ続け、念仏者の一生を功徳荘厳の世界と為すことを果たし遂げる、ってのがその誓いだと
念仏者が頂く三心の五果門ってのは、念仏者が「果遂の願に帰する」ということがあったればこそ頂けるんだと、そんでそれが南無阿弥陀仏、お念仏の運用内容の一つなんだよって言いたかったんです
人間の方は釈尊の説明通りあくまで五蘊を肉体とするものであり、常にどの瞬間も無明から始まる思い込みと勘違いの存在です。仏教が自覚教であるなら、人間の自覚とはむしろ五蘊で無明な罪悪生死の凡夫であるということを自覚することなんじゃねーの、ということになったのが浄土真宗で、三心?むしろ三不心じゃねーかって曇鸞さんが >>50
そうですか
それなら理解しやすいですね
「三心は必ず備わる」「三心が具すれば大菩提心が備わる」と書いている人もいましたが間違いと言う事でしょうか
>>26氏が言う様に全ての衆生に必ず三心が備わるならば
また>>36氏が言う様に全ての衆生に必ず大菩提心が備わるならば
「仏(阿弥陀仏)を信じて念仏を唱えても菩提心が無ければ救われない」など成り立たないと思います 仏は医者の王。よく衆生の病をなおすと言うけれどそのためには健康と言うことを
教えていただいた上で、初めて不健康な病気になっている自分がわかる。しかも健康にする
薬や方法が84000余りもある。
そこでその病気を直し健康になろうとする心が無いと直る者もなおらない。その上で初めて
健康になる方法や薬を選ぶ。ところが今、検診をしてくれる医者がいない。2500年前になくなっている。
しかも方法や薬に有効期限がある。500年とか1000年とか。
これってどうなる。 >>52
「三心は必ず備わる」「三心が具すれば大菩提心が備わる」と書いている人もいましたが間違いと言う事でしょうか
「三心」という言葉の意味するものもいろいろあって、私自身は法然が説くところの
至誠心・深心・回向発願心、そして願生心としての菩提心として受けとめていますが、
それぞれ別の解釈や受け取り方もあります。
また私自身は真宗関係者ではなく親鸞による三心釈について語るつもりはありませんが、
“三心釈 親鸞”で検索されると法然と親鸞との受けとめ方の相違の一端がわかるかと。
とりあえずこんなのを
法然と親鸞の三心釈
中臣 至(著) 印度學佛教學研究 47(2), 641-643, 1999
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/47/2/47_2_641/_article/-char/ja/
また浄土教系以外の諸宗における三心にも様々あるなと、今日の愉しみ。
三心釈について
峰島 旭雄(著) 早稲田商学,169号,107-121 (1963-11)
三心釈について(続)
峰島 旭雄(著) 早稲田商学,172号,49-64 (1964-03)
https://waseda.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_snippet&pn=3&count=20&order=7&lang=japanese&creator=%E5%B3%B0%E5%B3%B6+%E6%97%AD%E9%9B%84&page_id=13&block_id=21 昨日「近鉄全線3日間フリーきっぷ」使って伊勢神宮にも行ってきたけど
皆鳥居やお宮に礼拝してる中神祇不拝を貫いたオレは門徒の鑑やね >>52
>>26 は「全ての衆生に必ず三心が備わる」のトコに「畢竟」て書かれているよね
つまり、ついには、最後には、つまるところでは、ということを意味するとみるね
阿彌陀様の願力により衆生はついには皆三心を獲るとはいうけれども、
それは今すぐ、全員とはとれないと思うな
皆、縁が整えば順次三心を具すだろうし、三心を具せば他力の菩提心を具すことになる
別に自力の菩提心を起こす人もいるだろうけどこれは報土往生の因とはならないだろう >>56
なるほどです
では「阿弥陀仏を信じて念仏を唱える生活をしていても菩提心が無いが故に救われない(往生浄土出来ない)」事もありえると言う事でしょうか? >>57
「阿弥陀仏を信じて」、が自分で信じることならば、そうでしょうね。
自分で信じる、自分がこしらえる菩提心(自力の菩提心)については
法然上人はこの自力の菩提心を行に入れて廃しているんだよね
では菩提心はないのかというとそうでなくて、
他力の信心をいただくと、他力の菩提心を得ることができるというわけ
三心を具すとはその他力信心を頂くことを意味しているので、
三心を具したときに他力の菩提心が具されるということになる、
ので他力信心を頂いた人には菩提心がないということはあり得ないことになる
一方で、自分でこしらえた信心、自力の菩提心、でもって念仏を唱えている人は
報土往生はできないということになる、この場合は菩提心がないのではなくて、
自力の菩提心なので、それでは報土往生ができないということ。
これを報土往生からみたら、報土に往生できるような菩提心がない、とも言えると思う
だから法然上人は自力の菩提心を行にいれて廃したのではないかな >>58
自分で阿弥陀仏を信じる事も「阿弥陀仏からのハカライで阿弥陀仏を信じている」と自分で信じている事も大して変わらんでしょう
どっちも自分で信じてる事に違いは無い 阿弥陀仏は全ての衆生を救いますなどと布教してるくせに後出しで色々と救われる条件を出してくるだよなー真宗は
阿弥陀仏を信じてないなら救われませんなら理解出来るが阿弥陀仏を信じていてもそれが「自分で信じてるならダメです」などと言い出すのだから
もう大多数の人間は阿弥陀仏の救いは受けられませんと布教するべきじゃないかと思うぞ 「まあ阿弥陀如来が全ての者を救う」というのは願いであって、確約されたことじゃないからな。
対象がすべての者ということであって、救いが現実となるかどうかはこれまた別の話。 阿弥陀如来に不戦・平和を願うことは正しいことですか? 間違いですか? キリストの仏教バージョンなんだから大丈夫でしょ。
種字「キリーク」ていうのがそれっぽい。。。 ゴキブリの供養はすべきですか?
昔、ゴキブリを、酷い殺し方してしまいました
恨まれてますか?怖いです
なのでお寺で供養をしてもらう事になったのですが、親は反対してます
キリがないという理由でです
ゴキブリの供養をすると他の生き物からなんでゴキブリだけ?となりますか?
どうするべきですか?
出来れば浄土真宗の方にお話を聞きたいです
同じような質問をした事があるのですが、決断が明日に迫っているので、緊急的に質問していますのでご了承ください なるほど・・微生物は小さな虫に食べ殺され殺され、小さな虫は蜘蛛に食べられ、蜘蛛はゴキブリに
殺され、ゴキブリはあなたに殺されたわけですね。
だったらあなた様を供養すれば今まであなたが行ってきたありとあらゆる殺戮も同時に供養できるね。
あなたが念仏者になればいい >>66
供養というのはプージャ言うて、お釈迦様やその教えを敬って行為を捧げたのが由来やがしたかったら諸々の生き物にしてもええと思うで
簡単に言えば「いただきます」って言う食前のことばや
浄土真宗第4代能下の日渓法霖は、対食偈のなかで「食の来由を知らざれば 重きを負うて牛馬にしたがうごとし」
食うてるいのちの由来や意味を知らんとただ貪るのは、やってる意味が分からない仕事を無理矢理やるのと同じくらいむなしいことやって言っとる。
お寺にゴキプリの供養をお願いして、いのちの意味や由来を聞いてくるんなら立派な供養になる。
ゴキブリの霊をお祓いに行きたいんなら気休めにしかならん 日渓法霖は門主に毒を差し出し、自らは自殺した人なのか。本当か 阿弥陀如来に不戦・平和を願うことは正しいことですか????
如来に願わずに、如来の願いを聞いた方がいいような気がする。 >>71
知らん
>>72
お釈迦様は兵矛無用を説かれてた
聖徳太子は、「人皆党あり、さとれるものすくなし」
みんな集まって生きているんやが、みんな自分達の利益や立場やメンツに拘って争ってばかりいる。争いとは相手が悪いんやなくてお互いに煩悩で相手を見ているが、その道理が分かっているものは少ないって言ってた。
親鸞聖人は「世の中安穏なれ仏法弘まれ」って言われた
世の中の人がお互いの煩悩によってあい争っている。
みなが仏法を聞くことによって少しでも世の中が安穏になるようと願われたのよ。
阿弥陀如来に平和を祈るってことは、それぞれが煩悩を押さえて争いをやめるような生活をそれぞれが心掛けるもしくはそのこころを弘めるってのが阿弥陀如来に平和を祈るってことやと思うで ほほう、対食偈は知っていて臨末の書は知らないわけだ。
浄土真宗第4代能下の日渓法霖と書いているが当時の門主はだれだ 大集経の三災がすべて発生している
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%81%BD%E4%B8%83%E9%9B%A3
穀貴:飢饉等が起こり穀物等食糧の価格が高騰し品切れしたりする。
兵革:戦乱や革命がおこり社会が乱れる。
疫病:伝染病等が流行する。 ていうか、最初の菩提心のことを考えてみましょうよ
釈尊の人間認識の説明、十二縁起は常に無明より始まるじゃないっすか
苦諦(一切は苦である)、集諦(苦の原因は妄執である)、滅諦(妄執の原因を滅することが悟りの境地である)、道諦(悟りへ至る道とは正見、正語、正思惟などの八つの正しい道である)
無明、自分は全て思い込みや勘違いを前提にしてたってのを思い知り、思い込みの無明、暗闇の世界でない世界があると知る
自力執心から始まるものはだいたい闇の中での右往左往ですよって話で、自身が無明ですよってのが前提になってないいつもの有様を、獰弱怯劣とか凡愚低下とか
なんと思い違いしてたのか、全然勘違いしてた、って明るさが即從座起、偏袒右肩、長跪合掌ってのにはあるでしょ
十二縁起は無明から行、識、名色、六処とどんどん続くけど、仏智なんかどこにも出てこないわけで
無明が無明と知れた、自分の前提全部間違ってましたと初転法輪でコンダンニャが認め仏言は真実であると深く感じ入ったことで、初めて三帰依が成り立った
如来に対する礼拝讃嘆やらの五念門もこの時成り立った、コンダンニャに起こったこれが最初の念仏なんすよ ↓この、替え歌にしたというのは、どういう事ですか?
227 名無しさん@京都板じゃないよ sage 2022/02/09(水) 02:44:21.18 ID:N+d+k86Aa
>>226
元々は漢字の発音で右左上下の出る場所決まってたみたいだよね
でも中の御文を替え歌にした時点で意味をなさなくなったとか
今念仏和讃では初重三重で右から、二重で左から程度じゃないかな >>78
>自分の前提全部間違ってましたと初転法輪でコンダンニャが認め仏言は真実であると深く感じ入ったこと
これが本当の菩提心ならば「仏になろうとする心=菩提心」だと書いてる>>15の説は間違いですか?
そして仏になろうとする心が無いと念仏を唱えても救われないと言う説も間違いでしょうか bodhi-citta、仏心ほとけごころ
菩提(仏の悟り)を志向する心、が菩提心ということだけど
仏になる、ってのが方向性として五蘊、肉体を持ってる身に成り立つには上記の通り、私は無明で煩悩に満ち満ちてました大きな思い違いしてましただちゃかん泥凡夫でした態度や行動(少しでも)改めます、って回心懺悔があったのがその内容ということになる
そういう念仏の構造、六の字のこころをよくしりたるをもって 信心決定すとはいうなり、って蓮如さんのざっくり解説にあったでしょ
自分の態度やら姿勢、スタンスが(少しでも)あらたまった、あたらしくなったってのが仏に遭った証拠だよ >態度や行動(少しでも)改めます、って回心懺悔があったのがその内容と
行動を改めます、は自力だナ
まあ改めにゃならんと思い知りましたってんならその心を無理にとどめてもしょむないが
これは仏智の不思議にてあるなり >>80その通り・・・・・
菩提心こそ仏教を貫く根底の一つ。しかし菩提心は各宗派いろいろと違うのです。
浄土教の菩提心は浄土往生を願う心を菩提心と結論づけています。
法然様は浄土往生には念仏のみ,念仏一行を主張されました。
それに対して明恵上人が念仏は菩提心がないと批判をされたのです。念仏は称名行だと。
願と行がいるのに行だけではないかと批判をされたのです。しかし法然さまは
何も菩提心を否定されたのではないのです。善導様の南無阿弥陀仏の6字釈を用いて
南無と申すところに願生心(菩提心)が備わっていると主張されたのです。
南無が菩提心、阿弥陀仏が行。よって南無阿弥陀仏と称えるところに願行具足していると
主張されたのです。 >>80その通り・・・・・
親鸞さんは菩提心を聖道と浄土の菩提心に分けられました。
さらに浄土の菩提心を2つに分け,浄土真宗の菩提心は他力の菩提心だと結論づけます。
この菩提心は(阿弥陀仏がよろずの有情を仏になさんとおもうこころなりとしるべし)と
註をつけておられます。すなわち願作仏心・度衆生心という阿弥陀仏の心です。
よって親鸞さんの場合の南無阿弥陀仏は私が南無するのではなく
阿弥陀仏が願作仏心・度衆生心という心で衆生に南無しているという方向になります。 曇鸞さんの頃からそうだべさ
作仏せしめん、衆生を度せんと願う心が仏の心であり如来の心であって、我が心が良くて起こした願に非ず仏願よりいでたり、我が願でないから終わりがなくのべつまくなしである、ってのを昔からずっとやってんだもん
歴々の坊さんが口酸っぱくして言ってたことを引用サンプリングしてソートした、のが親鸞さんであってさ
まあ凄い仕事だわ >>83
そうですか
南無阿弥陀仏で菩提心と行が願行具足しているなら「阿弥陀仏を信じて念仏を唱えても菩提心が無ければ救われない」は間違いではないですか? そうですか
南無阿弥陀仏で菩提心と行が願行具足しているなら「阿弥陀仏を信じて念仏を唱えても菩提心が無ければ救われない」は間違いではないですか?
その通り・・・・信じて念仏を称えられない私は菩提心もないから自力では救われない 無明の闇 晴れ去るも 惑いの雲は消えやらで
これはどういう意味ですか? >>84
>>85
願作仏心 度衆生心
実にええ言葉やねえ >>87
今さら「自力では」と付け足す理由は何でしょうか?
>>15には「菩提心無き者は救われない、仏になろうという菩提心すなわち願いが必ず必要です」
この様に書かれてますよ
仏のなろうというのが菩提心だと書いてますね
そして菩提心が無いと救われないとも書いてますね
そして菩提心が必ず必要だと書いてますね
しかも「信じて念仏を唱えても菩提心が無いと救われないのか?」と質問しているのに「信じて念仏を称えられない私は菩提心もないから自力では救われない」と条件ごと勝手に変更して回答している
何か意図があるのでしょうか >>90
「菩提心」「救われる」「救われない」等の言葉の具体的な定義づけがなされていないので、
「信じて念仏を唱えても菩提心が無いと救われないのか?」
という質問が具体的に何について問われているのか私には良く理解出来ませんが、
「菩薩初めて発心し無上道を縁じて、我まさに作仏すべし、是を菩提心と名づく」
と『大智度論』に説かれるような「菩提心」がないと、
信じて念仏を唱えても「菩提心」が無いと「仏と成る」ことはないとは言えるでしょう。
「上求菩提 下化衆生」「四弘誓願」と表される菩提心を発起して菩薩となり、
その上で「仏と成る」とするのが大乗仏教なので。 >>90さんにとって「信じて念仏を唱えても菩提心が無い」状態とはどのようなことでしょうか?
(阿弥陀如来の本願を)信じて念仏を称えても、煩悩具足の凡夫には大智度論などに説かれるような
「菩提心」をおこすことは出来ない。そんな凡夫であっても阿弥陀如来の大菩提心(=本願)を信じ、
浄土宗の菩提心である「願生心」をおこした上で浄土に往生するとする法然の見解は、
「信じて念仏を唱えても菩提心が無いと救われないのか?」
に対するの答えとはなり得ませんが、「信じて念仏を唱えても菩提心が無いと救われないのか?」
という質問における「菩提心」「救われない」とは具体的に何を意味するのかを聞いた上で、
質問の答えを考えたいと思います。いかがでしょうか?
A:『大智度論』などに説かれる「菩提心」が無いと「仏に成る」ことはない。
B:阿弥陀如来の本願を信じて念仏する人には浄土宗の「菩提心」である「願生心」が備わり、
浄土に往生する。
AとBにおける「菩提心」の意味、「仏に成る」ことと「浄土に往生する」ことの意味が
それぞれ異なることは中学生くらいの日本語能力があれば理解出来るかと。 A:凡夫には『大智度論』などに説かれる「菩提心」が無いので「仏に成る」ことはない
= 救われない
B:『大智度論』に説かれるような「菩提心」が無い凡夫であっても
阿弥陀如来の本願を信じて念仏すると、浄土宗の「菩提心」である
「願生心」が備った上で浄土に往生する = 救われる
AとBとでは「救われる」「救われない」の意味するところがそれぞれ違うことは、
中学生の日本語能力があれば理解出来るかと。 人間の無明から始まっていて仏智の関わらないものは、真宗では雑行雑修自力って呼んで、仏智由来のものとは区別してるんよ
つーか凡夫、衆生、サッタに菩提心があればボディーサッタといってそれはもう菩薩という存在なんすよ
それはもう人間側がこの人は救われてるかどうかとか議論するような存在じゃないでしょう
Aの言葉を唐の坊さんの善導って人の言葉で言うなら「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた常に没し常に流転して、出離の縁有ること無し」という自覚の言葉になる
機の深信といって、釈尊が十二縁起で説明する人間の有り様をそのまんま言葉にしたようなもんですね
Bも善導の言葉にほぼ同じ内容の言葉があるよ、不思議不思議
「かの阿弥陀の仏の四十八願は衆生を摂受したまふこと、疑なく慮りなくかの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず」
法の深信と呼ばれるやつっすね
二種深信と呼ばれるもので、この2つを思い知るってのが真宗における信心ということになるっす
AとBの2つの意味内容が同じだったら最初から一種深信と呼ばれてるはずだよね、っていう
五蘊を離れられない身なのにもとより菩提心ありまぁすとかフカしてました、っていう回心懺悔と、仏の回向、願行を喜び仏願に随順するっていう方向転換が起こりましたよってのが念仏の内容だよ >>92
>>>90さんにとって「信じて念仏を唱えても菩提心が無い」状態とはどのようなことでしょうか?
まず>>15に書いてある「菩提心が無いと救われない」「仏になろうという菩提心」について疑問があって始まった議論である事を把握して下さい
要するに>>15氏の主張する「仏になろうとする心=菩提心」だと限定すると「阿弥陀仏を信じて念仏を唱えても菩提心(仏になろうとする心)が無い」状態は十分あり得ると思いますよ
何かを願って念仏を唱えたり自分が死んだあとの事を思って念仏を唱える事はごく自然な事だと思います
そこに自分が仏になろうとする心や悟りを得ようとする心など無い方が多いと思います それでは>>95さんにとって「救われる」「救われない」とはどのようなことでしょうか?
「仏に成る」ことを「救われる」ことと捉えるのであれば、
仏と成ろうとする心(菩提心)がなければ「仏に成る」ことはないので、救われない。
「浄土に往生する」ことを「救われる」ことと捉えるのであれば、
たとえ仏と成ろうとする心(菩提心)が無くても、(阿弥陀如来の本願を)信じて念仏すれば、
「願生心」が備わって、「浄土に往生する」ので、救われる。
娑婆世界において、自分が仏と成ろうとする心や悟りを得ようとする心を
煩悩具足の凡夫はおこすことは出来ないので、凡入報土を説く浄土宗において
『大智度論』などに説かれるような「発菩提心」は往生浄土の行とはならないと
法然が『選択集』で説き、それを高弁が『摧邪輪』で批判したことが良く知られています。
今生において「自分が仏と成ろうとする心や悟りを得ようとする心」をおこすことが出来なくても、
極楽浄土において「上求菩提 下化衆生」という菩提心をおこすとするのが浄土宗の教え。 A:「仏に成る」ことを「救われる」ことと捉えるのであれば、
仏と成ろうとする心(菩提心)がなければ「仏に成る」ことはないので、救われない。
B:「浄土に往生する」ことを「救われる」ことと捉えるのであれば、
たとえ仏と成ろうとする心(菩提心)が無くても、(阿弥陀如来の本願を)信じて念仏すれば、
「願生心」が備わって、「浄土に往生する」ので、救われる。
さらには極楽浄土において「上求菩提 下化衆生」という菩提心をおこすことになるので、
(阿弥陀如来の本願を)信じて念仏すれば、「仏に成る」というAの意味でも、救われる。 > どなたかこれ>>79お答えください
中の文を替え、歌にした時点で意味をなさなくなったってことじゃない?たぶん
元々その位置で漢字の読み方を指定してたということなんだろう
左訓した方が早そう >>96
>仏と成ろうとする心(菩提心)がなければ「仏に成る」ことはないので、救われない。
例えばお釈迦さまは「仏になろう」などと思っていたのでしょうか
なぜ「仏になろうとする心が無ければ仏になる事はない」と言い切るのか理解できませんが
もしそうなら多くの人間は仏にはなれませんね >>97
Bは問題ない様に感じますが
Bの場合ならば「菩提心がないと救われない」と書いている>>15氏は完全に間違いですね >>84
少なくとも真宗関係者においては他力の菩提心しか持ち合わせてないということですか?
もし真宗関係者に聖道の菩提心や自力の菩提心が存在する、起こるなら、真宗関係者ではないということになるのですか?
一度たりとも信心獲得すれば、聖道や自力の菩提心は二度と起こらないのですか? 鈴木大拙の真宗とは何かを読んだんやけど、
鈴木大拙の言う他力の菩提心も自力の菩提心も菩提心としては一緒で
要は菩提心を持つための方法が自力であり他力であるような事を言っとるな。 横やり入れてすまん
釈迦が居ないからワシはわからん,自分で仮定して考えろ
他力の菩提心とは何?
で結局,おまえさんには菩提心はあるのか? で結局,菩提心にAもあればBもあれば,他力とかの菩提心もあるわけ?
最後の他力をCとするなら、どれがいいわけ?
AがだめならB、BがだめならCか >>100
>例えばお釈迦さまは「仏になろう」などと思っていたのでしょうか
釈尊が四門出遊により出家を決意したことは良く知られていますし、
釈尊が前世で儒童梵士(菩薩)と呼ばれ修行していた時、
未来において悟りを開き釈迦仏となることを燃灯仏が予言したとする、
燃灯仏授記という話もあります。
>なぜ「仏になろうとする心が無ければ仏になる事はない」と言い切るのか理解できませんが
>もしそうなら多くの人間は仏にはなれませんね
今生で仏と成ることが大変困難であることは、上座部仏教であれ大乗仏教であれ同じこと。
よって輪廻を重ね、最終的な解脱を求めて修行を続けると。
釈尊もまた過去世おいて修行を重ねてきた上での成道であると伝えられています。
四門出遊くらい仏教の入門書に書いてないかな?
釈尊は娑婆世界に生まれる前に兜率天において修行されていたとする、
『今昔物語集』の逸話を自分が読んだもの遠い昔のこと。 CからAへそしてBでもいいのか
BからA、そしてCもあるぜよ なるほどお釈迦様の菩提心はずっと前というか前世から持ち続けておいでになるわけですね この世で上求菩提 下化衆生の菩提心は
ワシは無理やな。蜘蛛の糸みたいに蹴落とすだろうな、しかし浄土往生を願うのはできそうだな。
なみあみだぶつと言ったらそこに
自然に備わっているんだろ、そして浄土で上求菩提 下化衆生の心が備わるわけだな
しかし浄土よりこの世に執着していたらどうなる、その場合は他力とか言う菩提心か? 確かにトヨタ社長の話を聞いて車のすばらしさを信じて車がほしいという気持ちがないと
始まらんな、車がほしいと思ったら貯金をしてお金をためないといかん、そして車が手に入る
車はレクサスがいいな >>106 四門出遊により出家を決意したこと
まあ伝記の上ではね。 部派仏教において、菩薩になる必須条件は「仏に会うこと」であり、
現世または前世において仏の面前で誓願をたてた者以外は、仏に成れない。
一世界一仏の大原則をとる部派仏教の考え方では、現世ならびに過去世において
仏の面前で誓願をたて菩薩とならなかった者は、未来仏である弥勒仏の出世まで
仏に会うことが出来ず、菩薩となることもない。
と論じられているのが以下の論文。
菩薩になる条件と祈願 ―南伝と北伝の比較―
勝本 華蓮(著) 日本仏教学会年報 (70), 97-109, 2004
http://nbra.jp/publications/70/
自分が信仰しているのが、現世十方仏の存在を説く大乗仏教で良かった。 >>109 浄土よりこの世に執着していたらどうなる、その場合は他力とか言う菩提心か?
それは煩悩じゃないの?
他力の菩提心を保ったと言っても私の所有物になるわけじゃなくて仏様のはたらきだから
菩提心のはたらきと煩悩のはたらきは個別にはたらいているんだと思うよ。 > 鈴木大拙の真宗とは何かを読んだんやけど、
> 鈴木大拙の言う他力の菩提心も自力の菩提心も菩提心としては一緒で
釈尊の視点からはAとBは同じです。人間からは違うものに見える
自分は無明であると知ることと、無明の酔いから醒めるべきと思うことも人間には別のことに思えるでしょうし
もとは、無明のさけに酔い伏して、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒をのみ、好みめしおうてそうらいつるに、仏の御ちかいをききはじめしより、無明の酔いも、ようようすこしずつさめ、三毒をもすこしずつ好まずして、阿弥陀仏のくすりをつねにこのみめす身となりておわしまし合うてそうろうぞかし(親鸞御消息)
信心開発って言葉を昔はよく使ってたよね
三願転入というか、一生かけてのお育てに預かるということの最初が誰かが仏にあう姿を見る、念仏を聞くということで、それは念仏の内容を聞き、聞き続けていけば如来の付き合います宣言を知り、その願に帰することにつながるのだと
上求菩提は無明である自身を知り、悟りや自覚への道を求めたいと思う心なわけで、Aを本当に思い知った時には自然に出てくるもんだ、と期待されている
釈尊理論を聞いてれば自然とそうなるもんだ、という勝手な期待も感じるんだけど、まあ
下化衆生は法然さんの源空光明放たしめ、門徒に常に見せしめき、みたいなもんで法然の立ち居振る舞いが自然に人を教化していく姿を表現したもんなんだと思ってるわ >>115
菩提心とはちと違うが前スレにこんなんがあったなあ
他力とは阿弥陀如来の念仏往生の本願のことで、本願とは仏、菩薩が全ての
人を救わんとする根源的な願いであり、この本願力を他力という。
さらには己がはからいを捨てて仏の手に全てを任せることを「自然法爾」という。
以上を押さえた上で、自力とは自分の修行の力で悟りを得ようとすることではなく、
自力を「自ら備わっている力」「生まれながら頂戴している力」と理解すべきとする。
「自分に働きかけている自然の力を自覚せしめられることを」を正しい意味での自力という。
仏法に他力と自力の対立があるのではなく、自力というのも仏力の名であり、
他力と呼ぶのも仏力の名である。(以上)
臨済禅 黄檗禅 公式サイト 臨黄ネット> 法話 > 『自力』と『他力』
http://www.rinnou.net/cont_04/myoshin/2008-04.html オマケ
次に自力は、自分の修行の力でさとりを得ようとすることなどと考えるのは間違いである。自力を"自分の力"、"己の力"と読むのではなく、"自おのずから備わっている力"、"生まれながらに頂戴している力"と理解すべきである。
生まれたばかりの赤ん坊が、誰も教えたわけでもないのに、母親の乳をのむことを知っている。これは自ら備わった力であり、強いていえば、これが自力であろう。
人間、自分ひとりの力など、本当に小さなものである。もし、自分ひとりの力で生きていると考えるなら、これほどの迷信はない。
正しい意味の自力とは、「自分に働きかけている自然じねんの力はたらきを自覚せしめられること」である。自然は、目に見えない真理が目の前の現象にそのままに露あらわれているのをいう。
たとえば、リンゴが木の枝から落ちる現象に、そのまま万有引力が露呈していると、気づかしめられる力はたらきが自力である しかし、もとより仏法に他力と自力の対立があるのではない。自力というのも仏力の名であり、他力と呼ぶも仏力の名である。
私は宗教とはと聞かれたら簡単にこう答えている。
ご飯を食べる時、思わず手を合わせる、何かいいことがあった時に、「ありがとう」という。誰に向かって言っているかわからないが「ありがとう」を言うように人間はできていると思う。
「懺悔ざんげ」という言葉があるが、ひそかに自分の内面の悪い思いを見つめ、正すのが「懺悔」である。今日、自己主張の時代に、一番忘れられている概念ではないだろうか?
花咲き、鳥歌う四月、生命あふれる櫻花を愛でながら、生かされて生きていることの実感をかみしめたいものである。 > 現世ならびに過去世において
> 仏の面前で誓願をたて菩薩とならなかった者は、未来仏である弥勒仏の出世まで
> 仏に会うことが出来ず、菩薩となることもない。
でもこの感覚は素晴らしいし正しい。流石です真面目かとしか言いようがない
釈尊も次の後継者を指名して、説法させたりすることもしなかったし
だから後続は必死こいて作仏、観仏、念仏とは何かってのを捻り出してったわけだ
釈尊の時代、菩薩ってのは成道前の釈尊を示す言葉でしかなかった
釈迦滅後あたりから大量の釈迦前生譚が生まれてるが、それは菩薩を説明する時にこれは釈尊の前世なんですって注釈を入れる必要があったから
釈尊以外の存在に菩薩を見出すのには、けっこう何百年もかかってりしてるのだ > 自力というのも仏力の名であり、
> 他力と呼ぶのも仏力の名である。
真宗は師匠が善導マニアだからなのか、自力無効って側面が強いっす
無限他力、何れの処にかある。 自分の稟受において之を見る。自分の稟受は無限他力の表顕なり(清沢満之)とか
あたわりとか、分限とかも他力ですよ判定 自力・他力や菩提心の受けとめ方にもいろいろあるからなと、
江戸時代鎮西義の僧・輪超の『布薩式弁正返破論』にこんな文言が
いわゆる自力の菩提心は、これ願行同時にあり。故に直成という。
もしひとたび発心すれば、すなわち肉を割りて鷹に飼い、餓虎に身を投ずるをも
少分も畏心無し。かくの如く勇猛の行を修するに異時あらず故に直成と名づく。
今、浄土の機は直成の修行に堪えず。故に願は穢土に在りて、行は浄土に在る。
最上勇猛の心を発すにあらず。ここをもって易行の菩提心と号し、
また隔時の菩提心と称す。これ願行分別なり。
つまり自力の菩提心は願と行が同時にあり、
易行(他力)の菩提心は願のみ娑婆世界(穢土)にあるも、
行は浄土においてはじめて発すことが出来ると。
自力にしろ他力にしろ、仏法つまり仏縁に出会ってこそ発すことが出来る。
このような自力・他力の理解のされ方もあると、参考までに。 >>109
そうですね
私も同じ様な捉え方をしておりました
しかし阿弥陀仏を信じて念仏しても仏になろうとする菩提心が無いと救われないと主張する人がいたので疑問を持ちました 阿弥陀仏を信じて念仏唱えるだけで往生浄土出来る易行に素晴らしさを感じていたのに
そこに仏になろうとする菩提心が必須と言う事になると私にとっては易行では無く結構な難行になるよ A:仏に成ろうとする菩提心が無ければ、仏と成ることは出来ない、
今生において菩提心が無い以上、救われない。
B:仏に成ろうとする菩提心が無けれ、ば今生において仏と成ることは出来ないが、
そのような人であっても阿弥陀如来の本願を信じて念仏すれば、浄土に往生する、
つまり救われる。
さらには、浄土において願行具足の菩提心を発し、仏と成るので、Aの意味でも救われる。
AとBとは何ら矛盾することではないんだ。
「救われる」「救われない」という言葉の意味の取り方の違いだけ。 「仏に成ろうとする菩提心が無く、仏と成ることがない」というのにもいろいろ。
A:仏法、仏縁に出会っていないが故に、菩提心をおこすことがない。
B:仏法、仏縁に出会っても、自身の機根により菩提心をおこすことが出来ない。
煩悩具足の凡夫は仏法、仏縁に出会うことが出来たとしても、自身の機根により
菩提心をおこすことが出来ない、よって今生において仏と成ることはない。
それでも仏法に出会い阿弥陀仏を信じて浄土に往生することは、悦びの中の悦び。
善導『観経疏』散善義より
二には深心と。 深心といふはすなはちこれ深く信ずる心なり。 また二種あり。
一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた
つねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。
二には決定して深く、かの阿弥陀仏の、四十八願は衆生を摂受したまふこと、
疑なく慮りなくかの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず。 >>101さんは「救われる」「救われない」をどのようなこととして捉えておられるのでしょう?
A:「仏と成る」ことを、「救われる」と捉える場合。
(仏に成ろうとする)菩提心が無いと、阿弥陀仏を信じて念仏をして
浄土に往生したとしても、今生において「仏と成る」ことが無いので、
今生において「救われる」ことがない。
つまり>>15にある「菩提心無き者は救われない」に同じ。
B:「浄土に往生する」ことを、「救われる」と捉える場合。
(仏に成ろうとする)菩提心が有るか無いかに関係なく、阿弥陀仏を信じて念仏すれば、
「浄土に往生する」ので、「救われる」。
Bの場合、そもそもの「救われる」「救われない」という言葉の意味するところが、
>>15のそれと範囲や条件が異なります。 仏を信じるといっても本当に信じられるのかな、
浄土往生を本当に願うことができますか
できない者は他力の菩提心でないと救われないのでは?
じゃ他力の菩提心と言うけどこれって阿弥陀仏の信じることができなく
菩提心無き者を救いたいという心と理解していいでしょうか 信じると言うことはどういう心をいうのか,信じるという時の中身がよくわからないな
天親のような一心か,至誠心深心回向発願心か至心信楽欲生心なのか 仏の教えを信じて念仏を唱えても菩提心がないものはすくわれないというけど
信じることが先ず出来ていないんじゃないのかな
どうですかね
18願文は至心に信楽して我が国に生まれたいと思って念仏しなさいと言っている
ところが親鸞はこの至心信楽欲生という心は凡夫には無いとも言っている
どうもよくわからんね >>129
無いというより、如来よりたもうたって言ってなかったっけ? >>129
>仏の教えを信じて念仏を唱えても菩提心がないものはすくわれない
その「すくわれない」をどのように捉えるかの問題なんですが、
結局、、「ぼくの考えた救われること」と違うから、それは間違っている、
という主張を繰り返すだけの水掛け論に過ぎないような。
そして「ぼくの考える救われること」は自分では語らず、他者を批判するだけと。
私自身は今生において「仏と成る」ことは出来ないと信じているけれど、
往生するしないに関係なく、仏法に出会えたこと自体が「救い」だと信じています。
浄土の教えを含む八万四千の法門が釈尊によって説かれたことが、私にとっての「救い」。
その中でも「浄土の教え」が一番の「救い」。 >>79
圏発とか四声を調べてみると良いよ
中国語は同じ漢字でも発音によって意味が変わる
この発音が四声で、漢字に四声を表記するのが圏発
声明の博士の出る場所は圏発と関連がある
だから中身の漢字が変わるなら本来は博士の出る場所も全部変えなければならない
ところがそれをやらずに博士はそのままだから左右の出る場所の意味が失われてしまっている
圏発(けんぽつ)
https://kotobank.jp/word/%E5%9C%8F%E7%99%BA-492948
四声(しせい)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%A3%B0 >>79
「替え歌」の直接的な意味は
最初に真宗が天台宗から声明を導入したときには
天台宗での御文をそのままやっていたんだよ
でも教義に合わない御文もあるので、
漢字の数だけ合うような真宗教義に合う御文に
中身だけをすげ替えたんだよね 通訳としてや留学する時のために中国語を使えるよう学んでいた時の名残りみたいなもの?
日本人向けに構成する時には意味が無くなるものだから採用されなかった、みたいな感じですか なるほど浄土教においては一般的な菩提心は誰一人持ち合わせていない前提みたいですね
今生においては誰一人として阿弥陀仏によって救われる人間はいないと言う事で大丈夫でしょうか?
そして死んだ後に浄土に往生出来るかどうかは阿弥陀仏が選抜してる
「こいつは救う」「こいつは救わない」と阿弥陀仏が判断していると言う事ですか? >>135
>なるほど浄土教においては一般的な菩提心は誰一人持ち合わせていない前提みたいですね
>今生においては誰一人として阿弥陀仏によって救われる人間はいないと言う事で大丈夫でしょうか?
浄土門においては、「一般的な菩提心を持ち合わせること」を往生浄土の為の行としないと
説いたのが法然。
真宗や浄土宗などの入門書に書かれていますが、ご存じありませんでしたか?
高校の日本史レベルでも学ぶことじゃないかな。 もともとの始まりは、>>15にある表現、
「菩提心無き者は救われない、仏になろうという菩提心すなわち願いが必ず必要です」
これに「信じて念仏しても」という条件を加えた上で、そのような人は「救われないのか」
という批判をする人がいる。
「日本国籍が無い人は日本人ではない。日本人であるには日本国籍が必要です。」
このような表現に、「日本人の子として生まれても」という条件を加えて、
「日本人の子として生まれても、日本国籍が無ければ、日本人では無いのか?」と
批判をする。
日本人の子として生まれても、外国籍を有していたら日本人と呼べないことがある、
これくらい中学生レベルでも理解出来ることだと思う。
自分は>>15の中の人ではないが、もういい加減に飽きたかな。 前スレ
ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。(総序
本願にであえることは、自分の力だけではたとえ何度人生を繰り返しても巡りあうことは出来ない。
真実の信心も私の力だけではひたすら時を重ねても獲ることは出来ない。
もしあなたが信心を獲ることが出来たら。
あなたに恵まれた過去からの様々な因縁に感謝をしなさい。
もしワシが菩提心をもっとるとしたら、
ワシを育ててくれた沢山の働きやご縁があるからって言いたいんよ、 前スレ
要はありがたいおかげさまってことや。
>>669
確かに命というのは川の流れのように結びあって続いていくもんやな
法もそのようにありたいもんや
願わくは、この功徳をもって、 平等に一切にほどこし、
同じく菩提心をおこして、 安楽国に往生せん
と言うとるしなあ
でアカンのやろうか? >>135さんは「仏に成る」ことだけを「救われる」ことと見做し、
「浄土に往生する」ことは「救われる」ことにならないとお考えですか?
私は、今生において娑婆世界を離れて「浄土に往生する」ことは、
仏縁によって今生において「救われる」ことだと思っています。
さらに往生浄土をした後に「仏と成る」こともまた、
仏縁によって浄土において「救われる」ことだと思っています。 昔の百姓は菩提心なんて言われてもチンプンカンプンなんで
それを度外視して阿弥陀本誓で救われると説いた弊害。
今の人間は理屈や情報に恵まれてるのでそれはおかしいとなる。
まともな人扱いもままならなかった昔の百姓をなんとか救おうと
「特例方便」なんてやっちゃった良くも悪くも日本人の精神性。
事に窮すると合理性を超越してしまう傾向がある。
それが先の悲惨な戦争だったり「人の命は地球より重い」だの
今のウクライナ難民受け入れだのに通づる気がする。 そうかねえ?
金子大栄の妙好人列伝とか鈴木大拙の浅原才市なんかを読むと、
昔の人は立派に信心してた人ように思う
そもそも近江商人の三方良しとかありがたいもったいないおかげさまが定着してた時代は聴聞があったからやと思う まあ昔の布教使さんの中には、ええ加減なのもおっただろうし、ただ跡を継いだだけのも山ほどおったとは思う
ただ西光万吉や黒衣同盟のように色々考えてたのも一杯おったと思う
西光万吉は当時の部落で生まれたんだけど、あの見識と文章をかけたのは仏教の教えがあったのは大きいと思う 浄土教関係者が聖道の菩提心や自力の菩提心を起こしてしまったらどうなってしまうんですか? 他力以外の菩提心を起こす、起こしてしまうことは、浄土教では禁止されていないんですよね? >>138 「もし」あなたが信心を獲ることが出来「たら」
必ずしも獲られるわけではないんですね 生徒「取得単位数が足りなくて留年危機だけど、東大を目指します」
先生「それは大変結構なことだけど、授業は受けようね。そうすれば高校を卒業出来るから。
大学進学をどうするかは留年回避の見込みがたってから考えようね。」
生徒「東大を目指したら、高校を卒業出来ないのですか?」
先生「そんなことは言っていないよ。東大を目指すことと高校を卒業することは別のことだから、
まず学校に来て、授業を受けて、高校を卒業することを考えようか」
生徒「東大を目指したら、高校を卒業出来ないと先生が言った。おかしい!」
先生「えっ?」
生徒「えっ?」 >>148
「信心」という意味では、最初から持ってる人は居ないように
必ず持てるとは言わんやろな 阿弥陀如来が「すべての者を救う」と言っているからといって、
仏教にご縁の無い人間までも救われると思ってる奴多くないかな。 >>151
気付いてないだけで働きを受けてないという意味では無いのよ。
酸素を知らなくても呼吸は出来るしな >>152
はたらきを受けているのにキリスト教やイスラム教が存在するという矛盾。
気付いていなくてもはたらきがある、というのはきれいごとを言いたいだけの真宗関係者の願望です。 気づいてなくてもはたらきがあって救われるというなら真宗僧侶なんか必要ありません。 >>152 酸素を知らなくても呼吸は出来るしな
酸素と呼吸のどちらが「気づき」でどちらが「はたらき」に該当するのでしょうか? > 酸素を知らなくても呼吸は出来るしな
善導流は現在するものを妄執、もうねん他力と余分ことになんのよね >>153
宗教とはそれぞれ何を宗とするかやから、色んな宗教があってもええ
また同じ宗教でも何を宗とするか何を機にするかでかわってくるものがあるのよ。
>>154
いや気付くための教えであり僧侶やと思う
>>155
まあワイの勝手な解釈なんやけど、本願というのはワシが気付こうと気付けまいと働いてるもんやと思う
まあ乱暴な喩えになるが、酸素は本願なのよ
呼吸はワイと言う機(存在)なんやが、ワイが酸素という言葉を知ったときに
ワイが呼吸してたのが酸素のお陰やったと気付くんやと思うんや >>156
妄念他力ってのはワイは浅学なので知らんな 本願寺派と大谷派の違いを出来るだけいっぱい書いてください キリストやイスラムは神を否定できないところがちよっと辛いね
その点仏教は仏を否定できる。そこが素晴らしい,
仏教の最高の概念は法です。この教えには八万四千の法門余の入り口があります。 午後の勤行は夕飯後にするべきですか?夕飯前にするべきですか? >>137
ちゃんと読んで欲しいのだがまず>>12が>>5に対して「おまえは他の仏の救いからもれているから阿弥陀仏が救うと言っている」と書き込みをしている
それに対して>>14が「阿弥陀仏を信じていない人間も救うと言う事なのか?」と質問している
その14に対し>>15が「仏を信じていない人間には菩提心がない 菩提心無き者は救われない」
この流れだった事はどうか把握してほしい
信仰心の無さそうな人間に対して「お前は救いから漏れてるので阿弥陀仏が救うと言っている」とイキナリ書き込んだ事からこの議論は始まっている
だから「信じてなくても救われるのか?」とか「信じて念仏を唱えても菩提心が無い場合は救われないのか」と捻くれた質問が何回も続く状態になったんだと思うぞ >>162
それだったら簡単で、阿弥陀如来を信じていない、つまり「願生心」である菩提心がない、
つまり阿弥陀如来の本願とは無縁なので、今生では「浄土に往生する」(救われる)ことがない。
それでも次生、次々生において阿弥陀如来を信じれば、本願に乗じることになる。
しかしながら、何度も繰り返され得ているのは、
「阿弥陀仏を信じて念仏しても、菩提心が無ければ救われないのですか?」という質問。
浄土門において説かれる阿弥陀如来を信じることによって生じる「願生心」という菩提心と
一般的な仏教で説かれる「菩提心」とは異なりますよ、という説明も何度もしました。 >>163
それならそ阿弥陀仏を信じてないので本願と縁が無いし菩提心も無いので救われません
この説明だけで良かったと思う
聞いても無いのに「おまえは他の仏の救いからは漏れている」とか「だから阿弥陀仏が救うと言っている」などと書き込むべきじゃないね
失礼にも程がある >>163
>一般的な仏教で説かれる「菩提心」とは異なりますよ、という説明も何度もしました
だから>>15の時点では「仏になろうとする事=菩提心」だったでしょ
その菩提心が必須だと>>15は言ってた訳です そもそも>>15の書き込みに疑問を持った人が>>15に対して質問してるのに別人と思われる第三者がガンガン説明しだしたからややこしくなったと思う
しかも後出しで「自力では」とか「今生では」とか言い出すしマジでややこしくなったと思う >>165
私は>>15の中の人ではありませんが、同じ掲示板IDの人が、
>>16-19、>>20のレスもしているから、参照してみたらどうでしょうか?
私には>15にある「菩提心」は一般的な「菩提心」ではなく、
「阿弥陀如来の本願を信じ浄土に往生し、そこにおいて仏と成りたいと願う心」
であったと思えるのですが。
>>17には『阿弥陀経』よりこのような引用がありますね。
若し人有りて已に発願し、今発願し、当に発願して阿弥陀仏国に生れんと欲はん者は」
是の諸の人等、皆阿耨多羅三藐三菩提を退転せざることを得て彼の国土に於て、
若は已に生れ、若は今生れ、若は当に生れん・・・・
後に続くレスをちゃんと読んでいたら、
「阿弥陀仏を信じて念仏しても、菩提心が無ければ救われないのですか?」
という質問は出てこないと思うのだけど。 >>167
訂正 誤>>20、正>>22
>>16-19、>>22のレスにおいて、一般的な菩提心の話をしてるかな? >>168
だから>>15で書かれている菩提心(仏になろうとする事)に関しての質問だと何回も書いてますが?
>>15で必ず必要だと書かれている菩提心は浄土教においては実は必要では無かったと言う事でしょうか? 全ての始まりは>>15とそれに続く>>19までのレス、それに対する>>21のレス
「では阿弥陀仏を信じて「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えても「仏になろうとする菩提心が無ければ救われないし(往生浄土しない)」と言う事でしょうか?」
この時点で、阿弥陀仏を信じて念仏しても、「一般的な菩提心」が無ければ
救われない(往生浄土しない)のですか?という問いかけなので、
つまり最初から話が噛み合っていないと。
>>169
法然によると、一般的な菩提心は往生浄土の行とはならない、つまり必要条件とはならない。
また阿弥陀如来の本願を信じない人には、浄土に往生しようと願う心も生じないので、
浄土に往生すること、しないことのどちらとも無関係。
そのことを「浄土に往生しない=(本願によって)救われ(る関係性が)ない」と
表現することは可能だと思います。 レス間違い
> 善導流は現在するものを
↓
>善導流は現在するものを他力と呼んでいて、妄執、妄念、脳内設定の現実と区別している
上の人が言ってる
>自力を「自ら備わっている力」「生まれながら頂戴している力」と理解すべき
>「自分に働きかけている自然の力を自覚せしめられることを」を正しい意味での自力という。
>仏法に他力と自力の対立があるのではなく、自力というのも仏力の名であり、他力と呼ぶのも仏力の名である。
黄檗宗ですか、ありがとうございます
というその辺のお話も、二種深信を起点にそういう力は「自力の中の他力なり」という捉え方になってんよね
「無限他力いずれにかある。自分の稟受(ひんじゅ、受け取っているもの)に於てこれを見る(清沢満之)」
というのに顕著
自ら備わっている力なら、二種深信みたいなこと言わずに済むんだわね
師匠が偏依善導なんて言うからこんなことに なるほどやはり浄土教の思想的には>>15は間違いと言う事でしょうね >>172さんは、>>16-19、>22のレス内容を見た上で、一般的な菩提心が語られていると思われたのですか?
それだったら話が噛み合わなかったのも理解出来ます。
日本において法然に始まる専修念仏の流れを汲む各宗派に属する者は、
一般的な菩提心と浄土諸宗派で説かれる菩提心とでは意味が異なると認識しているので、
話の流れによっては他宗派の人にとって説明不足で違和感を感じることがあるかもしれません。 真宗では、救われない身の自覚ってのがかなり重要なんよね
二種深信が無ければ二河白道とか厭離穢土欣求浄土とかもなかなか出てこない 救われない身を自覚することがそもそもの二種深信の出発点なので、AもBも真宗では同じことなんよね
自分が救われてると思ってる人には必要ないのが真宗だとも言える >>159
本願寺派と大谷派の違い本願寺派と大谷派の違い本願寺派と大谷派の違い本願寺派と大谷派の違い本願寺派と大谷派の違い本願寺派と大谷派の違い本願寺派と大谷派の違い
本願寺派と大谷派の違い本願寺派と大谷派の違い本願寺派と大谷派の違い本願寺派と大谷派の違い本願寺派と大谷派の違い本願寺派と大谷派の違い本願寺派と大谷派の違い本願寺派と大谷派の違い本願寺派と大谷派の違い
本願寺派と大谷派の違い本願寺派と大谷派の違い本願寺派と大谷派の違い本願寺派と大谷派の違い本願寺派と大谷派の違い本願寺派と大谷派の違い本願寺派と大谷派の違い本願寺派と大谷派の違い本願寺派と大谷派の違い
本願寺派と大谷派の違い本願寺派と大谷派の違い本願寺派と大谷派の違い本願寺派と大谷派の違い本願寺派と大谷派の違い本願寺派と大谷派の違い本願寺派と大谷派の違い
本願寺派と大谷派の違い本願寺派と大谷派の違い本願寺派と大谷派の違い本願寺派と大谷派の違い本願寺派と大谷派の違い本願寺派と大谷派の違い >>178
まず正信偈の節が違う
五具足のお道具の形が違う
教えは大谷派の本も良く読むが、ワイでは教学上の違いは判らん
ただ最近の本はお西はお経の翻訳みたいな解釈が増えて、本を読んで面白いのは大谷派の方やな >>157
はたらきを受けているのにどうして違う宗教を信仰するの?
それは本当にはたらきを受けていると言えるの? > はたらきを受けているのにどうして違う宗教を信仰するの?
> それは本当にはたらきを受けていると言えるの?
結局のところ、自分がちゃんと自分と向き合いになれるような出合いがあるかどうかってことだもの
一つの山登るのにいろんな登山道があるって話よく聞くじゃん?
良寛さんの仏教とか一遍さんの仏教とかマインドフルネスとかいろんな視点で仏教の構造が分かるようになればいいじゃん 浄土真宗はプーチンすら阿弥陀の本願力を信じて念仏唱えれば救われるとか言うんだろ?
ふざけんなよ
ウクライナの人に謝れ 横レスすまんが噛み合っていないもあるけど
そもそも浄土真宗スレで「阿弥陀仏が救うと
言ってる」ってレス書いときながら通仏教の
菩提心が必須だと言い切り後になってから自
力や今生の話にすり替えた回答者側が悪いと
思うぞ 菩提心が必須
通仏教,浄土宗,浄土真宗、みんな菩提心がないと救われない
通仏教の菩提心は上求菩提下化衆生の心を私がおこす
浄土の菩提心は一心の心で願生浄土の心を私がおこす
法然は私が三心の心で念仏を唱えるところに願生浄土の心が備わっていると主張
親鸞は私に真実の心もなければ上求菩提下化衆生の心、願生浄土の心もない。
阿弥陀仏の心と働きに菩提心を見ていく。
だから南無阿弥陀仏と唱えるのではなく称える。称えるとは聞く、ハカリしる事だという。
聞名ということらしい。 回向句に
願似此功コ 平等施一切
同發菩提心 往生安樂國
って言うてる。
そもそも龍樹菩薩は菩提心をとても大切にしてたし、
親鸞聖人も念仏者は「世を厭うしるし」があらわれると言ってる
そもそも浄土真宗の妙好人や詩人の心は菩提心なくして説明がつかない >>180
悪いが何を言いたいのか良くわからん。
もう少し分かりやすく言ってくれ >>187
はたらきを受けているのなら人間の側に何かしらの影響はあると思うのだが、
念仏をしているのならともかく、真宗と全く関係ない宗教を信仰しているのは変だぞ。 >>188
紙に書くのは書名念仏、
キーで打つのは打名念仏。
それらを否定するわけにはいかないから
念書是一、念打是一、という理論を生み出しそう。 >>189
ワイは色んな宗教があって言いとは言ったが、真宗以外を信仰してるとは言ってないと思うが?
まあ真宗以外の宗教の本は普通に読むけどな あと真如とは浄土真宗にだけ向けて働いてるんやなくて、
真如のはたらきを阿弥陀と名づけたてまつってるんやから、
別に自力だろうと他宗だろうと真如を感じれたとしても不思議はない >>191
いや、あなたがどうこうじゃなくて、全人類の問題を言っているんだけど。
全人類が阿弥陀如来のはたらきを受けている設定なんだから、
全人類が真宗門徒じゃないとおかしいでしょ、ということなんだが。 阿弥陀というのは無量、無数、那由多を表す言葉だってばさ
無量、無数、那由多の諸仏が全人類に常に仏縁として働き続けてますよ、唐の善導って坊さんはそれを阿弥陀と名付けましたよ、という順番だよ プーチンみたいな悪人すら救われると教える真宗は話にならんね
御利益ないよ まずは自らの頭の上の蠅を追うことを先決にしないとならないな >>198
プーチンにも阿弥陀如来は働きかけ続けているそうだよ、真宗の設定だと。
はたして働きかけた結果があれでいいのだろうか。 請うなかれ。求むるなかれ。なんじ何の不足かある。もし不足ありと思はば。これなんじの不信にあらずや。
如来はなんじがために必要なるものをなんじに賦与したるにあらずや。もしその賦与において不充分なるも、なんじは決してこれ以外に満足を得ること能はざるにあらやず。
けだし、なんじ自ら不足ありと思いて苦悩せば、なんじは愈々修養を進めて、如来の大命に安んずべきことを学ばざるべからず。これを人に請い、これを他に求むるが如きは卑なり、陋なり。如来の大命を侮辱するものなり。如来は侮辱を受くることなきも、なんじの苦悩をいかんせん。
という話だな
そもそも気づいても無いうちから存在する阿弥陀如来のはたらきって何なの? いや、人間が気がつく前には存在してないはたらきや存在って何よ
人間が寝てる時には世界は存在していない、みたいな話? そもそも「阿弥陀如来のはたらきかけ」って何ですか? >>198
それを言うと、第二次大戦で戦争讃美した真宗僧侶が救われて浄土に往生したかどうかは知りたいところだな。
戦死した兵隊とお浄土で仲良くやってんのかな? >>207
あの時戦争してなかったらどうなったの
左翼さん 4月8日
天上天下唯我独尊、三界皆苦 吾当安此。
問題(東京大学印哲過去問)
仏弟子がお釈迦様の出生をこのように残されました。この意味はどう受け取りますか 他人の頭の上を飛び交う蝿が気になる方が多いようで
自分の頭上は直ぐには見えないからね >209
実際は言ってないシリーズによく来るやつですね
パーリ語の経典の唯我独尊にあたる部分には我、アートマンにあたる言葉はどこにもありません。翻訳者が意図的にか我という文字を当てはめたため、混乱が起こる文章となっています
設問における仏弟子とは修行完成者からこの原文を受け取った者のことなのか、翻訳僧のことなのか判然としないので、両方のことを書く必要があります。他にもツッコミ所は色々ありますが
@なんで天上天下に超えて仏のみが尊い、と表現したのか
Aなんで無我説の仏なのに自称を我と表現させてるのか
Bなんで頸も座ってないであろう幼児に歩いたり喋らせたりしてるのか
これをどう受け取るか、という質問に捉えます
@釈尊在世の時に支配的だったバラモン教は呪文、ヴェーダにより因果を操れる、動かせるのだと説きました。そこに釈尊は新しく縁起説を提示し、因果は因縁、生起する縁によって変わっていくものであって、因果を保証する我、アートマンは常なるものでは無く、実際の世界は無我にあるものなのだと宣言されたのです。
三界皆苦の三界とは欲界色界無色界といい人間の世界のこととされますが、釈尊の視点では人間は世界が無常、無我にあることを知らず我執、思い込みと勘違いを前提に生きることでその全てを苦しみの世界と為す存在です。
そのような人間に真実を伝えて我執と離れ自分と向き合う道を与え、人の世界に真の安寧を与える道を示したから吾、つまり仏は尊いのだ、というのが元々の主旨となっています A我、はアートマンを指す仏教用語で、大乗仏教は諸法無我を説きます。翻訳僧がなぜ縁起説、無我説を説く仏教経典でこのような翻訳を行ったのかには諸説あります。
●仏教とバラモン教の区別をあえてせず、バラモン教の一派として仏教を捉えている
●誕生仏の我とは我執を表す我ではなく釈尊が発見したところの我であり、何かを付与し追加して自分を尊しとするのでなく、他と比べて自分が尊いということでもなく、天上天下にただ一人の、誰とも代わることのできない人間として自己を発見した感動をもって我、というものを表現している
●生まれた当初の釈尊は修行も出家もしてない成道前の幼児なので、我が身大事な凡人の人間「我」から仏陀を指す「吾」へ至る存在なのだと示し、全ての人は仏を目指すべき存在なのだと表現している
●釈尊の我とは無我のことである。我執を超えた、無我の境地に至った釈尊の我が何よりも尊いのだ、と表現しようとしている
B生まれたばかりのゴータマシッダールタは恐らく普通の、泣いてばかりの幼児だったと思われます。しかし仏弟子達がこのような生まれてすぐ歩くような誕生仏の姿で釈尊の出生を捉えられたのには、釈尊はいつから仏、菩薩だったのかということが大乗では問題とされていたからです。
釈尊の時代、菩薩を指す言葉は成道前、修行時代の釈尊を指すものとして釈尊が自称しているもののみでした。
釈迦滅後にたくさんの釈迦前生譚が生まれましたが、それは菩薩という言葉が修行中の釈尊のみを指す言葉だったため、後世の修行完成者が菩薩ということを説明する時にこれは仏陀の前世である、との注釈を加えていったことで増えていったものです。
では、釈尊が菩薩となったのはいつのことなのか。四門出遊を見て、出家を志したのは出家以前のことです。虫追う鳥が鷹に食われるのを見て心を起こしたのは幼少時のことです。釈尊が世の無常を感じ、そこから解脱する道を志されたのは、突き詰めれば自身が生まれたということを自覚的に捉えられたからです。見るものに心を起こす道理を明かし、自身の生をこれがこの世で最後の一生であると受け止め、自覚的に生きようと志す者の一生は、全てが仏にとって尊きものである。
釈尊は生まれた時から衆生にとって菩薩であり仏であった、と後の世の者が見出したことで生まれたのが誕生仏であります。 釈迦は無記を説いているのにもかかわらず、前生譚や輪廻説を信じるのは釈迦の教えに反しているよねw
ハイ論破w >>209
東京大学印哲過去問における回答例はどんな感じなんでしょうか?
東大印哲でも>>217さんのような回答がなされるのでしょうか? 阿弥陀仏さまは、もろびとを救います
浄土真宗のものも死んだら極楽往生して成仏した後、娑婆世界に現れて困った人を教化するとありますが、阿弥陀仏さまと、成仏したもの、どちらも人を救うんですか? では釈迦自身が無記を説いて書き残した経があるのですか?
釈迦没後に書かれた経の中にあるのですか? 浄土真宗の者が神社行っておみくじひくとどうなりますか? ずべて大吉より上、清らかになる。何度引いてもそうなる 他力の菩提心はおろか自力の菩提心や聖道の菩提心さえ持たない人はどういう位置づけになるのでしょうか。
仏教徒でもない外道という扱いになるのでしょうか。 >>225
それはどういった意味でしょうか、親鸞聖人や法然聖人も同様の主張をされているんですよね?
浄土の経典や高僧の書物に書いてありますよね? 親鸞さんだと山川草木悉皆成仏やね
涅槃経の別訳から引用してるね
一切衆生悉有仏性、全ての動くものは法性を喜び仏願に随順する性を持っている、という言葉は唯除五逆誹謗正法、ただし法性を喜ばず仏願に随順しないものは除く、とセットになっている >>229
なるほど、ありがとうございます。
やはり仏教徒とそれ以外は区別されているんですね。 >>230
そだね、自分が五逆謗法の身であるってことが分からなけりゃそもそも仏教徒になろうとも思わないわけだし
我執のカケラも無く仏性だけで生きてるいわゆる仏様みたいな人には、そもそも仏教は必要ない
釈迦に説法ってやつですね 大経には五逆と謗法は除くととかれているから一切衆生悉有仏性とは矛盾することにならないのか
真宗は阿弥陀仏はすべてを無条件で救うと言うけど除かれているのはどうしてか >>232
いや真宗は救済チケット配ってるだけで
そのチケットを使う使わないは自己判断らしいぞ
要するに他力他力と言いながら結局は自力の自己判断 チケットを限定販売しているのがほとんどの中で全員に配っているのは
真宗だけか 話は戻るが浄土往生には願生心がいるわけだから人間界に生まれるにも願生心が
必要だったんじゃないのか
みんな前世でとにかく次の生は人間界に生まれたいという願いを持ったのじゃないのか
その辺はどう考える 善光寺の秘仏って本当は真宗の高田にあるというけど本当ですかね >>234
いやチケットを全員に配った気になってるかどうかだと思うよ
大半の人間がチケットの存在に気がついてないのだから衆生側からするとチケットが配られてないも同じ
「配ったんだからチケット使えよ」では完全に自力やろ チケット全員に配った、は阿弥陀様目線
俺にはチケット届いていない、だから阿弥陀は嘘つき、は未信の衆生目線
俺以外に全員チケット届いてて、最後の一人だった俺にチケット届いた、が獲信目線 信じないとチケットに気付けないなら
もはや自力と何が違うのだ >>229
五逆のものは救わないやなくて、それはしちゃいけないっていう、抑止の文じゃないの? >>237 大半の人間がチケットの存在に気がついてないのだから衆生側からするとチケットが配られてないも同じ
そりゃあそうだ
>「配ったんだからチケット使えよ」では完全に自力やろ
他力のはたらきがあるから修行して気づけよ、ってことだわ。
自力心が無いと往生できない理屈。 >>238
じゃあどうやったら気付くの?
つまり、どうやったら信心獲得できるか、ということなんだが。 釈尊も難中の難言うてるしな
大体の人間は正しいことなんて知りたくないし自分に都合が悪いことは認めたくない、他人にマウント取れるポリコレ棒でも宗教棒でもが欲しい、それが普通 >>243
ホンマにそこは難しいとしか言いようがない。
『口伝鈔』に
「法師には三つの髻(もとどり)あり。
いはゆる勝他(しょうた)・利養(りよう)・名聞(みょうもん)これなり。」
ってあって、人は自分が正しいと思うと、それですぐマウントとろうとしちゃう。
善人の家に喧嘩が絶えないってのは、ホンマにその通りやと思う >>244
真宗僧侶は僧侶と言っても在家信者だから法師ではないからセーフ、
良かったね、真宗僧侶は。 >>245
どうやったらというか、結果として表れてくるものでねえかな
とりあえず周囲の事象への態度が少しでも改まったってことがあれば、ああの人は念仏に遭ったのだなあと思うよ >>245
ここで言う法師とは、正法眼蔵などに言われるような文字の法師のことやで?
文字づらばっかり追って自分を見つめない仏教者は、
勝他 名聞 利養の毒が出てくるらしいのよ。
人のアラばっかり探して反省が無くなるのよね。
この文章を見るたびにワイはいつも反省をするんやが、
なかなか勝他も利養も名聞もなくならんもんやな >>246
本当に理解できませんね
周囲の事象への態度が改まる=念仏に遭ったのだな
この理論が完全に謎やな >>248
もとこそ、こころのままにて、あしきことをもおもい、あしきことをもふるまいなんどせしかども、いまはさようのこころをすてんとおぼしめしあわせたまわばこそ、世をいとうしるしにてもそうらわめ。(御集息集)
凡夫であることは変わらないが、気づけば変わってくる部分はあるのよね。 >>247
正法眼蔵ならいよいよ真宗は関係ないな。 >>249
何かを切っ掛けに心が改まる事はあるでしょう
それを否定しているのでは無くてその何かの切っ掛けが念仏かどうかなど第三者には分からないでしょう
何故態度が改まった人を見てその何かの切っ掛けが「念仏」であると決め付ける事が出来るのでしょうか?
まるで謎ですし説明も出来てないと思います >>252
まあ第3者には確かに判らんし、人が変わる理由も人それぞれやから、確かに断定はでけんね >>250
ちょっと検索したら徒然草にも使われてるくらいの言葉やからなあ。
兼好法師が使ってるくらいやから、その時代では普通に使われてた表現やないかなあ?
詳しくは知らんけど >>243
釈尊が言うほどの難しい仏道をなぜ真宗の皆さんは選ばれたのですか?
もっと簡単に成仏できる方法を選ばなかったのですか?
難しい修行で成仏した達成感を味わいたいという自己満足ですか? わざわざチケットを配ったのに、配ったことを知らせてあげない・気づかせてあげないなんて
阿弥陀如来はどうしてそのような意地悪をするのでしょうか。
「そのままで気づかせたのではワシの楽しみが無くなるからな」と考えているのでしょうか。
本当に人間を救うつもりがあるのでしょうか。 > じゃあどうやったら気付くの?
> つまり、どうやったら信心獲得できるか、ということなんだが。
このスレだけでも真宗の立場は何度も何度も何度も書かれてるやん
善導釈
一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。
二には決定して深く、かの阿弥陀仏の、四十八願は衆生を摂受したまふこと、疑なく慮りなくかの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず。
この二つを心得るのが信心獲得ってことだよ
人間は一生五蘊の身です、仏縁に遭わない限り無明経巡る存在ですよ、っていう釈尊の説明をそのまんま心得ればいいだけ
阿弥陀ということは、全部の因と果をできれば仏縁と見ていきましょうってことで。
真宗は在家仏教なので、家を捨てましょう肉体離れましょうって方向にはまあならないけど
>完全に謎やな
仏に遭った、三帰依が成立したことの証拠には仏縁に対し自身のスタンス、姿勢や態度があらたまった、新しくなったってことが必ずあるんだよ
謎なんてほどのものじゃないよ >>257
>仏に遭った、三帰依が成立したことの証拠には仏縁に対し自身のスタンス、姿勢や態度があらたまった、新しくなったってことが必ずあるんだよ
謎なんてほどのものじゃないよ
だから論点が違う
完全に謎なのは姿勢や態度が改まった者を見て「念仏に遭ったのだな」と判断出来た事についてです
ちゃんと>>252にも書いたんだけどね >>257 この二つを心得るのが信心獲得ってことだよ
いやそれは信心獲得した後の話であって、
どうすればそう信ずることができるようになるのかってことを聞いているんだが、
君は時間の前後を理解できていないんじゃないかな。 > いやそれは信心獲得した後の話であって、
> どうすればそう信ずることができるようになるのかってことを聞いているんだが
信じることができるっていうか、これって釈尊の縁起説を在家向けに言い直しただけやん
十二縁起知ってる?仏縁が無きゃ人間は脳内設定の世界を経巡るだけで、現在するものが見えないものですよ、現在するものはそれそこら中にありますよあんたもそうですよっていう
ていうか仏縁自体が直訳すれば目覚めの縁なんだから、釈尊の言葉はただの事実、如実であって信じられるかどうかの話ですらない >>260
じゃあその仏縁はどうすれば起こせますか? >>231
さらにそこから理論を発展させてみたのですが、菩提心さえない人は外道ということで、
聖道の菩提心がある人は聖道門の人、浄土の自力の菩提心がある人は浄土教関係者
他力の菩提心のある人は真宗関係者ということになるのでしょうか? >>255
難というのは不可能ということ。
凡夫にはできないが、阿弥陀の本願なら救われるということ。
>>257
三帰依が成立するとは具体的にはどういうことですか。 >>263 凡夫にはできないが、阿弥陀の本願なら救われるということ。
現実的にどうなのよ?
地球上に人間がどれくらいいてその何割が救われているのよ? >>133
天台宗が発端ですか?
讃仏偈は無量寿経から作られた、というのはあってますか?
天台宗は無量寿経をどうお想いですか? >>264
本人が、救われたというほんとうに喜びがないと救いというのはないんだろうな。
自分を省みても、何はなくても、救われた喜びがあるかと問われると難しい。
難しいな。 もう光は届いて、光の世界にいるけれど、ただ目を開いていないだけだ、つまり救いの世界にいるのだという例えがある。
ただお前はどうかと問われると。 俺こそは目が開いているって思うヤツほど何も見えてないって事だろうな 救いとは何かって根本的だけど、なかなか難しい。
救いって何だろう? 阿弥陀如来に救いを求めるのは正しい考え方なの?
「救ってください!浄土に往生させてください!お願いします!」と思ってもいいの? >>265
讃仏偈は親鸞聖人700回大遠忌法要で日常勤行に取り入れられたお経で、大無量寿経の上巻からとられた。
天台宗で無量寿経がどう思われているかは知らないが、
日本の天台宗は、最澄が四宗兼学の道場を目指していて、
法然や親鸞の浄土系の教えが興る元にはなっている。
天台宗は竜樹や智が法華経を説いているので、無量寿経は重要視はされていないが
四宗兼学の道場なので、学ぶことは禁止されたりはしてなかっただろうね >>275
φ(・ω・*)フムフム...
ありがとうございます 源信僧都の往生要集には無量寿経は大切にされている。
今も源信僧都の当時のように、二十五三昧会というかどうかはしらないが、ちなんだ集いはあると思う。
臨終行儀とかのはじめだと思います。
かなり前、一度、まぎれこんだことがあります。
天台浄土教は今も大切にされていると思います。
今も源信僧都は大事にされていると思います。 「朝題目 夕念仏」でググってみるといいよ
古くから俗に、「朝題目に夕念仏」といわれる朝題目は、法華懺法(ほっけせんぼう。半行半坐三昧)、夕念仏は例時作法(常行三昧)にあたり、この二種の法要が顕教修法の中心となって、葬儀式・法事等の法要の多くが営まれます。 >>281
天台宗にも念仏はあるし勉強もしているけど、
讃佛偈を特定のお経としてお勤めをしたりはしてないと思う。
鎌倉時代の浄土系諸派は天台宗から出ていたのは、天台宗が四宗兼学の道場だったからで、
>>277にもあるように、僧侶が葬儀をしたり来迎信仰をしてりというのも、天台宗で始まったり盛んにやってたものは確かに多い 天台で既に浄土教やってるんだから真宗なんて天台の二番煎じ。
と言われることが嫌いで真宗はオリジナリティを求めています。 密教にも阿弥陀如来を本尊として法要することはあるお
お四国さんにも本尊が阿弥陀如来のお寺はあるお 法然聖人、親鸞聖人の浄土教の日本における根源が源信僧都で
あります。
まさに本願念仏による浄土往生を勧めたのが、比叡山の横川におられた源信僧都です。
今も横川を訪ねれば、その存在の大きさを知れます。
正信げにも、
源信広開一代教
偏帰安養勧一切
とあります。
ただしその後の法然、親鸞の浄土教の展開は大変、重要です。
源信僧都の往生要集の浄土教でよいというならそれはそれでよいですが。
なかなか平凡な人間には厳しい。 日蓮も空也も一遍も天台宗から出たようなもんなんだよなあ。 七五三詣の時に、あるお寺のぼっとん東司に跨がって大を済ませ、明るくて丸見えだった便器を覗き込んだら、ちり紙と共に捨てられた何枚のもの柄付きの布おしめが不浄にまみれてながら盛り上がっていた。かわいい動物やキャラクター柄がくっきり見えて驚いた。
後日和尚さんがその東司から不浄を汲み取って畑に撒いている様子を見た。
紙おむつのなかった時代はぼっとんに布おむつを捨てて、土に還す事も多かったようだ。 七五三詣の時に、あるお寺のぼっとん東司に跨がって大を済ませ、明るくて丸見えだった便器を覗き込んだら、ちり紙と共に捨てられた何枚のもの柄付きの布おしめが不浄にまみれてながら盛り上がっていた。かわいい動物やキャラクター柄がくっきり見えて驚いた。
後日和尚さんがその東司から不浄を汲み取って畑に撒いている様子を見た。
紙おむつのなかった時代はぼっとんに布おむつを捨てて、土に還す事も多かったようだ。 >>285
法然親鸞が出てきてから往生は簡単になった? 阿弥陀に腐ったリンゴをめぐんでやった
その阿弥陀の前で新鮮なリンゴを食ってやった
阿弥陀の奴どんな気分だったろうなw >>289
1つに念仏が明確に称名になった。
2つに往生が定まるのに、臨終を待つことがいらなくなった。
どんな死に様をするか分からないから、そこを問わない。 >>291
法然や親鸞によって阿弥陀仏自体が変わる訳なかろう
阿弥陀仏の真理も作用もある意味不変である
よって往生に関しても法然や親鸞によって何一つ変わってはいない >>289
1つに阿弥陀なんて存在しないから浄土なんてない
2つに漢訳経典にしたがって称名念仏したって意味がない
死後の世界など証明できないのに、あるかのように吹聴する馬鹿には鉄拳制裁あるのみ >>291
どう違うのですか?
↓
空也 903年 - 972年10月20日
観想を伴わず、ひたすら「南無阿弥陀仏」と口で称える称名念仏(口称念仏)を日本において記録上初めて実践したとされ、
日本における浄土教・念仏信仰の先駆者と評価される[2]。
摂関家から一般大衆に至るまで幅広い層・ことに出家僧に向けてではなく世俗の者に念仏信仰を弘めたことも特徴である。
空也流の念仏勧進聖は鎌倉仏教の浄土信仰を醸成したとされる[1]。 >>292
だから僧侶も教団も要らない。檀家制度も要らない。
なぜなら阿弥陀如来は常にはたらきかけられているから人間のはからいなど不要なのである。 >>294
空也さんか。
確かに六波羅蜜寺で、称名の、口からの念仏が仏様になってたな。
素晴らしい仏像ですね。
19願の念仏なんだろうか。分かりません。
知りません。
また調べてみるわ。
鋭いわ。
でも全く往生の道が閉ざされていた僕も含めて、底下の凡夫にお慈悲がダイレクトに届いたという法然、親鸞の浄土の仏法はすごいと思います。 空也上人なんかも、その宗派が残ってないから、その思想が知られてないけど、とても偉い方だと思います。 どうしても真宗教団の歴史にしか目が向かない所が真宗関係者の不幸というかね。 まあ組織が大きくなりすぎて気持ちも大きくなったというか、態度も大きくなったというか、
自己顕示欲や自己正当化の道具になってしまったみたいで。 昔は学校の歴史授業でも鎌倉新仏教を大層に教えていたけど、
最近は、実際は相変わらず真言天台がヒエラルキーの上にいたと見直されているみたいだね。 真宗関係者の中に、自力聖道門の僧侶を見下して、
「自分たち真宗関係者こそは阿弥陀如来のことをよく知っている」と自負してる人、いませんか? ちょっと手持ちの本を見ると、善導大師の影響を
受け、遊行など一遍上人に影響を与えてるな。
空也上人のような実践的な仏教者の生き方は、今は弱くなってるが、確かに大切だろうな。 最澄さんは、密教としてだけでなく、中国の四宗兼学の学派仏教をそのまま輸入しようとしたスケールの大きさがあって、そのお陰で日本の仏教各派が発展した功績は大きなもんやと思う
あと天台宗と浄土真宗がどっちがえらいかなんてのは知らんなあ
仏教なんてのは八万四千の法門があるから、自分におうたのを信じたらええのよ。
ワイは浄土真宗がえらいから信じてるんやなくて、色々聞いたなかで浄土真宗が一番ワイにおうとるから念仏をしとるんよ >>296
法然や親鸞が登場するまで一般人には閉ざされていて力を発揮してなかった阿弥陀仏って大丈夫なん?
阿弥陀仏の事を馬鹿にしてるの? >>261
釈尊は基本瞑想だって言ってるね
自己を精察すべし
善導や曇鸞、源信に法然、七高僧が引用されることは多いけどそれ以外の中国浄土宗の大家とかも注目されることって本当に少ないのよね
隋唐、五胡十六国時代に方便法身の話とか念仏の基本的な姿ってのはほぼ完成している
良寛さんとか念仏批判してるけど、言わんとしてる所は重なる所も多い
結局好き嫌いしない方がお得だと思うわ ヒエラルキーの下にいたことが、鎌倉新仏教の良さだろうけど。
確かに鎌倉時代の仏教として天台宗や真言宗が大勢であったという議論は確かにあるが、新しい仏教が成立し、多くの人々へ仏教が届いくはじまりである、というのが穏便な解釈だろう。
確かに303の仰る通りだと思う。 >>303
良寛さんは念仏してるよ。
どこに批判されてるか教えてください。
書きすぎたから、これだけ聞きてやめます。 303は間違え。305さんへ。
良寛さんはお念仏のお歌をいくつか残してるよ。
検索してみてください、 奈良平安仏教はクソ
鎌倉新仏教はウンコ
名称が違うだけ >>304
真宗関係者が法然や親鸞をヨイショすればするほど阿弥陀如来の価値を下げ、
じゃあヨイショしなければ真宗のオリジナリティが薄くなり、
浄土真宗の理論を信仰する自分達の存在意義を失うという矛盾を孕んだ構図になるよね。 浄土経典が成立するまで
だれも阿弥陀如来の存在を知ることが出来なかったわけだけど、
それまで阿弥陀如来の救いは成立しなかったの? 阿弥陀ってのは大乗とかいう嘘の仏教を作った奴らの正体
阿弥陀が見たかったらそいつらの墓を暴けばいい
とっくに土に還ってるけどな >>311
阿弥陀如来とは真如やから昔からのはたらきなのよ。
それをあみだと名付け奉ってるのよ
阿弥陀とは後の仏教者が作ったほとけさまやなくて
真如のはたらきを、後の仏教者があみだと名付けたのね 縁起の法は釈尊が作ったわけやなくて釈尊は気づいたひとなのよ。
酸素はそれに気づいた人がいる前は無かったかというと、それに気づく人がいる前から普通にあるのよね。 真如の働きとか言ってる時点で仏教の無知を晒してるな
阿弥陀は報身であって法身ではない
素人は黙ってな 阿弥陀仏は法性法身、方便法身だからそれでいいけど。 言い訳だな。
それだったら真如の働きという言葉を使うべきではない。
法身の働きにしてしまったら密教の大日と変わらないことになってしまう。 > 良寛さんは念仏してるよ。
> どこに批判されてるか教えてください。
すんません良寛さんと道元さん間違えてました、ええかげんなレスしてごめんなさい
諸法は無我にあるが、人間側のアプローチの方法は色々あんのよね
茶道とかになる禅宗の一派だと一期一会のご縁の座を立てるために用意に用意を積み重ねるとかで、本当に頭が下がるというか
どんな日常生活してるかにだいたい現れるんだろね、こういうのは >>313
「阿弥陀如来は真如のはたらきだ」とか言ってるだけで人間が救われるの? >>319
方便法身(報身)が働いてるだけで真如が働いてるのではない。
真如が働いたら法身説法になってしまう。 ネットって生の疑問の声を聞けるんだけど、
こういう現実的な問いに対してどういう答えがあるんだろうね。 >>320 真如が働いたら法身説法になってしまう。
ダメなの? 何のための真如という概念・存在なの? 自然法爾抄
自然というは、自はおのずからという。行者のはからいにあらず、しからしむということばなり。然というはしからしむということば、行者のはからいにあらず、如来のちかいにてあるがゆえに。
法爾というは、この如来のおんちかいなるがゆえに、しからしむるを法爾という。法爾はこのおんちかいなりけるゆえに、すべて行者のはからいのなきをもって、この法のとくのゆえにしからしむというなり。すべて、人のはじめてはからわざるなり。このゆえに、他力には義なきを義とすとしるべしとなり。
自然というは、もとよりしからしむということばなり。弥陀仏の御ちかいの、もとより行者のはからいにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまいて、むかえんとはからわせたまいたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもわぬを、自然とはもうすぞとききて候う。
ちかいのようは、無上仏にならしめんとちかいたまえるなり。無上仏ともうすはかたちもなくまします。かたちのましまさぬゆえに、自然とはもうすなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とはもうさず。
かたちもましまさぬようをしらせんとて、はじめて弥陀仏とぞききならいて候う。
みだ仏は、自然のようをしらせんりょうなり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねにさたすべきにはあらざるなり。
つねに自然をさたせば、義なきを義とすということは、なお義のあるになるべし。
これは仏智の不思議にてあるなり。
愚禿親鸞八十六歳 >>322
駄目じゃないよ。
浄土教が密教と同じものだというのならね。 真如は一如で阿弥陀なんて名前はない
そこから出たハタラキが方便法身で阿弥陀と名付けたてまつるのだ > 方便法身(報身)が働いてるだけで真如が働いてるのではない。
> 真如が働いたら法身説法になってしまう。
無自性空であること自体が回向、説法なんだって
そしてその内容は四法印
もしかして諸法を無我に行ってるから阿弥陀と名付けたのだ、というのが恩寵主義に聞こえたりしてる?
一切衆生悉有仏性、の衆生ってのはパーリ語で動くもののことだよ
仏性、ってのは人を法性を喜び、仏願に随順する仏、悟りの縁に向かわせる働きのことだよ
一切の動くものには、人、つまり私を三帰依 如来、如実の法を信楽し礼拝讃嘆する念仏ということに向かわせる働きがあるよ、というのが涅槃経のその部分の別訳になるんだべさ >>327
真如隨縁は「衆生心を縁じて」という縁起の条件があって初めて成り立つのであって法性そのものが法性として働きかけているわけではない
衆生心を「縁」にするから方便なんだよ
真如そのものは因や縁を超越しているもんだ 夕方くらいの勤行に正信念仏偈→讃仏偈としますが、
正信念仏偈と讃仏偈の間に何か入れるべきですか? 夕方は正信偈しかしてないなあ。
でもたまに領下文とか御文章とかあげるかなあ?
蓮如上人御一代記聞書(89)
一 聖教を拝見申すも、うかうかと拝みまうすはその詮なし。
蓮如上人は、ただ聖教をばくれくれと仰せられ候ふ。また百遍これをみれば義理おのづから得ると申すこともあれば、心をとどむべきことなり。聖教は句面のごとくこころうべし。そのうへにて師伝口業はあるべきなり。私にして会釈することしかるべからざることなり
お経の意味や言葉を考えながら毎回読んで親しんでないと、
お聴聞したときに字や言葉が頭に入ってこたかったりするんよね。 やはり聞法されてるんだな。
配信とかあるから真宗を聞く人も増えてるのだろう。 いや減ってると思う
お座が減ってるから本ばっかり読んでる >>332
すいません念仏和讃もしてます
一旦教本を置いて礼拝とかはするんですか?
それとも、教本を置かずに正信念仏偈→念仏和讃→讃仏偈というふうにたて続けによんでもいいですか? ワイは続けて読んでるなあ。
作法的にあってるかは知らないけど あとワイの真如の書き方が悪かったんやけど、
真如は法身やから、いろもなしかたちもましまさずことばもたえたりなんよ。
ただそれではどうにもならんから報身としての阿弥陀如来があると思うとる
弥陀如来は如より来生して、報・応・化種種の身を示し現わしたまう(聖典二八〇頁)
曇鸞大師は、
諸仏菩薩に二種の法身あり。一つには法性法身、二つには方便法身なり。法性法身に由って方便法身を生ず。
方便法身に由って法性法身を出だす。この二つの法身は、異にして分かつべからず。一にして同じかるべからず。
阿弥陀如来という言葉にした時点で真如ではありえないが、阿弥陀如来というはたらきを通さないと、法性法身の身をい出すことはでけんと思うとる >>336
それそれそれそれ!
って馬鹿野郎!
>>338
なるほど >>304
↑
これは近年まれに見る真宗を揺るがす秀逸なレスだと思う。 https://www.youtube.com/watch?v=D8WPYroqzpM
人間という悪魔が住む地獄の星・地球
悪魔を救おうとする宗教や阿弥陀
人間の都合で何もかも作られてる
そこを追及されると黙り込む狂信者たち >>343
仏教というのは常に人間中心の反省がなからなアカンのはその通りやと思う
命濁中夭刹那にて
依正二報滅亡し
背正帰邪まさるゆえ
横にあたをぞおこしける
末法の世ではいのちを粗末にする行為が横行し
私のいのちも私のまわりの環境も粗末にしていまう
欲に溺れてますます煩悩につき進んでいくので
私もまわりの環境も傷つけあってしまうのである
って親鸞聖人も言ってる 真如は法身やから、いろもなしかたちもましまさずことばもたえたりなんよ。
ただそれではどうにもならんから報身としての阿弥陀如来があると思うとる
訂正します
空を真如といったり如といったり一如といったり阿弥陀如ともいいます。
これはいろもなしかたちもましまさずことばもたえたり
その如より有の世界に働きとして形等を現す。如から来るから如来。また
有の世界に近づく事を有相方便という。方便は近づくという意味。
これを勘違いして嘘も方便と理解している人も居る 何が「なるほど」なのか意味不明
>>345
だからどうしたの? 正信念仏偈の書き下し文、
わが名よひろく聞こえかし
とは誰の名の事ですか? >>304
力発揮してなくないよ
親鸞聖人が阿弥陀仏さまを作ったんじゃない
紹介した
仏陀さまが無量寿経で解かれている
仏陀さまに文句つける気かお前 >>351
φ(・ω・*)フムフム...ありがとうございます >>350
おやおや、このスレの真宗関係者の話では
人間が阿弥陀如来のはたらきに気づく前から阿弥陀如来のはたらきがあるので
誰が紹介する、説いたという話にはならないはずですがねえ。 それとも、仏陀が説くまでは阿弥陀如来はいなかった、
仏陀が説いた時に阿弥陀如来が生まれた、
それまでは阿弥陀如来に救われるものがいなかった
ということになるのですかねえ。 >>353
阿弥陀仏さまが法蔵菩薩さまだった頃から人は存在してただろうし、成りたての頃は人知れず如来になられた
だから後から気付いたんじゃね?
駆け出しってそういう形だろう
あと、仏陀さまのみ教えだからな無量寿経も
他の宗派の多くのお経も仏陀さまのみ教えだ
仏教は仏陀さまのみ教えやねん
なにを喧嘩の火種に使おうとしてるんだ
なにが悲しくて争いを好む? >>350
ちゃんと流れを読んでますか?>>296の「でも全く往生の道が閉ざされていた僕も含めて、底下の凡夫にお慈悲がダイレクトに届いたという法然、親鸞の浄土の仏法はすごいと思います。」に対してのレスですよ
法然や親鸞の登場によりやっと阿弥陀仏のお慈悲がダイレクトに届いたと書いてあります
それまでは全く閉ざされていたと言いたい表現もありますね
>>304はそれに対しての「それまで誰にもお慈悲は届いて無かったんかーーい」と言う軽いツッコミのレスです >>350
>力発揮してなくないよ
法然や親鸞の登場と阿弥陀仏の慈悲の力は無関係という事ですよね
それなら安心しました >>342-343に対してまともに答えれる人はいないのか?
人間都合でしか書かれてないお経を信じれる根拠は何? >>304
責任上、答えておきます。
末法の時代に入り、衆生の機根が劣り、時期相応の本願念仏の教えが説かれたのです。
末法の世であるという認識が大切です。 >>304
釈尊の法門は八万四千あって上品上生から下品下生までそれぞれの機に応じて説かれとるのよ。
法然はそのなかから下品下品のものを対象とした念仏の教えを選択されて、親鸞はそれを継承したのね。
というかこの話はスレで何回も色んな人が答えてたような?
>>357
>>358
知り合いに誘われてワシが1年間通った聖典勉強会の講師がこんな感じで喧嘩して辞めたなあ 故意の悪意はたまらない。
誰も答えないから俺のスレが発端だから答えたけど。
そういうのはリアルではやるなよ。 真宗関係者という字を良く使ってる人は、
真面目なレスや普通のスレには反応せずにわざと釣りの方に反応したり馴れ合ったりしてるね。
どこの関係者さんなんやろうか? >>296をいま読んだけど別におかしな文章ではないな。
お釈迦様はそれぞれの機に応じた対機説法をしたんやけど、
法然や親鸞の教えは、釈尊の教えの中から末法の凡夫のための教えを選択されたわけやしな >>361
普通にそう読めますよ
では>>296の「全く往生の道が閉ざされていた僕も含めて、底下の凡夫にお慈悲がダイレクトに届いたという法然、親鸞の浄土の仏法はすごい」
これはどう言う意味でしょうか?
「全く往生の道が閉ざされていた」のは「僕を含め低下の凡夫」と書いてますよ
低下の凡夫とは悟っていない全ての衆生の事ではないの?
法然や親鸞の登場によりその凡夫の我々にも阿弥陀仏のお慈悲が届いたと言う意味ではないの?
違う意味があるのならご説明お願い致します >>367
いんやワイはただのここにちょくちょく来るおじいちゃんなんよ もしそうであれば、末法思想や、なぜ法然聖人が本願念仏が選択されたかを理解してください。
末法の世を生きる機根の劣る衆生に説かれたのです。
ご理解頂けた方がおられ感謝します。
レスバトルのようなのはほんとに不快なのでこれでやめます。
ヘドがでます。 >>366
歴史背景と教学をごっちゃにしてないかい?
釈尊は99人殺したオークツマラも理髪師のウパーリも学問の無いシュリハンドクも同じ仏弟子としてあつかったのね。
その当時のいしかはらつぶてのような人たちは仏教に縁の無い人たちと、1部の仏教者に思われていたのを
法然や親鸞は、「われらなり」と同じ凡夫であり仏弟子と言われたのよ。 >>369
何を不快に感じるかは人によって違います
貴方が私のレスの何に対して反吐が出るほど不快に思われたか分かりません
362にも「故意の悪意」と書いてますがどのレスのどの部分が故意の悪意だと感じたのでしょうか?
不快に感じたなら謝りますが>>304は単純な疑問と言うかツッコミですのでご理解下さい ヘドかでる、というのはあなたにではないのです。
ここで無益な議論をする自分になのです。
申しわけありません。
ただあまりに誤解されており説明に書き込みました。
末法の時代を生きる苦しみの衆生だからこそ、ただ念仏してたすけまいらすべし、という易しい仏法が説かれたのです。
法然、親鸞聖人は正法の時代に選択本願の念仏を説かれたのではないのです。
空を悟り、観念の念仏を行じ、戒律を守り
生きられる時代には相応した仏法はあるでしょう。
理解いたたけませんか。 普段から人間以外の生き物も大事にしている人間が
人間都合の目線で書かれていて、且つ人間の罪を許すことばかり書いてる経典を批判したら、
「それは正法誹謗だから罰が当たる」とか言ってしまうクソ仏教ってなんなんだろうね >>372
反吐が出るほどの不快さが相手では無くご自分に対しての事ならば
>レスバトルのようなのはほんとに不快なのでこれでやめます。
>ヘドがでます。
このような事を書くべきでは無かったと思いますよ
貴方は少し前のレスに「故意の悪意はたまらない」と書いてますし普通に読めばレスバトルの相手に対して「ヘドが出る」と表現している様に読めますからね >>374
正法誹謗という言葉は、本願寺派では使わないなあ。
ぐぐったら2件使ってる宗教団体はヒットしたけど。 >>370
で、貴方は結局
>全く往生の道が閉ざされていた僕も含めて、底下の凡夫にお慈悲がダイレクトに届いたという法然、親鸞の浄土の仏法はすごい
この文章の意味をどう捉えてますか?
法然や親鸞の登場によりその凡夫の我々にもやっと阿弥陀仏のお慈悲が届いたと言う意味ではないの?
違う捉え方があるなら説明宜しくお願いしますね >>376
浄土経典の中には謗法という言葉が出てくるんだろ?
謗法も正法誹謗も同じ意味だろうよ >>377
ワイは仏教は機に応じて誰にでもひらかれている教えと思ってるから
民衆に仏教を弘められた法然や親鸞は素晴らしいと思ってるなあ
その当時の仏教は律令仏教で庶民には手が届きにくいものやった。
それを阿弥陀如来の本願の救いを通して仏教の教えを弘められたってことでええんやないかな?
せやからワイは>>370にも書いているように、歴史的な背景として受け取ったんやが?
まあワイは本人やないから違うかもしれんけどなあ
>>378
誹謗正法と正法誹謗は字が違えば引用する経典や出来事によっては、
全く違う意味になるのね。
ワイは正法誹謗は聞いたことがないから同じ意味とは言えんのね。 >>379
ワイは嫁さんに真っ赤になって何にでも返事しちゃ駄目ってほんまは言われとるんよ。
年寄りが真っ赤になって全部返事しても逆に荒れるだけって言われてる
ワイもぶっちゃけそう思っとる >>365 法然や親鸞の教えは、釈尊の教えの中から末法の凡夫のための教えを選択されたわけやしな
なるほど、それ以前に浄土や阿弥陀如来について語った僧侶らの教えは
末法じゃなかったから意味も無し効果も無しやったんやな。 >>380 誹謗正法と正法誹謗は字が違えば引用する経典や出来事によっては、
もしかしたら浄土往生と往生浄土は違うし、阿弥陀仏と阿弥陀如来も違うかもしれないな。 真宗関係者の設定だと、法然や親鸞が出てくる前から阿弥陀如来のはたらきがあるのだから
今の時代が末法だから云々だというのは語るに値しないのでは。 >>380
なるほどです
法然や親鸞の登場によりやっと庶民の手に届いたと言う事ですね
庶民が阿弥陀仏の本願や慈悲を認識する事により何か救いの様な物が発動するのだとすれば>>304のツッコミも妥当だと思いますし
庶民の認識とは関係無く阿弥陀仏の本願や慈悲は元々から存在しているならば法然や親鸞の登場と阿弥陀仏の慈悲の力は無関係だと言う事になります >>382
お釈迦様は八万四千の法門を説いて、そのなかには、シュリハンドクやオークマツラの人らも同じく仏弟子として扱っていたってのと、
八万四千の法門のなかには、下品下生のものの教えもがあったってのも、このスレには何度も書いてあると思う
あと釈尊の最後の弟子はチャンダだしね。
>>383
それは経典にどのように使われているかだろうね。
少なくとも正法誹謗がどの経典に書いてあってどのように使われているか分からん以上はワイには何とも言えん 「阿弥陀如来のはたらきは昔からあるのだから人間のはからいは関係ない」のが正しいのか、
「末法だから法然や親鸞の教えが素晴らしい」のか、どちらが正しいのか分からん。 >>385
まあワイは歴史的な背景として語ったんやけど、法然や親鸞は仏教の教えをある意味再発見したってことでいいんじゃないかなあ?
他宗を否定してるわけではなくで、仏教は本来総ての人にひらかれている普遍的な真実はあると思う。
そこから他宗に興味を持ってもええし、浄土真宗を学んでも結構なことやと思う。 浄土往生・往生浄土は経典に出てくるのかな、造語なのかな >>388 法然や親鸞は仏教の教えをある意味再発見したってことでいいんじゃないかなあ?
あなたは良くても浄土宗教団・真宗教団がそれを許さないでしょう、
自分達のよりどころが無くなるから。
こういう所は、人間の既得権益と我欲のために宗教やってると言ったところでしょうか。 >>385 法然や親鸞の登場と阿弥陀仏の慈悲の力は無関係だと言う事になります
無関係だろうなあ、空也が200年以上前に称名念仏説いてるわけだし二番煎じみたいな感じ。 >>390
そうかねえ?
親鸞も
しかるに、念仏よりほかに往生の道をも存知し、また法文等をも知りたるらんと、心にくく思し召しておわしましてはんべらば、大きなる誤りなり。
もししからば、南都北嶺にもゆゆしき学匠たち多く座せられて候なれば、かの人々にもあいたてまつりて、往生の要よくよく聞かるべきなり。
って言ってるし、来るもの構わずさるもの追わずじゃないかなあ? >>391
じゃあ造語だね。仏陀の言葉じゃないから。 >>392
まあ親鸞も七高僧を伏し拝んでたって言ってるし、正信偈にもこれらの善知識のおかげやと書いてあるから、法然や親鸞は偉ぶってはないかと >>394
まあ漢字にせなワイらは分からんからしゃあないかと >>388
私も浄土教を否定するつもりなど一切ございません
興味があるからこのスレを見てる訳です
ただ法然や親鸞の登場により阿弥陀仏のお慈悲が初めて庶民に届いたみたいな表現には違和感しかありません
法然や親鸞以前の阿弥陀信仰者や浄土教の人達には阿弥陀仏の本願や慈悲が届いて無かったのかとツッコミたくなった訳です
釈尊の時代から法然や親鸞の時代まで阿弥陀仏は力を発揮出来てなかったのかとツッコミたくなった訳です >>397
なるほど〜
確かに大乗仏教は浄土宗や浄土真宗だけやないし、念仏自体も法然の前から普通にあったもんやから、あの書きかだとそう取られても仕方がないんかなあ。
日本語は難しい
wifiの場所から移動したけどワイね >>397 法然や親鸞の登場により阿弥陀仏のお慈悲が初めて庶民に届いたみたいな表現
まあ新興宗教教団のキャッチコピーみたいなものだろうね。
既成の仏教勢力を否定しない事には自分たちの立ち位置が無くなるからね。
浄土教を庶民に広めたのは空也もやってるし、浄土教や念仏なんかは既に天台でやってることだけど、
どうしても二番煎じが気に入らないんだろうねえ。
どうしても「我が教団が、親鸞さまが」という我欲が出てしまうんだろうねえ。 >>380
つまり『大無量寿経』に出てくる第十八願の説明箇所
「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚。唯除五逆 誹謗正法」
の【誹謗正法】とは法を謗る意味ではないってことか >>399
掲示板やからそりゃ色々なもんかおるやろなあ。
ワイは素人さんほど優しくし対応なさいって習ったなあ。
>>400
うーん、やっぱりワイが1年間通ったあげく喧嘩して辞めちゃった親鸞会の聖典勉強会の講師に話のもって行き方が似てるんだよなあ。 >>401
法を謗るであってるで、ただ抑止の文言うてしちゃならんよっていうお叱りの文なんよ。
親御さんが、悪さをした子どもに出ていけって怒るとしても、
それは悪さを叱るためで本当は悪さを戒めるためであって、
本当に出ていけって言うてるわけではないのね。 >>398
たしかに日本語は難しい
貴方も気を悪くしたならスマンね そんなにひどい書き込みじゃないと思うけどぼこぼこですね。
いえ、ひどい奴です、すみません。 >>403
>ただ抑止の文言うてしちゃならんよっていうお叱りの文なんよ
その理論は全く納得いかないね
だったらわざわざ別立てして「五逆と誹謗正法」と書く必要はないわな
その他の悪業は抑止しなくてもいいのか?ということになる
ついでに
「誹謗正法と正法誹謗は字が違えば引用する経典や出来事によっては、
全く違う意味になるのね」の根拠を教えてほしいね
あなたの言うのが本当なら「法を謗る」以外の意味があるということだろ? つまり『大無量寿経』に出てくる第十八願の説明箇所
「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚。唯除五逆 誹謗正法」
この文だけだったら意味がよくわからないのよ。だから親鸞さんは本典で他の無量寿経の文を引用して
補っている訳だよ。それと合わせて読まないといけない ちょっと調べ直したら
親鸞
唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり
親鸞聖人は「除く」と説かれたのは、逆謗が極重罪であることを知らしめ、回心(えしん)せしめて、みなもれず往生せしめようとされた意であるといわれていると書いてるね。
そもそも凡夫とは知らずに五逆謗法を犯しながら生きているもので、その凡夫に対して五逆謗法の罪の深かからんことを知らしめるためのもので、その本意は回心のためである
ってのを善導大師さんなんかが言ってたような? >>410-411
意味がわからない?????
読んだらすぐにわかる内容だよな?????
親鸞にしても善導にしてもそうだが
後世の人間が経典に書いてないことを自分勝手に都合よく解釈してるだけだろ
つーか
ホンマに言い訳ばっかで見苦しい >>412
キリスト教に大罪というのがある。キリスト教では人間は原罪を持つ存在であり、生きていくためには罪を犯し欲を持ち間違いを犯す。
その罪は罪として認めたうえで、懺悔をすれば赦されるといわれるのよ。
この本意は、どんな罪を犯しても赦されるという意味ではなく
信者に神と自らを傷つける行為に対して懺悔と回心をおこさんがためなのよ。
宗教とは断罪が目的やなくて、救いと懺悔と回心に向けようとするのが本意なんやとワイは思うとる
それは釈尊が五逆と謗法を全部犯したオークマツラやアジャセに説いた説法からそう思うのね。 狂信者は自分の都合で信仰してるからな
親鸞がこう言ってるとツッコめばそれは親鸞が言ってるだけで他の人は言ってないと答え
法然がこう言ってるとツッコめばそれは法然が言ってるだけで正しいとは言えないと答える
宗教なんてものがいかに人間都合のバカバカしいものであるかがわかる事例だ
信じてるとか言ってるけど本当は神や仏なんてどうでもいいんだろ
あくまで人間都合で神や仏が存在してるだけ >>413
>救いと懺悔
だから人間都合だってんだよ!
さんざん悪いことをしてる奴らが救われるだと?
被害にあったものからしたらいい加減にしろって話だ
図々しくて呆れるわ! >>415
そうやなくて、キリスト教の大罪は罪を罪として自覚して認めるためのものやと言いたかったのね。
仏教も五逆謗法も抑止の文であって、それが罪を罪として自覚して認め、そのことが懺悔や回心に繋がっていくものやとおもうとる。
それが人間中心の考え方や生き方への抑止に繋がっていくのよ。 >>413
>断罪が目的やなくて
それも偏った解釈だな
輪廻説や地獄の存在を説くのは断罪の側面だ
輪廻説が説かれるからこそ人間は苦に道がこの世に生まれた存在であり輪廻を脱したところが楽だと言うんだろうが
輪廻の中に生まれた人間という定義がなければ生天思想や浄土思想など存在するわけがない
あまり都合のいいことばかり言うな! >>416
罪を罪として認めるのに極楽浄土が必要か?
それなら刑務所に入って服役したり、自らを律することでもできるわな
むしろ罪を許してもらうために極楽浄土を設定してんだから
やっぱり人間都合だろうが
極楽に生まれますなんてことを言わない方がむしろ本当の意味でエゴを捨てた人間中心の考えたかや生き方を抑止ができるわ 極楽に生まれることができます ←こんな保険をかけておいてよくも罪を罪として認めるなんて言えたもんだ
本当の意味で罪を認めたいのなら他に救いを求めようとするな!! >>419
その通りだと思います。
極楽浄土に生まれたいから罪を認めますって言ってると同じですからね。
それだと全然人間都合の考え方から脱却していませんよね。 >>411
>親鸞聖人は「除く」と説かれたのは、逆謗が極重罪であることを知らしめ、回心(えしん)せしめて、みなもれず往生せしめようとされた意であるといわれていると書いてるね。
>そもそも凡夫とは知らずに五逆謗法を犯しながら生きているもので、その凡夫に対して五逆謗法の罪の深かからんことを知らしめるためのもので、その本意は回心のためである
五逆罪や誹謗正法が極重罪だと仰いますが、世の中にはもっと酷い重罪もありますけどね。五逆と法の誹謗のみを以て回心というのはかなり疑問です。
というより、罪の軽重を論ずるのであれば人間は軽罪の方が気づき難いものですよ。知らず知らず積み重ねているのは軽い罪の方でしょう。
本当の意味で回心を促したいのであれば軽き罪を犯している日常に気づかせることこそが本当なのではありませんか?
親鸞さんの言っていることはおおいに矛盾がありますね。 そういう意味では五逆と誹謗正法を唯除と書いてある理由は回心などが目的ではありませんね。
多くの軽重の罪の中からわざわざ五逆と誹謗正法を唯除として選んでいることを考えれば、
少なくとも浄土教、というか仏教?においては、「これをやっては救われませんよ」と取意する方が合理的です。 説法を聞いた聴衆が仏陀の意図したとおりの解釈をしている確証があるとは思えないが。
やはり、聞いた側が自分の都合のいいように解釈しているのが事実なのでは。
一つの教えを取っても「私はこう思います!」「いいや、僕はこう思う!」のオンパレードなんだろうなあ。 問題は、経典に書かれていないことを突然言いだすことだと思います。
素直に文の如く読むべきではないでしょうか。唯除五逆、誹謗正法とあるなら
その通りに読むべきであって、回心の為だとか言うべきではないですね。 >>407
たしかにそうですね
世に広めた関係はありましたね
しかし>>357は阿弥陀仏の慈悲の力と法然や親鸞の登場は無関係ではないか?と言う意見です >>424
うーん、
親鸞は教行信証に、「法照、十悪五逆至れる愚人、永劫に沈淪して久塵にあり。一念弥陀の号を称得して、かしこに至れば、還りて法性身に同ず」と言ってるのね。
その根拠として、涅槃経のアジャセ王の話を引用している。
アジャセ王が五逆謗法の罪を犯したあとに苦しんでいたときに、〈善いかな善いかな王罪をなすと言えども、心に重悔を生じて慚愧を懐けり、諸仏世尊つねにこの言をときたはく>と五逆謗法を犯したアジャセ王が仏法へ帰依することが救いであるとギバが説いたことを引用している
また釈尊のお弟子には、99人の人を殺し釈尊の命も狙ったアヒンサー(アングリーマーラー)の説話も大蔵経に説いてある。
この場合も五逆謗法を犯したアヒンサーは釈尊の説法を聞くことて懺悔し回心して仏弟子になっている。 正信念仏偈の、
無明の闇 晴れ去るも 惑いの雲は消えやらで
とはどういう意味ですか? >>425
無関係じゃない
気付かれず縁の下の力持ちだったのが、紹介されて有り難がられるようになった、信じて心がやすらかになる人が増えた
という功績がある >>426
だから何?
涅槃経や央窟魔羅経に「唯除」と書いてあるのか?
結局、都合のいい解釈したいだけだろうが 大無量寿経の文言の解釈に涅槃経や央掘魔羅経を根拠にしたいなら
「唯除五逆誹謗正法とは」と詳しく書いてある説明を持って来いよ
勝手な解釈ではまったく無意味
話になりませんな そもそも涅槃経や央掘魔羅経に阿弥陀が登場したり極楽浄土への転生が説かれている箇所があるとでもいうのか?
ありえない話だがな >>428
では阿弥陀仏の慈悲の力にどの様に影響してますか?
法然や親鸞が登場する事によって阿弥陀仏の慈悲の力が変化しましたか?
登場以前と登場後の人間への影響では無く阿弥陀仏の慈悲の力の違いを書いて下さいね 強めの批判されている方がおられるが、その方が今まで行じてこられた成果から
どのような結論に至ったのか大変気になる。 >>433
法然も親鸞も何も行じてこなかったのでは?
だからこそ顕密仏教を批判してきたんでしょ? >>433
法然も親鸞も何も行じてこなかったのでは?
だからこそ顕密仏教を批判してきたんでしょ? >>434
批判はしてないと思うがなあ?
法然は凡夫のために本願を選択されたと言ってるし
親鸞はいずれの行も及びがたき身なればと言ってる お経の言葉をそのまま受け取れないのは性格の問題だと思うよ。
素直じゃない、疑い深い、そういう性格なんだと思うよ。
普通は仏陀ともあろう人の言葉なら素直に受け取ると思うんだけどなあ。
そういう疑い深い人が都合の良い解釈をしてきた歴史だと思うよ。 >>435
なぜ、二師が「何も行じてこなかったのでは? 」と断言されたのか
その根拠はいかがなものかと。
・・・詳しく書いてある説明を持って来いよ・・・
・・・勝手な解釈ではまったく無意味 話になりませんな・・・ >>437
1つのスートラに、複数の漢訳経典がある事実。
スートラの言葉を表記そのまま受け取って済む流れであるならば、異訳は不要に思うですが。 >>437
誹謗正法然に関して言えば、観無量寿命経には説いておらず、阿弥陀経にはすべての者を救うとある。
親鸞は大経の誹謗正法に関して言えば、行巻で衆生を導くために方便として抑止の門(文)として書いてあると説いている。
ワイもそう思う。
中村元も大経の解説によれば
「衆生を悪に入れないため、しばらく慈悲を隠し、悪人は救わないといって悪を戒めることを抑止門という。これに対し善悪一切を例外なく受け入れる方面を摂受門(摂取門)という」
ワイは中村元ほど勉強しとらんので、中村元を否定する材料はもっとらんなあ 親鸞は
「五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。
このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり」
「すなわち悲智の心を起こして、広く四十八願を弘めたまうによりてなり。仏願力をもって、五逆十悪と罪滅し生ずることを得しむ。謗法▪闡提、回心すればみな住く」
ワイは親鸞の言うように、縁あれば五逆十悪誹謗正法を知らずに犯しかねない凡夫やとおもうとる。
逆に五逆十悪誹謗正法を犯しかねない凡夫に対して、目覚めさせ気づかせて回心させるための願いが本願やとおもうとる。 >>442
うんにゃあ
もうちょい具体的に書いて貰わんと何が言いたいのか分からんのよ >>439
ならば異訳に「唯除」の説明があるわけか
さっさとその異訳を出してこい >>440
お経を作った人間は中村元よりはるかに仏教を知ってると思うがな
お経を作った人よりも中村元の独自解釈を取るというのであればそれは浄土教じゃなく中村教だな >>441
じゃあ浄土経典じゃなく親鸞を信じとけ
阿弥陀仏じゃなく親鸞を信じとけ 涅槃経における五逆罪の部分のこと?なら難化の三機、難治の三病
それ仏、難治の機を説きて『涅槃経』に言はく
迦葉、世に三人有り、その病治し難し、一つには謗大乗、二つには五逆罪、三つには、一闡提なり
是の如きの三病、世の中に極重なり、悉く声聞、縁覚、菩薩の能く治する所に非ず
善男子、たとえば病有りて必ず死して治すること無からんに、若し膽病せんびょう随意の医薬有らんが如し
若し膽病随意の医薬無くんば、是の如きの病定んで治すべからず
当に知るべし、是の人必ず死せんこと疑はず。善男子、是の三種の人、亦復是の如し 一切衆生悉有仏性と草木国土悉皆成仏が涅槃経の同じ原文を材料にできてるんだべ?
一つの翻訳したお経の漢字をだけをこねくり回してもあんまりいいことないんでないかな 「唯除」の説明が涅槃経や央掘摩羅経に書かれてるのかと聞かれてるのに
毎回違う回答しかしてこない人って真正のキチガイなのかな >>447
>>449
そこは道綽禅師の解釈になるんやけど、
涅槃経には、五悪のものは地獄に堕ちるほどの罪と説いている。
しかしその後に一切衆生悉有仏性が説かれている。
その後の展開として王舎城の悲劇とアジャセ王の救いに展開されてるのね。
であるからして、涅槃経の五悪段>>440の抑止の門の解説にもあるように、五悪段はそれほどの罪だと衆生に気づかせるための戒めであり、
涅槃経の本意は五逆謗法のものを仏道に回心させるためのものであるという導綽の解釈に繋がっていくんやと思うのね。
>>450
ワイは意外と面白い考察になると思うがなあ?
浄土真宗も、五逆謗法を犯した山伏弁円が救われていく話は大きく扱われているし
釈尊の時代でも、五戒があるながらも五逆謗法を犯したアングリーマーラーを改心懺悔をさせて、
仏弟アヒンサーとして受け入れてるのよね。 ちとミスった
五悪段が説かれているのに、五逆謗法を犯したアジャセ王が救われているのは、五悪段は地獄に落ちるほどの罪だと衆生に知らしめんがための方便だと導綽は説いているのよね。 お菓子をお供え物として置いてるんですが、
お菓子は絶やさず古いものは下げて新しいのお供えする、というように、
お供え物がない状態は避けるべきですか?
常になんらかを供えておかなければならないですか? 仏壇屋に売ってるフェイクのケイク(菓子)
あるいは仏壇屋の隣の街で食品イミテ買う >>453
常時なにか食べ物をお供え物しなくてもよい。
お供え物したものは悪くなる前にお下がりとしていただいて、お供えしたものが粗末(棄てる)ようなことはしないって聞いたな 五逆が重罪だなんて教えてもらわなくても大抵の人なら理解してるだろうに
しかも地獄に堕ちるほどの罪というなら五逆に限らずもっと極悪非道鬼畜の所業ともいうべき酷いものがあるはずだがな
にもかかわらず、なぜ五逆謗法のみを指して「唯除」と書かれているのか、少し考えればわかるもんだがな
必死に「唯除」の話は無かったことにしようとしている真宗キチガイ >>457
うんせやから>>411にある親鸞の言葉の意味を涅槃経の話が出てきたから涅槃経を元に考察しとるんやないの? 何度言わせる気だ??
大経の「唯除」という一番大事な部分を無視して五逆謗法を語っても無意味 >>459
大経は釈尊の出世本懐経じゃないの?
釈尊の出世本懐が唯除なの? まあ、在家仏教なんだわね
五蘊、肉体とは一生の付き合いになるってのが前提となる
家族、家庭を捨て我欲を離れ肉体を統制し沙門となる、っていう出家仏教の人からはなんか奇妙なことしてるなって見えるんだろうなとは思う 「すべての者を救う。
ただ、五逆と謗法の罪の者は除く」
「すべての車両は赤信号では停止しなければならない。
ただ、警察消防救急などの緊急走行は除く」
ちゃんと除かれてるからいいと思うのだが。 「すべての者を救う。
ただ、五逆と謗法の罪の者は除く」
「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
ただ、死産などを除く」
わかりやすいよね
どうやったって救われない者はいるのだよ >>461
言いたい事は理解出来るし浄土真宗はある意味素晴らしい思想だと思うが釈尊否定にもなりえる発言はやめて欲しいし元々の本流は釈尊の出家仏教であり傍流が浄土教でありその傍流中の傍流が浄土真宗である事をお忘れなき様に願います >>462
>>463
その解釈だと涅槃経全否定になるな >>464
まあ浄土真宗は傍流なのは間違いないね
ただその解釈だと逆に釈尊を否定することになりかねんのだが? ちょっと書き方がおかしかった
浄土真宗は傍流だとは思うが、>>464の解釈は釈尊を否定してることになるんだが? 釈尊は在家信者に向けてはマニュアルになるようなものも一応残してるでよ
聖人にはストゥーパを建てて礼拝せよ、とか >>465
涅槃経はそうかもしれんが
大無量寿経がそうだとは言えないな
なぜなら
涅槃経には「唯除」はなく大経には「唯除」がある >>467
本流は出家仏教だと思いますが
釈尊の否定になりますかね?
勉強不足で申し訳ない 釈尊自体はにそういう出家と在家を差別区別するような視点は無いのではないかなあ
韋提希や阿闍世とかも最終的に出家してたっけ >>471
本当に区別して無かったのですか?
出家した弟子達に向けて説く教えと在家の人達に説く教えの内容も違っていた気がしますし
出家僧侶と在家信者では確か戒律も違ってた気がしますが私の勉強不足かもしれません >>465
涅槃経は一切の衆生に仏性が有ると言ってるだけで
すべての人が救われるとは言ってない
すべての人が救われるなら輪廻説は成り立たなくなる Gaha・t・thavattam・ pana vo vad썚ami yath썚akaro s썚avako s썚adhu hoti, na h썡 eso labbh썚a sapariggahena phassetum・ yo kevalobhikkhudhammo.
また、在家者の努めを貴方達に説きます。このように実行する人はよい弟子である。完全な出家者に関する規定は、妻ある者の故に、達成できないであろう。
P썚a・nam・ na hane, na c썚adinnam썚adiye,mus썚a na bh썚ase,na ca majjapo siy썚a, abrahmacariy썚a virameyya methun썚a rattim・ na bhu썕njeyya vik썚alabhojanam
・.
生命あるものを殺してはならぬ、そして、与えられざるを取ってはならぬ、偽って語ってはならぬ、そして飲酒は有り得ない、非梵行である性交渉を離れるべきである、夜に非時食を食してはならぬ。
m썚alam・ na dh썚araye na ca gandham썚acare,ma썕nce cham썚ayam・ va sayetha santhate, etam・ hia・t・than・gikam썚ah썡 uposatham・,Buddhena dukkhantagun썚a pak썚asitam
花飾りを着けてはならぬ、芳香を付けてはならぬ、地上に床を敷いて臥すべし、実にこれが苦しみを終焉させた方・ブッダによって明らかにされた八支からなる斎戒である。 Tato ca pakkhass썡 upavass썡 uposatham・ c썚atuddasim・ pa썕ncadasi썕n ca a・t・thamim・p썚a・tih썚ariyapakkha썕n ca pasannam썚anaso a・t・than・gupetam・ susamattar썚upam・.
その後、半月ごとの第十四日、第十五日、第八日に斎戒を守って、そして特別な半月に清らかな心で八支そろった完全な斎戒を守る。
Tato ca p썚ato upavutthuposatho annena p썚anena ca bhikkhusam・gham・pasannacitto anumodam썚ano yath썚araham・ sam・vibhajetha vi썕n썕n썚u.
その後、早朝に布薩を行った者は、食べ物と飲み物によって比丘僧伽に、清らかな心で喜びつつ、適当に智者達に分かちあたえよ 。
Dhammena m썚at썚apitaro bhareyya payojaye dhammikam・ so va・nijjam・etam・ gih썛ıvattayam・ appamatto Sayampabhe n썚ama upeti deve ti.
在家者は、規範に従って母と父を養い、教えにかなった商売を行え、怠ることなくそれを遂行している在家者は、自ら光を放つという名の神々のところに至ると。
もうお夜食食べられないねえ アーナンダよ、サールハ比丘は諸漏の滅尽により無漏の心解脱・ 解脱を現世に於いて、自ら知って、現証して具足して住んでいた…
アーナンダよ、スダッタ優婆塞は三つの束縛を完全に滅ぼすことにより、貪・瞋・癡が希薄となる故に、ただ一度この世に来て苦を終結させるだろう。…
アーナンダよ、スジャーター優婆夷は、三つの束縛を完全に滅ぼすことにより聖者の流れに入ったものであり、悪い場所に堕ちない性質のものであり、正しい覚りに至ることが決定した者である。
アーナンダよ、人は命終することは珍しいことではない、その命終のたびに私のところに来て私に聞かれれば、煩わしい。だから法鏡法門を説く。法鏡法門とは、聖なる弟子が、仏不壊浄、法不壊浄、僧不壊浄、聖者所愛の戒を成就することである。
原始仏教だと出家するのが基本やね 正信念仏偈や讃仏偈の、ページの下の書き下し文は誰が作ったんですか? 正信念仏偈は草譜と行譜、音程の取り方が違いますが、
念仏和讃も草譜と行譜の音程も違いますか? >釈迦は阿弥陀仏の化身
浄土真宗はことあるごとに密教を批判するくせに密教の汎神論(汎仏論)までパクるつもりなのか
20年ほど前だったか、それまでは否定してた「祈り」って言葉を使ってもいいことにしたり、浄土真宗の迷走が酷いな >>471
>韋提希や阿闍世とかも最終的に出家してたっけ
韋提希・阿闍世親子は出家して僧侶となったのですか?
しかしそれが本当だとしても出家在家の差別区別が無いのに何故出家したのでしょうね 当時のインド人は出家して何になるの? 何をするの? なんという身分になるの? それこそ最下層の身分になるんじゃないの?
ケツふいた布で着るもの作って着て、物乞いして生きていくっていう 韋提希に阿闍世は別に出家してないだろ、阿闍世なんかこのあと城主の仕事ずっとせんとあかんのやから
出家自体は元々ヒンドゥー教でも一生の仕事終えた王族は家を捨てて遊行、苦行サドゥー生活に入ることがあった、元々の釈迦の出家もそれに準じたもの
映画のムトゥ踊るマハラジャでムトゥパパだったかがやってたでしょ サドゥーは身分制度の埒外に入る感じでなかった?カーストから離れて法的にも死亡者扱いになるから、今の一般的な感覚だと理解できない存在ってことにもなるだろう >>485 元々の釈迦の出家もそれに準じたもの
釈尊の四門出遊は作り話だったりするよね。 >>486
アウトカーストってやつ?
まあ戸籍管理してないだろうから。 真宗では他力念仏しか認めていないので
「よーし!オイラ、これから他力念仏をしちゃうぞ!」みたいな考え方はするのですか? 緩やかに絞め殺される日本人
日本人は月4400円、年52800円という少なくない額を支払い新聞を購読し、相当な信頼を寄せている
しかし新聞が信頼に応えたことはあっただろうか
偏向し、狂った言論で日本を貶め、利己主義を美辞麗句で多い隠し、日本人を苦しめるばかりだ
そんな新聞を信頼し、少なくない代価を支払い購読しているのはもはや滑稽でさえある
新聞という虚偽に満ちた存在の本当の姿を知るべきだ
家族や隣人と話をし、新聞を実態を広めよう
それが自分の権利を守り、ひいては日本を守ることになる >>490
しないというのが建前でしょ
心の底から思わず「南無阿弥陀佛」って言葉が出るってことでは >>485
なるほど勉強になります
しかし王位に就く前に一生の仕事を終える王子なんているのでしょうか
釈尊は最初から王位継承者ではなかったと言う事ですか? たぶん引退出家させないと次代の王との間で争いになってしまうからだろ 釈尊の出家の本当の理由を知っている人ってどれくらいいるかな? >>485 出家自体は元々ヒンドゥー教でも一生の仕事終えた王族は家を捨てて遊行、苦行サドゥー生活に入ることがあった
当時出家して行をする人って仏教徒じゃなくてヒンドゥー教だよね。
来世は一つ上の身分に生まれよう、と思っていたかもしれないけど、
悟ろう、成仏しよう、とは思ってなかっただろうね。
四門出遊の話は、生老病死を踏まえてが故の後世に作られた話だろうね。 YouTubeに宮沢賢治が法華経を信じる話を宗教学者が日蓮宗の寺で講演した動画がある
その中で阿弥陀如来について少し話してるけど、インドには阿弥陀仏の像も名前すら残っていないらしい。
ただ一つだけ、阿弥陀の名前が彫られた台座が発見されてるのみ。 >>490
しますよ。
というか「他力念仏しちゃうぞ」というよりも、
信後には「一所懸命念仏しちゃうぞ」と出したお念仏が他力念仏なんですよね >>498
阿弥陀信仰はそもそも西方の思想、イランのゾロアスター教の影響を受けているという説もありますね。 そもそも仏教の考えには「来世」なんて無かったはずなんですけどね。
あくまでも現世について考えるのが仏教でしょ 釈迦の十四無記に従えば
来世が有るとか無いとか論ずることも
形而上学みたいなものに堕するのも否定されてるね
つまり釈迦以降に哲学化していった仏教は仏教にあらず
浄土や阿弥陀のようなものを「有る(在る)」と主張し続けるのも仏教ではない そこなんですよねぇ。
そもそも釈迦は「信仰を捨てよ」って言ってるのに
なんで阿弥陀信仰してるの? >>503
そういう高度な理論についていけず感情論でしか話しできない在家信者のための教えが浄土教なんだろ? 浄土思想を構成する主な三つの要素
1:アミダ仏
2:本願
3:極楽浄土
ある菩薩がいて、本願をたて、修行を積んで、アミダ仏になり、極楽浄土の主になって、人を招いている。 ちかいのようは、無上仏にならしめんとちかいたまえるなり。無上仏ともうすは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆえに、自然とはもうすなり。かたちましますとしめすときは、無上涅槃とはもうさず。かたちもましまさぬようをしらせんとて、はじめに弥陀仏とぞききならいてそうろう。
弥陀仏は、自然のようをしらせんりょうなり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことは、つねにさたすべきにはあらざるなり。つねに自然をさたせば、義なきを義とすということは、なお義のあるべし。これは仏智の不思議にてあるなり。
の部分のことやね
とっくに議論尽くされてることを掘り返して得意満面になるもすぐ先人の言葉に辿り着いて言葉を無くす、ってのは何度繰り返してもよい体験です そこで思考停止して「かたちがましまさない」という概念がどこから出てきたか、
仏とどう関係があるかを考えないのが定説です。 なんかここ最近の流れを見てたら
浄土真宗関係者はおかしいから
親鸞はおかしいになって
大乗仏教はおかしいになって
釈迦以降の仏教はおかしいって流れになってきてるような
あと何が残ってるんだろ? ただの人間ってのは否定しないなあ
ただ残された教え(概念)は凄いんだよな ただの人間だから、人間ってどういうものかを説くことができたと言えるよね >>511
でも、本当のことだよね
何も間違ってないと思うけど? >>511
真宗関係者が反論できていないから仕方ない。 >>517
>>516
説明されても論点をコロコロ変えてるだけのような? >>511
真宗関係者が反論できていないから仕方ない。 >>515
出家者だから在家の教えを説くことができないよね 釈迦が阿弥陀如来のはたらきを説いたのにインドでは浄土教はおろか仏教が滅び、
日本では仏教離れが進んでいるのはどうしてだろうか。 単なる葬式墓守宗教になったからじゃね?
無宗教葬式と墓じまいが増えたら壊滅するのは当然かも >>522
じゃあ真宗関係者は出家者の教えや聖道門・自力の行を実践してもいいと思うんだけどな。 >>524
葬式が無くなっても門徒がいなくなってもやる気があれば布教できるんだけどな。 お寺さんに言って僧侶さまにお話聞かせてもらったけど、勤行に讃仏偈を進めてくださった
讃仏偈が丁度いいのかな?
何年か前から勤行で讃仏偈をしてます
何ヵ月か前から正信念仏偈をしだしたんだけど、これって自力?
お経は唱えても唱えんでも極楽往生出来るのか?
イヤホンでYouTube聴きながらやってるw >>527
宗教が第一にやらないといけないのは布教なんですけどね 仏教って悟るための宗教だったのに
いつの間にか救済のための宗教に変わっちゃってるよね
それってもう仏じゃなくて神じゃない?? 仏教って悟るための宗教だったのに
いつの間にか救済のための宗教に変わっちゃってるよね
それってもう仏じゃなくて神じゃない?? 人間には悟りは無理だったのかも・・・じゃなきゃ浄土教なんて出てくるわけない >宗教の論理って、乱暴に言うと「トートロジー」なんです。
>はっきり書くと「信じられるか、否か」の2択です。
>これ以上でもこれ以下でもありません。
>これが大前提です。
>「お釈迦様の説かれた本当の仏教とは?」、回答「分かりません」。
http://www.kouanji.jp/sub1308.htm プロスポーツ選手や将棋プロ棋士になる人は生まれ持った才能と開花する環境があったわけだ。
みんなそれぞれ違う。釈迦は彼の人生を自分の迷いを消すために使ったけど釈迦のやり方は釈迦個人のもので他人に合うかどうかは別。
釈迦は本当に悟りきって満足して死んだかどうかわからんし。 だから「釈迦は悟りを開いた」ってのを信じるのは信仰なわけよ ここにいる奴らは釈迦が生まれてすぐ7歩歩いた、とか本気で信じてる奴らばっかりだからな
愚かにも程がある >>535
阿弥陀如来のことはよく分からないし、まだ気づいても無いけど、
とりあえず阿弥陀如来のはたらきはある、そのうち気付く、そのうちわかる
という設定を信じ続けるのが真宗の信仰だよね?
>>533 ですから自灯明、つまり自分の頭で考える必要があるんです。
禅宗だから聖道門?自力?の宗教らしいよね。
真宗は阿弥陀如来に丸投げして思考停止して念仏を称えるだけだもんね。 >>537
そうなんでしょうね。なんで「信仰を捨てよ」から信仰に入ったのかってことですけどね。 あ、さっきのHPで浄土真宗についてもちゃんと語ってるわw:
宗教の論理 親鸞聖人の歎異抄を元に考えてみましょう
http://www.kouanji.jp/sub1126.htm
>門外漢の曹洞宗僧侶が、親鸞聖人と歎異抄(親鸞聖人の著作ではありません)を論ずることになります。(浄土真宗の方、申し訳ありません)
>仏教では浄土(極楽浄土が有名ですが、浄土はいっぱいあります)はあると教えていません。
>「浄土があると信ぜよ」、これが仏教(大乗仏教ですが)の教えです。
>上座部仏教(いわゆる小乗仏教です)では、浄土自体の概念がありません。
>宗教の論理は根底に無条件の絶対信仰があるんです。
>つまり、親鸞聖人はそもそも無条件に「弥陀の本願」を信じています。
>となれば、全ての論理は当たり前です。
>つまりこの論理は単なるトートロジー(同語反復)なんです。
>それを論理学の論理を当てはめたって絶対に分かりません。
>なーんだ、くだらない。
>うーん、だからあなたは非宗教的な人なんです。
>あなたには宗教は向いていません。
>全ての宗教はこの論理で成立しています。 >>539
となると、今度は自分の中に宗教を成立させるために「頭ごなしに信じないといけない」
と脅迫観念の上に闇雲に信じる人が出てくるわけですよ。 >>540
それもそうなんでしょうね。それが宗教です >>539
これって、弥陀の本願は実際は存在しないけど、親鸞聖人はそれが存在する前提のもとに信じている、と言っているような。 >>542
それはさすがに親鸞に聞いてみないと本当のことはわかりませんね。 >>547
>>539
>全ての宗教はこの論理で成立しています。 >http://www.kouanji.jp/sub1126.htm
不立文字といいながら一番言葉に頼ってる人だな、分からないから不立文字って自己完結っぷりが凄い
自分はこれらの言葉をただの文字として読んでますよって告白に過ぎないのに >>551
頭ごなしに信じる本末転倒が真宗の宗教ということですね。 >>552
>>539
>ての宗教はこの論理で成立しています。 >>553
◯>全ての宗教はこの論理で成立しています。 この大福のもち米はどこ産で、小豆は何分煮て、砂糖は何グラムで、運送はどこがして、
皆さんよく大福について調べましたね。
ほんと、ご苦労さまです。 大福は大福である、くらいのことしか言ってないと思いますが まぁ、どの宗教どの宗派もそうした一面があるよって話だからそんなに熱くならなくてもいい気がします
今の時代色々な宗教や宗派の聖書や経典を勉強をしたり修行したりしながら信仰を決めると言うよりは何か縁があって何となく特定の宗教を信じてる気になってる人の方が多いと思います
様々な思想や考え方を認めつつ自分の考えもしっかりと保つってのが良いですね 信じるったって人間都合のものを信じるだけだろ
もっと言えば自分都合のものを信じたいだけ
まさにエゴそのものだな
どんだけ綺麗ごとで言い訳しても
自分勝手な人間どもによって環境は破壊され
日々動物は殺されまくってる
本当にエゴじゃない信仰だってならそういうものを解決してみやがれカスども そういうあなたも私も他の命を殺し自らの命を長らえているに過ぎない。
その罪業深重なる事を気づかず恥じないもの、懺悔心無き者を畜生と名付ける
懺悔有る者を人間とする。これ涅槃経の教え >>559
そういうあなたは肉や魚食べてるの?
「肉美味しい!魚美味しい!懺悔してるよ!
あー旨い旨い!今日も元気に懺悔しながら焼肉だ!」
とか思ってない?
それとも懺悔しながら肉を食べる背徳感が楽しいの? >>558 まさにエゴそのものだな
矛盾点が有ったら自由解釈したらいいだけだからなw >>559
そうだよ?
だから自分の罪深さを理解してるから来世で救われたいなどとは思わないよ
何か問題でも?
信仰なんて自分都合のものに惑わされたりもしませんが?
あなたは罪の深さを知ってる上にさらに救われたいと思ってるの?
エゴそのものだなそれは >>559
自分の罪深さを知ってるくせに来世で救われたいとか浄土に生まれたいとか考えるなんて
それこそ本気で懺悔していない証拠だと思うけどねえ
あなたの方こそ畜生だと思いますけどねえ 救われない身の者は、救われない身のものであることを自覚するのがそもそもの救いってことやね
例えば今日食べた生き物への殺生について、どれだけ懺悔しても言い訳にしかならないし報いる道なんぞ無い、それでも開き直って次の日には何食わぬ顔して生きてるのが人間というもので
毎日殺生してても開き直れる道があると思ってるならそれは本願誇りというもので、それは真宗でも否定されてる状態なんすね
自分のことを罪悪深重だと全然思ってないのにそれを自称してるわけですから
仏に遭ったことの証拠の一つには、自分の物事に対する態度、姿勢、スタンスが今までにないものになった、改まった、ということがあります
それが無い念仏は空念仏で、そこに心が起こるということが無ければ口に出した念仏には何の意味も無い、それを知らせるための念仏でしたねということになる >>564
要約すると自分が罪深いことを知ってるくせに救われたいと思ってる奴は本当の懺悔なんてしてなくて開き直ってるってことね >仏に遭ったことの証拠の一つには、自分の物事に対する態度、姿勢、スタンスが今までにないものになった、改まった、ということがあります
別に仏なんか信じてないし、嘘っぱちだと思ってるけど
改める気持ちは今まで何度も起こしてるし、実践もしてますが?
なんで仏ってものを設定しなきゃらないないのか意味不明ですな
むしろ仏なんてものを設定するから救ってもらえる言い訳にできるんじゃないの?
そんなんじゃ本当に「改まった」とは言えないね >>564 仏に遭ったことの証拠の一つには、自分の物事に対する態度、姿勢、スタンスが今までにないものになった、改まった、ということがあります
あれえ、おかしいですねえ、仏様は常にはたらき続けているのにどうなってるんでしょうか。
人間の行為が改まってないのに本当にはたらいていると言えるのでしょうかねえ。 阿弥陀仏なんて全く信じてない俺ですが
自分が罪深い人間だと思ってるし、できれば人様に迷惑かけないようにと心がけてるし
なによりも自分が罪深い人間だと思ってるから救われたいとも思ってません
一生罪を背負って生きてくべきだと思うし
死んでも浄土に生まれるべきだとは思ってません
もし来世があるなら報いを受けて然るべき場所に再生すべきだと思ってます
阿弥陀とか浄土なんて人間のエゴで生まれたものでしかありません
以上 いんじゃないかな
でもわざわざ真宗スレで書くほどのものでもないな 死んだら浄土へ行くことを願うってことは、その対極に死んだら地獄があるってことを信じてるってことですか? 人間都合のものを信じることを恥だと思わないのかな
それって神や仏が人間によって作られてるってことなのに
その矛盾に気がつかないなんて愚かすぎる >568
「善いかな善いかな、善男子、快くこの問を発せり。仏性はなほ虚空のごとし。過去にあらず、未来にあらず、現在にあらず。
一切衆生に三種の身あり、いはゆる過去・未来・現在なり。衆生、未来に荘厳清浄の身を具足して、仏性を見ることを得ん。このゆゑにわれ仏性未来といへり。
善男子、あるいは衆生のために、あるときは因を説きて果とす、あるときは果を説きて因とす。このゆゑに『経』のなかに命を説きて食とす、色を見て触と名づく。未来の身浄なるがゆゑに仏性と説く」と。
仏性未来
みんな今現在の説法、経、仏言を聞いて姿勢の転換が起こる因縁を未来に持ってるから悉有仏性だと言えるんだよ、と言ってる
自覚する道をを求めない限りは一切衆生悉有仏性って言葉にも何の意味も無い、ってのは天台とかでも定番のお話だよ
仏ってのは覚、目覚めるって意味の言葉なので
今の自分には例えば親の言葉も昔の先生の言葉も働かないし響かないよそれで親や先生の意味あるんですかね、って言われてもはあそうですか鈍い人ですね、としかこちらは答えようが無いよ
「世尊、仏の所説の義のごとし。かくのごときのもの、なんがゆゑぞ説きて一切衆生悉有仏性とのたまへるや」と。
「善男子、衆生の仏性は現在に無なり、しかれども無といふべからず。虚空のごとし。性は無なりといへども、現在に無といふことを得ず。一切衆生また無常なりといへども、しかもこれ仏性は常住にして変なし。このゆゑにわれこの『経』のなかにおいて、《衆生の仏性は非内非外にして、なほ虚空のごとし》と説く。非内非外にして、それ虚空のごとくして有なり。内外は虚空なれども、名づけて一とし、常とせず。また一切処有といふことを得ず。虚空はまた非内非外なりといへども、しかれどももろもろの衆生ことごとくみなこれあり。
衆生の仏性もまたまたかくのごとし。
なんぢいふところの一闡提の輩のごとし。もし身業・口業・意業・取業・求業・施業・解業、かくのごときらの業あれども、ことごとくこれ邪業なり。なにをもつてのゆゑに、因果を求めざるがゆゑなり。善男子、訶梨勒の果、根・茎・枝・葉・華・実、ことごとく苦きがごとし。一闡提の業もまたまたかくのごとし」と。
でしょ
因果を求めない、道をもとめない限りは全部邪業だよ、衆生も一闡提もそこはあんまり変わんないよってのも涅槃経の立場 > 別に仏なんか信じてないし、嘘っぱちだと思ってるけど
> 改める気持ちは今まで何度も起こしてるし、実践もしてますが?
> なんで仏ってものを設定しなきゃらないないのか意味不明ですな
> むしろ仏なんてものを設定するから救ってもらえる言い訳にできるんじゃないの?
> そんなんじゃ本当に「改まった」とは言えないね
仏、はただの言葉だよ
なんか仏に対して何かを想定してるように見受けられるけど、日本語に直すと目覚める、とか自覚する、とかいうホントにただの言葉
一つ一つのことにいちいち姿勢が改まった、ということもあくまで結局本人なりの自己判断になるので、きりがない道として受け入れましょうって話だし >>575
>なんか仏に対して何かを想定してるように見受けられるけど、日本語に直すと目覚める、とか自覚する、とかいうホントにただの言葉
そのはずなのに阿弥陀仏みたいな救済者もどきを作ってるのはどういうこと?
思いっきり想定してますやんw
矛盾しまくりでしょうが ていうか、この人、「涅槃経涅槃経」言ってるけど
悉有仏性を布教したいんなら別の宗派に行った方がよくね? > そのはずなのに阿弥陀仏みたいな救済者もどきを作ってるのはどういうこと?
> 思いっきり想定してますやんw
> 矛盾しまくりでしょうが
自分がそういう先入観で見てるからいろんな仏教に関する文章がまともに読めなくなっている、っていう話だよ
>涅槃経涅槃経
上の涅槃経は親鸞の教行信証からの引用だよ
読んで見れば分かるけど、教行信証は三部経の他涅槃経に華厳経、仏本行集経に大乗起信論から法華経も少し、大乗経典のけっこうな範囲をカバーして仏教解説をしてるんよ >>580
>自分がそういう先入観で見てるからいろんな仏教に関する文章がまともに読めなくなっている
ということは阿弥陀なんて救済者はいないってことだなw
まさかこの期に及んでいるとか言わないよな?w
>読んで見れば分かるけど
だから何?w
仏教解説なら仏教概説の専門書物で十分だよw そっちの方が詳しいしw
教行信証なら浄土教の本質について説明してもらわないと意味ないよね?
阿弥陀は想定されたものではないって教行信証に書かれてるのか?
想定されたものでないなら念仏唱えたって意味ないよね?
想定されてないのになんで「念仏を唱えれば」って想定をしてるの?
だから矛盾だって言うんだよw >>580
>自分がそういう先入観で見てるからいろんな仏教に関する文章がまともに読めなくなっている
ということは阿弥陀なんて救済者はいないってことだなw
まさかこの期に及んでいるとか言わないよな?w
>読んで見れば分かるけど
だから何?w
仏教解説なら仏教概説の専門書物で十分だよw そっちの方が詳しいしw
教行信証なら浄土教の本質について説明してもらわないと意味ないよね?
阿弥陀は想定されたものではないって教行信証に書かれてるのか?
想定されたものでないなら念仏唱えたって意味ないよね?
想定されてないのになんで「念仏を唱えれば」って想定をしてるの?
だから矛盾だって言うんだよw >>584
>「讃仏偈」の「讃仏」というのは「仏さまを讃える」という意味で、「偈」とは「うた」のことです。
この「仏さまを讃えるうた」は、『仏説無量寿経』というお経の中、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)が世自在王仏(せじざいおうぶつ)という仏さまのお徳を讃える場面で出てきます。 >>583
>自分がそういう先入観で見てるからいろんな仏教に関する文章がまともに読めなくなっている
ということは阿弥陀なんて救済者はいないってことだなw
まさかこの期に及んでいるとか言わないよな?w
>読んで見れば分かるけど
だから何?w
仏教解説なら仏教概説の専門書物で十分だよw そっちの方が詳しいしw
教行信証なら浄土教の本質について説明してもらわないと意味ないよね?
阿弥陀は想定されたものではないって教行信証に書かれてるのか?
想定されたものでないなら念仏唱えたって意味ないよね?
想定されてないのになんで「念仏を唱えれば」って想定をしてるの?
だから矛盾だって言うんだよw >>585
ありがとうございます!
では浄土真宗に関係が深いわけですね やはり意味不明。なにを言いたいのかさっぱりわからん。
阿弥陀なんて救済者はいないってことを言いたいわけか?
この人がそう思っているならそれていいんじゃないのか
585番はよくわかります。 >>589
想定なんて無いって主張されたからそう言ってるわけだが
違うのか?
阿弥陀仏と念仏は想定じゃないのか?
矛盾してるよな? 「唱えれば」?
内容には立ち入らずずっとイメージ、想定したものを想定で批判してますってことかいな
浄土教の構造の話なら一旦親鸞は置いといていいから曇鸞あたりをちゃんと読んでみなよ、想定していた救いなんて訪れても救われるのは自我くらいで、そりゃ仏教的には特に意味の無い出来事でしょう。五蘊の中で起こったお話なわけだから
想定に無かったことだから大無量寿経とかだと仏縁に遭ったら未曾瞻覩、今までこんなの見たことないなんて言葉が出てくるんですよ
にしても想定っていうことは当然想定内と想定外、可思議と不可思議の話になるわけよね?
思議の及ばないものを不可思議と名付けて南無不可思議光如来と申したわけで、想定できる不可思議というのは仮の姿、方便の姿なんですよっていうのを曇鸞さんとかは厳密に区別して説いてるんよ
私は自分の思い込み、先入観である阿弥陀とそれ以外の阿弥陀が区別できてないってことでしょ?あなたの告白は
自分の想定した浄土教は矛盾している、ってあなたはずっと言ってるの
最初からずっと一人相撲なんすよ >>592
いや、言ってること矛盾してんだってのw
想定してないなら阿弥陀なんて想定がなんで経典によってされてんだよw
言ってること理解できてるか??
独り相撲はそっちだろw 「仏縁」なんて言ってる時点で想定だよなw
縁が仏であることが前提になってしまってるw
言ってて恥ずかしくないか?w 結局は「仏ありき」という想定の下で語ってるくせに
想定なんて無いなんてよく言えたもんだなw
素直に想定されてますと言えば問題ないのにw 「讃仏偈」の「讃仏」というのは「仏さまを讃える」という意味で、
「偈」とは「うた」のことです。この「仏さまを讃えるうた」は、
『仏説無量寿経』というお経の中、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)が
世自在王仏(せじざいおうぶつ)という仏さまのお徳を讃える場面で出てきます。
法蔵菩薩というのは、阿弥陀さまがさとりを開く前、修行者であったときの呼び名で、
世自在王仏は、法蔵菩薩の師(先生)となる仏さまです。
『仏説無量寿経』には阿弥陀さまがどのようにして仏となられたのか
ということについて、次のように示されています。
あるとき一人の国王が、世自在王仏の説法を聞いて深く感動し、
自分もこの上ないさとりを開きたいという心をおこされました。
そして、国も王位も捨て、出家して修行者となり、法蔵と名のられたのです。
このとき、法蔵菩薩は師となる世自在王仏の光り輝くお姿を讃え、
自らも世自在王仏と同じように、智慧と慈悲にあふれた仏になりたいという
「うた」(「讃仏偈」)を述べられました。
そして、法蔵菩薩は五劫という長い間、考えに考え抜いて、四十八の誓願を建て、
不可思議兆載永劫(ふかしぎちょうさいようごう)という、はてしなく長いあいだ
行をして、阿弥陀仏となられたのです。
「讃仏偈」は、このような流れのなかで示される、「仏さまを讃えるうた」
なのです。 調べりゃわかることをw
しかも自分で書いたものに「サンキュー」ってw 行為に現れてないのに「仏様がはたらいている」と言えるのだろうか。 自分にサンキュー言ったわけじゃない
588の方に言ったんだよ。
君のは意味不明だけどね。何を言いたいのかさっぱりわからん。
私は頭悪いから。 讃仏偈の無量大聖ってことの大聖って仏陀さまって事ですか?
無量大聖は数限りないって事ですよね?
それに仏陀さまの事が書かれるのは、どういった意味になるんですか? >>602
あなたがしてくれないの? ずっと待ってるんだけど? >>596
通りがかり者が失礼します。
そもそも讃仏偈は歴史上の実話なのでしょうか?
法蔵菩薩の前身の王はどこの国なのか、はてしなく長い間修行したというが数十年なのか、それとも何億万年なのか、だとしたら阿弥陀仏は他の惑星の話なのか。とか考えたことありませんか? 阿弥陀如来がはたらき続けているのに自力の人や聖道門の人が存在するとはこれいかに 阿弥陀に対抗する超強力なライバルが存在するんだな、おそらく大日 阿弥陀如来がはたらき続けているのに自力の人や聖道門の人が存在するとはこれいかに
その通り。
84000余の法門あるゆえに。 そりゃ、新幹線や飛行機が発達した現代になっても、徒歩や自転車で本州縦断する人とかいるでしょ。それとおんなじよ。 >>609
この末法の世にも八万四千の法門が存在すると言う事ですか? 救われるかは知らんが、末法の世にも八万四千の法門はひらかれとるやろなあ 救われるか知らんのは浄土門や阿弥陀仏の本願も同じですね >>613
阿弥陀仏にたくさんの人が救われてるなら人口は減らなきゃおかしいのにどんどん増えてますよねw > 讃仏偈の無量大聖ってことの大聖って仏陀さまって事ですか?
> 無量大聖は数限りないって事ですよね?
> それに仏陀さまの事が書かれるのは、どういった意味になるんですか?
ややこしいからなあ、大乗と釈尊の仏教の関係
仏仏相念、仏を仏たらしめる他力は他の仏菩薩の存在。因果でなく縁で生起するわけだから
ってのが大乗のわりとスタンダードじゃん?
徒然草にでてくるお話。
八になりし年、父に問ひて言はく、「仏はいかなるものにか候ふらむ」と言ふ。父が言はく、「仏には人のなりたるなり」と。
また問ふ、「人は何として仏にはなり候ふやらむ」と。父また、「仏の教へによりてたるなり」と答ふ。
また問ふ、「教へ候ひける仏をば、なにが教へ候ひける」と。また答ふ、「それもまた、さきの仏の教へによりて成り給ふなり」と。
また問ふ、「その教へ始め候ひける第一の仏は、いかなる仏にか候ひける」と言ふ時、父、「空よりや降りけむ、土よりや湧きけむ」と言ひて、笑ふ。
「問ひつめられて、え答へずなり侍りつ」と。諸人に語りて興じき。
兼好法師が八歳の頃、父に聞いた。「仏って何?」父は答えた。父「人がなったものだよ。」子「どうやってその人は仏になったの?」父「その人を導く、仏の教えによってなったものだよ。」子「その人を導いた仏は、誰によって教え導かれたの?」父「それもまた、その仏よりも先にいた仏の教えによって仏になったんだよ」
子 「じゃあ、人に教えた一番はじめの仏はどんな仏なの?」
父 「さあ、空から降ってきたのか、地より湧き出したのか…」
父はそう言って笑った。問い詰められて答えは有耶無耶になっちゃった、という笑い話。
優しい思い出語りみたいな口調がとても好きです
兼好パパの答えも空から来迎(阿弥陀経)住立空中(観無量寿経)したか地湧(法華経)したか、とウィットに富んでおります これは大乗における仏の生まれ方を端的に表したものなんすよね
法は普遍的なものである、という立場に立つと、釈尊に法を伝えたもの、正覚を起こさせた他力は何かって話になる。
縁起説に依るなら、釈尊には単独顕現スキルが無いっつーか、論拠が何も無いところから仏説を顕したものではない。そして釈尊にインスピレーション、覚醒を与え道を示したとされる6人の過去の行者は、釈尊が覚醒者、聖人として手を合わせ礼拝する対象の存在なのだから、もちろんやっぱり仏である。
釈尊に影響を与えたその仏は6名だっていう人からそれぞれに古来現の仏がいるから24名だっていう人もいたり、またそれは釈尊過去世の千の仏、釈尊の時代の千の仏のうちの6体なのだとか…
そしてまた釈尊はもちろん、未来に正覚するはずのマイトレーヤも未来に必ず正覚、仏を得るなら仏陀と呼んでいんじゃね?ということになった。
釈尊の時代から釈迦も合わせて七仏、釈迦滅後は過去七仏、また過去24仏という考え方があったということは、ダイバダッタ関連のことから時々聞ける話。
まあ、覚醒者って意味の言葉だからね
恐らく重複も含めて過去未来現在、三世にはそういう無数の聖人が釈尊の成道の背景としているはず、またいたはずで、それは曼荼羅のように釈尊を釈尊たらしめる思索マップチャートを作っていたと。
最初の無数の諸仏というのは、そういうふうな出来かたをしています。
釈尊と同じ縁を頂きたいなら当然それらの聖人たちの教えも訪ね、国を捨て王を捨て沙門となり、教えに触れて礼拝讃嘆供養してこなくちゃいけないねえっていう
ここでも確かに在家仏教のことは基本的に書いてなくて、あくまで出家して住居を捨て衣服を捨て、多くの戒や律を守り遊行生活をする沙門が教えを受ける対象、ってことになってますね 大経の最初の方やね
時に国王ましましき。仏の説法を聞きて、心に悦予を懐き、すなわち無上正真道の意おこしき。国を棄て王をすて、行じて沙門となり、号して法蔵と曰いき。
高才勇哲にして、世と超異せり。世自在王如来の所に詣でて仏のみ足を稽首し、右にめぐること三ぞうして、長く跪き合掌して、頌をもって讃じて曰く、で始まるのが嘆仏偈 八万四千の教えがあっても、はたらきがあるなら聖道の行や自力の行をするはずがないと思うんだけどなあ。
もしかしてはたらきって無いんじゃないの? > 八万四千の教えがあっても、はたらきがあるなら聖道の行や自力の行をするはずがないと思うんだけどなあ。
> もしかしてはたらきって無いんじゃないの?
もうちっとわかりやすくお願いします
祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理を表す。
平家物語のびわちゃんとか明白に応えてるじゃないっすか
諸法が無我に行われている事自体が法を伝えるはたらきを持っている
諸行無常、生者必滅、自業自得、ケ・セラ・セラにlet it beとか、自然法爾、ヒジは逆に曲がらない
舍利弗 彼佛國土 微風吹動 諸寶行樹 及寶羅網 出微妙音
譬如百千種樂 同時倶作 聞是音者 皆自然生 念佛念法念僧之心
舎利弗よ、かの国土では微かな風が吹くと、諸々の樹、そして羅網が妙なる音を出す。それはまるで百千種の楽、楽器が同時に鳴らされるようだ
それはこれらの音を聞くもの皆に自然に帰依する念仏、念法、念僧伽の心を生まれさせるのである(阿弥陀経)
鳩摩羅什ぼっちキャンプ好きそうみたいな、自ずから然らしむの妙を楽しまんかなみたいな文章もあるでよ >>619
それが阿弥陀仏のはたらきの説明でしょうか? 「本願寺の公式見解」なのか「ぼくのかんがえたあみださま」のどちらなんだろうね。 本山の見解つーてもな
親鸞御旧跡なんかを巡る巡拝帳文化やらを鶴の一声で滅ぼしといて何の弁明も無かったり、あんまりいい印象無いわ
今やるのがハンセン病のことでええの?浮世離れして人を育てる仕組みの無い組織が世代交代に耐えられるわけないやんって >>623
悪い印象しかないね。もうすぐ崩壊するだろ。 >>623 親鸞御旧跡なんかを巡る巡拝帳文化やらを鶴の一声で滅ぼしといて何の弁明も無かったり
なにそれ? お前らまだやってんの???
阿弥陀なんていないっつの
いつまで人間が自分たちの都合で作ったものに執着してんだよ
馬鹿かよ 阿弥陀さんは無限の時間と空間
生きるものは有限の命という枷を嵌められているけれど
命が尽きれば無限の、阿弥陀さんの世界に至る
何もない世界が極楽浄土 阿弥陀は非仏説の大乗とかいう嘘つき達が作った紛い物
人間の都合でしか書かれてないものを信じるクソ信者どもの姿
神化した仏なんて本当の仏教ではない
どんな悪人も念仏唱えるだけで極楽浄土なんて思想を作ったら業感縁起や輪廻説の否定になる 【これは警告です】
のスレタイをよく見て下さい。「御同朋」とは「志を同じくする仏道の仲間」の意味です。門徒さんや信仰のある人達が語らう場所です。
たびたび信仰を否定したり、侮辱的発言が見受けらますが、これは明確な妨害行為です。
法的に警察を被害届を出すことも可能です。罰金は50万以下です。
いいかげんにしないと、大変なことになるよ。 >>631
>>1
>批判・要望、各宗派を取り巻く諸問題、教義・教説、
>ありとあらゆる話題を取り扱います。
>阿弥陀如来から見ればみな罪悪生死の凡夫。 >>632
最初の【御同朋】の意味分からないかな。
ある寺院や教会に行ってだ。
お前の宗教は間違えだ!と叫んだり、罵ったり、それが罪に問われないとでも?
質問したりするのはいいが、はなから信仰心のない者が好き勝手いう場所ではない。
いい加減にしたほうが身のためですよ。 >>633
非難する人間だって凡夫なんですよ。
そこをどうするかが浄土真宗の、いや宗教の正念場でしょ 読経中にスマホで通話がかかってきたから出たんですけど、まずかったですかね…
後からやり直しました>< >>633
罪に問われる????
えっと
何を言ってんだお前は??
少しは法律を勉強しろよ狂信者 > どんな悪人も念仏唱えるだけで極楽浄土
親鸞も蓮如もんなこた言ってねえ定期
思い込み自慢したいだけじゃんあなた 631番633番へ
まったくその通り。賛同します。
念仏を唱える・・・?唱える?
これって親鸞さんじゃなくて日蓮さんだろ。
親鸞さんは字の成り立ちや意味に精通しておられる人だからね。
唱えるという字は使わないよ。 自演必死すぎw
やはり真宗信者はキチガイだったw
どうせ唱えるんじゃなく弥陀の本願力が働いてると言いたいんだろうなw
だったらなおさらそんなのは仏教じゃないw
バーカww 仏を神かなんかに変えた大乗仏教のアホどもw
何が弥陀の本願力だよw
笑わせるわw じゃあ初期仏教はどうかというと、釈迦が悟った解脱したっていうのを信じるという
やっぱり信仰なんだけどね。 ちなみに釈迦が神通力とか変なパワーを使ったとかいうのも後世の脚色だからw ていうか「悟る」って神みたいな何かになるものだとでも思ってるのか?w
え?
まさかw
その程度の理解力じゃないよな?w さあ実在したかなぁ?実在したとしても実際の本人は全然違ったとかいくらでもあるからねぇ。
神通力とか変なパワーが脚色だったとしても解脱したってのはどうかな? 生老病死。わかった気になってても実際は全然わかってないってことよくあるよね。
人間には3つの事しか起きない。
それは「生まれる」「生きる」
「死ぬ」である。
生まれたことは覚えていない。
死ぬことは怖い。
そして、生きることは忘れている。
(ジャン・ド・ラ・ブリュイエール) 電通と自民党のやり方
日本人の精神を腐敗・堕落させ愚民化させろ。
日本人の女を集中的に狙い洗脳しろ。
韓国人、在日同胞への批判をしてはいけない雰囲気を作れ。
ネトウヨ、ヘイトスピーチ、レイシスト等の言葉を浸透させ、同胞への批判を封じろ。
「韓国人は悪くない!悪いのは韓国政府だ!」と誘導しろ。
「反日の韓国人はごく一部だ!ほとんどの韓国人は親日だ!」と誘導しろ。
ゲイタレントやハーフタレントに「幼少期、日本人から差別を受けた!」と強調させろ。
韓国人識者やゲイタレントに政治的意見を言わせ、御意見番化させろ。
「同性婚・LGBTを全面肯定しない者は差別主義者だ!」という雰囲気を作れ。
海外セレブやハーフモデルをもてはやし、「日本人は劣等人種だ!」と植えつけろ。
「未だにガラケーの奴は笑い者」という雰囲気を作れ。
「LINEに入らない奴は仲間外れ」という雰囲気を作れ。
「日本人の男VS日本人の女」の対立を煽り、分断しろ。
日本人の男が、女から虐げられるCMを大量に作れ。
日本人同士で恋愛・結婚させない、子供を生ませないよう誘導しろ。
日本人同士で結婚していたら離婚させる方向に仕向けろ。
女が活躍するドラマばかり作れ。男は無能な役、笑われ役にしろ。
電通が力を入れるドラマには必ず韓流スターを出演させろ。
イケメンブームを定着化させ、「男は外見が全てだ!」と洗脳しろ。
移民を大量に増やしてアメリカの奴隷にするために、少子高齢化のふりしろ。
生活保護叩きさせて、生活保護を受けれないように仕向けろ。
ニート叩きして、派遣で底辺労働させるように仕向けろ。
自民党が叩かれないように矛先逸らしさせろ。 信仰ってw
「この世は苦に満ちている」、「形あるものは必ず滅す」、「苦しみの原因を知って対治すれば涅槃である」
何も間違ったこと言ってないよなw
それまでの人間が気づかなかったことを釈迦が気づいたw
事実であって信仰とか関係ないw >>641
横レスすみません。自分が体感したわけじゃないけど
瞑想してたら釈尊が言ってたことがわかる時が来るそうです
知り合いのほぼ出家者みたいな人が言ってました >それまでの人間が気づかなかったことを釈迦が気づいた
本当にそうですかね?どうしてそんなことを事実って断言できるんですか? 真宗ハゲ
「西方に極楽浄土があって」、「弥陀が教えを永劫に説いてる」、「本願力を働かせて人を救う」
は????w
どんだけ飛躍してんだよww >>649
そうですか。でもその瞑想という自力行を否定したのが浄土教なんですよ >650
ならばお前に聞くが
「この世は苦に満ちている」、「形あるものは必ず滅す」、「苦しみの原因を知って対治すれば涅槃である」
↑これは事実じゃないのか?ww >>653
だからその事実を最初に気づいたのは本当に釈迦でしょうか?ってことです >>654
釈迦じゃなくても覚者という意味の仏陀がいたことは事実だろ?w >>652
信仰だけで涅槃に至れるなら何故釈尊は自力行を行われたのでしょうか?
浄土教で意味不明な部分はここなんですが しかもお前さんも認めてるように事実を悟ったんだんだからなww >>655
>釈迦じゃなくても覚者という意味の仏陀がいたことは事実
なの?どうやって証明するんですか? 「事実」が記録されているとするなら実在した覚者がいるってことだw
何か問題でも?w >>658
ならどうやって「事実」は書かれたんだ?w
ハイ論破w >>656
それこそ真宗の人に聞いてみたらどうでしょうか >>660
論破になってない。「事実」だと書いてあるだけでしょ。
別に釈迦じゃなくても釈迦って書いたら「事実」になるんですか? >>662
は???w
意味不明w
特に2行目がww >>663
書いてあることが「事実」なら他の宗教の経典に書いてあることだって
全て事実でしょ。イエス・キリストは神の子だし、
大川某はエル・カンターレだし >>662
じゃあ「事実」はどうやって記載されたの?w
その過程は?w >>664
ワロタwwww
「イエス・キリストは神の子」←これ事実なの?wwwwwwww
信仰というならわかるけどww
事実なの?wwwwwwwww
爆笑wwww >>665
お経を編纂した人が書いた。以上。
それ以上何があるの? >>666
その言葉、そのままキリスト教スレ行ってレスしてくればいいじゃん 他人の信仰を非難する人が自分だって「信仰」から抜けきれていないことに気づいていないという滑稽 >>667
答えになってないなあwww
「この世は苦に満ちている」、「形あるものは必ず滅す」、「苦しみの原因を知って対治すれば涅槃である」
↑この事実があるってことは気づいた奴がいるってことだよなあwww >>668
お前が突然キリスト教を出してきたんだろww
何言ってんだキチガイwww >>670
だから最初に気づいたのは釈迦ですか?って聞いてるんですけど
なんで答えられないんですか?「お経に書いてあるから」じゃ
答えになりませんよ >>672
だから釈迦じゃなくても覚者はいたって言ってんだよw
日本語通じねえのかww >>673
変わらない???wwww
そんな馬鹿なwwww
「この世は苦に満ちている」VS「キリストは神の子」
比較にならんだろwwwwwwwwwwww >>674
じゃあ最初に気づいたのは釈迦じゃないじゃん、キミこそ言ってるのオカシイぞ この世は苦に満ちてるよなあwww
思うようにいかないことでいっぱいだよwww
え?
キリストが神の子?ww
何それwww >>675
比較にならないどころかキリスト教徒にとってはキリストは神の子ってのは一番の信仰でしょ >>676
最初に気づいたのは釈迦って言ってるのお前だけだけど?www >>678
信仰と事実を一緒にするなwww
日本語大丈夫かよwwwww 人生が苦である→
だから「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。 」
とイエス・キリストは言った→キリスト教徒にとっては正しい >>682
最初に気づいたのは釈迦って俺が言ってるレスどれ?www >>679
>>648
>それまでの人間が気づかなかったことを釈迦が気づいたw
あなたがちゃんと言ってますけど。あなたがですよ 最初に気づいた奴を釈迦って言った
↑これでいいか?ww >>687
>>655
>釈迦じゃなくても覚者という意味の仏陀がいたことは事実だろ?w まあ、いずれにしても事実と信仰を一緒にするのは違うからなwww >>688
ん?www
ということは釈迦が最初に気づいたとお前は認めてるんだな?www >全て事実でしょ。イエス・キリストは神の子だし
これ事実なの?www >>691
>書いてあることが「事実」なら他の宗教の経典に書いてあることだって
が抜けてるよ。そういう一部だけ抜き出して言ってることの意味を変えちゃうのは
不正行為だよね 「この世は苦に満ちている」、「形あるものは必ず滅す」
↑
これって信仰が必要?ww
信仰も何も事実だよねww >>692
「この世は苦に満ちている」、「形あるものは必ず滅す」
↑
これって信仰が必要?ww
信仰も何も事実だよねww >>692
書いてあることが事実なんじゃなくて、事実が書かれているんだよ
主客を逆転させるのは不正行為だよwww >>694
>>654
だからその事実を最初に気づいたのは本当に釈迦でしょうか?ってことです >>696
釈迦かもしれないし釈迦じゃないかもしれないwww
でも覚者がいた証明にはなってるよねwww
だって反論ができない事実が書かれてるんだもん キリストは神の子
阿弥陀は本願力を恒常に働かせて人を救う
↑
これって反論できない事実なの?www レスバ終わった後でいいんでここにおられる真宗の人
『信仰だけで涅槃に至れるなら何故釈尊は自力行を行われたのでしょうか』にお答えくださると幸いです >>697
>釈迦かもしれないし釈迦じゃないかもしれないwww
>>687
>最初に気づいた奴を釈迦って言った
↑これでいいか?ww
ちっとも良くないよねぇ。言ってることが一致してないよねぇ。 >書いてあることが「事実」なら他の宗教の経典に書いてあることだって
が抜けてるよ。
神がいるってどうやって証明するの?ww >>700
じゃあ釈迦じゃないって言ってほしいのか?www
それでもいいぞwww
だって問題はそこじゃないwww
事実かどうかだからなwww
お前の言ってる事実とやらは事実じゃなくてただの信仰だよねwww 「人生は苦」ということでも、例えば旧約聖書の「失楽園」のエピソードだって
人間がなぜ苦労して生きなければならないのかということへの
(本当かどうかはともかく)説明になっている。
別に釈迦だけが「人生は苦」と気づいたわけでは無いのでは? >>706
で?www
それが神がいることの証明になるのか?www 仏教だって成立する前からあったインド哲学の流れをくんでいることはそれこそ事実ですよね。
本当に釈迦のオリジナルの考えかどうかは怪しいのでは >>707
神がいることの証明かどうかなんて一言も言ってないんですが そもそも
神を立てる宗教と
覚る道を説いた仏教を同列に扱うなよww >>709
じゃあなんでキリスト教なんて出してきたの?www 人生は煉獄だって言ってる宗教があるんだから仏教だけのオリジナルじゃないと思いますよ >>712
本質が同じ?www
そもそも仏教は宗教じゃないって説が昔からあるわけだがwww religionの語源を考察すれば本来の仏教が宗教ではないことはよく知られてることなんだけどなwww 本質は変わらないよ。人生は苦である、だから修行して乗り越えるのか。
それとも絶対的存在に頼るのか。
浄土教は阿弥陀仏という絶対的存在に頼るんだよね。
同じ仏教を名乗りながらどうしてこうも違ったのか。 >>713
仏教ってのは覚ることでそれをなんとかしようって教えだろ?www
神に救ってもらうとかwww
阿弥陀に救ってもらうとかwww
なんだよそれwww >本質は変わらないよ。
本質が変わらないという証拠は?www >>718
人生は苦である。まさしくあなたが言った「事実」ですよ >>720
じゃあ悟れない人はどうする?それの答えが浄土教でしょ >>719
苦がもたらされる原因が神にあるか人間にあるかでは全く別物ですが?www >>721
じゃあ救いと悟りは同じ意味だと?www
そんな馬鹿なwww >>721
救われたいのなら仏教じゃなくていいwww
神に祈っておけよwww >>722
原因が神でも人間でも人生は苦であるということは変わらないよね
>>723
悟れないから救いを求めてるんでしょ >>721
それとも阿弥陀は仏じゃなくて神だと認めるのか?www >>724
じゃあ悟れない人には仏教は不要だってことだよね >悟れないから救いを求めてるんでしょ
だからなんで仏教である必要があるんだよwww >>727
不要だろwww
そもそも何度も繰り返すが阿弥陀は事実ではないからなwww >>730
だから阿弥陀仏の存在を信じるのが信仰だって言ってるし まあ不要とまでは言うと語弊があるが
少なくとも救いを求める目的ではないwww
覚れるように努力しようって道ではあるwww >>731
だからーーーーwww
信仰と事実を混同するなってのwww >>735
特に>>533 のリンク先の文章読んでみ。仏教の本質について書いてあるから たぶん仏教の経典には何の信仰も入ってないと思ってるんだろうね。それは大間違いなんだよ どうにも違和感があるんですが
お釈迦さんの実在を疑ってる人が阿弥陀仏の存在は信じていたり
仏教の教えはオリジナルだとは言えないと言ってる人が阿弥陀仏は仏でしょって言ってるのが矛盾しまくってるように思いますが ひとつだけ言えることは梵天勧請の時から仏教は仏教では無くなったと言われます
言葉にしたら真理は真理では無くなるので
なので経典などというものは仏教でないものの最たるものと言って良いでしょうね >>738
宗教や信仰の本質について語っているだけです。
もし阿弥陀仏を私が信じているように思えるならそれは誤りです なお自灯明法灯明の真意も信仰に堕さないためのお釈迦さんの最後の戒めだとも言われていますね あ、やっぱり初期仏教ですか。実践、それが出来ると信じるのも信仰なんですよ 怒らない方法みたいなこと言ってた元浄土真宗の某お坊さん、
ヴィパッサナー瞑想して破門されて結局解脱できなかったって言ってたみたいですけど ひとつ誤解されているのは
仏教には悟る手段だけではなく在家として生きていく道もあるということです
在家の五戒を守って生きる道も認めているわけです
にもかかわらず
在家でいたいが悟りの世界にも赴きたいというのはもはや仏教の本質ではありません まったくその通り。
神はあなたをどんなことがあっても愛してくれます。
神はあなたを無条件に愛している・・キリスト教
阿弥陀さまが罪悪深重の私を無条件で救う
阿弥陀様が私を救ってくださる・・これ浄土真宗
この単純な真理がわかり頷くのが難しい。
しかしこれが宗教の核心をなす信仰です。これに導くために
神学や宗学があるわけです。すなわち
人間の思考形式、合理性の型に入れて理解しようととしたり
知性の枠にはめて理解しようとする。
その中で各宗教や宗派が論理武装して争う。しかしそれは思考形式に従うことであって
信仰の本質ではない。上記の方々は思考形式の中でおかしいだの矛盾するだの言っているに
すぎないのです。 まったくその通りって…
何に納得してるんでしょう… >>745
真宗でも悟れなかった、瞑想でも悟れなかった、どうなるんでしょうか。 >>631
そうですね、このスレにきて阿弥陀如来を否定する人を見るにつけ、
阿弥陀如来はすべての人間、殊に、謗法のものを救うことはできないのだな、と思います。
唯除には抑止の意味があるとは聞きますが、あくまで、注意換気の意味でしかなく、
救われるには人間側の意志も救いの要素を左右しているんですよね。
すべてのものを救うというのは、阿弥陀如来のキャッチコピーであって、
現実を表現したものではなく、阿弥陀如来の努力目標なんですよね。 631です。救われるとか、悟とか、阿弥陀がいるとかいないとか、そんなことを論じているのは、大福を見てあーだこうだ論じてるのと同じなんです。
聞く耳の有る者は聞くがよい。と言わせてもらおうか。
一度でもいい、菩提心の欠片があるならば、念仏(南無阿弥陀仏)ないし(神ならなんでも良い)の名を心から百回は称名(唱える)してみて下さい。
怒りや愚痴が混ざっていても構わない。とにかく呼びかけてみてください。
そうすれば、分かります。 「仏の名を唱えれば、仏はそれに答えてくれる。あとは仏にま
かせればよい。」
衆生ほとけを憶念したてまつれば、仏もまた衆生を憶念したまふ。」
ということが。
聞く耳の有るものは聞くがよい。 心から阿弥陀仏を信じているならその信仰の否定や批判にイチイチ反応しないと思います
本気で信心している人や本気で修行している様な方達はその否定を笑って受け流すか、その批判を「なるほどな」と冷静に受け止めるでしょうね 宗教は得体の知れんもんの存在がなぜか自分だけを守ってくれてると思うすげー話しなのさ 不動明王なんてどう見ても化け物だし個人的にどうでも解釈してオレは守られてるはずだと信じて気が晴れるならまーそれも人生だ 阿弥陀如来の努力目標て最近会社で書かされた紙思い出した
「未達成」ランクD評価 結局私は正しい、と言いたいがために個々人の世界観なんてものは作り上げられていくのよね
そしてそれは往々にして自分を傷つけないための自己解釈の世界になるもので、実相の世界とは無関係
貴方への家族からの評価とかでだいたい分かるもの
実相からのフィードバック機能を失った脳内世界というのは、だいたいが流動性を失って沼になる
好きな事実しか受け入れないもんね
菩薩の死、というやつです
自己満の世界を作ってるならそれは無明ですよ、という出口をそれしか知らない人間に与えたのが元々の仏教なわけでね
自灯明だけじゃ何の意味も無いんよね。法灯明ってことは 仏法に照らせばそんな自分は元より存在しなかったということ、
それとの相克が無ければ、自灯明って言葉もホントにただの自己肯定のためのものになってしまう ID:DgiPtofB0=キチガイ語尾wのような仏教を理解する知能が元々なくて仏教中傷しているので、
仏罰を受けてそれ以上に知能が無くなりみんなから直ぐに論破され嘲笑される結果となっている
御功徳がID:DgiPtofB0=キチガイ語尾wに無くて当然
ID:DgiPtofB0=キチガイ語尾wを論破し嘲笑する人々は御功徳が得られる現実になっているよ >>758
得体がしれない設定なのになぜかそれが阿弥陀如来のはたらきだとわかる矛盾。 浄土真宗本願寺派のものですが、
大谷派の友達の家に泊って勤行しても大丈夫ですか? >>764
お勤めのお作法や仏壇の飾り方、正信偈の節回しなど、東西本願寺で多少違うところがあるけれど、それで双方が気分を損なわないんだったら大丈夫 六字名号の掛軸と仏像のどちらが教えに照らして正しいですか 本来無一物
ああ 思い通りにならなくて本当によかった
っていう法語まであるからな
つーか例えば光合成のはたらき一つにしても、理解できたら不思議不可思議のはたらきじゃなくなるかというとそうじゃないじゃん?IPS細胞で心臓が作れるようになったら自分の心臓のはたらきに感謝しなくなる、みたいな話じゃんそれ
自分が得体の知れないものと思ってるかどうかとそのはたらきは元より関係ない
理解できる恵みしか受け取らない、としようとするのも結局破綻してる
どんな認識論で世界を見てるのか知らんけんども ID:atF4TWyH0=キチガイ語尾wのような仏教を理解する知能が元々なくて仏教狂信しているので、
墓穴を掘ってそれ以上に知能が無くなりみんなから直ぐに論破され嘲笑される結果となっている
菅直人と菅義偉を同一視する病気に罹るというご利益の無さを証明するID:atF4TWyH0=キチガイ語尾wが嘲笑されて当然
ID:atF4TWyH0=キチガイ語尾wを論破し揶揄する人々は御利益や効き目など無いことを知ってて宗教の無意味さを覚る現実となっているよ 讃仏偈と、讃仏偈の下段のさんだんのうたが全文載ってるウェブサイトないですか?
調べたがみつからない>< >>768 自分が得体の知れないものと思ってるかどうかとそのはたらきは元より関係ない
どうして関係ないの?
それと君は譬えが下手だからそういうのやめたほうがいいよ、かえってわかりにくくなるから。
君はすごい勉強して語彙が豊富なのかもしれないけど、聞く人皆が皆そのレベルで理解できるとは限らないからね。
逆に君以上のレベルの人が聞くと、何言ってるの? と思われるかもしれないから。 神様の言う通りとかした記憶が・・・自信なしです 地域のよってバラバラかもです 浄土に生まれるというけど,この場合の生まれ方は無生の生だそうだけど
意味がよくわからない。誰か教えてください。
私が勝手に考えるに 生は内に死を条件に含んでいる・・・これは頷けます。確かにそうです。
しかし死ねばまた先に生がある。生死・生死・生死を繰り返す・・これもそんな気がする。
その間に過去には諸仏の法縁にも出会っていたが生死流転を越えられなかった・・今の自分を考えれば
これも頷ける。次へ
次2>
いま諸仏では救われなかった私がこの世で阿弥陀仏の教えに出会い,死ぬと同時に
阿弥陀仏の浄土に生まれ迷いの流転の生死を離れるという。
浄土で無量寿の命をうるわけだから、もう死なないと言うことですか?
永遠の生を受けるということですか?しかも浄土の生まれ方は私たちが思っている
生ではなく無生の生だそうです。ここがいまいちよくわからないのが一つと
永遠の命だと仏教の諸行無常の教えと矛盾しませんか?生あるものは必ず滅すと説いている
訳ですよね。なんか矛盾する気がするのですが,その辺はどう考えればいいのでしょうか 無量寿と言うのは永遠の命のことではありません。「仏の教え」が永遠ということです。
仏教は諸行無常です。阿弥陀如来も死にます。阿弥陀如来が死んで56億7千万年に弥勒菩薩が仏になるといいます。その間、人々を教化するのは地蔵菩薩です。
執着(煩悩)から離れた状態を解脱(覚り)といいます。つまり涅槃(浄土)に生まれます。執着(煩悩)するから輪廻するわけです。
「往相回向・還相回向」をご存知でしょう。この世に帰ってきて人々を教化する。「法身・報身・応身」つまり三身です。 >>776
俺たちが生まれて死ぬような、そんな生まれかたじゃないってことだね
往生や願生は生まれるとは書くけど、私たちの知っているような生まれるじゃ無いとさ
でそんなの分からなくてもいい、とりあえず知ってる感じで生まれると思ってればいい
というような事もいわれているね
永遠の命というのを今の自分の命みたいに固定化して考えるから矛盾に思える
とかそんな風に思っておくのはどうだい? >>778
浄土教では弥勒菩薩は阿弥陀仏滅後56億7千万年後に下生するのですか?
釈迦滅後56億7千万年後は聞いた事ありますが阿弥陀仏滅後は初めて聞きました
無量寿経に書いてあるのですか? >>778
浄土教では弥勒菩薩は阿弥陀仏滅後56億7千万年後に下生するのですか?
釈迦滅後56億7千万年後は聞いた事ありますが阿弥陀仏滅後は初めて聞きました
無量寿経に書いてあるのですか? >>783
入滅するよ
信心頂いていない自力の行者は阿弥陀仏の入滅を見るとある >>784
>信心頂いていない自力の行者は阿弥陀仏の入滅を見るとある
その出典は何処でしょうか? >>785
安楽集の第一大門、三身三土、あたり読んでみたらどうだろうか。 仏身は常住なれども、衆生涅槃ありと見るがごとし。 浄土もまたしかなり。 体は成壊にあらざれども、衆生の所見に随ひて成あり壊あり。
なほ導師に種々無量の色を見るがごとく、衆生の心行に随ひて、仏刹を見ることもまたしかなり。
水面に写った月と月との関係みたいな話ね >>786の言う事が本当ならば、
やっぱり阿弥陀如来は全ての者を救えないってことだ。
「アミダニョライノハタラキガー」とか言ってても机上の空論。 >>788
それだと衆生側の心の問題であって阿弥陀仏に寿命がある云々の話とは違う様な気がしますよ ここにきて阿弥陀に寿命があるという新説が出てきたのかw
さすが大乗偽仏教の浄土教だw
なんでもありだなw
まあ寿命うんぬんはどうでもいいw
そもそも阿弥陀なんて存在しないw
信じてる奴は馬鹿だろw >>792存在なんて言葉使ってたら、全ての神話や神々や仏を否定することになるけど、ここは信仰者のスレですよ。
毒を吐くために来ているのなら、ほんと迷惑な人ですね。 迷惑な人間も救うんだろ?w
阿弥陀とかいうやつはw 阿弥陀如来のことを理屈で述べる割には一向に救えていないよね?
阿弥陀如来のはたらきがあると言いつつ、どうして真宗以外の宗教が存在するのだろうね。 >>779
よく分からないなら答えないほうがいいと思うぞ。 >>792>>794という非常に頭の悪く万人に非常に迷惑なキチガイ語尾wを
阿弥陀如来様は救わず罰しているから、
仏教は素晴らしい >>799そうですね。我々から見たら能力のない人なんですよね。
月かげのいたらぬさとは
なけれども
ながむる人の心にぞすむ
(意訳)月の光と同様、阿弥陀さまの慈悲の光も届かないところはないけれども、それに気付こうとする人の心にこそ、注がれることよ。
>>794災厄をというかたちで慈悲を示されるかもしれませんね。 >>799という非常に頭の悪く万人に非常に迷惑なキチガイ語尾wによって
阿弥陀が存在しないことが証明されているから、
偽仏教はインチキそのもの >災厄をというかたちで慈悲を示されるかもしれませんね
↑
こういう無知なことを言ってるってだけで真宗信者が不勉強なのがわかるw
バーカw
バーカww 聖典の、
正信念仏偈や讃仏偈のお経の下にある書き下し文って誰が考えたの? ここのスレって書き込みのレベルの差が激しいね
なんか凄い高度な内容をやりとりしているな~と思ったら
いきなりもの凄い低レベルのやりとりが始まったりする
パターンとしては阿弥陀がいないとか主張する輩がやって来ると
それまで聖教の事とか書き込んでた人が一斉に引いていく感じかな
まあ現実の世界でも同じ事が起こっているんだろうな 浄土真宗のスレが高度な内容だった事などありましたか?
低度が低く敷居も低く広いのが特徴ではないかと思いますよ
高度な内容を求めるなら他宗派の教義を学ぶべきですね 高度というか、マニアックな書き込みをする酔っ払いがいたな。数年前だが。 それワシかもしれん
焼酎飲んでちょいちょい書き込んでた >>809
敷居が低い(笑)
日本語もまともに出来ん者が何を賢しげにいってんのよw 大乗偽仏教の浄土教が高度になるわけもなく
高度と思ってる方が普通じゃない >>813
「敷居が高い」本来は不義理をしているので行きたくても行けないと言う意味だろうが近年では上品過ぎて近寄り難い高級過ぎて近寄り難いと言う意味でも使うし辞書にも載ってるぞ
そんな事も知らんのか? >>815
真宗坊主に高度な事を求めても無駄だと思いますよ 匿名掲示板だもの
実名で書けないような恥ずかしいことを基本書きに来る 匿名掲示板だから素人がいても良いと思うの
最近はアラ探ししてマウントとるのがどこの掲示板でも増えて荒れたスレが増えたよねえ 真宗坊主に高度な事を求めても無駄>
求めるのだったら禅宗にかぎる。道元なんか正法眼蔵で
「ひとり仏にさとられる」と言っている。即ちもともと
宗教の本質には自力なんかはないということだ、
人間が仏を覚るのではなく反対に仏によって私が覚られる・・・
やっぱり他力しか本当はないんだろう。それを覚るのに一度自力の世界を実践して
自力無効を知り他力の世界を覚るのか、他力を覚れなくてもし自力のままでも
阿弥陀は浄土に往生させてくれるのだろうか?? 鈴木大拙は自力と他力に良し悪しをつけてなかった。
大拙の自力感は、人間の自力なんてのは小さなもので、
ほとんどは浄土真宗のいうような他力からの気付きである
その中の自力とは、自分のいただいた感覚や才能を使って感じることであるみたいなことを言ってたなあ 鈴木大拙さんの一番の疑問点があるのです。そもそもこの方は禅宗を歩まれて見仏の体験まで
されたお方。アメリカや日本各地で禅の教えを講演されていた。
鈴木大拙遺品展に行ったらその中に肌身離さず持っておられた内持仏が展示してあった。
今は秘書の女性の方が形見として持っているのだけど、それが阿弥陀仏なんだよね。
これって、つまりこの鈴木先生の本当の信仰というか死ぬまで肌身離さず持っていたのが
阿弥陀仏だったと言うことは,禅宗の教えを通して見性仏した仏は阿弥陀仏だったということですか? 大拙は禅宗だけど、浄土真宗を学んで禅宗を再発見したと言ってた。
外国で仏教を翻訳するときに、妙好人の浅原才市のことばなんかを参考にしたんだけど
妙好人はまさに仏教の本質を理解してると絶賛してたのよ
そのあとに大谷大学の教授にもなってたと思う 大拙は『真宗とはなにか?』のなかで、阿弥陀如来を「無限の光」「自然(じねん)のりょうなり」「絶対的な法のはたらき」と表現している
また大拙は全ての生きとしいけるもは身口意によって互いに影響を受け合う縁起の法の中に生きている
相互に依りあって生きるものとしての私として、他に影響を与え他から影響を受けていきている。
それが自己中心的な闇の中にも関わらず起こっている。
って言ってて、大拙はそれを阿弥陀如来であるとして信仰してた。
それは禅宗の信仰と齟齬のあることではないとも言ってる >>824お疲れ様です。
いつまでも経っても、絵に描いた餅論争ですね。はやくその餅を口に入れなさいよ。
そのやり方か分からないんだよね。君達は。 なるほどですね。やはり山の登り道は人それぞれあるが山の上の風景は他力念仏と言うことですね。
823番824番ありがとうございます。目指すは山の上、即ち他力ですか。 >>826
いや鈴木大拙は山の上は自力も他力も違いはないと言ってるんやと思う 真宗の坊さんのお説教は
他力でもう安心なんです、あとは阿弥陀様におまかせの人生です
とかいって自分の努力まで否定して話しているところがうさんくさい
そんなの霊験あらたかな壺買ってあとはおまかせと同じじゃないか
そもそも真宗坊主が不勉強で親からの世襲でのうのうと生きているところが信用できん
その最たるモノが本願寺にいま居るアレだから >>828
そんな説法するお坊さんがおるんかあ~?
ワシは聞いたこと無いけど、自信教人信の否定にもなりかねんな。 阿弥陀なんていませんから
大乗偽仏教だよ?
君らわかってる? >>830
いるとかいないやなくて、阿弥陀と名付けたてまつるなんよ >>831
ID:PhGWBjAU0=ID:n0SmQUiH0は物凄い池沼ということで有名なキチガイ語尾wなので、
そんな高度なことは理解できませんよ キチガイ語尾wの自作自演はすぐ分かる
今は運営も来ているから容易に教えてくれるが
そうでなくとも文体などですぐ分かる
あまりにも低脳過ぎるのでキチガイ語尾wは自作自演できない >>832
ID:iHfMlTI20=ID:9CyRrdvE0は物凄い池沼ということで有名なキチガイ語尾wなので、
そんな高度なことは理解できませんよ キチガイ語尾wの自作自演はすぐ分かる
運営が教えてくれるとか言ってるが他スレでホストが見れないことがバレて恥をかいてた
文体を見て敵じゃないと判断したようだが
相手は見事にキチガイ語尾w=ID:iHfMlTI20=ID:9CyRrdvE0の敵だったというオチ
あまりにも低脳過ぎるのでキチガイ語尾wは自作自演がすぐにバレる 不立文字を文字で表す矛盾に気が付かないくらい感覚が弱ってらっしゃる人 かもしれない
丁寧に扱うんだぞ >>838
聖道の人間ならいざ知らず、浄土往生を目指す凡夫の宗教スレに集まる奴らはこのレベルでしかないだろ。
教えを語る奴も聞く奴もこの程度。
目くそ鼻くそ、団栗の背比べ、とは言ったものだ。 信心歓喜というけれど、歓喜の心が起こらないのはなぜですか?
歎異抄にもよく似た質問があって唯円さんが浄土に参りたい気持ち歓喜の心が
起こらないと言っています。親鸞さんの答えは自分もそうだと言われています。
原因は煩悩だと言うことですが、これってどういった意味なんでしょうか
皆さんは歓喜の心が起こりましたか、またそれは一時的ですかずっと続いていますか? その点を私は何度か大福や餅を例えて指摘しました。
厳しい或いは反感を買うかもしれませんが、それは悟りとか救いの初段階・第一の段階に入っていない事を表しています。
その今の自分の疑問を大事にして求道に励んで下さい。 >>830=>832=>>835-836はいつものようにinfowebで書きこんでいるので、
間違いなくキチガイ語尾w
そうでなくとも、「大乗偽仏教」とか「功徳が無い」とか仏教を誹謗しているだけでも
キチガイ語尾wだと分かるけども >>842
プロバ把握できるとは、5chの運営者? >>842=>843はいつものようにホストが見れると嘘を書きこんでいるので、
間違いなくキチガイ語尾w
その証拠に遍路スレでキチガイ語尾wを叩いてる人を見抜けなかった
そうでなくとも、「菅直人は今も首相」とか「コロナは蔓延しなかった」とかsageながら捏造しているだけでも
キチガイ語尾wだと分かるけども >>840
親鸞は、「まことに知んぬ。悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず。真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべし」と言っている。
これは念仏申せば申すほどに、自己の煩悩性が顕かにされたことに対する親鸞の懺悔なのね。
親鸞は自己の煩悩を深く懺悔してるのよ。
仏教ではそもそも人とは、喜ぶべきことを喜ばず、喜ぶべからざることばかりを喜び、悲しむべきことを悲しまず、悲しむ必要のないことをのみ悲しみ、楽しむべきことは楽しまず、楽しむべからざることをもっぱら楽しむのである。要は煩悩ゆえに喜び、煩悩ゆえに悲しみ、煩悩で楽しむ凡夫だからである。
これを無明の煩悩と言う。
親鸞はこれは悲しいが凡夫として全くの現実の姿だと唯円に言ってるのね。
これは悲しいことではなくて、この凡夫の自覚はスタートみたいなもんなんやろなあ。
よくぞこそれに気づいたみたいなもんや。
そこに気づかんで有り難いとか言える方が逆におかしいって親鸞も言っとる。
ワイは自分が凡夫と気づかされたらほんまやなーって反省するし、知らないことを教えて貰っただけで嬉しいもんやなあ ワイは思うんやが、釈尊のことばで「 怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。」ってことばがあるんやが、しょうもないあらしをしてる人はこれをどう解釈するんやろか? わかりきったことを言って喜んでるあたりまさしく凡夫。
みんながどうして信仰をしているかってことが1㍉もわかっていない >>846
思いっきり勘違いしてると思うんだが
この世は恨みが発生する事象を繰り返して成り立ってる
食い食われる関係性であれば当然のごとく
食われる立場の被害者は食う立場の加害者から攻撃を受けたらそのことを恨むに決まってる
加害者が被害者を食らうことができなければそのことで加害者が被害者を恨むこともあるだろう
恨みは良くないから食われとけとでも?
あるいは恨みは良くないから食うなとでも?
だったらアンタも何もせずに座して死んで行けよ
ハイ論破 >>847
ワイは素人のおじいちゃんやし凡夫やからわかりきった解釈しかでけんなあ
まあ参考に>>847の有り難い解釈を教えてくれ。 >>848の考え方と価値観はなんとなくわかったけど、釈尊の言葉に対する解釈としてはなんか違うと思うなあ >>849
オレも凡夫だし別に有り難くないよ、宗教とは信じること、ただそれだけってことです。
だから信じない人には何も無いしそれで終わりです。 >>850
>>848はいつものあの有名なキチガイ語尾wだよ
infowebでレスしている奴ね
>>848キチガイ語尾wは奈良の人間らしい
仏教を誹謗しているから、阿弥陀如来さまから智慧が授からないのだよ >>848
>>852はいつものあの有名なキチガイ語尾wだよ
infowebでレスしている奴ね
>>852キチガイ語尾wは奈良の人間らしい
ちなみに菅直人が今も首相やってるとか言ってるキチガイね
仏教を曲解しているから、阿弥陀が大乗偽仏教から生まれた偽仏だということを理解してない >>853
これのことですよね? たしかに>>852は低脳の荒らしですね
↓ ↓ ↓
505名無しさん@京都板じゃないよ2021/08/16(月) 17:49:19.63ID:3q0Engok0
それどころか日本そのものが新型コロナ感染はさざ波でしかないよ、今も尚
菅直人もまだ首相続けることで来ているし、清原も捕まったのにテレビ及び野球復帰できている
何より東京オリンピック2020が大成功し、メダルも大量獲得成就
そしてID:kVvySQHH0=キチガイ語尾wが仏罰を受けて池沼になっている
高野山内で災を受けているのは高野山に仇なすもののみなので、
真言密教の護摩の効力が非常に強く良い効力 人間の思考の及ばない阿弥陀如来のはたらきの存在を
「在る」と捉えることができるというのはどういうことですか? 「在る」と思い込みたい
或いは幻覚が見えている
のどちらかだろうね 仏だんの前の座る所に布団敷いて寝転んでます
友達が泊まりにくるから布団2枚並べてて、部屋に余裕がないからです
これってまずいですか? 別にまずくない
仏なんていないので
だって宗教家(坊さん)の言い分だと「仏様はいつどこにでもいらっしゃいます」だろ?
仏壇の前でだけ粗相をしたらダメってのは理屈に合わない 仏壇や床の間に足を向けて寝るのはいけないって言われるけど、その部屋で寝ること自体がダメだなんて、聞いたことがない >>857
蓮如上人が石山本願寺に帰ってきたら、一休さんが本堂で寝てたって話を布教使さんから聞いたなあ。
浄土真宗はお仏壇は生活とともにやから、昔は茶の間に普通にお仏壇があったとか 皆さんレスありがとうございます
寝まくります!!w 念ずるところに仏がいるのなら仏壇も究極的にはいらない >>863
本来はいろもなしかたちもましまさずやからな。
世俗の君子幸臨し勅して浄土のゆえをとう 十方仏国浄土なり なにによりてか西にある
鸞師こたえてのたまわく わが身は智慧あさくして いまだ地位にいらざれば 念力ひとしくおよばれず
あくまで仏壇は方便なんやろなあ。 また釈尊が亡くなったあとに残されたもの達がストゥーバを建てたように、
祈りを形として顕したもんでもあるんやろなあ。 いろもなし形もない真理が有の相を示したということですか。方便も意味は近づくという事ですから
真理が有の相に近づく=有相方便。私はてっきり嘘も方便と思っていました。 > 人間の思考の及ばない阿弥陀如来のはたらきの存在を
> 「在る」と捉えることができるというのはどういうことですか?
つーか思考の及ぶ範囲のはたらきの存在ならあなたは捉えられるんですか、という話だよ
色、形、言葉で表したものってつまり月指の例えでいう指の部分で、それが相、つまり姿のある方便なわけやん
指無しに月を指差すことは元々不可能、だから人間は言葉や文字、色や形で月を表現しようとしてるわけで
そしてそれが実態の月のことをドレだけ表現できたとしても、それがいつまでも一部分に過ぎないてのは当たり前のことで 人間の思考が及ばないのに「在る」と捉えることはできない。仮に「在る」と捉えることが出来るならそれは信心です。
ですが、如来が在すことを前提として「信じる」なら第二十願になります。
つまり「如来あっての信」なのか、「信あっての如来」なのか、ということです。
「我如来を信ずるが故に如来在ます也」と曽我量深は説いております。 >>866
嘘も方便は元は有相も方便から間違ってできたという説があるね
門徒もの知らずが元は門徒物忌み知らずから間違ってできたと似たようなものかな >>863
このスレでは、仏は常にはたらきかけているという設定だから、念ずる必要もない。 働きかけてもいないし存在もしてない
弱い奴がそう思い込みたいだけ
そんな暇あるなら殺処分される動物を一匹でも救ってみろ >>870-871
海水のありがたさに気付いていない者が、船をこぎながら「海水なんて無い。空を飛んでいるだけだ」と強弁しているようなものです
その場で急に海水が無くなったら、海底に叩きつけられる
海水が慈悲で助けてくれていることを理解していない >>872
空想ばかり語ってないで阿弥陀とやらの働きや存在を証明してみろ
バーカw 阿弥陀仏は奈良infoweb>>871=>>873を救わないで著しい低脳にさせているから、
ちゃんと仏敵に仏罰を与えていることで阿弥陀仏は実存が自明となる
奈良infoweb>>871=>>873は著しい低脳なのでそれを全く理解できない 阿弥陀仏が低能な奈良infoweb>>875によって存在しないことを証明されているから、
結果的に菅直人が今も首相をやっている発言で阿弥陀が存在しないことが自明となる
奈良infowe>>875は著しいキチガイなのでそれを全く理解できない なぜかキチガイの>>875は「念仏無間」だといって念仏を馬鹿にしている>>874は攻撃しない
このことから>>875が菅直人が今も首相をやっているとかいうアホな発言をしたことを俺に晒されて
俺を恨んでいるらしいw
>>875が顔真っ赤だということがはっきりしたなw
ハイ論破w >>877
ということはキチガイの>>875は論破さんが憎いだけで
本当は仏教とか念仏なんて信じていないってことですよね
やっぱりキチガイの>>875は
菅直人が今も首相をしているとかいう馬鹿な発言を晒されたことがよっぽど頭にきたんでしょうね >>872
なぜ阿弥陀如来は地球上のすべての人間にありがたさを気付かせられないの? このスレは元々浄土真宗の門徒さん達が語らうサロンであり、初めに御同朋とあるでしょ。
なのにすっかり未信仰者の溜まり場になってしまい。門徒の方々には迷惑な話ですね。
信仰を否定する人は、初めから見るな、来るな、ってことよ。 阿弥陀如来にもっと強いはたらきが有れば>>880の様に後悔の念も出なかったのに >>880
お前さんこそ本当に純粋に信仰してんの?
ここ5ちゃんねるだよ?w
そんなところに書きに来てるってだけで信仰が本物かどうかあやしいもんだよw 真宗を純粋に信仰したら排他的になるという話は本当だったんだな。
むしろ真宗を信仰して「あれがダメこれがダメ」という思考になるのなら
信仰しない方がいろんな人と付き合いが出来て心豊かに生きていけるんじゃないか? > 人間の思考が及ばないのに「在る」と捉えることはできない。仮に「在る」と捉えることが出来るならそれは信心です。
> ですが、如来が在すことを前提として「信じる」なら第二十願になります。
思考が及ぶものとは?
猫と猫ファンが作った猫のムック本が同じものに見えてたりするんですか
思考が及ぶものと存在を認識できるものをなんで一緒くたにしてるのか、認識できた、過去形の如来てのがそもそも方便絵像名号、書類上の存在ってやつでしょ
タターガタについてなんかえらい誤解してること無い? 狂信者には悪魔すら天使に見える
自分の信じたいものを美化してるだけ
以上 宗教って本当は自己否定から入るもんなんだけどな
狂信者にとっては自己肯定の言い訳に都合よく利用できるのが宗教って感じ 真宗を信仰して「あれがダメこれがダメ」という思考????
浄土宗、真宗は選択が基本。
選択とは取捨の意なり。選び捨てと選び取りね。
念仏を選び取ると同時にそれ以外を捨てる。あれもこれもじゃ不十分。
念仏以外すべてを捨てろ。念仏も題目も四国巡礼も・・だったらだめだ。 >>890
他を劣ったものや要らないものとして否定してるの?
選択ってのは色々な道がありそれを道として認めてるうえで
凡夫の機に応じる救いは他力本願と言ってるのだと思うけど?
親鸞は「いずれの行も及びがたき道なれば」って言ってるが
及びがたきは駄目って意味ではないような? >>889
それも都合のいい解釈だなw
真宗を信じるスタート地点は自己肯定だろうがw
真宗信仰前の他所のものまで含めるなよw そもそも自力なんてやる前から諦めてる奴の集団だろ真宗信者なんてw
自力を語りたいならわずかでも修行してみろってんだw >>890
新纂浄土宗大辞典 - 選択
せんちゃく/選択 より
仏による選び取りと選び捨てのこと。法然による創唱であり、その主著『選択集』を
貫く思想内容であり、専修念仏の思想的根拠。法然以後に連なる、
いわゆる鎌倉仏教における行の専修化に多大な影響を与えた。
一般的には「せんたく」と読んで、複数のものの中から、目的に沿うものを選び取り、
それ以外のものを選び捨てることを指すが、法然が「選択」として用いる場合は、
その主格は弥陀・釈迦・諸仏の三仏に限定され、それだけ慎重にこの語を
用いていることが窺える。
(~中略~)
仏の側からの取捨という選択思想は、その人間観や世界観を把握し得ない者には、
誤解を招く恐れがあることから、法然は他書に選択思想を明示、展開することに
慎重な姿勢を保持している。
http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E9%81%B8%E6%8A%9E >>894
それは>>889に言えよw
自己否定を自力他力に結び付けて語りだしたソイツにw >>896
>>889のレス見たけど真宗っぽく見せた釣りかなコレは
>>890とか見たらまんま釣りだし 阿弥陀仏の存在とか興味無いしそもそも大して信じてないけど「なむあみだぶつ」と言う言葉を発声するだけで良いなら全然抵抗なく出来ますね
どんな効果があるのか教えて下さい >>898
臨終の時に阿弥陀如来が観音勢至両菩薩を従え、極楽浄土からお迎えに来るのが称名念仏のメインの効果。
サブの効果としては、六方の如来により護念される。また他にも阿弥陀如来や観音菩薩にも護られる。滅罪増上縁、護念得長命増上縁、見仏増上縁、摂生増上縁、証生増上縁の五種の増上縁の利益があるとされる。 >>898
功徳や効果は無い
無いから練り供養みたいなことして聖衆来迎があるように見せている
でも練り供養を見たからって何か起こることはない
ちなみに観音勢至の脇侍としての扱いは宗派や経典によって左右逆転したりけっこういい加減w
そりゃそうか適当に作られた尊格だもん 藁 仏教を理解できない奈良からinfowebでレスしている>>900=キチガイ語尾wは仏敵なので、
かなりの池沼になる仏罰が与えられているので、
阿弥陀如来のお力はかなりあることが証明されてる
阿弥陀如来を信仰すれば救わる証拠を仏教を理解できない奈良からinfowebでレスしている>>900=キチガイ語尾wは
身をもって証明している 仏教を理解できない奈良からdocomoとMVNOとinfowebでレスしている>>901=キチガイ語尾wは
今の首相が菅直人だと思ってるくらいアホなので
かなりの池沼になる地獄を与えられているので、
阿弥陀如来は存在しないことが証明されてる
阿弥陀如来なんか信じても何も起きないことを理解できない奈良からdocomoとMVNOとinfowebでレスしている>>901=キチガイ語尾wは
身をもって自らのアホっぷりを証明している 正論過ぎますねw やはりキチガイ語尾w=>901は仏教や阿弥陀なんて信じてはいなかったw
↓ ↓ ↓
877名無しさん@京都板じゃないよ2022/05/29(日) 01:11:02.76ID:QAQknWtz0
なぜかキチガイの>>875は「念仏無間」だといって念仏を馬鹿にしている>>874は攻撃しない
このことから>>875が菅直人が今も首相をやっているとかいうアホな発言をしたことを俺に晒されて
俺を恨んでいるらしいw
>>875が顔真っ赤だということがはっきりしたなw
ハイ論破w >>899
阿弥陀仏を大して信じて無くてもそれだけの効果があると言う事ですか? >>904
阿弥陀仏を信じても効果は皆無ということですよ
論破さんの言ってることがすべて正しいです >>904
初めは信じてなくても、念仏を称えることで心に信が宿り、信じて称えることで>>899の利益が得られる。
しかしこれは、真宗よりもむしろ、天台宗浄土宗的な念仏「行」の発想。
浄土真宗は後半の「信じて称えれば」以降について、種々のご利益があると、その名も「現世利益」和讃で言ってる。具体的にはググって下さい。 >>907
大して信じて無くても様々な効果が得られると>>899には書いてありますが907さん的には信じる事が出来てから初めて様々な効果が得られると言うお考えなのですね
その方が理解し易いからしっくりきますね
>>899さんの様に大して信じて無い者に対しても様々な効果があると言われると正直疑ってしまいますからね
浄土宗や浄土真宗の一般的な考えでは「なむあみだぶつ」と発声しても阿弥陀仏を信じて無いと効果は得られないと言う事でしょうかね? >>908
いや、念仏を称え続けていることで信が生まれるので、結果的には同じところに行きます。 「信じて」念仏するのが基本という意味では天台宗のほうが厳しいですよ。
信じてないのに極楽浄土の有り様や仏のお姿を在るがごとくに観想するって難しいですよね。
そういった他の行は捨てて称名念仏だけで足りるのだとしたところが法然上人の画期的なところなわけで。 いや、念仏を称え続けていることで信が生まれるので、結果的には同じところに行きます
????この問題点は主語が抜けていてわからないところです。
誰が念仏をするのか?
信はどこにおこるのか?
法然様は私が念仏をする。信じて念仏すればよし。不信の者も念仏をすればやがていつか信がうまれる
要は念仏することが大切。
親鸞さんは仏が念ずる。仏が私を念じている。これが念仏。仏の心を信心。
念仏も信心もすべて仏の心と行為としたんだよ。 神や仏は迷いの衆生より高い世界にいる。即ち相対的なのですよ。こういう神仏に救われるためには
私が神仏の示す行を行じて上らなくてはなりません。ハイデッカーはここを指摘をして天にまします神という概念は
高見にいる神であって地上世界と対立をしていると批判をしたわけです。
本当の神仏は上下区別そのものを越えていなくてはならない。神仏が低いところにおりてこられる事だと
主張したわけです。だから最後にハイデッカーは阿弥陀如来・仏に帰依をした。なぜなら
凡夫を凡夫のままで救うという阿弥陀如来の救い方こそ真実だからです。
だから諸仏も阿弥陀を褒め称えるのです。 阿弥陀仏は超世の願をおこした。この超世というのは凡夫と仏の区別を超越したという意味です。
簡単に言えば一番高いところに上っただけではなく同時に一番低い所におりることが出来たと言うことです。
衆生の貪じん煩悩のなかに、よく清浄願往生の心を生ぜしむ・・・・・・善導さんの言葉を親鸞さん引用
一番高いところにおられる仏が一番低い所にいる私のところに現れ出てくださった。これが即ち念仏ですよ。 >>911
そうやって私の心、仏の心、信の主体は何かとほじくり返しても、ただのお遊びにしかならないと思います。
最後にたどり着くところは同じですよ。 鈴木大拙さんの話はわかりやすいよね
如来についての共通認識がスレで成り立ってないのがちょっと新しい発見だった
同じ山をどのルートで登るかって例え話が成立しなくなってまうよね、それだと >>913
それはどっかで同じ話を読んだなあ。
五劫思惟之摂受について親鸞さんが書いてたんだよなあ。
どこだったっけ? >>909
それだと称え続けないと効果が無いとも解釈出来ますが大して信じて無くて「なむあみだぶつ」と数回称えるだけでは効果が無いと言う事でしょうか? >>913
なるほどそれだと衆生側の信心の大小は無関係だと言う事でしょうか?
阿弥陀仏を深く信心しようが大して信じて無かろうが同じように様々な効果は得られると言う解釈で宜しいですか? >念仏を称え続けていることで信が生まれる
は?
それはもはや信じゃなくて自己洗脳だろ
自灯明ってそんな意味じゃねえよw 「衆生貪瞋煩悩中能生清浄願往生心」(衆生の貪瞋<とんじん>煩悩の中に、よく清浄願往生の心を生ぜしむる)(『真宗聖典』220頁)
ハイデッカーの手紙は本願寺新報社に送ってきたものと
また西田幾多郎先生の論文場所的論理と宗教的時間を参照にしました。
芥川の蜘蛛の糸は地獄にいる私を救うために仏は浄土より蜘蛛の糸を垂らした。
阿弥陀仏は違います。阿弥陀仏の救い方は高いところから哀れな凡夫に糸を垂らすのではなく
地獄に落ちていく凡夫を下で待ち構えて落とさず救う。
仏教の歴史の中で大乗仏教の究極の精神は鎌倉時代の日本の親鸞という宗教的天才によって発見された。
今はまだこの往生の思想を越えた者はいない。逆に言えば鎌倉時代から進歩していないとも言える。
申し訳ないが真宗僧侶の今以上の深い洞察が望まれる。 >>911のように「学問的な突き詰めて正解を理解してから出ないと念仏を称えない」では
一生称えることはありませんし、一生信心を獲得することはありません。
>>907で言われているように「とりあえず称えてみる」であるとか、
真宗的に不正解でありながらも「往生させてくださいというお願いを込めて称えてみる」
という視点が今の真宗にかけていると思います。 >>912 だから最後にハイデッカーは阿弥陀如来・仏に帰依をした。
そんな事実があるの? 念仏一つ称えるだけなのに、なぜ「信心を獲得していないといけない」だとか
「本当に信心を獲得しているのかを問う」だとかハードルをこの上なく高くする必要があるのか。 真宗って「信心獲得以後の念仏だけに意味があるのであって、獲得前の念仏は意味がない」
というスタンスですよね? 聖道門は難行だと言ってた真宗信者
ところが念仏の易行を指摘されれると
念仏の理屈をどんどん哲学化していって
聖道門以上に敷居の高いもんにしてるのが笑えるよw
聖道門に比較して易しいだと?w
どこがだよww >>925
いやさらっと見てたら釣りが釣りに突っ込んで掻き回してややこしくしてる部分も結構あるなあ tp://ogswrs.blogspot.com/2015/04/blog-post.html
こういうのを見つけたので一考する余地はある。 英語圏に真宗を紹介した鈴木大拙まわりでも、ポール博士とかサリンジャーとかの話しか寡聞にして聞いたことがない。
戦時中、ドイツ日本友好のために急遽突貫で作られたアインシュタインの日本評みたいな、出典の怪しい、人を騙すための文に会ったのではないかと思います
> 真宗って「信心獲得以後の念仏だけに意味があるのであって、獲得前の念仏は意味がない」
> というスタンスですよね?
違うよ
念仏てのは如法を見たときに出てくるものでもあるってことだけど、結局生活やら人、仏やら物事に対する自分の態度や姿勢が今どうなってますってのをそのまんま表明した姿ってだけの話だから
私の念仏はどうですかーって人に聞いて回るのは、私の生活態度はどうですか私の如来、如実に対する態度はどうですかー、と他人に聞いて回ってるのと一緒
なので、みんな見たまんまを答えるしかないのです ま、どうでもいいが
阿弥陀なんていないし、極楽浄土なんてものはない
無いから念仏ひとつで論争状態になるw
ハイ論破 その高森って人も騙されたんだと思うよ
ハイデガーに師事を受けた三木清なら親鸞マニアだったけど逆方向にフィードバックがあったとは思えないし、九鬼周造や三木清のこと念頭に置いてたとしてこんな書き方になるわけない >>929
じゃあ念仏を称えることと、信心を獲得しているということは別物ですね。 ところで>>912の「最後にハイデッカーは阿弥陀如来・仏に帰依をした。」はどうなったのですか? 本当に念仏が簡単だってんなら教義について話し合おうとか
こんなスレ立ってないだろw
黙って念仏唱えときゃいいんだからw
念仏唱えたら極楽行きが決定すんだろ?
だったらいいじゃんそれでw
別に話し合う必要ないw >>917
そうですね、物は試し、朝晩20分くらいずつひと月ほど称えてみてください。
>>919
宗教って洗脳ですよ。
もっと言えば子供の教育なんかも洗脳だし、社会規範なんかもそう。 経(きょう)は経(けい)なりって言うくらいやから、浄土真宗の場合はお勤めもセットやろなあ。
蓮如上人御一代記聞書(89)
一 聖教を拝見申すも、うかうかと拝みまうすはその詮なし。
蓮如上人は、ただ聖教をばくれくれと仰せられ候ふ。また百遍これをみれば義理おのづから得ると申すこともあれば、心をとどむべきことなり。聖教は句面のごとくこころうべし。そのうへにて師伝口業はあるべきなり。私にして会釈することしかるべからざることなり。 > ところで>>912の「最後にハイデッカーは阿弥陀如来・仏に帰依をした。」はどうなったのですか?
虚報だよ
同じようなのにハイデガーは正法眼蔵を読んだ!ってのがある
1966年つうたらハイデガーの西洋中心主義の最たる宣言がなされた年ですよ、20年も前なら老子の翻訳とかも試みてるけど
この時期の日記だって出版されてるけど、親鸞や道元へ言及するような部分は無いそうで >>935
>宗教って洗脳ですよ。
ということは釈迦が否定した法の絶対化、神格化を信者どもはやろうとしてるってことだw
或いは釈迦が説いた筏の譬えや毒矢の譬えを否定してるってことだなw
ハイ論破w >>902-903=>>905=>919=>925=>930=>934=>938=ID:1er7vfS10NIKU=ID:AG1VBQtF0は、
奈良からinfowebでレスしている論破(常にされる)ことキチガイ語尾wなのに、
自分で自分のレスを論破さんと言ってしまっているw
やはり阿弥陀如来様は仏敵であるキチガイ語尾を非常な低脳にして仏罰を下しているので、
阿弥陀如来様のお力は凄いですね。 キチガイ語尾wを阿弥陀仏は毅然として救わないから素晴らしい
阿弥陀仏はキチガイにせしめるのが正しい
それによって正しい信仰がまともな仏教徒に浄土信仰が広まる
奈良の人間もキチガイ語尾wと同類と思われてはかなり嫌だろうな >>940=>939=ID:glAwjivP0= ID:LiUZm9IN0は、
奈良からinfowebとdocomoとMVNOでレスしている菅直人信者(=左翼)ことキチガイ語尾wなのに、
自分で自分のレスをその通りと言ってしまっているw
やはり阿弥陀如来は偽物仏教の紛い物でキチガイ語尾を非常な低脳にして墓穴を掘らせる証拠になっているので、
阿弥陀如来の力は皆無だなww >>941
それなw
キチガイ語尾w=>>940=>>939が阿弥陀仏は存在しないことと効き目が無い証拠にしているから
極めて面白いw
阿弥陀仏はキチガイそのものと表現するのが正しいw
それによって狂信者どもが恥をかいて偽仏教との存在が明らかになるw
奈良の人間もキチガイ語尾w>>940=>>939と同類と思われてはかなり嫌だろうなww ということは浄土教は偽仏教だからキチガイ語尾w=>>940=>>939が恥をかいているわけかww つまり今の総理大臣の名前が菅直人だと思ってるような不勉強な馬鹿が
阿弥陀とやらを信仰しているのかwww
そりゃ笑えるなwww
浄土教って頭悪い奴を作る工場かよwww 評論家?の若新雄純が真宗山元派で得度したそうやね
昼の情報番組でコメンテーターやるような著名人はサクッとご縁ができていいな~…
得度したくても、甘くないとか、在家のままでいいだろとか、普通の在家には門戸が狭いよなあ(´・ω・`) 世の中金ですよ、金さえあれば身請けしてくれる寺はいくらでも見つかる >>909念仏を称え続けていることで信が生まれる
>>911????この問題点は主語が抜けていてわからないところです。
さすがは真宗の門徒さんはよく分かっていらっしゃる。
この世界で神に依(拠)らないで、存在しているものは何一つない。全ての形ある物、生命あるもの、また全ての行為の原動力も、神の光と熱の流入がなければ現れ出るものは何一つとしてない。
論破くんや阿弥陀を否定する人の言葉も、じつは神の光と熱が歪められて現れた形となる。
???は私、私の菩提心。菩提心は全ての人に初めから有るけれど、ある人は蝋燭の炎、ある人は埋もれた炭火とそれぞれ異なる。吹けば炭火は炎になる。 >>912
>凡夫を凡夫のままで救うという阿弥陀如来の救い方こそ真実だからです
ここで言う「凡夫を凡夫のままで」とはどう言った意味合いでしょうか?阿弥陀仏を信じていない凡夫やそもそも阿弥陀仏の事を知らず認識できてない凡夫も含まれますか? (^o^)阿弥陀仏の救いとは
死後、地縛し迷う魂をとりあえず霊界へ送り込むこと
善人悪人はこの時点では問いません
地縛していると罪を償うことすらできずスタート地点にも立てません
無駄に時間が過ぎるだけ(^o^) 仏は大嫌いだけどお坊さんより慈悲深くてきちんとした生活を送っていて
立場の弱いものを救っているというような人をたくさん知っています
その人は仏なんてものに騙されてはいけないといつも言っています
そういう人の方が信用できます >>949
阿弥陀仏が善人悪人を問わず地縛し迷う魂を救うと言うならばそもそも「地縛し迷う魂」など無いのではありませんか? それが地縛している者は難しいのです。
時間がかかる者もいます。100年とか。 >>950
ということは
宗教を信じてない人>>>>>>>>>>>>>坊主ということだなw
やはり阿弥陀は存在しないということで結論づけられるなw >>952
阿弥陀仏がとりあえず霊界に送り込むと書いているのに100年も地縛しているって何か矛盾してませんか?
100年地縛するのか
とりあえず霊界に送り込まれるのか
どっちですか? 善人か悪人かを問わず、とりあえず霊界に送り込みます。
ただし、地縛している者たちは因縁が働いて心がなかなか霊界に向きません。因縁の力が働いている間は、阿弥陀仏でも導けません。
様々な機会を通し、阿弥陀仏は諸々をはからった上で導くように努められます。 ちなみに霊界でも迷う心は消えず残り続ける者がいます。地縛は因縁の結果で、同時に迷いの原因でもあります。 ということは念仏をはからないなく唱えれば自然法爾に救われるという親鸞は嘘つきということかw
ハイ論破w >>955
では>>949の「阿弥陀仏の救いとは 死後、地縛し迷う魂をとりあえず霊界へ送り込むこと 」は間違いを認めて撤回されますか? 奈良の>>953=957のキチガイ語尾wは、まず基本的な浄土教以前に仏教知識を学ぶべきだな
何故自分が阿弥陀如来に救われないのかも理解できてないのも無理も無い
あと日本語勉強をもっとした方がよい
奈良の>>953=957のキチガイ語尾wは、日本人じゃないのか日本語を全く駆使できてないから >>960
的確で辛辣な批判だが、慈悲は持つべき。
阿弥陀三尊の観音様の慈悲こそ重要。 >>958
仏様です。
聖なる言葉の意味が仏にしか分かりません。 釈迦の使用したサンスクリット語の原典があれば良し
観無量寿経はサンスクリット語の原典が無いのが難点 大阪と和歌山からソープで遊んだ報告していた>>960-961のキチガイ語尾wは、まず基本的な浄土教以前に仏教知識を学ぶべきだな
大乗非仏説も知らないなんて恥ずかしすぎるだろw
何故自分が阿弥陀なんていないということが理解できてないのも無理も無いw
あと日本語勉強をもっとした方がよい
大阪と和歌山からソープで遊んだ報告していたの>>960-961のキチガイ語尾wは、日本人じゃないのか日本語を全く駆使できてないから なるほどwww これが大阪と和歌山からソープで遊んだ報告していた>>960-961のキチガイ語尾wの変な日本語かwww
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「ID:olM6krvI0は、それすら理解できる池沼が皆無です。」
「ID:olM6krvI0は、それすら理解できる池沼が皆無です。」
「ID:olM6krvI0は、それすら理解できる池沼が皆無です。」
「ID:olM6krvI0は、それすら理解できる池沼が皆無です。」
「ID:olM6krvI0は、それすら理解できる池沼が皆無です。」
「ID:olM6krvI0は、それすら理解できる池沼が皆無です。」 なるほどwww これが大阪と和歌山からソープで遊んだ報告していた>>960-961のキチガイ語尾wの変な日本語かwww
キチガイ語尾wが>>960で「あと日本語勉強をもっとした方がよい」と言ってるのが強烈に墓穴掘ってて面白いwww
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「ID:olM6krvI0は、それすら理解できる池沼が皆無です。」
「ID:olM6krvI0は、それすら理解できる池沼が皆無です。」
「ID:olM6krvI0は、それすら理解できる池沼が皆無です。」
「ID:olM6krvI0は、それすら理解できる池沼が皆無です。」
「ID:olM6krvI0は、それすら理解できる池沼が皆無です。」
「ID:olM6krvI0は、それすら理解できる池沼が皆無です。」 >>960-961のキチガイ語尾wが使ったこの変な日本語文法を誰か説明できる人いる?www
いるわけないかw スマンww
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「ID:olM6krvI0は、それすら理解できる池沼が皆無です。」
「ID:olM6krvI0は、それすら理解できる池沼が皆無です。」 >>929
念仏が信心の有無を問わないなら、天台宗僧侶の称える念仏も浄土宗僧侶の称える念仏も
真宗僧侶の称える念仏と同じということですか? >>968
称える人によって違う念仏になるなら、それはもう念仏じゃないでしょ >>969
阿弥陀仏の事を知らない外国人が「なむあみだぶつ」と発音しただけの「なむあみだぶつ」と親鸞さまの御念仏は全く同じと言う事ですか 音便で「なんまんだぶ」と唱えてもいいんだろ?w
はなから適当なんだからw
だって大乗の偽仏教だしw 念仏が音声だと思っているのがそもそも間違いなのではないだろうか
音声が念仏なのではなく、念仏が音声となって口から出ているのだ > 念仏が信心の有無を問わないなら、天台宗僧侶の称える念仏も浄土宗僧侶の称える念仏も
> 真宗僧侶の称える念仏と同じということですか?
法然さんと親鸞さんの逸話で行不退と信不退っていうのがあるでしょ
信不退の行者には両者が同じものに聞こえるって話だと思うよ
例えば法華経には誰彼構わずあなたは仏になるべき人、と念じていた常不軽菩薩って菩薩のお話があるでしょ
あの念仏だって念仏と聞けた人と聞けなかった人がいるわけじゃん >>973
なるほど
と言う事は>>970に対しての回答は
どうなりますか? >>973
じゃあ「なんまんだぶ」を漢字に現わしたら「難曼陀分」でおk? 親鸞聖人やハイデッガーが「なんまんだぶ」と発音していたソーズはあるのですか? 「なんまんだぶ」と信者が唱えてても真宗本山は文句は言わないんだろ?
だったら別になんでもありってことだよなw
ハイ論破 >>973
>音声が念仏なのではなく、念仏が音声となって口から出ているのだ
じゃあ真言で「オンアミリタテイセイカラウン」と唱えてもOKと真宗本山は言うべきだよなw
なんで「南無阿弥陀仏」じゃないと駄目なんだ?w
ハイ論破 釈尊の時代に阿弥陀なんていないよw
だって大乗偽仏教は釈迦が死んでから500年もあとに出てきたんだからww
どんだけ偽経典が早く作られたとしても300〜400年後より前ってことは無いと言われてるw 真宗では阿弥陀如来根本陀羅尼を唱えても問題ないことを知らない奈良のinfowebのキチガイ語尾w
真宗本廟だろうが私は何度も唱えているが、クレーム受けたこと一度も無い
そもそも親鸞聖人は密教を学んでいるし、高野山で修行もしているw
高野山は良い効き目あるなw 阿弥陀如来根本陀羅尼は念仏じゃないけどなwww
そんなことも知らない大阪と和歌山から風俗通いを宣言してたキチガイ語尾w=>>985www
真宗本廟で何度も唱えているが、クレーム受けたこと一度も無いということはwww
いかに真宗が適当な宗教かということを証明しているなwww
そもそも親鸞聖人は密教の加持を肯定的には見てないし、そのことで山伏から襲撃も受けているw
高野山はコロナで結縁灌頂中止になったから効き目無いなwww なるほどwww これが大阪と和歌山からソープで遊んだ報告していた>>985のキチガイ語尾wの変な日本語かwww
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「ID:olM6krvI0は、それすら理解できる池沼が皆無です。」
「ID:olM6krvI0は、それすら理解できる池沼が皆無です。」
「ID:olM6krvI0は、それすら理解できる池沼が皆無です。」
「ID:olM6krvI0は、それすら理解できる池沼が皆無です。」
「ID:olM6krvI0は、それすら理解できる池沼が皆無です。」
「ID:olM6krvI0は、それすら理解できる池沼が皆無です。」 なるほどwww これが大阪と和歌山からソープで遊んだ報告していた>>985のキチガイ語尾wの変な日本語かwww
キチガイ語尾wが>>960で「あと日本語勉強をもっとした方がよい」と言ってるのが強烈に墓穴掘ってて面白いwww
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「ID:olM6krvI0は、それすら理解できる池沼が皆無です。」
「ID:olM6krvI0は、それすら理解できる池沼が皆無です。」
「ID:olM6krvI0は、それすら理解できる池沼が皆無です。」
「ID:olM6krvI0は、それすら理解できる池沼が皆無です。」
「ID:olM6krvI0は、それすら理解できる池沼が皆無です。」
「ID:olM6krvI0は、それすら理解できる池沼が皆無です。」 もともと本願寺に護摩壇あったし、
親鸞も弟子や一族に密教学ばせているし(近くに法然の弟子たちがいるにも関わらず)、
親鸞自身も高野山まで行って密教学んでいるし、
親鸞自身も雨乞い祈祷しているし、神社参拝して現世利益願って成就しているしな
奈良からレスしているキチガイ語尾wは池沼なので分からないだろうがw
密教は非常に効果あるね >>981
正論だなwww
キチガイ語尾w=>>985は浄土教が大乗偽仏教だということも知らないようだwww そもそも親鸞聖人は密教の加持を肯定的には見てないし、そのことで山伏から襲撃も受けているw
高野山はコロナで結縁灌頂中止になったから効き目無いなwww
真言を唱えてもいいというなら「南無阿弥陀仏」と言う言葉にこだわるわけがないwww
大阪と和歌山からソープ通いしているレスをしたキチガイ語尾w>>989は池沼なので分からないだろうがw
密教は大塔が燃えてるから効き目無いねwww なるほどwww これが大阪と和歌山からソープで遊んだ報告していた>>989のキチガイ語尾wの変な日本語かwww
キチガイ語尾wが>>960で「あと日本語勉強をもっとした方がよい」と言ってるのが強烈に墓穴掘ってて面白いwww
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「ID:olM6krvI0は、それすら理解できる池沼が皆無です。」
「ID:olM6krvI0は、それすら理解できる池沼が皆無です。」
「ID:olM6krvI0は、それすら理解できる池沼が皆無です。」
「ID:olM6krvI0は、それすら理解できる池沼が皆無です。」
「ID:olM6krvI0は、それすら理解できる池沼が皆無です。」
「ID:olM6krvI0は、それすら理解できる池沼が皆無です。」 密教も大乗偽仏教だし。
日本に本物の仏教は来てないよ。 auとinfowebで奈良から自演しているキチガイ語尾w>990-994
真宗に無知だからこのように嘲笑される
だから密教は効果あるよね docomo とMVNOで大阪と和歌山から自演しているキチガイ語尾w=>>995www
真宗に無知だからこのように嘲笑される
だから密教は効き目が無いよねwww なるほどwww これが大阪と和歌山からソープで遊んだ報告していた>>995のキチガイ語尾wの変な日本語かwww
キチガイ語尾wが>>960で「あと日本語勉強をもっとした方がよい」と言ってるのが強烈に墓穴掘ってて面白いwww
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「ID:olM6krvI0は、それすら理解できる池沼が皆無です。」
「ID:olM6krvI0は、それすら理解できる池沼が皆無です。」
「ID:olM6krvI0は、それすら理解できる池沼が皆無です。」
「ID:olM6krvI0は、それすら理解できる池沼が皆無です。」
「ID:olM6krvI0は、それすら理解できる池沼が皆無です。」
「ID:olM6krvI0は、それすら理解できる池沼が皆無です。」 なるほどwww これが大阪と和歌山からソープで遊んだ報告していた>>935のキチガイ語尾wの変な日本語かwwww
キチガイ語尾wが>>960で「あと日本語勉強をもっとした方がよい」と言ってるのが強烈に墓穴掘ってて面白いwww
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「ID:olM6krvI0は、それすら理解できる池沼が皆無です。」
「ID:olM6krvI0は、それすら理解できる池沼が皆無です。」
「ID:olM6krvI0は、それすら理解できる池沼が皆無です。」
「ID:olM6krvI0は、それすら理解できる池沼が皆無です。」
「ID:olM6krvI0は、それすら理解できる池沼が皆無です。」
「ID:olM6krvI0は、それすら理解できる池沼が皆無です。」 真宗及び真言宗は効果あるということだな
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