「二礼二拍手」という大ウソ
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そんなの伊藤が吹いたうっかり発言、
昭和からやりだしたニワカだから。 >>610のどこにお仏壇の長谷川が?
目が見えないのは知ってたけど自覚してないとは思わなかったよw まぁ、完全にブッディムのように行う必要もあらないわけですよね
カミっぽく表現できればいいわけですから >>633
せっかく拾って来て引用したまではいいのだが
その最後の一行に
>日本でも仏前でなされる。
なんて出てきて自分の主張を自分で潰す結果となっていてずっこけた。 ちなみにインド中心に広がる挨拶の礼は
合掌+お辞儀ではなくて合掌+眼を閉じることのようです
まぁ、眼を閉じれば自然とお辞儀に近いものになるのでしょうけれども >>637
現代日本(明治以降日本)だけ
なぜか「仏でもないのに拝むな!」とか言われる
ってちゃんと書きましたけどw
現代日本の日常生活で合掌とかしたら変人扱いされるよ
それも明治政府の仕業だけどね まったくそのとおりで、シントーは合掌を排除しましたけど、
さて、果たしてシントーどもは今日頃どんな暮らしを迫られているんでしょうね? >>638
>まぁ、眼を閉じれば自然とお辞儀に近いものになるのでしょうけれども
合掌した手を顔前に持ってくるか胸元に持ってくるかで違いが生じると思う
日本ではお辞儀を考慮してなのか
親指を顎の位置に持ってくるような合掌をする >>642
本場の仏教の国では思想の表現が合掌なので
そういうところでは眼の高さで掌を合わせる
日本ではそこまでのことはされないかな
やっぱりお辞儀がしたくなるし 核心突いて悪いが、在日チョーセン人の嫉妬と
そこからくる劣等感、憎しみに溢れてるよな。
日本には世界に誇れる歴史と文化が残っているのに
優れた朝鮮民族にはなぜそのようなものがないのか?
どんなに歯ぎしりして悔しがってもどうにもならない。
で、必死に神社を叩いて気を紛らわす。と。 違う違う神社が朝鮮なんだよ
正確には江戸時代までの神社を明治に朝鮮流にしたというかな
忘れてる人いるけど明治日本は朝鮮大好きだよ
自分の国にしちゃおうと思うぐらい
そもそも戦前のウヨサヨと今のウヨサヨの立場が逆転しちゃってるのを見ればわかるが 朝鮮人部落である長州・田布施の連中がこしらえたのが明治以降のシントー。
日本人には到底受け容れ難い新興宗教。 映画の寅さんみたいにパンパン合掌が多かった気がする >>644
>本場の仏教の国では思想の表現が合掌なので
>そういうところでは眼の高さで掌を合わせる
左手が仏で右手が人、つまり合掌とは仏と人が合わさるという意味で
これはインドでも日本でも宗教上の理論では変わらない
問題はその位置で
眉間の白毫(第三の目)が仏性の覚醒に重要な部位ということで
眼前に合掌を持ってくるのも頷けるが
であるのなら首を垂れるのは腑に落ちない
しかしいわゆる小乗仏教の様に
俗人が僧侶に対する儀礼として合掌の上お辞儀をするのなら
あり得るが、この場合掌は胸元の方でも構わないことになる > 左手が仏で右手が人
もうこの時点で何言っても説得力は皆無だわ
神道大全でも読んでろよ朝鮮豚w ま、話は通るようにしてくださいね
立て直しますけど二拝二拍手なんてきもちわるいですよね どーしたんですかー
逃げちゃうんじゃーないでしょーねー 気持ち悪いかどうかはその人の感じ方次第だからなぁ。
人それぞれだとしか言いようがない。 でもほら、外国人旅行者にもブログに書かれてしまうくらいなんですから >>650
>神道大全でも読んでろよ朝鮮豚w
合掌は仏教あるいはインドの風習なので
さしあたって神道は関係ありません
意味不明の事を言わないでください
柏手と合掌は別ものなんですけどね そういえば、手を合わせるとき下に向いたままで合わせる人もよく見ますね あれは合掌と礼拝がセットになっているのかも
仏像と相対するばあいは首を垂れるとか なるほど
または、手は合わせたいけれど仏教のような教養はもたないというとこの素直な所作かもしれません >>657
その外国人旅行者っての、コリアンなんだろ? >>658
何言ってんの
数珠を左手で持つ意味知らないのか
エセ仏教徒は半島にお帰り バカチョン(おそらく女)大人しくなったな。
どうした?効いてるのか? ちょっとカルトっぽかったですからね
まぁ分かったんでしょう 二拍手はなぜ2?と思う
二拝は大変そうだなって思う
最後の1拝しかやった気がしない でも、昔から
ドラマ、映画、リポート、バラエティ等での描写は
「パン、パン、一礼」 だったような気がする(´・ω・`) 制作のかかるものでは一応ひな型っぽくやってるのかも まあ、思い込みのステレオタイプってこともあるかもけど。
坊さんだって、
刑事や登場人物が話を聞きに行ったときとか、
何日でも何時でも、掃除してるしねw
んな一日中外掃除ばかりのわけねーだろ、とw
しかも、お経読む格好で掃除や庭仕事してたり。 二拝二拍手は嫌なんですよ
見てやるぶんにはまぁご勝手ですけど 見てがきもちわるい上に、実際おかしいことも史実で明らかですからね。全ムリですよ。 チョーセン人には受け付けられない作法なんだろうな。わかりますよ。 なにか他のもののせいにしたって、どうにもなりませんよ。 どこかおかしな会館とかでやっててほしいものですよ。 創価学会の犯罪者達
●池田大作『信平信子レイプ訴訟』
●池田大作『月刊ペン事件』
●池田大作『大阪事件』選挙違反で逮捕
●藤原弘達『創価学会を斬る』の出版を巡り創価学会と公明党による言論・出版の弾圧と嫌がらせ
●藤原弘達の葬式に祝電を贈る嫌がらせを行なった創価学会員
●創価学会による日本共産党委員長・宮本顕治宅電話盗聴事件
●創価学会による新宿替え玉投票事件
●創価学会副支部長 木村昌幸 強制猥褻事件
●迷惑電話3000回の地区部長 谷口博司 実刑判決
●NTTドコモ事件 福原由紀子さんに対する集団ストーカー事件で創価大学卒 嘉村英二に実刑判決
●元公明党委員長の矢野絢也氏への創価学会幹部による脅迫と言論弾圧事件
●公明党江戸川区議・松本弘芳(江戸川区文教委員)児童売春で実刑判決
●公明市議の赤井良一。妻を餓死させ実刑判決
●ジェイフロンティア株式会社
●中村 篤弘
●元公明党市議の山田喜八郎。道交法違反(轢き逃げ)逮捕
●覚醒剤取締法違反、公明党市議・大石尚雄。逮捕
●公明党参議院議員・片上公人セクハラ最高裁敗訴
●聖教新聞配達員 硲篤代 寺のお供え物を盗み窃盗罪で逮捕 >>684
また自己紹介?
カルトと言えば在日チョンのコミュニティ&アカ・反日サヨクのことだろ?
これはカルト化しているというレベルではなく、確実にカルトそのもの。
これ以上日本を腐らせないためにも、一刻も早く日本から追い出さねばならん。 例えば両手ともカバンとか持ってるときに
挨拶しなきゃいけなくなったら
荷物降ろすよな
でも荷物降ろして手を横に揃えてお辞儀するなら
別に荷物持っててもできるし
降ろす意味ない
だから両手に持ってるものを放すなら
合掌して挨拶するのが自然だ
https://yoga-lifestyle.net/wp-content/uploads/2019/02/8025524493_1f49c7696b_o.jpg
それを拝むなとか言い始めたから
きょーつけでお辞儀=礼とか変なことになってる この島田説、完全に間違っているのだが、
神社アンチの左翼連中がそう思いたいのならば
そのままどうぞ。
ちょっと自分で歴史調べればわかることなんだがな 誰が間違っている、ということにして火消ししたいのは分かりますが、
しかし二拝二拍手がきしょくのわるいものである事実は覆りませんよ。 https://www.jinjahoncho.or.jp/omairi/osahou/sanpai
>神社に参拝する場合、どうしても形にとらわれてしまい、
>終始形式的になりがちです。参拝作法は、
>永い間の変遷を経て現在、
>「二拝二拍手一拝」の作法がその基本形となっています。
>永い間の変遷を経て
https://www.yoriso.com/sogi/nireinihakuichirei/
>作法としては前述の通り、神社祭式に記載された
>「再拝拍手」の考え方から始まっているようです。
>ただ、当時の人々は、それだけではどのタイミングで「再拝拍手」を行うのか、
>具体的な作法が分からなかったと言われています。
>かつて内務卿を担当していた伊藤博文から
「一揖(いちゆう・浅い礼)、再拝、二拍手、一揖が正式な作法である」と語られたところから、
その当時は「一揖、再拝、二拍手、一揖」が正しい作法として、世間に広まったのではないでしょうか
>その後、1882年8月に明治政府から、神道政策の一環として、
>「皇典講究所」が設立され
>そこでは「再拝、祝詞奏上、再拝、二拍手、一拝」という内容で、指導が行われ、世間にも
>その後、「再拝→二拍手→押し合せ→祝詞奏上→押し合せ→二拍手→再拝」など、
>従来の作法を基本として、動作の追加も見られたようですが、
>昭和23年に神社祭式行事作法が改訂され、現在の「二礼二拍手一礼」になったと言われています。
>一時期は「一拝」がなかった時期もあったようですが、皇典講究所から
>「終わりの一拝がないと締まらない」という指導があったとされています。
>いろいろな経緯を巡りながら、参拝の形式は「二礼二拍手一礼」へと昇華されていきました。
>さまざまな事柄や人物、機関が長い年月をかけて定めた作法ですが、
>実はそれでもすべての神社で行われているわけではありません。 だからどうぞご勝手に二拍手なしの無言合掌しててください。
神社側からはアンチの要注意人物だとわかりやすくてちょうど
いいですから >いろいろな経緯を巡りながら、参拝の形式は「二礼二拍手一礼」へと昇華されて
>さまざまな事柄や人物、機関が長い年月をかけて 家では家族相手に二拝二拍手とか言っているんでしょうか。
合掌はいけないと言っては世間に背を向けて暮らす毎日でしょうか。 まあとりあえず統一の作法作るのはいいじゃないか
日本の神社なんて創建の頃の形(有形無形限らず)をそのまま維持してるとこなんかほとんどありゃしないんだから 博識な皆さんのレスを読んでくださいね。
再拝というのは座で手を着いてからの所作であって、
柏手も大きく打って尊さを表現します。
それを馬鹿が二拝と思い込んで決めつけ、
外国に対応するとかぬかして立位でやるだのと迷いだし、
結局あのへんな格好を世間にさらすどころか、
外国の人にまで勧めているという間抜けっぷり。
外国人のブログには「日本シントーの作法ださすぎ」とボロクソに書かれ、
昨今では神社本庁のカルト化の疑いすらもたれている二拝二拍手。
しまいには合掌する人々を怪訝にするような精神状態、
狂気の沙汰、現代神道二拝二拍手! 明治いせ、伊勢神宮の御師(神官)が伝授していた
所謂、伊勢神官流の
二拝。蹲踞。四拍手。一拝。
から
現在の
二拝。二拍手。一拝。
明らかに尊敬、崇拝の形としては劣化、劣悪化しているやろ。
蹲踞はいわば絶対服従を体現した重儀の礼法。(一社の故実?で行っているのは京都の上下の鴨皇大神宮。葵祭で宮司が勅使から勅書を拝受する際。正月の両宮司がお互いに社参の際ほか) 古来が良い、戻せば良い、というわけでもないんですよ。
そこは難しいんですね。 >>709
しかし、日本人ならばやはり日本人の伝統にならうべきだろう。
薩摩穢多や長州鮮人のこしらえたカルト宗教に従う道理はない。 >>710
いやね、
柏手も借用したもの、拝とかも真似事したものなんですよ。
なので「これがベストな日本の作法」とは思えないわけです。
改めて、いまこれからの時代のベストな、
人々の感性にじゅうぶんに満足するような礼法を見直さなくてはならないんです。
説明書なんか要らない、我々のセンスの課題なんですよ。 >>712
おたくは二拝二拍手してればいいです。ずっとしててください。 まあ宗教だから。統一性ないとってな感じじゃないのかしら。そうするといつしか神様よりも人間を拝むようになっていくんじょないかしら。それを偶像崇拝と思ってますが
あと感謝でも拝礼でも拝む人がみんな自分はどこどこのだれだれとちゃんと伝えようとしてるのか興味ありますね ○一拝。三拍手。祈願(荒神真言)。三拍手。一拝。
○二拝。三拍手。有言祈願(黙祷では神さまは聞こえない)。四拍手。一拝。(古式出雲臣(幸の神)作法)
○二拝。蹲踞。四拍手。一拝。(伊勢神官流)
○四起拝。八開手。単手一段。一度拝。
○一拝。右三旋回。蹲踞二。祈願。左三旋回。一拝。(「三回回ってワンと哭け」の元々)
○浪花手打ち(生国魂神社や住吉大社等が出所)
打ちましょ。○○
もひとつセ。○○
祝うて三度。○○ ○
略式はここまでで「おめでとうございます」オッ\(^^)/
住吉大社は六拍手? >>716
よく考えたら、中世ごろには日本もだいぶオカルトだったのかもしれませんね。
近世に入ってましになったとか。 いや二拝二拍手が素人の考えたインスタントなのは事実だろ
失敗だったっていうところまでは論ずる価値ある まったくですよ、こんなぎこい障害者みたいなマネできませんね。
きさまらやってていいですよ?ずっとやっててね?遠くで見てますから。 提案、目の前の台に「手を置く」というのはどうでしょう。
台は腰高くらいだとちょうど良いと思います。
それならば座敷に上がることなく、立位でも座の所作に近いものが出来る。 >>727
いいんだよ、二礼二拍手なら二礼二拍手でさ
問題は、それを日本古来だとか伝統だとか思わされてること
天皇制や神社全般についてもそうだし、もっといえば「日本人」の成立も本当のとこ教えないからな いやでも、二拝二拍手がきしょくわるいというのは事実思うんですよね。 神社で柏手打たないやついたらこのスレか島田の信者ということか ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています