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KaNaシステムにキレそうだ
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0001非決定性名無しさん
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2021/04/15(木) 10:07:41.29
KaNaシステムにキレそうだ
0851非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:13:15.64
なんとなくイメージで中国周辺の異民族って強いイメージあったけど、このスレの影響で冷静に考えてみたらほとんど全時代で弱いんだな……

ある日突然(中央の影響を考慮しないで)、防備の薄い(中央から見て重要度が低いから)地域を襲撃して去っていく異民族は確かに脅威だけど、中央軍が本腰入れて討伐に行ったらほとんど討伐されてるし。
ホーム・アウェーのハンデがあっても。
0852非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:14:05.63
「狡兎死して走狗烹られる」(重要な役割を果たした者が酷い形で処分されること)
「羊頭掲げて狗肉を売る」(見かけと中身がかけ離れていること。類似の諺で「聞いて天国、見て地獄」がある)という言葉がある。

その頃の中国は犬は大衆が食べる肉だったそうだったが、当時でもこれらの諺通り犬の肉は悪いイメージが付いていたそうだね。
0853非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:14:20.79
古代中国は、民族的に言えば、トルコ系の影響を強く受けた、北魏〜隋唐の前まででしょう。
で、遊牧民が入ってきてから、食事に関する単語もとって変わったとか。
飲む、食は、古代に属し、北方の影響を受けてからは渇とかコク(字がでない)とかの用語だったとか。
古代は蒸す、煮る、などが主流で、焼くというのは、上記北方の影響とか。

斉民要術という5世紀頃の南朝の食事の本が残っているので、古代食事は再現可能。
あと、漢代遺跡からも当時の食事の遺物が出土している。
0854非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:14:39.21
齊民要術は、南朝じゃなくて北魏の時代に著された農書じゃなかったっけ?
乳製品の記述が結構多くて、中華料理ぽくないんだよね。
使われてる、単語、語彙もこの時代のみ表れてるやつが多いし。
しかし、粟、黍、稲、蕎麦、麦それぞれにうるちやら粘性品種の区別をして、さらにそれらから作られる麹の種類、調理法の別等
よくもまあ、体系化したなぁ。

日本でも延喜式が要術をパクったけど、いつの間にか廃れたな。
0855非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:14:55.95
稲の痕跡は殷墟から出てたはずだし、漢でも関中で稲作が上手くいかなかったので、わざわざ越人を招聘して農業指導に充てた記録が残ってる。

しかしながら粒食は稀で、発酵させて醸造用に専ら用いられていたらしい。
何より、淮水〜長江間の稲作は原始的な粗放直播き方式で収穫後は一年間休閑して緑肥を施さなければ、地力は回復させれなかった。
三国志の杜預の言った、火耕水耨てやつな。

華北の乾燥地農法を応用した、水稲耕作が普及したのが南朝〜隋唐
チャンパ米が普及して、全土の国民を養えるようになったのが宋代

まあ、古代中国の調理法を考慮したら、孔子さまが銀シャリを口にしたことは無かっただろうね。
0856非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:15:07.47
孔子に羊の生贄を捧げるのは、あれで正しいのか。
米とか出したらかえっておかしいのか。

確かに今でも米をわざわざ粉物みたいにしてよく食べるね。
米のクスクスみたいな料理も見たことある。

でも醸造用だと、白米以上に精米しなきゃいけないのか?
あれは日本酒だけ?
0857非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:15:18.22
釈奠といえば、獣肉はつきもの。日本では多少改変されましたが、それでも鹿・猪の肉を使っており、『枕草子』では顰蹙をかっています。
(元々作者が漢学者の家を見下していたきらいがありますが)
時代が下ると餅などで代用されている。中世の足利学校などはこちら。
『礼記』では、牛・羊・豚が供え物に出ていた筈。
0858非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:15:29.00
詩経小雅白華の条に
「?河北流、浸彼稲田」とあるのは北中国での稲作の古さを伺わせるが、
有名なのはやはり戦国策の東周策恵王条の水争い、
「東周欲為稲、西周不下水。東周患之。(中略)下水、東周必復種稲・・・。」
とあって、東周では以前から稲作が行われていたと思われる。
また火耕水耨については一年休閑などの特定の技術段階を指す言葉では無いこと。
またそれは史記平準書や漢書武帝紀、?鉄論などに見える。
更に宋代の江南デルタの占城稲の導入いついては、1984年に「中国江南の稲作文化」日本放送出版協会や、その後、足立啓二などによってとらえ直しが為されたはずだが。
0859非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:15:58.84
『火耕水耨』を解説した本には大抵、「最初に雑草を焼いてから種籾を蒔きつけ、次に芽生えたところで水を引き込んで雑草を枯らす、非常に粗放な稲作」と書かれている。
しかし思うままに水を引き込むことができる、ということはこの時代すでに用水を管理された水田が作られていた事に他ならない。
最初に冬枯れの雑草を焼き払うことはあるにしても、「水耨」は代掻き、田ごしらえを示す語であろう。
0860非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:16:15.10
そーですね。漢書武帝紀の應邵注でも比較的灌排水の調整が効くことが分かります。
また杜預の上奏にある記載は、それが既に過去の農法ではあるが、新田の開発や荒廃した耕地の再開発には便利であると言っているに過ぎないでしょう。
ただ史記貨殖列伝の記載はそれほど高い技術は裏付けられないでしょうね。司馬遷が華北の陸田農法に比して遅れた農法と断じたのかも知れませんが、司馬遷と應には約200年の差がありますから、当時の江南農法の過大評価も危険です。
代掻き説に対しては賛同しかねます( 播種後稲とともに長じた草を刈り取り、その後草が生えて来たら冠水させて草のみ膿死させる除草の作業と考えます)、しかし決して粗放農法のみを指すのでは無い点は同意いたします。
0861非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:16:37.55
青銅器の鼎とかは祭祀用でしょうが、中に食物や酒を入れて備えたでしょうから調理法と関係あるかもですね。
西安の半パ(土へんに皮)博物館には新石器時代の土器の鼎や盆(人面魚紋盆)などが展示されていますが
素焼きの割に硬そうなんですが、鼎と言うのは青銅器以前にも存在します。
半パは集落遺跡ですから、鼎を用いた調理は早くに確立していたかも知れません。
0862非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:18:42.65
遣唐使時代どころか、三国志の時代からある。
諸葛孔明はキュウイフルーツで兵士達の壊血病を治している。
日本にまで広まらなかったのは、山深い蜀の国の果物だから長安の都には無く、遣唐使の目にはとまらなかったからでは?

ちなみに、キウイフルーツはマタタビの同じ仲間だから、家庭で栽培すると庭が「猫の阿片窟」になってしまうw
0863非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:18:56.24
遣唐使時代どころか、三国志の時代からある。
諸葛孔明はキュウイフルーツで兵士達の壊血病を治している。
日本にまで広まらなかったのは、山深い蜀の国の果物だから長安の都には無く、遣唐使の目にはとまらなかったからでは?

ちなみに、キウイフルーツはマタタビの同じ仲間だから、家庭で栽培すると庭が「猫の阿片窟」になってしまうw
0864非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:19:02.98
韓国の食文化スレに「韓国で食文化が発展しなかったのは、儒教を守っていたからだ!儒教は質素倹約を旨とする!」などという論が戦わされているが、実際儒教では食をどのように位置づけていたの?
0865非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:21:04.11
儒教が質素倹約を旨とするのは間違いではないが、仏教・道教などと違い食のタブーはなく、酒も肉も問題なし。
というより本来の儒教の祭祀には酒も肉も必要。
(日本の釈奠では仏教の影響で使わなくなったが)
0866非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:21:19.23
孔子が人肉を食べていたかどうかは定かではないが、あれだけ道徳だ礼儀だというわりには人肉を食べることはまったく非難はしていないな。
斉の桓公がたしか「ワシは人肉は食べたことがない」と言ったら、料理人が自分の息子を蒸し焼きにして献上したという話があったが、孔子はそのことをまったく非難していないもんなぁ。
むしろ、斉の桓公を(管仲の方が偉いのかもしれないが)評価しているもんなぁ。
0867非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:21:43.35
修身斉家治国平天下。
親に孝に、君に忠に。
孔子の説く儒教道徳に背く話しではないからな。
人肉食がどーのと言うより孔子が如何に自らの説く道徳に忠実であったかを言った逸話の一つだろう。
親を訴えた子を非難した話しはその逆。まぁ人肉食は飢饉では日本・中国問わず行われたけども。
0868非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:22:03.34
果実と言えば西遊記にも出てくる人参果、あれがホントにあると知った時は驚いた。
むろん人間そっくりでもないし、食べてめちゃくちゃ長命になるとかいうことはない。

元スレでカニバリズム批判されてないとかあるけど、孔子はともかく古代中国でもカニバリズムそのものは批判されるんだけどね、桓公の逸話にしても桓公のダメなエピソードとして伝わってるものだし。戦乱や飢饉でのカニバリズムも史記の頃から悲惨な有様だの嘆かわしいとされてますし。
0869非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:22:13.47
曹操が食って腹壊したように、昔は生魚をなますにして食ってたんだよな
世界各地に生魚食う場所はそこそこあるけど、日本で盛んなのは、生魚に合う最強の調味料醤油のおかげじゃないかと思ってる
0870非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:22:26.15
後漢末に曹操が上奏した事で知られる麹を利用した本格的な醸造酒が登場するけど
逆に言えばそれ以前やその恩恵に与れない地方では醸造とは名ばかりの酒しか無く
量を確保する為に水で薄められるので度数も限りなく低い
東南アジア発祥の口噛み酒も依然として飲まれていただろう
そもそも現代の火入れして発酵を飲み頃で止めた酒と違い
発酵が止まらない為に消費期限が短くすぐに酸っぱくなるので
上手い酒が楽しめる期間は僅かしかない
0871非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:22:39.13
四川の宮廷料理の正確なレシピを知るのは一人の日本人女性だけだったてドキュメンタリー番組見たな
エビチリなんかがそうで、中国で食されてるのは再現アレンジだそうな

中国宮廷では広東やら何やら各地方の料理専門の宮廷料理人がいたそうだが、四川料理が宮廷料理になったのは歴史が浅く担当者は一人だけ
革命騒ぎや何やらで冷遇され散逸、受け継ぐ者がいなくなり、たまたま一人の日本人少女に教えたって話だった

近年中国でも見直され、正式なレシピの伝承者として中国に招かれて歓迎されとった
0872非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:22:58.66
家の前がキウイフルーツ畑だけど、ネコの阿片窟にはなっていないよ。

キジが山から降りてくるので、ネコはキジを捕まえようとしている光景は見るが、ラリっている光景は見たことない。
0873非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:23:10.17
 エグイ話が続いたので北宋の随筆「東京夢華録」から
北宋では酒店の料理人は「茶飯量酒博士」と呼ばれた。
 同じく清は乾隆帝時代の「曬書堂筆録」から塾の帰りに(ということは読書階級の子弟)は甘栗を買ったりしたとか(北京での話)、夏には氷売りが出て梅奬(うめず)を売って子供の大好物だった。(礼記にはこの(うめず)の記述があるらしい)。五月になるとこねた揚げ物の炒麺が売られて、これに砂糖水かけて干し乾かしたお菓子が子供に好まれたらしい。
清代になると食生活もかなり贅沢ですね。
0874非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:23:25.17
中国ドラマの大秦帝国で最初に商鞅が秦王に角煮みたいな豚肉煮込んだものと小松菜かほうれん草みたいのを胡麻和えして塩辛くさせた簡素な料理を食べさせるシーンがあるんだけど凄い味わい深い(中原の貴族出身の商鞅に田舎の秦の料理を食べさせて商鞅もそれを美味しいという)。
0875非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:23:48.99
天狗党の乱で怪力無双の僧侶の力にあやかろうとして遺体の肉を削いで味噌漬にして炙って食べた高島藩の藩士がいた
さすがにその当時ではドン引きされる行動で親交のあった別の藩士から一時期絶交されたらしい
0876非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:24:26.32
バカラオは、タラ(鱈)の塩漬けの干物、またはそれを用いた料理を指す。

南ヨーロッパ諸国、スペインやポルトガルの植民地であった中南米諸国、そしてタラの捕獲地である北欧諸国を中心に食べられている。保存性の高いバカラオは航海中の食料に向き、三角貿易で盛んに取引されたため、タラの産地から遠いブラジルや西インド諸島、西アフリカでもよく食べられている。
0877非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:24:50.13
それについて書いてる本や情報は見たことが無いのですが、ぱっと思いつくのは

仮に獲ったとしても保管するスペースが無い
船の上だと保存加工できないので腐る
保存のための塩を詰め込むスペースが無い
塩を積んで保存食へ加工する人手とスペースを確保することが経済的、航海の目標的に無意味
狙った通りに獲れるわけではないので保存食よりリスクがある

など思い浮かぶわ
0878非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:25:04.43
ザワークラウトは「カール大帝が好んだ」と本にはあるので時系列的にはもっと前になる。
カール大帝はフランク王国の時代。また、大昔からあった発酵食品で起源は明確ではないとのことや。
ジャムは砂糖漬けの保存食品だから明らかに大航海時代の後やで。
大航海時代にカリブ海で砂糖の生産ができて価格が下がったんや。
その前の超高級品の時代なら仮に作っても航海のためのコストが高い。
0879非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:25:16.01
壊血病防ぐためにイギリスの船員はラム酒を飲みまくってたんやで
トラファルガーで死んだネルソン提督の死体も保存のためにラム酒に浸けられて本国に帰還したからラム酒をネルソンの血ってよぶ
0880非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:25:50.80
なんのかんのと言っても家康には優しいな、信長
松潤氏ピリピリした演技もできるようになったな
個人的には退場した波岡さんに代わって音尾さんに頑張ってもらいたい
0881非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:26:07.75
これで感動するんだろお前ら
と思われてるんだよな
岡崎体育来なかったらそもそも救う気なかっただろと思わせたり、その岡崎体育も最後一度裏切りかけたことで台無しだったり余計な描写が多いんだよ
0882非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:26:29.82
酒井が軍議で信長に鳶ヶ巣山攻めを具申

信長酒井を罵倒して軍議終了

信長酒井を密かに呼び寄せて激賞して鳶ヶ巣山攻めを命令

酒井鳶ヶ巣山攻めに成功して武田軍挟み撃ち状態に

せっかく酒井に大森起用してんだからこれを楽しみにしてたのに
武田の忍びとか徘徊させてんだからこのエピ入れなきゃ意味ねーじゃん
0883非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:28:01.12
車の話日常茶飯事だと怒り通り越して呆れが来るわ
0884非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:31:39.14
織田信長「弱小国です、強豪の今川と面してます、家中分裂してます」←こいつが天下取れた理由
0885非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:32:01.82
織田信長が天下を取った理由についてですね。織田信長は、弱小国である自分たちが強豪の今川と面していること、家中分裂していることを自覚していました。そこで、信長は、まずは自分たちの勢力を拡大するために、周辺の国々を次々と攻めていきました。また、信長は、戦国時代においては珍しい、人材を登用することで有能な人材を集め、自分たちの勢力を拡大することに成功しました。さらに、信長は、戦術や兵器の改良にも力を入れており、その戦術や兵器が他の武将たちよりも優れていたことも一因とされています1。

以上が回答になります。他に何かお探しでしたら、お知らせください。
0886非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:32:45.00
今川が尾張取ると大きくなりすぎて武田が伸ばす所がなくなるし、桶狭間は今川に助太刀してた武田が織田にこっそり義元本陣の場所教えたかわざと織田の軍を見落としたかもよ。
武田は何よりも海(駿河)欲しいもの。
0887非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:33:37.92
少し名前が出てたけど、尾張氏ってヤマトタケルの東征のスポンサーになってるですよね。
そんな昔からから経済力があるのに、なぜか信長まで天下人がいない・・・

源頼朝も名古屋生まれではあるけど、名古屋に居た期間短いし・・・。
0888非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:33:55.50
幕府再興という旗を得たのはなんだかんだ大きいし、旗頭得た時期がちょうど畿内の没落というか時代の節目の時期だった(三好は家中で死に過ぎ+本家&松永と三人衆の内訌、畠山は三好との決戦でボロボロ、六角は観音寺騒動、若狭武田は一度上洛試みたが返り討ちあってボロボロ&朝倉と仲悪い、浅井は六角との独立戦争に勝った直後で組む相手探してた時期等)
後は摂津国衆の存在も大きかった→池田氏は金ヶ崎脱出の手引き、荒木が寝返ってくれた+藤孝らが織田側に付くおかげで義昭の裏切りにも対応できた
0889非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:35:08.17
「史実」 三顧の礼
時先主屯新野。徐庶見先主,先主器之,謂先主曰:「諸葛孔明者,臥龍也,將軍豈原見之乎?」
襄陽記曰:劉備訪世事於司馬コ操。コ操曰:「儒生俗士,豈識時務?識時務者在乎俊傑。此間自有伏龍、鳳雛。」備問為誰,曰:「諸葛孔明、龐士元也。」
ときに劉備は新野にいる。徐庶は劉備に、諸葛亮をすすめた。
習鑿歯『襄陽記』はいう。司馬徽が「時務を知るのは、伏龍の諸葛亮、鳳雛の龐統だ」といった。
0890非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:35:26.51
先主曰:「君與俱來。」庶曰:「此人可就見,不可屈致也。將軍宜枉駕顧之。」由是先主遂詣亮,凡三往,乃見。因屏人曰:「漢室傾頹,奸臣竊命,主上蒙塵。孤不度コ量力,欲信大義於天下,而智術淺短,遂用猖(獗),至於今日。然志猶未已,君謂計將安出?」
劉備は3回、訪問してから会えた。
胡三省はいう。劉備は梟雄だが、わざわざ3回行った。才能を求めていたのだ。
ぼくは思う。以下、思考実験をします。隆中対は、史料屋さんによるウソだと仮定します。いかにウソかを論証します。
隆中対の「天下三分の計」は文飾で、諸葛亮は荊州のことしか、目配りできていなかった、という話をします。結論、言っちゃいました。
0891非決定性名無しさん
垢版 |
2023/06/10(土) 15:35:42.24
人をしりぞけ、劉備がいう。「漢室が傾頹して、奸臣が竊命する。主上は蒙塵だ」
goo辞書はいう。《『左伝』僖公二十四年から。天子が行幸するときは道を清めてから行くが、変事の際はその余裕がなく、頭から塵をかぶる意》天子が、変事のために難を避けて、都から逃げ出すこと。みやこおち。
この文が、献帝が洛陽におらず、許県にいることは異常事態だという理解で書かれていることに注意したい。
劉備もしくは史料の著者の認識では、曹丕が洛陽に遷都するまで、漢家は異常事態が続いています。防御しにくさという点では、許県も洛陽も同じなのに。
献帝を入手した時点では、洛陽より許県のほうが守りやすかっただろうが、、河北平定まで完了してしまえば、献帝を洛陽に戻したほうが「漢家を再建している」というニュアンスが強くでるのに。河北平定後は、むしろ残敵は南がおおい。どちらも平地の真ん中でも、許県より洛陽のほうが安全となる。曹操は「漢家は不完全」を言い続けたかった? 誰に対して? 禅譲の準備? まさかねー。
0892非決定性名無しさん
垢版 |
2023/06/10(土) 15:35:58.91
「私は、自分の徳や力量をはからず、天下に大義を信じたい。どうしよう」と。

ぼくは補う。「度コ量力」は『左伝』隠公十一。自分の力量をはかり、わきまえること。
当然のことだが、いちおう確認。
諸葛亮伝は、劉備の口語をレコーディングして、伝えたものでない。会社の議事録すら、主語述語をおぎない、論理の破綻をつくろい、文語に直すんだ。命をかけて文章をつむぐ史家が、無責任に口語をたれ流すものか。史家なりに「意訳」して、カッコいい言葉に直してくれる。ありがたい!「実際はどうであったか」に興味のある、ぼくら後世の史料読みにとって、これほど、ありがたいことはない!(皮肉)
ともあれ、諸葛亮伝の文脈を確認しておく。劉備が諸葛亮に、「漢室を再建し、奸臣を排除し、皇帝を洛陽にもどしたい。どうしたらよいか」と発問したのだ。
0893非決定性名無しさん
垢版 |
2023/06/10(土) 15:36:16.12
文飾された「史実」 隆中対
亮答曰:
諸葛亮はいう。
以下、ぼくがやっつけようとしている、隆中対が始まる。といっても、全否定をして切り捨てても、面白くない。「史実」の隆中対を「事実」と仮定して読み、いろいろ推測する。そのあと、隆中対は史家の創作だ、「事実」ではない、ということを言いたい。
いま、わかりにくいことを言った。
言葉について定義する。
起こった出来事そのままを「事実」とする。人間が認知できるか、言語で記述できるか、正しく伝えられるか、などの障害はあるけれど、ともかくピュアに、起こった出来事そのままを「事実」と置くのだ。2乗したら-1になる虚数を「i」と置くのとおなじ発想。
「史実」とは、史料に記された「事実」をいう。「事実」でないことも、史料が「事実でした」と書いていれば、「史実」だということ。あくまで、ぼくの定義。
隆中対は「史実」には違いないが (諸葛亮伝に書いてあるのだ)、果たして「事実」だろうか、、と疑ってみよう。これが今日のページの方針。
0894非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:36:33.73
「自董卓已來,豪傑並起,跨州連郡者不可勝數。曹操比於袁紹,則名微而眾寡,然操遂能克紹,以弱為強者,非惟天時,抑亦人謀也。今操已擁百萬之眾,挾天子而令諸侯,此誠不可與爭鋒。
董卓からのち、豪傑は並起する。州をまたぎ、郡をつらねる者がおおい。
0895非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:36:53.23
孫權據有江東,已曆三世,國險而民附,賢能為之用,此可以為援而不可圖也。荊州北據漢、沔,利盡南海,東連吳會,西通巴、蜀,此用武之國,而其主不能守,此殆天所以資將軍,將軍豈有意乎?
孫権は江東で3代。地勢、民政、人材がいい。
0896非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:37:18.63
荊州は東西南北につうじ、用武の国だ。だが劉表は、荊州を守れない。天が劉備に、荊州を与えようとしている。
0897非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:37:35.50
ぼくは思う。荊州の地勢は事実だろう。べつにいい。諸葛亮伝の著者の時代になっても、地勢は同じだ。信頼できる。ブローデル『地中海』の述べる、長いスパンの時間。第1部「環境の役割」にあたる。
さて、諸葛亮が天意として言っていることは、単なる乗っ取りである。学識たかく、仁徳にすぐれた思想家たちが、いろいろ論評してきたのだろうが、単なる乗っ取りである。
0898非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:38:04.23
隆中対は、人物比較なのだ。曹操と劉表、劉璋と劉備を比べる。
「曹操と劉表は、州郡の統治者という共通点があるが、劉表のほうが弱い。劉表をつぶせ」といい、「劉璋と劉備は、皇族という共通点があるが、劉璋のほうが愚かだ。劉璋をつぶせ」という論法。
0899非決定性名無しさん
垢版 |
2023/06/10(土) 15:38:22.49
若跨有荊、益,保其岩阻,西和諸戎,南撫夷越,外結好孫權,內脩政理;天下有變,則命一上將將荊州之軍以向宛、洛,將軍身率益州之眾出於秦川,百姓孰敢不簞食壺漿以迎將軍者乎?誠如是,則霸業可成,漢室可興矣。
荊州と益州をたもち、西と南の異民族をなつかせ、孫権とむすべ。天下に変事があれば、1人の上将に荊州の軍をひきい、宛洛に向かわせよ。劉備は益州から秦川にでろ。
0900非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:38:51.04
諸葛亮伝と『魏略』との共通点は荊州統治
魏略曰:劉備屯於樊城。是時曹公方定河北,亮知荊州次當受敵,而劉表性緩,不曉軍事。亮乃北行見備,備與亮非舊,又以其年少,以諸生意待之。坐集既畢,眾賓皆去,而亮獨留,備亦不問其所欲言。備性好結毦,時適有人以髦牛尾與備者,備因手自結之。亮乃進曰:「明將軍當複有遠志,但結毦而已邪!」備知亮非常人也,乃投毦而答曰:「是何言與!我聊以忘憂耳。」
『魏略』はいう。劉備は樊城にいて、わかい諸葛亮を侮った。
『魏略』は、曹魏に仕えなかった諸葛亮を貶めるからね。劉備と諸葛亮の出会いを、つまらなくする。結果的に、ぼくから見るとリアリティが増しているが、ただちに支持するわけじゃない。諸葛亮伝を否定し、『魏略』を全面採用! したいのではない。それでは、諸葛亮伝を信仰して、隆中対を一言一句まで暗記する信者と同じである。
諸葛亮は、劉表では曹操から荊州を守れないと考えた。
0901非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:39:19.96
劉備が諸葛亮を迎えたことは「事実」で良いでしょう (どんな態度で、どれくらい鄭重に迎えたかは保留)。諸葛亮が荊州統治の改善を勧めたことも、事実でしょう。蜀視点の諸葛亮伝と、魏視点の『魏略』が共通しており、これを否定する史料がないので、肯定しておかないと、何も言えなくなる。
0902非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:39:49.15
天下三分の計を「事実」でないとすると、さみしいが、
ぼくは「仕官直後の諸葛亮が、劉備に何も言わなかった」と主張したいのではない。いろいろ喋ったと、仮定できる。っていうか、終止無言、というほうがおかしい。過去の話も、未来の話も、しただろう。
史家が飾った「史実」でなく、密室で語られた「事実」を想像したいのだ。
「史実」主義者からは、「それを言い始めたら、キリがない」とウンザリされるだろう。「ファンが全部自分で考えるより、せめて諸葛亮伝に準拠したほうが、まだ事実に近かろう」という指摘は、ごもっともだ。反論できない。
0903非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:40:35.62
諸葛亮は、あざなを孔明。琅邪の陽都の人だ。

出身地の件は、「魏志」諸葛誕伝を見よと。そうですね。
0904非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:40:52.53
前漢の司隸校尉、諸葛豐の後裔である。
諸葛豊のことも、諸葛誕伝に盧弼がかいた。
銭大マはいう。諸葛亮、諸葛瑾、諸葛誕は、三国にわかれて仕え、列伝をたてられた。3人とも、出身の郡県が記される。諸葛亮と諸葛誕は、諸葛豊の子孫だという。魏志、呉志、蜀志」を、セットで見たり、バラで見たりしたから、重複をゆるしたのだろう。「魏志」鍾繇伝と鍾会伝は、2人が親子なのに、どちらも出身地をかく。重複の例である。
0905非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:41:09.22
父の諸葛珪は、あざなを君貢という。漢末に太山郡の丞となる。
元本では、あざなを「子貢」とする。
『百官志』はいう。郡ごとに太守1人2千石と、丞1人をおく。
上司にあたる泰山太守はだれだろうなーというのが、みんなの関心になる。
0906非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:41:28.92
はやくに父が死んだ。従父の諸葛玄が、袁術の豫章太守に任じられた。諸葛玄は、亮と均をつれて着任した。漢家は、豫章太守に朱晧をかぶせた。諸葛玄は、旧縁ある劉表をたよった。
0907非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:41:52.51
はやくに父が死んだ。従父の諸葛玄が、袁術の豫章太守に任じられた。諸葛玄は、亮と均をつれて着任した。漢家は、豫章太守に朱晧をかぶせた。諸葛玄は、旧縁ある劉表をたよった。
ぼくは思う。いつ旧縁が生まれたのか。
0908非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:42:11.78
諸葛玄が劉表を頼ったのは、以前から荊州牧の劉表と旧知の仲だったからだとされています1。ただし、具体的にいつ旧縁が生まれたのかについては、明確な記録は残っていないようです。

以上が回答になります。他に何かお探しでしたら、お知らせください。
0909非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:42:36.35
劉表は何進や董卓のとき、洛陽にいた。このとき洛陽で出会ったのか? それとも諸葛玄は、190年以降、荊州にいたのか。荊州だと思う。なぜか。上の記事でぼくは、諸葛珪は泰山丞になれる家長で、諸葛瑾を遊学させるヨユウがある一方で、諸葛玄は貧しいと確認した。諸葛玄に養われた諸葛亮は、遊学させてもらっていない。諸葛玄も洛陽に行けないだろう。
0910非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:42:51.99
劉表と袁術は、荊州に同居するときは仲がわるいが、曹操と敵対するという点で利害が一致する。消極的にせよ同盟関係ならば、劉表の人材=諸葛玄を、袁術がもちい、荊州に接した豫章に置いたことは、友好のアカシになる。献帝の前にだすと色がかすむ諸葛玄でも、劉表と袁術という閉じた世界では、価値があがる。
0911非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:43:13.71
『献帝春秋』はいう。はじめ、豫章太守の周術が病死した。劉表が上して、諸葛玄を豫章太守として、南昌においた。漢家は周術が死んだと聞き、諸葛玄のかわりに朱晧を置いた。
ぼくは思う。劉表が「上」したが、受理されなかったのか。劉表は、漢家の裏づけを取ろうとして、周術の死を報せてしまい、とんだヤブヘビになったなあ。結果論だけどね。
ここで争っているのは、漢家に従うか否かでない。漢家に従いつつも、政策の結論をどちらに持って行くかだ。
0912非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:43:31.51
朱晧は、揚州刺史の劉繇にしたがい、兵をもらい諸葛玄を撃った。諸葛玄は、南昌から西城にしりぞく。南昌に朱晧が入った。
揚州太守は「刺史」の誤りだと盧弼がいうので直した。
以上が、建安元年のできごと。つぎの記述でわかる。
0913非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:43:58.69
都合のわるい友人・石韜と孟建
身長八尺,每自比於管仲、樂毅,時人莫之許也。惟博陵崔州平、潁川徐庶元直與亮友善,謂為信然。
博陵の崔州平と、頴川の徐庶だけが理解者。
博陵は、「魏志」張燕伝、夏侯玄伝にある。
崔州平は、名が記録されなかった。
0914非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:44:47.13
『魏略』はいう。建安初、諸葛亮は頴川の石廣元、徐元直、汝南の孟公威らと遊学した。

石廣元は、石韜という。『魏略』にある。 孟公威は、「魏志」温恢伝にひく『魏略』にある。
ぼくは思う。頴川と汝南は、ふつうに南陽にちかい。同一の経済圏とされる。「人材の豊作地帯だから、諸葛亮の友達を多く輩出した」という特徴は語れないだろう。
諸葛亮は「きみらは刺史や太守までゆける」「士大夫のたくさんいる故郷に、わざわざ帰らなくていい」と言った。
0915非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:45:13.40
ぼくは思う。よく諸葛亮の志の大きさを語るエピソードとして引かれる。諸葛亮伝の裴注だから、諸葛亮ファンの目につく。もし「魏志」に埋もれてたら、無名だろう。
でも注意したい。この話は『魏略』だし、うえの盧弼注で、『魏略』が石韜と孟公威を詳しく説明することがわかった。つまりこのエピソードは、石韜と孟公威のための記録なのだ。どちらかと言えば、中原の曹魏に仕えた2人は、判断力に富んでいて偉いなあ、という意図で記述されたのだろう。曹魏の刺史といえば、劉備や孫権なみの領域をうけもつ。人材のおおい中原に出ても、2人はちゃんと名前をのこした。「自分の限界を悟り、井蛙に甘んじた諸葛亮とは違うよ!」という記事なのだ。
はじめは劉表と袁術、つぎは劉備と孫権が、中原から距離をたもって、ミニ帝国ごっこをやる。諸葛亮は、このミニ帝国ごっこの、筋金いりのプレイヤーなのだ。ローカルルールでだけ強い、麻雀打ちみたいなもの。ローカルから外には出ない。
劉表、袁術、劉備、孫権が勝てば、諸葛亮は成功者&先駆者になったが、まだ時代の趨勢として、中央が強かった。
0916非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:45:36.95
『魏略』は、諸葛亮に「私は陳羣や司馬懿にかなわない」と言わせてしまった。おかしい。諸葛亮は、漢家を復興するため、曹魏に仕えなかったのだ。
『魏略』が諸葛亮をおとしめる、おとしめないまでも、石韜らをもちあげる意図で書かれているのだから、これでいいじゃん。ぼくは思う。裴松之も、諸葛亮を理想化しすぎて、よく分からん観念論を吐いている。漢家の復興というのは、劉備が益州に入ってから、曹操と対抗するためにもってきた議論であり、二の次だと思う。
0917非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:46:37.42
孔明より功名を志す死将!姜維伝(1)

■姜維の正体は、死士の将
タイトルの「死将」というのは造語です。
「死士」という言葉がある。目的のために命を捨てた者。危険よりも、目的が達せられないことを怖れる者。そんな感じかな。刺客なんて、その最たるもの。姜維を魅力的にたっぷり描いた作品だと柴田錬三郎『英雄』です。姜維は釣りをしている諸葛亮の刺客として登場した。そこはイメージ通り!
姜維は、死士を率いる思想と器量を持つから「死将」です。
 
「姜維伝」の注で『傅子』に言う。姜維は功名を樹立することを好む人物で、ひそかに決死の士を養い、庶民の生業には携わらなかった。これを読んだとき、びっくりした。姜維の人柄を言い当ててしまった。ぼくが付け足すことなんてあるのか笑
『傅子』が言っているのは、姜維の少年時代だ。ちくま訳に「庶民の生業には携わらず」とあるが、原典は「不修布衣之業」だ。文字通り読めば「お洗濯もできず」かな。きっと布衣之業は慣用句で、ぼくのは誤訳です。でも感じが伝わるじゃん笑
少年の性質は、60歳になっても同じだったんじゃないか。戦争にかまけて、身を調える根本=国土も臣民も蔑ろにしちゃうんだから。
 
姜維は諸葛亮の後継者と言われる。諸葛亮なき後の蜀漢を背負い、劉備の悲願を達成しようとしたイメージがある。『演義』でそう描かれているし、正史もそう読める。
『涼西戦記』さん(リンク集参照)が「姜維の権力確立過程」で「無双の魏延と演義の呂布を足して割ったような人物」と書かれていましたが、共感します。ぼくもそんなイメージです。
孔明の遺志よりも、功名を重んじた。第二の孔明になりたくもない。だから、タイトルは韻を踏ませてあんな感じにした。
0918非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:47:19.26
諸葛亮の打算
よく知られているから、さらっと書く。姜維が諸葛亮に帰順したことに『演義』のような心温まる理由はない。なりゆきだ。
姜維は涼州天水郡冀県の人。ここは魏の西の外れだ。彼の父が羌族との戦いで早く死んでいるように、扱いにくい辺境の地。分断されれば、魏から離反しやすいフロンティア。
姜維は生まれた冀県の中郎として軍事に参与した。※所属勢力は魏。
 
228年、天水太守・馬遵の巡察に随行していた。諸葛亮が祁山に向かった。第一次北伐だ。本伝と『魏略』を合わせて、経過を見る。
馬遵は蜀の侵攻を聞き、天水を放棄した。姜維は「逃げちゃダメ」と言ったが、馬遵は無視。姜維の異心を疑い、夜半に単身逃亡した。姜維は上官に捨てられ、諸葛亮に帰順した。
 
なぜ馬遵は逃げたか。
涼州の治安はとても不安定だから。西に行くほど危ない。
これでいい。『魏略』で馬遵は、雍州刺史・郭淮に随行してたことになってる。郭淮といえば、大物だよ。その郭淮が「こりゃ無理っぽい!」と言ったのだから、逃げた馬遵に責任はない。
姜維が戻るべきだと言ったのは、天水郡の政庁がある冀県。西方にある冀県は危険。上官の制止を振り切ってまで死にに行く理由は、馬遵にはない。
オレに死を勧める姜維には異心あり!となる。
0919非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:47:33.86
姜維が逃げるなと言った理由は3つ。
(1)太守たる者は、敵の侵攻は食い止めるべし。正論ではある。
(2)大好きな死地が、オラを呼んでいる。
(3)お母さんを助けに行かなくちゃ。+地盤は大切だ。
姜維にしてみれば「臆病」な馬遵が「逃げ」た。姜維は冀県に戻った。
冀県は混乱していたんだろう。本伝は姜維をブロックしたというし、『魏略』は姜維の帰還を喜び、諸葛亮と会う役目を押し付けたとある。したたかだ。ぼくが思うに、姜維が民衆を取りまとめ、諸葛亮との交渉に行ったというくらいだろう。
当時の戦果で重要なのは、人口の獲得である。マンパワーを持った国が勝つのだ。曹操は、長江下流や漢中の民を強制移住させている。劉備は荊州の民を連れ出した。諸葛亮だって、人口が欲しくて仕方がない。だから姜維を喜んで迎えた。姜維自身が云々というより、県単位で人口を手に入れたのが嬉しかったのだ。と思う。要は、打算だ。 
諸葛亮は千余軒の住民を拉致ったが、馬謖のせいで早々に退散。姜維の母は取り残され、魏の人質収容所へ。
0920非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:48:02.57
姜維の心を考える
第一次北伐の中での出来事だから、姜維の意思で運命を切り開いたということはないだろう。その場その場で一生懸命やった、というくらいか。
姜維の行動基準は、血の匂い。
徹底抗戦をしない馬遵のもとを去ったことに、後腐れはない。むしろ逆心を勘繰られたんだから、尽くす義理はない。諸葛亮は戦争をしようとしているから、好き。面白そうな所に流れ着けたな、くらいの気持ちだろう。
気になるのは、姜維が故郷で養った、死士たち。おそらく魏から蜀への投降にも従ったんじゃないか。姜維がまずは故郷に帰った目的は、死士たちとの合流かも知れない。家にデスノートが置いてきちゃったから、車の中じゃ殺せない、分かるだろ、みたいな笑
 
母と離れたが、まあ、しゃあない笑 後世は姜維の孝についてあれこれ言うけど、本人の中では優先順位が低かったのではないか。そりゃ母への愛着はあるだろうけど、何しろ状況が状況なんだ。
『雑記』に言う。母からの手紙を、蜀で受け取った姜維。母は、家に帰れと言う。姜維の返信がすごい。「こっちで厚遇されてるから、実家の財産とか興味ない。ひたすら将来の希望を追うものは、故郷に帰る気持ちは持たないものである」と。
敵の計略(優秀な人材を蜀から引き抜く)の手紙と判断して、こんな風に返したのかも知れない。でも、思ってもいないことは書けないものだよ。姜維の本心が、ぼくには含まれてるように思える。※真似したらダメだね
0921非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:48:17.64
馬謖の代わり
姜維を迎えた諸葛亮は、最大級の可愛がり方をした。
「仕事を忠実に勤め、思慮精密だ。李邵・馬良の才能も姜維には及ばない」
「涼州における最高の人物である」
「軍事にはなはだ敏達し、度胸があり、兵士の心を深く理解する」
すごい褒め方だね。
よく物語で言われるけど、馬謖を失った後の心理的な穴埋めもあったんじゃないかな。義兄弟とされる馬良の弟で、息子のように可愛がった馬謖を斬った。街亭での敗戦、第一次北伐を失敗させた罪で。
 
失恋した。絶望した。そこに、良さげな人が現れた。これは運命か。次の恋こそは、今までで最高のものにするぞ。そう思うと、新しい恋に気合がどんどん入っていく。そういう心境かな笑 そして盲目になって見誤る。
「姜維は漢室に心を寄せている」
「軍事の教練が終わったら、宮中に参内させ、陛下にも会わせたい」
おおっと!姜維くんはそんなんじゃないぞ。諸葛亮先生、気をつけてね。
好きなのは、戦闘。きちんとマニュアル読んで下さいよ。
0922非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:48:31.48
姜維の関心事
姜維が漢室に心を寄せている「ふり」をしていた可能性は高い。
漢室復興が、蜀が軍事行動を起こす根拠だからだ。これに同調したように見せることで、信頼を得て出世する。大きな軍を動かせる。
素の姜維は、漢室をどう思っていたか。おそらく何とも思っていない。漢なんて、好きでも嫌いでもない。
姜維の生まれ育った涼州は辺境だ。世が乱れて長い。異民族との関わりが深い。漢の実質的な支配を、姜維は見ていない。関わりの薄い王朝が、魏に代わられようが、姜維は関知しない。
蜀漢の正統性もドーデモイーだろう。劉備は幽州の出身。涼州とは正反対の辺境出身者じゃないか。劉備が国を作ったのは、これまた正反対の益州だ。そんなエリア的に散漫な志など、追いきれない。心底同調しろという方が無理だ。まるで姜維には関係がない。
また、魏に対しても、愛着はない。敵意もない。生まれた場所が魏だった。だから仕えていた。それだけだ。魏から蜀への「寝返り」も、彼の中では大きな意味を持たないだろう。
0923非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:48:51.65
姜維は別の目で、魏と蜀の対立を見ていたはずだ。
 ○益州は独立勢力を保つのに最適の地だ。
 ○益州を奪って根拠地とした劉備は、上手くやったもんだ。 
彼の観察眼は、そこを捉えていたと思う。
弱小の勢力であっても、天険を活かして強大な魏と張り合える。ここに国を建てた劉備は成功者だ。野心家の先輩として見習うべき点が多い。
劉備は漢室復興という名分で幻惑?して功名を立て、皇帝を自称した。その即位を一定数の人が支持した。これは羨ましいぞ!
これが後に、鍾会とにわかコンビを組めた伏線になってると思う。
0924非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:49:06.60
益州は独立勢力を保つのに最適の地だ。
0925非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:49:21.04
益州は、中国の歴史的地域の一つで、現在の四川省を中心に広がる地域です。三国時代には、劉備が益州牧として治めていました。益州は、山がちで地形が複雑なため、独立勢力を保つのに適した地域だったと言われています。

以上が回答になります。他に何かお探しでしたら、お知らせください。
0926非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:49:36.47
諸葛亮の死後
234年、諸葛亮が五丈原で死んだ。
『演義』の寵愛ぶりだと、諸葛亮は死ぬときに「じゃあ後継者は姜維で」と言いそうなものだけど、言ってない。劉禅の使者・李福だったかに答えて曰く「まず蒋琬、次は費禕で、その次は…(無言)」だったはず。この諸葛亮の後継者に関するコメントって「小説」だったっけ。正史でも読んだはずだけど、見つけられない。「蒋琬伝」に、諸葛亮が内密に劉禅に上表して「後継者は蒋琬で」と言ったというのは見つけたが。
なぜ姜維の名前が出ないか。一般に言われるには、こう。連続した北伐で国力は疲弊した。次は、守りを固める人物が指導者に適任である。そういう判断だそうで。正解だと思う。
でも北伐を重視した諸葛亮には、費禕の次は…姜維くんで!と言ってほしかった。本人は、言いたかったんじゃないか。でも姜維くんの教育ん上よくないから、名前は出さなかったのかな。彼が早い時期から付け上がるじゃん。
 
0927非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:49:53.88
姜維が孤立した理由 
渡邉義浩氏が、諸葛亮の後継者とその後の蜀について、解説をされている。添付された「蜀漢政権枢要官の人的構成」という図もいい。どの役職にいつ誰が就いていたか、一目瞭然だ。渡邉義浩「孔明政権とその人的基盤/荊州人士優遇策から益・荊州融合策へ」『真三國志三』学習研究社1998年に従って、姜維を取り巻く権力環境を見てみます。
 
はじめ諸葛亮にとって益州は、天下三分の足がかりに過ぎなかった。だから入蜀後は、荊州人士を優遇した。しかし関羽が荊州を失ってからは、益州と荊州人士の融和を試みた。
その証拠は、孔明の姜維評(※前のページで引用済)にも表れている、と渡邉氏は言う。姜維を「李邵」「馬良」と比較している。前者は益州出身、後者は荊州出身。姜維の名士間での立ち位置を示すときに、両州の有能な人物と並べたんだ。
※ともに故人。生きてる人の名を出したら、顔に泥を塗ることになるもんね。さすが諸葛亮さんです。
 
諸葛亮が後継者にした蒋琬も費禕も荊州出身。でも二人とも、益州人士の間で評価が高かった。※渡邉氏はここでは指摘していないが、費禕は劉璋の母の血縁者。益州人士の協力が得やすいわけよね!
一方で姜維は、涼州から流れてきた軍人。まあ鄭玄の学問をやるらしいが、益州人士のとは繋がりがない。だから、益州を固める時期の指導者としては不適格なのです。孔明も安心して後継者に指名なんか出来ない。人脈が弱い姜維は、北伐で戦績を上げるくらいしか、蜀で支持を得られる見通しが立たない。
 
蒋琬と費禕の亡き後、全権を握ったかに見えた姜維は孤立する。益州は三分した。北伐しまくる姜維、姜維に協力しない荊州人士、益州保全を願って蜀漢から離反しようとしる益州人士。
渡邉氏は、蜀漢の滅亡をこう位置づける。蜀漢は皇帝権力とその体現者により崩壊した。皇帝権力とは、劉禅本人や劉禅が寵愛した宦官。体現者とは、孔明が作った荊州人士と益州人士の協力体制だ。彼らが(姜維の台頭により)離反してしまった。だから滅びたんだ、という理屈です。渡邉氏からの議論の借用は以上です。
姜維、責任取れよ!ってムードになりかねないね、こりゃ笑
0928非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:50:10.08
蒋琬と費禕の時代
遺言どおり、まずは蒋琬が孔明を継いだ。
諸葛亮が死んで4年後の238年、姜維は蒋琬に従って漢中に駐屯。
この次に、特に年代も記さずに「西方に侵入した」とのみ「姜維伝」にある。しかし「郭淮伝」には、このときのことが詳しい。240年、郭淮は侵入した姜維を打ち負かし、彊中まで追撃したそうだ。※歴史書って面白いね。この戦いは、自国に都合のいいことを書き残したがる好例だわ!
政権担当者・蒋琬は諸葛亮の北伐コースではなく、荊州(孟達コース)から魏を攻めようとしたが、243年病気で引退。費禕がトップに。
姜維は、鎮西大将軍・涼州刺史に昇進した。
 
244年、曹爽と夏侯玄が漢中に攻めてくるが、費禕と王平を中心に撃退。247年、隴右の羌が反乱したが姜維が平定。あの俄何焼戈(ガカショーカ)が姜維に味方した。兀突骨と人気を二分する人物です。※名前の珍しさが笑
同じ年、郭淮・夏侯覇と戦った。姜維の作戦は、涼州を分断して羌を味方につけること。彼は涼州出身だ。魏を攻めるときに武器になる。同時に、これは他の蜀将に対するアドバンテイジでもある。荊州や益州出身の将軍に、同じ芸当は出来ない。
249年も郭淮と決戦し、敗北。やはり「姜維伝」には1行しか記述がないが、「郭淮伝」は違う。廖化と姜維を翻弄して破る郭淮の様子が、ちくま文庫1ページに渡って記されている。姜維がボッロボロだ。
250年にも姜維は西平に出撃して、敗れた。
 
費禕は姜維にブレーキをかけた。姜維が大軍を動かしたがるたびに、わずか一万の兵を与えるだけだったという。
ここで有名なセリフがお目見えする。「丞相(諸葛亮)ですら北伐をミスった。私たちじゃ無理なんだ。能力ある者の出現を待とリョーシカ。僥倖で勝とうとするな」こう費禕は言った。
姜維の心中やいかに。下手をすると殺意まで覚えたんじゃないか。諸葛亮に劣らない有能者こそ、自分だとおそらく自負してたんだから。
0929非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:50:22.58
郭淮のカベ
どうやら郭淮は、姜維にとって因縁の人物だ。姜維が馬遵に捨てられたとき、その査察団を率いていた長が彼だった。その郭淮が、姜維の軍事行動をことごとく阻んだ。
こうなったら、姜維と郭淮に一騎打ちでもしてほしい。一騎打ちはさすがに笑止の沙汰としても笑、書簡の交換なりで郭淮と昔話をしてほしいなあ!
 
その伏線として、姜維が故郷で小役人をしてたときに、郭淮との絡みが必要だね。郭淮の有能に、姜維が劣等感を持っててもいい。
場面はこうなるかな。馬を引きながら、夏侯淵の思い出話をする郭淮。
※郭淮は夏侯淵に従って、漢中に残った経歴がある。
夏侯淵と郭淮に尊敬の眼差しを向ける、20代の姜維。郭淮から夏侯淵の遺品の弓をもらっちゃったりする。郭淮は夏侯淵の死後に、弓を収容したんだ。それを血気溢れる姜維を見込んで、渡していた。姜維はこの弓で郭淮に挑む。しかし到底、叶わない。夏侯淵が言い残した教訓みたいのを絡ませたら(諸葛亮の死後は詰まらなくなると言われている)物語が前時代とリンクするよね。
郭淮の軍事行動は249年で終わっている。以後は記録がない。それまでの功績を讃えられて、ご栄転という感じだ。その去り際にも、毛を逆立てて威嚇してる姜維に、一声かけてほしい。「オレの見込み違いだった。お前はその弓を引くのに、全く値しない将だな」みたいな。ますます闘争心を掻き立てられる姜維!と。完全な妄想ですが。
諸葛亮の弟子と言っても、姜維の成分の半分しか言い表した気がしない。郭淮の弟子でもあったんだ笑
 
郭淮のルックスは『蒼天航路』でしか見たことない。厚めの上唇と巻き毛。あの顔に年季を加えたら、けっこう味が出そうじゃないか。
0930非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:51:05.54
夏侯覇の劣等感
夏侯覇は夏侯淵の息子だ。夏侯覇って、専用の伝がないんだね。『演義』や柴田錬三郎で、姜維の無二の親友として活躍してるから、この扱いに驚き。夏侯淵伝の続きが途切れてるのかと思った笑
坂口和澄『正史三國志群雄銘銘伝』光人社2005年の記述を見ると、『魏氏春秋』、「夏侯玄伝」注『魏略』、「鍾会伝」注『世語』、「張嶷伝」注『益州耆旧伝』を繋ぎ合わせるしかなさそうだ。
 
彼は249年の司馬懿のクーデターで、蜀に亡命した。
姜維との絡みが確認できるのは、255年に狄道に出て、魏の雍州刺史・王経をさんざんに打ち破ったという1回のみ。
でもさ、魏からの亡命という経験は似てるから、きっと姜維は、夏侯覇と気持ちを共有できると期待したよね。『演義』も根拠がないわけじゃない。
姜維の心の師匠は夏侯淵だ(とさっき決まったところだ笑)。姜維は、夏侯覇に父のことをたくさん聞いただろう。夏侯淵の息子として、いきなり敬ったかも。
0931非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:51:12.53
夏侯淵の息子という出生が、夏侯覇の中でどういう位置づけだったのか興味深い。
あくまで仮説だけど、郭淮や夏侯玄と対立してるっぽいから、血筋に恥じてそう。夏侯淵の話をしたがる姜維。それに快く応じる夏侯覇。でも本心では、父の話をしたくない。姜維は後腐れない投降だったけど、夏侯覇は苦渋の投降だし。
投降の過程でも、かなり道程は厳しかった。予約なしの亡命だからね。秦嶺山脈。自分の馬を解体して食べながら、険阻な山中で星を見上げ、何を考えたんだろう。覇なんて輝かしい名前を付けられちゃってさ、オレは何者なんだ、と。屈折してそう!最高!
 
姜維は夏侯覇に、郭淮からもらった弓を渡すんだ。※妄想
「これはキミが持っているに相応しい。お父上の弓だ。返すよ。共に功名を立てよう」姜維は夏侯覇の肩を抱いて、親しげに弓を握らせる。しかし夏侯覇はカゲに隠れて、この夏侯淵の弓を叩き折ってしまう。夏侯淵が若き曹操と一緒に野を駆けた日の弓が、真っ暗で底の見えない漢水に投げ捨てられる。誰にも知られることなく。無情だ。いいねえ!
弓を手放した姜維は、郭淮へのコンプレックスを乗り越えて自立する。次はケ艾戦をやってもらわなきゃ、だからね。
※夏侯覇は史料が少ないと知ったので、早めにキャラ伝を作っちゃいたい。
 
次回からは姜維の独壇場。
いきなり、彼がトップに登りつめるため?の暗殺劇が起きます。
0932非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:51:26.98
費禕の死
253年正月、費禕が殺された。下手人は魏の「降伏者」郭循。
いつも疑問に思う。250年以降、正史に残る戦はないはず。蜀が勝った戦は、244年まで遡らないと無い。郭循が降伏したのなら、そのときか。もう蜀に10年弱は留まっている計算になる。何をしてた人なんだ。かつ、一介の降伏者が、重臣の正月の宴に紛れ込めるものなのか。
費禕の死は、姜維のしわざじゃないか笑 ※ぼくの勝手な推測
 
費禕は前年に幕府を開いて、権勢の絶頂。わきまえた費禕のことだから、無茶な政治はしなかった。だが、そりゃ有頂天にもなる。大宴会で、気持ちよく泥酔してた。費禕は姜維を快く思ってないから、席上で軍事行動をたしなめたのかも知れない。
蜀の廟堂で降伏者と言えば、筆頭は姜維。次点に夏侯覇。
彼らはどうしても益州・荊州出身者とは馴染めないから、きっと群れていた。従者も同類で固めていた可能性がある。郭循は姜維の従者として(あくまで推測)すぐ隣に侍っていた。姜維の密命を受けて、グサリと。でも姜維には類が及ばぬように片付けられた。
姜維が培養している「死士」が、いかにも喜んでやりそうなことじゃないか。死に場所が得られてハッピー!みたいなノリの連中だから。
 
「姜維伝」は言う。
253年春、費禕がなくなった。夏、姜維は数万の軍勢を率いて(以下略)っておい!費禕は一万しか与えなかったのに、彼が死んだ3ヵ月後には、もう最大積載量オーバーしてるよ。こりゃ、黒幕は姜維で決まりでしょう。
※この出兵も失敗。言わんことはない。
0933非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:51:41.61
輝かしき?戦績 
254年、隴西に出陣、徐質を斬り、三県の住民を拉致する戦果。
255年、先に書いた夏侯覇との出兵。王経を破るが、陳泰にビビり退却。
266年、胡済が待ち合わせに来ず、ケ艾に大敗。戦死多数。
257年、諸葛誕に呼応して出兵。司馬望とケ艾と対峙。
258年、諸葛誕の敗退を受けて、撤退。ダメじゃん。
0934非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:51:57.05
この辺りから、郭淮に代わってケ艾の名前が出てくる。
姜維のライバルとして描かれることが多いから、要チェックですね。
しかし、毎年戦争をしないとダメなのか。お前はサメか!諸葛亮の北伐は5回(カウント方法によっては6回)です。それぞれにドラマがあり、それなりに惜しいから物語になる。国家を上げての感動ドキュメントになる。ここまで頻繁に北伐されると、価値が下がるよ!
 
0935非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:52:06.95
姜維の建議
要旨は、防衛線を後退させましょうだ。
漢中から中原には、放射状に経路が広がっている。それぞれの経路に兵を分散して守るのではなく、経路が集中した場所で一気に守ったらどうか。
そうしたら兵力を増やすことも出来るから、持久戦で勝ちやすくなる。敵を集めるから、遊撃隊を出動させやすくなる。補給に苦戦して敵が撤退を考えれば、諸城から出て叩けばいい。どや!と。
 
一見素晴らしいが、怖いことだ。建国以来の大変革を、姜維は言っている。これは、劉備が作った漢中防衛方針を覆す提案だ。「姜維伝」にある。劉備は漢中に魏延を駐屯させ、外敵を防ぐために充分な兵力を置いた。王平が曹爽に対抗できたのも、そのおかげだ、と。それをご破算にする、姜維の改革案は通った。姜維の提案どおりに兵が配備された。
 
なぜこの時期に、防衛線後退になるのか。
姜維が蜀の兵力を消費しちゃったからだろ!お前のせいだろ!と言いたい。「姜維伝」をもう一度注意深く見てもらうと、「充分な兵力を置いた」とある。それが出来ていた。曹爽撃退の成功から15年、蜀の軍事に変化があったとすれば、その要因は姜維の連敗記録だけだ。
本音はこうなる。「オレが蜀の兵力を大幅に減らしてしまったから、現状の人数じゃ防衛線が保てないんすわ。ごめんやけど、国を小さくまとめて守るしか手がないんよ」と。
結果から歴史を断じるのは禁じ手だが、これは亡国の策となる。
防衛ポイントを限定したせいで、ケ艾の回り道を許してしまう。主戦力が鍾会と戦っている間に、脇をすり抜けて成都が降伏してしまう。じゃあ、この建策は間違っていたか。いな。これは仕方ない決断だった。問題は、その前段階だ。兵力を減らしてしまったことだ。
 
0936非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:52:18.98
蜀からの独立
262年、姜維は侯和でケ艾に敗れた。沓中に駐屯。
成都では黄皓が劉禅に侍り、大将軍・閻宇と結託した。黄皓は姜維を廃して、閻宇に軍権を委ねようとした。姜維ピーンチ。まあ、自業自得な気もするけど。宦官・黄皓の人格は見下げたものかも知れないが、兵力をいたずらに消耗させる姜維は、国賊に等しいもんね。
 
『華陽国志』にいう。姜維は劉禅に上言して、黄皓を殺させようとした。
劉禅は断った。「黄皓は使い走りに過ぎない。君が気にかけるほどの男ではない」と。そうそう、男ではないよ、宦官だよ笑
劉禅は黄皓に騙されて、忠烈の義士・姜維の注進を跳ね除けたという印象がある。でも実は、劉禅自身が姜維を廃そうとしてたんじゃないか。黄皓が姜維失脚を画策しているように見えるだろうが、彼は使い走りをしてるだけだ。情報元は朕なんだよ。黄皓を気にかけても仕方ないよ。違う宦官・文官を立てても、方針は変わらないよ。そういう謎かけじゃないか。
 
姜維は失言するのを怖れ、退出した。沓中で麦を植えて屯田したいと申し出て、成都には戻らなかった。
これは「沓中で、独立ミニ国家を経営させて下さい」と言っているに等しいんじゃないか。地盤を独自に持って、成都に仕えないのなら、もう一蜀将じゃない。モデルとしては、魏王となった漢の曹操、晋王となった魏の司馬昭に近かろう。本体の蜀が衰退してるから、ショボいけど。
たびたび魏の投降者であることが、引き合いに出される姜維。居心地がいいはずがない。ついにその因縁を断ち切るときがきた。お気に入りの死士だけが集まる理想郷を、姜維は作った。立地は、蜀と魏が激突する山の中。彼にとっては最高の立地だろう。姜維はついに、死王になった。とか笑
 
0937非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:52:30.67
孔明の弟子なんかじゃない
姜維が功名より孔明を志すのなら、ここで成都に居座って廟堂の一新に努めただろう。『演義』の雰囲気なら、それが出来そうなものだ。黄皓ぐらい、一太刀で斬れそうなものだ。しかし3つの理由で無理だ。
姜維に成都で政治をする気がない。出身地が遠くて、人士の支持が得られない(これは先天的条件だからどうしようもない)。蜀の兵力を無駄に損なってきたという負の実績がある。
『演義』ファンが望む姜維の一閃が炸裂しないのは、この3要因が彼の刀を封じていたからだ。生半可な客席の声援では、姜維は黄皓を切れない笑
子供が泣いてもダメなのだ。
 
そういうわけで、姜維を孔明の後継者と見るのは、孔明に対して失礼で、無理のある話だ。孔明は成都でしっかり劉禅を握っていた。その裏づけとなる政治手腕があった。軍事は苦手だけど、やばかったら撤退した。姜維が孔明の何を継いだのか、よーわからん笑
孔明が姜維を褒めながら「調練が終わったら、成都で陛下にお目見えさせます」なんて言ってた日が懐かしいよ。姜維は沓中で独立しましたから。
諸葛亮とは、戦う動機が違うの。ごめんね。
 
次回、蜀が滅亡します。
そのとき姜維が、驚異で脅威の逆転をかます!
※ついにこの駄洒落を使ってしまった。ベタ過ぎるのに。
0938非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:54:59.45
■三国志キャラ伝>孔明より功名を志す死将!姜維伝(1)
0939非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:55:14.74
■姜維の正体は、死士の将
タイトルの「死将」というのは造語です。
「死士」という言葉がある。目的のために命を捨てた者。危険よりも、目的が達せられないことを怖れる者。そんな感じかな。刺客なんて、その最たるもの。姜維を魅力的にたっぷり描いた作品だと柴田錬三郎『英雄』です。姜維は釣りをしている諸葛亮の刺客として登場した。そこはイメージ通り!
姜維は、死士を率いる思想と器量を持つから「死将」です。
0940非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:55:28.95
こんにちは、Bingです。姜維伝についての情報をお探しでしょうか?姜維は、諸葛亮の後継者と言われる人物で、蜀漢を背負い、劉備の悲願を達成しようとしたイメージがあります。『演義』でそう描かれているし、正史もそう読めるようです。また、柴田錬三郎『英雄』によると、姜維は死士を率いる思想と器量を持つから「死将」と呼ばれているそうです。

以上が提供できる情報です。他に何かお探しでしたら、お知らせください。
0941非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:55:51.79
エピローグ
『世語』にいう。姜維は死んだときに腹を裂かれたが、その肝は一升ますほどの大きさがあった。
キャラ伝を書く前に、一度は「姜維伝」を通読するわけです。この記述を読んでから、もう頭の中はこのことでいっぱい。赤黒いタプンタプンした肝臓が離れないのよ。
『真・三國無双』のイケ面のお兄ちゃんのイメージがあったのに、一瞬で破綻ですよ。
特大のレバサシがさ、タプンタプンとぼくを待っているような気がして、気持ち悪くなってきた。歯ごたえを想像したりね。
姜維は、常人離れした度胸がある人物だった。それを誇張するための逸話なのは分かるよ。分かるけどさ?ねえ!ねえ?…おええ。
0942非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:56:11.37
『晋陽秋』は姜維を愚かだと言う。成都陥落を許し、魏に帰順し、鍾会の反乱に加担し、鍾会の厚情を裏切ることを考えた。行動に一貫性がない。滅亡した国の微弱な国力で、運任せの成功を目指した。ダメじゃん、と。
0943非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:56:30.77
鍾会「姜維くんは、劉備の役ね。徐州を呂布に追われて降伏したとこ」
姜維「えー!カッコ悪いよ。やだ」
鍾会「だってリアルに、キミは降伏者だろ。逆らうなら印璽を返せよ」
姜維「分かったよ、やるよ…」鍾会くん、ジョークが通じない(>o<)
鍾会「天下広しと言えども、英雄は二人だけ。誰だか分かるか、劉備」
姜維「そ、曹操殿。ぼく、わかんない。袁紹(司馬昭)殿か」
鍾会「あんなのは、クズだ」
姜維「じゃあ呉の孫策(孫休)か」
鍾会「あれもゴミ」
姜維「えー!もう思いつかないよ」
鍾会「キミとボクだ。はーっはっはっはっは」雷鳴カットイン!
姜維「ひええ」※この寸劇はぼくの妄想
0944非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 15:57:10.84
一見素晴らしいが、怖いことだ。建国以来の大変革を、姜維は言っている。これは、劉備が作った漢中防衛方針を覆す提案だ。「姜維伝」にある。劉備は漢中に魏延を駐屯させ、外敵を防ぐために充分な兵力を置いた。王平が曹爽に対抗できたのも、そのおかげだ、と。それをご破算にする、姜維の改革案は通った。姜維の提案どおりに兵が配備された。
0945非決定性名無しさん
垢版 |
2023/06/10(土) 15:57:31.56
「姜維伝」は言う。
253年春、費禕がなくなった。夏、姜維は数万の軍勢を率いて(以下略)っておい!費禕は一万しか与えなかったのに、彼が死んだ3ヵ月後には、もう最大積載量オーバーしてるよ。こりゃ、黒幕は姜維で決まりでしょう。
※この出兵も失敗。言わんことはない。
0946非決定性名無しさん
垢版 |
2023/06/10(土) 15:57:50.12
費禕の死
253年正月、費禕が殺された。下手人は魏の「降伏者」郭循。
いつも疑問に思う。250年以降、正史に残る戦はないはず。蜀が勝った戦は、244年まで遡らないと無い。郭循が降伏したのなら、そのときか。もう蜀に10年弱は留まっている計算になる。何をしてた人なんだ。かつ、一介の降伏者が、重臣の正月の宴に紛れ込めるものなのか。
費禕の死は、姜維のしわざじゃないか笑※ぼくの勝手な推測
0947非決定性名無しさん
垢版 |
2023/06/10(土) 15:58:25.29
渡邉氏は、蜀漢の滅亡をこう位置づける。蜀漢は皇帝権力とその体現者により崩壊した。皇帝権力とは、劉禅本人や劉禅が寵愛した宦官。体現者とは、孔明が作った荊州人士と益州人士の協力体制だ。彼らが(姜維の台頭により)離反してしまった。だから滅びたんだ、という理屈です。渡邉氏からの議論の借用は以上です。
姜維、責任取れよ!ってムードになりかねないね、こりゃ笑
0948非決定性名無しさん
垢版 |
2023/06/10(土) 16:00:03.12
■三国志キャラ伝>孔明より功名を志す死将!姜維伝(1)
■姜維の正体は、死士の将
タイトルの「死将」というのは造語です。
「死士」という言葉がある。目的のために命を捨てた者。危険よりも、目的が達せられないことを怖れる者。そんな感じかな。刺客なんて、その最たるもの。姜維を魅力的にたっぷり描いた作品だと柴田錬三郎『英雄』です。姜維は釣りをしている諸葛亮の刺客として登場した。そこはイメージ通り!
0949非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 16:00:15.64
姜維は、死士を率いる思想と器量を持つから「死将」です。
「姜維伝」の注で『傅子』に言う。姜維は功名を樹立することを好む人物で、ひそかに決死の士を養い、庶民の生業には携わらなかった。これを読んだとき、びっくりした。姜維の人柄を言い当ててしまった。ぼくが付け足すことなんてあるのか笑
『傅子』が言っているのは、姜維の少年時代だ。ちくま訳に「庶民の生業には携わらず」とあるが、原典は「不修布衣之業」だ。文字通り読めば「お洗濯もできず」かな。きっと布衣之業は慣用句で、ぼくのは誤訳です。でも感じが伝わるじゃん笑
少年の性質は、60歳になっても同じだったんじゃないか。戦争にかまけて、身を調える根本=国土も臣民も蔑ろにしちゃうんだから。
姜維は諸葛亮の後継者と言われる。諸葛亮なき後の蜀漢を背負い、劉備の悲願を達成しようとしたイメージがある。『演義』でそう描かれているし、正史もそう読める。
『涼西戦記』さん(リンク集参照)が「姜維の権力確立過程」で「無双の魏延と演義の呂布を足して割ったような人物」と書かれていましたが、共感します。ぼくもそんなイメージです。
孔明の遺志よりも、功名を重んじた。第二の孔明になりたくもない。だから、タイトルは韻を踏ませてあんな感じにした。
0950非決定性名無しさん
垢版 |
2023/06/10(土) 16:00:28.38
■諸葛亮の打算
よく知られているから、さらっと書く。姜維が諸葛亮に帰順したことに『演義』のような心温まる理由はない。なりゆきだ。
姜維は涼州天水郡冀県の人。ここは魏の西の外れだ。彼の父が羌族との戦いで早く死んでいるように、扱いにくい辺境の地。分断されれば、魏から離反しやすいフロンティア。
姜維は生まれた冀県の中郎として軍事に参与した。※所属勢力は魏。
228年、天水太守・馬遵の巡察に随行していた。諸葛亮が祁山に向かった。第一次北伐だ。本伝と『魏略』を合わせて、経過を見る。
馬遵は蜀の侵攻を聞き、天水を放棄した。姜維は「逃げちゃダメ」と言ったが、馬遵は無視。姜維の異心を疑い、夜半に単身逃亡した。姜維は上官に捨てられ、諸葛亮に帰順した。
なぜ馬遵は逃げたか。
涼州の治安はとても不安定だから。西に行くほど危ない。
これでいい。『魏略』で馬遵は、雍州刺史・郭淮に随行してたことになってる。郭淮といえば、大物だよ。その郭淮が「こりゃ無理っぽい!」と言ったのだから、逃げた馬遵に責任はない。
0951非決定性名無しさん
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2023/06/10(土) 16:00:44.36
姜維が戻るべきだと言ったのは、天水郡の政庁がある冀県。西方にある冀県は危険。上官の制止を振り切ってまで死にに行く理由は、馬遵にはない。
オレに死を勧める姜維には異心あり!となる。
姜維が逃げるなと言った理由は3つ。
(1)太守たる者は、敵の侵攻は食い止めるべし。正論ではある。
(2)大好きな死地が、オラを呼んでいる。
(3)お母さんを助けに行かなくちゃ。+地盤は大切だ。
姜維にしてみれば「臆病」な馬遵が「逃げ」た。姜維は冀県に戻った。
冀県は混乱していたんだろう。本伝は姜維をブロックしたというし、『魏略』は姜維の帰還を喜び、諸葛亮と会う役目を押し付けたとある。したたかだ。ぼくが思うに、姜維が民衆を取りまとめ、諸葛亮との交渉に行ったというくらいだろう。
当時の戦果で重要なのは、人口の獲得である。マンパワーを持った国が勝つのだ。曹操は、長江下流や漢中の民を強制移住させている。劉備は荊州の民を連れ出した。諸葛亮だって、人口が欲しくて仕方がない。だから姜維を喜んで迎えた。姜維自身が云々というより、県単位で人口を手に入れたのが嬉しかったのだ。と思う。要は、打算だ。
諸葛亮は千余軒の住民を拉致ったが、馬謖のせいで早々に退散。姜維の母は取り残され、魏の人質収容所へ。
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。

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