【仏教】ヒキが仏道修行するスレ そのC【瞑想】
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前スレ
【仏教】ヒキが仏道修行するスレ そのB【瞑想】
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/hikky/1584582596/ 感受性が鋭い人ほど、おのれの罪業に悩み苦しむわけです
なぜかと言うと、過去の悪しき想いや言葉や行い、
また今現在の悪い心がけによって、想念が黒いわけです
天台大師の「天台小止観」という著作にはこうあります
みずからその心を浄くする
これが諸仏の教えである
その人の作った罪業は、自分自身でよく反省して悔悟しなければ、どうにもならないのです 心が不浄な人が、それを行わずに瞑想や観想をしたりすると、魔に取りつかれて頭がおかしくなってしまうこともあるようです
「われわれは破戒(悪い行い)もあり清浄ではないことが多いから、過去の罪業を数週間から数ヶ月間、仏様に懺悔し続ける必要がある」
と天台大師は解説されています
天台小止観には、具体的な方法として、仏様に過去のもろもろの悪事や、人を傷つけたこと、無責任な行い
悪い想念、悪い言葉などを反省し、懺悔することによって罪業が消滅してゆくことが説かれています
ぜひ読んでみて、実践して下さい 仏様に祈らなくても、当人からくる悪念を消す方法ならば
過去に傷つけたり、恨まれたり、迷惑をかけた相手や事件をひとつひとつ思い浮かべ、反省的な思念で謝罪の言葉を繰り返すのです
(小声でよい。なるべく集中して一心に)
「○○様、こういう迷惑をかけてしまい、ご不快にさせてしまって申し訳ありませんでした・・・」
心の内で念じ続けるだけでもよいが、言葉に出すことでより浄化されます >>5
大変興味深い話でした。
天台小止観ですね、機会があれば読んでみます。 仏様に懺悔って、キリスト教じゃないねんからって思う
仏=自分自身の心とか、自分を含めた自然全体とかそういう意味ならわかるけど。 ああ、今気づいたけど
小乗と大乗の違いって
自分自身のみで覚悟して生きること
と
世界が自分を受け入れてくれると信じて
身を任せて(疑いを手放して)生きること
の違いのような。 >>4
魔とかいうものに取りつかれることなどあり得ない。
神とか仏とか、超越的で人間を罰し萎縮させる人格的な存在などいない。
自分の過去の想念と自分を同一視しているだけだよ。 過去2000年来、あらゆる宗教はこの罪悪感を強調する処罰思想で人間の意識を萎縮させてきた。
大乗(マハーヤナ)仏教も、絶対神的な仏を信仰させるような宗派は、他の宗教と大差ない。
自然の法則には、原因と結果の関係があるだけで、行動や思考を改めることによってしか過去の惰性的な状況から逃れられない。 漠然とした絶対神や絶対仏を想定するからダメなんだよ。
よくわからないものに人は恐怖を感じる。
自分のお気に入りの神様を神話の中から一人選んで帰依して供養を続けたら人生変わるよ。
フィギュアとか像とか何かシンボリックなアイコンを持つとやりやすい。
まぁ、これは仏教の思想とは違うが故にスレチだから、これ以上は言わんけれども。 スレを荒らしてごめんなさい。
仏教やめてヴェーダンタ学んでいるので、ここからは去ります。 というか、自分自身を信頼して自分自身の本質に祈ればいいじゃない。 3時半だ
坐禅の時間だ
(-_-)
_φ___⊂)_
/旦/三/ / 永平寺の一日の始まりは3時半の坐禅で始まるのです(Youtubeで観た) 円覚寺の素人向けの接心(泊まりがけの座禅会)に参加していたが、同じく未明から起きて経行して座禅組んでたよ。
耐えきれず脱走する根性無しな奴が結構いた。 瞑想して無になってる方が本当の世界で
皆が信じてる今この世界が幻想の世界だよ。
なので瞑想とは本当の世界に気付気を留めること。 見えてる世界は表面の世界って思ってる。
一番上にあるレイヤー的な。 言わんとしてることはなんとなくはわかるが、それって仏教(特に大乗)が唱えた大嘘だと思うよ。空の思想に毒されすぎ。
実際は、
この「現実の世界」はあくまで現実で実在するが、雑念まみれのバイアスがかかった知覚や現実逃避した眼で捉えていて、実際の現実は捉えられていない。
また、瞑想の世界もいくらでも陶酔や幻想に耽ってしまうような誤った努力をする可能性があるので、必ずしも純粋知覚、本来の知覚に到達できわけじゃない。 陶酔は幸福と同じ内容を言っていて、表す言葉を変えただけのようにも思える。
ずっと不幸に生きてきた人が幸福になったら、それは陶酔のように感じると思うよ。
他人の感じてる感覚は、絶対にわからないので
正しいかどうかを他者が判別することは出来ないはず。
つまり何がいいたいかと言うと、他人が良いと感じているものを素直に肯定するべきじゃない?
否定的な物言いは正しいかどうかもわからないのに不安を煽ってるだけに思う。 自分自身のレス自体も否定的だったなと気づいたスマソ。
全部幻想だよってのは言いすぎじゃねって思うが、
日常生活で呼吸に意識集中するの、↓に近い気がしてる。
>なので瞑想とは本当の世界に気付気を留めること。 しかし、このスレ、
句読点ちゃんと付ける人多いんだな。
自分もそうだけど、頭でっかちクソ真面目タイプが多そう。 >>23
昔から、中庸と言う言葉がある。
過度のポジティブさはネガティブに変化する。
逆もまたそうだ。世界は陰陽とかプラスマイナスの均衡の上に成り立っていて、時に人間的な一般常識にとって厳しいのが現実世界だ。
真実と夢想と、どちらが自然の法則(仏教の言葉を借りれば、ダンマと言ってもいい)に則っていると思う?
もちろん、何を信じるかは各人の自由意志だ。 仏陀は究極の幸福追求者
そんな仏陀が悟ったのは人生は苦しみだと言うこと >>20
レイヤーというより、バイアスだな。
あらゆる物体を、言葉上の定義とか先入観を通して見てる。
レイヤーをよくよく観察して見てるわけじゃない。 >>27
物質にしても心情にてしても本来は絶えず変化して絶対に同じところに止まらないのに、それを留まるべきと思うから無理や矛盾が生じる。
こうした自然の流れを、人間的な解釈でそんなはずはないだろと疑ってかかるから苦しみが生じる。当たり前といえば当たり前だわな。 >>28
ノーバイアス=あるがままってのはそう思う
そしてそれの驚くほどの難しさ
自分はワンネス的なスピリチュアルな根底世界みたいなものも信じてるので
それら目に見えない世界が水面に顔を表した部分が現実世界=表面のレイヤーみたいに思う。
そういうイメージの仕方と言い換えてもいいけど。 >>30
自分が言っているのは、そういう「何となくスピリチュアル」風な一元論じゃなくて、モノの真の姿のことを言っている。
例えば、動植物をとってみると、
通常の五感で認識出来る固形や流動体的な物理的なカラダ
今の科学では計測出来ないが存在するのが何となく感じられる
気のような半物質的なエネルギー
また、恐らく生命現象を生じさせる根源的な非物質的なエネルギー
から成り立っていると思われるけれど、通常の感覚では最初のものしか知覚出来てないのはおろか、そうした物理的なモノであっても冷静に観察したり知覚出来たりしてない。 >>31
わかるし、同意だけど
>>19が言ってるのは「何となくスピリチュアル」風な一元論の世界のことじゃない?
そういった目に見えない部分を感覚で感じている、直感で感じるのってあるがままに観ると近いのでは?言葉を用いずに観るってことだから。
自分の中で整理できてないのであくまで推測だけど。
現実世界に現れている知覚している部分を一枚ずつ剥がしていったら、
ぼんやりとしたエネルギーのような実体のがあるというイメージ持ってる。 >>32
スピリチュアル的な一元論とかいうものは客観的な観察に基づくもの(=瞑想本来の態度に基づくもの)じゃなくて、真逆の、信仰に近い。
例えば、生命(動植物など)は自己複製して成長していくようなものは31のような重層的な形態を持っていると思うけど、鉱物とかの単なる物質は、そんなものは持たない。
だけど、スピリチュアリストは何でも等しくそれらがあると言ったりする。 一例として、スピリチュアル好きたちは、鉱物に不思議な力(霊力や願望を叶える力)があるとして、それがその証拠だと言ったりするけれど、
実際には、その正体は、人間や動植物の心情(半物質的なエネルギー)を良く吸収し保持する特定の鉱物があるのに過ぎなかったりする。 ないとは言えない、
としか言えないな。
それ以上は反論できないが。 一般的に良しとされてるものを悉く否定したのが仏陀だ
例えば愛とかね
キリスト教なんかだと愛は重要だがそんなに良いものかと思う >>36
どちらかというと、仏陀の教えは、自分のホントの姿はXXじゃない
とどこまでも突き詰めていく教えだ。表面的な現象や幻影を否定して
いって残ったモノが「自分自身」の真の姿で、そこに愛みたいなものがあるかもしれないし、無いかもしれない。
でも、自分自身は信頼する。
あとその時代に「愛」みたいな現代的な語感の概念があったのかどうかだな。性愛や慈悲という概念は初期仏教の時代にも有ったが、
普遍的愛みたいな概念は元々無きゃ説きようがない。
一方で、キリスト教やイスラム教みたいな自分のソトに神=絶対存在がいる宗教はアメ(神からの恩恵)とムチ(神への愛、というか服従)の原則に基づいている。 なので、キリスト教的な愛は、欺瞞的でもあるので
西洋世界では常識にはなっている(かつ絶対善みたいになってる)けど、
無条件に良いとか素晴らしいとかいう感覚には違和感がある。 >>36
自分は仏教始めてから
一般的に良いとされてるもの、昔からあるような訓戒は
大抵正しいんだなって思うようになった。
それに抗って生きてると結果地獄見る羽目になるなと身にしみてるので。 >>39
人生訓みたいなのはいいと思うけど、昔からあっても
宗教とかの大半は争いや戦争、搾取をもたらす元凶でしょ。
仏教にしても時代と共に変質してそうなった。 宇宙の謎とか知るのは涅槃に至るのに無駄だと切り捨てた
実に合理的かもしれん >>41
涅槃のような没我一体的な空想上の
境地が重んじられてたので
分析的な科学が発達しなかった。
どっちもどっちだよ。 >>42
オウムは、チベット仏教やテーラワーダ仏教を自分達に都合良く解釈して独自の
教義を作り上げた。
中心的な教義の根拠となったのが、
タントラ(真言乗)とヴァジラヤーナ(金剛乗)だ。
一説には、チベット仏教のリンポチェ(僧侶)がポア的な教義を肯定したとも言われている。
当時、初期は単なるヨガ教室ぽかったのに、どんどん過激化していった過程で
こうしたリンポチェの後押しがあったとしたら犯罪的だ。 オウムを犯罪としてだけじゃなく、
どうしてあんな教義を産み出して誰がそれに加担したり肯定したりしたか、宗教的側面からもっと分析すべきだわ。 >>43
現代科学に照応する理論を持ってる宗教は仏教くらいじゃね >>46
一時期、量子力学とかとの対比が話題になったけど、仏教オリジナルの思想は
空の思想はじめ大半が妄想かファンタジーでしょ。
見るべきところがあるのは初期仏教の人生哲学的部分と唯識論の一部くらいか。
妄想をもとにいくら探求して体系化してもあまり意味がない。西洋神学も同じ。 好む好まざるにかかわらず、現実として物質も現象世界も存在してるでしょ。一切合切何にもない、空だってのは裸の王様と同じ。
原始仏教のように、すべての物質や世界は絶えず変化していて
同じ状態に留まらないっていう説明は良く理解できるが、
後世の、何から何まで実態がない、空だっていう妄想的解釈を
ホントに信じてる?
それこそ現実を直視しない「信仰」だと思うが。
空は端的な信仰的妄想の一例で、解脱とか六道とかだってそうだよ。 そうやってあらゆる宗教はなんとなく真理みたいに思える
まがいのものをどんどん混在させてカルト化していく。
で、矛盾を指摘されると解釈論に持ち込んだりものの喩えだとか
言ったりする。
残念ながら仏教も例外じゃない。 そもそも空の理解が難しすぎると言うか
みんながそれぞれに言っている空が、同じものを指してるのかが
疑わしいと思う
実体がないと言いつつ、無ではないみたいな
そのあたりの感覚って般若心経読んだだけじゃ理解できないって思う
実際自分はあやふやにしか空を理解してない。
これが空だ!とはいえない。 このスレで出てた絶対有って言葉が、仏教のすごく大きなヒントに思う。
はじめからあって、無いと言うことがそもそも無いっていう。
始まりがあって、その前はなにもないって考えがちだが
それ自体が大きな間違いではないかっていう。 >>51
何でもそうだけど、解釈論に持ち込まず、
経典なら経典を文字通りに読めば良いと思う。
それをどう感じるかで十分だ。
解釈とかいうものは古典を有り難がって何とかして正当化したいためのこじつけがあまりに多い。
正見五蘊皆空→人間の感覚にはなにも実態がない
色即是空→あらゆる客体には実態がない
これが世界を表現するホントの真実なの?
繰り返し言うが、万物は流転するとか、
無常的感覚というなら理解できる。 >>52
宇宙の創造と消滅の過程は大きな謎だが、
例えばブラックホール(これは実際の存在が証明されつつある)に対するホワイトホールのようなものが本当にあるとすると、
宇宙は無限の拡大と収縮を繰り返すだけで
終わりも始めもない、とも推測できる。
ある世代の宇宙は今の世界と違う物理法則を持っているかもしれないが。 >>55
一つの仮説としては、
休眠→爆発と拡大→収縮→休眠がワンサイクルで今の宇宙が形成
これを永遠に繰り返しつつ宇宙が生成、消滅する。
こうしたサイクルは非常に長時で、宇宙自体の境界線とかも
意味があるかどうかわからないし、人間の知覚で捉えられるか
さえわからないので、あまり意味がない。 最初の最初まで言及してる説は無いと思う、
”無”というもの自体が、”時間”と同じように人間の作り出した概念に過ぎなくて
あると勘違いしてるのかもしれない。それが絶対有ってことだと思う。
無かったから始まりが必要になるが、
無かったことがなかったのなら、始まりも終わりも必要なくなる。
それを思うと人生の生と死にもあまり意味を感じないし
ただ平坦な一元的ななにかの上で皆歯車として機能してるような感覚で少し観れる。 フツーに眉間のチャクラに意識を集中させると光のオタマジャクシみたいなのが泳いで消えたとこがエーテル体だからそれまでのことなのかもね >>57
物理世界では時間の流れは現実的にあるでしょ。無いということはない。時間の長さの伸長はあるが。
非物理およびそれに近い世界では時間の概念が物理世界のそれとは異なる可能性はある。
自分達は物理世界に生きているので時間の一方向の流れの拘束の中で生きる。
そのため、物理世界では生物学的、精神的な進化という概念があり得る。 宇宙の長大な時間感覚野の中では人間の一生の時間などとるに足りない。
ちょろっと今の人生でだけどんなに修行したからといって、今の人生で物理的な生命から突然「解脱」して生まれ変わりの連鎖から解放されるなどということは、考えにくい。
事実、仏陀(ゴータマ)は悟ってから昇天や涅槃に入ったりしてない。 禅は否定しないし好きだけど禅定状態になるまでに時間がかかり過ぎるから中国武術のタントウ功のほうが実用的かもしれない >>63
気功や練功は実際に効果もあるし、心身の健康にも役立つけど、
自分の内面を深く探究していくような瞑想とは非なるもの。
深い瞑想の代わりにはならないよ。 じっくり反省と改善の用途で使用するなら禅かな日本人は禅が合ってるかもね気の場そのものが良いから あと、自分も座禅をやっていたが、あの全くテクニックを教えない
作法というか態度は感心しない。
初めてやる人はおろか、時々テレビでやるけど慣れた人でも
何十年も毎日数時間も座り続けるのは馬鹿げている。
通常、毎日コツコツ一時間もやれば10年もやれば一定の境地に
辿り着けるはず。
なんだか、水を絶対飲んじゃいけないっていう昔の体育の授業みたいだ。 人類全体が深い瞑想に浸りっきりになったら労働は誰がするの?って問題が生じる中国で国民の三分の一が僧侶になった時代があって国家が成り立たないから還俗させられたとか >>67
俗と聖を分けて出家を促す僧院の形態はもう時代に合わないね。
僧院の文化は、文化としては受け継いでいくべきかもだが、それと違って日常生活でいかに修行するかは一種の挑戦だ。怠ける理由はいくらでも見つけられるし。 食料は余っているから瞑想して静かに暮らせるなら平和的かもね人口爆発を考えれば子供を作らないという誓約を守るなら政府が保護すべき それは政教分離の原則に反するよ。
日本じゃ無理なのと、人口増対策にはちょっとくらいの人口の産児制限したって意味がない。 仏教みたいな宗教もあればキリスト教みたいなカルト染みた宗教もある
どちらも人間が生み出した宗教だけど同じ宗教なのにここまで違いがあるか
まあ、日本には創価学会とかあるけど 今しかないから、時間は数字とかと同じで単なる概念に過ぎないと思う。
存在はしてないんじゃないか? >>71
ありもしない現実や証明不可能な事を盲信することをカルトと定義するなら、仏教もキリスト教も時代を追うごとにその時代の土着思想や文化的背景に影響されて、どんどんカルト化していく。仏教もチベット仏教や大乗の諸派は十分にカルト宗教だよ。
大乗は日本人は子供の頃から慣れ親しんでいるので違和感を持たないだけだ。
両宗教の最も大きな違いは、人間が絶対到達出来ない神が存在するかどうかだ。キリスト教やイスラム教の神には、人間は絶対に到達出来ない。
一方で仏教では努力すれば人間も仏のような存在になれると説く。 >>72
人間が現実知覚できるのは現在(=今)だけなので、そういった錯覚をしているだけだ。
仏教の言葉を借りるなら、あらゆる事象は因果の法則、すなわち原因と結果の法則性に沿って形成され、時間は過去から未来へ流れる。
過去は記憶(全宇宙の経験アーカイブ。そこには72が言う「概念」を72が考えた、っていう思考的な経験も含まれる)の中にのみ存在するし、未来はそういった過去と現在の行動の結果として形成されていく。
ただ、未知の法則があるかも知れず、同時並行的に流れる時空世界や時間の伸長が今の自分達と違う世界があるかも知れない。 時間(未来、過去)が有るという証明は、死後の世界があるという証明と同じように
現状不可能ではないか?と思う。
ずっと今が続いていてその中で色々動いているっていう
いや、動いている事自体が時間なのか
今という一瞬のようなものじゃなく、分けることのできない液体のような変化の連続
過去や未来を切り出すことできない、分けることできない
記憶で思い出すことが出来るけど、実在してない。
やっぱり概念では? 3次元世界の我々からすると、知覚出来るのは今しか無いという意味で、過去や未来はアーカイブや可能性としか認識出来ないとは言える。
高次元、例えば4次元から見ると、過去、今、未来が、食パンや映画のコマのようにスライス状に俯瞰出来るはずだ。ただ、何度も言うように未来と過去の並行世界は無いとは言い切れないが。
もし、技術的に、このスライスを行き来する事が出来ればタイムスリップは可能なはずだ。
現在の自分達に知覚出来ないからといって、実在しない、と言い切るのは飛躍しすぎだ。 もう一つ、死後の世界も、「現状では」証明できないだけだ。恐らく遠い将来科学的(生物学的)に自然現象として究明されるようになるよ。ただ、人間的解釈や宗教教義でよく想像しているような、生きてる時の性格とか罪とか善行とか自己意識とか絆なんかを持ち越す世界じゃ無いと思う。
そうしたものは集合意識に溶解してしまい、もし生まれ変わりというものがあったとしても全く違った人格に生まれ変わる。 他者の意見は自分には想像もつかないが、その可能性もあるのかもしれないなくらいのスタンスがいい。
自分が理解できない、イメージできないものは、存在しない、ありえないと決めつけるのは
私はブッダと同じレベルですよと言うに等しい。私はすべてわかっています、知っていますってことだから。
だから自分はスピリチュアルも、大乗も否定しない、自分がその奥深さに気づいてないだけかも知れないし、言葉や演出が違うだけで同じことをしてるのかもしれない。 どんな宗教やスピリチュアルっぱい教義にも一片の真実はある。
じゃないと、人を惹きつけない。
だけど、金儲けや教会とか教団とかの組織維持の傾向が強まるほど、どんどん改竄され段々と真理から離れカルト化していく。
これもあらゆる宗教に当てはまる。 仏陀(ゴータマ)があらゆる真理を知ってるわけじゃないでしょ。
先進的で洞察力に非常に優れた人だったがあったが、自分達と同じ一介の人間にすぎない。それも信仰の一種だよ。 >>81
あなたは自分のものさしで測りすぎる。
自分のものさし以上の物事や感覚、世界があること想像しないのか? >>53
実態ではなく実体
実体とは永久に変わらない基体のようなもののこと
法の我とも呼ばれる >>82
当然、未知の良くわからない世界はあるよ。宇宙の仕組みとか成り立ちとか。
でも、論理的に言ってることをなんでハナからそりゃ違うと言えるのかよくわからないけど。
真実を推論して言うことは「悪口(あっく)」でもなんでもないが。 推論に過ぎない言葉で他者の信じているものを否定するのはどうか?
推論に過ぎない言葉を断言口調で言うのはどうか?
「〜という推論です」と最後に付け加えるべきでは?
他者を傷つける、迷わせる言葉はあっくだと思う。 >>85
論理的に反論すればいいんじゃないの?
日本人てホント議論が嫌いなんだね
ちなみに仏陀が一介の人間だということは推論でも何でもない。
人間じゃなかったら何なのかね。
宗教が妄信を助長させるということも推論でも何でもない。
宗教の中に一つも真実がないとは言っていない。
そうじゃないのならじゃないのなら堂々と反論すれば良い。
十善戒を持ち出すなら、不邪見という言葉もあるし、八正道の中には正見、正思惟という言葉もある。 >>86
言語化できないものを観ていくってことが瞑想の目的の一つだと思うので
スピリチュアルな世界や感覚ついて、言葉で論理的に説明できないから偽物みたいに決めつけるのは
瞑想自体を否定してることにならない?
なんというか分けて考えるのは、言葉、言葉で枠にはめて言葉の世界の檻にいる感じがする。
ブッダは人間だけど、達してるところがとてつもなく深淵で
宇宙のシステムの管理者権限的な領域に達してる、いうなればスーパーハッカーw
(これは自分がいろんなものを見聞きしてきた結果の推論であり願望だけど。)
そういう人を同じ人間だからという理由で、自分の想像できる範囲の尺度で測るのは間違っている気がする。 >>88
>宇宙のシステムの管理者権限的な領域に達してる、いうなればスーパーハッカーw
そういった宇宙がどうなってるかの問いについてブッダは無記を貫いていたよ
そういうのを知るための瞑想や仏法ではないということだよ >>89
賢者の握りこぶしはないとは言ってるね。
ブッダが瞑想法に対してなにか言葉を残してくれてなかったから
後世の人間はこんなに迷うのだな。
宇宙のすべてを知るためではないにせよ、
世界に対しての感覚、言語化できないものを
観て(感覚で捉えて)ハッピーになる(言い換えれば不安がなくなる)
というのが進むべき道だと思うので >>88
まー、個人がそれでよければそれで良いのでは。
自分は、人間の思考や感情の作用や成り立ち、東洋哲学が主張する輪廻や宇宙いうもののメカニズムをある程度理解、納得して瞑想なりをするのとでは取り組み方も違う(というか納得しづらい)
例えば自殺や殺人がなぜダメかという問いに対して納得できる答えは見たことがない。
また、例えば実在しない人格神に祈ったって無意味(というか副次的に自分が知らないメカニズムで効果が得られるだけ)だ。ならそのメカニズム自体を知った方がいい。
あと、宇宙の成り立ちについては後の大乗や古代の東洋哲学で色々推論してるじゃない。 >>90
そうだね。
残してはくれなかったが、ブッダの時代、あるいはそれ以前から存在したサティパターナ(四念処)をビルマの僧たちが細々と受け継ぎ、修行したヨーロッパの仏僧を通して紹介され、マインドフルネスとして普及した。
一方、禅もコアな層に普及してはいるがヨガと同じくマインドフルネスの方が遥かに急速に拡大した。
瞑想は「境地」と「手法」が重要要素だが、境地を語るのは難しい。一方で、マインドフルネスは手法をわかりやすく伝えた。東洋は以心伝心か、特に日本の禅は多く語らない。 メタルカラーの折り紙の上に水晶を置いて上から弱い光を当て反射光を手に当てると
昔の記憶が浮かび上がってくる
記憶力の改善に役立つかも 集中瞑想には、よく水晶(と光源)を使う。自分も持っている。
集中瞑想は時間を厳格に守ることが必要だ。
座禅をやみくもに怖がったり批判したりする人は、魔境などという言葉を使うが、集中瞑想をダラダラやると現実と錯覚しやすい幻視が起きやすいためだ。
集中力を訓練すると94が言うように記憶力を強化することができる。
脳内のガラクタが整理できるためだ。 >>92
> ブッダの時代、あるいはそれ以前から存在したサティパターナ(四念処)をビルマの僧たちが細々と受け継ぎ、修行したヨーロッパの仏僧を通して紹介され、マインドフルネスとして普及した。
↑
このマインドフルネス(サティーの意味)(ビルマ、スリランカ)
と、
今はやりのマインドフルネス(ガバットジン、ティナットハン、チベット仏教、禅)
↓
> 一方、禅もコアな層に普及してはいるがヨガと同じくマインドフルネスの方が遥かに急速に拡大した。
> 瞑想は「境地」と「手法」が重要要素だが、境地を語るのは難しい。一方で、マインドフルネスは手法をわかりやすく伝えた。
この二つは別ですよね。
禅を括弧の中に一緒に入れるのは、本来は違うのだけど、
禅はジョブスがやってたこともあって、いわゆる「マインドフルネス・ブーム」の中で一緒に取り上げられていますよね。
また、ガバットジンの本にはヨガの影響が強く出ている(ジンは道元の禅に強く影響を受けたとのこと)。
大乗の禅と上座部がごっちゃになっている。
グーグルの〜でも紹介されているマインドフルネスはネルケさんが「マインドフルネスで銃を撃つ」と批判しているものとか。
精神療法の中でのマインドフルネスもまた解釈が異なっている。
そこにスピリチュアル系(その多くはヨーガなのではなと思うのですが)の人もマインドフルネスとくっつけていたりして。
もう「オラが村のマインドフルネス」だらけ
おっとそういえばティナットハン師も禅宗だった。 >>97
「今流行り」のマインドフルネスは、八正道のサティや四念処 (サティパターナ)の流れを汲む上座部の観察(観)が中心の技法で、言ってみればひたすら「受動的に観察すること」を「積極的に行う」という一見矛盾した観察の瞑想だ。
観察する対象は具体的で、物理身体、心、自己の内部といったふうに指定もされ、技法的にステップアップすらする。
これに対し、禅は何も求めない。呼吸を整えよとは言うが何も追うな、求めるな、成果なんか無いと言う。ジョブズもこの流れの禅の参考書を愛読していたようだ。
前者の普及に関して、西洋の仏僧として92で言ったのはドイツ人のNyanaponikaだが、彼以外にもスリランカやインドのアシュラムで修行していた僧達が関与し西洋に次第に広まった。
だが、御多分に洩れず、いざ普及し始めるとその出自が自分だと主張する僧や流派が様々発生した。精神的に負担や混乱を生じさせるような害もあるものまでも。 従って、上座部のマインドフルネスの流れを汲む観察系瞑想(ヴィパサナ瞑想)は主流なものだけでも日本でも3、4流派がある。
自分はそれらに行ったことが無いのでどんな手法をやっているかよく知らないが、スレでもしきりに出てきた「慈悲の瞑想」はその一派だったんだな。 慈悲の瞑想はおまけみたいなものだと思う。
Simpleな呼吸瞑想やヴィパッサナー瞑想があって、慈悲の瞑想はそれに対して仏教的な方向付けさせるようなものではないだろうか? シンプル→ニュートラルな
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