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劉備の入蜀 益州争奪戦
0001名無しさん@お腹いっぱい。
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2021/05/31(月) 20:44:46.61ID:aJ1I5xjg0
この辺が一番面白かった
0829名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/04(土) 18:48:02.28ID:LasNh2Tf0
>>827
孟達謀叛の少し前に漢水流域は洪水が発生していてただでさえ軍の移動が難しいこの山脈地を陸路で移動したとは考えにくいと思う。
川を船で移動したと考えたら方が良いんじゃないかな?
0831名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/10(金) 19:49:27.82ID:Vjv/KH180
劉表伝の考察が面白い
意図的に曹操、劉備と対比させて劉表の小物ぶりをアピールするために史実なのに記載していない事が多い
曹操、劉備、諸葛亮、司馬懿は編纂経緯からして都合の悪い記述が行われず彼等の政敵になったライバルはみんな割を食っていると思って正史を読まないと
0833名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/15(水) 03:59:21.63ID:XgxIBUAO0
>>831
『三国志』及び斐注、『後漢書』などから劉表政権の年代記を作成してみると、
少なくとも「優柔不断で守勢の人物」や「(ただ単純に)保境安民に努めた人物」
とは言いがたい実像が浮かび上がってくる。200年頃までは孫堅・衰術、孫策との
争いや内乱に苦しみながらも、中原や益州(劉焉・劉璋)の動きを睨みつつ
揚州に揺さぶりをかけ、交趾(交州)をも窺っている。曹操も劉表をおさえこむために
交趾(交州)に張津を派遣し、長沙の張羨とも手を結んでいる。
特に荊州と交趾(交州)の関係は非常に密接であったと考えることができ、
200年以降は劉表も本格的に進出を図っている。

劉表は官渡の戦いの際に哀紹と曹操のどちらにつくかをはっきりとさせず、
結局衷紹につくことになるのだが、これはある意味で当然であった。
劉表が「王朝の正統な後継者」として勢力を拡大することを考えていたかどうか
については断言できないが、いずれにせよ衰紹と曹操が戦い潰しあってくれるほうが
良かったし、当時の曹操は衰紹に比べて弱小で衰紹が勝ってしまう可能性も高かった。
したがって、早急な判断はしないほうが良いと考えていたと思われる。

200年に長沙の張羨らとの戦いに勝利を収めた劉表は荊州を安定させ学校を設立し、
荊州学発展の礎を築いた。中平年間以降の荊州の混乱を考慮すると、荊州の豪族に
依存するところが大きかったとはいえ、劉表政権の統治能力は高かったように思われる。

しかし、官渡の戦いでの曹操の圧勝と河北制圧の結果(これは劉表の「読み」にも
なかったのではないだろうか)、曹操政権の優位が確立されていく中で、
苦しい立場に追い込まれていく。
そのような状況にあっても、(仲の悪い)孫権や劉璋の動きも警戒しつつ交趾(交州)を
狙い、曹操政権の後方撹乱工作も行い、劉備に「北伐」をさせるなど、いろいろと
取り組んではいたのである。
年代記から劉表政権を見ると、荊州内部を安定させることに苦労しながらも、
『三国志』巻二十一王粂伝・巻二十三斐潜伝や『後漢書』列伝巻六十四下劉表伝の
論にあるように少なくとも(単なる荊州一州の「保境安民」ではない)「西伯」としての
「割拠」を目指して(もしかすると「天子」を目指したかもしれないが)
対外的に様々な行動を起こしつつ、荊州学といわれる学問発展の礎を築いた
かなり優秀な人物であると思われる。

彼の死後、政権は崩壊してしまったが、これについては当時の曹操配下ですら勝てる
と思っていなかった官渡の戦いの結果という面もある。
簡単に「(荊州一・州の)保境安民に努めただけで、荊州外への領土拡大をしようと
しなかった」とするのは不当であろう。
史書にある評価よりは、少なくとももう少し上方修正して良いのではないかと考えている。
しかし、『三国志』などの史書を見ると、前向きな評価が非常に少なく、荊州に
籠って坐して敗れたというイメージを抱かせるような内容ばかりである。

これは、(年代記を見ると)劉表が曹操にとって本当に脅威を感じさせるような勢力
であったうえに、発言しているのが劉表政権を倒した曹操政権側の人物や劉表配下から
曹操に仕えた人物、そして劉表に仕えなかった人物(中には曹操や劉備に仕えた者も
いる)であることや、陳寿『三国志』や王沈『魏書』に曹操の「お気に入りのライバル」
・劉備の評価を高める傾向があることから、劉表の評価が意図的に低くされて
しまったためであると考えている。

そのような劉表(政権)評の中で、筆者が意外と正確なところを突いていると感じるのは、
『後漢書』別伝巻六十四下劉表伝の論や『三国志』巻六十四にある諸葛恪の議論なのである。
漢魏交替期の荊州から当時の動きを整理すると、中原や揚州、交趾(交州)への
積極的な働きかけと密接な関係が見て取れる。荊州をはじめとする各地域を中心とした
漢魏交替期の政治的・文化的動向を、出土資料・文献史料を批判的に用いながら
網羅的に整理し明らかにしていくことを今後の課題としたい。
  (劉表政権について漢魏交替期の荊州と交州 満田剛より)
0834名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/15(水) 10:49:43.02ID:32biTmU+0
>>833
それも読んでいた
あと渡邉義浩の孫呉政権の形成を見ていくと荊州黄氏の動向も面白いなと

黄祖、黄蓋、黄忠は多分この一族で孔明の舅黄承彦もその1人かな

劉表、孫堅、劉備とそれぞれ仕える人が違うけどいずれも武官として高い信頼を受けて重鎮になっている
劉表の荊州刺史就任前から中原からの逃亡者が荊州に流入し天下騒乱の形成が色濃くなる時期に荊州の人々の生き方もダイナミックに変わっていった事を象徴しているのかなと想像
その辺の研究をしている人がいたらその論文なども読んでみたい
0835名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/15(水) 13:49:00.97ID:I0QpwDsM0
833てコピペでしょ 満田剛さんの論文は何で誤字が多いの
衰術 哀紹 衷紹 衰紹 衰紹 衰紹
0836名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/15(水) 20:16:01.93ID:rqnAD2xY0
同意
0837名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/15(水) 21:10:53.67ID:XgxIBUAO0
>>833
ゴメン
満田さんが誤字ってるわけではなく、PDF論文からのWindowsコピペ機能の精度の問題
0838名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/16(木) 01:37:57.68ID:Mf0+mi2d0
さらっとしか読んでないけど単なる遠交近攻じゃないのかね。
曹操が劉表の後方の勢力である長沙の張羨と手を結び、
劉表はその後方の勢力と連絡を取る。

200年以降は劉表も本格的に進出を図っている
> とてもそう思えん。体調すぐれず使者交わす程度でしょ、曹操警戒で軍勢動かせないし。
こうして見ると劉表の勢力って人口の多い南陽や長沙を押さえておらず小さかったんだね
0839名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/16(木) 02:01:55.14ID:Mf0+mi2d0
勢力が大きくないから動けず、位置的に戦乱で他地域から人が流れやすく、
人口が増え平和で名声が上がり...長沙を取った後は余は満足じゃ状態。
劉表は低評価だと持ち上げなくてもよさそうに感じる。
0840名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/16(木) 19:37:31.42ID:JJmPQk8+0
>>839
長沙を獲った後も、ずっと交州狙い続けてたでしょ
交州刺史・頼恭、蒼梧太守・呉巨を送り込んで交州制圧を狙い、士燮は曹操に好を通じてこれに対抗した
0841名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/16(木) 20:10:45.12ID:JJmPQk8+0
ほぼ単身で荊州に乗り込んで、蔡瑁・蒯越・蒯良を味方に付けて荊州の支配者となった
単なる弱腰の文人じゃない
自らも八俊と呼ばれる儒学者として学問を奨励振興し、「荊州学派」を生み出し、建安文学などの魏・晋の文化の祖の一人となった
なかなかの人物
0842名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/16(木) 20:13:26.18ID:Mf0+mi2d0
>>840
官渡で曹操が勝ち、孫権が安定した後に交州制圧なんて狙えないだろう、夢物語
俺のとてもそう思えんて感想は変わらない 他の人がどう思うかは別に気にしないよ
0843名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/16(木) 20:19:50.44ID:WKa1ivOJ0
せやな
0844名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/17(金) 02:27:07.12ID:iiSU7SpT0
>>842
孫権が交州に手を出したのは劉表より10年後
呉巨が自立を企んで裏切らなければ、あり得ない話ではなかった
0845名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/17(金) 20:25:17.79ID:VkLFoX8E0
やね
0846名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/18(土) 06:18:23.01ID:wR1JErV10
「軍部ナンバー1の都護の李厳と、ナンバー2の護軍・輔匡の仲が悪く、費観が取りなした」という話が季漢輔臣賛にある。
223年に劉備が巴東郡の永安で没し、それを看取った李厳は中都護・永安都督となり軍事を統括する立場となり、226年に北伐の後方支援のために巴郡の江州へ移る。
輔匡は夷陵の戦い前には巴東太守で、別動隊の督軍として戦いに参加した。
恐らくは輔匡は護軍・xx将軍・巴東太守として、呉に備えたり諸葛亮の南方征伐の後方支援として、永安・江州付近に中都護・李厳、振威将軍・巴郡太守・江州都督の費観、中護軍・征南将軍または鎮東将軍の趙雲、陳到たちとともに展開していたと考えられ、費観の仲裁逸話はこの当時のものだろう。

この223年から227年の劉禅即位~北伐までの期間の上級将軍たちの地位はこんな感じ。
李厳:中都護・仮節・尚書令?・興業将軍?・永安都督?・光禄勲・都郷侯で軍部のナンバー1 →前将軍・江州都督
輔匡:護軍・xx将軍・巴東太守で軍部のナンバー2 →鎮南将軍(さらに右将軍・中郷侯)
趙雲:中護軍・征南将軍・永昌亭侯 →鎮東将軍・永昌亭侯
魏延:鎮北将軍・漢中太守
費観:振威将軍・巴郡太守・江州都督・都亭侯 →▲早逝したから李厳が江州都督?
陳到:趙雲よりは下 →征西将軍・李厳の後任の永安都督・亭侯

中・前・左・右・後・無印のうち、中護軍の趙雲は護軍の最上位。
護軍の輔匡が、趙雲より上位の軍部ナンバー2ということは、名士階級出身であったからなのか。
それとも、趙雲が中護軍になった時期とはややずれているのだろうか。
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