劉備の入蜀 益州争奪戦
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
原文には軍部ナンバー1とかナンバー2のニュアンスはないだろ?
輔匡の年齢や地位が李厳に次いだのであって、趙雲は少なくとも年齢が輔匡より上で李厳と同世代以上だったんだろう 名士中の名士である李厳がトップで、趙雲がその下であることはいいんだよ。
輔匡と趙雲の地位関係がどうだったのかを質問している。 そもそも勘違いしているみたいだけど名士だから上とかはない
基本は官位で官位が同じなら官職で判断する事までしかできないよ 李厳が、尚書令として行政で諸葛亮の次席、軍事では内外軍事統括の軍事首座につけられたのは、劉備の臨終の間際の223年
劉備には、諸葛亮の独裁を牽制する意図があったのかもね
一方、趙雲が中護軍になったのは同じ223年でも劉禅即位時
恐らく、輔匡は夷陵の戦いの時にはすでに護軍で、劉禅即位時に領軍か、あるいは領軍を飛び越えて監軍か軍師に昇進したんじゃないか
だから、中護軍の趙雲よりは上席となり、「地位が李厳に次ぐ」のだろう
趙雲、魏延、陳到、王平といったメンツが、その貢献度や仕えた年齢にも関わらず、班位・軍号において名士である輔匡・呉懿・呉班・劉琰・馮習・楊儀らと同格か格下におかれたのは、寒門出身・兵隊あがりだからなんだろうね >>852
呉懿も中原の武官上がりだよ
劉焉の入蜀に従って劉焉が蜀の支配を固める過程で活躍したと推測される
妹が劉焉の息子の劉瑁に嫁ぎ劉焉の外戚になり劉焉の後劉璋が跡を継いだ後も外戚武官の筆頭で重用された
劉備が入蜀してくると劉璋軍の総大将として劉備軍を迎え撃つが敗れた
劉瑁が若くして亡くなったので妹は未亡人だった
劉備は新たに加わった蜀の人々の人心掌握の為に劉璋時代の重臣だった呉懿を取り込むため未亡人になっていた呉懿の妹を正室に迎えた
これにより呉懿は劉備の外戚となった
呉班は呉懿の一族
楊儀は兵を率いる将軍ではなく左将軍府の兵曹掾から尚書、丞相府参軍長吏と軍の実戦部隊のライン長ではなく参謀スタッフとして働いた
一時的に太守になった次期はあるけどそれは魏領内の太守で実質的な仕事はない左遷人事だった
上記の事からその出身階層は名士層ではなく地方役人レベルの士レベルだと推測される
なので趙雲、王平と同じぐらい
蒋琬や費禕とは仕事上のやり取りが多かった事で魏延よりは彼等と繋がりは深かったというぐらいだと思う
また将軍位としては趙雲、魏延より常に下位
蜀に仕えてからの年数では王平より長かったので王平よりは上だった
劉禅即位の223年の時点では陳到は永安都督・征西将軍で楊儀より遥かに上の将軍
馮習に関しては夷陵で護軍(領軍)だった以外将軍号すら不明なので分からない事がほとんど
同時期で趙雲、陳到より上だったとは思えないけどね
そもそも黄権が劉備に随行していたらその護軍は黄権だっただろうからその場合は馮習は前部督とかだったと思われる >>853
劉禅即位の223年の時点では陳到は永安都督・征西将軍 これはwiki陳到から?
李厳伝と華陽國志読んだが >>846の李厳の説明が合ってる気がする で李厳は呉と交戦中から和睦、南征終了まで重責で永安にいたけど、
北伐の留守役として江州へ移動。
同じ永安でも後任の陳到は呉と同盟後で、老人の閑職扱いのような... >>852
輔匡は鎮南将軍から右将軍になっているが、これが劉邕や高翔の後なら趙雲より上席のはずがない。
前だったとしても、第一次北伐でも中監軍ケ芝より趙雲が主将とされたし趙雲の方が上だろう。 >>855
李厳と陳到ってそんなに年齢変わらんと思うけど >>853
そんなWikipediaレベルの話は、このスレの住人なら知ってると思いますよ。
>>852が言っている兵隊あがりというのは、武官であることと意味が違う。
官僚になる/推挙されるだけの名声・知識・徳・血筋もなく、武力・武功だけでなりあがった人間のこと。
呉懿は、劉璋の姻戚・劉備の外戚。
兗州陳留郡の呉氏がどうだったは知らないけど、呉匡という大将軍の有力家臣を叔父に持っている。
兵隊あがりとはとても言えない。 >>856
演義ではなく、正史にも趙雲が主将、鄧芝が副将という記述ありましたっけ。
軍を率いたのは趙雲だけど、主・副の関係ではなく、鄧芝は趙雲に対し督軍あるいは監軍だったのでは。
鄧艾・鍾会に対する衛瓘みたいに。 >>859
つまり輔匡が領軍や監軍だったとしても単純に上席とは言えないわけだよ >>860
蜀に限っては、都護>軍師>監軍>領軍>護軍>典軍>参軍は明確な序列という研究がある。 まあそもそも輔匡が領軍以上になった記述がないんですけどね 黄権の鎮北は漢中争奪やその前哨戦での功績
魏延・王平の鎮北は漢中守護の功績
申耽の征北は上庸の支配者だったから
黄忠・陳到の征西は入蜀時の功績
魏延・張翼の征西は北伐の功績
姜維の征西・鎮西は北伐の功績
趙雲の鎮東は夷陵の戦いの功績
趙雲の征南は荊州四郡攻略の功績
馬忠の鎮南は南中守護の功績
だとして、輔匡の鎮南は何だろう
ライ降都督(南中都督)になったことはないから、237年就任という時期から考えて、諸葛亮の南方征伐に同行してた? 劉備の蜀取りの頃から従軍して夷陵にも従軍してたみたいだから20年以上仕えた経歴があって上位の将軍達がその間に沢山亡くなってたから昇格が続いたかな
劉備配下に限らず曹操や孫権の配下も主君の勢力拡大や王、皇帝と称号が上がる毎に配下に与えられる将軍号もインフレしていくからその影響もあると思う
劉備が蜀侵攻を始めた頃は最上位の関羽でさえ温冦将軍
漢中王大司馬を僭称した後には最上位の将軍号が左右前後
皇帝即位で驃騎将軍馬超、車騎将軍張飛が最上位
ドンドン上位の将軍号を与えていくようになってるからね
将軍号が上がると与える膣も増えるから待遇もよくなるから配下からしたらありがたいと思うけど蜀のような小国でそんなに沢山支給できかのか?って疑ってしまう 華陽国志の「時南郡輔匡元弼、零陵劉邕南和、官亦至鎮南将軍」の辺りは、そのまま読むと鎮南将軍が二人いることになったりしてよく分からないが
輔匡は237年まで生きていて右将軍になったのも高翔よりあとに思う
季漢輔臣賛費観伝の原文は「都護李嚴性自矜高,護軍輔匡等年位與嚴相次,而嚴不與親褻」
そもそも都護李厳が護軍輔匡らと親しまずとあるので、たとえ輔匡が後に軍師まで昇進していたとしてもそこは関係がない
輔匡は巴東太守でもあったので李厳の指揮下に入ったが親しまなかったので書かれたのだろう
中護軍として諸葛亮軍の中核にいた趙雲は話の埒外であり、輔匡が237年まで生きたことを思えば輔匡は陳到の後任の永安督だったのだろう 864の誤字、読みは一緒じゃないしどう間違えたんだろう 秩の間違いだろ
読みは一緒じゃないって何と間違えたと思ったんだ? >>866
李厳の次席というのは、あくまで永安府の中での話ってこと? 趙雲は夷陵の戦い時点では、前護軍以下の護軍だったのか。
それとも典軍か、参軍だったのか。
夷陵の戦いでも、護軍以上と思われる人物に指揮官の馮習、先鋒の張南、黄権、呉班や、帰り新参の廖化を除く輔匡、趙融、傅彤といった別督たちなどがいたことを考えると、昇進控え目やね。
まあ、それが趙雲が了解の上での、劉備の意図的な人事だと同時代の人たちも理解していたから、諡号を贈られ「関張馬黄趙伝」として立伝されたんだろうけど。 >>871
遠征軍の本営が護軍なんで夷陵の戦いに参加していない人はその護軍には当然入らない
反対に本営の護軍には兵を率いない兵站、武器などの輸送管理調達を担当する下位の武官や節の管理受け渡しなどをする射僕や伝来記録などをする従事などの文官もいる
劉備は左将軍を名乗っていた時には左将軍府という幕府を開いて軍政の中心メンバーをこの中に取り込む形で領域支配をしていた
皇帝即位後の夷陵の戦いではその為の護軍を作って本営とした
皇帝の護軍になるので最高責任者は当然皇帝劉備本人で中護軍がその元で直接指揮を取り先鋒、後詰にそれぞれ主将となる将軍を置き節と呼ばれる符号を一時的に与えて(これを仮節という)大きな権限を持たせて指揮を取らせた
節に関しては大庭脩(おおばおさむ)という学者が『漢代の節について』という論文を書いていてこれがとても分かりやすくて黄巾の乱以降-三国志の時代の話も具体例を挙げて話をまとめてあって読みやすい
ググったらPDFファイルが拾えるから良かったらどーぞ >>870
永安府かもしくは江州もすでに都護李厳の管轄だったのかもしれないが
李厳が蜀全体の軍事首座だったというのに無理があると思う
永安には夷陵から撤退した諸軍がいたので病気の自分の代わりに李厳に諸軍を任せたのだろう
一時的とはいえ劉備の代わりを任された李厳も重いが、蜀軍全体の指揮権を持っているのは丞相諸葛亮に見える >>873
「三年先主疾病、嚴與諸葛亮並受遺詔輔少主。以嚴爲中都護、統內外軍事、留鎭永安。」
一時的な代わりにじゃなくて、諸葛亮ととも劉備からはっきり託孤の遺詔を受けている
当時の主敵は、はるか遠い魏じゃなくて、張郃を遡ってくる可能性がある呉だから、李厳が中都護として内外の軍事を統括する立場として永安を任されている
上の方で誰かが書いていたけど、明らかに諸葛亮を牽制する存在だ
「俺の子に才能がなければ取って代われ」という言葉を李厳の目の前で諸葛亮に言いつつ、逆に諸葛亮の目の前で李厳をライバルに昇格させる劉備もなかなか意地が悪いw 劉備、孔明って益州攻める前から荊州で李厳と面識あったのかな
あったとしたらどの程度の関係だったのだろう
小説とかで書いてる人いたら教えて >>874
でも南征も北伐も総司令官は諸葛亮で、李厳を江州に移屯させたり漢中に来させたり、力関係の差は明らかだと思うんだよね >>878
そりゃ、春秋戦国の荀林父や趙盾の正卿の古例にならえば、正卿たる丞相が軍を率いるときは丞相が三軍の上将
でも、軍事の素人童貞である諸葛亮が、わざわざ指揮官になる必要はなかった
南征は、李厳でも趙雲でも輔匡でもよかったはず
李厳の政治No.2の尚書令、軍事暫定No.1の中都護の権力を、表向きは昇進の形で取り上げ、成都からも離れた田舎に閉じ込めるには、皆を納得させる根拠が必要
南征の指揮官になったのは、自ら軍事の主催者になるために、箔をつける必要があったからなのか
「ど、童貞ちゃうわ!」ってね >>879
荊州牧であった劉表は李厳を取り立て、いくつかの県の令を歴任させた。
ウィキ半端な表現だよね、劉備の荊州時代に面識あったかもしれない。
劉備が荊州の大宴会で劉表の代理やってたとしたら出席してる可能性がある。
劉備や孔明にすれば荊州益州の事情通で顔が効く李厳は重宝するし、
李厳もそれを察して降伏したのかもしれんw >>881
>>874にあるとおり、正史・李厳伝には「以嚴爲中都護、統內外軍事(内外における軍事を統べる)」とある >>883
でも実際に内外における軍事を統べたのは諸葛亮やん? >>884
ピントがずれている
劉備は丞相・録尚書事の諸葛亮ではなく、中都護・尚書令の李厳に軍事を託し、劉禅即位後に諸葛亮が開府治事・益州刺史になって軍権が諸葛亮に移行した経緯について議論しているのに、移行した後の話をされても・・ >>885
諸葛亮は221年から丞相で蜀の2だし、劉備は丞相諸葛亮に託孤し尚書令李厳を副としているので
李厳の統内外軍事は敗戦後の臨時の措置だったと思うよ 会話がかみ合わない魏延長安スレの繰り返し(笑)
史書の記述の隙間やIFについて議論したい夢想家タイプと、史書に書いていることが全てな学究タイプ
前者は、魏延にワンチャンあったのかや、劉備と李厳と諸葛亮の関係性と蜀の権力構造を掘り下げてみたい
後者は、そういう証明できないことは議論するまでもない無価値なものとして、妄想で板を汚すスレストップしたい
かつて、日本史系の板で司馬史観や光栄ゲーマーを叩きまくった頃を思い出すな >>888
劉備生前と劉備死後の諸葛亮独裁政権での蜀政権の支配体制を考察する論文は多い
李厳、李恢、法正、諸葛亮ら入蜀直後の立ち位置や荊州、益州人士のポストや左将軍府、丞相府、益州刺史としての権限の解釈なども論者によって少しずつ違う
蜀が小さな地方政権で仕組みより人の繋がり重視な側面が魏、呉より濃厚だったから個人の思惑が支配体制に及ぼす影響が大きかったという点ではどの論者も共通しているけど史料の少なさで誰も根拠が弱い
研究者レベルでもそこから先に議論は進まないからネット掲示板だと史料重視でも浪漫重視でもその主張が全員を納得させられるようなものにはならんよ >>885
李厳が軍事においては諸葛亮の上席にあったというような話をしていて、軍権が移行した経緯についての議論ではなかったはずだが…… 統内外軍事というのはむしろ李厳の管轄の小ささの表れやないか?
内外軍事はここでしか出てこないし国の全軍なら普通は中外を使う
つまり李厳は姜維の為右監軍輔漢將軍統諸軍なんかよりは上で督中外軍事よりは下
永安〜江州の広範を統べる重臣だが、蜀の全軍を統べるわけではないと >>889
スレタイ、あるいはハンドルネームにに【史実・原理主義】【史実・考察あり】【浪漫】【妄想】と付けて話し合えばよい >>891
中外と言えば、魏の地方軍に対する中外軍が思い浮かぶ
あれは、中央の将軍が外征や外国からの防衛に動員される時に、皇帝から貸与される兵力
内外は、内乱(例: 南方征伐)と外乱(北伐)両方って意味じゃないか? >>893
それだと李厳が南方征伐に行かなかったことと実態が合わへんやん? 宋書百官志によると領軍将軍は内軍を掌り、護軍将軍は外軍を掌るとある
これは魏晋の制度ではあるものの内軍は五校尉なんかで、外軍は中護軍なんかとも関係があるという
皇帝の劉備がいるので永安宮にも内軍がいただろうし
護軍陳到は李厳に統属したと書かれ、護軍輔匡もそれっぽい
中護軍趙雲も222〜227年まで永安に居たとすると実態に合うのではないかな >>894
だからこそ、史書の行間を読みたい派(?)の>>880は
「李厳の政治No.2の尚書令、軍事暫定No.1の中都護の権力を、表向きは昇進の形で取り上げ、成都からも離れた田舎に閉じ込めるには、皆を納得させる根拠が必要
南征の指揮官になったのは、自ら軍事の主催者になるために、箔をつける必要があったからなのか」
と書いたんだろう。
そういえば中都護は、蔣琬も諸葛亮死後の尚書令就任時にはもらえず、楊儀を蹴落として大将軍・録尚書事になってからもらえた地位。
まだ制度が固まっていない時期とは言え、李厳の地位は異様に高い。 >>897
「亮卒、以琬為尚書令、俄而加行都護、假節、領益州刺史、遷大將軍、録尚書事、封安陽亭侯」
蔣琬は行都護で録尚書事に遷るのは費禕が楊儀を蹴落として尚書令になった時なので一時期、撫軍将軍・行都護だったのだろう
蔣琬は楊儀と魏延が争うと諸営を率いた
同じく行都護だった諸葛瞻も主だった将軍が出撃した後に諸軍を督してケ艾に当たった
中監軍姜維と中典軍胡済は諸葛亮が卒すると統諸軍と書かれる
大将軍費禕は興勢の役に際して節を仮されたが軍勢を率いたが、都護などは帯びていない
姜維は衛将軍の時に督中外軍事を加えられ、太平御覧によると張飛も中外都督
都護などには主将が動けない状況においてその軍を率いる権限が生まれ、それだけで全軍の主将たりえる大将軍以上の者には帯びる必要のない役職なのだろう
劉備の死の前後に李厳は劉備の軍を任され、諸葛亮は自分で率いる軍を整備していないので
それをもって李厳は軍事暫定No.1と言えなくもないが、上下関係が逆転した、というようなことはなかっただろう >>897
>>880は劉備が諸葛亮に軍事を任せるはずがないみたいな考えを前提にしてる思うんだけど
諸葛亮は劉備から軍師中郎将に任命されて、益州攻めでも別働隊を任せて、軍師将軍に昇格させているので
史書の行間を読んでるんじゃなくて史書を読み落としてるだけだと思うけど >>899
多分長安奇襲スレでも同じ事繰り返してる人いるよね
俺は行間読んでるんだって言いながら全く根拠のない持論を展開して持ち出す史料は怪しいっていう
史料批判の基本を分かってない人の行間読みはただの間違った解釈とそれに拠る間違った推論で誰も説得できないんだけど >>899
軍事を任せるはずがないというより、その少し前のスレから読んでいくと、諸葛亮が第一人者であることは理解したうえで、
・劉備は諸葛亮独裁を警戒して李厳に権力分散したんじゃね?
・諸葛亮は南方征伐と李厳の前将軍昇格を使って軍事独裁権を取り戻したんじゃね?
って問題提起してる流れの会話だと思う
それを「丞相だから第一人者」という一般的で議論を終わらせようとして、お前はつまらんという流れかと 蜀は劉備が軍を率いて諸葛亮が成都から支援する体制だったので永安の軍は李厳に任せるしかなかったのだろう
諸葛亮が自ら軍を率いる体制を作り上げて南征に行くのは丞相として自然なことで
仮に李厳が行くことになったとしてもそれは江州や漢中への移動と同じく諸葛亮の命令によってだと思う 「巻36 関張馬黄趙伝」、「巻37 龐統法正伝」、「巻38 許糜孫簡伊秦伝」のメンバーで劉備より長生きしたのって趙雲と秦宓だけなんですね。
麋竺・簡雍・孫乾は、劉備の皇帝即位まで生きていれば、九卿か三公になれたのに残念。
__214-215-215-216-217-218-219-220-221-222-223-224以降
龐統▲214
簡雍(▲~~~~~~~~~~▲)214~219の間
孫乾(▲~~~~~~~~~~▲)214~219の間
伊籍(▲~~~~~~~~~~▲)214~219の間
関羽○→○→○→○→○→○→○→▲220
黄忠○→○→○→○→○→○→○→▲220
法正○→○→○→○→○→○→○→▲220
麋竺○→○→○→○→○→○→○→○→▲221
張飛○→○→○→○→○→○→○→○→▲221
許靖○→○→○→○→○→○→○→○→○→▲222
馬超○→○→○→○→○→○→○→○→○→▲222
劉備○→○→○→○→○→○→○→○→○→○→▲223
秦宓○→○→○→○→○→○→○→○→○→○→○→▲226
趙雲○→○→○→○→○→○→○→○→○→○→○→▲229 関羽死去220年1月としてるのに同じページ内で219年12月と説明、
ウィキしょーがねーなw 旧暦で三週間ほどズレるようだ
西暦扱いだと220年正月亡くなることになるのでイメージと合わない
建安24年12月冬の雪景色がイメージと合う 巻38許糜孫簡伊秦伝は賓客列伝だと思うけど、秦宓だけ微妙。
劉琰が痴ほうでああいう結果を迎えなければ、この列伝に入っていただろうな。 >>904
夷陵前に関・張・馬・黄・法が死に、夷陵で趙は使われずでは勝てる戦いも勝てないよなあ 法正、龐統以外の人達は生きていても年齢の割に大軍を率いた経験がなくて政戦略で魏や呉の曹仁、曹洪、夏侯尚、曹真、曹休、陸遜、諸葛瑾、韓当とか相手に後手に回るだけだと思うけど
人材の質量が関羽、張飛いても劣っているのが蜀の実態
特に荊州陥落したら龐統、法正が生きていても史実とさほど違わなかったと思う
劉表存命時に馬超の乱発生、孫策が暗殺されずに50ぐらいまで生きて揚州、徐州の曹操領に侵攻していればというぐらい時間を巻き戻したIFでないとIFがそもそも成立しないかも >>912
そもそも、北伐以前に万単位の軍の指揮官として実戦を経験したのは、関羽・張飛・馬超を除けば、黄権と馮習ぐらいかもしれん 秀才と名高い馬良も、「死亡現場」の馬良村の伝承が正しければ、イマイチな感じ
陸遜との戦いで死んだわけじゃなく、劉備軍に合流するため、味方に引き入れた武陵蛮を引き連れて夷陵に向かう途中に、歩騭と遭遇戦になり落馬事故で死んだとのこと
武陵蛮の位置を考えると、夷陵の戦いで死んだと考えるより自然ではあるけど、パッとしない死に方だな
『大陸西遊記』 益陽市資陽区赫山区
http://www.iobtg.com/Cc.YiYang.htm 夷陵に向かう途中...嘘くせー (ごめんね 記事に対してだから)
死亡場所じゃなく、出身地とか治めてた土地とかじゃないの
夷陵に対して深入りしすぎな気がする、そもそも武陵郡じゃないし。
武陵蛮てもっと西では(知らんけど)
武陵蛮を引き連れて夷陵に向かうとは思えない進行方向。
最初の益陽の由来の説明から間違ってる、川の北側が陽だよ。 甘寧の死亡時期も潘璋伝では関羽を捕らえてから夷陵の戦いの間に挟まるな 正史での記述は簡略で実際どこで勢力を持っていたかは明記されてない
演技では出身地まで設定されててそれが地元の伝承にもなっているけども史料として信頼できるものではない
大抵田舎は創作モノにでもなんでも乗っかって話をますます盛ったり創出までしてしまうからな >>917
この武陵蛮との戦いでの戦死の伝承がもとになって、甘寧が沙摩柯に殺される演義のストーリーができたのか
それとも演義の記述がもとになって、武陵蛮との戦闘で死んだという伝承ができたのか >>919
地名に名前を付けるほど盛り上がってるなら、英雄伝説や恋物語、悲劇などハデな創作・演出がありそうだが、「うちの地名の由来は、馬姓の人が落馬して死んだ場所です」なんていう駄洒落みたいなパッとしない伝説作るかなあ 長沙蛮や桂陽蛮も武陵蛮五溪蛮って言うこともあったらしい
武陵の樊伷や零陵の習珍も異民族と連携しているので
馬良は桂陽や長沙にいそうではあるが、そっから後方かく乱とかじゃなくて蜀本軍へ帰るかな? 合流するにしても呉軍の側面か後方を突いてから合流するとか、劉備本隊が江陵、馬良たちが公安を攻撃して合流するつもりだった可能性はあるね
馬良だけ、他のメンバーと離れ過ぎてるもん 沙摩柯って胡王だし馬良と結び付けられがちだけど直接の絡みはないよな?
一緒にいたとすると馬良は死ぬも合流は果たしたということか >>925
いや絡んでるでしょ
直接顔を合わせたかどうかはともかく、馬良の檄に呼応して兵を挙げた人物なのだから >>926
胡は北方の異民族を指すので益州から連れてきた羌胡の可能性はある 陸遜伝にある沙摩柯の「胡」は、単に漢民族以外に対する一般名称として使っているのか、それとも北狄・匈奴・西胡・東胡系の異民族が、何らかの理由で荊州南部に定着していたのか 他に胡王とされるのは涼州の治無載と白虎文
劉焉も反乱鎮圧に青羌を使ったことがある
南の異民族を指して胡と書いてある箇所があるか? 【朗報】北九州市の河川敷でロケットランチャーや拳銃、手りゅう弾が発見される、北九州の日常がネタじゃなかった 呉志陸遜伝
一爾勢成、通率諸軍同時俱攻、斬張南、馮習、及胡王沙摩柯等首、破其四十餘營。 越雟や荊州北部に夷王っているけど
荊州南部や山越って王いないよな 漢代から長らく胡族との争いが多かった中原(北部)に比べ、南部、特に南西部の民族と外界との争いがなかったため、胡族はより安全かつ平和的にこれらの場所と意思疎通が図れています。
例えば、この時期に胡族は蜀路を通って四川省と蜀市に入りましたが、人件費、物的資源、絡み合いのコストは大きかったが、交通安全率は高く、当時の胡族の商人はラクダにチームを組ませてスムーズに旅をし、蜀族と交易した。
中国版Wikipedia 「胡人」より 長安奇襲スレ無理矢理埋められてる
そして絵文字君は今ここにきてまた頓珍漢な自説主張している
節、都督、刺史、牧に関する研究は割と多くの学者が論文書いててかなり整理されている話なのになぜ根本的に間違った自説をさも当然かのように主張するのか分からないな
こういう無知な人はチラシの裏にでも自説を書き綴って自分1人で読んでたら良いのにと思う >>936
またアンチ宮城谷さんか
あちこちのスレに、わざわざ書き込んでいるアンタも気持ち悪い
議論楽しんでいるところに割り込んできて「史実じゃない!そんな解釈はあり得ない」とマウントを取り、自分の気に入らないものは絶対に認めず、冷や水をぶっかけスレストップ
それぞれの解釈やIF話を許さないのなら、「趣味」カテゴリの中国英雄板じゃなく、「学問・文系」の世界史板に行けばいいでしょ 知ったか指摘されたらあっち行けは笑う
自分以下の無知相手にマウント取って楽しんでる邪魔をしてすまんかったな アンチ宮城谷、会話のキャッチボールができないマウントしたがりの高齢オタのせいでこのスレも終わりか そうだな
まあIF議論そのものをしたいみたいなのはキモいしいらないしな
演義レベルの知識でIFの話してもつまらんし (´・ω・`)「まずは謝ってよ、ええんやでとか言わないけど。資本論は確かに世界の共産主義勢力の根拠になった」
(´・ω・`)「だけど、決定的な違いがあったんだ。それを説明していくからさ」
彡(゚)(゚)「そうなんか。よろしく頼むやで」
(´・ω・`)「じゃあまず、資本論は何を言ってるか?って事をこれまで話した事を踏まえて説明していくね」 レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。