劉備の入蜀 益州争奪戦
糜竺は弟の件で劉備に詫び入れて官位返上申し出たけどお前のせいじゃないと許されてたけど、糜竺だろうが簡擁だろうが孫乾だろうが、たまたま公安や江夏や南郡にいたら降伏以外の選択肢ない無理ゲーだよな
あとはもう、戦って死ぬか降って脱走するか、呉でのんびりするか 糜芳には内通説もあったけど
潘濬、廖化などが逃げ遅れて、官民の人材含めて荊州の統治機構がそっくりそのまま呉に奪われた
いかに呉の侵攻が隠密かつ速やかに実行されたのかがよくわかる
潘濬以外にも、蜀漢を将来支えたであろう官僚・武官たちの1/4程度が、呉の傘下に入った
蜀漢の人材不足は、蜀の人口の少なさや、魏との戦い以上に、同盟国である呉の裏切りが大きいと思う 士仁は、ときどき「公安太守」って書かれているけど、公安は武陵郡の県・地名
偏将軍・稗将軍クラスで武陵郡の北部または東部都尉として公安を守っていたのだろうか
それとも劉備軍古参として、もっと上位の将軍として督公安の地位にいたのだろうか >呉でのんびりするか
たぶん虞翻さんとかって人がそっとしておいてくれないんだろうなー >>652
赤壁後に周瑜が南郡太守となった折、劉備が油江口に立営した際に名を公安に改称させているとは
「江表伝」にあるな >>656
虞翻って、現代にいればネットで回転寿司にいたずらするバカとか、不倫した芸能人を
嬉々として断罪バッシングしていただろうな・・・・って、俺たちは虞翻だったのかw そのくせ自分だって王朗配下から孫策に降ってんだけどな
自分も同類のくせに新規のスシペロは大はしゃぎで叩くカス 呉に降ってもいじめられるから降伏しませんなんてことになったら虞翻はどうすんの あの会社人事担当の常務取締役が中途転職者をぼろくそ罵るので有名らしいよと広まって採用に支障きたしたら
さすがに社長から取締役北九州支店長の辞令渡されるしかないだろ >>654
劉ショウを裏切って益州と人材を手に入れたんだからドッコイドッコイやろ 虞翻「滑ってますね。私は例え話の名人で若年の頃にその上手さで知識人として一目置かれていました。あなたはおいくつですか?そのお年でそんな下手な例え話しかできないような人が孫権殿のお役に立つとは思えません。日記にで書いてなさい」 ドッコイとドッコイって例え話だったのかよスゲーな愚鈍さん >>663
虞翻が左遷されたのは交州
北九州じゃなくて鹿児島とか宮崎だろ 狂犬虞翻には、裏切り者で殺人鬼の甘寧にも噛みついてほしかった 甘寧は虞翻の視界にも入ってなさそう
劉巴が張飛と口もきかなかったように名士層は兵上がりを人間扱いしてないし そんな名士に対して関羽は傲慢で張飛は遜っていた。逆に兵に対して関羽は鷹揚、張飛は苛烈だった。
後世庶民の人気者は張飛になった
なぜか、、、 >>672
羽善待卒伍而驕於士大夫。
飛愛敬君子而不恤小人
関羽は卒伍と士大夫を対比
張飛は君子と小人を対比
つまり士大夫にも君子と小人がいる。 >>672
> 後世庶民の人気者は張飛になった
> なぜか、、、
庶民はカレーライス(カレーチャーハン)が好き
だから、カレーライス(カレーチャーハン)が好きそうなキャラを大好きなんだよ! 魏はこういう話ほとんどないんやけど蜀は士大夫層がそもそも中央におれんようになった訳ありや曹操からお呼びが掛からなかったお察しレベルの奴ばっかりで拗らせが多いっていう話なんやけどな
曹操時代の時は献帝擁立するまではなかなか士大夫が曹操の元に集まらず地方役人クラス出身の士分の層が抜擢されてしかも有能なのが結構多くて袁術との戦いぐらいまでは叩き上げの軍人と役人ばかりでこれが大官となってたから大夫と士分の格差が縮まっていたのもあるかも知れんけど どこにそんな記述がある?
推測や想像はそうだと断って投下してくれよな >>678
内藤湖南 1922
曹魏から始まる魏晋南北朝の貴族制の時代
川勝義雄 1950
後漢末期の清流派を母体とする曹操政権の文人官僚が源流となった魏晋貴族制
川勝義雄 1954
曹操軍団の任侠的・私的結合関係と西欧中世の私的結合関係の類似性
五井直弘 1956
曹操政権に占める故吏出身者の多さから導き出される、秦漢統一帝国と同質の家父長的・私的隷属支配関係と貴族制時代論の否定
好並隆司 1957
故吏関係は功利化・形骸化しており、故吏出身者の多さは曹操の勢力拡大過程のせいだとする五井への批判
中国:郭沫若 1959
曹操の再評価
増渕龍夫 1960
内在的に儒教的価値基準で自己を律する逸民的人士による自己撞着した清流派への批判の重要性
中国:三聯書店 1960
「曹操論集」の刊行
中国:万縄楠 1964
曹操の地縁・血縁「?沛集団」と世族地主集団「汝潁集団」の権力抗争
川勝義雄 1967
逸民的人士は清流派の外延であり、濁流豪族の領主化傾向とそれに対する党錮の禁から黄巾の乱に及ぶレジスタンス活動
吉川忠夫 1967
六朝貴族制社会は逸民的人士でも党人でもなく、権道派こそが源流
堀敏一 1968
後漢末期の宦官政治に抵抗した清流豪族・党人が貴族制の源流
中国:好並 1970
曹操は農民の敵か味方かという階級論争の論点整理
多田狷介 1970
治者である清流人士と被治者である黄巾の間にレジスタンス運動などないとする川勝への疑義
川勝義雄・谷川道雄 1970
領主化傾向と大土地所有否定の自己矛盾的な清流豪族による豪族共同体論
重田徳 1971
共同体論への批判
多田狷介 1971
共同体論争
谷川道雄 1976
豪族共同体は、階級を内包する共同体概念と異なる、階級を超える中国の形成主体と位置づけ
矢野主税 1976
川勝の全国的士大夫集団の形成の否定と、曹操政権に密着しえた者が貴族となり高官世襲と在地性を喪失し、国家の俸給に依存する寄生官僚化
中国:唐長孺 1981
荀彧による汝南・潁川の名士の推挙、袁紹滅亡後の崔?による冀州名士の推挙、劉表滅亡後の韓嵩による荊州名士の推挙という段階的拡大による序列化・系列化
中村圭爾 1982
貴族の存立基盤を「民の望」に求める川勝説に対し、「郷論」が現実の郷里社会の「民の望」から乖離しているという指摘
渡邉義浩 1991
三国政権に「名士」を必要とした理由は、一般民衆の「民の望」ではなく、仲間社会内での名声をもつ「名士」であり、仲間社会への参入を希望する豪族の名士に対する支持
堀敏一 1996
曹操政権に仕えた「名士」が権力に接触して変容し、地方名士から王朝貴族に変貌 >>678
>>679は沢山挙げてくれたけどその中ども川勝や堀の論文は曹操政権から晋代までの貴族、名家、豪族、官人の研究のベースになるもので三国志好きな人なら結構な割合で読んでるよ
今更そのソースを求めるとかちょっとびっくりした
自説があるのかも知れないけど常識になってあるレベルの話のソースを求めるならまず自分がちゃんと論文を読んだ方が良いと思うよ 物理や数学ならともかく、古代のしかも外国の豪族を調べまわる研究者って何がその原動力何だろうな
昨今だと現物調べに現地言ったらスパイ罪で逮捕投獄されそうな国に 三国志の時代は中国封建制の完成期と言われる時代でその支配層となった皇帝とそれを支えた高級官僚(王朝貴族)層の形成過程は変遷過程も面白いっていうのは研究の動機になり得ると思う
特に前漢が皇帝一族の封地がかえって大混乱に繋がったのを経験した上での封建制の再構築
中国のような広大な版図を持つ大帝国を全てシステムに嵌め込んで統治し得るものなのかどうかというのは現在の共産党支配を見てもその難しさが分かるからね >>681
別になに語ってくれてもいいが、お前様のご高説を証明したいなら
論文書いて査読してもらってくれや
こんなゴミ溜まりでマウントしたいと思う時点で、お里が知れますよ? 理屈なんかどうでもいいからとにかく喧嘩売りたいだけのレス乞食相手しなさんな
この手合いはスレ全く読まなくてもテキトーなレス番に向けて「嘘つくな馬鹿」って書いとけば、真面目でナイーブな連中が全力で相手してくれるからそれで寂しさを紛らわしてるんだぞ? 自分が知らなかった事を指摘されてマウント取られたと思うような人はもうどうしようもない 時代だね
他の板でも自分が知らない事は全部嘘とか思い込みってレス付ける奴が多い
そしてマウントだ!なんだかんだと自分の無知に関しては全く認めない
ゴミしかいない
丁寧に論文挙げてもらっているのにお前が論文書けとかもうメチャクチャだよ >>667
虞翻が交州に左遷された時は士燮が健在(一度死んで生き返った)の頃
虞翻は士一族滅亡を間近で見ていると思うと >>654
夷陵の戦いで戦死や降伏(魏含む)でも相当人材失ってるから
呉のせいというよりも蜀漢のやらかしの方が大きいと思われ
少なくとも対呉関係をもっと大事にして
漢中取ったから荊南全て呉にあげるぐらいの事してれば >>693
漢中を取った事がなぜ荊南をあげて良い理由になる? >>362
劉備が左将軍に任命されたのは呂布死亡後袁術存命時ぽいので
袁術目的劉備と同じく生前に左将軍剥奪されているような
まぁ袁術も劉備も左将軍剥奪されても僭称してるからノーダメージ >>697、 >>362
劉備が益州牧になっても左将軍を僭称しつづけたのは、開府の名目を必要としたから。
左将軍府を運営して、有力な人士を抱え込むためのもの。
長史 許靖(領鎮軍将軍)
営司馬 龐羲
従事中郎 伊籍、射援(軍議中郎将)
掾属 劉巴(西曹掾)、楊儀(兵曹掾)、馬良、馬勲
署左将軍府 諸葛亮、董和
これらの左将軍府の人々の地位の高さは、漢中王推戴の上表文の順番からもわかるとおり。
そして、劉備は引き続き府を運営するため、大司馬・漢中王となり、漢中王府ではなく大司馬として開府した。
漢王朝においては、諸王は府を開けないからね。 諸葛亮のようにプライドと意識高い系の人たちは、興亡激しい軍閥に仕えることを良しとしない
その地域の支配者としての実力があっても名目がないので、人を集める側も名実揃える必要があるってことですね
自称・豫荊益三州牧に仕えて、州牧配下の地方の官吏の肩書もらうのと、漢の左将軍の幕僚・賓客としての肩書もらうのとでは、他人への聞こえが大違いですもんね 統一政権下で秩序が定まっていない時は僭称しながらその正当性を争うからな
僭称している事だけを突っ込む事に意味がないのが分からないのはアホ そらまあ僭称してなかったらそいつの天下でほぼ決まってるからなw >>702
正当性が無いから漢からの要請で呉が荊州を平定するんだろ >>702
僭称して正当性争って
結局魏に滅ぼされて正当性無かったでFA その正当性を持っていた魏は禅譲して晋王朝ができたよね
そもそも魏は漢の献帝からの禅譲を受けて成立した王朝なのにたった45年で禅譲した
儚い正当性やな はかないのは同意だけど
晋が禅譲される必要があったってことは、天下に正当性を認められてたってことだからね 一方で漢帝国は魏に禅譲して世の中に必要無くなった
魏建国や晋建国その他漢復興のチャンスはいくつか有ったのだろうが
全く漢復興の動きが無いので漢帝国は魏に禅譲して天命尽きてオワコン扱いだったんだろう
二王三恪でも漢は魏晋他後の王朝よりも疎かな扱いで
二王三恪全うする前に祭祀断絶しているのでゴミ以下の末路 708は正統王朝としての漢帝国ね
劉備漢とか劉淵漢とかの泡沫王朝は除外 つうか無能だから譲ってもらえばいいって前例作っちゃったら
早けりゃ二代目からそうされる可能性ができるって事でそりゃ儚くなるよねって >>697
呉王も、後に魏の皇族の別の人間が呉王になっているから、孫権は故呉王 >>708
漢での出身地の長官になれないという規則はずっと続いていて
禅譲で皇帝にはなれても出身地の県令や太守や刺史にはなれないのが後の世も続いている >>708
元々の農民が皇帝になって
劉氏以外の王を認めないとかやっていたけど
何でこいつらに支配されるのかの理由がないしね >>711
呉王は221年に魏文帝曹丕が孫権を呉王に封じているが
222年6月に夷陵の戦いに呉が勝利して
魏との三方面の戦いが222年9月に始まって
222年10月に孫権が元号を黄武に改号して明確に魏から独立して以降
同年に魏が弋陽王になったばかりの曹彪を呉王に封じているから
故呉王というよりは懐帝から漢中王に封じられてから独立して項羽と戦った劉邦や
更始帝から蕭王に封じられてから独立して敵対勢力と戦った劉秀に近いケースになる
ちなみに曹彪は224年に寿春王、226年に白馬王、232年に楚王に転封されているので
魏の呉国は曹丕存命中にわずか3年弱で廃止されている
曹彪は251年の王淩の乱に連座して賜死
どちらにせよ実は孫権の呉王に関しては
劉備の僭称した漢中王よりも正当性という面では上になるという… >>701
戦乱の世で、州・郡が推挙・推戴し、それを上表。
上表が受け取られれば、それが実際に認められるかどうかは関係ない。
追認されなくとも「それは君側の奸が妨げているのだ」として、上表できるだけの実力があることをもって「天」に受理されたものとする建前がある。
単なる僭称と、上表されたものは違うよ。 呉王にしてすぐに別の王にしたのか
まあ敵国の国名の王なんて嫌だよね
中国皇帝が息子に日本王なんてするようなもんだし >>715
そんなに上表なんて大層なものじゃないだろ
例えば劉備と同類の曹操に逆賊認定された袁術だって
上表して孫策を行殄寇将軍にしてるが
誰も孫策を正式な行殄寇将軍扱いする奴見た事ない
曹操が上表して正式に拝命した討逆将軍は違うがな
そもそも陳寿も史書に上表しただけ書いて正式に任命されたなんて書いてないから
誰がみても上表文送りつけて形だけ朝廷にお伺い立てただけの実質僭称
こんなもんで袁術とは違うとか噴飯ものの戯言 >>717
上表に凄い効果があるという話じゃないやろ
当時の中国が、名実と形式の国であり、形式を踏んで名(建前)を実にしろって話だ >>718
形式踏んでも実が伴わないから偽物なんだろ
封禅の儀式行った孫皓みたいに 龐統が死ななければうまく行ってた
孔明が蜀にこなくて良かったからな
関羽はプライドの高さのせいで荊州が取られた孔明がいれば関羽をもう少し抑えられたはず
全て関羽が悪い頑固な老害
関羽のせいで劉備が呉討伐に行って死んだ関羽が全て悪い
横山三国志での感想なのて龐統がスパイだっとか史実と違うとかつまらないこというのはやめてな 劉備即位の時に名前が出てくる「陽泉侯劉豹」「青衣侯向挙」って、県侯ってことのようだから爵位だけならこの時点の張飛や馬超よりも高いんだよな・・・。 蜀の丞相・三公・尚書令クラスの人たち
「この人が長生きしていたら」「この人が蜀に残っていてくれたら」等々、考えてしまう
もしそうなっていた場合、何かが変わったのだろうか
龐統 179-214 ←この人
法正 176-220
劉巴 ***-222
董和 ***-***
馬良 ***-222 ←この人
馬謖 ***-228 ←この人
張裔 ***-230
李厳 ***-234 ←この人
陳震 ***-235
潘濬 ***-239 ←この人
黄権 ***-240
董允 ***-246
蔣琬 ***-246
向朗 ***-247
呂乂 ***-251
費禕 ***-253 ←この人
陳祗 ***-258
姜維 202-264 関羽が呉に殺された時点で終わってる
蜀と呉が同盟むすんで魏たおさないと話にならないのに蜀と呉が潰し合いしたからな
荊州を半分づつ分け合って仲良くしないといけなかった
荊州は関羽じゃなくて趙雲に任すべきだった >>725
荊州を療養して以下
領有している限り呉は常に潜在的な敵になる
はっきり言えば、蜀が長くもったのは荊州を失ったからなんだよね
日本が豊かな満洲を失って逆に発展したように
満洲も荊州も豊かで利益になる土地なんだけど
そのため敵対してくる奴等が出現してしまう >>727
やらせない方法が暗殺しかないんだよなあ、、、、、 東征がなければ、内政には馬良、軍事には黄権が残ったんだよなあ
張飛の死だって無かったかもしれない
第一次北伐に張飛と黄権がいれば、馬謖の死もなかったかもしれない
もったいない だが、戦争に行かなかった親呉派は残ったのと
蜀は実際には文官の人材は末期でもそろっていたと思う 馮習と張南だって、長生きすれば陳式ぐらいには活躍できたかもしれない >>729
馬良は外交と鎮撫軍指揮で活躍してたみたいで行政官は最初期だけみたいだけどな
どちらかというと李厳の補佐役や馬忠上司かな
黄権より法正が40歳ぐらいで亡くなった事やその盟友孟達ら隴西攻略に確実に絡んだだろう人材を失った事の方が黄権が魏に降った事よりも遥かに影響は大きかったと思う
ホウトウも40前で亡くなっていてこれも大きな痛手
三勢力鼎立以降の呉との外交、長安方面への軍事作戦ともその中軸になるべき人材が220年までにいなくなった事は諸葛亮の負担を大きくした
これらの人材は関羽、張飛、馬超、趙雲より一回り以上年下で正にこれからが本領発揮というタイミングだったのに >>732
そうはいっても、当時は40過ぎると死んじゃう人が多いからなあ
中年になると途端に若い頃より異常に衰えるし
むしろ、人生50年なんだから、50歳まで生きる人の方が特別
思うんだけど、30歳でも若造扱いされて、50歳で老人扱いされるのはなあ >>732
>>732
黄権損失は大きいでしょ
黄権は諸葛亮より長生きしたし、軍事能力は法正・諸葛亮より上だった
蜀にいればどれだけ貢献できたことか >>734
黄権は実績としては漢中攻略時に別働隊で動いたのと夷陵の時に漢水上流の守備について魏から南下する可能性のある部隊の牽制しかしてなくてその才能の程度はかなり不明
法正、諸葛亮以上の能力があった根拠あるかな? ただ、荊州があっても魏には勝てないし、マイナスになりそう 荊州は失うが関羽一族と糜芳ら旧臣も蜀残留生存
呉へ大人しく荊州を渡して夷陵には攻め込まず劉備も心身の健康があと5年延長
だとしても史実と大きな展開の差はないか 後者の呉と完全手打ちした場合は、史実では壊滅した関羽軍数万と
夷陵に攻め込んだ劉備軍数万が曹魏の方向に動くだろうから
結構展開に差はあったんじゃないすかね >>741
荊州を平和裏に呉へ引き渡し場合、「関羽軍数万」は無いのでは?
関羽の兵は、曹操の青州兵、劉焉の東州兵とは違う
関羽軍を構成していたのは劉表軍の残党、劉gの兵、劉備の所有する荊州南部から新たに徴兵された兵だ
地元に根付いていて帰る場所があるからこそ、呉に荊州を奪取されると兵たちは関羽を見放して軍が崩壊した
軍幹部は関羽について益州へ行ったかもしれないが、兵の大半は貧しいド田舎の益州より、家族・親族がいて豊かな荊州に残ったはずだ
付いていく兵は、せいぜい数千がいいとこじゃないかな
郡や県の地方役人たちも、劉備が新規に起用した者はともかく、劉表・劉gの代からの役人たちは新しい支配者を受け入れただろう >>735
えっ、もしかして黄権が軍事に関わったのが東征だけだと思ってる?
黄権の事跡や季漢輔臣賛の評価、よく読んでみてね 日本に満州があったら発展しなかったように
劉備勢力に荊州があったら早く滅んだ 則命一上將將荊州之軍以向宛、洛
孔明は魏を滅ぼす戦略として荊州が必要だと言ったんでしょ
劉備勢力の延命が目的じゃないのだから早く滅ぶ確率が高くてもいいんじゃない? 諸葛亮は荊州の領有に関して呉とどの辺りで妥協点を設定してたんだろうな?
荊州全土を劉備が保有っていう前提ではまずなかっただろうけど公安、襄陽だけは譲れない
南部は呉に丸々譲っても良いとか
漢中方面と荊州方面からの魏への同時進行に呉から寿春方面へのアシスト進軍ぐらいが基本的な戦略構想だったのは間違いなさそうだけども >>746
南征・北伐以前の諸葛亮は荊州人士の筆頭であり、益州の人々まで掌握していたわけじゃない
呉にある程度譲らないとダメだという現実的な計算はできても、自ら「荊州は呉に譲ろう」とは言えなかったんじゃないか
荊州の一部を手元に残すとして、少なくとも宜都郡は必須だろう
漢中から雍州へ侵攻するためには、呉の協力がなくとも荊州方面へ魏の戦力を分散させる方法が必要
そうなると、益州から荊州中央へ出るには宜都郡しかない
可能であれば、襄陽を南から突ける要所として公安
つまり武陵郡もほしい 荊州が必要なのはよく分かるんだけど
荊州があることで呉と上手くやれないからなあ
日本だって、北海道を奪われたらロシアと仲良くやれないでしょ
九州を奪われても韓国と仲良くやれないでしょ >>747
公安つまり武陵郡もほしい がよく分からないんだけど
地名と郡名、両方間違ってない? 公安県は、前漢では武陵郡せん陵県、209年に劉備が公安県に改め、219年のせん陵県になっている
資料によっては南郡にあると書かれているものもあるけど 同じ人? 747は公安県じゃなく公安と言ってる
単に公安と言えば油水という川の出口(長江との合流地点)のことだと思うよ
漢口や夏口と同じ 油江口を改称して公安で長江の南側
襄陽を南から突けると言ってるから北側の江陵と南郡の間違いではと思っただけ
知識と違うから訊いた そんなに自信はないw 荊州をおとなしく返還して蜀は地形的に攻められにくいだろうし力を蓄えて呉と一緒に魏を攻めるのが良かったろうね
そこまでの予測を誰も出来なかったのがな諸葛亮も他の将も誰も荊州を返還しろとは聞いたことないしな
蜀と呉が潰し合いした時点で終わってた もし荊州戦で勝ててたら勢力は拡大できるけど
呉も恨みを持つから荊州も呉に備えないといけないし蜀も魏に備えないといけない
荊州戦で勝ってたら蜀と呉の同盟はもう結べないだろ
結局勢力の大きい魏が勝つ