河北の雄・袁紹を語るスレ
今の正史オタ界隈だと改革路線の急進派で手段を選ばないヤベー奴扱いになってるような… なんで儒教の権化で頭の固いひと昔前の人物象になったんだろう 儒教色の強かった後漢朝における名門という出自が人物像に投影されたのでは
素直に伝読む限りだと実家のサポートを恃みにしてないように見える 袁紹の後継問題について
後漢書では審配が遺命を偽造した、三国志では審配は袁紹の素意に沿ったってあるよね
もしかして袁紹が心変わりして死に際に後継者を袁尚から袁譚に変えたのかな? そうすれば後漢書と三国志の記述も辻褄あうと思うんだけど
っていうかこれもう既出? 河北(冀州)を拠点にした人で華北以上制圧できた人ってほとんどおらんよな
ぱっと思い付くのが劉秀、石勒 三国志読んでると
袁家って、いつの間にか最大勢力になってる
で、官渡の戦いで曹操に敗れたら
家臣団が分裂して滅亡
袁紹の評価も
漢王朝を担がなかった先見性ない奴
一時は漢王朝を無視できるほどの権勢を誇った
って評者によってバラバラだな 当時誰も見向きしなかった献帝を拾い上げた曹操が異端なのでは 長安政権は当時重要な勢力だったと思うけど、言うほど献帝見捨てられていたか? 董卓を都に呼んだのと烏巣を全力で救援しなかったのは失策 袁紹もある意味献帝と同じよな
後半は臣下に担がれて振り回されてるだけで
優柔不断キャラと言われるのも当たらずとも遠からず、
部下が派閥で対立しだすと碌な決定ができなくなっていった 袁紹は野心家でエリート意識も強いから、
献帝みたいな立場になるのは我慢できなかっただろうな
途中から沮授の意見ことごとく斥けたのも、
君主として必死の抵抗をしていたのかも知れないな >>13
公孫瓚を破った麴義が調子に乗って軍規を乱したって理由だけで処刑したり、腹心の田豊が曹操との決戦を反対したから投獄して殺したり、袁紹は部下に対して逆らう者を処断できるくらい独裁的な権限を持っていたことが伺える
袁紹が、部下の意見に左右されて決断すべき時に決断できなかったという一面があったことも否めない
そういう態度が優柔不断だというのならば、官渡の戦いの際に長陣に業を煮やして許都まで退くことを考えて荀ケに止められたり、官渡の戦いの後袁紹との決戦を後回しにして劉表を攻めようとして荀ケに止められた曹操もまた優柔不断といえるのでないだろうか?
袁紹は優柔不断という評価はあくまでも結果論だと思う >>15
どちらかと言えば優柔不断なのは曹操の方だよな
特に赤壁以降は優柔不断の塊 跡目をなかなか決めず政争の原因を作ったのは確かだが
曹操も似たようなもんか >>15-16
わずか4行の文なんだからちゃんと読もうぜ
13が言いたいのは、「優柔不断だった」って話ではないから 劉協「ねえねえ本初、これで朕と同じだね、てへへ」
袁紹「いやだ、いやだ、余はいやじゃああああああああああああああああ」 >>17
しょっぱなから袁尚に決めてたらだろ
死に際に袁譚に変えたからもめまくった訳で 内心はともかく、曖昧な態度を取ったのは事実
その結果、沮授に諌められた
ただ、早い段階で袁譚を養子に出したって説もあるな >>18
敢えてスルーしたけど、>>13は袁紹はある意味献帝と同じだったって言ってるけど更に的外れな指摘だと思うわ
先に述べた通り、袁紹が絶対的な強権を持って部下を臣従させていたことは様々な傍証をもって明らかだし、事実上の傀儡だった献帝とは立場が違う
派閥云々についても、恐らくは袁紹が冀州牧に就任した時から既に対立構造が存在していたが、それを物ともせずに袁紹が強いリーダーシップをとって河北を統一したのもまた事実 袁紹さんもアクが強いけど劉虞さんもなかなかに面倒くさそうなタイプに見える
韓馥ェ… >>21
説も何も後漢書にはちゃんとそういう記述(袁譚が養子にだされて伯父の跡継ぎになったっていう)がされてる
三国志註釈にもそれをうかがわせる記載がある そういや、袁紹は袁術の従兄なのか、異母兄なのか、はっきりしないんだよな
超メジャーな人物に関してさえ、史書の記述がまちまちなんだな
取り合えず、陳寿の本文は信じないと話にならないが 養子に出した時点で、袁尚が跡継ぐことは、周知されたようなもんだと思うが
そのあともゴタゴタが続いたのは、何故なんだろう >>26
三国志「審配らは袁紹の元々の意思に従った」
後漢書「審配らは袁紹の遺命を偽造した」
→袁紹は袁尚に継がせようとした(元々の意思)けど、死に際で袁譚を跡継ぎに指名(遺命)した
→→審配らは『袁紹の元々の意思に従って』、袁紹の跡継ぎは袁尚であると『遺命を偽造』した
これなら整合性とれるのでは >>25
後漢書も三国志も注で袁逢の庶子(孽子)というのが記述されてるけど本文では省かれてるんだよな
袁成の家が袁湯の嫡流という認識でええんかな 官渡戦の前くらいから、
袁紹の心に迷いが生じてた可能性はあるな
で、袁譚派、袁尚派ができたと 袁譚が家を継ぐことになった伯父の袁基ってどうなんだろうね
詳しい行跡は知らないけれど袁紹や袁術が虎賁中郎将や司隷校尉に任じられたのと同時期に太僕まで昇進してるし、袁紹と同世代の袁家の人間の中では出世頭にあたるわけだし
そこを踏まえると袁譚が袁基の養子になったっていうのは袁家の嫡流を継ぐためだったと解釈もできる 袁譚も一時は納得してたんだろうな
董卓が都に来ず、袁家の天下になってたら、全て丸く収まってたかも知れない 袁尚がいくら可愛いかったとは言え貫目や官位が全然足りない若造を後継指名するのってどうなんだろう 袁譚は資質的にどうだったんだろう
青州で失政したらしいけど、元々統治困難な地域だし
そういや劉備から茂才に推挙されたんだっけ >>25-28
三国志だと 父親不明
後漢書だと 袁成の子(=袁術のいとこ)
王沈の魏書だと 袁逢の子(=袁術の兄弟)
どっかで見た考察によると、袁紹が幼い頃、袁成は訳あって誅殺されてしまい、
親が処刑されると子も処刑ってのはよくパターンなので、
袁逢が自分の子供だと言って匿ったのではないかとか 袁成は左中郎将(または五官中郎将)まで昇進していたのだろうか?
比二千石の官に就いていたのであれば早くに卒したという表現が少し引っかかる 袁成が梁冀と親交があったことを考えると、もしかして梁冀誅殺(159年)に巻き込まれて袁成も害された可能性あるんかな? 袁成が梁冀に連座して処刑されたとしたら弟たちにも累が及んでいたんじゃないかな?良くて免職、官職追放まであるはず
梁冀とは無関係に病死、もしくはいわくつきの"病死"って線もありうるが 袁家の歴史見てみると、普通の名門とはちょっと違うな
袁紹の破天荒さもうなづける 袁家の宗族の中には宦官になって中常侍まで出世したやつまでいるくらいだからな
袁赦っていうやつなんだが
袁逢や袁隗はその袁赦の取り立てで出世したそうな
あと気になったのが、袁赦が中常侍になった時の同僚に淳于登ってやつがいるんだがこいつは淳于瓊の親族だったりするのかな? 袁家は実態知るとだいぶイメージ変わってくるな
清でも濁でもないしたたかな一族って感じ
袁紹や袁術はそういう家風の中で育ったんだな 清でも濁でもないしたたかな一族って
政界を勝ち抜き生き残った名族のほとんどに当て嵌まりそう その頂点が袁家って感じか
後漢の中期〜後期の朝廷は、特に複雑、熾烈だったらしいからな 宦官誅滅だけ見ると普通に「清」のイメージで、
小説とかだと宦官を根本的に嫌ってたように描かれる
袁家自体が宦官派だった時期があるってのは意外だな 後漢の政界情勢を大まかにまとめると、外戚、宦官、名士の三すくみ状態
外戚が権勢を高めると宦官、名士が組んで外戚を追い落とし、宦官が台頭すると名士が外戚を抱き込んで誅滅を図り、名士が不満を高めると宦官、外戚が団結して排斥する
そんな複雑怪奇な政争を百年にも渡って繰り返してきた結果、後漢王朝も末世を迎えたわけだ
そんな中で一族を繁栄させるためにはどの勢力にもいい顔ができるように生存戦略していかなければならなかったというわけ なるほど
宦官勢力を一気に殲滅しようとした袁紹は、
後漢再興のために、害悪の根っこを断とうとしたのかな 後漢を滅ぼしたのは名士面の宦官一族
魏を滅ぼしたのは名士
名士の西晋は内ゲバで中華を滅ぼした
害悪の根っこは名士(確信) 袁紹の部下で士族じゃなくて庶人から成り上がったやつとかいたっけ? 張郃は黄巾討伐の募兵に応じたんだっけ
出自は不明だけど 袁紹の配下は、細かい経歴分からないからな
袁紹が勝利者になってたら、
顔良伝、文醜伝、高覧伝、淳于瓊伝とか作られたんだろうな >>26
袁譚が養子に出された経緯を見て何かに似てると思ったんだがようやく思い出した
司馬昭が司馬攸を司馬師の養子にした経緯に似てるんだな
袁紹は庶長子の袁譚に従兄の袁基の家を継がせて、三男の袁尚を自分の後継者にした
司馬昭は次子の司馬攸に長兄の司馬師の家を継がせて、長男の司馬炎を自分の後継者にした
一見するとどちらが嫡流なのかよくわからない血縁関係があるから後継者争いが起こる
その結果、両家共に悲劇となったのは何か因縁深いものを感じる 昭さんの場合は嫡長子の司馬師に男子が生まれずに戦没した事で司馬家の惣領になったので、あくまでも「今の天下は本来は子元大兄の天下。オレは子元大兄に司馬家をお返ししたいのだ。」って言っておかないと士大夫層の支持を得られなかったって事情があるから >>53
袁紹にも、自分が河北で挙兵したせいで京師に残っていた袁家宗族を董卓に皆殺しにされたという事情があるからな
息子を根絶やしにされた宗家を継がせなければ不義理の誹りを受けるという危惧があったのかもしれない 袁紹といえば、「その死後、百姓は親を失ったかのように悲しんだ」
ってあるけど(後漢書)
実際、そこまでの善政をしていたんだろうか >>51
南北朝時代の貴族、顔之推の著作「顔氏家訓」の中で顔氏ゆかりの武将として顔良の名が挙げられているみたいですが、はっきりと同族と書かれているわけではないようですね
もしかしたら日本でいうなら清和源氏と嵯峨源氏みたいな系統違いの宗族なのかもしれないし
けれど顔真卿や顔師古などの文化人として知られる琅邪顔氏の家系に顔良のような変わり種が混じっていたとしたら面白いことですね 少帝の後ろ盾が、何進と袁家だったのかな?それを嫌って董卓が少帝を排して献帝をたてたとか
だから、反献帝の袁紹は劉虞を独自で擁立しようとしたのかも 袁紹は「献帝は霊帝の実子ではない」と言いふらしてたって説まであるからな。 >>57
顔回「私は魯の人なので近いけど別系統ですね」 顔良の件、気になったんで元和姓纂の方を見てみたんだけどそちらによると琅邪顔氏は魏の徐州刺史顔盛の代に魯から臨沂県に移り住んだのを始めとしているそうな
こちらにも顔良の名が出ているけれどやはり出身地がわからない
しかし、琅邪顔氏は魏の時代に移住してる以上顔良との関連は薄いように思える
だんだんスレの趣旨と離れてしまって申し訳ない 結構思い切った行動とってるから優柔不断というより肝心な場面で判断を誤ってる印象
勢力下の民衆から慕われてるから彼こそ治世の能臣なのかもしれない
コーエー査定的には政治魅力90あっても良くて統率武力知力そこそこといった感じ 家臣団が膨れ上がってまとめきれなかったんやろ。
この時点では軍閥みたいなもんで政治的な正当性とかは皆無だし。
あくまでも漢王朝の司空兼車騎将軍って立場で
家臣団を纏められる曹操との違いは
そのへん。 官渡の時点で曹操が家臣団をまとめられていたかといえばかなーり怪しいと思うがな
戦後、袁紹軍から接収した書簡の中から曹操の部下たちが内通することを約束した書簡を見つけたものの曹操はそれを不問にして焼き捨てたって一件から考えると
官渡の戦いでは、袁紹は致命的な人選ミス、判断ミスもいくつも繰り返して敗戦に至ったが、実は曹操もまた袁紹と同じくらい人選ミス、判断ミスをしていたと言えるのではないだろうか たびたび袁紹を劉秀に比する意見を見るけど、袁紹と劉秀って河北を拠点としたこと以外に何か共通点あるのかな
俺にはよくわからない 一つは家柄は良いけど本流とは言えない微妙なポジション
共に、6割実力・4割家柄で名声を得たって感じ
もう一つは他所から冀州に来たってこと
そして冀州の士人豪族とそれ以前の家臣とのバランス取りに悩んだのも似てる
もちろん相違点も多いが…
家臣の雰囲気とか、もし袁紹が勝ってたら・劉秀が負けてたらとかお互いが参考になると思う >>70
実は>>66でふれられてる曹操が部下と袁紹がやり取りした私文書を焼き捨てたってエピソード、光武帝が河北の群雄王郎を滅ぼした時に同じことをした故事を踏まえての処置だったりするのな >>65
家臣団というか冀州の豪族層では
だから郭図淳于瓊と一緒になって沮授田豊を追い落としたわけで 淳于瓊ってもとは袁紹曹操らと同格だったのになんで袁紹の配下になってんだろう そもそも曹操も兗州失って袁紹のとこに逃げ込んでたら淳于瓊と似たような扱いになってたんじゃ。 張邈の乱の時か?
あの時実際援軍送ってやるから家族を人質に出せって袁紹は曹操に言ってるけど程cに止められたんだったな 西園八校尉のなかでも淳于瓊ペーペーじゃなかった?
そうじゃないにしても袁紹は高位だったとおもうけど えっと淳于瓊って潁川人なんだったっけ
元ソースどこだか探したが見つからなくてモヤる >>79
後漢書の袁紹伝に
潁川の郭圖、淳于瓊曰く……
とある。これじゃない? 淳于瓊は郭図に近い立場だったのだろうな
沮授が袁紹に献帝を推戴すべしと進言した時に郭図と連名で反対意見を述べているし、沮授が郭図の讒言で監軍の権限を削られた時に郭図と共に都督に任じられている
同郷のよしみで派閥を作っていたと見て良いのだろうか
とすると、もし官渡で戦没せずに生き残っていたら郭図、辛評らと共に袁譚についていたのだろうな 淳于瓊も豫州潁川郡の出身だったんだな。
余談だが、袁紹に献帝を推戴する可能性は殆どなかったと思う。
理由だが、袁紹は一度劉虞を推戴しており、当然献帝サイドも
それは知っており、袁紹お断り、という雰囲気はあっただろう。
少なくとも献帝に関する限り、沮授は過大評価で、郭図は過小評価。
なお、袁紹の劉虞推戴に、袁紹の参軍として反対したのが曹操。
袁紹の某将が内輪もめだらけなのも、これを見る限りかなり初期から。 戦国の七雄とか漢初の諸侯国のような支配体制が確立されていたんならともかく
袁紹なんて有力な士族官僚の一人でしかないからな
県や郡の同僚や上司がいきなり王様気取りで命令とかしてきたら嫌すぎるだろ、普通 でも郭図は河東の献帝に拝謁してきたらあっさり献帝推戴派になってなかった? 漢代の袁家は、後世のヨーロッパのハプスブルク家みたいな感じか? 漢がコムネノス朝だとすると袁家はアンゲロスブラザーズ >>87
共通点はあまりないだろう
それより何より複数の大国で王位を世襲するに至ったハプスブルクの存在感と比べると袁家はしょぼすぎる… >>88
>>90
そうなのか とりあえず広く浅くしか知らないからw >>90
絶対評価はそうかもだけど
相対的にみればなくはないんじゃないかな >>92
相対的にも無い無い
皇帝や諸侯王と外戚にすらなってないし 汝南袁氏は三公を大量に排出した名門ではあるけど結局の所はそこ止まり
三公自体は曹操の曹氏や周瑜の周氏も排出してる訳で
袁氏の方が大家ではあっても大きな枠組みとしては同列だからね 袁家は所謂「門生故吏」のコネがメッチャ広くて強いから誤解されがちだけど外戚とかないんだよね。 袁氏は大した権門だが、それでも千年がんばった歴史的名門との比較は適切とは言えない
現在我らが祖国の総理大臣を務めている方とか小泉元首相の家と勝負すべき 袁家って孟氏易を家学とする学者の家系って一面を持っているんだよね
門人に経学を教え、その門人たちが政界で出世していくことで袁家を中心とする派閥を形成していったのだろうけれど
袁紹や袁術なんかはあんまりインテリっぽくないところが面白い 袁紹って一応インテリなんじゃないの?
母親が婢女だからよっぽど出来が良くないと取り立ててもらえないんじゃないの? インテリっぽい記述はまったくないのでわ?
もちろんエリート層なので十分な教育は受けているはずだが 曹操にも認められた勉強家袁遺のように学者肌の人物はいるがな >>100
その袁遺は袁紹の従兄で年上だし、母親の出自もハッキリしてるのに、袁紹に従ったんだよな
どういう経緯で袁紹の臣に下ったんだろう ・父親の地位
・当時の官位
・名声(宦官誅伐etc)
どれをとっても袁紹の方が上なんだから当然じゃね 冀州領内に関してなら多分、州ナンバー2で州刺史の補佐役である別駕従事の沮授(のちに奮威将軍に転任)、その後任の田豊、州ナンバー3で人事を司る治中従事の審配あたりが中心になって組織されていたものだと思われる
他のとこは知らん ナムコ三国志性格判断袁紹だった俺、でもあれ
疑り深いであるをNOだと曹操なのおかしいよな、
曹操も疑り深いだろ 袁紹は外寛内忌、曹操は外易簡にして内機明っていう郭嘉の評を踏まえているんじゃないの? 郭嘉と荀ケがそれぞれ袁紹と曹操を比較して論じているけど、袁紹は曹操より猜疑心が強い、袁紹は曹操より決断力に欠ける、袁紹は曹操より軍法が緩慢で統率力に欠ける、袁紹は曹操より虚名を好むって評価が共通しているようだ
実際のところ、どうなの?曹操だって言うほど完璧な人間でもないんじゃないの?って思わないでもないけど、結果論で見てみると袁紹は曹操よりも小人物と言わざるを得ないしこういう評価を覆す史料が他にあるわけでもないしモヤる ビビリの曹操を安心させるために袁紹のネガティブな部分を強調しただけやから(震え声) 郭嘉の袁紹10の欠点は荀ケの袁紹3の欠点の希釈
傅子の創作臭プンプン >>110
傅子の作者傅玄は三国統一前に死んでるようだし、陳寿が三国志を執筆したのは三国統一の後のようだから、前後関係としては傅子の郭嘉による袁紹評を要約して三国志の荀ケによる袁紹評を書いたというのが正しいのでは?
創作臭いというのは同意だけれどこの時代には袁紹に対する評価はこういう風に定まっていたんだろうね >>111
袁紹の性格は田豊殺害で十分すぎるほどわかるだろ >>113
二宮の変を起こした頃の老害孫権に近いものがあるよね >>111
傅玄は後世に多い筆曲げる史家の先駆け
郭嘉disは品行の悪さ(息子の郭伯益含め)をなじりたい名士らしい思想だし
劉曄劉陶への悪評は私怨そのもので彩られてる
親父は道理を弁えてるしっかり者だったのにコイツはどうしてこうなった 田豊殺害は官渡敗退後の冀州謀叛と関わりありそう
沮授もしかり >>116
田豊殺害は逢紀の中傷が原因でFA
袁紹の理不尽な行為に陳寿も裴松之もボロクソに貶している >>117
袁紹を貶めるためのものにしかみえないのよなあ
そら讒言も一因やろけど田豊に至ってはその子孫が出てこんのは多分そういうことだろう
あと沮授は捕まっただけだったね >>119
田銀は河間で反乱を起こした多分現地の豪族で、田豊は鉅鹿郡の出身だから違うんじゃないかと思う
田豊って子孫はいなかったのかな?州別駕になるくらいだから冀州でも名の知れた勢族だったんだろうに >>120
だからこそ>>118だと思うんだよなぁ
これによって冀州中で審配が一気に勢力をはって袁尚を顎で使うくらいまでになってるし >>118
逢紀の讒言信じる時点で終わっとるw
珍説で袁紹擁護するとかニワカオタクですなあw >>121
根拠のない妄想でしか袁紹擁護できんとか裴松之がボロクソに叩いている歴史家と変わらんなw 開戦反対派の田豊を復権させることは、裏返すと開戦を決めた袁紹の敗戦責任を認めることになるから、逢紀の讒言があろうがなかろうがどのみち袁紹は田豊を殺さなければならなかったと思うがね
田豊の方もそれがわかってたから敗戦を聞いて自分の死を悟ったというし むしろ、犠牲者・離反者が続出した惨敗の直後に
これまでの貢献も少なくない重臣を処刑する方がリスクがデカいと思うがな >>125
だからボロクソにたたかれているとw
責任など云々しなくても敗戦後に造反は発生してる。
公孫?の檄文でも家臣粗略に扱うことをあげつらわれているように
外的要因でなく袁紹本人の資質の問題だろ。 >>126
同時期に治中従事審配の更迭論が起こってるところから見ても、体制の刷新なくして袁紹政権を続けていくのが難しいところだったんだと思う
「内閣改造」しないと「内閣不信任案」が通ってしまうような状態 >>127
公孫瓚に配下待遇をどうこういう資格あるんですかね...
檄文なんて針小棒大だし話半分に聞くべきでは 袁紹は多段式ロケット見たいに功臣を切ってくけどあれは自身の権力維持にため? >>132
淳于瓊も許攸もそうだが元々は同志的な関係だからな。
粛正された代表格と言えば麹義だが黒山で活躍して調子に乗った呂布を暗殺しようと
したり、袁紹は自分の上に立とうとする輩は許せない性格なのだろう。 オカンの出自が袁術陛下言う所の「家奴」なの結構気にしてるんじゃね 袁紹は官渡に十余万の軍勢を投入している
また、沮授から監軍の権限を奪い沮授、郭図、淳于瓊をそれぞれ都督として兵を分割している
つまり、烏巣を守る淳于瓊には3万強の兵が預けられていたということになる
そこに曹操は歩騎5千を率いて襲撃して、6倍以上の敵を撃破して、更には袁紹の本陣から派遣された援軍の騎兵も返り討ちにした、ということになってる
武帝紀の記述に従うと、ここだけでも曹操はおかしなことやってる アレキサンダーとダレイオスみたいに兵の連度頼りと数頼りの差みたいな?
だけど、近い時代でもギリシャやローマは戦闘描写が詳細なのに中国は簡素すぎるくらい簡素なんだよな >>137
ギリシャローマさんは美術とか自然科学方面でも当時としては群を抜いている
あいつらの観察力と表現力が異常なんよ、さすがルネサンスして人類を更なる高み(近世近代)に導くだけはある 田楷 田豊 田疇 田豫 とかかな...
田豊は渤海郡出身の可能性あり? 斉は青州だんべえ。徐州で斉と呉、半々くらいか?
んで冀州は趙と思われ。 袁紹が亡くなったと聞いて河北の民は嘆いたそうな
内政面に関しては優秀な君主だったようだ >>149
どんな政策してたとかは正史に書いてあるの? 徐州殺戮の前科持ちの曹操に喧嘩売ったまま
勝てずに死んでしまったんだから
残された民は嘆くしかないだろうね 詳しい政策は書いて無かったと記憶している
袁紹の死に対して河北の民が嘆いた事の他に郭嘉や荀攸が袁紹が民に対して仁政を行っていたという発言をしているくらいだな そうかなあ
官渡で大敗した直後に冀州のあちこちで反乱が起こって
その鎮圧で疲労した袁紹は死期を早めたんじゃなかったっけ >>154
反乱したのは豪族・軍閥勢力
仁政と言ったのは民草
袁紹は冀州の豪族・軍閥からは搾るだけ搾り取って切り捨て、直轄勢力にするのを繰り返してる
一部豪族・軍閥から受けが悪いのと仁政があったのは別の話題じゃないかな
最終的には冀州豪族の大物、審配に遺命を偽造されるわけだけど、こういうの考えると袁紹はやっぱり少しつめが甘い気がする 公孫�|すまでは軍事能力もそれなりに優れていた様だが
公孫�ヘ一時期は袁紹よりも領土拡大していたんだよな 華北の袁昭、江南の袁術、益州の劉璋によるIF三国志が見たかった >>157
劉焉が早死にしないか劉表がやる気もっと出すかしないと
あと袁術がしぶとく生き残ってたら曹操はすんなり袁紹に降伏しそう 人材はいたんだがなぁ
有能見極めて任せることのできる判断力の差か 公孫サンとの戦いでは人材を見事に使役して勝利してるんだけどね 郭図は頴川郭一族の大物だったんでしょ
袁紹は晩年冀州出身より頴川出身を重用してるから郭図は外せない
その反目で審配が袁尚担ぎ出す騒動に発展したんだろうけど 袁紹って四十代で死んだ可能性もあるのか
もっと歳いってるイメージだった >>165
少なくとも曹操よりも年上らしいから、50歳前後かな? >>172
史実の袁紹は部下の対立を呷り粛清しまくる冷酷な人物ですよ
むしろ早くから冷酷さを表に出しすぎた事で離反者を生み死後の後継者争いを悪化させたと言えます >>152
荀攸が言う「寛厚」や郭嘉が言う「有恩」って既得権益の保障って意味じゃねえかな
恩という言葉はこの時代ではそういう意味で良く使われる