河北の雄・袁紹を語るスレ
むしろ、犠牲者・離反者が続出した惨敗の直後に
これまでの貢献も少なくない重臣を処刑する方がリスクがデカいと思うがな >>125
だからボロクソにたたかれているとw
責任など云々しなくても敗戦後に造反は発生してる。
公孫?の檄文でも家臣粗略に扱うことをあげつらわれているように
外的要因でなく袁紹本人の資質の問題だろ。 >>126
同時期に治中従事審配の更迭論が起こってるところから見ても、体制の刷新なくして袁紹政権を続けていくのが難しいところだったんだと思う
「内閣改造」しないと「内閣不信任案」が通ってしまうような状態 >>127
公孫瓚に配下待遇をどうこういう資格あるんですかね...
檄文なんて針小棒大だし話半分に聞くべきでは 袁紹は多段式ロケット見たいに功臣を切ってくけどあれは自身の権力維持にため? >>132
淳于瓊も許攸もそうだが元々は同志的な関係だからな。
粛正された代表格と言えば麹義だが黒山で活躍して調子に乗った呂布を暗殺しようと
したり、袁紹は自分の上に立とうとする輩は許せない性格なのだろう。 オカンの出自が袁術陛下言う所の「家奴」なの結構気にしてるんじゃね 袁紹は官渡に十余万の軍勢を投入している
また、沮授から監軍の権限を奪い沮授、郭図、淳于瓊をそれぞれ都督として兵を分割している
つまり、烏巣を守る淳于瓊には3万強の兵が預けられていたということになる
そこに曹操は歩騎5千を率いて襲撃して、6倍以上の敵を撃破して、更には袁紹の本陣から派遣された援軍の騎兵も返り討ちにした、ということになってる
武帝紀の記述に従うと、ここだけでも曹操はおかしなことやってる アレキサンダーとダレイオスみたいに兵の連度頼りと数頼りの差みたいな?
だけど、近い時代でもギリシャやローマは戦闘描写が詳細なのに中国は簡素すぎるくらい簡素なんだよな >>137
ギリシャローマさんは美術とか自然科学方面でも当時としては群を抜いている
あいつらの観察力と表現力が異常なんよ、さすがルネサンスして人類を更なる高み(近世近代)に導くだけはある 田楷 田豊 田疇 田豫 とかかな...
田豊は渤海郡出身の可能性あり? 斉は青州だんべえ。徐州で斉と呉、半々くらいか?
んで冀州は趙と思われ。 袁紹が亡くなったと聞いて河北の民は嘆いたそうな
内政面に関しては優秀な君主だったようだ >>149
どんな政策してたとかは正史に書いてあるの? 徐州殺戮の前科持ちの曹操に喧嘩売ったまま
勝てずに死んでしまったんだから
残された民は嘆くしかないだろうね 詳しい政策は書いて無かったと記憶している
袁紹の死に対して河北の民が嘆いた事の他に郭嘉や荀攸が袁紹が民に対して仁政を行っていたという発言をしているくらいだな そうかなあ
官渡で大敗した直後に冀州のあちこちで反乱が起こって
その鎮圧で疲労した袁紹は死期を早めたんじゃなかったっけ >>154
反乱したのは豪族・軍閥勢力
仁政と言ったのは民草
袁紹は冀州の豪族・軍閥からは搾るだけ搾り取って切り捨て、直轄勢力にするのを繰り返してる
一部豪族・軍閥から受けが悪いのと仁政があったのは別の話題じゃないかな
最終的には冀州豪族の大物、審配に遺命を偽造されるわけだけど、こういうの考えると袁紹はやっぱり少しつめが甘い気がする 公孫�|すまでは軍事能力もそれなりに優れていた様だが
公孫�ヘ一時期は袁紹よりも領土拡大していたんだよな 華北の袁昭、江南の袁術、益州の劉璋によるIF三国志が見たかった >>157
劉焉が早死にしないか劉表がやる気もっと出すかしないと
あと袁術がしぶとく生き残ってたら曹操はすんなり袁紹に降伏しそう 人材はいたんだがなぁ
有能見極めて任せることのできる判断力の差か 公孫サンとの戦いでは人材を見事に使役して勝利してるんだけどね 郭図は頴川郭一族の大物だったんでしょ
袁紹は晩年冀州出身より頴川出身を重用してるから郭図は外せない
その反目で審配が袁尚担ぎ出す騒動に発展したんだろうけど 袁紹って四十代で死んだ可能性もあるのか
もっと歳いってるイメージだった >>165
少なくとも曹操よりも年上らしいから、50歳前後かな? >>172
史実の袁紹は部下の対立を呷り粛清しまくる冷酷な人物ですよ
むしろ早くから冷酷さを表に出しすぎた事で離反者を生み死後の後継者争いを悪化させたと言えます >>152
荀攸が言う「寛厚」や郭嘉が言う「有恩」って既得権益の保障って意味じゃねえかな
恩という言葉はこの時代ではそういう意味で良く使われる