長安は馬超が乱を起こす10年以上前から曹操の支配下で鍾ヨウが軍事 内政でかなりの権限を与えられて統治してる。
官渡の戦いですら長安から支援物資をおくってるから馬超の乱の時には相当の軍事拠点になってたはずである。
裏づけとして馬騰と韓遂の戦をとめるほどの影響力を持ち、ヘイ州軍とも鍾ヨウ自ら戦い、(後に馬超が救援)
洛陽に関中の住民を移住させるというような強引な政策から完全に力で支配してるといえると思う。

武帝紀本文によると乱の直前張魯討伐に夏侯淵らを合流させたとあるが、
張魯は健在だから討伐はできてないわけで実際に人質要求などから行動を起こす直前の段階であったといえるよね。
それが乱自体で馬超は長安より東の潼関で布陣して戦ってたわけで、
その長安をどういう経緯か突破してるんだが、長安と鍾ヨウ 夏侯淵らがどうなったのか誰かしらんか?
戦って逃げたのか単に逃げたのか、いずれにしろ陥落してるわけだが、触れられてなさすぎな気がする
曹操軍に5桁の被害が出たらしいが、その割には馬超の万余の歩騎での特攻くらいしか記述されていないしさ。
賊だから記録が無いということか?