錦馬超を語るスレ 8代目
前スレ埋まってたし、ちょうどよかったかな。
つか中英板でいいのか??
最近の三戦事情はさっぱりわからん… ずっと先祖をたどっていけば馬服君趙奢まで行き着くね 三国志演義でもいつの間にか死んでたからな・・・
影が薄い。
対曹操戦で一瞬パッと輝いて消えていったという感じがしないでもない。 ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E8%B6%85
馬超(176年 - 222年)は、中国三国時代の蜀漢の武将。字は孟起(もうき)。諡は威侯。扶風郡茂陵県
の人。
後漢の名将馬援の子孫。祖父は馬平(子碩)。父は馬騰。子は馬秋・馬承。娘は安平王劉理の妻となっ
ている。弟に馬休、馬鉄、従兄弟に馬岱がいる。馬騰は羌族との混血であり、この血を引いている馬超も
漢王朝の支配を受けない民族からの信望が厚かった。
『三国演義』では、その雄姿から「錦馬超」として称えられ、五虎大将軍の一人に選ばれたとされている。
経歴
若い頃から勇名をうたわれており、202年、司隷校尉鍾繇の要請を受け、部下の龐徳とともに、一万の兵
を率いて平康の郭援と高幹を討伐した。その際、足に矢を受け負傷したが、その足を袋に包んで尚戦い続
けたという。詔勅によって徐州刺史となり、後に諌議大夫に任命された。馬騰が入朝すると、偏将軍・都亭
侯に任命され、父親の軍勢を引き継いだ。 211年、馬超は時の朝廷の権力者曹操と敵対し、韓遂、楊秋、成宜、侯選、程銀、李堪、張横、梁興、馬
玩らあわせて十部隊らと共に兵を挙げ、十万の軍勢を率いて黄河、潼水の地に布陣した。このとき、蘭田
の少将劉雄鳴が馬超に従わず、彼に撃破されて曹操のもとへ逃亡している。曹操もまた夏侯淵・曹仁らを
率いて潼関にて馬超らと対峙した。緒戦、曹操が黄河の渡河を試みると、馬超は精鋭を率いて船団に猛攻
をかけ、曹操の軍勢は混乱し、曹操自身も命を落としかけるほどであった。その後も激しい攻防が続いたが、
途中、馬超・韓遂と曹操の間に会談が設けられた。馬超は己の武勇を頼みに会談の場で曹操を捕らえよう
としたが、護衛の許褚がいたため実行できなかった。最後は曹操の臣の賈詡の離間の策により韓遂と不和
になり、曹操に攻撃されて大敗北を喫し、西方の羌族の地に逃れた。この戦役の後、馬超の挙兵の責任を
問われ、父の馬騰と一族二百人あまりが皆殺しにあっている。曹操が引き上げようとしたとき、部下の楊阜
が、「馬超は韓信・黥布のような武勇を持ち、羌族に心服されているので、警戒を怠ってはなりませぬ」と進
言し、曹操ももっともだと答えたが、軍が既に引き上げを開始してしまっていたのでこの言を取り上げなかった。
212年、羌族の兵を集めて再び曹操軍を攻め、涼州刺史の韋康を殺害、冀城を根城にし、同州の他の城を
味方につけてみずから軍事総督と称した。さらに救援にやってきた夏侯淵を撃破し、氐族の千万・阿貴らを
味方につけてその勢力を盛り返す。しかし、韋康の復讐の為に挙兵した楊阜らの抵抗により冀城を奪われ、
漢中の張魯を頼って落ち延びていった。その後張魯に兵を借り、失地回復を試みたが、韋康の旧臣、趙昂
とその妻王異の抵抗に遭い勝利は得られなかった。また、張魯配下の楊白らに非難されるなど、張魯陣営
での立場も悪化した。そのため、214年、益州の劉璋を攻めていた劉備を頼って行った。劉備は馬超の来降
を聞くと、「私は益州を手に入れたぞ」と言って喜び、すぐさま督郵の 李恢を使者として迎えにやった。馬超
が劉備に帰順したという噂に恐れをなした劉璋は程なく降伏し、蜀は劉備の手中に入った。このとき馬超は、
平西将軍に任じられた。 その後は、彭 羕の劉備に対する讒言と謀反の意を上表したり、漢中攻略に従軍しているものの目だった
功績はあげていない。
劉備が漢中王になると左将軍・仮節に昇進し、 221年には驃騎将軍・涼州牧になるが、翌222年、47歳で
亡くなり、子の馬承が後を嗣いだ。馬秋は張魯の元に残してきたが、張魯が曹操に降伏すると曹操は改め
て張魯に引き渡し、張魯は馬秋を殺した。また没する間際、馬超は「臣の一門宗族二百人余りは、孟徳め
にあらかた誅殺されてしまい、ただ従弟馬岱だけが残りました。途絶えんとしている宗家の祭祀を継承させ
てください。深く陛下にお託しいたし、もう申し上げることはございません」とも上疏している。
260年、威侯の諡号を送られた。
逸話
『三国志』の彼の伝に引かれる『山陽公載記』では、馬超は劉備からの待遇が厚いのをいいことに常々
劉備を字を呼び捨てにしたため、関羽と張飛が怒り馬超を殺そうとしたという一文がある。しかし関羽は
当時荊州の守りについており、益州に行った事は無い。よって馬超と関羽が共に劉備の傍にいた事実は
考えられない。正史に対して注釈を入れた裴松之も本件については否定している。 三国演義
『三国演義』では、初登場は長安を占拠した李カク一派と馬騰・韓遂が戦ったときである。弱冠17歳で
敵将の李蒙、王方を討ち取る活躍を見せたが、父の馬騰が敗れたため敗退している。演義においては
馬騰は曹操と対立する涼州の一勢力として描かれているため、高幹との戦いの際のエピソードは演義
においては採用されていない。
馬騰が曹操暗殺計画に加担していた為、後に謀略によって一族のほとんどを曹操に謀殺されてしまう。
涼州に留まっていたため難を逃れた馬超は、唯一生き残った従弟の馬岱と共に、復讐の為に兵を起こ
したとなっている。挙兵と一族の殺害の前後が演義においては正史と逆転している。
復讐戦で馬超は韓遂と連合軍を起こしたが、賈詡の離間の計によりで韓遂と決裂する。韓遂は曹操
軍に寝返り、馬超は敗走し、その後も挙兵するが敗れ、妻など残った一族をほぼ皆殺しにされる。
漢中の張魯の元に身を寄せて、劉璋への援軍として劉備軍と戦い、張飛と一騎打ちをしているが、こ
れは演義の創作である。この時に馬超は孔明の策によって、玄徳軍に降り、劉璋を脅し、劉璋は援軍
が来ない事を悟り、降伏したと記してある。
その後、馬超は五虎大将軍に任じられているが、蜀に身を寄せてからの馬超は精彩を欠き、西涼の
錦と言われた力は発揮出来なかった。
他に、劉禅即位後に魏の司馬懿の進言で曹丕が五つの道を使い蜀を攻めようとしたとき、その一つ、
北から攻めるはずだった羌族は守備する馬超を恐れ、攻め込まなかったという話があり、史実より延命
したことになっている。北伐の際、諸葛亮が馬超の墓を訪れる場面があることから、演義においてはこ
のときまでに(南蛮征伐の時期?)死去した設定と思われる。 >>25
ありがとう!(´∀⊂
よかった…今から行くぞ(`・ω・´) 過疎らない話題がゲームしか無いというのがな(´・ω・`)
馬超は混血だったから羌族からの信望が厚かったと言うけれど、
やっぱり血筋は、無条件の信頼につながるものなのだろうか? 血筋の意味が違うだろ
例えば今後日本が中国に侵略されたとしてその統治者が100%漢民族よりは日本人とのクオーターのほうが少しは親近感わくだろ
というお話 ttp://www.youtube.com/watch?v=LhjbazNuqvs&mode=related&search=
馬超Pé〜馬超Pé〜馬超Pééé ♪
蒼天航路32巻あたりの馬超の漢中戦での活躍ってほとんど創作? 蒼天は潼関で女性読者率が跳ね上がったらしいからなぁ み みんな
みんな殺された・・・
父上っ
休!
鉄!
おおおお
オオオオオ 馬岱って族弟だろ? そんなに血縁濃くないんじゃないか。
とにかく何で彼だけ生き残れたのかも謎だな。
都に出仕せずに馬超と行動を共にしていたってだけか? 生き残れた事そのものより、なんで馬岱が都に行かなかったのかが気になる。
馬岱は馬超のお目付け役なのか、
それとも馬岱は素行が悪すぎて都に行かせるわけにはいかないとか
あるいは馬岱は西域の異民族の部族長と関連が強すぎて涼州から離れるわけにはいかなかったとか >>50
素行とかさすがには関係無さそうだし、
最後一行の理由だったら、蜀の北伐時にもっと重用されてそうなんだぜ?
一軍の将兵として組織に組み込まれてたとか、そんな感じなのかな。
軍事に携わらない身内=馬騰と共に都へ
軍事に携わってる身内=馬超の傘下となって槐里に残る
漢中から劉備に降る際、重臣ホウ悳や、妾子供は置いていってるのに
馬岱だけは連れていってるっぽいあたり、
(妾や子供は、距離的に連れてくの無理ってのもありそうだけど)
それなりに親族としての仲は良好だったのかも。 ホウ悳が魏にいなかったら関羽の強襲ももう少し上手くいってたかな
個人的にはホウ悳嫌いなんだけど。 関羽の強襲失敗は、魏側の配属武将が一人二人違うだけで
どうにかなる事柄じゃないような気がする。
関羽統括下の内部不和と呉側の動きの問題で、
ホウ悳がいようがいまいが、対局面での大きな影響は無いというか…
いや、ホウ悳好きだけど >行政官の経験
徐州刺史の経験が数年と、
地方行政官に近い経験として、馬騰入朝後の独立軍閥の維持が数年と
入蜀後の臨沮の監督(「督臨沮」とあるだけで役職不明)が数年て所かな。
馬騰の下に居る間も、三輔〜涼州の住民慰撫や外交的な仕事はしてるだろうけど、
そこらへんは想像に拠る所が大きいのでなんとも言えない。
入蜀後は行政に関わってた涼州牧は予約っつーか仮手形みたいなものだろうし
経歴ではあっても「経験」では無いので除外。 馬超に付き従っていながら関羽と対峙した時は偉そうにしていたホウ徳よりも
保身のために積極的に曹操に取り入った閻行のが
好感が持てるんだよね。同じように感じる人はいない? 韓遂の所業を見ると、閻行が曹操になびく気持ちは分かる。
でもホウ徳はなあ…
色々と悪いイメージが付きまとってるから、俺は色眼鏡を通してしか評価できそうにない。 根っからの中英住人としてはうまちょうごろきで8スレも何を語ってたのか知りたいぐらいだよ 一度荒らされる前は、いくらでも話題あったよ。
三国志大戦に馬超伝追加されたし、感想ぐらい聞いてみたい。 馬京者,漢將馬岱後也,年十六,得印,擲之地,誓?不服。 >66 でも路招、強端を討ち取ると
地味に戦果も挙げてるよ。
馬超が登場するまで進んだ漫画って少ないよな・・・ 何だかんだで30年近く暴れ回ったわけだからな。
一生戦って暮らすドラゴンボールみたいな人生だ。 韋康を殺したのって失策なんですかね?
敢えて言うなら、刃向かいそうな勢力を根こそぎ削いでおけば
良かったんじゃないかって気がするのですが。 >>72
潼関後の馬超の再挙兵は、涼州〜三輔付近一帯の兵力を吸収しないと
どうにもならんので、『刃向かいそうな勢力を根こそぎ削ぐ』は出来ないよ。
出来るだけ穏便に傘下として取り込むのがベターだろうから
韋康を殺したのは失策っちゃ失策だけど、
殺さなかったら上手くいったかというわけでも無いだろうし、
なんともいえないなぁ… 話しのネタもなくなるわな〜。
正月休み利用して本読みたいので
皆さんの三国志オススメ小説とか教えてください。 小ネタ
杉田智和はラジオでよく
自分を馬超 字を孟起だと自称している。 >>79
史実重視には勧めないが北方謙三の三国志。
馬超も斬新(過ぎ)だしこのスレ向きかと 確かに北方三國志の馬超は斬新だな
張飛との友情、蜀を去った後も何気に劉備や孔明を気にしてるところが泣かせる 年賀の挨拶に来た董チュウ(禾中)は馬超の妾の弟ということですけど、
三族皆殺しといえば、妾の縁に繋がる人達も殺されるはずなのに、
なぜ彼は挨拶に来れているのでしょうか
董氏の弟であるとしても、董氏は閻温に引き渡されているのに、その弟が来るというのは考えにくいと思う
なんつーか呂布が生きてたらこんな感じだったのかなっていう人生だ
けっこう被る所があると思うんだよね 「これぞ史書重視」って言える三国志の小説や漫画ってあるのかなあ? それなら宮城谷三国志で決まりだろう
個人的には面白くてしょうがない 馬超スレの過去ログ保管してるところってないんですか? >>95
なさげ…
それなりに続いたしまとめサイト欲しいところだけど >>103
What a mumumu you say ! ttp://oitama.hp.infoseek.co.jp/ramen/236_0.htm
山形じゃちょっと遠いなぁ。馬超が入ってるんなら仕事休んででも行くがw 馬超が劉備の下から独立を図るのって「破三国志」だっけか。
史実でも実行してほしかったな。 実行して欲しいけど、やっぱそこに関しては警戒されてたんだろうなー
ていうか四川省大変だ…震源地からして羌族とチベット人の被害物凄い
んじゃないのか……涙だよ…
ttp://jp.youtube.com/watch?v=cA1vYUR1Yjk
糞warotaよwwwwww 馬超の娘は307年の永嘉の乱があった時期に殺された。
夫の劉理は病死。後を継いだ子や子孫も早死に。
馬承については不明。
となんかの本で読んだのだが、もっと詳しい人よろしく。 劉理は244年、劉胤は256年、その子の劉承も翌年没。
それで劉胤の弟の劉輯が継いで、264年(蜀滅亡の翌年)に洛陽
に遷る。
劉胤、劉輯が馬氏の子なんぽかはわからん。結構な確立で
馬氏の子だとは思うんだけど…。
洛陽に遷ってるから、まぁ、もしかしたら劉姓でも馬氏の血続いてるかもな。
そして劉承死ぬの早い。怪しい…。 >劉氏で続いてるかも
劉永嘉の乱に巻き込まれて劉玄以外ほとんど死んだのか…。スマソ >>110
色んなとこに貼ってあるので自演臭くなってきた 一年以上たってもまだ100ちょいのレスか…
寂れたものだな 今までの流れだと保守レスで細々とつなぎつつ、
なんだかある時を境に盛り上がる感じだったけども…。
あんまりゲームとかの話もここしないしねぇ。 もう長いから、ループな話題しかないしな
覇ロードあたりに早く登場してくれればいいのに
っつーて、最近読んでないけどまだ出てない? 趙雲が呂布の子供産む漫画でしたっけ。
馬超登場したらしたで興味あるわ。 >>121
趙雲が呂布の子供産んで、それが関平で、名付け親は諸葛亮
そんな漫画のことだよ
まだ童卓が生きてるから、馬超の登場はおそらくまだ先 伝が短いのは関張黄趙と合わせたからかな?
親不孝が陳寿に嫌われたのかな?
他の四人は本人の伝だけで大体つかめるけど、馬超は魏志を読まないと
訳わからないのにな。 蜀では影薄かったんじゃないか
馬超は蜀に降ってから一気に精彩欠くし 代わって馬岱が活躍するようになったよね
馬岱もはやく馬超から離れたかったのかもしれん なんだそりゃ…離れたかったら好機会なのは入蜀前だろう。
馬岱もいい仕事してるのに記述信じられんほど少ないな。
それにしても蜀書は記述量本当に少ない…陳寿は蜀の人なのに。
地元びいきより、自分の萌えに忠実だったんだろう
馬超は名の通った武将ではあるけど、色々やらかしたせいで
民衆にはあまり受けが良くなかったらしいし >>131そういう記述は馬超関連で見つけたことないな。是非文献教えてください!
>>130
蜀書の量が魏書より少なくなるのは仕方ないっしょ。
ちなみに成都陥落の際に記録書が消失したとかはありえないらしい。
ただ単に蜀にそういう歴史編纂の際に機能するような役職自体がなかったんだ。
それに馬超はまーだ記述には恵まれてる方だぞ…それ以上に少ない人物なんて
いるから…(泣。伝の陳寿総評だってまずまず評価されてるし、贅沢いわないw 真面目な感じになりそだったけどとまったから聞きますがー
噂のアレ国志に馬超て登場してる? …噂なのか?
まあ出てるけど。お米教祖と踊って改造されて脱出してアマゾン馬岱と再会した
というとこまで一巻で読んだけど、その後どうなったんだろう… まともな人だよね。あのあと無事劉備のところへ行けたのか
気になるけどw PHP馬超の書籍流行ってんの…?
ここ5軒くらい本屋行ったら5軒とも平置きだったぞ
嬉しいけどさw
風野が人気あんのか? 荀イクのも書いてたよな。こっちはあんま良い評判聞かないけど てか、無双5がPS2で発売なのだね。
馬超使えるってさ。物凄い変な 剣 が武器ですが >143
mjd?やった!
5やりたくてもPS3買う金なかったから嬉しい! >>145
良かったな。俺はたぶん様子見だがw
>>146
馬超は話題無いからしょうがないよ 昔はアンチ(というと語弊があるが)もいたし、
色々なレスもあったのだが…。
今は日々新たな馬超ネタを待ち構えてる状態だしね。 >>140
ちょっと待て あの劉備の元へ行って、幸せなのか…? したらあれか。あのカンヌと張飛と一悶着あるのか…。カワイソスw 212 名前:名無しさん@九周年[sage] 投稿日:2008/07/02(水) 09:30:01 ID:tBbW4Kx80
この中にも幾人かはまともな人間がいるようだ。
このような犯罪者集団と共にいることはない。
「泣いて馬超を斬る」という言葉があるように、
インターネットに不要な犯罪者はここで切り捨てて
今回の犯罪者の作り出した「祭」は早々に切り上げたほうがよい。
【毎日・変態報道】 「毎日新聞、日本人全員を侮辱!」…毎日新聞に対して「法的措置」実行予定の人登場★4
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1214957463/212
同じネタで、なんかもっと連鎖的に面白いのがあったような… そのレスに対して突っ込みがあったのか知りたいところだなw >>156
ツッコミ入りまくりだったよw
鬼女板で名言認定されたぐらいだ。 鬼女板でも密かな馬超ブームとかあったらウレシスwww 133 名前:名無しさん@九周年[] 投稿日:2008/07/11(金) 21:34:41 ID:wnC0jrmo0
■ 毎日工作員迷言集 ■
『 電凹 』
『 QDM 』
『 課長の外 』
『 馬超を斬る 』 ←←←
『 ニュース速報タス 』
『 関連ずける 』
『 法事国家 』
『 RAMってろ 』
『 ミュー速+ 』
『 潔白を晴らす 』
『 恐山の一角 』
『 図星が的中 』
『 虚位の報告 』
『 毎日新聞は日本の良信 』
『 ソウポンサー 』
『 飼い葉 』
『 不買い運動 』
『 2チャンル 』
『 手のひらで踊るように会話の誘導が出来るし 』
『 本当の真実の事 』
『 収束ドーム 』
『 この道のプロ 』
『 警鐘する 』 昔の三戦板て面白いなあ
過去ログ読んでて思った
しかし馬超って叩かれることが多かったんだね
やはり好き嫌いがはっきり分かれる人物なんだろうか・・・ 最近じゃ本当に無くなったけどな。馬超叩きは、演義と正史で
親族が処刑されたタイミングが違うっていうことで
「演義じゃ○○だけど実際は!」ていう流れから全てが始まる感じかw
お決まりのパターンだったような。あとは蜀に行くまでのくだりか、
蜀に行ってからの静かさ。
最近ファンよりもアンチが減ったとおもうなー。辺境の武門好きが
増えたかw?
時々ふと「俺なんでこんな人好きなんだろう?」と思うことがある
もう自分でもよーわからんわ 馬超は1回好きになるともうとことんな感じが汁
全体的に陰惨としてる内容のはずなのにところどころ
苛烈で華々しい雰囲気。
芯が折れそうで折れない、妙な不安定さも小説家に好かれそう
ではある。
正直自分の中の馬超像よう掴みきれないけどな。 涼州を守るためには手段を選ばず立ち回るも、
最終的には家族も土地も失って自分の名声しか残らず、
最後にあの遺書から滲み出るもはや廃人状態の様な虚無感
こんなはずでは、と思っている馬超にとって、「親不孝者」という言葉は
さぞ耳が痛かったんじゃないだろうか
あと「抱かれたい三国志武将」ってスレで、馬超について長文語ってた人がいて
あんなに語れて羨ましいなと思った
そして少し感動して嫉妬したw 曹操ヲタだけど馬超もかなり好きだよ
一言で言い尽くせないところに惹かれる
曹操はきっと馬超を欲しかっただろうな 抱かれたい〜 懐かしい。
だいぶ経つが馬超好きの住人がその頃と
変わらないということに驚きつつも物凄い納得した…
曹操は自分も好きだ。
もうちょっと親族処刑待って貰って曹操と
馬超の熱い交渉をみてみたいというのもあるw
>>171
IDカコイイ
そして分かり易い不等号やね。 呂布が処刑されず曹操に降れてたら、馬超みたいな感じになってたかもな
もちろんどっかでまた裏切る可能性も高いがw
結局、馬超って何で父親兄弟が都に居るのに反乱起こしたの?
あと演義読んだ後に正史読んだ人ってかなり馬超に衝撃受けたと思うんだけど 演義と正史での差って?
家族を殺されたのが先か後かって事くらい?
演義読んだ事ないんだけどさ 家族を殺される理由じゃね?
正史だとほぼ馬超の反乱で殺されるみたいなもんだし 馬超に関しては正史からだったからなぁ。
家族が死ぬ理由で騒がれるのみてから
興味持ったというか。
でも正史も普通に悲劇じゃないんかね。
ハタから見れば正史でも演義でも暗い人だな。
本人がそう思ってたかは知らんが
ショックではなかったけど、イメージが大分違うかも。演義と正史 >>179
曹操が漢中に進軍したから(最初の漢中進軍は韓遂連合軍を一気に討伐するため。) しかし勝ち続けてたら馬超のファンにはならなかったな。
負け続け、落ちてってるところがあるから好きだ 敗走してるわりに評価が高いのはやっぱり戦の内容か。
>>188
あと曹操の評価じゃない?
馬超が生きてたら首がつながってる気がしない みたいなやつ 陳寿の評もまずまず良いしな。
満身創痍だったが、劉備の元で高位について
子孫残したし。
早死にしたけど…。
馬承の家系って続いたのかな。
蜀末期に馬姓って・・・馬[貌+シンニョウ]!
まさか、江油城でヘタレを演じた馬バクは馬超か馬岱の
子孫だったり^^;
張飛の孫や黄権の息子や李恢の弟や孔明の息子・
孫は忠義をまっとうしたんだぞ。ま、まさか・・・ね^^; >>187
馬超って正史でも曹操を追い詰めてたっけ? 馬超の構想に怖れをなして
「馬家の小僧を生かしておいたら私には墓場を作る土地さえ無い」というコメントをしている。 >>192
注の「馬児死せずば我葬地なし」の他にも、馬超伝には記載されてないが
武帝紀と許チョ伝には211年の戦いで馬超が曹操をあと一歩で討ち取る
ところだったという記述がある。
これが211年のシ童関の戦いの前半の山場。賈クの離間の計は後半の山場。 宮城谷三国志の七巻に馬超いっぱい出てたよ
曹操を追いつめてた >>196
読んでみたい。タイトル教えてください。 魏延を斬ってのち歴史から消えた馬岱だけど
子孫は四川に存続していたらしい
1400年後の張献忠の乱の時
地元の義民を率いた馬京、馬亭兄弟が馬岱の末裔だという
これか
http://blog.stnn.cc/StBlogPageMain/Efp_BlogLogKan.aspx?cBlogLog=1000931967
黎州宣慰司馬京及弟亭,起兵討賊。初,賊以蜀人易制,惟黎雅間土司難於驟服,
用降人為招誘,鑄金印齎之,易其章。馬京者,漢將馬岱後也
清史稿でも四川の土司の話で黎州土百戸,漢馬岱後とかいってるけどホンマかいな 馬家の祭祀託されたしな。
本当に子孫残したならえらいぞ岱 確かにそう見えるな。
そういえば明日無双5スペ発売だね。
あまり評判はよくない。PS3からPS2の下位互換だし。
馬超のあの武器はどうかと思った。モンハンに出てきそう。
買うのはよく考えた方がいいね。 無印5だと得物は普通の槍だったよね。
無双モード追加は嬉しいけど、あんな変な武器はいらんわ。
ところで馬超といえば、横山光輝の漫画では
ダルメシアン柄の馬に乗っていたが、西涼にはあんな馬がいるのか? モーションがよければ大剣でもいいけど…
でも槍の方がしっくりくるわな。
馬超が祭祠託したのは馬岱だけど、実際跡を継いだのは馬承だよな・・・ 親と一族が都に行ってるのに何を考えて反乱起こしたんだろ? >>212
これで馬家の勢力はおれひとりのものよ。ゲヘヘ。
田舎をそこまで大事に考えていたわけではないだろうから、天下を狙った
のだろう。
ただし董卓や袁紹、公孫サンみたいなあわよくば天下、事成らぬ時は地方
に割拠しようという程度の甘い考えだったのだろう。
馬超の場合、それをある程度まで裏付ける軍事的才能があったのが災いしたな。 曹操が漢中・関中にプレッシャーをかけまくってた以上
人質なんぞ気にしてる余裕はない
一説には馬騰が都で内応する予定だったらしいが
なくはないかなとは思うが微妙なところだね 現代社会でも問題になっている少数民族への弾圧政治。
異民族の支持を得ている馬超の立場上、蜂起するのは当然だと思う。
(当然家族の事も気にしていたろうと思うけど)
天下を狙うとかとは少し違う気がする。
馬騰、馬超も軍閥が曹操への牽制になると考えていたんだろうな。
曹操は関中軍閥と一戦交えるだけの覚悟があったことに気付いていなかった。
じりじりと追いつめられた馬超はついに武装蜂起する。
その武装蜂起が曹操の命をおびやかすほどのものだったことが曹操の誤算。 そうだね。曹操の動きに応じての行動だから、長安進出後の馬超が
そこから更に天下ねらうため進出するかと言われれば、
ない と思うし、想像できないというか天下つうビジョンが全くみえない。
普通に自国の領土侵攻に備えての蜂起だよなぁ…。
まぁ、結果はともかく対曹操戦の内容は良かったと思う。 馬超と韓遂は仲間割れしてからも反曹の立場は変わらないし
もう少しなんとかならんかったのかとも思う。
協調性がもう少しあれば…… お互いに寝首をかかれるのを恐れていたのではないかな。
張既伝では馬超は韓遂に
「私は父を捨てあなたを父とするからあなたも私を子と思い、許都の子は
見捨てて欲しい」
と言ってるけど、韓遂からすれば一度父を見捨てた馬超は二度父を見捨て
るだろうし、馬超からすれば(誰から見ても)韓遂の経歴はとても信用
できるものじゃない。 馬超も韓遂も反曹操じゃなく反中央政権という具合で
状況も状況、挙兵ってことで一致したんじゃないのかね。
個人的な信頼関係とかは…心底では結びつきもあるかも
しれんけど、挙兵時の二人にはあんまりピンとこないなぁ。
あくまで表面的な、仕事モードって感じだよ(そんな軽いもん
じゃないけど) 大体韓遂は馬超の母ちゃん殺してるわけだし
本心から信頼は出来なかったろうよ 連合軍の自然瓦解するような軍内の温度差って
具体的に何が原因なんだろう?
韓遂に反乱を起こして返り討ち。
更に韓遂が攻めてくるというときに韓遂が亡くなり一命を取り留める。
それっきり何事もなく死んだはず。 劉備並に奥さんと子供捨ててきてるよね
殺されたのかな 呉蘭、雷銅との関係が気になる。
馬超には子飼いが少なすぎるから。 劉備配下にならなかったら、馬超の評価や印象も随分変わりそうだ。
色んな意味で乱暴過ぎる。 光栄の三国志5武将ファイルで実吉達郎氏に水滸伝の花和尚魯智深や行者
武松に比較されていたな。
イケイケの武闘派だね。
演義ではそれでいて張飛のような熊男じゃなくて、美男子だというのが
面白い。
馬超は先祖の伏波将軍馬援が絵に描いたような美男子だったということで
「錦馬超」になったんだろうな。 よく騎兵を大量に擁していたように言われるが、実際のところどうだったのだろう?
二世紀の涼州の環境から推測される事実に近い想像なんだろうか。 鍾?がそのあたりの名産である馬を曹操に贈ってるね。 >>237-238
サンクス
馬超に同調したテイ族の王の名前は出てくるのに、羌族の人物の名前が
出てこないのは羌族が馬超の軍隊の主力に組み込まれていたからだろうか? というより馬超自身が羌族の代表格だったのでは?
馬超って羌族の血のほうが濃いんでしょ >>177
おもしろいと思うんだがな。
PHPとは思えないほど。 >>234
馬騰のように粗野な熊男って印象で終わってただろうな 馬騰は熊男じゃないぞ。
ルックスも立派だし、人望もあった。
賢人を大切にして政治もしっかりしていた。
韓遂が活動した土地こそ荒れ果てていたという。 どれだけの人にわかってもらえるかわからないけど
ワギャンランドのシリトリで「馬超」で解答することができたよ 馬岱は実績からいえば取るに足らない男だが、馬超の遺言から判断するに
蜀に降伏してからの敗走後に馬超の軍団、もしくは馬一族の中では重きを
なしていたのだろうな。 そうだろうね。まぁ本当に字すらわからない程記述の無い
人だから想像するしかないけど…。
馬超の子供は幼児だし馬岱しか。
降ってからの馬氏(ってか馬超なんだろうけど)の微妙
な立ち位置とか近くにいたならわかってただろうし。
馬超の遺言で馬岱に跡を継がさせてくれというのは、劉備の遺言の
「君、自らとるべし」
と同じような意味合いがあったんじゃないだろうか。 死後に馬岱や劉備など周りの者の働きで、
馬超に養子を迎えて継がせたのかも知れんね
…まあ、本当に馬岱しかいなかったのかも 馬超好きだからこそ思うんだが、楊阜や孔明が言うように韓信、彭越、鯨布のような漢初の超一流
武将と比べられるような才覚の持ち主かな?
楊阜は自分たちを田単と比較しているような人間ではあるが…。
せいぜいが中国史には腐るほどいる田舎軍閥の親分で、自称征西将軍。
袁術のように皇帝を僭称したわけでもない。
取り柄は戦争だけ。そこそこ強いとはいえ、件の三人ほどじゃない。
劉備政権下では五虎将の中でもずば抜けた実力(蜀将としての実績はともかく)の持ち主であった
ことは確かだが。 それらの人物を例に挙げたのは、馬超の武勇に関してじゃないのか? 関羽は自らの武勇を頼んでしばしば兵を失った。馬超も猪武者みたいに思われがちだが、戦機を
見抜くことに長けていて勝てる戦争しかしなかった(なのに最終的には負けた…)。
残念なのは本人の能力は突出していたのに股肱の臣がいなかったこと。
劉備はどんなに落ちぶれても関羽、張飛、趙雲、簡ヨウ、孫乾、糜竺、糜芳がついてきた。
馬超はホウ徳に途中で見限られてしまう。
呉蘭、雷銅が実は元から馬超配下だったとしても馬岱と同じく戦争に負けたというエピソードしか
残っていない人物。
やはり器の違いというものだろうか。 そうやって持ち上げて、働いてもらわんとこまるからな。 梁興のシ童関の戦いでの行動は馬超の戦略にかなっている。
最後まで抵抗していたこともあるし、かなりの程度馬超と気脈を通じて
いたと見るべきだろうね。
後に馬超に背いた梁寛とは血縁関係があったのだろうか。 >>249
亀レスだけど、
馬岱の字は伯瞻(はくせん)だったはず 扶風県郷土志ならうちの学校にあるよ。明日見てくるが>>200なんかと同じで
三国の頃に分らなかったものが清代にポッと出てくる理由まで探らんといかんと思う
そこまでする気はないからとりあえず扶風県郷土志の中身を確認するだけだがね
なんか三戦板に「馬超は何故父親を殺したのか」っつー
スレ立ってた。未だにループネタでスレ立つとはな。 確かに扶風県郷土志の巻4・耆旧篇に「馬岱字伯瞻」と書いてあった
ただ、光緒32年刊の郷土志に先立つ嘉慶23年刊の扶風県志に巻11・人物って篇があって
郷土志・耆旧篇と同じように扶風ゆかりの人物の略伝を載せてる
で班固・班超や馬援からはじまる馬氏や耿況以降の耿氏やらを並べる順番はまったく同じ、
字句もほとんど同じで郷土志が県志をコピペしたと推測されるが
県志には馬岱の字は書いてない
県志の撰者が馬岱の字を知りながら敢えて書かなかったか
嘉慶年間にはまだ馬岱の字についての資料がなかったかのどっちかという事だよね
前者なら信ずるに足りないと判断されたように思われるし
後者なら清末にいきなり馬岱の字についての資料が出て来た事になる
「馬岱字伯瞻」てのを積極的に覆すものもないんだが根拠としては弱いだろう
>>260
三戦も中英もループ進行がデフォ >>260
馬騰は韓遂が殺したようなもんだと思うがね
韓遂の経歴見ると自分がサブになって御輿盛り上げる手法をとり続けてるわけだけど
馬超の場合もそれだろ? なるほど
韓遂「馬超坊ちゃん、今こそ挙兵して曹操に一泡吹かせるべき時ですぞ!」
馬超「ようしいっちょやったるかー」
馬騰曹操に殺される
馬超「おいおいおい親父が死んだぞ!!」
って感じか 馬謄は馬超らの蜂起を知れば身の危険も即座に感じただろうが
その場合、逃亡する選択肢は無かったのかな? >>261
乙です。
中国では父方の従兄弟も兄弟に数えるわけだから、馬超の「孟」起と
馬岱の「伯」瞻は両立するのだろうか?
馬岱が母方の従兄弟だという可能性もあるし、夏侯衡は字が「伯」権
らしいのに(?)、従兄弟の夏侯尚は「伯」仁だから両立する可能性も
考えられる。
第一夏侯尚自体が父方は母方の従兄弟かどちらかわかっていないわけだが。
高級な家柄だと父方の従兄弟でも字は兄弟としてつけないのかな?
詳しい人がいたら教えてください。
>>262
武装蜂起を持ちかけたのは馬超だよ。
「もう東の人間は信用できません。私は父を捨てあなたを父とするので
あなたも子を見殺しにして私を子としてください」
張既伝か鐘ヨウ伝の注釈にこうあったはず。 魏略にそう書いてあるからって信用できるかね?
魏略では馬超を不孝の人としたい立場からそう書いてるだけでは? 「天下を為す者家を顧みず」という言葉がある
項伯が劉邦について人質作戦が無意味だと項羽に語った言葉
徐州に父がいても陶謙と戦った曹操と同じで、天下を争う覚悟の者は親でも捨てる いや、さすがに自分が挙兵すれば
都にいる家族がどうなるかぐらい馬超だって分かってただろう 中国では母方の従兄弟は名字が違うんだよな。
同姓結婚もまたない。
となると父方の従兄弟同士で字に「伯」か「孟」がつくやつがいれば馬岱
の字が伯瞻である可能性も出てくるわけか。 同姓結婚はしないってのは、後漢時代からすでにそうだったんか? 礼記の頃から「取妻不取同姓」といわれてるし、後漢に近い時代だと
儒教的価値観からいちばん縁遠そうな嵆康ですら「同姓不昏」と書いてるよ
それでも馬岱の字を確定するにはまだまだ遠いと思うけどね
くどいようだが三国の頃からずっと知られなかった物事が
はるか後世にいきなり「判明」するのは何でなんだろう
孔明の子供で諸葛懐だの諸葛果だのが清代の文献に出てくるのも然り 相変わらず馬超スレらしいとは思うが、
ホントいきなりレス増えて突然過疎るのなww 田舎だからだろうか馬超周辺は敵味方の名字がやたらかぶってるよな。
梁、楊、董、李、閻、そして馬。
いわゆる名族が枝分かれしてお互い親戚扱いしないほどの遠い親戚になったのか? 戦争のやり方は彭越、決断力は英布。
国士の器だったのに大功を立てられなかったのは田舎者ゆえの想像力、情報収集力のなさだろう。
韓遂を滅ぼして涼州を制圧していれば歴史上でもっと大きな役割が果たせたかも知れない。
でもそのときは今のような人気者にはなれなかっただろうな。 天下を争う覚悟のある者というけど、馬超にその気持ちはあったのかな?
自分の家庭は涼州にあるんだし、
後ろに敵が迫ってきたら守るのは当然で天下統一とかには、どうでもよさそう >>275
>韓遂を滅ぼして涼州を制圧していれば
魏でいう臧覇みたいに、地方の抑えとしての地味ながら
厚遇なポジションになってたんだろうね。
場所が場所だけに対蜀戦線で活躍したかもしれないけど、
人物としての人気は無いだろうな。 >>276
涼州を曹操と争うということは天下の争いに参加することだよ。
馬超にその意識がなかったとしても結果としてそうなる。
曹操(丞相)にとっての天地は中華、馬超(征西将軍)にとっての天地は
涼州及びヨウ州というのは正に二人の器の差を表しているね。
>>277
自分としては周瑜の戦略の通り、曹操の対抗馬としての馬超が見たかった。
つまり四国志。 楊阜が体に五ヶ所の傷を負い、一族の七人が戦死した、というのはいつ頃のことなのか?
@楊阜、姜叙がロ城で反乱を起こす→A馬超が討伐に向かう→Bキ城で趙昂が反乱を起こす→C馬超が歴城に入る→D馬超が漢中に向かう
AとBか、CとDの間に楊阜と馬超の間に軍事的衝突があったと見るべきだね。
(1)馬超がロ城(もしくはキ城)を攻めたが落とせずに漢中へ逃れた。
なら、AとBか、CとDの間、両方が考えられる。
(2)楊阜が歴城を攻め落とし、馬超は歴城に火をかけて逃げた。
と
(3)楊阜が漢中へ逃れようとする馬超に追撃をかけたが返り討ちにあった
はCとDの間になるね。
大体この三つが考えられるが、一族七人が戦死という不自然な損害は楊阜側が負けたとみるのが
自然な気がする。
演義は(3)だったっけ。これが妥当かな。 >>279
馬超が最初に冀城を包囲した時っていうのは?
八ヶ月間も交戦状態にあったことを考えると、一番考えやすい気がする。
記述確認してないんで、見当違いな事言ってたらごめん。
馬超に人質にされた楊阜の従弟の楊岳は
七人の戦死者のうちに入るのかな Wikiに、ともすれば野心から曹操に敵対し一族を滅亡させたと書いてたんだが、
本当に馬超に野心はあったんだろうか
そんな息子に軍まるごと預けた馬騰には何か考えがあったのか。
時勢を読めずに勝手に反中央の旗を掲げたといわれてるが、
実際は諸将に煽られて挙兵したもんだと想像してた。
でも自分がそう思いたかっただけかもしれん…。 >>281
韓遂のそれまでの経歴を考えるととお前さんの想像のが可能性は高い そもそも馬超の野心て何さw
長安より中央に出る気が馬超にあるという根拠って何だろ。 そんな積極的な野望じゃなくて、曹操の干渉を受けずに涼州で覇を唱えたいというのも
一種の野心だろう。
項羽とかも似たようなものなのかも知れん。 >>284
馬超が独立独歩を志してたっていう根拠が希薄だな >曹操の干渉を受けずに涼州で覇をとなえたい
そりゃあ馬超個人の感情だけではなく涼州民の思いでもあるだろう。
(もちろんその中でも意見が割れてただろうけど)
しかも涼州に混在する異民族は中央に従うのを恐れてるだろうし、
その独立政治を考える住民に支持されてる馬超が、天下統一をめざす曹操と対立するのは当然では。
それを野心とは言わないだろう。
「野心」という日本語の定義がズレてちゃ話にならんな 統一中国という視点から見たとき、勝利者曹操の視点から見たとき
馬超の意志が野心でなくてなんであろうか? 馬超さんがもう少し長生きしてたらどうなってただろね
北伐で重用されてたかね? 閻行にやられたりとか流れ矢に当たったりとか冀城で締め出しを食った時とか
危うい事態に何度も遭遇しているな
むしろよく戦死しなかったなと思う それが豪傑(英雄とまではいかないだろう)の素質だよ。 馬超に野心はなかったんじゃないかな。あったら、曹操の領土にもっと積極的に攻め込んできただろうし。孫策みたいに許都襲撃計画も練ってないしな。
馬超の反乱はあくまで涼州を侵略から守る為のものでしょう。
話はずれるけど、馬超と周瑜の同盟の話はどこまで進んでいたんだろうね。使者のやり取りはあったんだろうか。 思えば、呉が馬超と同盟して曹操に敵対するんだから
天下二分じゃなくて天下三分だよなー? 馬超が騎兵戦のプロだったけど、どのくらい強かったの?
曹操の精鋭騎馬隊‘虎豹騎’を破ったから相当強かったんだろうけど。
呂布や華雄より強い? ○○より強い とかなかなか難しいんだけど。状況に
ょって違ってくんじゃんよ。
呉と涼州で同盟決定してたらまた楽しかったろうなぁ…
公謹死ぬの早すぎ 正史、演義以外で好きな馬超ってみんなはどれ?
自分は北方の孤独癖っぽい馬超がスゲー好きだ >>306
ああ、三国志大戦から入門した王異萌え連中を絶望の淵に叩き込んだあれね 三国志大戦ってやったことないんだけど、馬超の話とかがあんの? 連載してる趙雲漫画で益州攻略やってたけど
馬超は登場しなかった 演義を読んで驚いた
王方を討って李蒙を生け捕る場面格好良いじゃん
なんで吉川さんこれをカットしたの? 馬騰、馬休、馬鉄らは姜叙や楊阜のような親曹操派の豪族だったのかもね。
混乱を極める涼州という土地は治安も乱れきっていただろうから、中央へ
の帰属を望む声も多かっただろう。 正史の時系列だと明らかに親父や兄弟が殺される→馬超が暴れる
ではなく
馬超が暴れる→親父や兄弟が殺されるだよな 演義って父親殺されて復讐のために、
結局個人の事情で挙兵したように思える
別に脚色せんでもよかったんじゃないだろうか 悪の曹操を倒すのは「義」であり、親の仇を討つのは「孝」だ。
個人の事情であろうが劉備陣営に加わる猛将の活躍を描くには脚色は必須だった。 >>305
お前が援軍を送ってくれば同盟は成立する。とか元気な頃の馬超も
簡擁にだけ心を開いてる馬超も良い。 正史の馬超は親不孝とかいうが
「俺が曹操を斬れば親父と弟たちは取り戻せる!」
とか思って挙兵したんじゃないのかな。
都での親父と弟たちの扱いには関係なく。
つまりは「曹操も俺なら殺れる」と信じて疑わなかったんじゃないのかな
と思うわけだけどやっぱり甘いかね? >>320
馬一族が粛清されたのはシ童関の戦いの後だが、馬一族が許昌にいる以上、曹操の
一存でどうにでもなる。
曹操が敗死したとしても馬超が許昌を抑える前に曹操の部下が馬騰たちを殺すかも
しれないし、馬超は一族を見捨てたとしか考えられない。 >>320
私は親を捨てるので…、と言ってるんだし
家族がしぬことは覚悟の上で蜂起したんだろう 馬超は家族を失い過ぎでその事実だけでも胸が痛くなる 馬超が家族を捨てたんじゃない
韓遂が家族を捨てさせるように馬超をハメたんだ 馬休か馬鉄のうちどっちか一人は残ってもよかったと思うんだけどな。
馬騰はそれだけよく一族をまとめていたということか? 馬超が死ぬ際、一族は馬岱だけになったとか言うけど
趙雲に嫁いだ妹だか従兄妹ってのはどうなったわけ? どうなった、って
そんな話が史実や伝承に有るのか? 跡継ぎの馬承、
劉備の息子の劉理に嫁いだ娘がいた事が正史に載っている
馬雲緑という妹は、反三国志という小説のオリジナルキャラクター 仮に妹だかなんだかが趙雲の嫁で血を残したとしても
その子孫は「馬一族」じゃなくて「趙一族」だからねぇ
社稷を継ぐために重要なのはあくまで男系一族 自分が若い頃は好きだった人物だ。
でも行動が無軌道で結局最後は蜀漢に利用されたよね。 負け戦の連続で死に物狂いで逃げてるんだから、軌道に乗りにくいだろう 自分の地位をよく把握しておらず、それが天下争奪戦に巻き込まれてしまった。 若い頃から勇名をうたわれ、曹操から徐州刺史に任命されたり、
周瑜と何かしら連絡を取り合ってたり、それこそ馬超は天下狙える地位にいただろう。
馬騰が入朝した時も、偏将軍・都亭侯に任命されて軍勢をそのまま引き継ぎ、雍・涼州の2代勢力のひとつのトップになっている。
というか献帝まで天下争奪戦には巻き込まれてるんだから、
地位が高かろうが低かろうが巻き込まれる。
岡田外務大臣キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!
http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/saku2ch/1256630318/1
早く記念カキコしないと埋まっちゃうwww
関中十部と呼ばれる馬超、韓遂、侯選、程銀、李堪、張横、梁興、成宜、馬玩、楊秋が
それぞれどのぐらいの勢力を持っていたのかいまいちわからない 馬超が長生きしてたら、孔明との関係はどうだったんだろうか…。 確認できるのは211年の関中攻防戦で馬超が一万、梁興が五千を率いていたということだな。 誇張はあると思うが潼水に集結した関中十部の兵は10万というが・・・・・ 勢力範囲は斑模様で曹操派を堅持した太守や将も多かっただろうけど、
ビに駐屯していた馬超が長安を越えて潼関まで進出し、
涼州から韓遂、河東人の程銀、侯選、李堪らが集結したわけだから
涼・司隷の二州に跨る大叛乱ということになる(当時は雍州が無いからかなり広い)
建安期最大の叛乱だろうね ついでに、程銀、侯選、李堪は興平年間の乱で千余家を従えていたという。
例えば馬超が曹操を攻撃したときの軍勢は一万だが、それ以外に馬超の手足になるとは
言い難い風見鶏の豪族がいて、馬超派約二万ということはありえるだろう。
その方式で十人+その風見鶏で十万ぐらいは全然ありえる。
唐までは中国も昔の日本みたいな一種の貴族(豪族)社会だったわけだから。
日本の南北朝の争乱を思い浮かべてみたらわかりやすいかと。 馬超の部曲(私兵)の大部分は羌族
馬超自身は漢族と羌族のクォーターで羌族の言語、風俗に精通していたのはわかるが
はて、羌族にとって漢族同士の内戦、私闘に過ぎない戦いに過ぎないものに
命をかけるほどのメリットがあるのかという疑問がわく 羌族が漢王朝に対して起こした大規模な叛乱から当時90年になる
以後長らく、断続的に叛乱を起こしては鎮圧されていたが、
朝廷の支配力は衰退の一方だった。
辺章・韓遂・馬騰らが加わった軍閥連合は、そういう独立の念願が成就したものだという面がある。
帰順先の漢氏(この場合は許都政権曹操)が自分達の意に沿わないのであれば、戦う。
馬超の乱も結局その気風に押されたものだったのだろう。 あ、独立と言っても現代風に「漢族に支配されない羌族の国を立てる」みたいなものではないけれど。 凉州、司隷の羌族、テイ族にとっては馬超は町の名士で会社の社長、更に広域暴力団の
組長でもあるから、テレビやインターネットどころか新聞すらなかった時代にわけの
わからん漢の丞相とやらよりは馬超についていくのが当たり前の行動だっただろう。 姜維は涼州で最高の人物らしいが(諸葛亮評)、
馬超よりも凄いの? 馬超って中二病だよな
世が世なら盗んだバイクで走り出してると思う 董卓も馬超も姜維も
魏朝時代の雍州にあたる地域の出身
董卓は隴西郡
馬超は扶風郡
姜維は天水郡
後漢時代は隴西郡と天水郡は涼州刺史部で扶風郡は司隷校尉部であったが
いずれの地区も後漢に帰順した羌族が多数移住した地区
そして董卓も馬超も姜維も配下部曲に多くの羌兵を編入ないしは合同した
しかし三者の目的としたところはそれぞれ違う
董卓は自らを再三任免し愚弄した後漢朝廷に対する復讐
馬超は自らの親族を犠牲にしてまでの自らの軍閥勢力拡大
姜維はジリ貧の蜀の情勢を打開するため
魏が司馬一族とそれに反抗する勢力の政争している間に西域との交易路にあたる涼州を勢力圏下に置こうとした
これは諸葛亮の南蛮征服よりはるかに意味のあるものだ
(三国志時代の東南アジアは皆港市国家ばかりで陸路では労多くて利が少ないし
後世に大理国のできる雲南はまだこの当時は未発達)
姜維の北伐は諸葛亮の曖昧な提携でなく羌族の胡王白虎文や治無戴らと緊密に連携をとっていたのも特長 高島俊男の「三国志 きらめく群像」という本では、若い台湾人に『どこの人』と聞くと
大陸の一族発祥の地を答える。
つまり史書に記されている『〜の人』というのはその人間の日本でいう本籍地ではなく
その祖先の出身地なのだということが書いてあるぞ。
馬超の爺さんは警察署長をクビになった後、現地に留まったとあるが、馬超と祖先の馬援
の「出身地」は同じだ。 >>355
趙奢も一緒だ。まぁ本当のとこはどうだかわからんが。 馬超、韓遂の本拠地なのにシルクロードの資料には彼らのことが書かれていない。
更には三国時代のことすら書かれていないが、考えてみれば涼州は北宮伯玉の前から
馬超まで地元の人間が暴れまくってたんだから交易どころじゃないよな。
地元の賈クまで殺されかけたぐらいなんだから。 演義→悲運の猛将・家族思いの忠義の士
正史→礼儀知らず・恥知らず・命知らず 礼儀知らず→劉備を字で呼ぶ(まあこれは異論あるけど
恥知らず→惨めに落ち延びながら劉備に帰順 異論というか、注で否定されてるように信憑性がないように思う。
ましてや馬超は「流浪の末帰順したので自身に危惧の念を持っていた」とあるし、
謀反勧誘の問題を密告したりしてる。
むしろ劉備軍に降ってからは、疑われないように必死になってたんじゃないかと。
>恥知らず
自分に付き従ってる兵達がいるのに恥ずかしいだのの理由でふらふらしてたら、
そっちの方が愚かだろう。
蜀で後継を作れた事に陳寿は評価しているしね。 あれだけ徹底的に叩き潰されて、一族皆殺し、しかも全部自分のせい
普通だったら生きてるのが恥ずかしいレベルだろ その恥を忍んで劉備に頭下げる必要があるってことだね
馬超一人で行動してるわけじゃないからねえ 家族を殺されて自殺というのは相当無理があるだろ。
普通は復讐を誓うんじゃないか?
北条相模次郎時行みたいに。 >普通だったら生きてるのが恥ずかしいレベルだろ
え〜
武将ならそんな事恥ずかしがってたらやってけないだろう。
肉親は人質に出すわ子供は殺すわ親は殺されるわキドウとか言って嘘は付きまくるわ
だまし討ち、夜討ち朝駆け毒殺何でもアリ。勝たないと食えないし。生活守れないし。それが
仕事じゃんよ。表に出てないだけでみんな一緒。
自軍の兵が食えなくてどんどん痩せて飢えて病気で死んでいく様な時に、恥ずかしいから
生きていけないとか、使えなさすぎだろう。それは無いわ〜
漢中で妾(董氏だっけ?)の弟が訪ねてきたときに泣きながら胸を叩いて
「一門皆殺しにされてしまったのにどうして正月など祝えようか!」
と言っているから自分の行いを恥じる気持ちはあったのだろう。
しかし彼の目的はあくまで復讐だっただろう。 自分が反乱起こしたら一族皆殺しになる事くらい分かってただろ
入朝してるんだし
それを承知で反乱起こしたのに復讐とかなんかズレてるわ 復讐というよりもう少し複雑そうな気がする
まあ、あんまり馬超の内面伺える記述ないけど でも馬超って史実で数少ない一騎打ちの経験者だよね。若いころ(おそらく17〜21)に韓スイの部下のエンコウと戦って殺されそうになってるよね。負けたけど一騎打ちするぐらいだから武芸はすぐれていはいるよね? 武芸というものがこの時代に体系化されていたかは疑問だが、「交馬語」の際に
曹操を誘拐しようとしたぐらいの大力の持ち主で、足に怪我をしても袋に入れて
戦い続けたエピソードの持ち主だから
「(個人的な)武勇に優れていた」
と評価されてもいいだろう。 諸葛亮に文武両道の将と言われたり、関羽が気にしたり。 「文武を兼ね備え」ってのはどうなんだろうな。
家柄はよくても成り上がりでもあるからそれほどいい教育を受けて育った
わけでもないと思う。
正史における評価
楊阜→韓信、彭越
孔明→英(黥)布、彭越 この時代、シルクロードを通じての交易は韓遂あたりが独り占めしてたのかな?
馬騰も噛んでいたのか? この一族の「馬」の名字ってやっぱ地域とか羌族が関係してんだよな? 馬超は先祖の趙奢(馬服君)にちなんで馬氏なので地域も羌族も無関係 馬超の部曲の主力であった羌族の武器、武具は漢族のそれと比較して
どこに違いがあるの? 北方民族は騎馬戦術に長けていて、長槍が得物
ぐらいしか知らん・・・
というか馬超の軍の主力って羌族? 石井仁氏の研究によると、長矛という陣は中央に主力の重騎兵、両サイドに援護用の弓兵と軽騎兵みたいな陣立てだったらしいが ここや一部のサイトみるとボロクソだな。
洛陽の人口増加策兼関中弱化策や度々の人質要求、韓遂捕縛命令なんかの曹操からの圧力が馬超の挙兵の原因でしょ。
実際にそういう政策が危険だと、荀ケを通して諌言する衛覬がいた。
親兄弟を見殺しにした挙兵ではあるかもしれないが、
曹操が関中に進撃すればすぐに人質として扱われる存在、
これは曹操からの侵略であっても馬超からの挙兵でも一緒、
馬超が帰順しなければ親兄弟は処罰を受けるし、帰順すれば勢力を失うという選択。
これで挙兵したから好漢ではないとか簡単な話じゃないと思う。
離間の計にかかったのは組んだ相手(韓遂)との因縁も悪すぎたのもあるが致命的だし、
その後の王異が馬超の妻の楊氏に取り入り、気を許させての謀略での敗戦も含めると計略に弱いのは否めない。
しかし曹操軍に多大な被害を与え、曹操の勢力拡大を一時的に頓挫させたことは確かで、
乱を危惧し強行路線を批判していた衛覬は潼関の戦いの後その評価を上げた。
これらからして馬超の力が曹操の想像を超えた部分もあったのは確かでしょう。
実際に曹操は一度は命まで失いかけているしね。
前のレスにでてるが山陽公載記の劉備を呼び捨てにしたという記述を信じるのならば、
同じく山陽公載記にある韓遂が反対して実現しなかった、曹操に自分の墓はないとまでいわせた馬超の策もあったということになり評価のあがる部分もある。
その名声と影響力は、確かに無視出来ないものがあった
ただ、馬超の全ては西方に帰結していて、それ以上に広がらない器だった気もする 半ば頭のおかしい殺人鬼だろ、こいつは
涼州のゲリラストーカー ハンターハンターの流星街みたいなモンかも知れんよ?
干渉するな、奪うな…と 戦に巻けたら逃げて、新たに統治体制作った頃に戻って来て殺戮を行った末、
裏切られて遁走し、また戦を仕掛けては逃げ帰るというカッコ悪さ
劉備軍に加わって成都を震え上がらせたらしいが、殺人犯が引っ越して来たら
誰でも怖がるに決まってる
漢中平定からは特に目立つ事も無く、いつの間にか逝去
落ち延びて子供残した事を、史家に誉められたガッカリ虐殺魔 >>402
全部一人でやったならスゴイが、助けてくれる人いっぱいいただろ
切り捨てて行ったけど 助けた連中も思惑や狙いが有って付き従っていたんだがな 新たに統治体制を作った頃といっても親曹操派が篭るキ城以外は再び馬超についてほぼ全てがひっくりかえっちゃってるわけで
全然統治しきれてないがな。
ドウ関で最強戦力ともいえる布陣でズタボロにした相手を討伐するどころか、その勢いで逆に撃破されて撤退してるし、
韓遂も途中で寿命でおっちんだが数万の兵力を率いて再度攻勢にでてるし、統治体制もクソもできてないだろ。
力で抑えつけに入っただけ >>405
後からノコノコ出てきたせいで余計に荒れたんだろ。そりゃ大多数の涼州人からしたら侵略者・新参の曹操より馬超を支持するに決まってる
曹操を追い出して善政をしいた、とでもいうならともかく、実際にゃそんなこと全然なかった
無駄に騒がして結局は駆逐されただけ。目先の勝敗のみで時勢が見えてない キ城に篭る親曹操派の頼みは討伐軍だったわけで曹操勢力が入ってなければ少なくとも内紛はなかった。
その後の善政はわずかな期間で謀略により本拠を失って流浪してるから分からんが、
勢力を引き継いでからの統治能力というのならそれほど悪くない。
ドウ関大敗後、父を誅殺されれも尚韓遂以上の速さで立ち直る求心力や、
危機に陥っても必ず潜伏先で守られるのだから、
人望の無い人間なら最前線で単独で戦い続けることは出来んよ。 単独というのは言い過ぎたかな、一応張魯の支援もあったわけだから。
苛酷な状況で命を失わず戦い続けたのはそれなりにすごいこと。
豪傑張飛でも遠征準備中、前線から遠く離れ交戦前の安泰の中で
部下の心を失って殺されて呉への土産にされたのだからね。 >>408
人望だけはあったので、何か勘違いしたみたいだな
そりゃ、曹操の勢力が入らなければ涼州軍閥の天下だろうけどw
内通者を殺し、逆に生かした連中に裏切られた点は、先見性や判断力が
低い事を物語っていると思う
善政を敷いたかも疑問だし、馬超に確固たる統治戦略なんてないだろ
張魯頼みで侵攻して、その後の統治をどうするつもりだったんだ
反曹と涼州の情弱による人望に寄り掛かって、殺しの味を覚えただけ 悪政を敷いていたならば韓遂以上の求心力は得られないと思うが・・。
敗戦し連合は瓦解し父も誅殺された状況で再度涼州で台頭できたのは馬超自身の力があってこそだろう。
韓遂も遅れて立ち直りはしたが馬超のように涼州をひっくりかえしたわけではないしな。
先見性においては疑いはしていたのでその事柄で否定されるものではないな。
曹操に靡かなかったという点では見る人によればあるのかもしれないが、
靡かない馬超が韓遂を説得し結成した10万の連合といえば赤壁の孫 劉連合より大きな規模であるから、
相手がさらに大軍といえど勝算が無いわけでもなく、
靡いていれば果たしてそれだけの事が出来たのかといえばまた疑問。
妻を信じ謀略にかけられたのは判断力によるものだろう。
生かした楊阜は馬超の力を認めており、馬超もまた疑いつつも戦力として楊阜 趙昂らを欲した。
その後の楊阜 趙昂を見るに人物眼は確かだわな。 趙昂らがいた訳だし、馬超が来たから政治が大きく変わったとは考え難い
特に馬超支配の善悪が記されていない辺り、今までの統治路線のままだったか、
大きな変化を見せる前に敗走したか
馬超の再起は、涼州にある反曹の受け皿としての役割が大きいと思う
この時点で、人物は馬超と韓遂くらいだったから支持が集まるのも当然だろう
楊阜と趙昂については、逆に彼らに代わる人材が馬超側にいたのかが疑問
そもそも、彼らが統治に派遣されている時点で能力的な裏付けはある
馬超の人物眼を問うなら、結局裏切られた事を問うべき
ドウ関の馬超については、曹操に対した事が愚かだとは思わない
先見性以前に、涼州軍閥の存亡にも関わっていたので必然性のある蜂起 長安は馬超が乱を起こす10年以上前から曹操の支配下で鍾ヨウが軍事 内政でかなりの権限を与えられて統治してる。
官渡の戦いですら長安から支援物資をおくってるから馬超の乱の時には相当の軍事拠点になってたはずである。
裏づけとして馬騰と韓遂の戦をとめるほどの影響力を持ち、ヘイ州軍とも鍾ヨウ自ら戦い、(後に馬超が救援)
洛陽に関中の住民を移住させるというような強引な政策から完全に力で支配してるといえると思う。
武帝紀本文によると乱の直前張魯討伐に夏侯淵らを合流させたとあるが、
張魯は健在だから討伐はできてないわけで実際に人質要求などから行動を起こす直前の段階であったといえるよね。
それが乱自体で馬超は長安より東の潼関で布陣して戦ってたわけで、
その長安をどういう経緯か突破してるんだが、長安と鍾ヨウ 夏侯淵らがどうなったのか誰かしらんか?
戦って逃げたのか単に逃げたのか、いずれにしろ陥落してるわけだが、触れられてなさすぎな気がする
曹操軍に5桁の被害が出たらしいが、その割には馬超の万余の歩騎での特攻くらいしか記述されていないしさ。
賊だから記録が無いということか? >>412
官渡戦で送った馬は、西涼に近い地の利から急いで掻き集めたと思われる。
強引な政策が通ったのは、中原勢力が背後にあったからだろう。
馬超達が特筆すべき戦も無く抜けた事も、長安が軍事拠点では無い可能性を示唆している。
張魯討伐で夏侯淵らを合流させた事で、関中軍閥がビビって乱を起こした。
本気で張魯を討伐する気は無く、馬超達の力を削ぐ目的があったらしい。
夏侯淵は楊秋を降伏させるなどして、曹操本軍に合流。
鍾ヨウも人質要求をしたりしていたので、長安に留まっていたとは考え難い。
曹操軍に5桁の被害が出たのは、馬超の乱によって。 鍾ヨウとしては、涼州軍の軍事力を早めに抑えておきたかったらしいな
長安にいたから、そりゃ怖かっただろうけど
張魯討伐の名目で馬超に人質要求したり、少し性急過ぎて乱を招いた感は強い 馬超や韓遂に対してならすでに人質取ってるのにさらに人質を要求して
どうするつもりだったんだろう? 馬騰らを人質にしても軍閥は健在だし、主要人物を少しずつ除いて弱体化させる
予定だったんじゃないかね
何か要求する訳じゃなく、人質にする事自体が狙いという感じ 最近になって馬超かっこいいと知ってこのスレに辿り着いたらもう2年近くスレがぴくりともしてなくて悲しくなった
今から過去ログ漁ってくるわ… 司隷〜涼州あたりの刺史・別駕・太守は、魏書に列伝のある人物が多い
それだけ難しい地域だったんだろう PHP文庫のやつか?
最初の方は独自展開あるけど馬超の生涯が簡潔にまとめられてて面白いで 馬騰は馬超が曹操に敵対する立場にあったこともいずれ挙兵することも分かっていたはずだろうに、
なぜ曹操の招きにホイホイ乗ったんだろう。実際の入朝は何度か渋ってたようだが。
もっと馬一族が一丸となってれば燃える展開だったのになあと残念に思う。
馬超の行動は分かるが、馬騰の行動が分からない。 ゲームと横山三国志知識しかないけど、馬超いいなあと思ったからもっと詳しく知りたいし色々読みたい
PHP文庫のやつは買うけど他にも面白い本ないかな ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と生活保護
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ttp://harunaema.com/wp-content/uploads/2017/09/zhangxiaochen3.jpg これも
ttps://i1.kknews.cc/SIG=1dgpvge/47p000251943689n5p8.jpg 演義の馬超はなんで5年も寿命延ばされたんだ?
延びた間にやったことって劉備没後の魏の侵攻軍の一つ(鮮卑)を防いだことと、
諸葛亮の南征の間漢中を守備したことぐらいなのに。
それらの代わりになりえる人物がいなかったから? >>439
そんなもんわかる奴いるわけねーだろノータリン >>439
蜀に下ってから史実の馬超の活躍が少なすぎるから
演義ではちょっとだけ寿命延ばして活躍増やしただけじゃね? 龐徳との関係は?
豪族同士の利害関係なのか、子飼いの部下なのか 日本の南北朝時代は三国志のキャラとかぶる。誰かこれを元にシナリオを作ってほしい
足利尊氏→劉備 将の器あり。戦上手の劉備
足利直義→孔明 几帳面な孔明、直義派が存在するのでカリスマ性はある
高師直→?統 天才軍師ながら女や欲に溺れる面あり
高師泰→?徳
佐々木道誉→関羽 風流を愛するバサラ関羽
土岐頼遠→張飛 大酒飲みの猛将
赤松則祐→趙雲 品行方正な優等生
吉良貞義→黄忠 元寇と南北朝を経験した老将
後醍醐→曹操 軍事的才覚は曹操に劣るが教養人としては互角。カリスマ性もあり
護良親王→曹彰 父に疎まれる野蛮な面あり。
新田義貞→袁紹
楠木正成→孫堅 一方の勢力。
楠木正行→孫策
楠木正儀→孫権
北畠親房→馬騰 策士家の馬騰
北畠顕家→馬超 義に厚い馬超。東北の騎馬と涼州の騎馬 一昨日くらいにここを見つけた
去年の9月くらいから姜維の小説を書いてみようと思ってたら
馬超の小説のアイデアが湧いて来て馬超の小説から書いてみようと思った
問題は史実に沿った物にするかif物にするか、ラストをどうするか?
いくつか構想はあるけど迷ってる
まずは登場人物の肉付けから始めよう
こんな時間にチラ裏失礼 >>446
ネットでエゴサしまくってんのに未だにどこにも馬超の小説ないぞ
さすがに1年以上経って仕上がってるだろ、はよ上げろや自分だけで楽しむな