錦馬超を語るスレ 8代目
それが豪傑(英雄とまではいかないだろう)の素質だよ。 馬超に野心はなかったんじゃないかな。あったら、曹操の領土にもっと積極的に攻め込んできただろうし。孫策みたいに許都襲撃計画も練ってないしな。
馬超の反乱はあくまで涼州を侵略から守る為のものでしょう。
話はずれるけど、馬超と周瑜の同盟の話はどこまで進んでいたんだろうね。使者のやり取りはあったんだろうか。 思えば、呉が馬超と同盟して曹操に敵対するんだから
天下二分じゃなくて天下三分だよなー? 馬超が騎兵戦のプロだったけど、どのくらい強かったの?
曹操の精鋭騎馬隊‘虎豹騎’を破ったから相当強かったんだろうけど。
呂布や華雄より強い? ○○より強い とかなかなか難しいんだけど。状況に
ょって違ってくんじゃんよ。
呉と涼州で同盟決定してたらまた楽しかったろうなぁ…
公謹死ぬの早すぎ 正史、演義以外で好きな馬超ってみんなはどれ?
自分は北方の孤独癖っぽい馬超がスゲー好きだ >>306
ああ、三国志大戦から入門した王異萌え連中を絶望の淵に叩き込んだあれね 三国志大戦ってやったことないんだけど、馬超の話とかがあんの? 連載してる趙雲漫画で益州攻略やってたけど
馬超は登場しなかった 演義を読んで驚いた
王方を討って李蒙を生け捕る場面格好良いじゃん
なんで吉川さんこれをカットしたの? 馬騰、馬休、馬鉄らは姜叙や楊阜のような親曹操派の豪族だったのかもね。
混乱を極める涼州という土地は治安も乱れきっていただろうから、中央へ
の帰属を望む声も多かっただろう。 正史の時系列だと明らかに親父や兄弟が殺される→馬超が暴れる
ではなく
馬超が暴れる→親父や兄弟が殺されるだよな 演義って父親殺されて復讐のために、
結局個人の事情で挙兵したように思える
別に脚色せんでもよかったんじゃないだろうか 悪の曹操を倒すのは「義」であり、親の仇を討つのは「孝」だ。
個人の事情であろうが劉備陣営に加わる猛将の活躍を描くには脚色は必須だった。 >>305
お前が援軍を送ってくれば同盟は成立する。とか元気な頃の馬超も
簡擁にだけ心を開いてる馬超も良い。 正史の馬超は親不孝とかいうが
「俺が曹操を斬れば親父と弟たちは取り戻せる!」
とか思って挙兵したんじゃないのかな。
都での親父と弟たちの扱いには関係なく。
つまりは「曹操も俺なら殺れる」と信じて疑わなかったんじゃないのかな
と思うわけだけどやっぱり甘いかね? >>320
馬一族が粛清されたのはシ童関の戦いの後だが、馬一族が許昌にいる以上、曹操の
一存でどうにでもなる。
曹操が敗死したとしても馬超が許昌を抑える前に曹操の部下が馬騰たちを殺すかも
しれないし、馬超は一族を見捨てたとしか考えられない。 >>320
私は親を捨てるので…、と言ってるんだし
家族がしぬことは覚悟の上で蜂起したんだろう 馬超は家族を失い過ぎでその事実だけでも胸が痛くなる 馬超が家族を捨てたんじゃない
韓遂が家族を捨てさせるように馬超をハメたんだ 馬休か馬鉄のうちどっちか一人は残ってもよかったと思うんだけどな。
馬騰はそれだけよく一族をまとめていたということか? 馬超が死ぬ際、一族は馬岱だけになったとか言うけど
趙雲に嫁いだ妹だか従兄妹ってのはどうなったわけ? どうなった、って
そんな話が史実や伝承に有るのか? 跡継ぎの馬承、
劉備の息子の劉理に嫁いだ娘がいた事が正史に載っている
馬雲緑という妹は、反三国志という小説のオリジナルキャラクター 仮に妹だかなんだかが趙雲の嫁で血を残したとしても
その子孫は「馬一族」じゃなくて「趙一族」だからねぇ
社稷を継ぐために重要なのはあくまで男系一族 自分が若い頃は好きだった人物だ。
でも行動が無軌道で結局最後は蜀漢に利用されたよね。 負け戦の連続で死に物狂いで逃げてるんだから、軌道に乗りにくいだろう 自分の地位をよく把握しておらず、それが天下争奪戦に巻き込まれてしまった。 若い頃から勇名をうたわれ、曹操から徐州刺史に任命されたり、
周瑜と何かしら連絡を取り合ってたり、それこそ馬超は天下狙える地位にいただろう。
馬騰が入朝した時も、偏将軍・都亭侯に任命されて軍勢をそのまま引き継ぎ、雍・涼州の2代勢力のひとつのトップになっている。
というか献帝まで天下争奪戦には巻き込まれてるんだから、
地位が高かろうが低かろうが巻き込まれる。
岡田外務大臣キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!
http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/saku2ch/1256630318/1
早く記念カキコしないと埋まっちゃうwww
関中十部と呼ばれる馬超、韓遂、侯選、程銀、李堪、張横、梁興、成宜、馬玩、楊秋が
それぞれどのぐらいの勢力を持っていたのかいまいちわからない 馬超が長生きしてたら、孔明との関係はどうだったんだろうか…。 確認できるのは211年の関中攻防戦で馬超が一万、梁興が五千を率いていたということだな。 誇張はあると思うが潼水に集結した関中十部の兵は10万というが・・・・・ 勢力範囲は斑模様で曹操派を堅持した太守や将も多かっただろうけど、
ビに駐屯していた馬超が長安を越えて潼関まで進出し、
涼州から韓遂、河東人の程銀、侯選、李堪らが集結したわけだから
涼・司隷の二州に跨る大叛乱ということになる(当時は雍州が無いからかなり広い)
建安期最大の叛乱だろうね ついでに、程銀、侯選、李堪は興平年間の乱で千余家を従えていたという。
例えば馬超が曹操を攻撃したときの軍勢は一万だが、それ以外に馬超の手足になるとは
言い難い風見鶏の豪族がいて、馬超派約二万ということはありえるだろう。
その方式で十人+その風見鶏で十万ぐらいは全然ありえる。
唐までは中国も昔の日本みたいな一種の貴族(豪族)社会だったわけだから。
日本の南北朝の争乱を思い浮かべてみたらわかりやすいかと。 馬超の部曲(私兵)の大部分は羌族
馬超自身は漢族と羌族のクォーターで羌族の言語、風俗に精通していたのはわかるが
はて、羌族にとって漢族同士の内戦、私闘に過ぎない戦いに過ぎないものに
命をかけるほどのメリットがあるのかという疑問がわく 羌族が漢王朝に対して起こした大規模な叛乱から当時90年になる
以後長らく、断続的に叛乱を起こしては鎮圧されていたが、
朝廷の支配力は衰退の一方だった。
辺章・韓遂・馬騰らが加わった軍閥連合は、そういう独立の念願が成就したものだという面がある。
帰順先の漢氏(この場合は許都政権曹操)が自分達の意に沿わないのであれば、戦う。
馬超の乱も結局その気風に押されたものだったのだろう。 あ、独立と言っても現代風に「漢族に支配されない羌族の国を立てる」みたいなものではないけれど。 凉州、司隷の羌族、テイ族にとっては馬超は町の名士で会社の社長、更に広域暴力団の
組長でもあるから、テレビやインターネットどころか新聞すらなかった時代にわけの
わからん漢の丞相とやらよりは馬超についていくのが当たり前の行動だっただろう。 姜維は涼州で最高の人物らしいが(諸葛亮評)、
馬超よりも凄いの? 馬超って中二病だよな
世が世なら盗んだバイクで走り出してると思う 董卓も馬超も姜維も
魏朝時代の雍州にあたる地域の出身
董卓は隴西郡
馬超は扶風郡
姜維は天水郡
後漢時代は隴西郡と天水郡は涼州刺史部で扶風郡は司隷校尉部であったが
いずれの地区も後漢に帰順した羌族が多数移住した地区
そして董卓も馬超も姜維も配下部曲に多くの羌兵を編入ないしは合同した
しかし三者の目的としたところはそれぞれ違う
董卓は自らを再三任免し愚弄した後漢朝廷に対する復讐
馬超は自らの親族を犠牲にしてまでの自らの軍閥勢力拡大
姜維はジリ貧の蜀の情勢を打開するため
魏が司馬一族とそれに反抗する勢力の政争している間に西域との交易路にあたる涼州を勢力圏下に置こうとした
これは諸葛亮の南蛮征服よりはるかに意味のあるものだ
(三国志時代の東南アジアは皆港市国家ばかりで陸路では労多くて利が少ないし
後世に大理国のできる雲南はまだこの当時は未発達)
姜維の北伐は諸葛亮の曖昧な提携でなく羌族の胡王白虎文や治無戴らと緊密に連携をとっていたのも特長 高島俊男の「三国志 きらめく群像」という本では、若い台湾人に『どこの人』と聞くと
大陸の一族発祥の地を答える。
つまり史書に記されている『〜の人』というのはその人間の日本でいう本籍地ではなく
その祖先の出身地なのだということが書いてあるぞ。
馬超の爺さんは警察署長をクビになった後、現地に留まったとあるが、馬超と祖先の馬援
の「出身地」は同じだ。 >>355
趙奢も一緒だ。まぁ本当のとこはどうだかわからんが。 馬超、韓遂の本拠地なのにシルクロードの資料には彼らのことが書かれていない。
更には三国時代のことすら書かれていないが、考えてみれば涼州は北宮伯玉の前から
馬超まで地元の人間が暴れまくってたんだから交易どころじゃないよな。
地元の賈クまで殺されかけたぐらいなんだから。 演義→悲運の猛将・家族思いの忠義の士
正史→礼儀知らず・恥知らず・命知らず 礼儀知らず→劉備を字で呼ぶ(まあこれは異論あるけど
恥知らず→惨めに落ち延びながら劉備に帰順 異論というか、注で否定されてるように信憑性がないように思う。
ましてや馬超は「流浪の末帰順したので自身に危惧の念を持っていた」とあるし、
謀反勧誘の問題を密告したりしてる。
むしろ劉備軍に降ってからは、疑われないように必死になってたんじゃないかと。
>恥知らず
自分に付き従ってる兵達がいるのに恥ずかしいだのの理由でふらふらしてたら、
そっちの方が愚かだろう。
蜀で後継を作れた事に陳寿は評価しているしね。 あれだけ徹底的に叩き潰されて、一族皆殺し、しかも全部自分のせい
普通だったら生きてるのが恥ずかしいレベルだろ その恥を忍んで劉備に頭下げる必要があるってことだね
馬超一人で行動してるわけじゃないからねえ 家族を殺されて自殺というのは相当無理があるだろ。
普通は復讐を誓うんじゃないか?
北条相模次郎時行みたいに。 >普通だったら生きてるのが恥ずかしいレベルだろ
え〜
武将ならそんな事恥ずかしがってたらやってけないだろう。
肉親は人質に出すわ子供は殺すわ親は殺されるわキドウとか言って嘘は付きまくるわ
だまし討ち、夜討ち朝駆け毒殺何でもアリ。勝たないと食えないし。生活守れないし。それが
仕事じゃんよ。表に出てないだけでみんな一緒。
自軍の兵が食えなくてどんどん痩せて飢えて病気で死んでいく様な時に、恥ずかしいから
生きていけないとか、使えなさすぎだろう。それは無いわ〜
漢中で妾(董氏だっけ?)の弟が訪ねてきたときに泣きながら胸を叩いて
「一門皆殺しにされてしまったのにどうして正月など祝えようか!」
と言っているから自分の行いを恥じる気持ちはあったのだろう。
しかし彼の目的はあくまで復讐だっただろう。 自分が反乱起こしたら一族皆殺しになる事くらい分かってただろ
入朝してるんだし
それを承知で反乱起こしたのに復讐とかなんかズレてるわ 復讐というよりもう少し複雑そうな気がする
まあ、あんまり馬超の内面伺える記述ないけど でも馬超って史実で数少ない一騎打ちの経験者だよね。若いころ(おそらく17〜21)に韓スイの部下のエンコウと戦って殺されそうになってるよね。負けたけど一騎打ちするぐらいだから武芸はすぐれていはいるよね? 武芸というものがこの時代に体系化されていたかは疑問だが、「交馬語」の際に
曹操を誘拐しようとしたぐらいの大力の持ち主で、足に怪我をしても袋に入れて
戦い続けたエピソードの持ち主だから
「(個人的な)武勇に優れていた」
と評価されてもいいだろう。 諸葛亮に文武両道の将と言われたり、関羽が気にしたり。 「文武を兼ね備え」ってのはどうなんだろうな。
家柄はよくても成り上がりでもあるからそれほどいい教育を受けて育った
わけでもないと思う。
正史における評価
楊阜→韓信、彭越
孔明→英(黥)布、彭越 この時代、シルクロードを通じての交易は韓遂あたりが独り占めしてたのかな?
馬騰も噛んでいたのか? この一族の「馬」の名字ってやっぱ地域とか羌族が関係してんだよな? 馬超は先祖の趙奢(馬服君)にちなんで馬氏なので地域も羌族も無関係 馬超の部曲の主力であった羌族の武器、武具は漢族のそれと比較して
どこに違いがあるの? 北方民族は騎馬戦術に長けていて、長槍が得物
ぐらいしか知らん・・・
というか馬超の軍の主力って羌族? 石井仁氏の研究によると、長矛という陣は中央に主力の重騎兵、両サイドに援護用の弓兵と軽騎兵みたいな陣立てだったらしいが ここや一部のサイトみるとボロクソだな。
洛陽の人口増加策兼関中弱化策や度々の人質要求、韓遂捕縛命令なんかの曹操からの圧力が馬超の挙兵の原因でしょ。
実際にそういう政策が危険だと、荀ケを通して諌言する衛覬がいた。
親兄弟を見殺しにした挙兵ではあるかもしれないが、
曹操が関中に進撃すればすぐに人質として扱われる存在、
これは曹操からの侵略であっても馬超からの挙兵でも一緒、
馬超が帰順しなければ親兄弟は処罰を受けるし、帰順すれば勢力を失うという選択。
これで挙兵したから好漢ではないとか簡単な話じゃないと思う。
離間の計にかかったのは組んだ相手(韓遂)との因縁も悪すぎたのもあるが致命的だし、
その後の王異が馬超の妻の楊氏に取り入り、気を許させての謀略での敗戦も含めると計略に弱いのは否めない。
しかし曹操軍に多大な被害を与え、曹操の勢力拡大を一時的に頓挫させたことは確かで、
乱を危惧し強行路線を批判していた衛覬は潼関の戦いの後その評価を上げた。
これらからして馬超の力が曹操の想像を超えた部分もあったのは確かでしょう。
実際に曹操は一度は命まで失いかけているしね。
前のレスにでてるが山陽公載記の劉備を呼び捨てにしたという記述を信じるのならば、
同じく山陽公載記にある韓遂が反対して実現しなかった、曹操に自分の墓はないとまでいわせた馬超の策もあったということになり評価のあがる部分もある。