【ピンでもなければ】 孫武 【シショうでもない】
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中国の英雄のみならず西洋の英雄にも愛され
現在でも実用的だとされる最強の兵法書の著者であり多大の功績を残したとされながら
いまいち実態の見えてこない孫武についてあれこれ妄想しましょう たぶん「戦わずして勝つ」って考えは、最初は自分より優秀だとされるライバルへのひがみからでたと思う ペンタゴンが孫子を研究してるってホント?
そんなふうに見えないんだけど 孫子兵法は心理的なものが主なので
物量で押しまくる米軍には不似合いだと思うが。 研究がどうであろうとシビリアンコントロールが悪いほうに効いていればしかたないかと 心理的というか精神論に近いとおもうんだけど。
実用的というけれど、覚えておけば役に立つかもしれないけど、
これに頼って何かを為せるかといえばなにも為せないとおもうんだよね。 孫子の兵法だけじゃ、どうにもならないね。
そこに書かれていることを、よく噛みしめて、
実際の戦いでいかに使うかは、自分で考えないといけない。
兵法書は、主として現場における戦略の立て方を説いたもの。実力を出し切る方法や実力以上の成果を出す方法を説いている。
正味の実力の向上は、日頃の努力にかかっているんだよ。これは、孫武先生もおっしゃっている。
だから、兵法書を読んだからといって、直ちに何かが変わるわけじゃない。 算数やらないと組み立てる考え方が出来ないみたいに
発想の仕方みたいのを教えてんだと思うけど あの時代の奴がこんな思考法できた上書にできるなんて天才 アメリカとソ連の冷戦では“戦わずして勝った”のかな(ソ連崩壊だから) でもソ連崩壊は核拡散防止という戦略上のコアな部分をいっそうハードにした気が ナポレオンに負けたどっかの王様が孫子を読んで
「この本に出会うのが遅かった!」
と後悔するエピソードがあったような気が 戦争論は戦争は理由もなく(正確には無いように見える)泥沼化するってことを理解させてくれる そりはどっかの島に流されたナポ自身がいった言葉じゃなかったっけ?>「この本に出会うのが遅かった!」 その発言はWWTで負けてオランダに亡命した後のヴィルヘルム2世の言葉>「この本に出会うのが遅かった!」
ナポレオンは多分、読書三昧だった士官学校時代に仏訳された孫子を読んだと思われ。 孫子の方が格は上だろ。
二千五百年前に既に論理を体系化させ、
超ロングヒットを飛ばしている兵法は他にないからね。
簡潔で読み易く、理解しやすい。
戦争論は長々とした文章で読み難く解り難い。
戦争書としてはつい最近になって書かれたものだし、
孫子とは比較にならない。 >>22
それでいて彼本人はガチガチの黄禍論者で人種差別主義者というオチがつくw
(そりゃわざわざ読まん罠) 西洋に、東洋の孫子に対応するような、
古代に兵法書を記した人となると、誰になるだろうか? とりあえず今伝わってるのは曹操の注訳付けた奴なんだっけ。
なんか曹操が居なかったら孫子の兵法書は現代まで残らなかった、ってどこかで聞いた。 >>32
出てますよ。呉王コウリョの前で、姫を修練してます。
命令を聞かない姫の首を切り落とし、軍令の厳しさを実演してます。 >>31
2種類あるんじゃないですか。
曹操が注訳した物と、前漢の墓から発見された物。
ペルシャのあたりも南アジアの範疇に入れられるのかな 孫子なんてノストラダムスの予言書とおんなじだよ。
内容が抽象的だからどうとでも解釈できる。実際におきた事例を当てはめてみて、「おお、すげー」ってな。
背水の陣の話みたく内容もしばしば相矛盾するから、結局は使う人の能力次第。
春秋時代のような古臭い「礼」やら迷信やらが蔓延っていた時代には画期的な書物だったんだろうけど、
それ以降の時代は過去の名声で生き延びてきただけの書物。
名声だけは残っているから、いまだに読む人が居る。
で、孫子の都合のいい部分を持ち出して勝者を賞賛し、敗者を断罪する。
あたかもおそだしじゃんけんの如く。
今はいい時代だね。生兵法を振りかざしても趙括のように命まで失わずに済むんだから。 その時孫武は下野してなかった?まだ兵法書書いてる途中だったんじゃないかな 想像だけど伍員も孫武と同じくらいの兵法理解だと思う。
何かを固く信じてると人間なかなかその呪縛からは逃れられないからね。
きっと結果は変わらなかったと思うよ。 孫武が理論家だという結論なら、一つ間違えば趙括になってたのかもね。 いえ臨機応変を知り応用がてきて、それで初めて兵法家と呼べるのです。 wikipediaの「孫武」の項なんだけどさ、
>『呂氏春秋』によると、孫武には孫適(敵)・孫馳・孫明という三人の息子がいたという。
とかあるけど本当?
その後の
>『史記』以前の古籍にその名が全く見られないこと、
と矛盾してるんだけど。
>また、劉備に仕えた孫乾も孫武の末裔とされる。
これも初耳。 >>46
事実だと思うよ。
昔、書籍(本屋)見たことある。
題名は忘れたけど・・・ >>47の続き
以前にも他スレで述べたことあるけど・・・
孫乾は旧斉国の北海郡出身で、あの鄭玄の門下生。
孔融と交流もあり、陶謙とも繋がりもあった。
劉備に仕官する以前は孝廉(茂才)に推挙される身分だったと思うよ。
・・・だから、孫乾は孫武の末裔でもおかしくない。
少なくとも江南の商人の倅の孫堅よりも信憑性はあると思う。 >>48
おかしくないかもしれんが、根拠とは全く呼べんよね。
Wikipediaに書いちゃいかんと思う。 http://www.sinica.edu.tw/~tdbproj/handy1/
で「孫」で検索して呂氏春秋の該当部分を全部見てみたんだけど、
それらしき部分は見当たらなかった・・・ >>50
変だなあ・・・昔,書店で読んだ本に孫武の息子の名が記されたんだけど・・・
もしかしたら、「左氏伝」辺りかなあ・・・?またはそれ以外の文献・・・
(春秋〜戦国あたりに作成された書物)。
呉王・闔廬には太子波(終累)、夫差、子山と三人の子がいたし。
これから検索してみる。 吴氏世系名録簡介
闔廬二十世
諸樊長子、没于公元前496年、葬于江葱葱州西北虎丘山。子三:終累(太子波)、夫差、(公子)子山
わざわざ探してくれたのか。ありがとう!
でもそのサイト、何故か繋がらない・・・
で、>>46では意図が分かりにくかったかもしれないけど、
俺が気になってたのは”『史記』以前の古籍に”孫武の記述があるかどうかだったんだ。
見れないからわからないんだけど、>>52のサイトの内容はたぶん”『史記』以前”ではないよね? “『史記』以前”なら、『春秋』、『春秋公羊伝』、『春秋穀梁伝』、
(『春秋左氏伝』を除く)・・・しか、今のとこ思い浮かばない・・・
もしかしたら、孫武の息子の名は『史記』以降の史学者によって、
判明されたのかも・・・そうとしか思えない。
孫武の名は『史記』以前なら、兵法学書『孫子』によって、
その名が初めて判明されたのが定説だとされるけど・・・
上記の「三文献」にその名があればいいけど・・・ >>55
春秋みたいな史書に限らなくてもいいんじゃない?
呂氏春秋でも韓非子とかの諸子の類でも漢代以前に成立したことが分かってれば。
>もしかしたら、孫武の息子の名は『史記』以降の史学者によって、
>判明されたのかも・・・そうとしか思えない。
本当なら多分そうなんだろうね。
しかしWikipediaの項目書いた人は何を根拠に”『呂氏春秋』によると”と書いたんだろう?
それとも俺、検索で見逃しちゃった? スレとはあまり関係ないけど。
微子啓のウィキの部分であったけど・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%AE%E5%AD%90%E5%95%93
>別説では生母がまだ帝乙の側室の時に微子啓と微子衍を産み、
>後に正室に昇格して紂王を産んだという(『呂氏春秋』)。
この部分、実は陳舜臣の『中国の歴史@』でも載ってるんだよね。
その項目を書いた人がこれなら孫武の子も別の意味でその関連性が
あったと思ったんじゃないかと・・・ 更新されてる。
>『呂氏春秋』または『春秋公羊伝』、『春秋穀梁伝』によると、
>孫武には孫適(敵)・孫馳・孫明という三人の息子がいたという。
根拠のない情報が増えたw IP 124.144.xx.xxx が元凶のようだ。
この人「趙範」の項でもやらかしてる。 >>58の更新はタイミング的にこのスレを見ての変更だよな。
>>55を見て勘違いしたのか・・・?
このスレ見てるなら、さっさと訂正しろよ。>書いてるヤツ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています