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【ピンでもなければ】 孫武 【シショうでもない】
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/10/27(金) 17:54:12ID:A5yRLNvB0
中国の英雄のみならず西洋の英雄にも愛され
現在でも実用的だとされる最強の兵法書の著者であり多大の功績を残したとされながら
いまいち実態の見えてこない孫武についてあれこれ妄想しましょう
0002名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/10/27(金) 17:55:02ID:A5yRLNvB0
たぶん「戦わずして勝つ」って考えは、最初は自分より優秀だとされるライバルへのひがみからでたと思う
0006名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/10/28(土) 09:40:00ID:ZB/RNaZw0
心理的というか精神論に近いとおもうんだけど。

実用的というけれど、覚えておけば役に立つかもしれないけど、
これに頼って何かを為せるかといえばなにも為せないとおもうんだよね。
0007名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/10/28(土) 11:09:38ID:BavDBui30
孫子の兵法だけじゃ、どうにもならないね。
そこに書かれていることを、よく噛みしめて、
実際の戦いでいかに使うかは、自分で考えないといけない。
0008名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/10/28(土) 15:56:48ID:0zdkYSnrO
兵法書は、主として現場における戦略の立て方を説いたもの。実力を出し切る方法や実力以上の成果を出す方法を説いている。

正味の実力の向上は、日頃の努力にかかっているんだよ。これは、孫武先生もおっしゃっている。

だから、兵法書を読んだからといって、直ちに何かが変わるわけじゃない。
0009名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/10/28(土) 16:30:30ID:J3WpbWcV0
兵法にカンニングなし
0011名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/10/28(土) 16:59:49ID:9owSKBVU0
算数やらないと組み立てる考え方が出来ないみたいに
発想の仕方みたいのを教えてんだと思うけど
0012名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/10/28(土) 18:52:56ID:0zdkYSnrO
敵も味方も知ってるからこそ、深く知る必要がある。
0013名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/10/28(土) 21:25:38ID:q28Qj66t0
あの時代の奴がこんな思考法できた上書にできるなんて天才
0014名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/10/28(土) 23:04:56ID:itpVjcE20
アメリカとソ連の冷戦では“戦わずして勝った”のかな(ソ連崩壊だから)
0016名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/10/29(日) 05:23:10ID:zkM7UMpAO
ナポレオンに負けたどっかの王様が孫子を読んで
「この本に出会うのが遅かった!」
と後悔するエピソードがあったような気が
0017名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/10/29(日) 12:24:00ID:26deI4230
戦争論と並ぶ東西の二大戦争書ってのは本当?
0018名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/10/29(日) 21:35:50ID:/cDrnlpV0
孫子のほうが上
0020名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/10/29(日) 22:41:06ID:xDQzSUsc0
戦争論は戦争は理由もなく(正確には無いように見える)泥沼化するってことを理解させてくれる
0021名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/10/30(月) 11:39:41ID:/STDuEKU0
そりはどっかの島に流されたナポ自身がいった言葉じゃなかったっけ?>「この本に出会うのが遅かった!」
0022名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/10/30(月) 19:01:41ID:mh/yIKxh0
その発言はWWTで負けてオランダに亡命した後のヴィルヘルム2世の言葉>「この本に出会うのが遅かった!」
ナポレオンは多分、読書三昧だった士官学校時代に仏訳された孫子を読んだと思われ。
0023名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/06(月) 14:08:29ID:V8MlL4X+0
そんなに早くから訳されていたのか
0025名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/12(日) 21:03:13ID:JI/9gx3k0
海音寺潮五郎
0026名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/12(日) 21:51:37ID:gyM9baBI0
孫子の方が格は上だろ。
二千五百年前に既に論理を体系化させ、
超ロングヒットを飛ばしている兵法は他にないからね。
簡潔で読み易く、理解しやすい。

戦争論は長々とした文章で読み難く解り難い。
戦争書としてはつい最近になって書かれたものだし、
孫子とは比較にならない。
0028名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/17(金) 13:55:05ID:Ih508dKX0
西洋に、東洋の孫子に対応するような、
古代に兵法書を記した人となると、誰になるだろうか?
0031名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/18(土) 03:24:22ID:JePvQ/l/O
とりあえず今伝わってるのは曹操の注訳付けた奴なんだっけ。
なんか曹操が居なかったら孫子の兵法書は現代まで残らなかった、ってどこかで聞いた。
0033名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/18(土) 18:19:47ID:nfHXnykb0
>>32
出てますよ。呉王コウリョの前で、姫を修練してます。
命令を聞かない姫の首を切り落とし、軍令の厳しさを実演してます。
0035名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/29(水) 12:20:22ID:SWEfWNpO0
>>29
南アジア?
インドの辺り?
0036名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/12/06(水) 11:40:51ID:v98/qya30
ペルシャのあたりも南アジアの範疇に入れられるのかな
0037名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/12/06(水) 17:53:20ID:V7pS3tdp0
孫子なんてノストラダムスの予言書とおんなじだよ。
内容が抽象的だからどうとでも解釈できる。実際におきた事例を当てはめてみて、「おお、すげー」ってな。
背水の陣の話みたく内容もしばしば相矛盾するから、結局は使う人の能力次第。
春秋時代のような古臭い「礼」やら迷信やらが蔓延っていた時代には画期的な書物だったんだろうけど、
それ以降の時代は過去の名声で生き延びてきただけの書物。
名声だけは残っているから、いまだに読む人が居る。
で、孫子の都合のいい部分を持ち出して勝者を賞賛し、敗者を断罪する。
あたかもおそだしじゃんけんの如く。

今はいい時代だね。生兵法を振りかざしても趙括のように命まで失わずに済むんだから。
0038無名武将@お腹せっぷく
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2006/12/06(水) 19:33:59ID:UX2bqH7B0
孫子の兵法は公開集団自殺で撃破できるなw
0042名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/12/12(火) 22:43:09ID:KViIa30iO
想像だけど伍員も孫武と同じくらいの兵法理解だと思う。
何かを固く信じてると人間なかなかその呪縛からは逃れられないからね。
きっと結果は変わらなかったと思うよ。
0044名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/12/15(金) 23:34:45ID:3TnlxDLSO
いえ臨機応変を知り応用がてきて、それで初めて兵法家と呼べるのです。
0046名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/01/15(月) 02:00:26ID:NdUNw1H30
wikipediaの「孫武」の項なんだけどさ、
>『呂氏春秋』によると、孫武には孫適(敵)・孫馳・孫明という三人の息子がいたという。
とかあるけど本当?
その後の
>『史記』以前の古籍にその名が全く見られないこと、
と矛盾してるんだけど。

>また、劉備に仕えた孫乾も孫武の末裔とされる。
これも初耳。
0048名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/01/15(月) 11:21:49ID:IlmF6mcC0
>>47の続き

以前にも他スレで述べたことあるけど・・・

孫乾は旧斉国の北海郡出身で、あの鄭玄の門下生。
孔融と交流もあり、陶謙とも繋がりもあった。
劉備に仕官する以前は孝廉(茂才)に推挙される身分だったと思うよ。

・・・だから、孫乾は孫武の末裔でもおかしくない。
少なくとも江南の商人の倅の孫堅よりも信憑性はあると思う。
0051名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/01/15(月) 21:24:01ID:IlmF6mcC0
>>50
変だなあ・・・昔,書店で読んだ本に孫武の息子の名が記されたんだけど・・・
もしかしたら、「左氏伝」辺りかなあ・・・?またはそれ以外の文献・・・
(春秋〜戦国あたりに作成された書物)。

呉王・闔廬には太子波(終累)、夫差、子山と三人の子がいたし。

これから検索してみる。
0053名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/01/15(月) 21:31:28ID:IlmF6mcC0
吴氏世系名録簡介

闔廬二十世
諸樊長子、没于公元前496年、葬于江葱葱州西北虎丘山。子三:終累(太子波)、夫差、(公子)子山

0054名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/01/15(月) 22:48:47ID:NdUNw1H30
わざわざ探してくれたのか。ありがとう!
でもそのサイト、何故か繋がらない・・・

で、>>46では意図が分かりにくかったかもしれないけど、
俺が気になってたのは”『史記』以前の古籍に”孫武の記述があるかどうかだったんだ。
見れないからわからないんだけど、>>52のサイトの内容はたぶん”『史記』以前”ではないよね?
0055名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/01/15(月) 23:07:45ID:IlmF6mcC0
“『史記』以前”なら、『春秋』、『春秋公羊伝』、『春秋穀梁伝』、
(『春秋左氏伝』を除く)・・・しか、今のとこ思い浮かばない・・・

もしかしたら、孫武の息子の名は『史記』以降の史学者によって、
判明されたのかも・・・そうとしか思えない。

孫武の名は『史記』以前なら、兵法学書『孫子』によって、
その名が初めて判明されたのが定説だとされるけど・・・

上記の「三文献」にその名があればいいけど・・・
0056名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/01/15(月) 23:34:28ID:NdUNw1H30
>>55
春秋みたいな史書に限らなくてもいいんじゃない?
呂氏春秋でも韓非子とかの諸子の類でも漢代以前に成立したことが分かってれば。

>もしかしたら、孫武の息子の名は『史記』以降の史学者によって、
>判明されたのかも・・・そうとしか思えない。
本当なら多分そうなんだろうね。

しかしWikipediaの項目書いた人は何を根拠に”『呂氏春秋』によると”と書いたんだろう?
それとも俺、検索で見逃しちゃった?
0057名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/01/16(火) 01:14:43ID:tewRBCiN0
スレとはあまり関係ないけど。

微子啓のウィキの部分であったけど・・・

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%AE%E5%AD%90%E5%95%93
>別説では生母がまだ帝乙の側室の時に微子啓と微子衍を産み、
>後に正室に昇格して紂王を産んだという(『呂氏春秋』)。

この部分、実は陳舜臣の『中国の歴史@』でも載ってるんだよね。

その項目を書いた人がこれなら孫武の子も別の意味でその関連性が
あったと思ったんじゃないかと・・・
0058名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/01/16(火) 01:23:46ID:xR/pM7TF0
更新されてる。
>『呂氏春秋』または『春秋公羊伝』、『春秋穀梁伝』によると、
>孫武には孫適(敵)・孫馳・孫明という三人の息子がいたという。
根拠のない情報が増えたw
0060名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/01/16(火) 16:27:49ID:7pN7kP4H0
>>58の更新はタイミング的にこのスレを見ての変更だよな。
>>55を見て勘違いしたのか・・・?

このスレ見てるなら、さっさと訂正しろよ。>書いてるヤツ
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