◆◇◆宋◆◇◆
宋と遼 宋と金 宋と西夏
北宋(ほくそう、960年 - 1127年)
南宋(なんそう、1127年 - 1279年)
金(きん、1115年 - 1234年)
西夏(せいか、1032年-1227年)
遼(りょう 916年 - 1125年) 司馬光と王安石って、福田赳夫と田中角栄みたいなもんか?
どちらも後者の系統に腐敗政治家が目立つようだし。 司馬光は、ちょくせつ政治に参与するだろう裕福な階層の
そのバックボーンを守りたかったんですよ。
貧民層を守っても、彼らから俊英が生まれるのは稀で
富民からならば期待できるのです。
その考えを考慮したうえで批判しないと、かた手落ちだと思いますね。 まあ貧しいがどこまでを含んでいるかによると思うけどな
唐の貴族と寒門抗争よりはまだ窓口が緩くなったとはいえ
裕福じゃなきゃ勉強できない、勉強できなきゃ科挙に合格できない、結果、裕福層しか政治に参加できない
そういう悪循環に陥ってるからな >>96
富民層は五代中の新興地主層がそのおおもとであり、その層は捨てられた土地を兼併していって
大土地を有したのであり、貧民層を労働力として雇った資本家でもあった。
科挙を受けるにも多額の資金がいるし、また時間も必要。
富民層から科挙生が多く排出されるのは、まさにその両方が親の代からの財産が豊富であり時間があるから。
貧民層は今日の食い扶持をどうするか、というレベルなので、むろん金もなければ時間もない。
しかも富民層はさらにその貧民層に対して、金貸し業をやっておりその利子で荒稼ぎもしていた。
もともと金のあるところに、底辺から搾り取ってさらに増えていくという構図があり
いつの間にか、貧民が自力で富裕な生活を送れないような社会システムになっていた。
当然、富民層のそうしたいという意思が根底にはあったのは間違いないだろう。
王安石はそういうところを国家の側から救済しようとしたのであって、司馬光を代表する地主出身や
それらをバックボーンとした多数の連中は、利権の放棄を強要されるので反発した。
司馬光は言う。
我らは豊かになろうとして豊かになったのであり、貧民たちが豊かでないのは怠惰のあらわれだ(多少表現違うけど)。
…まさに今の日本も同じようなところに落ち込んでいるのがよくわかる。
酒弱いのに上司から勧められるとがんばって飲んじゃう人は、
本心では改革支持してても周囲から色々言われるとできない。
いくら上司から勧められても絶対に飲まない人は、
空気読まずに改革を断行できる。 よく言われることだけど、
北宋っていろいろな面で今の日本に似てるな
しかし蔡京にしたって、どこまで史実かよくわからん
歴史を書き残したのがほとんど旧法系の人間だからな
それと政治思想としての儒教を完成させたのも旧法党で
それが回りまわって日本のオレらも悪影響を受けているわけだ 宋は滅亡時に国家に殉じた忠臣は歴代でも群を抜く
有名な亡宋の三傑はじめとして多数が元と戦って死亡
後世の史書だと「やはり士大夫を養うのは無駄ではなかった」とか書かれている。皮肉っぽい感じもするが 漢化すらしてない蒙古に全土が組み敷かれ犯し汚されるなど、
真っ当な感覚の士大夫なら発狂ものだわな。 そりゃ日本に当てはめてみればいいんじゃないか。
下に見ている北に日本がちからづくで蹂躙されるのと似た感覚つうことで。
宋の官僚連中は遊牧民を、原始人…とまでは思ってないが
下に見まくっていたのは事実だろうし。 宋を侵略した女真人、蒙古人の側には、
宋の漢人に対して、文化面でコンプレックスみたいなものは抱いていたんだろうか? 中国を支配して漢化した民族はコンプレックスあったかもしれんけど
モンゴルはどうなのかな?元王朝ですら漢化しきらなかったわけだし
チンギスハーンの通商や大遠征によって、中華文明だけじゃなくイスラムやヨーロッパ・インドといった同じくらい優れた文化があることを知っていたから一つの文明にのめりこむことは無かったんじゃ? 宋側が「奴ら野蛮人との約束なんて守る必要は無い」みたいな感じで約束破るから
相手(女真、モンゴル)は「だったら実力で思い知らせてやる」というふうになったんだろう
金のときといい、モンゴルのときといい、ここらへんはどうにかならなかったのかねぇ…
何世代か過ぎてしまうと、過去の愚かな失敗は忘れてしまうから
人間の歴史は繰り返しが多い。
で、今の日本は過去の愚かしい現実をなかったことにしようとしているから
この先何年かで、また似たようなことが繰り返されるだろう。
歴史を俯瞰してみると、今がどういう位置づけかがわかるというもの。
まぁつまり、恭謙でない人間が存在する以上、どうにもならんということか… でも宋の失敗は何だか可愛げを感じる。
明の失敗は何だか陰湿さを感じる。 最後の皇帝が幼主だからじゃないの?
これが暴君だったら末期の印象が大分変ると思う 崖山は悲劇として引き立つね。
隋の最期とかは誰も同情しないし。 朱子学の華夷思想の影響で元(モンゴル)への抵抗が激しかったけど
末期の南宋政権を見ると忠誠心も失せる。
余談だが、南宋の忠臣として有名な張世傑の軍隊は略奪すること甚だしく
泉州ではそのせいで忌避された。 孟キョウはなんで宋軍の中では例外的にあんなに強かったの? 強いというより宋本来の実力をフルに使っただけ。
もともと宋は歴代支那王朝の中でも、全ての分野でハイクォリティの国家。
戦争が苦手と言われるが、それは軍閥の台頭を抑制してたから。
そもそも黄河流域は唐末からの混乱で消費地帯と化していた。
北の勢力がそこだけ手に入れても余り旨味は無い。
この時代は江南こそ中原だった。
まあ、全ての国力を長い防御線に投入する戦略は結果としては間違ってたな。
攻撃あってこその防御だということが証明されたと思う。 孟氏は岳飛の部将だったこともある軍閥だからじゃないの?
宋は建前上は軍閥を否定したけど、2万規模の孟氏の私兵(忠順軍)がれっきとして存在していた
呂文徳の軍閥もあるけどこれは一代での成り上がり
結束力も経験も弱体化した正規軍に比べて段違いだったんじゃないの?
中核に熟練兵がいれば、他の兵士を引っ張ることもできる >>118
宋が対外的に積極的な姿勢に転換していれば、
唐以上の大帝国を実現した可能性もあったかも? >>120
二代目太宗の時に、遼を攻撃して皇帝が行方不明になるほどの敗北しているから無理じゃないの?
方針転換したからこそ中国が大発展する内的余裕ができたともいえる 遼討伐は後周世祖なら確実に出来た。
北宋太祖でも勝てなくても有利な講和を結べたろう。
その二人の創業が不完全ゆえに宋朝300年の戦略は決まってしまったとも言える。 >>123
世宗が燕雲を攻めるのに、破竹の進撃ができたのは
遼側にいくらかの政治不安があったからでしょう。
なので、世宗が遠征途上で病に倒れたのはまことに残念。
おそらく、機会としては最大の好機だったろう。
で、太宗のとき、なんと遼は最盛期を迎えてしまった。
たとえ世宗が再び現れても、似たような敗北を喫したであろうね。 >>122
対外積極策は国力を削ぐ結果になったということか。
ところで西夏なら倒すことができたかな? 西夏との戦争はだいたい一進一退を繰り返していてとても倒すどころじゃない。
あまり西夏にのめりこみすぎると契丹への備えがおろそかになるし。 同時代のモンゴルの快進撃を見ると
モンゴルが強すぎたのか、それとも宋が弱すぎたのか… 宋は初期の太宗の敗退から滅亡まで攻勢に出ると全く駄目だね
そういう軍隊だったんじゃないの? >>125
西夏じゃ、滅ぼしてもあの土地じゃあまりメリットないような・・・・・・
契丹に圧力をかけるには好位置か? スパイスロードの発達で、シルクロードが衰退して旨味が無くなってるしな。 劉宋の国号が宋なのは、宋王からだけど、
趙匡胤の禅譲は王を飛ばした? 趙匡胤が国号を宋としたのは、宋州節度使を兼務していたから。
劉知遠や郭威も、別に漢王、周王だったわけでもない。
北の「蛮族」に圧迫されている現実から逃れるため、哲学の世界では「華夷秩序」や「大義名分」がやかましく言われるようになった
漢民族は兎に角えらくて他は禽獣以下なんだ、と己らを慰めていた
それだけなら良いのだが、実際の外交や戦略でも相手を人間扱いしない悪弊が発生してそれが取り返しのつかない結果を何度も呼んでしまった
北宋滅亡や南宋滅亡の経緯を見ると、宋側の背信の数々に「どっちが蛮族?」という印象を受ける 日本でも似たような時期があったね。
鬼畜米英って言ってたのは、いつのことだっけ… >>136
>>134氏の言いたいのは、他国を賤しめてたから怪しからん。
って事じゃ無くて
人として認めない様な、見下した態度取るが故に、
平気で同盟を反故にする馬鹿をやった。
って事を言いたいんだと思う。 戦争中の悪口言い合いならむしろお互い様
「ジャップ」とか「イエローモンキー」とかね
でもこの場合は違うでしょ、宋が二度も犯したのは同盟結んだ相手に対する数々の背信が呼んだ破滅なんだから >>137
それはむろんわかっているけどね。
中国政権にとってみれば、草原に現れる勢力ははるか昔からの歴史的外敵だから。
辺境の居住区は彼らの食料庫にされていたわけだから、敵愾心も根強いだろうね。
ただ、後晋期まではそれでも破綻しなかったわけだけど
どいうわけか、中華文明マジックが効きにくくなった、というのが運の付き。
相手が自分と対等に近い文化をもってしまったので、悪あがきの果ての自滅でしょう。
救いがないのはしょうがないね。再三同じ失敗繰り返しているから。
>>悪口言い合いならむしろお互い様
それは敵対国同士なら自然な感情だろうけど、日本だってその前には日英同盟なんてものもあった。
本土爆撃くらっても、まだ戦えるとごり押しした結果があれ。
戦局を見極められない上層部を持つと、民衆が憐れだ。 こんな板まで無関係の話とわかっていて無理矢理結びつける反日馬鹿が湧く御時世か。いやだねぇ…… >>139
それを言うなら、いきがってはいるがもうボロボロの国の市民を30万殺した方もアレだぜ
(勝てば官軍だから非難されないけど)
末期の大日本帝国はどっちかっていうと文天祥みたいに片意地張ってた感じだ >>141
なんか反日呼ばわりされたが、単にバカな指導者が嫌いなだけで
そこには日本とか中国とか関係ないんだけどね。
それは置いて、文天祥はみずからゲリラ戦(?)の戦力を私財で組織し、自ら率いて
焼け石に水的な(結果論では無益な)軍事行動を起こしている。
指導者自ら死地に入って、意地を通そうとしているわけで、その心意気だけは
自分は評価できると思う。その軍才とか、そういったものは評価できないけど。
で、さらに重要なのは、自分だけ逃げて生き延びようとしていないところ。
隋の煬帝などが、群盗が起こったとき、その責任は楊トウなどに押し付けて、
江都に逃げたのが最大の罪悪だと思っている。 >>144
道教狂いの真宗が建させてた「玉清昭応宮」を忘れてはいけない。 >>145
それより開封城の真ん中を貫く、皇帝専用の御道ってのが、
具体的にどんな感じなのか、想像がつかない。 >>147
朱雀大路が三車線・三車線で、
真ん中の二車線が皇帝専用みたいな感じ? 皇帝陛下専用の御道ってのは横切ることはできたんだよね?
じゃなきゃ、あんな城のど真ん中を貫かれたら邪魔で仕方ない。 それは、あの趙匡胤が疾走した道をありがたがっているわけ? 韓侂冑は殺された後、金の要求通りに首が北へ送られて、
中都で晒しものになったんだってね。 韓侂冑の一族はどうなったのかな?
族滅までいかなくても、流刑とか? 宋ってあまり徹底した族滅のイメージとかってない。
ちょっと地方に流刑な感じじゃないの。 ,. -‐'''''""¨¨¨ヽ
(.___,,,... -ァァフ| あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!
|i i| }! }} //|
|l、{ j} /,,ィ//| 『おれは金を利用して失地回復しようと思ったら
i|:!ヾ、_ノ/ u {:}//ヘ いつのまにか開封まで取られて北方に連行されていた』
|リ u' } ,ノ _,!V,ハ |
/´fト、_{ル{,ィ'eラ , タ人 な… 何を言ってるのか わからねーと思うが
/' ヾ|宀| {´,)⌒`/ |<ヽトiゝ おれも 何をされたのか わからなかった…
,゙ / )ヽ iLレ u' | | ヾlトハ〉
|/_/ ハ !ニ⊇ '/:} V:::::ヽ 頭がどうにかなりそうだった…
// 二二二7'T'' /u' __ /:::::::/`ヽ
/'´r -―一ァ‐゙T´ '"´ /::::/-‐ \ 盟約違反をしたからとか李鋼が独断で動いたからだとか
/ // 广¨´ /' /:::::/´ ̄`ヽ ⌒ヽ そんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ
ノ ' / ノ:::::`ー-、___/:::::// ヽ }
_/`丶 /:::::::::::::::::::::::::: ̄`ー-{:::... イ もっと恐ろしいものの 片鱗を味わったぜ…
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/ _ノ ヽ、_ \
/ o゚⌒ ⌒゚o \ 今日もまた宋に帰れる日を夢見る仕事がはじまるお…
| (__人__) |
\ ` ⌒´ / 新発見!700年前の秘密の地下トンネル、蒙古軍侵攻のものか―重慶市
2007年8月17日、重慶市文物考古所は同市内で現在発掘中の釣魚城遺跡で、長さ35mの地下トンネルを発見・発掘
したと発表した。
文物考古所の袁遠山(ユエン・ユエンシャン)副所長は、発掘中の釣魚城奇勝門の北150mの場所に地下通路を発見
したと説明。地上から約5mの深さに掘られており、700年以上前にこの地で蒙古軍と宋軍が凄惨な戦いを繰り広げた際
に、蒙古軍が秘密裏にこの地下トンネルを掘り、城内への侵攻を企てていたのだろうと推察している。今回発掘・整理
された地下トンネルは35mだけだが、全体の長さはまだ不明。
トンネルの幅は約1m、高さは最高で1.5m、最低で1m。前かがみで前進しなければならないが、逆凸型の通路である
ことから、前進に疲れた兵士は逆凸の出っ張りに腰掛けて休憩できる。またトンネル内には南宋時代のものとみられる
丸い砲弾や陶片も見つかっており、この地下通路がすぐに南宋軍に見つかったことを物語っている。
歴史資料によると、1259年に蒙古軍が釣魚城を突破したが、その後撃退されたとの記述がある。
http://www.recordchina.co.jp/group/g10623.html まぁ地下トンネルくらいで落ちるならあんな長期間もちゃしないよな 日宋貿易なんかを見ると、かなり民間主体で行われているけど、
宋は、外国との商取引に関して国家の干渉の度合いが小さかったのかな。 宋朝300年余を通じて、最高の忠臣って誰になるんだろう? 最高ってどういう意味かわからんが、有名な忠臣なら文天祥じゃね?
正気の歌は日本の志士達にも大人気 >>167
なら口だけ番長、李網も評価されてたよ。 宋は外敵にやられっぱなしだったから、
愛国英雄タイプの英雄が多いわな。 宋は外敵にやられっぱなしだったから、
愛国英雄タイプの英雄が多いわな。 古代の服飾や家具がカラーで再現、南宋代彩色壁画の剥離作業に成功―湖北省襄樊市
2007年11月9日、湖北省襄樊市で、2か月前に発見された南宋代のものと見られる彩色壁画の剥離作業
に成功、生き生きと描かれた20人以上の人物と日常生活の風景が人々の前に姿を現した。
今年6月、同市で建設工事中に唐宋代の墳墓5基とかまどを発見。市文物考古研究所はただちに発掘作
業に入った。9月上旬にそのうちの1基から彩色壁画が発見され、注目を集めていた。
9日までに無事成功した剥離作業の結果、全容を現したこの壁画は、南宋の日常生活を描いたものと見
られる。専門家は壁画に描かれた人物、服飾、家具、食器類などの描写は極めて高い研究価値があると指摘。
今後、修復作業を経て、同市の博物館に展示される予定。
http://www.recordchina.co.jp/group/g12713.html 南宋って湿気が多そうだから、壁画なんて残りにそう。 開封って、金の統治下に入った後、黄河の大氾濫で土砂の下に埋もれたでしょ。
北宋がそのまま続いていたとしても、いずれ開封は放棄せざるを得なくなったかな? >>176
そういえば、後晋のころからやたら黄河が氾濫して、澶州とかの位置が
黄河の北岸になったり南岸になったりしている(歴史地図では)。
当時の政権は黄河の治水にかなり労力を向けたようだ。
かの後周世宗も、黄河の治水をやったしね。 黄河って凄いよな。
主河口も、山東半島の北側に行ったり南側に行ったりしている。
どちらかと言うと長江の方が流れは安定しているのかな。 新華社電によると、積み荷を満載したまま中国広東省の陽江沖で沈没した宋代の貿易船が21日、
約800年ぶりに引き揚げられた。当時の海上交易路「海のシルクロード」解明の貴重な手掛かりになるとみられる。
貿易船は全長約24メートル、幅約10メートルで、「南海1号」と名付けられ、
今年5月から引き揚げ作業を開始。周囲を特殊鋼製の巨大な容器で覆い、
水深30メートルの海底からクレーンで引き揚げた。
ソース:時事
http://www.jiji.co.jp/jc/c?g=int_30&k=2007122200024 >>178
そういや、長江ってあんま氾濫とかの話も聞かないな? 長江は氾濫よりも増水の話を聞く気が。
大きな調整湖があるのが関係しているかな。 <南海1号>兵馬俑に匹敵?!お宝満載の沈没船がついに陸揚げ終了―広東省陽江市
2007年12月27日未明、沈没船「南海1号」の陸揚げ作業が完全に終了、一両日中にも博物館内の展示研究施設「水晶宮」
へと移転される予定だ。同船は約800年前の南宋時代に沈没した貿易船。陶磁器など大量の宝物が船内に残されたままで、
その価値は兵馬俑に匹敵するとも伝えられる。中国新聞社が伝えた。
陸揚げ作業は慎重の上にも慎重を期して勧められた。25日にも陸揚げ作業が実施されたが、残り8mの地点で中断。26日
夜から作業を再開し、3時間にわたる作業の末についに陸揚げは完了した。
関係者によれば、27日中にも南海1号は水晶宮入り口にまで輸送される見通し。28日には同船を受け入れる「海のシルク
ロード館」で祝賀式典を開催するという。
ttp://www.recordchina.co.jp/group/g14094.html <南海1号>引き揚げ成功秘話!成功の裏に海洋トレジャーハンターの影?―中国
2008年1月1日、昨年末、海底から無事引き揚げられ、大きな話題を呼んだ「南海1号」。しかし、実はこの成功の裏には
止むに止まれぬ事情があったという。その事情とは、世界的な海洋トレジャーハンター、マイケル・ハッチャー氏から海底に
沈んだ中国の財宝を守るべく立ち上がらずを得なかった中国考古学界の姿が浮かんでくるという。「中青在線」が伝えた。
沈没した軍艦や商船を引き揚げ、積荷の金属やゴムなどを売買する商売を経営していたマイケル・ハッチャー氏は、ある
時偶然に中国明代(1368〜1644年)の沈没船を引き揚げ、積荷の陶器などを収集家に売り大もうけした。ハッチャー氏は、
これをきっかけに商売の方向を転換、もっぱら沈没したお宝船の捜索、引き揚げに従事し、現在「世界で最も有能な海洋
探検家」「最も成功したトレジャーハンター」と呼ばれている。
1984年、ハッチャー氏は1752年に沈没したオランダ商船「ヘルダーマンセン号」の引き揚げに成功、約24万点の青花と
126点の金の延べ棒などを回収。これらの陶器などが86年にアムステルダムで開催されたクリスティーズオークションで
競売にかけられた。しかし、当時の世界各国の海洋法や中国の法律ではこれを阻止することは出来ず、また当時の中国
には資金もなく、次々と競り落とされる陶器類をただ横目で見ているほかなかったという。
さらにハッチャー氏は、99年に清代(1644年〜1912年)の沈没船「テクシン号」を発見、100万点以上引き揚げられた貴
重な中国製磁器の中から、希少価値を高めるため36万5000点だけを残し残りをすべて廃棄、オークションで3000万ドル
もの収入を得たという。
度重なる財宝の流失を知りながら、政府が沈没船引き揚げ事業に手をつけなければ損失はさらに広がるばかり…こう
した止むに止まれぬ事情が今回の「南海1号」の引き上げ成功につながっているという。
ttp://www.recordchina.co.jp/group/g14259.html
南シナ海だから、広州からインド洋方面へ向かう途中の貿易船? 泉州、広州から南シナ海、マラッカ海峡を経て、インドやアラビアの方へ通じる航路。 宋代の皇帝による草書巻物、過去最高の17億円で落札―香港
2008年4月21日、新華網が伝えたところによると、20日、香港にて行われた芸流国際拍買公司の春季オークションで、宋
徽宗の手による書道の逸品『臨唐懐素聖母帳』が1億2800万香港ドル(約17億円)で売却された。これはオークションで売
却された中国書画作品の世界最高記録。
徽宗は宋(961〜1127年)の最後の皇帝で、芸術に秀でていたことで有名。現在分かっている範囲では、徽宗の作品で
民間に所蔵されているのは19点にすぎず、特にこの『臨唐懐素聖母帳』は民間所蔵品の中で最長の草書の巻物ということ
で今回のオークションの目玉だった。
オークションでは、6000万香港ドル(約8億円)の最低価格でスタートするやいなや、瞬く間に価格がつり上がり、最終的に
はヨーロッパの個人収集家が1億2800万香港ドルで落札した。
この日、出品されたのは宋代の書画、木彫などの秀作34点で、落札総額は2億9000万香港ドル(約38億円)。中国だけで
なくアメリカ、シンガポール、日本などからも参加者が集まった。
ttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080423-00000011-rcdc-cn 神宗皇帝が長寿だったらその後の北宋はどうなったと思いますか? 神宗こと趙ぎょくはどういう人物なんですか?よくわからないから詳しく教えてください? >>191
wikiの内容じゃ不足?
具体的に分からない部分を挙げて質問したら、
答えてくれる人がいるかもよ。 神宗って、徽宗みたいに女性関係のエピソードってあるの? そこまで神宗に興味あるなら、宋史でも読んでみたら?