◆◇◆宋◆◇◆
宋と遼 宋と金 宋と西夏
北宋(ほくそう、960年 - 1127年)
南宋(なんそう、1127年 - 1279年)
金(きん、1115年 - 1234年)
西夏(せいか、1032年-1227年)
遼(りょう 916年 - 1125年) 宋代は常に異民族の侵略の危機にさらされていた時代であり、
そのために、数多くの英雄を輩出した。
楊業、狄青、岳飛、韓世忠等等。
また、水滸伝、楊家将演義、説岳全傳、射G英雄傳等、
数多くの英雄たちの物語も、宋代を舞台としている。 宋と言っても、外国からは五朝の延長としか見られていない件。 客家(ハッカ)は北宋滅亡のときに南に流れた連中(北宋を支配していた層)が起源とされ
客家が逃れた地域は広く拡散している。
教育熱心が1番の特徴。孫文、ケ小平、李登輝、李光輝(リー・クアンユー)、などは客家
紅幇や青幇などの幇(パン)は水郷クリーク(運河)の船乗りが起源らしい。
義侠心や宗教的なもので団結した非公然の結社。
幇の組織を使い国外へ脱出した華僑が多い。
清朝などはしきりに船乗りや水夫の設教を禁止する法令をだしていた >>3
外国って例えばどこ?
唐→7代12国→明みたいな扱いってこと? >>6 チベットとかだな。
7代12国の次は元ですわw >>7
ああ、素で忘れてた>元
チベットが出てくるということは宋は正当な統一王朝と見られてないってこと?
その外国ってどこ? 宋朝は、異民族にぼこぼこにされていて、何だか弱そうで、
漢なら大漢帝国、唐なら大唐帝国という言葉がしっくり来るのに、
大宋帝国はどうもしっくり来ないとイメージだけど、
何だかんだで300年も続いたし、文化面でも今につながる基礎ができたわけだし、
実は凄いねえ。 いや、だからチベットの記録に、唐が崩壊したあと梁という国になって、あと何代か続いた… みたいな記録があって、宋という名前は出てこない。
まぁ、そういうこと。 チベットが外国じゃないというなら、まぁいいけど。 >>10
あ、外国というのはチベットのことね。
チベットのように宋が周辺国扱いされてるという意味にとってしまったんだわ。
誤読堪忍。
> 唐が崩壊したあと梁という国になって、あと何代か続いた… みたいな記録
その次に元が出てくるの? 宋代のチベットは吐蕃?
唐代に比べて、あまり存在感がないようだけど。 吐蕃。 宋代ではだいぶ壊れてますね…
あと、訂正。
一応、五朝という認識はあったらしい。 しかし、「(五朝)のあとに趙という帝がたった」くらいの簡潔な記述しかないみたい。
まぁ、自分は五代好きなんで宋(北宋)も好きでいろいろみるのだけど、最近はそれら諸外国と似たような見方をしています。
北宋も、太宗のとき真宗のときと、契丹(遼)に破れ講和を結んでいるわけですが、これが遼が上で宋が下なもんですから、北宋は遼の冊封受けたような印象が見て取れます。
むろん、北宋の人々は容認しませんが…
また南宋も同じ。 秦檜の講和策後、これも金の冊封国のような状態とみても差し支えないような状態。
これでは、隋唐の頃の絢爛たる超大国なイメージは損なわれますよね。
しかも唐代では太宗が突厥や周辺民族から「テングリカガン」と呼ばれ懼れられていたことを考えると…。 >>13
ああ、なんか南北朝(大陸のね)時代、日本(当時は倭国だが)が南朝は認めても北朝は認めなかったという話にちょっと似てるなあ。 まぁ、ユーラシアレベルでみると、版図というか支配領域というか、そういうものでこじんまりした観は否めない。
しかし宋国内のみでいうと、そんなものは関係ないぞと言いたいくらい、明るいイメージが覆っているんですよね。
官僚社会にはいろいろ矛盾や不合理は多々あれど、宋という多方面に発展していく時代は、人が生きてる感じがびんびん響いてくる。 >>12
代わりに西夏が頑張っている感じだね。
西夏のタングート人もチベット系のようだし。 何といっても、趙匡胤のイメージがいい。
簒奪したとは言っても、周朝の柴氏には手厚い保護を与え、殺しも必要最小限に抑えた感じ。
簒奪自体、決して褒められた行いではないけど、
他の簒奪劇が凄惨な結果を伴うことが多いだけに、より高感度が増す。
>>19
その反動か、二代目太宗趙匡義は陰険なイメージがあるね。 たしかにそうなんだけど、この兄弟好きなんで、そう斬りすてられるとちょっと…
アニキは鷹揚な性格で、弟は秀才。
アニキのいい加減なところを口をすっぱくしてたしなめるしっかりモノの弟という感じ。
まぁ、それが昂じてなんか横着する兄を毛嫌いしだしたようにも思えるけど。
13歳違うから、単なる兄弟というのとも違うなにかがあるのかもしれない。 趙匡義(光義)は、兄がやばくなるまで待つことができた。
それは年齢の違いからくる余裕だったのだろうか。
兄の遺言を、自分に有利にするためには、ああいう作為的な怪しい行動にでなければならなかったが、あからさまな部分は薄い。
まぁ、暗殺・簒奪と斬って捨てられてもしようがない不審さではあるが、あきらかというわけでもない。
結局、どちらも憶測の域を出ないということ。
ただ、国内整備や民政統治に関しては、趙炅(光義)のほうが辣腕だったようだ。 遼にボロ負けして一時期行方不明になって帰ってくるし
弟や甥を粛清してるけどな 軍閥から起こった宋は、軍閥対策に文官絶対優位を打ち出した
平和な時はよかったんだが、北方に強敵が現れると全然勝てない
有名な抗金の名将達は、そこで仕方なく認めた軍閥のボス連中
しかしこれが後に邪魔になり、また粛清を含めた押さえ込み
元が出現するとまた駄目だってことで孟キョウや呂文徳のような軍閥軍団を容認せざるを得なくなった
宋兵が弱い、というのは内乱や割拠の危険性を過度に防止した副作用だなぁ >>27 趙匡胤にも暗いところがないわけでもない。
郭威のコピーである擁立簒奪劇、後周に近しい軍閥・実力者である韓通、李筠、李重進らの受け入れ拒否および討伐。
たぶん、趙匡胤本人の頭からすべて出た謀計ではないと思う。
宋という時代のために現れたような国家プランナー趙普や、冷徹な現実主義者の弟らの計画だったろうけど。
まだ、統一という段階に入らず、相変わらず地方政権のままだった太祖期では、不用意な粛清はできなかったのだろう。
禁軍は自分のかつての職場だっただけに、義兄弟となった石守信らを配して、多少は安全だったろうが、王彦超や符彦卿といった大大名クラスは、下手に刺激するとどう動くかわかったもんでもない。
しかも、符彦卿は五代を貫く名門で、加えて後周世宗の前皇后、後皇后の父親だったわけだし。
国内にはいろいろ気を遣い、「もう戦乱はごめんだ」という感じで皆の心を揺さぶった。
いわば、搦め手から敵愾心を封じ込めたという感じかな。 この辺はすごくイイ。
しかし最初に言ったように、かつての上司だった張永徳(後周の親類で宰相。兵権はすでになかった)はそのままにしたのに、禁軍の双璧だった侍衛軍の大将で、淮南節度使として新領土を統治していた李重進は、「降る」と言っているにも関わらず許さず挙兵に追い込んだ。
同じように、自分と兵権を二分した韓通は、真っ先に殺してるわけだし(これは韓通の強情さがかえってアダとなったのだろうけど。生きていても趙匡胤ほどの人気を得ることはムリなので、反対分子の代表格といったところか)。
韓通はともかく、なぜ李重進を… 実権のない後周の親類は保護するが、同じ親類筋でも兵権と人望をもった者は葬る、という図式に、ウラ読みするとなるのだが。 宋は基本、君主独裁制だから、宰相とかが専権を振るいだすと、国家として終わりが近いことを意味する。
北宋期は皇帝親政がほとんどで、幼少時では皇太后が替わって政務を取っており、特定の宰相・外戚がデカイ面する余地があまりなかったと言える。
南宋になると秦檜が出てくるけど、やっぱ賈似道あたりかな。末期も近いし。 宗って和平路線の大臣が後世酷い扱いを受けるよね
賈似道は紙幣増刷や公田法で財政の建て直しを計って宋を助けようとした面は完全に無視されて、悪人まんまに
私欲があったのは事実らしいから謀殺されたのは因果応報としても、小説とかだとジョウヨウに援軍すら送らなかったことになってる 文天祥などと比べても、特に劣っているわけでもなく、むしろ宰相としてなら上といってもいい。
どの時代でもそうだけど、能力があり言っていることにも理はあっても、人柄が悪く本音のところでの動機が自分のためだけ、という人は一般受けはしないし、叩かれる対象になる。
>>37
文天祥は宰相として働く間がなかったらねぇ
もうちょい早く生まれてりゃ・・・ 賈似道って17年宰相だったんだよね。それだけでも大した政治力だと思う
悪いこともしたけどやるべきことはやった、ってイメージかな
文天祥は立派なんだけど、何か立派過ぎて親しみにくい印象がある 文天祥は>>38の言っているとおり、実際に統治の才を発揮する間がなかった。
あの人は有為な宰相ではなく、立派な心意気をもった硬骨漢で終わる。
2年間、華南を転戦した統率能力は認められるけど、歴史から読み取れる彼のすごさは、やはり義士であるところ。
過大評価してやりたくなる人材ではある。
>>40
確かに早く生まれてても宰相にのぼって活躍したかはわからん罠
でも硬骨の臣としていい大臣になったんじゃないかなと思うね
こういう心術の清清しい人物は好感持てるな >>41 あまりにまわりがマンセーしすぎると、かえって貶めたくなったりしない? 天邪鬼だな… >>42
諸葛亮は活躍してないか?
三国志だと蒋済と似てないかな >>44
実際の功績の割にはという意味でね。
こういう書き方をするとうるさい人が出るかもしれないけれど、諸葛亮がなしたことで後世に残る社会制度、政治体制、文化って特に無いでしょ?
強いてあげればその存在自体が一番の文化遺産。 >>45 それを言うと、たいがいの人が落第しそうだな。
後世に残したものがあるほうがエラいというわけでもないと思うが。
まぁ、残さないより残したほうがいいのだろうけど。
諸葛亮は文を残しているし、唐朝の南詔対策では諸葛亮の名前がちらほら出ているくらい。
多少影響はあったと思われる(詳しく読んでないから、全然関係ないとこの話かもしれん…w)。
だがまぁ、存在自体が文化遺産だというのは、納得。 >>41
平時だと煙たがられて謀殺されてたりしてな 12月に、北方の「続・楊家将」というのが出るそうだ。
こんどこそ穆桂英が出てくるか? 前作の楊家将読んだけど、さすがに早くないか?
まだ死ぬべき人間がいきて複線?と思わせぶりな所があるから、その辺を済ませてからでてくるんじゃないの? >>48
楊家将の後半は、武侠的要素が強く、女性の活躍が目立つのだが、
漢たちの物語を目指す北方先生はあまり好みじゃないらしい。
だから、それより手前の方の部分じゃないかと思われる。 宋の皇族は、地方に封じられたりしていたの?
靖康の変で、金に連行されたのは太宗系の皇族? 宋って同じ過ちを繰り返して国を傾けて二度目で滅びてるよな
相手を蛮人扱いして約束を守らないのはやっぱり良くないね そのへんの国の興亡って、テトリスゲームみたいな入れ替わり方だね。 管仲の場合はやりすぎのような気がするが
下手すりゃ桓公人質にとって意見のゴリ押ししようとする輩が続出しないか >>52
靖康の変は、皇族狩りもだけど、女狩りの方も徹底してたようだね。
開封に住んでいた高貴な身分の女性はほとんど連れ去られてしまったらしい。 南宋が元に降伏した時、皇帝周辺以外の宋の皇族はどうなっちゃったの? >>58
趙孟[兆頁](ちょうもうふ)の様に元に仕官した人もいるがこれは少数派。
大多数の皇族・宗族は隠遁生活をしてひっそりと余生を送った。 満州の方に、靖康の変で連れ去られた趙氏の子孫とかいう氏姓があったような気がする。 趙って五大姓だからいくらでも宋の趙氏の子孫だなんて言い訳できそうだ。 >>64 同じ姓だからといって、過去の貴族の家系図捏造する人も多かったし、また自分んちの家系図を売った没落貴族もいたさ。 >>63
ある意味可哀想な連中でもあるな。
実際以上に貶められているわけだし。 蔡京なんかはあまり擁護する気になれないけどね。
秦檜、賈似道なんかはちょっと可哀想な部分もある。 賈似道はやりたい放題やったけど、政策もまじめな人間だと思いつかないような、
大胆なものがあって、それが案外的を得ていたりすることがあったからね。 東京開封、西京洛陽、南京応天、北京大名の四京体制なわけだけど、
開封がダントツで繁栄していたのは有名だけど、
他の三京はどれぐらい栄えていたのかな?
応天、大名は宋以外の時代だとそんなに栄えていないよね? 大名府が鄴都だというのは知っている?
曹操の府があったところとほぼ一致するんじゃなかったっけ。 はじめて知った。
鄴は邯鄲と安陽の中間ぐらいにあると思ってた。
大名府は邯鄲と梁山泊の中間ぐらいにあると思ってた。 不安になったので軽く調べてみた。
永済渠に沿って、澶州より北、洺州より南が魏州で、五代の頃都制が敷かれ鄴都となった。
古都・邯鄲があるのが洺州で、安陽は相州にある。
唐中期から置かれた藩鎮で、魏博天雄軍というのが、このあたり一帯を領有していた。
それが唐末五代のごたごたで、藩鎮領土は分割されつつも、有力州として機能し、北宋初期魏王符彦卿の出鎮後、府制となった…? あう…
鄴県というのが相州にあるから、曹操のとは違うのかな? 最近この時代が好きになった。理由は文化史が面白いこと。日本の江戸期に
似ていること。北宋の首都開封がうちの市と姉妹都市ということ。 >>82
でも世間一般的には、物語の中の名前の方が浸透してそう。 一人の文天祥しか出せなかったのが宋朝の限界。
司馬光の猛反対と自派閥の裏切りくらいで凹む王安石の如き軟弱天才とは気骨が違うぜ! 宋初は名臣を多く輩出してるね。趙普とか。
時代が下るにつれて党派争いが激化して
そうゆう人たちがいなくなった感がある。 南宋はいまいち名臣が減った気がするね。
独裁者みたいな宰相が出てきたけど。 司馬光って今の自民党の族議員みたいなものだよな
対案ないくせに新法に反対して、結局は自分の派閥の利益を守りたいだけだし
こんな奴を宰相にするしかなかった北宋末期は、滅亡するのが運命だったんだろう
何か日本の将来を暗示してる悪寒 士大夫の権限が異常に強まったために、内部争いが苛烈になったからなー
皇帝がしっかり官僚機構を統御できれば良いんだけど、幼帝とか政治に興味が無い人物とかが続出したためにえらいことに タイ、フィリピン、中国などの世界各地の旅や夜遊び情報交換サイト!
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>>87
でも、後から出て来た蔡京とかの奴らに比べたら、
まだ芯はしっかりあっただろう。 陳舜臣氏の本だと、司馬光は「貧乏人を助けたら富裕層まで転落する」みたいな考えだったんだと
対して王安石は中小農民や商人へのテコ入れや既得権益の否定といった典型的改革派
水と油
政治姿勢はともかく、お互いを認め合って親交はあったらしいけど
王安石はケインジアンなんだよ
司馬光は重農主義者
王安石は中国史の中で最も近代に近づいた人間かもしれない 貧乏人を助けたら富裕層まで駄目になるって・・・今の日本の政府みたいだね。 >>93
いわゆる格差社会というやつか。
今も昔もどうしてこうゆう貧富の差をつけたがるんだろうね?
政治家や官僚は。
司馬光って『資治通鑑』という大歴史書を書いたのは評価するが
政策面ではダメ出ししたくなるくらいだ。 司馬光と王安石って、福田赳夫と田中角栄みたいなもんか?
どちらも後者の系統に腐敗政治家が目立つようだし。 司馬光は、ちょくせつ政治に参与するだろう裕福な階層の
そのバックボーンを守りたかったんですよ。
貧民層を守っても、彼らから俊英が生まれるのは稀で
富民からならば期待できるのです。
その考えを考慮したうえで批判しないと、かた手落ちだと思いますね。 まあ貧しいがどこまでを含んでいるかによると思うけどな
唐の貴族と寒門抗争よりはまだ窓口が緩くなったとはいえ
裕福じゃなきゃ勉強できない、勉強できなきゃ科挙に合格できない、結果、裕福層しか政治に参加できない
そういう悪循環に陥ってるからな >>96
富民層は五代中の新興地主層がそのおおもとであり、その層は捨てられた土地を兼併していって
大土地を有したのであり、貧民層を労働力として雇った資本家でもあった。
科挙を受けるにも多額の資金がいるし、また時間も必要。
富民層から科挙生が多く排出されるのは、まさにその両方が親の代からの財産が豊富であり時間があるから。
貧民層は今日の食い扶持をどうするか、というレベルなので、むろん金もなければ時間もない。
しかも富民層はさらにその貧民層に対して、金貸し業をやっておりその利子で荒稼ぎもしていた。
もともと金のあるところに、底辺から搾り取ってさらに増えていくという構図があり
いつの間にか、貧民が自力で富裕な生活を送れないような社会システムになっていた。
当然、富民層のそうしたいという意思が根底にはあったのは間違いないだろう。
王安石はそういうところを国家の側から救済しようとしたのであって、司馬光を代表する地主出身や
それらをバックボーンとした多数の連中は、利権の放棄を強要されるので反発した。
司馬光は言う。
我らは豊かになろうとして豊かになったのであり、貧民たちが豊かでないのは怠惰のあらわれだ(多少表現違うけど)。
…まさに今の日本も同じようなところに落ち込んでいるのがよくわかる。
酒弱いのに上司から勧められるとがんばって飲んじゃう人は、
本心では改革支持してても周囲から色々言われるとできない。
いくら上司から勧められても絶対に飲まない人は、
空気読まずに改革を断行できる。 よく言われることだけど、
北宋っていろいろな面で今の日本に似てるな
しかし蔡京にしたって、どこまで史実かよくわからん
歴史を書き残したのがほとんど旧法系の人間だからな
それと政治思想としての儒教を完成させたのも旧法党で
それが回りまわって日本のオレらも悪影響を受けているわけだ 宋は滅亡時に国家に殉じた忠臣は歴代でも群を抜く
有名な亡宋の三傑はじめとして多数が元と戦って死亡
後世の史書だと「やはり士大夫を養うのは無駄ではなかった」とか書かれている。皮肉っぽい感じもするが 漢化すらしてない蒙古に全土が組み敷かれ犯し汚されるなど、
真っ当な感覚の士大夫なら発狂ものだわな。 そりゃ日本に当てはめてみればいいんじゃないか。
下に見ている北に日本がちからづくで蹂躙されるのと似た感覚つうことで。
宋の官僚連中は遊牧民を、原始人…とまでは思ってないが
下に見まくっていたのは事実だろうし。 宋を侵略した女真人、蒙古人の側には、
宋の漢人に対して、文化面でコンプレックスみたいなものは抱いていたんだろうか? 中国を支配して漢化した民族はコンプレックスあったかもしれんけど
モンゴルはどうなのかな?元王朝ですら漢化しきらなかったわけだし
チンギスハーンの通商や大遠征によって、中華文明だけじゃなくイスラムやヨーロッパ・インドといった同じくらい優れた文化があることを知っていたから一つの文明にのめりこむことは無かったんじゃ? 宋側が「奴ら野蛮人との約束なんて守る必要は無い」みたいな感じで約束破るから
相手(女真、モンゴル)は「だったら実力で思い知らせてやる」というふうになったんだろう
金のときといい、モンゴルのときといい、ここらへんはどうにかならなかったのかねぇ…
何世代か過ぎてしまうと、過去の愚かな失敗は忘れてしまうから
人間の歴史は繰り返しが多い。
で、今の日本は過去の愚かしい現実をなかったことにしようとしているから
この先何年かで、また似たようなことが繰り返されるだろう。
歴史を俯瞰してみると、今がどういう位置づけかがわかるというもの。
まぁつまり、恭謙でない人間が存在する以上、どうにもならんということか… でも宋の失敗は何だか可愛げを感じる。
明の失敗は何だか陰湿さを感じる。 最後の皇帝が幼主だからじゃないの?
これが暴君だったら末期の印象が大分変ると思う 崖山は悲劇として引き立つね。
隋の最期とかは誰も同情しないし。 朱子学の華夷思想の影響で元(モンゴル)への抵抗が激しかったけど
末期の南宋政権を見ると忠誠心も失せる。
余談だが、南宋の忠臣として有名な張世傑の軍隊は略奪すること甚だしく
泉州ではそのせいで忌避された。 孟キョウはなんで宋軍の中では例外的にあんなに強かったの? 強いというより宋本来の実力をフルに使っただけ。
もともと宋は歴代支那王朝の中でも、全ての分野でハイクォリティの国家。
戦争が苦手と言われるが、それは軍閥の台頭を抑制してたから。
そもそも黄河流域は唐末からの混乱で消費地帯と化していた。
北の勢力がそこだけ手に入れても余り旨味は無い。
この時代は江南こそ中原だった。
まあ、全ての国力を長い防御線に投入する戦略は結果としては間違ってたな。
攻撃あってこその防御だということが証明されたと思う。 孟氏は岳飛の部将だったこともある軍閥だからじゃないの?
宋は建前上は軍閥を否定したけど、2万規模の孟氏の私兵(忠順軍)がれっきとして存在していた
呂文徳の軍閥もあるけどこれは一代での成り上がり
結束力も経験も弱体化した正規軍に比べて段違いだったんじゃないの?
中核に熟練兵がいれば、他の兵士を引っ張ることもできる >>118
宋が対外的に積極的な姿勢に転換していれば、
唐以上の大帝国を実現した可能性もあったかも? >>120
二代目太宗の時に、遼を攻撃して皇帝が行方不明になるほどの敗北しているから無理じゃないの?
方針転換したからこそ中国が大発展する内的余裕ができたともいえる 遼討伐は後周世祖なら確実に出来た。
北宋太祖でも勝てなくても有利な講和を結べたろう。
その二人の創業が不完全ゆえに宋朝300年の戦略は決まってしまったとも言える。 >>123
世宗が燕雲を攻めるのに、破竹の進撃ができたのは
遼側にいくらかの政治不安があったからでしょう。
なので、世宗が遠征途上で病に倒れたのはまことに残念。
おそらく、機会としては最大の好機だったろう。
で、太宗のとき、なんと遼は最盛期を迎えてしまった。
たとえ世宗が再び現れても、似たような敗北を喫したであろうね。 >>122
対外積極策は国力を削ぐ結果になったということか。
ところで西夏なら倒すことができたかな? 西夏との戦争はだいたい一進一退を繰り返していてとても倒すどころじゃない。
あまり西夏にのめりこみすぎると契丹への備えがおろそかになるし。 同時代のモンゴルの快進撃を見ると
モンゴルが強すぎたのか、それとも宋が弱すぎたのか… 宋は初期の太宗の敗退から滅亡まで攻勢に出ると全く駄目だね
そういう軍隊だったんじゃないの? >>125
西夏じゃ、滅ぼしてもあの土地じゃあまりメリットないような・・・・・・
契丹に圧力をかけるには好位置か? スパイスロードの発達で、シルクロードが衰退して旨味が無くなってるしな。 劉宋の国号が宋なのは、宋王からだけど、
趙匡胤の禅譲は王を飛ばした? 趙匡胤が国号を宋としたのは、宋州節度使を兼務していたから。
劉知遠や郭威も、別に漢王、周王だったわけでもない。
北の「蛮族」に圧迫されている現実から逃れるため、哲学の世界では「華夷秩序」や「大義名分」がやかましく言われるようになった
漢民族は兎に角えらくて他は禽獣以下なんだ、と己らを慰めていた
それだけなら良いのだが、実際の外交や戦略でも相手を人間扱いしない悪弊が発生してそれが取り返しのつかない結果を何度も呼んでしまった
北宋滅亡や南宋滅亡の経緯を見ると、宋側の背信の数々に「どっちが蛮族?」という印象を受ける 日本でも似たような時期があったね。
鬼畜米英って言ってたのは、いつのことだっけ… >>136
>>134氏の言いたいのは、他国を賤しめてたから怪しからん。
って事じゃ無くて
人として認めない様な、見下した態度取るが故に、
平気で同盟を反故にする馬鹿をやった。
って事を言いたいんだと思う。 戦争中の悪口言い合いならむしろお互い様
「ジャップ」とか「イエローモンキー」とかね
でもこの場合は違うでしょ、宋が二度も犯したのは同盟結んだ相手に対する数々の背信が呼んだ破滅なんだから >>137
それはむろんわかっているけどね。
中国政権にとってみれば、草原に現れる勢力ははるか昔からの歴史的外敵だから。
辺境の居住区は彼らの食料庫にされていたわけだから、敵愾心も根強いだろうね。
ただ、後晋期まではそれでも破綻しなかったわけだけど
どいうわけか、中華文明マジックが効きにくくなった、というのが運の付き。
相手が自分と対等に近い文化をもってしまったので、悪あがきの果ての自滅でしょう。
救いがないのはしょうがないね。再三同じ失敗繰り返しているから。
>>悪口言い合いならむしろお互い様
それは敵対国同士なら自然な感情だろうけど、日本だってその前には日英同盟なんてものもあった。
本土爆撃くらっても、まだ戦えるとごり押しした結果があれ。
戦局を見極められない上層部を持つと、民衆が憐れだ。 こんな板まで無関係の話とわかっていて無理矢理結びつける反日馬鹿が湧く御時世か。いやだねぇ…… >>139
それを言うなら、いきがってはいるがもうボロボロの国の市民を30万殺した方もアレだぜ
(勝てば官軍だから非難されないけど)
末期の大日本帝国はどっちかっていうと文天祥みたいに片意地張ってた感じだ >>141
なんか反日呼ばわりされたが、単にバカな指導者が嫌いなだけで
そこには日本とか中国とか関係ないんだけどね。
それは置いて、文天祥はみずからゲリラ戦(?)の戦力を私財で組織し、自ら率いて
焼け石に水的な(結果論では無益な)軍事行動を起こしている。
指導者自ら死地に入って、意地を通そうとしているわけで、その心意気だけは
自分は評価できると思う。その軍才とか、そういったものは評価できないけど。
で、さらに重要なのは、自分だけ逃げて生き延びようとしていないところ。
隋の煬帝などが、群盗が起こったとき、その責任は楊トウなどに押し付けて、
江都に逃げたのが最大の罪悪だと思っている。 >>144
道教狂いの真宗が建させてた「玉清昭応宮」を忘れてはいけない。 >>145
それより開封城の真ん中を貫く、皇帝専用の御道ってのが、
具体的にどんな感じなのか、想像がつかない。 >>147
朱雀大路が三車線・三車線で、
真ん中の二車線が皇帝専用みたいな感じ? 皇帝陛下専用の御道ってのは横切ることはできたんだよね?
じゃなきゃ、あんな城のど真ん中を貫かれたら邪魔で仕方ない。 それは、あの趙匡胤が疾走した道をありがたがっているわけ? 韓侂冑は殺された後、金の要求通りに首が北へ送られて、
中都で晒しものになったんだってね。 韓侂冑の一族はどうなったのかな?
族滅までいかなくても、流刑とか? 宋ってあまり徹底した族滅のイメージとかってない。
ちょっと地方に流刑な感じじゃないの。 ,. -‐'''''""¨¨¨ヽ
(.___,,,... -ァァフ| あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!
|i i| }! }} //|
|l、{ j} /,,ィ//| 『おれは金を利用して失地回復しようと思ったら
i|:!ヾ、_ノ/ u {:}//ヘ いつのまにか開封まで取られて北方に連行されていた』
|リ u' } ,ノ _,!V,ハ |
/´fト、_{ル{,ィ'eラ , タ人 な… 何を言ってるのか わからねーと思うが
/' ヾ|宀| {´,)⌒`/ |<ヽトiゝ おれも 何をされたのか わからなかった…
,゙ / )ヽ iLレ u' | | ヾlトハ〉
|/_/ ハ !ニ⊇ '/:} V:::::ヽ 頭がどうにかなりそうだった…
// 二二二7'T'' /u' __ /:::::::/`ヽ
/'´r -―一ァ‐゙T´ '"´ /::::/-‐ \ 盟約違反をしたからとか李鋼が独断で動いたからだとか
/ // 广¨´ /' /:::::/´ ̄`ヽ ⌒ヽ そんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ
ノ ' / ノ:::::`ー-、___/:::::// ヽ }
_/`丶 /:::::::::::::::::::::::::: ̄`ー-{:::... イ もっと恐ろしいものの 片鱗を味わったぜ…
____
/ \
/ _ノ ヽ、_ \
/ o゚⌒ ⌒゚o \ 今日もまた宋に帰れる日を夢見る仕事がはじまるお…
| (__人__) |
\ ` ⌒´ / 新発見!700年前の秘密の地下トンネル、蒙古軍侵攻のものか―重慶市
2007年8月17日、重慶市文物考古所は同市内で現在発掘中の釣魚城遺跡で、長さ35mの地下トンネルを発見・発掘
したと発表した。
文物考古所の袁遠山(ユエン・ユエンシャン)副所長は、発掘中の釣魚城奇勝門の北150mの場所に地下通路を発見
したと説明。地上から約5mの深さに掘られており、700年以上前にこの地で蒙古軍と宋軍が凄惨な戦いを繰り広げた際
に、蒙古軍が秘密裏にこの地下トンネルを掘り、城内への侵攻を企てていたのだろうと推察している。今回発掘・整理
された地下トンネルは35mだけだが、全体の長さはまだ不明。
トンネルの幅は約1m、高さは最高で1.5m、最低で1m。前かがみで前進しなければならないが、逆凸型の通路である
ことから、前進に疲れた兵士は逆凸の出っ張りに腰掛けて休憩できる。またトンネル内には南宋時代のものとみられる
丸い砲弾や陶片も見つかっており、この地下通路がすぐに南宋軍に見つかったことを物語っている。
歴史資料によると、1259年に蒙古軍が釣魚城を突破したが、その後撃退されたとの記述がある。
http://www.recordchina.co.jp/group/g10623.html まぁ地下トンネルくらいで落ちるならあんな長期間もちゃしないよな 日宋貿易なんかを見ると、かなり民間主体で行われているけど、
宋は、外国との商取引に関して国家の干渉の度合いが小さかったのかな。 宋朝300年余を通じて、最高の忠臣って誰になるんだろう? 最高ってどういう意味かわからんが、有名な忠臣なら文天祥じゃね?
正気の歌は日本の志士達にも大人気 >>167
なら口だけ番長、李網も評価されてたよ。 宋は外敵にやられっぱなしだったから、
愛国英雄タイプの英雄が多いわな。 宋は外敵にやられっぱなしだったから、
愛国英雄タイプの英雄が多いわな。 古代の服飾や家具がカラーで再現、南宋代彩色壁画の剥離作業に成功―湖北省襄樊市
2007年11月9日、湖北省襄樊市で、2か月前に発見された南宋代のものと見られる彩色壁画の剥離作業
に成功、生き生きと描かれた20人以上の人物と日常生活の風景が人々の前に姿を現した。
今年6月、同市で建設工事中に唐宋代の墳墓5基とかまどを発見。市文物考古研究所はただちに発掘作
業に入った。9月上旬にそのうちの1基から彩色壁画が発見され、注目を集めていた。
9日までに無事成功した剥離作業の結果、全容を現したこの壁画は、南宋の日常生活を描いたものと見
られる。専門家は壁画に描かれた人物、服飾、家具、食器類などの描写は極めて高い研究価値があると指摘。
今後、修復作業を経て、同市の博物館に展示される予定。
http://www.recordchina.co.jp/group/g12713.html 南宋って湿気が多そうだから、壁画なんて残りにそう。 開封って、金の統治下に入った後、黄河の大氾濫で土砂の下に埋もれたでしょ。
北宋がそのまま続いていたとしても、いずれ開封は放棄せざるを得なくなったかな? >>176
そういえば、後晋のころからやたら黄河が氾濫して、澶州とかの位置が
黄河の北岸になったり南岸になったりしている(歴史地図では)。
当時の政権は黄河の治水にかなり労力を向けたようだ。
かの後周世宗も、黄河の治水をやったしね。 黄河って凄いよな。
主河口も、山東半島の北側に行ったり南側に行ったりしている。
どちらかと言うと長江の方が流れは安定しているのかな。 新華社電によると、積み荷を満載したまま中国広東省の陽江沖で沈没した宋代の貿易船が21日、
約800年ぶりに引き揚げられた。当時の海上交易路「海のシルクロード」解明の貴重な手掛かりになるとみられる。
貿易船は全長約24メートル、幅約10メートルで、「南海1号」と名付けられ、
今年5月から引き揚げ作業を開始。周囲を特殊鋼製の巨大な容器で覆い、
水深30メートルの海底からクレーンで引き揚げた。
ソース:時事
http://www.jiji.co.jp/jc/c?g=int_30&k=2007122200024 >>178
そういや、長江ってあんま氾濫とかの話も聞かないな? 長江は氾濫よりも増水の話を聞く気が。
大きな調整湖があるのが関係しているかな。 <南海1号>兵馬俑に匹敵?!お宝満載の沈没船がついに陸揚げ終了―広東省陽江市
2007年12月27日未明、沈没船「南海1号」の陸揚げ作業が完全に終了、一両日中にも博物館内の展示研究施設「水晶宮」
へと移転される予定だ。同船は約800年前の南宋時代に沈没した貿易船。陶磁器など大量の宝物が船内に残されたままで、
その価値は兵馬俑に匹敵するとも伝えられる。中国新聞社が伝えた。
陸揚げ作業は慎重の上にも慎重を期して勧められた。25日にも陸揚げ作業が実施されたが、残り8mの地点で中断。26日
夜から作業を再開し、3時間にわたる作業の末についに陸揚げは完了した。
関係者によれば、27日中にも南海1号は水晶宮入り口にまで輸送される見通し。28日には同船を受け入れる「海のシルク
ロード館」で祝賀式典を開催するという。
ttp://www.recordchina.co.jp/group/g14094.html <南海1号>引き揚げ成功秘話!成功の裏に海洋トレジャーハンターの影?―中国
2008年1月1日、昨年末、海底から無事引き揚げられ、大きな話題を呼んだ「南海1号」。しかし、実はこの成功の裏には
止むに止まれぬ事情があったという。その事情とは、世界的な海洋トレジャーハンター、マイケル・ハッチャー氏から海底に
沈んだ中国の財宝を守るべく立ち上がらずを得なかった中国考古学界の姿が浮かんでくるという。「中青在線」が伝えた。
沈没した軍艦や商船を引き揚げ、積荷の金属やゴムなどを売買する商売を経営していたマイケル・ハッチャー氏は、ある
時偶然に中国明代(1368〜1644年)の沈没船を引き揚げ、積荷の陶器などを収集家に売り大もうけした。ハッチャー氏は、
これをきっかけに商売の方向を転換、もっぱら沈没したお宝船の捜索、引き揚げに従事し、現在「世界で最も有能な海洋
探検家」「最も成功したトレジャーハンター」と呼ばれている。
1984年、ハッチャー氏は1752年に沈没したオランダ商船「ヘルダーマンセン号」の引き揚げに成功、約24万点の青花と
126点の金の延べ棒などを回収。これらの陶器などが86年にアムステルダムで開催されたクリスティーズオークションで
競売にかけられた。しかし、当時の世界各国の海洋法や中国の法律ではこれを阻止することは出来ず、また当時の中国
には資金もなく、次々と競り落とされる陶器類をただ横目で見ているほかなかったという。
さらにハッチャー氏は、99年に清代(1644年〜1912年)の沈没船「テクシン号」を発見、100万点以上引き揚げられた貴
重な中国製磁器の中から、希少価値を高めるため36万5000点だけを残し残りをすべて廃棄、オークションで3000万ドル
もの収入を得たという。
度重なる財宝の流失を知りながら、政府が沈没船引き揚げ事業に手をつけなければ損失はさらに広がるばかり…こう
した止むに止まれぬ事情が今回の「南海1号」の引き上げ成功につながっているという。
ttp://www.recordchina.co.jp/group/g14259.html
南シナ海だから、広州からインド洋方面へ向かう途中の貿易船? 泉州、広州から南シナ海、マラッカ海峡を経て、インドやアラビアの方へ通じる航路。 宋代の皇帝による草書巻物、過去最高の17億円で落札―香港
2008年4月21日、新華網が伝えたところによると、20日、香港にて行われた芸流国際拍買公司の春季オークションで、宋
徽宗の手による書道の逸品『臨唐懐素聖母帳』が1億2800万香港ドル(約17億円)で売却された。これはオークションで売
却された中国書画作品の世界最高記録。
徽宗は宋(961〜1127年)の最後の皇帝で、芸術に秀でていたことで有名。現在分かっている範囲では、徽宗の作品で
民間に所蔵されているのは19点にすぎず、特にこの『臨唐懐素聖母帳』は民間所蔵品の中で最長の草書の巻物ということ
で今回のオークションの目玉だった。
オークションでは、6000万香港ドル(約8億円)の最低価格でスタートするやいなや、瞬く間に価格がつり上がり、最終的に
はヨーロッパの個人収集家が1億2800万香港ドルで落札した。
この日、出品されたのは宋代の書画、木彫などの秀作34点で、落札総額は2億9000万香港ドル(約38億円)。中国だけで
なくアメリカ、シンガポール、日本などからも参加者が集まった。
ttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080423-00000011-rcdc-cn 神宗皇帝が長寿だったらその後の北宋はどうなったと思いますか? 神宗こと趙ぎょくはどういう人物なんですか?よくわからないから詳しく教えてください? >>191
wikiの内容じゃ不足?
具体的に分からない部分を挙げて質問したら、
答えてくれる人がいるかもよ。 神宗って、徽宗みたいに女性関係のエピソードってあるの? そこまで神宗に興味あるなら、宋史でも読んでみたら? __
ヽ、 、 , -─‐- 、_ //´
ヽ>¬,r‐'´ ヾ ヘ¬、
/´_,j } / / i 、 、ヽ ヽヽヾ、、\
¬7 勹ハく Y' i |! ト ヽ ヽ ヽヽヽ `ヽ
/ // / ! ヘ|l l |ト l l | !_,ム」トヾ ヘ
!// 〃 |.l !l. ヘィ¬=└ ン、ム ! ヽ '、 しかし、わかりやすいスレッドタイトルある
. レ' /イ/l トr¬ ム也リ` ヒj |! l ヾ!宋マニアのスレあるな
'´/ !l.ゝヾ l ゞ' ¨ jト ト、 !
ヾトリく、 ヘ rァ/!ハ|i | なんかの昔の日本映画で李元昊が自分のいろんな人種の
. ツ`ヽ. ミ¬' ' ' || ! 兵隊たちにタングート語で演説したのを、宋語(中国語)の
/`丶、ヽ ∨ !| ! ほかに2種類くらいの言葉で同時通訳してた気がするけど、
/ `ー'、_ レ あれ、何語だったかわかる人いるか?
i ヽ
∧ `、
/ ヽ 〈、 i
ヾ\ ヽ ヾ /ヽ
ネットで正史読めんのか…初めて知った
くそー 今まで大学の図書館まで行って
気になったとこだけ ちまちまコピーしてたよ >>196
すごい!神だ!
ここで「史記」でもなんでも読めるじゃん!! 岡田英弘氏が著書「皇帝たちの中国」で、
「北宋と南宋の趙氏は漢人かどうか疑問がある」って書いてるけど、
そこらへんはどうなんですか?
アワワ、マルチじゃ、マルチの仕業じゃ。
まあ過疎ってるし、いっか。 >>203
中国はネット上で、史書や古典の類は全部読めるよ
有名な小説だって読める(著作権あるはずなんだけどね……) 王安石の新法に相当することを太祖の代からやってたら領土がふえて寿命も延びたかな? >>208
太祖の時代には官僚優遇と軍事抑制が必要だった? アメリカは日本に混血児は残していない
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日本国内の、在日とハーフの位置づけは、ベトナム戦争時の韓国兵による現地
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アメリカは日本に混血児は残していない アメリカは日本に混血児は残していない ウイルスだらけ・・・
ところで宋が滅んだ最大の原因を作ったのって誰? 個人で運営してる?第二部 北宋史の話ってあれは何かの訳なの? >>221
実戦部隊50万、廂軍50万、合して100万を国境に張り付かせることができる
国力を実現させている北宋で、「軍事力が貧弱」はない。
問題は、それを運用するシステムの腐敗。 >>204
加藤徹明治大教授は「貝と羊の中国人 (新潮新書) 」で趙匡胤はトルコ国家の後唐の近衛兵の世襲軍人家系だからトルコ系の可能性はかなり高いって書いてる。 >>221-222
宋は専守防衛なら武力も強力だったぞ。
機動力に欠けるから外征は苦手だが。 >>222
百万を長い国境に張り付かせたら、一ヵ所突破されたらズタズタに分断されるんじゃ…
もし百万の軍を国境付近に配置しつづけたとしたら
宋はモンゴル帝国を除き、中国王朝史上以前にも以後にも例を見ない、とんでもない軍備をもってた事になるんだが >>229
北宋代はそれまでの中国とは違って人口爆発がおきているからね。
唐代だって府兵兵数は国内で60万→いくらかの部隊が長征健児として国境へ。
うち、補給部隊が計算されているかどうかは定かではないが
北辺一節度使管轄の兵力って十万規模だったから、それほど奇異なことでも
ないように思う(節度使兵力は傭兵)。 人口の10分の1が兵力だったと言う例も有るんだし、人口5000万の内で100万だったら、決して珍しい事では無いと思う。 なんとなく宋って現在の韓国につながる部分あると思うけど如何だろ?
一例をあげると
・嘗ては大陸国家だったが陸路の交易ルートを他国(遼・北朝鮮)に塞がれたため
海に目を向けざる負えなくなり、海洋国家化したこと
・国際貿易で巨万の利益を上げ経済発展し、経済的・文化的にも相当な発展が見られたこと 魏・呉・蜀→晋が統一
北周・北斉・陳→隋が統一
宋・遼・西夏→元が統一
なぜなのか? 宋の動員力を考えると
遼との和解の際に金払う必要無かったって指摘があるんだよな。
遼は遼で前線が伸びきってこれ以上の南進は無理だったそうだし
遼の高麗侵攻の時に行動起こしていれば
うまく立ち回って居たら燕雲十六州くらいは奪還出来たんじゃ 南宋は2代目から太祖の血統に移ってますが、
これは何か意図があったのですか?
それとも、他に適当な者がいなかったからですか? 岳飛辺りを知るのに何か良い本やサイトはある?
小説は北方岳飛があるけど 宋「燕雲十六州欲しいなぁ、異民族の遼なら裏切ってええか金と組もう」
宋「燕雲十六州欲しいなぁ、異民族の金なら裏切ってええかモンゴルと組もう」 >>245
組んだ相手も騎乗人面獣だからな
そこが失敗の根本的理由
騎乗人面獣は永遠の敵であり、組むなんてことはあってはならない。駆除の対象なのだから