■■■五代群雄伝■■■ P35
中国史上屈指の乱世五代十国時代。
栄華を誇った大唐帝国が崩壊し、秩序が失われた中原で群雄が覇を競い、異民族が侵入した戦乱の時代。
この激動の時代を駆け抜けた英雄たちを語れ。
>>284
柴栄もちょっと受け取り方をかえれば、非常にユニークなヤツになりますね。
それが実像、というのとは別にしてもね。
>>365
春秋戦国時代と一緒で短編化はしやすいと思いますよ。
不落の寿州を演出した劉仁贍などは、書いてみたい気になったことはあった… 北宋建国当初の把握戸数は300万戸(あくまでも課税対象としての戸数)。
一戸平均5人とすれば、1500万人。
>>1
の華南諸勢力併合時の戸数合計がおよそ、200万戸、1000万人ほど。
すると、華北政権は100万戸、500万人ということになる。
この華北の戸数は、南唐の淮南を後周が分捕ったとき。
淮南平定直後の把握戸数は22万戸だったとか(その後北宋仁宗期には5倍になっている)
後周の把握できた人口は400万…? ほんまかいな。
淮南が南唐の領有なら、人口比で負けてますがな。
もう少し、勉強する必要があります。ほんとかどうかわからん。 自分で自分のレスに突っ込み入れるのもアレだけど
>>1
>>蘄州のとなりの州では、趙匡胤が猛威を奮っていたときのこと。
滁州のことを言ってたのだけど、隣でもなんでもなかった。
それと、>>375の趙学究。趙普のことらしいのだけど、本来趙普は、後周の宿将たる
劉詞の推薦を受けて、柴栄の配置で趙匡胤が攻略した滁州に派遣されたのが
二人の出会いとなっているわけです。
なので、かなり妖しい逸話ではありますね。 >>1
誰も気にしないだろうし、どうでもいいことと思いますが
李平と朱元が崇山道士のもとで学んだ、というのは間違い。
李平自身が自ら崇山道士を名乗っていたようです。
道士かぶれの李平とともに学を修めた、というのは間違ってないと思いますが
まぁ他にも勘違いとか誤解があるでしょう…
いまちょっと、朱元を主人公に軍記小説書こうとしてますんで、発見できた次第でした。 ::::::::::::::::::::::::::::: ,.-ヽ
:::::::::::::::::::::: ____,;' ,;- i へ、 /;へ\
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朱友珪 朱全忠 朱友文 「朱温」(上・下)仁木英之 朝日文庫10/7発売
「朱全忠」の一生を追った物語 >>(他の武将の立場は・・・)
実は小説の題材に考えているんですが、このときの任圜と魏王の関係は
師弟のような間柄になってたんじゃないかとか思ってます。
もともと魏王の補佐として、任圜と李愚を付けてたところ、魏王がなついてしまった
という話…… いや、多くは語るまい。 岐王李茂貞のエピソード
ある時李茂貞は油を買占め、城内に薪を入れることを禁じた。そうしておいて、
自分はその中から良いものを選んで灯りにしたので、真っ暗闇の中で李茂貞の居城
だけが灯りに照らされて浮かび上がることになった(と思う)
一人の俳優がこれを皮肉って言った
「ついでに月明りも禁じたらどうですか」と
李茂貞は笑って怒らなかった。
『五代史』には李茂貞は寛大なうえに親孝行で民や軍隊に信頼された。また領土が
狭いため税金も低かった、軍事のことは一度聞いたら忘れなかったといろいろ
いいことが書いてあるが、最後に軍隊の統制にまったく規律がないという
おちがついている。 ヒデさん、五代英雄伝の続編執筆予定。
つうことは、五朝通史する気なのだろう。 文庫版の『朱温』読んだけど、王重栄と朱珍がかっこよかったな。
ところで世界史板のほうは落ちちゃった? >>299
ああ……980越えたからか……
あしかけ8年の長寿スレだった。 >>299
次スレ立てるなら、ここも関連スレとすべきかな 文庫版の『朱温』、面白かったけど、下巻の後半がやたら間違いが多いのが気に成った。
既に死んだ人物に書状を送る文章が何回か出て来たし、
地理の方角が東西逆に書かれていたり、
文章の変換ミスみたいな部分も有った。
登場人物で格好良かったのは、楊行密が凄い魅力的人物として描かれて居ましたね。 楊行密が孫儒に連戦連敗だったけど最後にどうにか勝ったところは項羽と劉邦
の関係に似てるな。 仁木英之 李嗣源(上・下)朝日文庫 10月7日発売 朱恩の続きとして読むにはちょうどいい時期じゃないだろうか。
陣営が逆で重複している時期も視点が変わるし。
見せ場は対梁戦の戦場働きと皇帝として迎えられるところじゃない?
期待ageしときながら今日まで存在を忘れてた・・・ 秋には耶律徳光出すみたいだね。楽しみ〜
…とか言っときながらも朱温も李嗣源も積ん読状態なのだけど。
早く読みたい。 ttp://www.e-hon.ne.jp/bec/SI/BunkoSyuppan?sppnscd=00001&taishongpi=201110&listcnt=0 >>312
江西省といえば洪州に鎮南軍節度が置かれていた。
五代十国時代に突入した西暦907年に、呉王・楊渥によって陥落し
呉王自ら鎮南節度使を兼務してる。
それ以降、南唐のときに府制が敷かれ、やがて南都とされた。
南都には、南唐随一の猛将、林仁肇が配されたが、その武威を恐れた趙匡胤の
離間計によって殺され、その後は都制も解かれ、ただの州制に戻った。
南唐(当時は江南国)は北宋にひどく遠慮していたので、林仁肇の死後はさらに
自らを卑下しまくっていたから。
唐末期は、江西団練観察と刺史の兼任。
鍾伝が長く割拠していたけど、先に書いたように呉王によって破られている。
開国などはしておらず、自立したいち勢力。一応、唐の追認を受けている。 そうでしたか。
いや、なんか「閩と南漢と呉の境界らへんに小国が存在した」
みたいな記述を本で見たような気がしたんです。
でも夢かもしれないし、それ以来見たことがないもので。 小国というか、小勢力なんでは?
淮西では秦宗権が称帝していたけど、それとはだいぶ違うし。
またその記述を発見したら、なんという本なのか教えて欲しいな。 山川出版社の世界史リブレットの一冊だったと思います。 閩は本国・福州と、建州、泉州に三分割され(あの小国が)
いっとき、建州では王延政が開国し、殷と号した。
その後、殷は南唐領、福州は呉越領となり、泉州も一応は南唐領
だが、北宋の統一まで節度使・留従效は半分独立勢力として存在した。 沢山地方政権ありますが、
ほとんどは中原出身の人間が建国したんですよね
それが気にくわない。 中原をどのへんと仮定するかだな。
結構、地の人も多いんだけどね。
夏州李仁福は、もともと夏州牙校、湖南の劉言、王逵(王進逵)、周行逢も
楚領内の出(朗州とか)、呉王楊行密は廬州、呉越王銭鏐は杭州、北漢劉崇は太原。
清源軍(泉州)の留従效は泉州、趙王(鎮州)の王鎔は鎮州騎将。
と、だいたい勢力基盤と出身地は近いか同じ。
閩の王審知は光州。淮南なので、中原とは違うけど地ではない。
燕の劉守光と、岐の李茂貞はともに深州。中原というとちょっと違う。
前蜀、後蜀、南漢、楚、荊南が中原人か。
南唐の徐氏(李昪)は海州だけど、これは中原というのかな?
北平郡王(定州)の王処直は京兆……。
むしろ京畿付近出身の群雄は少ないのと違うだろうか? 岐って何で秦じゃないのか?
カンコクカンまで抑えてないから? 治所が岐州で、岐王に封じられていたからだな。
秦州はまた別だし、岐山に拠って周朝がなんたらという故事も縁起がいいからとか? 黄巣が国名「斉」のまま、
故郷で再び王になってくれたら… 黄巣は盗賊ではなく、科挙崩れの書生だよ。教養はあるんだ。
黄巣の集団の中には、そうした知識人もどきもいたけど、朱温や
馬殷等の一定の成功をみると、まだ唐の求心力には及ばなかった
のだろう。 青州平盧軍は順地とはいいがたいな。
独立国というほどではないけど。
後晋期に楊光遠が青州で独立し、契丹と結んであわやという時期はあった。
山東は唐末黄巣の乱で江南浙東が荒れた以後、中原政権の重要な食料と塩の供給地。 >>333
この時期の強国は、河東と魏州、揚州に益州だな。
シルクロードの帰着点は長安、洛陽の線がもっとも有名だけど、河東に入る線がこの頃重要さを増してきている。
それというのも、モンゴルに強く安定的な国ができたから、一段北の商益路が利用されるようになった。
その帰着点が河東太原になる。
鉄、牛皮、明礬に銀と、太原は当時強国の拠点足りえた。
魏州は名目的に中原王朝のいち節度だけど、従順な支配地域以上、独立国以下の特殊な事情がある。
河北平野の交易路中点に位置し、対契丹防衛の要衝。
揚州、益州は天下第一の富裕を誇る地域として有名。 >>334
燕の当主が英明で、魏博を統合できたら、
梁や晋とも並立できましたかね? >>335
おもしろい試みだと思う。
仮に李存勗が並みの戦術家で、梁との一進一退が続いている中、燕では親子兄弟仲睦まじければ
そういうことがあったかも。
韓延徽や馮道を宰臣として登用し、盧文進、高思継、趙徳鈞、元行欽、単廷珪を将軍とすれば、実は結構粒ぞろい。
韓延徽、馮道は言うに及ばず、高思継は息子に高行周がおり、趙徳鈞は趙延寿がいる。
(孫の代にいけば、高懐徳と趙匡賛。一国を代表する名将連だったり)
盧文進は晋とも戦え、やがて南唐に亡命しても名将だった。
元行欽、単廷珪は晋の夏魯奇および周徳威の引き立て役ですが、驍将。
まぁ、できなかったから瞬殺されたんですけどね。 馮道がもともと燕所属だったことは忘れてました。
魏博の銀槍軍も加わったら晋梁と互角になれるかもしれませんね。
ただ燕王は劉親子以外じゃないとダメみたいですが。
あと岐はどうすれば生き残れるでしょうか。 あと、「燕」という名は単に地域名というだけでなく
安録山を多少は意識していたとか? 唐崩壊直後、梁の初期というのは
中国の数ある分裂時代の中でも一番「しっくりくる」というか。
各国の国名、面積のバランス、首都の散らばり方とか
(確かに山東に国が無いとか南『越』じゃなくて南『漢』だったりと
多少の不満はありますが)。 劉守光の燕建国は、その前に梁祖から燕王を授かっていたからというのが第一だけど
劉守光が安禄山を意識していたかどうかはわからない。
馮道は、孫鶴ともども用いられる可能性は極めて低い、というかはじかれたんですけどね。
他にも後世名を成した盧龍出身者はいて、劉守光のような粗暴な男でなければ、おもしろい勢力ですよ。
魏博銀槍都の件は、梁の仕置き失敗の時点で梁に対向しうる勢力として台頭していないと得られないですね。
営州、滄州まで領土が拡張していたとはいえ、義武や趙に喧嘩売っているところを見ると、どうせ晋に
やられそうな気がしますけどね。 李茂貞は一時、西で最大の勢力になっていたのに、惜しいことをしましたね。
朱温に嫁さんを寝取られた楊崇本が一時、鳳翔、邠州、州、秦州、隴州の兵を併せて統率し
力戦しましたけど、劉知俊と康懐貞に負けており、その後の武功、?県の戦いでも、両者にボロ負け
してしまって国威が落ちましたね。
符道昭も悪くはないんでしょうが、梁の劉知俊や康懐貞の方が上手でしたね。
その劉知俊が岐に亡命して、康懐貞を二度から撃退してのけたので、保ったというところでしょうか。 >>340
ネットでちょっと調べたたけでも劉仁恭、劉守光ともにひどいものですね。
そんなに有能な人材がいたのに逃すなんて、「隗より始めよ」の戦国燕とは偉い違いです。
どうも乱世のせいか、異常な人物が目立つような。 ただ、劉守光はともかく劉仁恭は戦も世渡りもそこそこ巧みで、一方の雄としては興味深いところ。
李克用が死に際残した三本矢の訓戒で、契丹、朱温に並んで劉仁恭も討て、となっている。
それくらい、晋にとって燕は無視できないうえに、恨みが積もっていた。
>異常な人物が目立つような。
武人社会だし、短慮で荒っぽい人間が面に立っているからでしょう。
謹厳、文を好む、という人もいるし、最初粗暴で、後名将の風格を備える者もでてくる。
魏州銀槍都の皇甫暉などその典型で、貝州で反乱を起こし州民を殺掠しまくった男が、南唐に亡命すると
名将モードに転化して、「周軍、すこぶるこれをはばかる」と言われ、滁州清流山では趙匡胤と接触し
記録によっては皇甫暉が大敗、あるいは趙匡胤を破るとある。
一進一退で、最後は趙匡胤の中入れで負けてしまうけど、捕虜となっても神色自若。
皇甫暉が防衛した滁州の民は、皇甫暉の意気に感じ、毎日五時に鐘を鳴らして弔いとしたそうな。 春秋戦国に比べて異常に統一のスピードが速いのはなぜですか。 唐の中後期からすでに、意のままにならない節度使勢力を牽制するために、王師の強化がなされていたけど
これは令下の制度であった節度使体制≒封建制を打破する中央集権策であって、宋代のいわゆる「強幹弱枝」政策
というのは、その流れが結実した結果ということになる。
早いといっても、憲宗の中興以後、宋太宗の節度使解体までで考えると百五十年くらいかかっているんだけどね。
戦国時代は基本的に人民の社会意識は封建社会で、秦始皇の統一策は絶対君主、中央集権を目指したことに
よって実現されるに至るわけだけど、ここには法家の存在と法による公平さ、民間からの軍士、官吏登用(これは春秋時代では
みられなかった社会変容。それをもたらしたのは武器等の進化による戦術の進歩と規模の拡大による人員不足など)
さらに商路の都合によって通貨の統一などが望まれた方向性によってくる。
いち勢力に留まらない墨家のような傭兵集団や、下克上的な反乱などで国家間の勢力均衡に微妙な翳りが生じ
商路の確保による統一的概念が生まれだした頃、秦が軍事力ともにぬきんでてしまい、その勢いは坂を転がる
ように拡大していったことから、前代未聞の中華一統がなされた。
統一に動き出してから、一様の形ができたのは、秦始皇の方が早くないかい?10年くらい。
もっとも、完成をみるのは漢孝武帝の頃であって、当時はまだ強固な中央集権、官僚社会とはいえなかった。 >>345
ということは、梁もしくは晋は
多分に唐の中央集権化路線を引き継いでいたと。 燕以外の二藩というのはある意味キーなわけか。
ここを梁や晋が押さえれば他を圧倒する勢力になって
一気に統一まで進むし、弱小の燕が押さえれば梁や晋と並ぶ勢力になれる。
燕王がもう少し優秀ならば(例えば馮道を重く用いるとか)、
その後の東アジアの歴史は非常に大きく変わっていたと。
>>1
ヨーロッパみたいに分裂してた方が発展したかも・・・ 会盟を開催し、諸侯連合軍で契丹と戦う・・・
ダメか・・・ 岐がタングートを吸収することは可能だったのだろうか?
あと、会盟は牛の血に毒混ぜたりするだけか。
朱全忠は李克用を宴会で殺そうとしたしな。 山崎覚士氏は呉越が十国の覇者的な存在って言ってるな。
五代王朝は周朝よりかなり能動的かつ主体的だったような気もするけど。 呉越覇者説どうなんだろな。
呉越国王に真王号与えて云々といっても、それはあくまで呉越と中原二国のお約束。
呉・南唐や南漢、蜀にとっては知ったことなかろうし。
実力じゃ呉・南唐が十国随一だから、後晋滅亡後はしばらく、南方諸国は軒並み南唐に遣使してたり。
ただ、呉越が中原とそういう「設定」を共有する一方で、独自に山東だの朝鮮だのに介入してた形跡は面白い。
この時代、雲南とやりあった蜀やチャンパまで遠征した南漢みたいに、十国側で古来の中華の枠を超えていく動きがある。 でも南唐も馬鹿揃いなんだよな。
後晋滅亡時に韓熙載が提言したように、中原回復の機会があったというのに呉越と事を構えてやられている。
華南諸国中で、中原王朝がもっとも頼れるのが呉越だというのは、呉越の江南での立場強化にもつながっているとはいえ
まぁよく、あそこで南唐に歯向かったなぁとは思う。
後周による征淮南のとき、湖南軍閥は早々に敗退のあげく内部分裂していて役に立たなかったのに、一度負けたとはいえ
最後まで後周に付き合ったのは呉越だけだったてのがあるから、中原との結びつきはずいぶん強かったのかな。 呉越は初代の銭鏐が旧主の董昌や淮南の楊行密と戦って政権を確立していく段階から、
常に「中原天子の代理として乱賊を討つ」というのを大義名分に掲げているからね。
もともと同格な在地土豪の連合体だった杭州八都の上に君臨していくためにも
中原の権威から離れるという選択肢はなかったんじゃないかな。 >>351
それらの動きも興味深いですが、
個人的にはすでに文明があった大理朝鮮チャンパよりは、
閩に台湾を文明化してほしかったところ。
現地の酋長と主従関係を結ぶなり、
傭兵として雇うなり、接点を作ろうと思えば作れたと思うんですが。 閩越は内乱から南唐と呉越の介入、やがて福州で両国が激突する
って流れがとんでもなくおもしろいので、台湾とか却下w
閩国というか王延政の建州(殷国)の出身者が、やがて南唐で将として
第一線を張っていくのは興味深い。
>>335の言い分でいくならば、閩国も意外に人材は豊富だったりする。
将領でいえば、まず陳誨、陳徳誠の親子、鄭彦華、南唐に唯一勝った男、許文縝
孟堅に林仁肇か。
この中で林仁肇は、趙匡胤がその武名を恐れて、わざわざ離間計にかけたほどの存在。
まぁ、閩や殷が存立したからといって、国運を左右するほど高位に上ることができたとはいえないけど。 つうかビンって、いい位置占めてる割には政権サイドから交易や海外他国に関与する姿勢に乏しい気配がするし。
ビンは武人もいい味出してるけど、道教マニアの自称皇帝なんが、なんとも土俗的暗君って感じで楽しい。
「この一箭で呉越を破り、この一箭で中原を定めるぞよ」とか気勢あげて国境に押し寄せても、
呉越側は「バカがまた騒いでるよ」とはなから相手にもしないとか。 海外貿易とかで、もっと開明的思考を持ってもいいような立地なのに前時代的なのが滑稽なw
むしろ、南唐に対してもそうなんだけど、呉越は小国の割には懐が深いというか。 カルタゴやベネチアみたいなもんかな?
「呉越」って名はなんかよくわからない名だけど。 政権所在地から考えてメインは越王ながら、楊行密にタメはって呉王も兼務している設定なんじゃないかな でも普通「越」って「南方の諸々の民族」っていう感じに使われるような。 いやw
銭鏐がタメ張るつもりとかじゃなくて、越王に封ぜられた後、呉王に封ぜられ、後梁建国に際して呉越国王に封ぜられたからだよ。
ただ、後梁(朱温)サイドとしては、呉王楊行密を認めない方向で、銭鏐を対抗馬に立てたのだけどね。 >>362
呉越の首都州、杭州は西府とされ、東府が越州。 >>362
春秋戦国時代に呉の拠点だった蘇州が呉と呉越の係争地で、越の拠点だった会稽が呉越の支配下だったことをイメージしてたんだけど、例の呉越真王説を絡めると、中原としては銭一族を「中華南方の諸勢力の抑え」として「越王」の称号を与えた、という面もあるのかなぁ。
穿ち過ぎか?
そうすると南漢についても考える必要があるけど。一時、南越を称していたような。 と、思ったら楊行密の呉王の方が自称かな。
910年2月に百官の制を開いているので、より正当性があるのは呉越じゃないか。
朱温の意思とはいえ、すくなくとも唐帝がまだいた時期の呉王冊封だし(906年9月)。 >>360
そいえば呉越あ高麗と覇を競った後百済王キョンフォンの後ろ楯だし。 >>365
「越」国と百「越」の二つの意味を掛けていたと。
岐みたく「杭」とかでも不自然ではないとも思いますが。 南漢は、後梁冊封で南海王で、その後自立称帝して「大越」としたけど、翌年には「大漢」にしちゃった。
劉氏だからだろうな。 >>368
ああいうのは古代の雅名使うとものだから。岐だって西周発祥の聖地にあやかってるんだし。
それに銭鏐が堤防と城壁作って大開発するまで杭州はそこまで大都市じゃない。だからこそ銭鏐は杭州一帯の民間伝承で神格化までされてるわけで。
>>471
通鑑のどこかにあったと思うけど、たしか楊行密は唐の昭宗が自分の意思で、朱温を牽制するために密詔で呉王に冊封。
一方銭鏐は昭宗が朱温に拉致されて傀儡にされたあと(殺される直前)に、強制されて呉王に冊封。 >>370
そうだ忘れてた。
天復二年、昭宗が岐に蒙塵したときに呉王冊封を受けたんだっけ。
で、自立はしていなかったので子に位は継承せず、のちに唐が滅んだので自称だっけかな。
呉王冊封で楊行密も一度兵は出すが不振で、すぐに銭鏐とドンパチやらかしているんだから
朱温としては銭鏐に牽制を任せたくもなるな。 まったくの自称ではなくて、いちおう昭宗の密使として来たまま
帰るに帰れなくなっていた人物(名前はちょっと思い出せない)を
皇帝の代理という扱いにして、彼に冊書を書いてもらっている。
苦しいやり方だ…… >>372
調べてみた。
李儼ですね。
宰相張濬の子っていうのがアレだが。
でもこれって、冊書を作って嗣がせたのは、弘農郡王じゃないのかな……?
呉は唐の滅亡後、天祐六年に萬全感を岐や晋に使者として送って、翌年二月に奉書を携えて帰ってきている。
一応、唐の正朔を封じた大鎮の晋と岐に承認させることで、呉王を嗣いだ体裁。
この二年ほどのタイムラグは、代替わりとか国境のごたごた(危全諷の乱とか)で忙しかったからかな。 ああ、そかそかすいません。記憶だけで書くと曖昧になる。
まとめると独立国としての政治的な足場がためは、
後梁を共通の敵とする晋や岐による国家承認に基づき、
法的な足場がためには李儼を使ったということかな。
ただし李儼の冊書はあくまで弘農郡王。
そのあたり厳密に考えると、この時期の淮南政権の国号は
呉ではなくて弘農とすべきなのかな。 間違えた、資治通鑑ではやっぱり呉王嗣位も李儼が絡んでました。
楊氏政権は短期間で君主が変わっているので、継承の政治的体裁を整えるのに苦慮したみたいですね。
楊行密のとき、奉書によって呉王。これが一番根拠がある。
その後、楊渥ついで楊隆演を李儼によって弘農郡王。
唐の滅亡後二年ほどして、李儼にまた頼って呉王を嗣がせてもらい、岐や晋に報せ、名実共に国王となった
という感じかな。 はからずもキングメーカー的役回りを果たすことが慣例化した李儼は
結局、徐温の粛清対象になるんだったかな。
まあ、こんな回りくどい遣り繰りをしているぐらいなら、
「うちは唐王朝の末裔だから」の方が分かりやすい。
一方、南漢なんぞはなんの体裁づけもしないでフリーダムに皇帝自称。 ややこしいながら、実際に呉が自立して開国したのは、919年天祐16年になるんですね・・・。
封建領主的な呉王と、独立国家としての呉国王ということか。
まわりくどさの背景には、周辺国(呉越が主だけど)や国内への牽制もあるんでしょうねぇ。
徐温が権勢をもちゆく過程において、中央軍の掌握も含め君主権を背景にしていく必要があるから
国内軍閥や呉越などの反感を極力かわそうとしてのことかな。
李儼誅殺は、まさに軍閥朱瑾に息子(徐知訓)が殺され、その朱瑾と李儼が通好していたので
連座の罪という感じでしょうね。
後唐で朱守殷の挙兵に連座して、宰相任圜が死を賜ったのと同じような感じかな? 質問なのですが、董昌の「羅平」の由来って何でしょうか? >>377
自分が乗っとる予定の政権を、乗っとるまでに十分成熟するように育てていく徐温か……三国魏の司馬氏みたいだ。
図式としては似た構図だけど、徐温にとって李儼こそがメインターゲットだったのかも、って気もしなくはない。
>>483
当時、浙江地方の民衆に崇拝されていた羅平鳥という三本足の霊鳥らしい。
ちなみに、数十年前のホウクン(変換できない)の乱のときも羅平という私元号を定めていたと思う。
董昌は左右に越巫を侍らせ、かなり土俗的な政権を築いていたように見える。
まあ現存する記録は敵対陣営の側のものしかないけど。 そういえば、呉だけでなく蜀や南漢も917年前後に政権の自立性を強めていて、
これは唐の建国からちょうど三百年が過ぎたことで
天命の移行が明確になったと見なされたためという説があるらしい。 >>三国魏の司馬氏みたいだ。
まったくw
でも、呉書高祖本紀で楊隆演が死に際、大丞相徐温と交わした言葉は。
楊隆演「昔に聞く。蜀先主が武侯(諸葛亮)に言ったそうだ。『嗣子不才ならば君が取って代われ』と」
徐温「とんでもないこと。(中略)もし楊氏に男児なくば女子をもってたて、妄言をなす者は斬って捨てます」
はぁそうですかとしか。
徐温あるいは養子徐知誥は禁軍を握っていたことで、中原の郭威、柴栄の先を取っていて、開国したのちの
政権存立基盤はきわめて強固な君主権が確立しており、権勢家であった宋斉丘などでも、固有の権力基盤
たとえば武力とかはなく、あくまで皇帝の寵によっての権勢だった。
徐知誥=李昪はともかく、李m、李Uがあれだから南唐は軟弱な印象だけど。 >>380
たしかに、蜀の改元、永平(915年)→通正(916年)→天漢(917年)は変えすぎな気もするね。
そういう象徴にあわせたならわかる気もする。918年には王建が死んで代替わりしている徹底ぶり・・・
は関係ないか。
ついでにいえば、契丹が916年に建国している。 >>379
なんと…
ヤタガラスの親戚みたいですね。
地名由来でない国名はこの時代は珍しい気がします。 いやーでも、外国とはいえ契丹は五代十国と絡みまくってるし。
ついでにいえば雲南の長和も、朝鮮の後三国も、桃井至朗先生曰く「五代十一国」の一角を為す安南も絡みまくるけどw
あまり話題が転々とするとあれだけど、契丹も歴史的な節目ははっきり意識していたと思う。
第一次建国が唐滅亡と同年、第二次建国が唐成立からほぼ三百年経過時点ってのは偶然にしてはタイミング良すぎる。 >>384
時代と場所が近い例だと雲南の大長和国、大天興国、大義寧国……
中華圏外になるけど。
地理的に中華圏内とはいえ羅平だのビンだの南漢だのもエキゾチックな国ではあるし、
どうも中華の輪郭がどこにあるのか、よくわからなくなる時代ですな。