■■■五代群雄伝■■■ P35
中国史上屈指の乱世五代十国時代。
栄華を誇った大唐帝国が崩壊し、秩序が失われた中原で群雄が覇を競い、異民族が侵入した戦乱の時代。
この激動の時代を駆け抜けた英雄たちを語れ。
と言うわけで、五代の戦乱の幕開けに位置づけるべきは、
唐朝に致命的な打撃を与えた黄巣の乱だと思う。
であるからして、五代の英雄たちを語るなら、
まずは黄巣の乱に参加した黄巣、王仙芝、後に唐朝を滅ぼすことになる朱温、
黄巣の乱鎮圧に当たった元祖独眼龍こと、李克用らを、
まず語らなければなるまい。 起きた。
IDあるから、連投するのはずかしいね。
三戦板では、自演か?ってくらいレスしていたが… まあ、どうせ人数は少ないんだし、連投だろうとそんなに気にする必要はないよ。
李克用(858〜908年)
突厥沙陀部朱邪氏の出身で、朱邪赤心の子。片目が異様に小さく、独眼竜と呼ばれた。黄巣の乱の討伐に参加して
功績があり、唐朝から雁門節度使に任じられ、続いて河東節度使へ上った。乾寧二年(895年)には晋王に封ぜられる。
黒鴉軍と呼ばれる軍勢を率い、唐朝を簒奪した朱全忠とは河北三鎮をめぐって争い、後唐王朝の基礎を築いた。太原で
病没し、 後に後唐の太祖と追尊された。 あ、まだユニコードに対応してないか… 失礼。
??の乱は、ほうくんの乱でした。 >>1
三戦板のスレでも、指摘していた人がいたけど、その説明を読むと、
李克用の軍団は、三十年戦争のヴァレンシュタインの傭兵軍団を彷彿とさせるね。
李克用の軍団も掠奪しまくっていただろうし。 南唐って、経済力の中心地である江南を押さえていたわけだし、
英君が現れて、本気で富国強兵に取り組んでいたら、
天下を望むことはできたのかな? >>9 南唐が経済的に優れていた事情のひとつに、淮南の領有があった。
ここは湿地で豊潤であるうえに、海岸線もあり古来より官塩の産地だった。
塩は前漢武帝のときに、国家専売となってより貴重な財源で、しかも法外な値段で売りさばいていた。
塩の密売人が出るのも、その辺が理由。
しかしながら、南唐は西暦953年に大飢饉が発生し、そのせいで国家財政が大きく傾き、淮河の防衛「把浅」を撤廃したことから、後周の攻撃を受けることとなってしまった。
後周の征淮南は、足掛け4年にわたり、南唐の生命線といえる江北(淮南)の十四州をすべて奪い取られてしまったのです。
驚くことに、後周の水軍が長江にまで進出してきており、南唐は風前の灯状態。
この時点で南唐は大国から弱小国へと転落し、「唐」という国号も返上し以後、江南国と呼ばれるようになりましたとさ。 >>10
訂正
×南唐の生命線といえる江北(淮南)の十四州をすべて奪い取られてしまったのです。
○南唐の生命線といえる江北(淮南)の十四州をすべて奪い取ったのです。
このときの趙匡胤の奮戦ぶりと、後周世宗の激烈ぶりは後世の語り草となっています。
また、その後周軍の攻撃を約1年半持ちこたえた、寿州城の将劉仁贍もかなり鮮烈な印象を与えてくれます。 >>10
淮南の塩って、この当時も重要だったんだね。
元末の戦乱の時も、河南の紅巾の乱への対応は動きが鈍かった元朝が、
張士誠が淮南で反乱を起こすや、即座に丞相率いる討伐軍を送っているあたりを見ても、
官塩ってすごい財源なんだね。 そもそも五代の乱世を呼び起こした黄巣や王仙芝も山東の塩賊ですぜ
塩賊は時の朝廷を脅かすほどの力を持つ 白居易の塩商婦でも塩が儲けれるんだと分かるな。需要が多く供給が少なかったんだろう。 と言うか、朝廷が専売する塩の値段が、あまりに高かった。
塩という生活必需品にとんでもない消費税がかかっている状態。
だから、闇塩というものが生まれ、塩賊が暗躍した。
塩なんて、原価自体は大したこともないので、例えば朝廷が売る官塩の半額で売ったとしても、
物凄い利益を生み出すことになる。
庶民からすれば、闇塩も決して安くはないけれども、官塩よりはずっと安いのでありがたがる。
塩賊も莫大な利益を得て力をつける。
この頃の華南の生産力は興味深い。
これまでだったら、華南に群雄が並立するのは、一時的なものを除けばせいぜい2ヶ国か3ヶ国だったのが、7ヶ国の並立というカオスなことになっている。
淮南を得て領土的にも大きい呉〜南唐、領土は狭いながら海上貿易と中国の兵糧庫・浙江を抑えた呉越。
海の玄関口である福州と泉州を地味に抑えたビン、湖南の豊かな土地を開発して茶を輸出した楚。
交通の要衝で貿易黒字を出したと思われるw南平(荊南)、よく知らんけど異国っぽい雰囲気をかもし出すような南漢。
あといわずと知れた、芙蓉の城(成都)にイメージされる豊かさを誇った前後蜀。
領土面積や支配のおよぶ地域でみると、どれも六朝には劣り、矮小なイメージを拭えないが、これら勢力が並立しても長く政権を維持できるほどの底力が、このときの華南にはあった。
対して華北は…
後周太祖、世宗の登場で急速に国力が回復しつつあったとはいえ、強国の南唐を力尽くで首根っこを押さえ込めたのは、ひとえに後周世宗の偉能のなせる業としか思えない。
呉越なんか、地図で見る限りじゃ、よくあんな形で独立国を保てたなと思えるね。
あっという間に南唐に飲み込まれそうに見えるし。
にしても、華南の国々はそれぞれ個性が豊かだね。 ま、ここはレベルとか気にせず、気軽に語りましょう。
初心者歓迎age 十国の方は、創業者が死んだ後内紛ってパターンが多いな。
荊南なんか、あんな場所に小さい国でよく半世紀余りも続いたな。
周りの国全てに臣従したと言うが、巧みな外交がなければ、独立を維持できなかっただろう。
五代物語
第一部は、黄巣の乱、黄巣が主人公。
第二部は、残唐から大梁建国で、朱温が悪の主人公。
第三部は、李克用とその子孫を正義の側に立てた、打倒大梁と後唐建国。
第四部は、語り手馮道による五代群雄伝。
第五部は、郭威による後周建国と、柴栄の天下統一推進、趙匡胤の活躍。
第六部は、趙匡胤の宋建国、天下統一、南唐滅亡と後主の悲劇。 流れを読むだけなら陳舜臣「中国の歴史」文庫版の4巻が簡単でおすすめ。 有能な政治家か
狡猾な佞臣か
上層のクーデターだけで平和っちゃ平和だったり。 北朝側で、民衆にそれほど迷惑かけていない政権交代といえば…
後唐末帝のときと後周建国くらいか?
末帝のときは、おもいっきり馮道が絡んでいるなぁ。
混乱を最小限に抑えた功績(になるかはわからんけど)は、ひとえに馮道の見切りのよさだったわけだね。
おかげで後世からはボロカスに言われるようになったけど。当時の人にとってはカミ。 今、漫画板のスレにアメリカ人5人以上の書き込みがあって戦争状態だ!
何でも、日本人がアメコミと食文化を罵倒した上に、リンクを貼って挑発したらしい
漫画板の連中の英語力は稚拙で今は完全に押されてる
英語力に自信のある人、頼むから助太刀してくれ!
http://comic6.2ch.net/test/read.cgi/gcomic/1161175064
>>30 どういう比較?
似たもの比較ってこと?
どう見ても、正反対の宰相だと思うよ。 >>32
正反対だからこそ比較じゃない?
斜陽の国を軍事行動に駆り立てることによって支えた宰相と
戦乱が無意味に広がるのを避けるため首のすげかえをあっさりしちゃう宰相 >>33
ま、蜀や荊州の民からすれば、こいつらが余計なことしたから戦乱が長引いた
という考えも成り立つしな。 仮子の制度はこの時代だけに見られる特殊なものなの? 唐玄宗期あたりから顕著になった。
もとは宦官がシンパをつくるためにやったことだという。 なるほど宦官が発祥なのね
五代では百人近く仮子がいた人もいるらしいね 任侠の、親分子分をもっと縛りいれた状態が仮子。
李克用、王建などがいい例なんだけど、その王建自体も田令孜という僖宗期の悪宦官の仮子だった。
田令孜を特に悪と書いたけど、この頃の唐は牛李の党争に代表される、宦官と官僚との衝突を引きずっていた。
基本的に、皇帝近辺の権力を握っているのが宦官で、禁軍の総大将を兼ね、また皇帝の生死すら操っていた。
そういう宦官全部が憎むべき存在なのだけど、特に僖宗の後見的な立場にいて信頼もされ、再三皇帝を蒙塵させた無策っぷりということで田令孜が悪の代名詞。
権力はあれど、宦官は子を作ることができないので、血縁による派閥が作れない。
そういうときに、擬制的血縁関係を強制できる仮子が流行したってわけ。
唐代後期は、宦官は皇帝の生殺与奪権さえ握っていたようだけど、
明代の場合は、どれだけ権勢を極めた宦官でも、
皇帝の絶対独裁権力を越えることはできなかったようだね。 もともと唐も、初期の段階では宦官に実権など与えなかった。
その禁をやぶったのが、玄宗。
彼は高力士という宦官を個人的に信任していて、楊貴妃の件など他人には言えないような世話を焼いてもらったので、権力を与えてしまった。
高力士個人ならそれもおkなんだけど、結局権力を利用したい宦官がこれを前例として官位についてしまったことから、おかしくなった。
後漢末期も、清流派官僚と濁流派宦官・外戚との党争が、国家衰亡を招いたけど、唐も同じ轍を踏んでしまったようだ。 おーい、外戚はむしろ清流派なんだが。
後漢王朝ってのは、豪族士大夫層を母体にした外戚と、それに対抗するために
宦官をつかった皇帝の権力抗争。 あれ、そうだっけな。 どうも外戚と宦官が手を組んでいたように勘違いしていたようだ。
まぁ、五代専門なんで、その辺の間違いはご容赦を。 水滸伝に出てくる銭振鵬や馬万里って、確か五代の地方政権の
末裔だったはず。趙匡胤は投降してきた地方の王族は全く殺して
いない。後にその子孫が宋王朝の危機に忠臣として働くわけだから
かしこい選択だな。 >>43 馬氏も銭氏も、後周時代すでに親交があった。
馬氏は南唐李氏に滅ぼされ、金陵に連行されていたけど、後周世宗の南征のおり、大義名分の一つに馬氏の救出があった。
驚いた南唐中主は馬氏を送ったけど、それ以外にも罪を並べられ、結局討伐を受けた。
呉越銭氏は呉や南唐と拮抗するため、中原王朝を頼っていた。
後周世宗の南征のときは進んでこれに協力したし、独自の年号を使うこともなかったくらいのシンパ。
湖南周氏、荊南高氏、南漢劉氏はそれぞれ趙匡胤に保護されたけど、後蜀の孟昶は開封に連れられてすぐに死んだそうだ。
殺したわけではないとは思うが、疑惑があったりする。
後蜀平定戦では、略奪も激しかったようだけど、江南平定のときは略奪を許さなかったあたり、趙匡胤という人柄が見て取れる。
陣頭の猛将のイメージが強い太祖だけど、柴栄のように常に陣頭指揮をしたわけでもないようなんだな。
禁軍将軍の兵権を取るところや、王彦超ら節度使をお涙頂戴などで謀反させる気を削ぐところなど、太祖にしかできない芸当だけど、統一事業は基本、柴栄の敷いた線に沿っているんだと思う。
蜀を平定した時は、かなり掠奪もやっちゃったから、住民の間に反宋感情が生じて、
なかなか安定しなくなったみたいだね。
江南の方は、掠奪を控えたおかげか、後々首都まで持って行っている。 唐末五代であれば、略奪行為はむしろ普通。
このあたり、こちら側の見識をチェンジしておかないと、まともについていけない。
それくらい狂った時代。
秋毫も犯さず? そんないい子ちゃんが生き残れるような、甘っちょろさはないといってもいいくらい。
だけど、絶無ではないところが、懐の深さ。 また面白さ。 唐末五代に限らず、昔の戦乱期で掠奪のない時ってないだろう。 南漢はアラブ系らしいけど、やっぱり濃い顔立ちしていたのかな 広州や泉州あたりはアラビア人がたくさんいたらしいからね。 呉越は、国号が「呉越」の二字?
皇帝は称していなかったようだから、形の上では常にどっかに従属していたのかな? >>54 もともとは黄巣の乱のときに結成された自治組織のようなもの。
董昌という人が編成した杭州八都という軍団があり、その都将として銭鏐がいたと思えばいいわけ。
で、董昌のもとで勢力を広げてゆき、杭州・越州を手中にした。
唐昭宗期では杭州節度使とされたけど、董昌がかなりヘンになったのでこれを倒し、彭城郡王に封じられた。
さらに、西暦902年に「越王」、西暦904年に「呉王」に封じられ、朱全忠が梁を建国したとき(西暦907年)、「呉越王」兼淮南節度使とされた。
王号をもって「呉越」と判別するけど、実際には冊封ということで、より独立性の強い政権であって、厳密に「国」というわけではない。
年号も基本、中原王朝のそれを用い独自のものは作らなかった。
この時期、そういう政権は多いので、ひとつの国とみても差し支えはないはず。十国と言われるゆえんだし。
独立し皇帝を名乗ることもできる国力はあったろうけど、お隣の呉〜南唐が、それ以上のちからを有していたので、生き残るためには中原王朝と親密にするのが上策だったのだろう。 五代の各王朝の官制は、だいたいは唐朝のものを模倣したものだったのかな? 五代十国で、唐制とは大きく違った独特な官制を持った政権ってある? そもそも、短命政権ばっかりで政権参加者の個人能力の比重が大きいから
独自色を議論するほど安定政権みたいに官制が機能していたかどうかすら怪しい。 もったのは創業者の代だけで、二代目以降はがたがたの政権多いしね
五代はともかく十国になると、
新旧五代史を読んでも大筋しかわからん。 十国春秋が一番まとまってていいけど、南唐書というのもあり、十国春秋は孫引きなんで、根拠とするには弱い。
しかし、言ったように十国すべてがまとまっているので、すごい便利。
… まだ南唐や後蜀のこれは、といえる人物のくらいしか見てないから、エラそうにはいえないけど。 この時代って、たとえ皇后でも、再婚した女が多いね。
戦乱続きで、貞節なんかにあまり構っていられない感じだったのかな。 唐の時代も再婚が多い。
宋の時代になってから、上流階級の女性の再婚が減った。 人口=国力という一面があるからね。
一般庶民には再婚を奨励したり、
何歳か以上で未婚の場合は税金をかけたり、という時代もあるぐらい。 人口=国力。
唐律における、均田制-租庸調-府兵制のトリニティは、まさに把握できる戸数に拠っているわけで、それが崩壊してしまった唐末では中央の国力はガタガタ。
両税法と官塩と茶税の暴利によって、なんとか持ちこたえた感じ。
そこは五朝もさほど変わらない。
後周にはいってようやく、まともな国づくりに向かったというから、庶民層の生活はとんでもなかったろうね。
>>貞節なんかにあまり構っていられない
それを強く認識し強要(というのもヘンだが)しだしたのは、宋代だから…
馮道も、五朝乱世ならああいう生き方は是とされるが、安定した王朝では単なる無節操とされるゆえん。
唐の頃は、遊牧民的な気質もあり、男女の開放感はあったとされる。 五朝のうち三朝は突厥系沙陀で、その政権下で生きた後周二皇帝もその気風は受け継いでいたようだ。 この時代は、四川とか江南の方が安全かな。
中原は何だか、戦続きだし。契丹人の侵入もあったし。 地方は地方で戦乱が多いし。
南漢とか長期政権だし、治安がいいかも。 長安の貴族文化人は、四川に逃れた者が多かったみたいだね。
よそから侵入を受けない限り、四川の情勢は安定していたと思う。 四川は、考えてみれば黄巣の乱の被害にあってない。
ここは、唐中期に反側の節度使がいたけど鎮圧されてから、あとは皇帝の逃げ場となって割りに安定していたようす。
乱を起こしたのはまさに王建で、異民族を多数引き入れもしたけど、国家作りもしっかりしていたので、中国王朝から離脱することはなかったみたいね。
そこは唐の知識人や中堅クラスの官僚たち(あるいはその方がかなりまともな良識をもった官僚だったかも)が中心となっていたからだろう。
それでも後唐が王師を派遣すると、もろくも滅び去ったけどね… でも、最後に、
宋が天下統一の過程で蜀を征服した時は、結構派手に掠奪をやらかして、
その結果、反宋感情を根づかせてしまい、
天下統一後もなかなか情勢が安定しなかったとか。 ほぉ。 それはなかなか興味深い事柄だね。
蜀での略奪がひどすぎて、江南攻めのときには特に注意したほどという話だし。
反宋感情の背景に、反側の気風がそれに関わっているとすると、北宋の政策も完全とはいかなかったと取れるな。
どうなんだろう。
だから宋初には蜀だけ特別な経済地域として扱ったんだっけ・・・
鉄銭の使用と、それに続いて初めて紙幣の原型を導入したはず・・・ 一つ間違えれば、朱全忠と李茂貞で立場が逆転したかもね。
うーん、李茂貞はどうかな。
朱全忠は一流の武将ではないにせよ、度胸や根回しは相当長けているからなあ。 李茂貞は李克用に勝てたためしがないから、朱全忠と立場変わったら、西で李克用が暴れまくるだろう。
しかしその李克用とて、新王朝を築くには至らないかもしれない。
両者とも、唐朝の権威よりの立場だし、粗末な扱いはするにしても手にかけるかどうかは怪しいところ。
やはり、朱全忠というハカイダーがいないことには、腐った貴族官僚や宦官どもが、いつまでものさばり続けるだろう。
>>朱全忠は一流の武将ではないにせよ
皇帝就任以前では、十分一流の部類に入ると思うが。 朱温って家族いたよね。
皇帝になった後、どんな待遇になったのかな。 朱全忠が皇帝になる時、反対したのは兄一人だけじゃなかったっけ。
>>84 そう。
朱全忠ってやつは、息子の嫁さんにも手を出して、しかも息子はそれを容認していたという異常家庭の持ち主。
息子のほうは嫁が寵愛されれば、もしかして自分が太子になるかもと企んだわけだな。
朱全忠は、政戦両略のある逸材ではあるが、個人としては粗野な盗賊とさして変わらない。
その辺が、梁という国を保てなかった原因ではないかと思う。
次の代になると、朱全忠に従った有能な臣下たちは遠ざけられてしまったし。
翻って李存勗は、李克用以来の部下たちを120%コキ使って、梁を圧倒している。 そう異常とばかりも言えんぞ。
現代の日本企業でも、出世のために妻に上司の伽をさせてる
サラリーマンなんぞ、ゴマンといるだろう。
梁が短期政権だったから、スキャンダルが暴露されて記録に残っただけかもしれん。
しかし梁が短命だった理由の一つが、朱温のキャラにあったというのは確かだと思うが。 上司に妻を使って性賄賂を贈るってのは、
伝統的に中国、特に役人の社会で結構あったことらしいね。 >>86 そ、そりゃ… そういうのもいるが… それ自体が異常なんじゃ…
しかし、そういう世界には関わりたくないもんだ。
自分の嫁だぞ。それを上司に… うえ、考えたくねぇ。
朱全忠と朱友文は、その異常さの報いを受けたけど、実際多くの仮子が同じことやっていたようだ。
親が子の嫁を寝取るというのは、伝統的にあるようだけどな。 玄宗とか、玄宗とか、玄宗とか。 上司に性賄賂ってのは現代でもあるらしいよ、中国に。 秦宗権(?〜889年)
蔡州上蔡の人。初め許州の牙将となった。広明元年(880年)、趁軍の乱により蔡州に拠った。同年、黄巣の乱
が起こると、宗権は蔡州の軍により黄巣を討った。後に敗れて黄巣に降り、蔡州節度使と称した。陳州を攻めた
が、刺史の趙犨の堅守のため、落とすことができなかった。中和二年(882年)、黄巣が敗死すると、宗権は蔡州
で帝を称し、四方を劫掠し、暴虐の限りを尽くした。光啓三年(887年)、汴州に進攻したが、朱全忠に敗れ、勢力
が衰えた。龍紀元年(889年)、部将の郭璠に捕らえられ、朱全忠のもとに送られ、長安で斬られた。 でもワロスことに、外字はちゃんと変換してるんだよな。 秦宗権も悲惨だねー。
元々官軍側で、やむなく黄巣の賊軍に降ったのに、
大将の黄巣があぼーんして、一人で反乱続けることになって、
その黄巣の賊軍から朝廷に寝返って官軍になった朱温の討伐を受ける羽目になったんだから。 >>95 都落ちした黄巣も、陳州で趙犨に300日足止め喰らったのが、響いたんだろうかな。
そのせいで、李克用がふたたびやってくるし、時溥も朱温もぞろぞろと集まってくるしで…
秦宗権も皇帝を称したみたいだけど、国号は何にしたのかな?
蔡州節度使だから、「蔡」とか? 旧唐書にはとくに国号については書いてないね。
春秋戦国の頃の国号と対応するから、汝南といえば…
やっぱり「蔡」か? 皇帝といわずとも、この頃は春秋戦国の地域名で呼んでいる部分が多い。 一貫してそうなんだけどね、現在でも。
独立した節度使は、実際に封じられてなくても王のようなイメージだったと思える。
幽州は燕(実際に大燕と号したけど)、鎮州は趙あるいは常山(真定というときも。節度使王鎔は趙王に封じられているが)。
宋州なんかも、単に宋とか。
あと地名で太行山脈以東の邢、洺、磁は山東と書いたり。
現在の山東省とは違うのでややこしい。
節度使の館って、王に封じられていなくても宦官を置いたりしたところも、
あったりしたんだろうか。 朱全忠が発布した、全国宦官抹殺キャンペーンに順じた連中は、たぶん以後も宦官をおくことはなかったのじゃないだろうか。
荘厳な宮殿みたいなのをもった節度使といえば、まっさきに幽州盧龍軍の劉仁恭が思い浮かぶけど、宦官がどうとかは知らない。
後唐になって荘宗が唐制の復活で宦官をまわりにべったり置きまくったから、またもとに戻ったろうね。
で、やっぱりその宦官のせいで郭崇韜のような名臣を敢えて殺すはめになっている。 李茂貞の岐、劉仁恭の燕は、十国に入れてもらえないのな >銅銭は一切流通させず、かわりに粘土で通貨を作り、むりに流通させた
おいおい……w
なんか、領民が逃げないように焼印を入れたのも
たしかこの軍閥だったな 乱暴な政権だなあw
この時代じゃ、節度使でこういうのは珍しくなかったのかも知れないけど。 唐末から後梁期にかけての節度使は独立色が濃厚だから、領域内での無茶もいろいろやっている。
その節度使を抑制しようとする時期となった後晋のとき、宋州の趙在礼という古株の節度使は、統治領内での収奪が著しく
彼が転任(節度使が民衆や地主層とのつながりを牽制するため、短期転任が課せられていた。だから余計に収奪が激しい)するとき、その宋州領内の民衆は
「目の釘がとれたようだ!」
と快哉した。
それを地獄耳ながら聞き知った趙在礼は、石敬瑭に願い出て、もう一度宋州の節度使となった。
石敬瑭も宿将たる趙在礼を粗略にできなかった弱みもある。これはまだまだ皇帝権力が回復しておらず、藩鎮との力関係が微妙な証左でもあるようだ。
ともかく帰ってきた趙在礼は、「抜釘銭」と称して民衆から銭一千文ずつ支払わせたという。
ただ、こういう無茶をして巨万の富を得た節度使は多く、慢性的に深刻な財政難にあった河南王朝は、そういう節度使の溜め込んだ財産を狙ったりもしたものだったので、皇室の婿にしたりもした。
さらに同じ後晋期、主戦派の台頭によって契丹と手切れになったとき、その南下を一時食い止めるほどの活躍をして
戦史にのこるような戦いをした杜重威という節度使も、支配者としてはサイテーサイアクの悲惨なヤツだった。 田中芳樹の短編集「五代群雄伝」の中の『張訓出世譚』に登場する妖怪妻は
《十国春秋》の呉十二列傳「張訓妻某氏」として立てられているんだ…
あの著者だから妖怪云々はオリジナルかと思ったけど、そういう伝説があるってことか。
張訓の風采に似合わない出世ぶりには、当時からなにかしらの疑問なりなんなりがあって
妖怪とか呪詛の類とでも思われていたのだろうか?
なにせ、「人の頭を蒸していた」とか尋常な言われ方ではないわな。 田中氏の五代群雄伝って、いくつぐらいの短編小説が書かれているんだろう。
その張訓の話と、呉越の話、楚の馬殷の話とかを読んだ気がするけど。 あと「人皇王流転」があるけど…
もう素直に書き下ろしかなんかで、李克用あるいは王建書いてくれって感じだ。
中途半端に明宗や末帝出してきても、味もなんもあったもんじゃない。
とはいえ、たしかに短編に適したエピソードを持っている人物が目白押しだから、小出ししたくなる気持ちもわかる。
楊行密を書くなら、槊の名手朱瑾と射撃の名手米志誠あたりを基軸に書けるだろうし、「張訓〜」のように徐知誥出すのもありだろう。
1年に2,3本書いてくれればなぁ… え? とても読めはしないけど、手元にあるから、なにか新発見(自分の中だけ)があると、うれしそうにここに書いてるだけ。 >>115 途中で列伝の文章が終ってる人とかいて、結構気の毒…w
最近編纂された《舊五代史 新輯會證》では、補填がされて列伝もかなり増えてるし
注釈が多くなってるので重宝するんだろうけど、自分のようなひらがな頭には読みにくい… というのも
中華書局版の《舊五代史》は(新五代史もだけど)、名詞には縦線入っていて、素人にもわかりやすいようになってる。
同じ中華書局の《五代十国方鎮年表》も縦線入っていて見やすいから、ついそっちを見てしまう。
後周の柴栄(世宗)なんてどうでしょうか。
彼がもう少し長生きしていたら、趙匡胤による宋は成立していたかどうか
わからないと思うんですが。いや、かなり微妙。
やっぱり功成り名を遂げるには、長生きが必要最低限の条件です >>117
>>功成り名を遂げるには、長生きが必要
長生きしたせいで晩節を汚した「元」英主がいくらかいるので、その主張は肯定しにくいなぁ
それにそのときの勢いというものがあって、趙匡胤は外征、内治の面で完成されつつある成果を継承した幸運児と言える。
対契丹防衛ラインや隴西奪還、淮南の攻略、北伐、開封の外城建設、黄河の大規模な治水等、民衆を酷使しまくった大事業は柴栄の代に行われており、その悪名も柴栄に対して向けられている。
ことさら趙匡胤を否定しないけど、というか好きな人物だけど、苛烈な改革の断行や仏教整理、節度のない者への極刑など、時代が変わる節目にあって劇薬となった柴栄を、後世、陰険とか猜疑心が強いとか、趙匡胤を持ち上げるような意図で書かれるのはどうも、ね。
>>118
>対契丹防衛ラインや隴西奪還、淮南の攻略、北伐、開封の外城建設、黄河の大規模な治水等、
>民衆を酷使しまくった大事業は柴栄の代に行われており、
柴栄って、いろんなことやっいるわりに、在位たったの5年間なんだよね。 下準備は太祖郭威の時代に地ならしされていて、それを調理台の上に乗せて料理したのが柴栄。
ただし火加減は常に強火で、連日寝ずの作業という、そんな感じ。
倒れもしますわな…
禁軍の改変、皇帝権力の集中というのは、外すべからざる改革のひとつ。
当人は「10年で天下を平定する」気まんまんで、張り切っていたのだけど、体調の急変は過労だろうと思う。
最初は肺がんかなんかかとも思ったけど、たぶん睡眠時間などなかったに違いないw この時代の南方の政権、南唐あたりが本気で南方をまとめ上げて、
天下統一を狙ったら、できただろうか?
あるいは南北朝体制に持っていけただろうか? ある程度勢力均衡してしまってからは、十国政権に統一する可能性はなかっただろうな。
唐末の勢力なら秦宗権の蔡州軍団を孫儒より有能な誰かがのっとれば可能性はあったのではないかな。
あの軍が解体して、楚が誕生し、さらに呉と呉越の中核部隊にもなっている。
よほど凶暴な連中だったのだろう。 呉の軍団には、かつて朱全忠と抗争を繰り返した朱瑾なんかも参加している(中原から南に亡命するのは結構あることみたい。盧文進とか皇甫暉とか)。
その朱瑾や従兄で鄆州天平軍節度使朱宣の配下に、賀懐や康壊貞といった後、後梁で名を轟かす名将がいたのも、結構興味深いことで。
この朱全忠、朱宣・朱瑾従兄弟、秦宗権との戦いは、長安を中心に嵐が巻き起こっている一方での白熱した戦いなので、結構おもしろい。
>>孫儒より有能な誰か
孫儒も楊行密に勝ったりしてるし、かなり実力あったみたいですね。
後梁が後唐に倒されるまでは十国にもチャンスはあったし、
それ以後でも契丹の介入に巧みに乗じれば機会はあったかもしれん
しかし、江南の連中からすれば、華北の軍閥の親玉たちは
恐ろしいヤクザ者であまり関わりたくないというかんじだったんじゃないか >>恐ろしいヤクザ者
華南の連中もさして変わらんけどねw
この時代、誰も彼もがヤクザ化していて、心底義に篤いなんて人物は、それこそ数えるほどだろうと思う。
馬全節と杜重威という二人の節度使は隣鎮同士ということで比較される。
杜重威は後晋期を代表するケダモノ節度使で、馬全節はその逆の民衆のために収奪をしなかった。
後晋のその時期は(歴史上特筆するべき)とんでもない不作続きだったので、どの節度使も野獣化していたけど、馬全節はそうではなかったという、稀有な例外。
ちなみに、中原国家… ふつう河南軍閥というけど、これが契丹に蹂躙されたとき、秦・鳳の節度使が後蜀に領地ごと帰属している。
後蜀はとくに労なく領土を得た。
その秦・鳳は、後周のとき向訓、王景、韓通らによって取り返されている。
後蜀は中原に対しては強硬路線(屈さず)を通しているけど、積極的に出撃することはあんまりなかったようす。
どっちかっていうと、楚や荊南方面に動いていたようだ。
ここにはかなり詳しい人がいるので聞いてみたいんだが、沙陀の連中は
民衆から収奪するばかりで、まともな統治をしなかったというのは本当だろうか。
それとも当時はどこも同じだったのか?
節度使悪玉説って、実際にはどうなんだろうね?
欧陽脩とかは、中華マンセーのガチガチの儒教思想だろうし
実態は日本の守護大名と同程度という気もするが…
もっとも日本でも室町後期の庶民は、守護大名の強力な支配より
将軍家や寺社のいい加減な支配を好んだそうだが… >>129 吐谷渾の末裔ってことになってるみたい。
しかも、「漢高祖の同産弟なり」って… はぁ?
注釈に、《廿二史考異》で「異性やのに同産て称しとるんは、母方が同じいうことやろうなぁ」とあるから、劉知遠と異父兄弟?
劉知遠は突厥系沙陀だけど、慕容彦超のオヤジ、慕容亮は吐谷渾… だから鮮卑慕容氏の末裔で正解なのだろう。 李茂貞は後梁のとき、反発して岐王府を開いて以来、一応独立だったわけだけど
その勢力自体はすでに朱全忠が梁王のときに、頭を抑えられていた。
後唐が汴梁を陥としたとき、降伏を申し出ている。
後唐のとき、息子の李従曮はそのまま鳳翔を任されており、明宗にときに出鎮したものの
末帝以後(この末帝のとき、鳳翔支配時代の資産はまき上げられている)、ふたたび鳳翔節度使のもどり、秦国公、岐王、秦王と累進した。
と、いった感じ。
鳳翔も李茂貞の支配以前から、雄藩として一目も二目も置かれていた重要な藩鎮だけど、この時代
どうしても目は東を向いてしまうので、忘れられがち。
思い出したように行われる、蜀との戦いで出てくるか、有力節度使の歴任の中に出てくるか
くらいの印象が、今の自分には強い…w 李茂貞って五代のほんとに最初の頃に出てきて
その後の消息がわからなかったから教えていただき
ありがとうございました。
最初は準レギュラーで登場してきて、後になってチョイ
役で出演したって感じかな。 >>133
>>89で李茂貞について、ちょっと書いてみたんだけど、最初はたしかに強かったんだけどねぇ…
あわよくば、皇帝を擁して長安を臨んだだろうけど…
朱全忠のほうがはるかに上手だったw
咸陽から鳳翔へ至る野戦では、ほとんど康壊貞のためにやられている。
李茂貞も自身が出ているのじゃなく、符道昭という将軍を遣わしていたけど。
この頃、鳳翔には昭宗以下宦官のお歴々が大挙として逃げ込んでいたので、自らの出征は許されてなかったのかも。
出て行った先で朱全忠と企んで、自分らを殺しに来る、とかね。
結果は、李茂貞の惨敗で宦官さまたちは、朱全忠の歓心を買うため李茂貞によって大半は殺されたし、降伏後は朱全忠の手によって斬殺された。
どっちに転んでも滅びる運命だったようだw
しかもこの後、朱全忠の武力を頼った名門官僚たちも黄河に投げ捨てられたとさ。 李茂貞に朱全忠を凌駕する軍事力が備わっていたら、
どうにかなったかな?
位置的には長安に近いから有利な気もするけど。
ウイグルや吐蕃を引き込みやすい位置ではあるな
本気で勝ちたかったら、そこまでやってたと思われ この時期だと、ある程度の兵を得ることはできても、
強力な後ろ盾というわけにはいかないだろうなあ。
>>1
朱温って女癖悪いよね。
自分の息子の妻たち、つまり嫁たちを、
「ちょっと具合悪いから看病しに来い」と宮中に召し出して、
いたずらして遊んでいたんだろう。
>>140
自分は、柴栄大好き人間だけど、それ以外の群雄クラスなら
李存勗、徐知誥、銭弘佐、あと高従誨とか面白いかもしれないなぁ。
武将クラスで言ったら… 多すぎる。
もちろん李克用も好きだけど、李存勗のインパクトには敵わないだろうなぁ。
後梁の名将・劉鄩と李存勗の虚虚実実の駆け引きは戦史に名高いし(莘県城塞の戦いなど)
結局、そのせいでか劉鄩は名将の評判は高いのに、負け続きでかわいそう… 逆に嫌いな群雄
燕雲十六州を売りやがった石敬瑭
目抜きの韓通
燕雲十六州を割譲して非難されるけど石敬トウも異民族でしょ?
異民族が異民族に臣従したんだから別に大した事じゃないと思うんだけど…
石敬トウが非難されるのは最後まで燕雲十六州を奪えなかった北宋の怨みから? まあ、激しく非難されるいわれもないだろうけど、
絶賛されるいわれもないなあ。
それと、石敬瑭の後晋の代に、契丹と関わりを持って、
大々的な侵略を招いて、虐殺やら掠奪やらされちゃったから、
そのへんも負の評価を受けやすい下地となっているのかも。 『独裁君主の登場』という清水書院から出てる本で契丹のいわゆる
「打草穀」が描かれているが、学生のときにそこのところを読むと
気持ち悪くなってしまった記憶がある。 石敬瑭が燕雲の地を質に出したとき、すなわち後唐末帝のときは
石敬瑭と並ぶ軍閥である幽州盧龍軍の趙徳鈞が、同じように契丹の後押しを得て中原に乗り込む画策をしていた。
しかも石敬瑭は朝廷から猜疑を受けていて、遠からず軍閥解体の危機に瀕していた。
そういうこともあって、自分が生き残るためには早急に契丹を動かさねばならなかった。
劉知遠や郭威などは、そこまで譲歩する必要はないから、と諫めもしたが、すでに後唐の討伐軍が向かっていることもあり、割譲の手配をした。
事実、そこまでしないと契丹は動かないし、またその助力があってさえ、後唐の張敬達、高行周、符彦卿らには勝ったり負けたりで、一時膠着したほどだったし。
まぁ、そこまで後唐末帝も弱くはなかったということ。
問題は割譲の件なんだけど、易定・幽州以外のほとんどは、すでに後唐時代、契丹の攻略を受けた山後の地でもあり、実質は契丹の領土範囲(支配力は薄いものの)と言っても過言ではない状態だった。
それだからこそ、要衝である幽州の割譲は契丹からすれば垂涎ものだったのだろうけど。
ただしそれは「後晋」国がやったことで、後代の王朝がそんなことにまで遠慮するわけにはいかず、本来自分たちの領土だったものを返せと言うわけだ。
燕雲十六州をわずかでも取り戻せたのは、後周世宗あるのみ。
契丹=遼が在るあいだ、ついに奪い返すことは北宋国をもってしてもできなかった。 後晋も契丹相手にかなり善戦したんだよな。
当時契丹に喧嘩売ったのはあまりいい判断ではないけど、
全く無謀ってわけでもないような気がする。 >>1
えー以前他スレで李晟は五代の人物なら誰に相当しますか?
と尋ねた者です
こちらに寇彦卿について詳しく書き込みなされていると拝見し遅れ馳せながら
やってきました
寇彦卿について良く理解できました
朱全忠が何かと頼りにした人物の様な印象を受けました
>>169氏には大変お手数を掛けました >>150
これはどうもご丁寧に。
まぁ、自分も趣味の一環なんで、手数でもなんでもないですよ。
朱全忠の勢力立ち上げ時期は、まだ把握しきれていないので上っ面の訳くらいしかできない。
また突然、なにかを書きだすと思います。 後梁の末期は後唐もかなり苦しい状況になっていたらしい(特に財政的に)。
そんな状況だからこそ李存勗はあえて敵の本拠地を直撃することを選択し
それを成功させて一気に戦争を終わらせた軍事的才能はさすがだが、一方で
朱友貞があまりにあっさりあきらめてしまったのが気になる。籠城するなり
西の洛陽に逃れるなりしてしばらく時間を稼げば、勢いに任せて突っ走ってきた
後唐軍は退却を余儀なくされたのではないかと思うんだが。
もしかしたら後梁は既に崩壊寸前で敵が開封に迫った時点で命運は決していた
ということなのかもしれないが、漢文が読めないのでよく分からん・・・。
誰か教えて。 敵対勢力を倒して勢力拡大した暴走族が、内部抗争で次々とリーダー交代。
しかも、その中の一人がヤクザに応援要請して大変なことに。
最終的にはヤクザにお金を払って許してもらった。 >>153
言えてるw
で、その最後の一人が、ヤクザを凌ぐ軍団を作り
支部の2,3個ぶっ潰したが、惜しくも若くして病死した。
ってね。 五代って、経済力は伸長したのかな。
それともやっぱり戦乱で人口が減って、生産力も落ちたかな。
地域によってかなり格差があっただろうけど。 三武一宗の法難による仏教弾圧って、堕落した仏教勢力の整理のために行われたものが殆んどなんだよね
行った皇帝は殆んど有能な君主ばかりだし 皇帝がたくさん出たから、五代群龍伝としたいところだな。 この時代をまとめた資料のような本が欲しいね。
あれだけ三国志関連の詳細な書籍があるなら。
話題には尽きないと思うし。 むかぁしには、いろいろあったんだけどな。
今は絶版、絶版。
でも、戦役や会戦の詳細な解説はなかったと思うから、あっても面白い。
しかし王朝の推移は、まぁわかるとして人物相関がわからないとちんぷんかんぷんだろう。
やはり、人名辞典か五代史列伝の邦訳が先だろうねぇ… 古本屋を探したら、意外におっと言うような本を見つけることがあるよ。 >>163
そう。
それで、最近《新五代史》の和刻本を購入したんだけど、レ点とかあっても、わからんもんはわからんw
しかもページとか見難いし。構成は中華書局の《新五代史》が一番見やすいと思ったのだった。 最近、個人名スレいっぱいたってるなぁ。
負けじとやるか!いやいや。
柴栄スレも趙匡胤スレも止まっているから、これ以上作っても邪魔なだけだ…
確かにやめとけwそこそこいくんだけど話題が尽きてあとは伸びないからね。 立てたい人物のスレはたくさんあるんだけど、
立てる前に、まず語ってくれる相手が果たしているか?
という点を考えないとね。 つまり、ここでやればいいということ。
>>167
例えば、どんな人物? 今はネタ(気力)がないから、目新しいのは発掘してないけど。 前々から思ってたけど趙匡胤と韓通って
秀吉と勝家の関係に似ている。 >>169
柴栄、趙匡胤、趙匡義で、
信長、秀吉、家康に例えられるからね。 >>170
柴栄と信長、趙匡義と家康は微妙に通じるところがありそうだけど、
趙匡胤と秀吉は間に挟まれてるってこと以外は共通点がなさそうな・・・ >203
身一つで有能な君主の居る組織へ士官。
旧主が無くなると、幼主なのを良い事に組織乗っ取り。 小説的妄想でも、そうであったら楽しいね。
趙匡胤は柴栄の王朝を簒奪したけど、その子を殺さなかったからイメージがいい。
秀吉も、織田信長の嫡孫を手にかけることがなかったので、
家康による豊臣家乗っ取りに比べると、あまりイメージが悪くない。 6月2日から、女帝エンペラー(原題:夜宴)という映画が公開で、
一応の時代設定は五代らしいけど、どんなものだろうね。 >>174
主人を殺された主人公が次の皇帝の后になりつつ、復讐の機会を狙う。
そして主人公と昔仲良しだった、先代の皇帝の息子、皇太子も
親父殺しの復讐を密かに狙うって話らしい。
もともとの原題はハムレットなんだって。 昔、世界史板の五代十国時代を語ろうにというスレに
五代潰瘍さんという御仁がいらっしゃいましたが
このスレにも名無しで登場なさってるんですかね?
なんか自分のよく知っている御仁と文章の雰囲気が似ているのですが・・・
>>176
あれ、○さんも世界史の五代スレを見てたんですか?
自分はここに居座っていますが、少なくとも自分は五代潰瘍さんではないですよ。
でも、知っています。
世界史板は、まだ自分が五代に興味を持つ前のスレなんで、参加はしていないのですが
五代潰瘍さんとはネット上でお世話になっています。
執筆された五代概要(これってシャレだったんだろうか…)も、よい資料とさせてもらっています。
で、自分は百撰スレのアレです(こっちではコテ使ってないから)。 >>177
どもwおひさです。
いやー五代潰瘍さんの五代に対する情熱(愛情?)や文体、三国志が好きというところが
どうも似てるなーと思ったものですから。そうですか別の御方でしたか。
ちなみにこちらでの貴殿の活躍振り、影ながら拝見しております。
五胡と同じぐらい興味ありますしこの時代。テュルクスキーですしw テュルクつうか、沙陀はいいですよぉ。無茶苦茶ですがね。
その破滅っぷりがまたなんとも…
李克用の鴉軍主力は密集突撃の肉弾戦、という話なんですが、後期李存勗時代には歩兵も多くなっていたようです。契丹に比して、だとは思うけど。
たしかにその頃には、李克用のような機動力はいくぶん影を潜めたような印象はありますが、華北を所狭しと行ったり来たりする沙陀騎兵を核とする晋軍には、なんか軍事ロマンを感じる。
ところで、行軍速度の鬼っぷりでは、柴栄も非常識な部類に入るんですよね。
逃げっぷりも閉口ものですし… >>179
沙陀族も突厥・鉄勒も鮮卑もそうなんですがテュルク自体が無茶苦茶ですよねw>行軍速度の鬼っぷりでは、柴栄も非常識な部類に入るんですよね。
五胡の鮮卑族慕容部に慕容恪っていう人物がいるのですが
この人なんかも頭脳明晰で用兵に関しては攻めて良し引いて良しってところが
柴栄に合い通じるものがあるとかと。
あと弟の垂なんかも行軍速度が異常な部類に入るかと思われます。
柴栄もやはり血の成せる業なんでしようか?
自分はROM専なんでこの程度の意見しか述べられませんが・・・
(スレ違いの話も入ってて御免なさい) >>174
とにかく血みどろのどろどろな話は五代にしとけって、そんなイメージがこの時代にはあるんじゃないかと疑う。
あんまり歴史背景はないそうだが…
>>213
鮮卑の血… はよくわからんけど、邢州柴氏はどこから来たのか、知る手がかりでもあればねぇ。
当時の新興地主層の家柄だけに、柴翁、つまり柴栄のおじいさんまでしかわからないという。
それ以前、どこにいたのか謎。
ただ、邢州には別宅の荘園もってたりと、当時ではなかなかの資産家だったそうだ。
武人政治により、地域の密着性が増したことによる台頭で、娘を後唐荘宗の後宮に入れたくらいなのだから、誇らしく家系図作ってもよさそうなんだけどね。 五代の武将で、鮮卑系の姓を持つ者って結構多かったのかな?
慕容とか、長孫みたいな 鮮卑よりも、ソグド系がはばを利かせていたな、この時代では。
ソグドの六州胡というのがあるんだが、よく見ると思う姓、
安、史、康、石、曹、何、米
というのが、それ。
テュルク系のひとだけど、唐代ではいわゆる胡族というのはソグドのことを指している。
六州胡はオルドスの夏、霊州付近に住まわされた突厥難民(李世民が滅亡させた突厥の遺民が主)を統治するための州。
安姓は結構多い。
われらがヒーロー李存孝も、初名を安敬思というし、後唐の硬骨漢・任圜の政敵だった安重誨(もとは仲良しなのに)や
沙陀騎兵の強い部分を受け継いだ騎将・安審琦などなど。
長孫という姓で列伝に挙げられる人はいなかったよう。
慕容は、後周初期の叛将・慕容彦超(劉知遠の弟)、殿前都指揮使の慕容延釗くらいか。 もうこの頃は鮮卑系は完全に漢族と同化した感じってところなのかな。 >>184
よくは知らんけど、そういうことになるのじゃないかな、と。
柴栄は新興地主層の出身だけど、鮮卑系という説がある以上、良民層に根付いたようにも思える。
ところで、朱全忠サマのおかげで唐貴族のお歴々はどっぷり黄河に放り込まれ、
また節度使と地主層の台頭で貴族名族が政治の世界から没落してより、
同じ姓であっても系列は違うものと思われる。
唐の名臣・郭子儀の子孫を自称する、後唐の名臣・郭崇韜のその家系図は、没落貴族から買ったものといわれている。
つまり、郭氏が当座の資金目当てに、先祖を売ったということ。
で、郭崇韜はそれを己の箔のために利用した、ということ。 唐朝の皇帝だって、後半以降は鮮卑系なんて意識はほとんど残っていなかっただろうしね。
今の満州族も、これと流れが似ているのかも。
みんな漢族風の姓にしているし、社会的にも定着している。
>>185
当時は、やっぱり郭子儀って名が鳴り響いていたんだなあ。 後晋って契丹に対してそれなりに頑張って戦っていたのか。
靖康の変の時の宋よりはずいぶんましに思える。 靖康の変の時の宋って、武器を集めて、軍隊に引き渡す手続きであれこれ揉めているうちに、
金軍がやって来て、集めた武器がみんな金軍の手に渡ったなんてことがあったように思う。
あっちのカキコ見て早速見に来ました。
いつもながら乙です。
次回も楽しみにしてます。 ID:pq4xh6md0氏は
遊牧民を傭兵軍団として多様したりとか節度使が割拠みたいな状態が
唐末〜五代に結構似通ってるなぁと感じる、
アッバース朝やブワイフ朝とかは興味ないのでしょうか?
(スレ違いな話題ですいません)
>>1
レスありかとう。
なんつーかですね、アジアの超大国の唐、一方イスラムの雄アッバース朝が
ほぼ同時期に同じ様な状況に陥るとは何か面白いものを感じた訳でして、
興味有りそうかなと思ったんで伺ってみました。
トルコ系の遊牧民を傭兵軍団として使った経緯とか似てるし、
こちらも藩鎮化?してカリフ(皇帝みたいなもの)の
首を挿げ替えるほど権力を持ったりしてますし。
西遼の耶律大石がテュルク系遊牧民国家のセルジューク朝を倒していたりもしますし。
全く無縁では無いなぁ〜と感じたりもする訳で…
まあ自分もイスラムについてはまだ片足突っ込む前段階なんで
大した知識はないんですがw
(またまたスレ違いな話題で失礼しました) >>192
イスラムとかになると、調べだすと絶対ソコだけで気がすまなくなるだろうこと疑いないと思う。
マクロな視点では、当時の超大国が連鎖的に崩壊したのは非常に興味深いわけで。
ウイグルの崩壊に伴って、沙陀磧の沙陀が唐へと流れてくる過程もあり
沙陀好きにとって、その辺いずれは深く調べるべきところです。
といっても、そこまでかなぁ。イスラムまでは、いまのところは。
まぁ、杉山センセじゃないですが、それくらいマクロな視点をもって見ないと、中国の立ち位置も
正確には把握できませんからねぇ…
テュルク、ウイグル、キタイと、これだけは間違いなく押さえるつもりですが、なかなかw
それにしても、携帯でよくそれだけの文章書けますね。
ま、スレ違いもこの際はいいのではないかな。 >>193
スマソ、面白そうなこと思い付きでカキコしてますのでw
>それにしても、携帯でよくそれだけの文章書けますね。
なぜか、わからないけどたまにボロPCからカキコ出来ないんですよ・・・orz
まあ、大事な第二のツールですからねw
>ま、スレ違いもこの際はいいのではないかな。
ホント申し訳ない。聞かずにはいられない性分なもので。 五代の頃は、皇子たちも軍人としての教育を受ける傾向にあったんだろうな。 わざわざ此処にまで出張って、長文あげるなくてもよくね?
自分の巣が有るんだからそこで書けばいいじゃん。 >>196
ありゃ。巣のありかを知っておるのか?
ならば歓待せずばなるまい…
巣に挙げるよりここに挙げた方が労力いらんのだw
で、ちょっとやる気になったら、まとめて巣に返すつもり。
反応もみてる(反応ないけど)。まぁ許してたもれ。 >>1
孟知祥や薫璋が任された西川や東川ってどのあたりなんだろう?
歴史地図見ても載ってないんだが・・・ うわ、すげい間違い。
>>1
>>秦州(天水)の韓継勲は大敵を防ぐ器にあらず、と客省使の趙季良は言い、自分が適任と売り込んだ。
名前が似てるから間違えた。「趙季礼」です。
趙季良は後蜀初の名臣だよ… 失礼にもほどがあった。
趙季礼は列伝すら立ってないようだ。チキンだからしょうがないか? >>198
西川および東川というのは、節度職に与えられる「軍額」なので、地名ではないのです。
正確には
「剣南東川」、「剣南西川」といいまして、その後に「節度使」がついて、剣南西川節度使となります。
で、節度使の管轄する領域は、数州に及びますが、節度使が政務をとるところを「使府」といい
その使府が置かれている州が、メインということになります。
よって、剣南東川は梓州が中心であり、剣南西川は益州ということになります。
益州はいわずと知れた成都のことですね。 >>197
>反応もみてる(反応ないけど)。まぁ許してたもれ。
うわぁぁぁん…
自分は結構楽しみにしてるし、反応もしてるつもりだが…orz
(全てにレス出来なくともマメに覗いてるし、布教活動も支援してる) ちょっと悲しかったんで陳情したの…スマヌ
陳御大、曰く五代の歴代王朝は地方軍閥に毛が生えた程度の政権だそうな…
(十国の立場ねえな)
そ、そんなにまで言わなくてもいいと自分は思った… >>200
どうもありがとうございます。ずっと気になっていたんですが、ようやくすっきりしました
>>1
訂正。
>>そのため、11月に弟、銭弘倧を丞相に据えている。
これは単に読み間違いだった。
弟・銭弘倧を丞相に任じたのは、福州を保ったあとのことで、死ぬちょっと前でした。
おお。そうなると『潮音』のベースはかなりやばいことに…w
ま、それなりにおもしろいからいいか。 潮音はやっぱり美化しすぎだよね。
ただ、他にああいう題材で小説を書いてくれる人がいなさそうだし。 『潮音』の美化はいい美化と思うんだが、それは人それぞれとして。
評価できるところは、《新五代史》の、半ページほどの記述しかない
銭弘佐を取り上げる気になったことと、その分量。
『茶王一代記』にしてもそうだけど、史実どおりに書いてても
盛り上がるかどうかは別問題。
その頃の感覚を取り戻して欲しいものだけど、『人皇王流転』みたいなの
書いてるようでは、なかなか… 田中氏ってあんまり腰が定まっていない印象がある。
そのへんが、一部作品の、「いつになったら完結するんだ!」的な状況に繋がっている気も…… >>1
へえー、郭威の結婚って、そんな逸話があったんだ。
で、その柴氏との縁で、柴栄が登場したわけか。 たしか、南北朝期の北斉の事実上の建国者高歓も、下っ端兵士の時代に、
大金持ちの婁氏の娘が押しかけ女房になったんだっけ。
郭威と似ているかも。 この時代は、掠奪婚みたいなのも多いし、
皇后に立てられた者なんかでも、再婚という場合がかなりあるね。 貞節を守るために再婚はしないという風潮が強まったのは、
宋代以降からだからね。 郭威や柴栄といった名前だけは知っていたのですが、詳しいことは全然知らなかったので
非常に面白く、かつわかりやくす読ませていただきました> ID:ALfN4gkE0さん
こういったエピソードを読むと、偉大な業績を挙げた歴史上の英雄も人間なんだと思えるのがいいですね
あつかましいようですが、また何か面白いエピソードがありましたらよろしくお願いします >>213
こりゃどうも。
今回は小説風味で書いてみました。直訳って味気ないですからね。
柴栄についてなら、柴栄スレも読んでみて下さい(と、宣伝)。 柴栄スレで長編小説?を書いてたのと同じ人?
あれでこの時代に興味を持ちました
>>213ではないが、また何か面白いエピソードがありましたらよろしくお願いします >>214
柴栄スレ見てきました。柴栄って何か凄い人だったんですね。
自分が知っていたのは「五代の中で最も名君で、若くして死んだ」という評判ぐらいだったので、
柴栄の戦いぶりや人民の酷使、仏教弾圧とかはいささか意外な感じでした。
しかし、とにかくこの人は良くも悪くも生き急いだ、という感じですね。
個人的には「餅屋の餅が薄いと激怒して誅殺くらわそうとして、趙弘殷らに押し止められる」という
エピソードは苦笑させてもらいましたw
みんなよく言うけど、柴栄は日本での織田信長的な存在。 この時代はやはり唐が模範とみなされていたのか
李存勗も唐の太宗が云々と言っているし >>218
そりゃあ、直前に全国政権として300年近くも続いたわけだし。
隋以前になると書物の中の世界だし。 >>209>>258
武明皇后婁氏(501〜562)
名は昭君。高歓の婁夫人。婁内干の娘。幼いころから聡明で、多く強族が求婚したが、こばみつづけたという。
高歓を見て驚き、「これ真に吾が夫なり」といって、私財をなげうって援助し、自分を迎えさせたので、父母もやむをえず許した。
高歓の密謀には彼女もしばしば参与した。倹約を尊び、寛容で嫉妬をあらわさない性格だった。
渤海王妃となり、高澄・高洋(のちの文宣帝)・高演(のちの孝昭帝)・高湛(のちの武成帝)・襄城王高淯・博陵王高済を産み、
また魏の孝武皇后高氏と孝静皇后高氏を産んだ。
高歓が蠕蠕公主を迎えると、正妻の座を譲った。高澄が跡を継ぐと、太妃となり、文宣帝が北斉を建てると、皇太后に上った。
廃帝(高殷)が立つと太皇太后となり、孝昭帝が立つと、また皇太后に復した。
孝昭帝が崩ずると、武成帝を立てさせた。大寧二年(562)春、病の床につくと、巫媼の言を用いて石氏と改姓した。
四月、北宮にて崩じた。 力の限りスレ違いしているな。
いや、まったく問題ないよ。
ところで、江陵に鎮した荊南節度使・高季昌(高季興)は
朱氏後梁時代は「渤海郡王」だった。
沙陀後唐になって南平王にされている。
その後は襲位はされず、子が当主になると、渤海郡王→南平王と進爵した。
(一時、呉の冊封で高従誨が秦王となったこともあった)
さて、「高」と「渤海」つながりなんだけど、血縁的にもなんかあるんでしょうかねぇ、高歓とかと。 >>1
>柴栄「往古、唐の太宗は戦いには必ず陣頭指揮をした。朕もどうして安易の道をゆこうか」
>馮道「しかし、主上が唐太宗となられるか、臣にはわかりませぬ!」
>柴栄「…劉崇軍は寄せ集めだ。我が軍が劉崇を撃ち破るのは、
山が卵を押しつぶすに等しいのだ!」
>馮道「しかし、主上がよく山となられるか、臣にはわかりませぬ!」
激しくワロタwwwさすが馮道というべきだなw
>>1
沛出身で劉氏……やはり劉邦を意識していたんだろうか?
>>1
「名将はいるか?」と聞くのがいかにも李存勗らしいw
周本って後梁と戦ったことはあるんだろうか?朱全忠は呉に何度も侵入しては
大敗している印象があるけど、名将スレでは呉の武将はあまり挙げられていなかった
んで・・・。
>>278
自分も最初はそう思ったけど列伝には特に何も書いてなかった。
まあ沛から出て関中に至りそれから蜀へ、というのはこじつけてみれば劉邦の前半生に
似てなくも無い。劉知俊はそこで終ってしまったけど・・・。
三国志以外のものを流行らせるには?っていうスレで柴栄の小説載せてるサイトが
あるみたいな書き込みがあったんですが、ご存知の方がいたら検索のヒントだけでも
教えていただけませんか?
李克用の墓誌関連の本を読んでて、つまらんことに「へぇ〜」。
「昭烈皇帝」といえば、誰を連想するかといえば、三国蜀漢の劉備。
くらいしか知らなかったわけだけど、これがもう一人いた。
李克用のおじいさんで、沙陀磧から代州へとやってきた、朱邪執儀(執宜)が
後唐になってから追諡されたのが、「昭烈皇帝」。廟号は懿祖。
《五代會要》巻一「追諡皇帝」より。
…まぁ、これだけ。ネタないから、あげ兼ということで。
>>225
タイトルもどこにあるのかも忘れてしまったけど、
ずっと前に、柴栄視点で、趙匡胤も出て来る短い小説を見かけた気もするけど、
それのことかな? 久しぶりに覗きに来たけど
ここの主(?)は元気そうでなによりだ。 >>228
この板とスレがあるかぎり、やっていくと思われ。
なにせ、ライフワーク(おおげさ)と合致しているもんで。 あまり力になれないけど、頑張ってくれw
中国語サイト見るのはしんどいし、
ここに書かれていること、かなり参考になるよ。
感謝している。 >>231
ネットの情報は9割がたが嘘。
できるだけいろいろ調べてやってくつもりだけど、まぁお気をつけて。 よくよく見たら、北漢が併呑されたの、西暦979年だな。
解暉はそのとき、68歳?
これで、宮女をいただくとは… 絶倫? これだけ命知らずな戦い方をしていながら享年80歳とは、すごい
68歳で現役でも不思議は無いw >>1
杜重威って貪欲・残酷そのくせ戦は下手とまったくいいとこがないんだけど、無能な君主
ならいざしらず、石敬瑭ともあろうものがいったいどこを見込んで重用したんだろう?
この時代にこんな取り柄の無い人物も珍しいような・・・。奥さん(石敬瑭の妹)が
やり手だったのかな?
>>233
日本でも、毛利元就の末っ子は確か70代になってから生まれたはずだから、
どこでも元気な人は、とことん元気なんだろうw ↑
>>対契丹戦で威力を発揮した人なんだけどね、本来は。
対契丹戦で威力を発揮"する″人なんだけどね、本来は。
契丹戦はまだだっつうの。 《舊五代史》晋書列傳十三の巻末で、薛居正が「史臣曰く」に書いてる。
帝王の尊さは天命のものであり、それは韓信、彭越の勇、呉濞、淮南の勢いといえども
なお妄想でしかなかった。
いわんや、二安(安重栄と安従進)のごとき凡庸な輩が、相援け乱を為したとて、
自ら滅亡の道をとるのも、当然である。
ははは。辛口だねぇ。 漢文の勉強のためにwikipediaに書き込みながら五代史とかの簡単なところ翻訳してみてるんだけど。
新五代史卷十四の李克讓の項で、
「(李克用が段文楚を殺し、李克讓が長安から脱出した)明年(879年),太祖(李克用)複歸唐,克讓還宿衛京師。」
って書いてあるんだが、李克用が唐に復帰したのは長安が占領された後の881年だよね。
李克讓は黄巣が長安を占領する混乱で死んでしまったと書いてあるし…
中国の掲示板に李克用への招撫政策があり、一度逃げた李克讓も戻ってきた、っていう文章があったんだが。
そんな話しあるの? >>1
なるほど…最初に見た乾符五年(878年)ってのだけ頭にあった。
中国の掲示板に「即位した僖宗が招撫政策した」って書いてあって少しおかしいなぁと思ったんだが、懿宗の時に事件が起こりその後即位した僖宗が招撫政策をしたってことか。
舊五代史唐書の武帝紀では乾符三年(876年)に事件がおき、乾符五年(878年)に黄巣が長江を渡ってきて、その時李克用を大同軍節度使にしてるね。
873年、876年、878年とそれぞれバラバラだな。
ありがとう。 >>1
もともと秦州、鳳州、成州、階州は前蜀期では、その領土となっていたので
後蜀も、その地は欲しく北伐の機会を狙っていたようです。
奇しくも何重建の来朝で、それが叶ったわけですが、後年、後周の世宗も
「いや、そこは我が朝の領土だ。返せ!」
と言って、力づくでむしりとっていった、ちょっと因縁のある地方です。 李克用の親父の李国昌、この人物はウイグルの崩壊にも一枚噛んでるんだけど、それが840年
ごろのことで死んだのが887年だから随分長生きしたように感じる。といっても年齢が分からん
のだけど。
息子や孫に比べりゃ地味だが河西に侵入した吐蕃相手に奮戦して敵に恐れられたり
龐の乱の討伐で敵に突っ込んで危うくなりながらもこれを打ち破るところは、やはり李克用
李存勗はこの人物の血を引いているんだなと思わせる。
あとどうでもいいけど李国昌より朱邪赤心のほうが凶悪で似合ってる気がするんだが
当時の人間もそう思っていたんだろうか。 異民族の野蛮人だから、ぴったりの名前だ、みたいな思いだったんじゃないの >>1
沙陀については、その流入は五胡なみの大事件なはずだけど、そんなことよりも
唐宋変革の方が歴史家にとっては、より重要ということで、深い研究は少ないとか。
それに、欧陽脩もいろいろ混乱しているようですしね… やっぱ記録の散逸がひどかったのかな。
本来、赤心ってまごころとか忠誠心とか、そういうのでしょ。
沙陀を率いていた沙陀尽忠も、忠を尽くす… なんか嫌味に聞こえる。
音を当ててるだけなんでしょうかね、これ。 魏仁浦は宋代に入って趙匡胤からも信任を受け、太原攻略の方図などを諮問されている。
あいかわらず皇帝親征には従軍した魏仁浦だったが、太祖による太原遠征のとき
病を得て、都へ帰される途上で亡くなった。59歳だった。
侍中が贈られただけで、諡などはなかったようだ。
>>1、315
面白いエピソードを読ませていただきありがとうございます。
自分はこの時代の人物にはあまり詳しくないのですが、この魏仁浦という人は
異民族の知識を持って主に仕えた辺りは衛青と、苛烈な主のブレーキ役としては
耶律楚材を連想させるような印象を持ちました。
あと
>王朴が第一にあげられるけどこの人は、柴栄の留守を預かる役割が主であったように思う。
>戦略に優れ理論構築が他の追随を許さず、節度使ら武人でさえ恐れて遠慮する人だったから
>都に残しておくのは当然だったろう。
この王朴という人はどんな人だったのでしょうか?
この文章を見るとなかなかに凄い人物のようですが 補足。
南唐への仕置きは、王朴の言うほど簡単には進まず、また収まらなかったが、時には手を変え
賦役を免じたりするのは、提案の最初の項にあることだったので、これによって徐々に
豊かな淮南の地が、後周の国力として還元されていくのだけど、
世はやがて宋の成立を向かえることとなり、あとは周知のとおり。
北漢だけは最後まで頑強に抵抗していたのは、さすがの見通しどうり、と言うべきか。 とあるサイトで『残唐五代史演義伝』の連載が終了しました。
おかげさまで、ひとつ知識を増やすことができたわけで。
それにしてもさすが「演義」。
随所に超展開が張り巡らされているとは…
結構楽しかった。ついでに正史との相違などもちゃちゃいれてみました。
早稲田大学出版部の『宋史軍談』も、この「演義」の影響なのか、それに似た展開が多く
後世にいろいろ名残を残しているのかな、とかふと思いました。
しかしやはり『三国演義』の構成のよさには負けますし、適当さが目立ちます。
いかに『三国演義』が類を見ない良作か、といったところです。
五代史関連では、『五代軍談』というのもあって、こっちは概ね正史、つうかツガン沿い?
五代知らないと、読んでてもすぐ飽きがきそうです。 >>251
ありがと。早速、読んでみた。
朱全忠主役といっても、ホウクンの乱、黄巣の乱における彼の若き日々が書かれているんだね
この時代は谷恒生のものが地雷だったから、ちょっと不安だったが。
(岡本古好の「登竜門」はまあまあだった)
感想は、まあまあというか、結構面白いね。
あのやたらと正史で読むと長く、位置がつかみにくく、いささか盛り上がりに欠ける
黄巣の乱をうまくまとめて、朱温の出世話に絡めている。
この間のエピソードは、ほとんどが創作なんだろうけど、あまり違和感を感じなかった。
つい、朱全忠が好きになってしまいそうだ(^^;)
今までの唐末五代の小説の中では出色の出来じゃない? >>1
>へぇ、岡本さんも書いてたんだね。それは知らなかった。
古好ではなく、好古だったね。ここにレビューあるよ
ttp://furong.mabinogion.net/books/toryuumon.html
黄巣が主役じゃなくて、唐末の科挙がメイン。でも、朱温も少しだけでている。
アマゾンのマーケットプレイスなら手に入るんじゃない?
仁木英之氏は前から五代を書きたかったみたいだね。
その小説を書くのが目標と言っていたし。
売れ行き次第では、続編もあると思うので、大いに期待だな
朱温の黄巣軍脱退、李克用との戦い、唐王朝滅亡。楽しみだ
しかし、あの朱邪赤心の先鋒を率いていた若い騎兵。あれが、李克用と考えていいのかな? >>アマゾンのマーケットプレイス
よくみたら古い本でしたね。そりゃちょっと探したくらいじゃヒットせんか…
情報さんくす。
>>あれが、李克用
以外の単なる名もない兵士だなどと、考えたくないです。
そういう想像に幅を持たせているのも、ちょっと憎いと感じたところでもあります。
自分なら絶対、李克用と書いてしまいますから。 『宋史軍談』はただいま読書中。
感想、というか解説、というかほとんど引用をブログに書いてますが…
やっぱ読みにくい。進まないw さらに今忙しい!
こほん。
史実的なつっこみは、陰険にならなければかなりオッケーだと思う。
攻撃性をもってしまうと、読むほうも負のイメージが強くなるから、
するにしても、まぁほどほどかな。
とはいえ、おもしろおかしくつっこむのが、関西人の本領でしょう(誰だよお前w)。
オレはこの時代では黄巣はイメージ沸く方だな
新唐書や新五代史は読みやすいけど、概して人物像が沸かない
特に藩鎮軍閥系の武将は史書の描写が似たりよったりで初心者にはハードル高い
一方晋書なんかは内容はいい加減なんだが、その分キャラはつかみ易かった
上の方で人物紹介してくれてるマニアのヒトは尊敬するなあ >>1
布教活動の先駆者は自分ではないんで、うれしい反面、
(自分などで)いいのかなとか思う次第。
たしかに、最近「五代」絡みの話題が多く、有頂天にさせてくれていますので
ありがたいことです。
しかし正体を知っているならご存知と思いますが、自分は五代史は後半に重点を置き
実のところ、残唐〜五代初期はあまり詳しくないのです。
なもんで、黄巣の乱といっても、わかるのは李克用出陣でボロ雑巾にされた、というあたり。
>>330
話半分で読んでくださいね。
どこでどういう地雷を仕込んでいるか、自分でも気づいていませんから… >>1
[脳みそ全てが筋肉と欲望でつまりきった藩鎮]
実際、このあたりって史書の記述通りなのかな?
といっても検証の仕様なんてないかもしれんが…
>>258
欧陽脩はとかく筆誅が厳しいですが、節度使の収奪がほとんど通例化してたことは
大きな可能性をもっていたと思えますね。
『夕陽の梨』でも言及されていましたが、短期間での任地交代は
節度使の地との結びつきを掣肘する一方で、任期内での容赦のない取立てを助長して
いるわけです。その心理は、「任期が終われば、その土地がどうなっても知ったこっちゃない」
という、とても人間らしい個人的な発想からおきていると思い、だから可能性が高いと。
脳みそ筋肉は、筆を軽くみていることでおおよそ伺えますね。
史弘肇と王章とのやりとりが、そのピークでしょう。
だからといって、収奪する節度使ばかりというわけではなかったようです。
特に何事も書かれていない人らはそれに類するかどうか、かなりグレーですが… 五代って大規模な民衆反乱ってなかったのかな?
黄巣のようなのが天下取りに加わっていたら、面白かったような 黄巣のような民衆ばかりの反乱軍じゃないけど
官軍から黄巣に寝返り、黄巣敗死のあと引き継いだ形になって
河南を荒らし皇帝を名乗った、秦宗権の系列では
やがて楚を建てた馬殷がいますわな。もと大工さんの。
しかし淮南にしろ浙江にしろ、この辺はもともと黄巣の乱に
対抗した勢力が地に根付いたから、民衆反乱が起きにくい状況に
なっていたのかな。
散発する民衆の抵抗ならあるけど、黄巣のようなカリスマは出てこない。
>>259
なるほど、解説どうも。
農民から絞って、身内の兵士に気前良くバラ撒くという
イメージで一般的にはOKなわけですな >>262
逆もあるよ。
岐王・李茂貞の子の李従曮は、民からの収奪を抑える一方で
兵士らを冷遇したため、反乱を起こされている。
どないせっちゅうねん、という事例のひとつ。
兵士に金ばらまかないと、そうなるから兵士への俸給を名目に
収奪を強め、ついでにポッケにないないするのが、まっとうな節度使w >>263
現代でもみられる既得権益化した半暴力集団(一応、官のものなはずだが)が、
一方的なわがままでごねまくり、不当な報酬をもらうという構図だな
一個人、特定の一族のことなら、一代限りになることが多いが、階層的な問題になってくる
とやっかい。宋の行き過ぎと思える武軽視はここから来ていると思う。
住民からの大きな自発的反乱もないし、収奪を行わない皇帝や節度使は少ないと
五代の暗さはここから来ていると思う。
そういう意味で、まともな五代皇帝って、郭京と柴栄だけかな?
正直、李嗣源も微妙だ。そのまともな節度使の一人、って感じがする この時代は大規模な民衆反乱がほとんど無いから、節度使にとっての正解は民衆を犠牲にして
その分軍隊を優遇することになる。実際、軍隊の反逆で倒された節度使や皇帝はいくらでも
いるけど民衆の反乱でその地位を追われた人物はあんまりおらんわけで・・・。
脳みそ筋肉節度使の筆頭ともいえる李克用支配下の山西なんか
”克用親軍皆沙陀雑虜、喜侵暴良民、河東甚苦之”
という有様で、なんでこんな奴等に20年以上も支配されて反乱が起きないのか
不思議でならん。李克用本人は一応「これじゃいかん」とは思っていたようだけど。 山西から興った中原政権=河南軍閥も、皇帝とはいっても
しょせん節度使たちを纏める大節度使でしかないから、まともに
統治できてたのかよ、という疑問は常につきまとうw
民衆に視点をおくなら、山西組(やくざか)に天運があるとはどうしてもみれない。
後晋のときなんか、勢力範囲内で餓死者続出というのに、よくまぁ二度も
契丹と渡り合えたものだ。
山西で産した鉄の質がよくて、装備が敵を上回っていたから、というのもあるらしいけど。
そういえば、貿易で荒稼ぎした李嗣昭の奥さん楊氏も、民衆からすれば、とんでもない
銭ババァだったんだろうか?? ところで李克用とその配下のサダ部族って
家に住んでたのかオルドに住んでたのかってわかりますか?
一般論で言うと5〜13世紀ぐらいの長城線内に移住した
遊牧民の住居形態について知りたいんですが >>267
それは知らないな。
オルドちうか、ゲルのことだよね?
移ってきたばかりのときは、葜苾や吐渾なども同じようなところに置かれて
混在、雑居もしてたろうし、放牧してたから、ゲル暮らしだったと思うけど。
…沙陀伝あたりにでも… むむむ。持ってないからネットで見るしかない。
なんかわかったら教えてください。
いや、ちょっとスレ違いになっちゃいますけど
北魏末の破六韓抜陵、万俟醜奴、侯莫陳悦なんて人名を見てると
とても家屋に住んでいるとは思えないような名前だったもので
山西にはけっこうこういう人たちがいますよね 山西つうか代北? 唐末のこの時代なら朔州とか雲州とかあたりかな。
雁門関より北あたりは、放牧に適した土地があったそうな。 朱全忠てけっこう評価分かれるよね?
個人的には乱世の英雄だと思うんだけど >>265
やはりそれなりの政治は行ってたんじゃないかなあ。 梅島竜泉亭さんは何かあったんですか?
403が出て見れないんだけど。 >>273
移転してますよ。
名前も変わってます。
澄心書院さんです。 >>265
まあそこらへんは割り引いてもいいと思う。
なにせ政権握ってたのは軍人とか異民族だから、悪く書き立てられたというのもあると思う。
第一、そんなに収奪ばかりしてたら、すぐ民衆の反乱が起きるでしょ。
反乱が起きなかったってことは、やはりそれなりの統治はしてたと思うよ。
李克用や朱温の良い面を信じたい。
中原なんかは特に戦乱が激しかったから、
国が把握している戸数はかなり減っていただろうねえ 後唐後晋後漢後周と、統一王朝の名前で逆順に続いてるように見えるけど
これはたまたまなのかな じゃあ、次は殷だな。親の名前に含まれてるから別の字で。
その次は、夏だな。 >>354-355
そういう、懐古的な国号で権威付けを狙ったっていうのが有力。
ちなみに、北宋は殷にしたかったけど、諱になっているので別を探すと
都合のいいことに、太祖が即位前に任じられていた帰徳軍は
古代宋の地で、殷の遺民の地だったから、国号を殷とせずに
すんだってわけ。 なんともモヤモヤとした話ですな
もしかすると
> ここで、宋彦筠はどうやって本国に帰国するようになったのかわからない。
この部分に、知られざるドラマが存在したのでしょうか。 >>281
全然推敲せずに適当に書いてしまったから…(汗
宋彦筠(その他も)をベタ誉めしているのは、後晋少帝で
第二回目の契丹南進のとき、その迎撃軍を編成したときなんですよ。
だから、士気の鼓舞も含めて、大いによいしょしているわけですが
それにしても、陳慶之や孫武をひきあいにするほど、インパクトがあるかといえば
ないようにしか見えなかったという…
知られざるドラマがあるとすれば、西蜀の乱のときか…
蜀に駐屯したのか、魏王に従って(途中からは任圜)本国へと帰国したのか
それによって、随分話は変わってきますからね。
しかしこういう人物はわからないだけに、小説などの題材にはしやすそう… 天福2年4月、華北を制して開封に遷った石敬瑭は
わざわざ王彦章に太師を贈る制を発している。
「千年の精気をうけ、百代に令名を伝える」として、その人物に
えらく感銘を受けているようす。
後唐VS後梁の末期の合戦で、楊劉鎮での奮戦が石敬瑭の
脳裏に焼きついていたのか…
猛将で名将で、なにより義臣というのが、今更に贈官した動機なのだろうか。 > せっかちな柴栄はすでに新たな舒州刺史を任命し
笑ってしまったw
柴栄も趙匡胤も、その個性が十二分に滲み出る列伝ですな
主役を半ば食ってしまうくらいにw >>1
なんか、短編に仕立てたら面白くなりそうな人物だね。
彼を軸にして、柴栄と趙匡胤の多角的な比較ができそう。 >>284
柴栄もちょっと受け取り方をかえれば、非常にユニークなヤツになりますね。
それが実像、というのとは別にしてもね。
>>365
春秋戦国時代と一緒で短編化はしやすいと思いますよ。
不落の寿州を演出した劉仁贍などは、書いてみたい気になったことはあった… 北宋建国当初の把握戸数は300万戸(あくまでも課税対象としての戸数)。
一戸平均5人とすれば、1500万人。
>>1
の華南諸勢力併合時の戸数合計がおよそ、200万戸、1000万人ほど。
すると、華北政権は100万戸、500万人ということになる。
この華北の戸数は、南唐の淮南を後周が分捕ったとき。
淮南平定直後の把握戸数は22万戸だったとか(その後北宋仁宗期には5倍になっている)
後周の把握できた人口は400万…? ほんまかいな。
淮南が南唐の領有なら、人口比で負けてますがな。
もう少し、勉強する必要があります。ほんとかどうかわからん。 自分で自分のレスに突っ込み入れるのもアレだけど
>>1
>>蘄州のとなりの州では、趙匡胤が猛威を奮っていたときのこと。
滁州のことを言ってたのだけど、隣でもなんでもなかった。
それと、>>375の趙学究。趙普のことらしいのだけど、本来趙普は、後周の宿将たる
劉詞の推薦を受けて、柴栄の配置で趙匡胤が攻略した滁州に派遣されたのが
二人の出会いとなっているわけです。
なので、かなり妖しい逸話ではありますね。 >>1
誰も気にしないだろうし、どうでもいいことと思いますが
李平と朱元が崇山道士のもとで学んだ、というのは間違い。
李平自身が自ら崇山道士を名乗っていたようです。
道士かぶれの李平とともに学を修めた、というのは間違ってないと思いますが
まぁ他にも勘違いとか誤解があるでしょう…
いまちょっと、朱元を主人公に軍記小説書こうとしてますんで、発見できた次第でした。 ::::::::::::::::::::::::::::: ,.-ヽ
:::::::::::::::::::::: ____,;' ,;- i へ、 /;へ\
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::::::::::::::: ,;'":;;,,,,,, ;!, `'''i; / ̄ ̄ ̄ ̄\,, |l/−、 −、:::::::::::::::`::|
::::::::::: ,/'" '''',,,,''''--i / __ヽ /::::::| ・|・ | 、::::::::::::::\
::::::::: ;/ .,,,,,,,,,,,,,,,,, ;i'⌒i; | | |、 /::/ `-●−′ \:::::::::::ヽ
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::::::: |. i'" "; |――― 、". ヽ (__|____ /:::::| 後 |
::::::: |; `-、.,;''" /  ̄ ̄ ̄ ̄^ヽ∞=、 \ /:::,/| 継 |
:::::::: i; `'-----j | | | |っ:::::) l━━(t)━━━━┥. | 者_|
朱友珪 朱全忠 朱友文 「朱温」(上・下)仁木英之 朝日文庫10/7発売
「朱全忠」の一生を追った物語 >>(他の武将の立場は・・・)
実は小説の題材に考えているんですが、このときの任圜と魏王の関係は
師弟のような間柄になってたんじゃないかとか思ってます。
もともと魏王の補佐として、任圜と李愚を付けてたところ、魏王がなついてしまった
という話…… いや、多くは語るまい。 岐王李茂貞のエピソード
ある時李茂貞は油を買占め、城内に薪を入れることを禁じた。そうしておいて、
自分はその中から良いものを選んで灯りにしたので、真っ暗闇の中で李茂貞の居城
だけが灯りに照らされて浮かび上がることになった(と思う)
一人の俳優がこれを皮肉って言った
「ついでに月明りも禁じたらどうですか」と
李茂貞は笑って怒らなかった。
『五代史』には李茂貞は寛大なうえに親孝行で民や軍隊に信頼された。また領土が
狭いため税金も低かった、軍事のことは一度聞いたら忘れなかったといろいろ
いいことが書いてあるが、最後に軍隊の統制にまったく規律がないという
おちがついている。 ヒデさん、五代英雄伝の続編執筆予定。
つうことは、五朝通史する気なのだろう。 文庫版の『朱温』読んだけど、王重栄と朱珍がかっこよかったな。
ところで世界史板のほうは落ちちゃった? >>299
ああ……980越えたからか……
あしかけ8年の長寿スレだった。 >>299
次スレ立てるなら、ここも関連スレとすべきかな 文庫版の『朱温』、面白かったけど、下巻の後半がやたら間違いが多いのが気に成った。
既に死んだ人物に書状を送る文章が何回か出て来たし、
地理の方角が東西逆に書かれていたり、
文章の変換ミスみたいな部分も有った。
登場人物で格好良かったのは、楊行密が凄い魅力的人物として描かれて居ましたね。 楊行密が孫儒に連戦連敗だったけど最後にどうにか勝ったところは項羽と劉邦
の関係に似てるな。 仁木英之 李嗣源(上・下)朝日文庫 10月7日発売 朱恩の続きとして読むにはちょうどいい時期じゃないだろうか。
陣営が逆で重複している時期も視点が変わるし。
見せ場は対梁戦の戦場働きと皇帝として迎えられるところじゃない?
期待ageしときながら今日まで存在を忘れてた・・・ 秋には耶律徳光出すみたいだね。楽しみ〜
…とか言っときながらも朱温も李嗣源も積ん読状態なのだけど。
早く読みたい。 ttp://www.e-hon.ne.jp/bec/SI/BunkoSyuppan?sppnscd=00001&taishongpi=201110&listcnt=0 >>312
江西省といえば洪州に鎮南軍節度が置かれていた。
五代十国時代に突入した西暦907年に、呉王・楊渥によって陥落し
呉王自ら鎮南節度使を兼務してる。
それ以降、南唐のときに府制が敷かれ、やがて南都とされた。
南都には、南唐随一の猛将、林仁肇が配されたが、その武威を恐れた趙匡胤の
離間計によって殺され、その後は都制も解かれ、ただの州制に戻った。
南唐(当時は江南国)は北宋にひどく遠慮していたので、林仁肇の死後はさらに
自らを卑下しまくっていたから。
唐末期は、江西団練観察と刺史の兼任。
鍾伝が長く割拠していたけど、先に書いたように呉王によって破られている。
開国などはしておらず、自立したいち勢力。一応、唐の追認を受けている。 そうでしたか。
いや、なんか「閩と南漢と呉の境界らへんに小国が存在した」
みたいな記述を本で見たような気がしたんです。
でも夢かもしれないし、それ以来見たことがないもので。 小国というか、小勢力なんでは?
淮西では秦宗権が称帝していたけど、それとはだいぶ違うし。
またその記述を発見したら、なんという本なのか教えて欲しいな。 山川出版社の世界史リブレットの一冊だったと思います。 閩は本国・福州と、建州、泉州に三分割され(あの小国が)
いっとき、建州では王延政が開国し、殷と号した。
その後、殷は南唐領、福州は呉越領となり、泉州も一応は南唐領
だが、北宋の統一まで節度使・留従效は半分独立勢力として存在した。 沢山地方政権ありますが、
ほとんどは中原出身の人間が建国したんですよね
それが気にくわない。 中原をどのへんと仮定するかだな。
結構、地の人も多いんだけどね。
夏州李仁福は、もともと夏州牙校、湖南の劉言、王逵(王進逵)、周行逢も
楚領内の出(朗州とか)、呉王楊行密は廬州、呉越王銭鏐は杭州、北漢劉崇は太原。
清源軍(泉州)の留従效は泉州、趙王(鎮州)の王鎔は鎮州騎将。
と、だいたい勢力基盤と出身地は近いか同じ。
閩の王審知は光州。淮南なので、中原とは違うけど地ではない。
燕の劉守光と、岐の李茂貞はともに深州。中原というとちょっと違う。
前蜀、後蜀、南漢、楚、荊南が中原人か。
南唐の徐氏(李昪)は海州だけど、これは中原というのかな?
北平郡王(定州)の王処直は京兆……。
むしろ京畿付近出身の群雄は少ないのと違うだろうか? 岐って何で秦じゃないのか?
カンコクカンまで抑えてないから? 治所が岐州で、岐王に封じられていたからだな。
秦州はまた別だし、岐山に拠って周朝がなんたらという故事も縁起がいいからとか? 黄巣が国名「斉」のまま、
故郷で再び王になってくれたら… 黄巣は盗賊ではなく、科挙崩れの書生だよ。教養はあるんだ。
黄巣の集団の中には、そうした知識人もどきもいたけど、朱温や
馬殷等の一定の成功をみると、まだ唐の求心力には及ばなかった
のだろう。 青州平盧軍は順地とはいいがたいな。
独立国というほどではないけど。
後晋期に楊光遠が青州で独立し、契丹と結んであわやという時期はあった。
山東は唐末黄巣の乱で江南浙東が荒れた以後、中原政権の重要な食料と塩の供給地。 >>333
この時期の強国は、河東と魏州、揚州に益州だな。
シルクロードの帰着点は長安、洛陽の線がもっとも有名だけど、河東に入る線がこの頃重要さを増してきている。
それというのも、モンゴルに強く安定的な国ができたから、一段北の商益路が利用されるようになった。
その帰着点が河東太原になる。
鉄、牛皮、明礬に銀と、太原は当時強国の拠点足りえた。
魏州は名目的に中原王朝のいち節度だけど、従順な支配地域以上、独立国以下の特殊な事情がある。
河北平野の交易路中点に位置し、対契丹防衛の要衝。
揚州、益州は天下第一の富裕を誇る地域として有名。 >>334
燕の当主が英明で、魏博を統合できたら、
梁や晋とも並立できましたかね? >>335
おもしろい試みだと思う。
仮に李存勗が並みの戦術家で、梁との一進一退が続いている中、燕では親子兄弟仲睦まじければ
そういうことがあったかも。
韓延徽や馮道を宰臣として登用し、盧文進、高思継、趙徳鈞、元行欽、単廷珪を将軍とすれば、実は結構粒ぞろい。
韓延徽、馮道は言うに及ばず、高思継は息子に高行周がおり、趙徳鈞は趙延寿がいる。
(孫の代にいけば、高懐徳と趙匡賛。一国を代表する名将連だったり)
盧文進は晋とも戦え、やがて南唐に亡命しても名将だった。
元行欽、単廷珪は晋の夏魯奇および周徳威の引き立て役ですが、驍将。
まぁ、できなかったから瞬殺されたんですけどね。 馮道がもともと燕所属だったことは忘れてました。
魏博の銀槍軍も加わったら晋梁と互角になれるかもしれませんね。
ただ燕王は劉親子以外じゃないとダメみたいですが。
あと岐はどうすれば生き残れるでしょうか。 あと、「燕」という名は単に地域名というだけでなく
安録山を多少は意識していたとか? 唐崩壊直後、梁の初期というのは
中国の数ある分裂時代の中でも一番「しっくりくる」というか。
各国の国名、面積のバランス、首都の散らばり方とか
(確かに山東に国が無いとか南『越』じゃなくて南『漢』だったりと
多少の不満はありますが)。 劉守光の燕建国は、その前に梁祖から燕王を授かっていたからというのが第一だけど
劉守光が安禄山を意識していたかどうかはわからない。
馮道は、孫鶴ともども用いられる可能性は極めて低い、というかはじかれたんですけどね。
他にも後世名を成した盧龍出身者はいて、劉守光のような粗暴な男でなければ、おもしろい勢力ですよ。
魏博銀槍都の件は、梁の仕置き失敗の時点で梁に対向しうる勢力として台頭していないと得られないですね。
営州、滄州まで領土が拡張していたとはいえ、義武や趙に喧嘩売っているところを見ると、どうせ晋に
やられそうな気がしますけどね。 李茂貞は一時、西で最大の勢力になっていたのに、惜しいことをしましたね。
朱温に嫁さんを寝取られた楊崇本が一時、鳳翔、邠州、州、秦州、隴州の兵を併せて統率し
力戦しましたけど、劉知俊と康懐貞に負けており、その後の武功、?県の戦いでも、両者にボロ負け
してしまって国威が落ちましたね。
符道昭も悪くはないんでしょうが、梁の劉知俊や康懐貞の方が上手でしたね。
その劉知俊が岐に亡命して、康懐貞を二度から撃退してのけたので、保ったというところでしょうか。 >>340
ネットでちょっと調べたたけでも劉仁恭、劉守光ともにひどいものですね。
そんなに有能な人材がいたのに逃すなんて、「隗より始めよ」の戦国燕とは偉い違いです。
どうも乱世のせいか、異常な人物が目立つような。 ただ、劉守光はともかく劉仁恭は戦も世渡りもそこそこ巧みで、一方の雄としては興味深いところ。
李克用が死に際残した三本矢の訓戒で、契丹、朱温に並んで劉仁恭も討て、となっている。
それくらい、晋にとって燕は無視できないうえに、恨みが積もっていた。
>異常な人物が目立つような。
武人社会だし、短慮で荒っぽい人間が面に立っているからでしょう。
謹厳、文を好む、という人もいるし、最初粗暴で、後名将の風格を備える者もでてくる。
魏州銀槍都の皇甫暉などその典型で、貝州で反乱を起こし州民を殺掠しまくった男が、南唐に亡命すると
名将モードに転化して、「周軍、すこぶるこれをはばかる」と言われ、滁州清流山では趙匡胤と接触し
記録によっては皇甫暉が大敗、あるいは趙匡胤を破るとある。
一進一退で、最後は趙匡胤の中入れで負けてしまうけど、捕虜となっても神色自若。
皇甫暉が防衛した滁州の民は、皇甫暉の意気に感じ、毎日五時に鐘を鳴らして弔いとしたそうな。 春秋戦国に比べて異常に統一のスピードが速いのはなぜですか。 唐の中後期からすでに、意のままにならない節度使勢力を牽制するために、王師の強化がなされていたけど
これは令下の制度であった節度使体制≒封建制を打破する中央集権策であって、宋代のいわゆる「強幹弱枝」政策
というのは、その流れが結実した結果ということになる。
早いといっても、憲宗の中興以後、宋太宗の節度使解体までで考えると百五十年くらいかかっているんだけどね。
戦国時代は基本的に人民の社会意識は封建社会で、秦始皇の統一策は絶対君主、中央集権を目指したことに
よって実現されるに至るわけだけど、ここには法家の存在と法による公平さ、民間からの軍士、官吏登用(これは春秋時代では
みられなかった社会変容。それをもたらしたのは武器等の進化による戦術の進歩と規模の拡大による人員不足など)
さらに商路の都合によって通貨の統一などが望まれた方向性によってくる。
いち勢力に留まらない墨家のような傭兵集団や、下克上的な反乱などで国家間の勢力均衡に微妙な翳りが生じ
商路の確保による統一的概念が生まれだした頃、秦が軍事力ともにぬきんでてしまい、その勢いは坂を転がる
ように拡大していったことから、前代未聞の中華一統がなされた。
統一に動き出してから、一様の形ができたのは、秦始皇の方が早くないかい?10年くらい。
もっとも、完成をみるのは漢孝武帝の頃であって、当時はまだ強固な中央集権、官僚社会とはいえなかった。 >>345
ということは、梁もしくは晋は
多分に唐の中央集権化路線を引き継いでいたと。 燕以外の二藩というのはある意味キーなわけか。
ここを梁や晋が押さえれば他を圧倒する勢力になって
一気に統一まで進むし、弱小の燕が押さえれば梁や晋と並ぶ勢力になれる。
燕王がもう少し優秀ならば(例えば馮道を重く用いるとか)、
その後の東アジアの歴史は非常に大きく変わっていたと。
>>1
ヨーロッパみたいに分裂してた方が発展したかも・・・ 会盟を開催し、諸侯連合軍で契丹と戦う・・・
ダメか・・・ 岐がタングートを吸収することは可能だったのだろうか?
あと、会盟は牛の血に毒混ぜたりするだけか。
朱全忠は李克用を宴会で殺そうとしたしな。 山崎覚士氏は呉越が十国の覇者的な存在って言ってるな。
五代王朝は周朝よりかなり能動的かつ主体的だったような気もするけど。 呉越覇者説どうなんだろな。
呉越国王に真王号与えて云々といっても、それはあくまで呉越と中原二国のお約束。
呉・南唐や南漢、蜀にとっては知ったことなかろうし。
実力じゃ呉・南唐が十国随一だから、後晋滅亡後はしばらく、南方諸国は軒並み南唐に遣使してたり。
ただ、呉越が中原とそういう「設定」を共有する一方で、独自に山東だの朝鮮だのに介入してた形跡は面白い。
この時代、雲南とやりあった蜀やチャンパまで遠征した南漢みたいに、十国側で古来の中華の枠を超えていく動きがある。 でも南唐も馬鹿揃いなんだよな。
後晋滅亡時に韓熙載が提言したように、中原回復の機会があったというのに呉越と事を構えてやられている。
華南諸国中で、中原王朝がもっとも頼れるのが呉越だというのは、呉越の江南での立場強化にもつながっているとはいえ
まぁよく、あそこで南唐に歯向かったなぁとは思う。
後周による征淮南のとき、湖南軍閥は早々に敗退のあげく内部分裂していて役に立たなかったのに、一度負けたとはいえ
最後まで後周に付き合ったのは呉越だけだったてのがあるから、中原との結びつきはずいぶん強かったのかな。 呉越は初代の銭鏐が旧主の董昌や淮南の楊行密と戦って政権を確立していく段階から、
常に「中原天子の代理として乱賊を討つ」というのを大義名分に掲げているからね。
もともと同格な在地土豪の連合体だった杭州八都の上に君臨していくためにも
中原の権威から離れるという選択肢はなかったんじゃないかな。 >>351
それらの動きも興味深いですが、
個人的にはすでに文明があった大理朝鮮チャンパよりは、
閩に台湾を文明化してほしかったところ。
現地の酋長と主従関係を結ぶなり、
傭兵として雇うなり、接点を作ろうと思えば作れたと思うんですが。 閩越は内乱から南唐と呉越の介入、やがて福州で両国が激突する
って流れがとんでもなくおもしろいので、台湾とか却下w
閩国というか王延政の建州(殷国)の出身者が、やがて南唐で将として
第一線を張っていくのは興味深い。
>>335の言い分でいくならば、閩国も意外に人材は豊富だったりする。
将領でいえば、まず陳誨、陳徳誠の親子、鄭彦華、南唐に唯一勝った男、許文縝
孟堅に林仁肇か。
この中で林仁肇は、趙匡胤がその武名を恐れて、わざわざ離間計にかけたほどの存在。
まぁ、閩や殷が存立したからといって、国運を左右するほど高位に上ることができたとはいえないけど。 つうかビンって、いい位置占めてる割には政権サイドから交易や海外他国に関与する姿勢に乏しい気配がするし。
ビンは武人もいい味出してるけど、道教マニアの自称皇帝なんが、なんとも土俗的暗君って感じで楽しい。
「この一箭で呉越を破り、この一箭で中原を定めるぞよ」とか気勢あげて国境に押し寄せても、
呉越側は「バカがまた騒いでるよ」とはなから相手にもしないとか。 海外貿易とかで、もっと開明的思考を持ってもいいような立地なのに前時代的なのが滑稽なw
むしろ、南唐に対してもそうなんだけど、呉越は小国の割には懐が深いというか。 カルタゴやベネチアみたいなもんかな?
「呉越」って名はなんかよくわからない名だけど。 政権所在地から考えてメインは越王ながら、楊行密にタメはって呉王も兼務している設定なんじゃないかな でも普通「越」って「南方の諸々の民族」っていう感じに使われるような。 いやw
銭鏐がタメ張るつもりとかじゃなくて、越王に封ぜられた後、呉王に封ぜられ、後梁建国に際して呉越国王に封ぜられたからだよ。
ただ、後梁(朱温)サイドとしては、呉王楊行密を認めない方向で、銭鏐を対抗馬に立てたのだけどね。 >>362
呉越の首都州、杭州は西府とされ、東府が越州。 >>362
春秋戦国時代に呉の拠点だった蘇州が呉と呉越の係争地で、越の拠点だった会稽が呉越の支配下だったことをイメージしてたんだけど、例の呉越真王説を絡めると、中原としては銭一族を「中華南方の諸勢力の抑え」として「越王」の称号を与えた、という面もあるのかなぁ。
穿ち過ぎか?
そうすると南漢についても考える必要があるけど。一時、南越を称していたような。 と、思ったら楊行密の呉王の方が自称かな。
910年2月に百官の制を開いているので、より正当性があるのは呉越じゃないか。
朱温の意思とはいえ、すくなくとも唐帝がまだいた時期の呉王冊封だし(906年9月)。 >>360
そいえば呉越あ高麗と覇を競った後百済王キョンフォンの後ろ楯だし。 >>365
「越」国と百「越」の二つの意味を掛けていたと。
岐みたく「杭」とかでも不自然ではないとも思いますが。 南漢は、後梁冊封で南海王で、その後自立称帝して「大越」としたけど、翌年には「大漢」にしちゃった。
劉氏だからだろうな。 >>368
ああいうのは古代の雅名使うとものだから。岐だって西周発祥の聖地にあやかってるんだし。
それに銭鏐が堤防と城壁作って大開発するまで杭州はそこまで大都市じゃない。だからこそ銭鏐は杭州一帯の民間伝承で神格化までされてるわけで。
>>471
通鑑のどこかにあったと思うけど、たしか楊行密は唐の昭宗が自分の意思で、朱温を牽制するために密詔で呉王に冊封。
一方銭鏐は昭宗が朱温に拉致されて傀儡にされたあと(殺される直前)に、強制されて呉王に冊封。 >>370
そうだ忘れてた。
天復二年、昭宗が岐に蒙塵したときに呉王冊封を受けたんだっけ。
で、自立はしていなかったので子に位は継承せず、のちに唐が滅んだので自称だっけかな。
呉王冊封で楊行密も一度兵は出すが不振で、すぐに銭鏐とドンパチやらかしているんだから
朱温としては銭鏐に牽制を任せたくもなるな。 まったくの自称ではなくて、いちおう昭宗の密使として来たまま
帰るに帰れなくなっていた人物(名前はちょっと思い出せない)を
皇帝の代理という扱いにして、彼に冊書を書いてもらっている。
苦しいやり方だ…… >>372
調べてみた。
李儼ですね。
宰相張濬の子っていうのがアレだが。
でもこれって、冊書を作って嗣がせたのは、弘農郡王じゃないのかな……?
呉は唐の滅亡後、天祐六年に萬全感を岐や晋に使者として送って、翌年二月に奉書を携えて帰ってきている。
一応、唐の正朔を封じた大鎮の晋と岐に承認させることで、呉王を嗣いだ体裁。
この二年ほどのタイムラグは、代替わりとか国境のごたごた(危全諷の乱とか)で忙しかったからかな。 ああ、そかそかすいません。記憶だけで書くと曖昧になる。
まとめると独立国としての政治的な足場がためは、
後梁を共通の敵とする晋や岐による国家承認に基づき、
法的な足場がためには李儼を使ったということかな。
ただし李儼の冊書はあくまで弘農郡王。
そのあたり厳密に考えると、この時期の淮南政権の国号は
呉ではなくて弘農とすべきなのかな。 間違えた、資治通鑑ではやっぱり呉王嗣位も李儼が絡んでました。
楊氏政権は短期間で君主が変わっているので、継承の政治的体裁を整えるのに苦慮したみたいですね。
楊行密のとき、奉書によって呉王。これが一番根拠がある。
その後、楊渥ついで楊隆演を李儼によって弘農郡王。
唐の滅亡後二年ほどして、李儼にまた頼って呉王を嗣がせてもらい、岐や晋に報せ、名実共に国王となった
という感じかな。 はからずもキングメーカー的役回りを果たすことが慣例化した李儼は
結局、徐温の粛清対象になるんだったかな。
まあ、こんな回りくどい遣り繰りをしているぐらいなら、
「うちは唐王朝の末裔だから」の方が分かりやすい。
一方、南漢なんぞはなんの体裁づけもしないでフリーダムに皇帝自称。 ややこしいながら、実際に呉が自立して開国したのは、919年天祐16年になるんですね・・・。
封建領主的な呉王と、独立国家としての呉国王ということか。
まわりくどさの背景には、周辺国(呉越が主だけど)や国内への牽制もあるんでしょうねぇ。
徐温が権勢をもちゆく過程において、中央軍の掌握も含め君主権を背景にしていく必要があるから
国内軍閥や呉越などの反感を極力かわそうとしてのことかな。
李儼誅殺は、まさに軍閥朱瑾に息子(徐知訓)が殺され、その朱瑾と李儼が通好していたので
連座の罪という感じでしょうね。
後唐で朱守殷の挙兵に連座して、宰相任圜が死を賜ったのと同じような感じかな? 質問なのですが、董昌の「羅平」の由来って何でしょうか? >>377
自分が乗っとる予定の政権を、乗っとるまでに十分成熟するように育てていく徐温か……三国魏の司馬氏みたいだ。
図式としては似た構図だけど、徐温にとって李儼こそがメインターゲットだったのかも、って気もしなくはない。
>>483
当時、浙江地方の民衆に崇拝されていた羅平鳥という三本足の霊鳥らしい。
ちなみに、数十年前のホウクン(変換できない)の乱のときも羅平という私元号を定めていたと思う。
董昌は左右に越巫を侍らせ、かなり土俗的な政権を築いていたように見える。
まあ現存する記録は敵対陣営の側のものしかないけど。 そういえば、呉だけでなく蜀や南漢も917年前後に政権の自立性を強めていて、
これは唐の建国からちょうど三百年が過ぎたことで
天命の移行が明確になったと見なされたためという説があるらしい。 >>三国魏の司馬氏みたいだ。
まったくw
でも、呉書高祖本紀で楊隆演が死に際、大丞相徐温と交わした言葉は。
楊隆演「昔に聞く。蜀先主が武侯(諸葛亮)に言ったそうだ。『嗣子不才ならば君が取って代われ』と」
徐温「とんでもないこと。(中略)もし楊氏に男児なくば女子をもってたて、妄言をなす者は斬って捨てます」
はぁそうですかとしか。
徐温あるいは養子徐知誥は禁軍を握っていたことで、中原の郭威、柴栄の先を取っていて、開国したのちの
政権存立基盤はきわめて強固な君主権が確立しており、権勢家であった宋斉丘などでも、固有の権力基盤
たとえば武力とかはなく、あくまで皇帝の寵によっての権勢だった。
徐知誥=李昪はともかく、李m、李Uがあれだから南唐は軟弱な印象だけど。 >>380
たしかに、蜀の改元、永平(915年)→通正(916年)→天漢(917年)は変えすぎな気もするね。
そういう象徴にあわせたならわかる気もする。918年には王建が死んで代替わりしている徹底ぶり・・・
は関係ないか。
ついでにいえば、契丹が916年に建国している。 >>379
なんと…
ヤタガラスの親戚みたいですね。
地名由来でない国名はこの時代は珍しい気がします。 いやーでも、外国とはいえ契丹は五代十国と絡みまくってるし。
ついでにいえば雲南の長和も、朝鮮の後三国も、桃井至朗先生曰く「五代十一国」の一角を為す安南も絡みまくるけどw
あまり話題が転々とするとあれだけど、契丹も歴史的な節目ははっきり意識していたと思う。
第一次建国が唐滅亡と同年、第二次建国が唐成立からほぼ三百年経過時点ってのは偶然にしてはタイミング良すぎる。 >>384
時代と場所が近い例だと雲南の大長和国、大天興国、大義寧国……
中華圏外になるけど。
地理的に中華圏内とはいえ羅平だのビンだの南漢だのもエキゾチックな国ではあるし、
どうも中華の輪郭がどこにあるのか、よくわからなくなる時代ですな。 >>385
それを言うなら、
平将門や藤原純友もそういうことは意識してたと思います 真面目な話、唐の崩壊、南詔の崩壊、新羅の崩壊、日本の律令国家体制解体は全部連動してるんよね。
大唐世界帝国の覇権が消滅した後に日本や朝鮮やベトナムが自立した地域国家として確立していくのと、
華南に地域単位の国家群が成立するのも、多分同質の事象。
後者は再び統一王朝に回収されてしまったけど、
十国の領域が現在の省の範囲の原型になっている部分もあったり。
将門や純友もまさに五代十国の群雄と同じ時代の空気を吸っている人間だと思う。
さすがにスレチなので、これはここまでにしとこうw 契丹は「外国」というより北朝という印象かな。
一応、中国では戎だの虜だのと区別したがっているけど。
契丹の中国への絡み方は、間違いなく争覇勢力の一角でしょ。
地域由来でない国名はたしかに珍しい。
国内ではやはり以前にあった国号が用いられることがスタンダードなのかな。
たいていは存立地域とか王号によるけど、閩の富沙王・延政の「殷」呼号はなにゆえだろうか。
それと先祖に遡っているが、郭威の「周」は地域や王号に由来などしていない。
もともと王冊封はなく、郭威の職掌は、枢密使、侍中、天雄軍節度使でのち監国。
後漢側の記録では郭威の軍は「魏軍」と書かれているんだが。
資治通鑑をつらっと見るに、周王になっているのは後漢隠帝の劉承祐だけ?
元周王を打倒して周を建国かぁ。 >>388
いや、杉山正明先生も指摘しているとおり、東アジアにおける連鎖崩壊はこの時期の特徴。
これははっきりいってスレチでもなんでもなく、この時代をみるには必要な背景だと思う。
その国の内情とかにまで話が及ぶと、さすがに手は届きませんが。
>>十国の領域が現在の省の範囲の原型
そうか。
これは節度領域によると思っていたけど、もともと十国の存立基盤が○○節度だから当たり前か。 >>388
とくに藤原純友なんか、呉越あたりと何らかの繋がりがあっても何も不思議じゃないな。
後百済がポシャったのを見て、海上覇権確立ための次のターゲットとして裏から介入してたかも。
明示的な史料はまず出てくるまいけど。
>>494
たしかに王延政の殷はどこから出てきたのやら完全に不明だ。
そもそも歴史上、殷という国号を採用した政権自体がレアだし。どういう意図なんだろうな。 >>391
「殷」をそのまま国号にしてないけど、宋の内容は殷に順じているね。
こちらは、宋州が殷の故地だったことと、周より古いから正統、みたいな
こじつけでの命名。
ついでに親父の名が弘殷だから、殷を諱にして商としたというけど、諱があって
国号を殷にできなかったから宋にしたんだろうか。 将門は反乱を正当化するために、
渤海が契丹に滅ぼされた例を挙げてましたね。 >>389
確かに春秋時代の国号を引き継いでいるとはいえ、
意味はかなり違うかなと。
同じ「呉」「晋」「燕」でも、春秋時代には完全には特定の地名にはなりきっておらず
政治集団名の色彩が強いのでは。 >>389
山崎覚士先生は「五代十国史と契丹」という最近の論文で、「短期間とはいえ契丹は中原王朝として成立し、国際的承認を受けたのだから
五代十国はむしろ六代数国史と称するべき」と書かれていますね。
なお「数国」になるのは、南方諸政権のどこまでを独立国家と認められるかに客観的な基準を設定し得ないため。
ちなみに栗原益男先生は後唐も荘宗以前と明宗以後で別国家と見なし、「七代十国」と言われたそうです。 >>395
五代十六国とか冗談で言ったことはありますが、七代ですかw
荘宗と明宗の断絶を言うなら、末帝もそうじゃないかと思うんで八代ですね。
周辺政権は岐や燕はもちろん、北平と趙、湖南軍閥、殷と清源軍、霊武に夏州となれば結構点在していくわけですね。
その中で霊武と夏州あたりは、世襲的軍閥政権なので、本当に数えてもいいんでないかと思うんですよね。 その伝でいけば、朱温も認めた静海軍節度使こと安南の曲承美(きょくしょうび、ではなく、あえてベトナム語のクック・トゥア・ミィw)なんぞも、
間違いなく諸国の一角w なぜベトナムは中国の一部にならなかったのか?
「大越国ができるまではベトナムは中国色は薄かった」とも聞くが、
上流階級はともかく庶民は中国本土でもい民族色が強かったと思うんです。 たまたまそうなった
の一言がすべてなのかも。
実際、宋は北漢平定の翌年にベトナム(と後に呼ばれる地域)に遠征軍を送ってる。
そして大敗して結局断念した。
この時期のベトナムは燕雲や西夏と並ぶ「未回収の中華」なんだとおもう。
百年後には「南国には南国の天帝がいる」と叫ぶぐらい民族意識が固まっているんだけど。 逆にいえば、ビンや南漢も中華外の国家になる可能性はあったということになりますね。
王は中華から来た人間ですが、
それは大越の李氏や陳氏も同じですし。 もうちょっと詰めて考えると、ひとつには南漢と安南が別の政権だったことかなあ。
過去の諸王朝が統一戦争のなかで嶺南に兵を進める場合、基本的には広州を落とせばハノイも勝手に降伏するわけで。
今回は広州を落とした後にさらにハノイまで再度遠征……となるとコストに見あわないと判断したんじゃないかな。
もうひとつは、この頃海南島の東から直接南海に乗り出す航路が開発されて、
あえてトンキン湾に避難港を確保する必要性が低下したらしい。
開放的な南詔が鎖国的な大理に代わったことで雲南からハノイに出てくる交易ルートの収益も落ちただろうし。 周辺国が中華に並ぶほどの地力を持ち出したということかな。
中華最大の経済発展は、実は東アジアでの覇権の落日だった。 >>400
南漢の宮廷にはペルシア人の王妃までいたらしいし、そうなったら面白いね。
とはいえ統一戦争に乗り出した北の政権はなんとしても南シナ海を目指すだろうけど。 結局実現はしなかったけど、閩は海岸線を淮南以外に持たない南唐にとっては
咽喉から手が出るほど欲しいところなので、これはそのまま中華の外のままにはならなかったでしょう。
江南開発とともに福州泉州の発展は切り離せないだろうからなんだけど、結局南宋の発展が
そこを基軸にしているので、そう思うだけかも。 当時のビンや南漢の庶民の言葉が
ベトナム語のように、中国語と全く違う言語だったとしても
私は別に驚かない。 >>403
南漢書に「波斯女」とあるそれね。
名前がわからなく、「性善淫」とあって賜った名前が「媚豬」。音読みすると卑猥・・・ >>404
淮南の海岸は遠浅で港を作れないし…
ビンは場所の割に政権の視野が内向きなのが惜しい。
福州はともかく、泉州が交易都市として発展し始めるのは留従効の統治期からじゃないかな。 >>405
つ 福建語
つ 広東語
現代ですら普通話よりベトナム語のほうがなんぼか近縁かもw そういえば、ビンや南越の地に漢民族が大量に流入したのは
この時代でしたね。 客家の家伝の系譜を調べると、王潮・王審知兄弟と一緒に来た設定がけっこう多いらしいね。 そういえば、?の臣に陳霸先なる人物がいますな。
先鋒武将で戦えば勝つような人で忠義勇敢と称されるものの、賊を追って馬が倒れた拍子に死んでしまったとか。 >>392
高校の世界史で「五代は新しくなるほど名前が古くなる」と習いましたけど、
その流れは実は宋まで続いていたんですね。
>>516
なんとも聞き覚えのある名前ですねww
何を思ってこの名前にしたんでしょうかね。 >>412
へぇ、今や高校でそれを教えてもらえるのか。
自分は小島毅著書の中国思想と宗教の奔流で知ったクチなんだけど。 >>406
南漢王朝がムスリムだったって可能性はないのかな >>390
10世紀初頭の日本の動きはむしろ律令制の日本化の一環で、唐崩壊の変革が及んだのは200年後と言う説もある。 この時代を横山三国志
みたいなノリで楽しめる
漫画は無いのかな? >>415
将門が契丹を意識したのが唯一の影響ってことか いや、その後の武家政権って実は唐崩壊のいわゆる門閥、官僚貴族制崩壊から替わって軍閥資本家の台頭
尚武の社会、武人政治のあたりが濃く影響として波及したんじゃないだろうか。
ただ中国では形勢戸、官僚資本家が進出して、武人社会は独裁君主制の確立とともに終わったけど、日本は
国の特色のように続いていったという感じで。 >>418
すると、
・何故鎌倉幕府は武人色が強いままだったのか?
・何故京都朝廷は科挙を取り入れて、新しい人材を入れず、
影響力を失ったのか? 河北、山西もソグドやらトルコやら
相当に異民族色強いよね。 実は第二の五胡十六国時代だけど、唐宋変革が目立ちすぎてあまり話題にされないという >>422
そういえば漢民族の南下も共通してますね >>411
陳霸先ってwかなりの中国史ヲタでももう一人いるとはw
>>527
節度使が独立王国化したとばっかとらえてたけど、よく考えてみれば李克用とか
石敬瑭とか劉知遠とかあと契丹が攻め込んでくるとかって考えると五胡十六国時代
似ているという指摘があながち外れていないことに改めて驚かされた...なるほど... >>425
契丹の開封政権が長期化していれば、第二の北魏なんだけど、そこまではね。
しかしその一連の、遊牧民族系が中原を目指す流れが、征服王朝時代なんだけど
考えてみれば、魏晋以降、征服されっぱなしなんだなー。 呉の劉信って面白いな
自分を韓信に例えて荘宗に弓比べを挑むとか 笛吹きサンケイバイトラーメン
笛吹きサンケイバイトラーメン P35.cgi (Perl,SJIS) 2015/11/18 FOX.
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P35 ■■■五代群雄伝■■■
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P35 テストに夢中。これ以降書いても消えちゃうかも