家康の息子が全員、幕府成立直後に死んだ場合
どうなるか? を考えてほしい
ちなみに関ヶ原の後、家康は後継者候補である3人の息子のうち誰にすべきか、家臣たちに尋ねた。
本多正信が「結城秀康」、井伊直政と本多忠勝は「松平忠吉」を推した。
大久保忠隣のみが「太平の世にふさわしい文徳を持つ秀忠」を推し、これに決した(ウィキ)。
なお結城秀康も松平忠義も、大坂の陣の前に死没している。
また秀忠の嫡男の家光は1604年生まれである。秀忠が将軍職を譲られたのは1605年である。
ここで問題……
もしも秀忠が1603年3月、江戸開府の直後に嫡男なく急逝したらどうなっただろうか?
さらにほかの後継者候補の息子たちも、全員が残らず死んでしまうものとする。
家康が慌てて新たな息子をこさえても、全て病死となる。いっぽう秀頼は、ぶじ成人…… まあ一つ考えられるのは、千姫をめとった秀頼に政権を委譲するしかなかったかも
そうなった場合の日本の政体の可能性も、かなり変わった気がする 家康の後継者が、1603年幕府成立直後に全滅したばあい
1.家康自身に「徳川家の天下」を構築維持するモチベが、完全消滅する
2.三河以来の家臣団も、忠義の対象である世襲嫡子をうしない求心力を失う
3.外様大名らが、「大阪の秀頼こそが次の天下人」という世論を形成する
家康の天下構想はこの時点で徳川家中心でなくなり、秀頼を養子にする道が開かれる 無理にも程がある仮定をすることで秀吉をdisっていくスタイル >>5
結城秀康の子の忠直はウィキによれば1595年うまれ、あと松平忠昌が98年、
松平直政が1601年(以下の松平直基1604年、松平直良1605年はカウント外)
秀康は家康に嫌われていたようだが、ほかの後継者がいなければ忠直の後継路線に
なる。なお忠直は大坂の陣には参戦しており、年齢的にも普通に後継者になれる
ちなみに忠直は敵将の真田幸村に奮戦を誉められており、武将としては資質があった
後に所領の越前にて暴君伝説があり失脚するが、伝説は脚色とみられており真相は謎
ともあれ。かれらも1604年中には消すしかないな。これで家康も観念するしかない 90歳まで生きた忠輝は簡単に死にそうもないけどなw
孫の忠直まで消す前提なら超常現象でも起こったか暗殺されまくりなのだろうけど そんだけ暗殺フリーな状況ならその時点で崩壊してそうw 1604年。すべての後継者が「厭離穢土欣求浄土」することにより、初代将軍家康は
どうあがいても秀頼に天下を譲る決断を迫られた。朝廷の仲介により秀頼が将軍を
兼任し、家康がその後見人となることが決済されたのである
1605年、江戸城。12歳の秀頼は正式に、家康から征夷大将軍職を譲られた
そして福島正則が、秀頼の代官として江戸城を預かることとなったのである
「これより上様は秀頼公のみであるぞ。徳川家の陪臣どもよ、ひれ伏せ」
福島正則が大音声でどなると、天海と崇伝を筆頭に本多正信・正純父子、本多忠勝
と榊原康政、大久保忠隣、大久保忠佐らを筆頭に徳川四天王や十六神将の生き残りも
ただ目の前の秀頼にかしこまり平伏するだけであった。それをほほ笑んで見守るのは
淀殿と、そして秀頼の生物学的な父親である、大野修理であった……
なんだか、なろう小説みたいになってきたな
ちなみに家康には庶子もいるが、嫡子全滅でも家康が認知する可能性は低そう
鈴木一蔵は信ぴょう性が低い。永見貞愛は1605年死去。小笠原権之丞は切支丹
小笠原が徳川家を継ぐと切支丹大名になってしまう。まあそれはそれで興味深い
展開ではある。切支丹庶子と皇族養子(良純入道親王)の、どっちを選ぶかで苦悩
する家康を想像するのも一興 >>7
忠直乱行の原因は本来なら自分が三代将軍に成っててもおかしくないのに、父秀康が将軍の兄にも関わらず後継者から外され政外の家扱いされたことが遠因とも言うから一躍後継者指名されたら張り切っちゃうんやろな忠直君
史実でも幕府の越前松平家への気の使いようは尋常じゃないしな >>1
どうでもいいけどその後継者を誰にするかって話は創作な
秀忠は信康切腹直後から後継者・嫡男扱いやで >>10
家康が生きてるうちは徳川領は家康のものだろ 福島が代官とかありえないわ
将軍宣下も史実では家光までは京でやってるわけで秀頼が江戸に下向することもありえない
秀忠が将軍になるまでは将軍(家康)は京にいることのほうが多かったし 秀忠が正式に後継者になったのは1600年だからね。 実記に記載があるから徳川家内ではそうなのかもしれないけど
秀吉の遺言では明らかに後継者扱いされてるし対外的にはほぼ後継者と見られていたのでは 秀忠は従三位、秀康は結城家の家督を継いで参議
太閤遺命として家康が死んだ場合その跡を継ぐのは秀忠
と、秀吉存命中から秀忠の後継は既定路線だよ
あと別に家康の子が死滅しても豊臣家時代の政治力が
所領管理も幕府に頼らなきゃいけないレベルなの変わらんし
豊臣政権内での序列で家康以上の存在がいないのも変わらん たしかに全国レベルの行政スキルは幕府に帰属し、家康自身の政権は盤石安泰だが
家康にも寿命があり、そしてポスト家康を担う彼の親族が居ないとなれば、誰が継ぐ
のが穏当か? 徳川譜代は千姫の旦那にすがって江戸城に来ていただくほかないのだ
このスレでは徳川秀忠は1603年、乗馬しているとき草むらにひそむマムシが馬に
かみついたため驚いた馬が秀忠を乗せたまま暴走、秀忠ごと谷底に落ちて次期将軍
は脳みそぶちまけて惨死することにする。むろん嫁の家光懐妊も未遂である
(なお家光は家康と春日局の間にできた庶子という俗説もあるが、これは否定する)
もちろん結城秀康と松平忠吉は、ともに史実通り1607年没
秀康の男児の忠直・忠昌・直政・直基・直良・呑栄は亡父の葬儀の席上、てんぷら
で食あたりして頓死することにする。松平忠吉には史実通り、後継者がいない
家康五男・武田信吉は史実どおり1603年没。史実通り子は無し
家康六男・松平忠輝は1607年、不仲な家老の山田重辰が乱心することにより、妖刀
村正で斬殺されることにする。なおこの時点で忠輝に息子は居ない
家康七男・松平松千代は史実通り1599年、幼少のうちに病没
家康ハ男・松平仙千代も史実通り1600年、幼少のうちに病没
家康九男・徳川義直は1607年、松平忠吉の後継として尾張清州城を継いだ直後、
てんぷらで食あたりして頓死することにする
家康十男・徳川頼宣は1607年、武技の稽古中、落水。マムシにかまれ溺死とする
家康十一男・徳川頼房は1607年末日、とつぜん発病。翌1608年の3月に病没
4歳の幼児だったが、枕元に築山殿と信康の怨霊が出たという噂が流布
さらに石田三成と安国寺恵瓊と小西行長の怨霊が、「徳川亡ぶべし。
九族残らず滅す」と頼房の口を通して明言したとの噂でもちきりとなる
かくして家康もおのれの譜代にたいし、豊臣家再興を通しての権力システムの継承
を命ずることになったのである 天下に厭戦気分が蔓延してるとかじゃなければ戦国に戻るだけだと思う IFだからといって絶対にありえない設定では面白くないんだよなあ 要は>>18みたく家康が沢山いる息子を一人残らず失って
豊臣に平伏すみたいな妄想したくてスレ立てたってこと? あり得るとすれば同年に全員死んだ藤原四兄弟パターンくらいか 井川遥の旦那の母親は結城秀康の三男を祖とする明石藩松平子爵の娘 1608年3月。最後の希望である頼房が呪いで死んだと噂された時、家康は征夷大将軍
の地位を世襲する道を捨てた。新しく子供を作っても、その成長までは生きられない
家臣団には庶子の小笠原権之丞を推す声もあったが、禁教を目指す家康は黙殺した
1608年。家康は秀頼に征夷大将軍を後継させることを宣言する
だが・・・いずれにせよ秀頼には秀頼の、大阪城で仕える直臣がいる
彼らの下で陪臣扱いにされる三河家臣団が、「はいそうですか」と従うはずもない
家康自身が観念してもなお、秀頼継承の道は険しかったのである
(かくなる上は秀頼を大阪城から切り離し、駿府城でわしが後見するほかあるまい)
家康も、そう腹をくくるしかなかった
ここで福島正則と加藤清正(1611年没)が、復権する
まず清正が淀殿を説得。すでに嫡子なき家康が本気で天下を譲ることを納得させ、
ただしそのためには、ゆくゆくは秀頼が江戸に定住する方針を納得させたのである
いっぽう福島正則は、家康庶子を後継者に擁するべきと息巻く徳川家臣を監視し、
場合によってはひそかに粛清する裏の役目を背負うことになる
ある時、正則は「本多正純が上様の後継問題で不服を口にした」と正純を讒訴。正純
を改易させたが、これは秀頼政権を維持するため、家康が不満派の実力者を排除する
ためしかけた罠であった。福島は家康が作ったシステムと豊臣を繋ぐ接着剤なのだ
1611年、清正と正則の働きもあり二条城で秀頼と会見した家康は、その優れた資質
に驚くとともに、彼に委任してもよいと考えるにいたった・・・
数日後、朝廷は秀頼に将軍宣下を行う。家康は秀頼の直臣たちを切り離すため駿府
で秀頼に帝王教育を施し、当面は江戸城は福島正紀が監督することとなったのである 影の将軍家
今川家に幕府を継ぐ正統権を与えられただろう 7本槍に転生したのでチートで家康の息子達を虐殺し秀頼に尽くして豊臣幕府を打ち立てます 家康殺すだけじゃ飽きたらないから子どもたちを一人ずつ無残に殺されて
秀頼を養子にしなきゃならない無念を味合わせないと気が済まないんだろ
>>1は なにも孫娘の婿じゃなくても家康の婿の池田・奥平・蒲生がいるやん
直接継がせるのはさすがにあれだけど孫もいるし >>32
実子をすべて失ったこのスレの家康とて、外孫のことを考えないわけではなかった
だが頼房死後に幕閣が調査したところ、驚くべきことが分かったのである
・亀姫(家康長女、奥平信昌の正室)の子
長男の奥平家昌は1607年、鉄砲稽古のおり火縄銃が暴発して即死とする
ゆえに1608年うまれの長男の種付けも、未遂となる
次男の松平家治は史実通り1592年、子のないまま病没する
三男の奥平忠政は1607年、狩猟のおり流れ弾に当たり即死とする
ゆえに1608年生まれの長男の種付けも、未遂となる
四男の松平忠明は1607年、城の兵糧蔵を見分中に失火、煙に巻かれて窒息死とする
ゆえに1631年生まれの長男の種付けも、未遂となる
・督姫(家康次女、池田輝政の正室)の子
長男の池田忠継は1599年に生まれるも、1602年に風邪で死亡とする
次男の池田忠雄は1602年に生まれるも、死産とする
さらに督姫自身も忠雄の死後、産後の健康が悪化して死去とする
ゆえにそれ以後の外孫は、生まれないものとする
・振姫(家康三女、蒲生秀行の正室)の子
長男の蒲生忠郷は1602年に生まれるも、1607年に若くして祖父と同じく癌で急逝
次男の蒲生忠知は1604年に生まれるも、1607年に若くして祖父と同じく癌で急逝
家康はこの調査結果に、肩を落とした。報告者の服部半蔵を引き下がらせ、しばし
縁側で茶を喫する。そばに侍る茶阿局は、今までに見たことのない、虚無の表情を
した家康の横顔を見やりめつつ「自分も死んだ息子たちの菩提を弔うため尼僧に
なりたい」と申し出る機会を、図りかねていたのである
(やはり天意は、亡き太閤殿下のお血筋を求めているものとみえる)
家康が深くためいきをついたとき、天運の女神は秀頼に微笑んだのだった・・・ もう秀頼以外全部死なない限り天下の目はないって話になってるぞw そして家康の孫婿たる秀頼にも呪いが降りかかり死んでしまいましたとさ
めでたしめでたし >>20
1612年、駿府城下…
家康は、いまや自分の最高の後継者になった秀頼に、釘をさすことを忘れなかった
「将軍殿よ。拙者が関ヶ原で三成を討ったのも、ひとえに貴殿の天下を守らんがためのこと…
豊臣と徳川に弓を引いた真田や長曾我部をゆめゆめ、わしの死後も許してはなりませんぞ」
そう。いまだに大名の夢を捨てきれない、関ヶ原牢人の問題が残されていたのである
かれらは豊臣と徳川の間に合戦が起こることに、自分たちの活路を見出していた
それだけに、まさかの家康による秀頼への禅譲・・・かれらは混乱した。共闘すべき最強の旗印が消えたからだ
それは言い換えれば、東西の決戦という過酷な内戦を経ることなく、天下が収まったことも意味したのである
だが秀頼が家康の忠告に頷きつつも迷いの色が浮かぶのを、家康は見逃さなかった。たしかに久能山の真田あたりを
赦免すれば、三河武士たちの忠義の頂点に秀頼を立たせることは、不可能になるだろう。だが秀頼のためを思って
西軍についた者を無視しすぎてもまずい。天下は秀頼を、人の上に立つ資格のない非人情な我欲の人と見るからだ
そこで家康は言った。「関ヶ原牢人でも、徳川に穏健な御仁なら復権も可かと。毛利勝永殿など、いかがかな?」
この言葉に、秀頼は救われた顔になった。かくして土佐山内家に預けられていた毛利勝永は、秀頼の直臣旗本と
して招聘される。これは復権を願う関ヶ原牢人に大きな希望をあたえ、遺恨を優先するものと豊家への奉公を望む
ものを分割する絶妙の策だった。加えて幕閣にも、良い緊張感を与えた
(秀頼公に忠勤を励まねば、かえって関ヶ原牢人が我らをさしおいて旗本になるやもしれぬ?)
それを恐れる三河武士団は、口実を設けては千姫の夫へのあいさつのため、駿府に出仕するようになった
いっぽう牢人であるなし問わず豊臣恩顧の諸勢力にも、この絶妙の人事は刺激となった
というのも秀頼は、福島正則がともすれば徳川家の家臣を軽んじて不満を醸成するのをおそれ、手堅い人格者で
ある毛利勝永を土井利勝とともに、江戸城の代官とする二頭体制にしたのである。この人事は秀頼の名で発令された
(幕閣に味方の少ない本多正純ではあったが、福島の手で改易されたことはやはり幕臣に動揺を与えすぎた
劇薬は一代かぎりでよい・・・)。家康と秀頼という優れた資質の天下人は、意見一致したのである
かくして一時は天下の代官気取りだった正則ではあったが、以後はあくまでも秀頼昵懇の外様として、広島城で
西国の抑えに専念する。秀頼の命とあっては正則も服すほかなく、幕閣との衝突は未然に防がれたのである 薩長=イエスキリスト
徳川幕府=ファリサイ派
所詮徳川は負ける運命だよ。 どこまで他力本願なんだ。
そんなに天下が欲しいなら、堂々と戦って勝利して、徳川一族を皆殺しにしてしまえよ。
そっちの方がまだリアリティがあるわ。 大給松平殿になんとかしてもらったらよろしいがな・・・ どうせくだらない妄想するなら秀頼が出陣したら
一人で大阪の陣の徳川方を蹴散らして勝利してた
とでも妄想したら