【秀吉・秀長】豊臣氏・羽柴家総合スレ5【秀頼・秀次】
秀吉や秀頼、秀長、大政所や旭など豊臣家と一族やその家臣団
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【秀吉・秀長】豊臣家総合スレ4【秀頼・秀次】
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1498995052/ 1513年那古野に新五郎が在城
1533年7月那古野の今川竹王丸(数えの12歳)が勝幡に赴き飛鳥井雅綱に弟子入り、雅綱・山科言継・織田信秀らと蹴鞠を楽しむ
1536年秀吉生まれる
1538年那古野今川氏が織田信秀に城を追われる
1548年おね生まれる
1561年秀吉・おね結婚
秀吉とおねは生まれたときからの許嫁だったんじゃないか
遠江の古見郷周辺にルーツを持つ木下氏の孫息子と杉原氏の孫娘(父は尾張杉原氏の入道道松)
秀吉が25歳まで妻を取らなかったのはおねの成人(初潮)を待っていた、と ついで
義元の弟だ、名越北条だなど見るけど那古野今川氏は小鹿
「又五郎→民部少輔」と「新五郎→右馬助→下野守」の2流あったんじゃないか
1487年に討たれた小鹿範満の仮名が今川新五郎(1466年6月3日付「御内書案」)
1513年『為広駿州下向記』今川一家交名
一、民部少輔 【傍注】子に又五郎、その弟に慶千世
一、下野 【傍注】親は入道
一、那古野の新五郎
二、瀬名源五郎
三、葛山八郎 【傍注】早雲の子
四、関口刑部少輔 【傍注】慶王
五、新野
1533年7月23日条『言継卿記』今川竹王丸【傍注】在名ナコヤ…今川竹王丸【傍注】那古野、十二才
1557年3月2日条『言継卿記』今川那古屋殿 (遠江国で言継の使者の訪問を受ける)
1564年9月28日付「大沢右兵衛佐宛今川氏真感状」小鹿右馬助 (遠州錯乱につき油断なきよう小鹿にも伝るべく)
年未詳11月9日付「法寿寺宛今川氏真判物写」小鹿民部少輔 (河野庄内5貫文の売買を承認) >>540
毛利や徳川の子供の使い方見てるとグチの一つも言いたくなるよな 晩年の秀吉の迷走はキリシタン勢の工作とかもあっただろうし、疑心暗鬼になりすぎてる感じは否めないね >>545
豊臣兄弟ではそんな秀吉は見れないけども
弟秀長亡くなって千利休秀次一族キリスタン弾圧朝鮮出兵だからな、豊臣家滅ぶ要因のほとんどは秀長死後におきる わが伯父、信長公にさんざん世話になった、三河の田舎大名が無礼であろう! 秀長の死が豊臣家の崩壊のターニングポイント
前田利家の死も影響あるだろうな 秀吉の台頭なんか民主党フィーバーみたいなもんで
能力的にも統治システム的にも最初から穴だらけの即席政権だから
ちょっと待ってればすぐ終わる 結局、どんな偉人だろうが
跡取りなしなら台無しなんだよな。
秀吉の妻ねねの家系、木下家は
代々1万石程度の小大名であるが
明治時代まで継続し、現在も子孫がテレビに
出たりする。
子供がいなければ、他どんなに成功しても
最低ランクに堕ちる。 秀次を死に追いやったのが全てだな
秀次って長久手以外は別に落ち度もないのに妙に評価低いよな 最初から穴だらけの即席政権だから
ちょっと待ってればすぐ終わる
結果論でしょ
家康に都合がいいように若い人も同年齢の人も死んでいく
例えば家康と秀長、又は家康と利家の寿命が逆だったとする
まず徳川の天下にはならないよね >>554
秀次一族は豊臣家の力になる可能性もあった
敵の家康に秀頼頼むって泣きついて豊臣家は滅ぶけど >>555
加藤清正の毒殺の噂と同じで
秀長と利家も毒殺の噂はあったタイミング的に >>556
基本的に秀吉が見据えてるのは秀頼の行く末でしょ
豊臣家を考えたときに戦国時代を生き抜いた連中がまだまだ健在なときに幼君を立てるのは自滅を意味してるんだから秀長としては諫言するだろ 正直秀長も秀次と同じ末路になる前に病気で死んだようなもんでどのみち秀吉自身が変わらないと無理じゃないかな 秀吉は軍の大将によく官僚系の人間を据えてるけど、武勇より兵站のほうが大事と思ってる秀吉流ともいえるね 大和中納言秀保の溺死、それを受けて附家老佐渡守高虎が高野山に あんな安定しない室町幕府ですら200年以上続いたのに
10年ってwww 黒田、細川はだから九州に飛ばされたのかな キリシタンだから >>560
前田利家は暗殺って本出たり
千利休と家康の怪しい動きあって秀長暗殺疑われたり
前田利家と秀長も暗殺の可能性否定できないぞ
前田家に家康と通じる者いたり千利休と家康は密会してたり >>563
ただキリシタンを自分の目が届かないしかも海があるところに飛ばすかと考えると 日本史スクープ砲で利休は切腹してない説やってたなあ
おもろかった なぜ打ち切りなのか・・ おもしろかったのに 由来守護大名の支配をなかなか受け付けなかった大和と紀伊を秀長に任せたは妥当な人選であったが、養子は溺死、家老の高虎は高野山に入り、山を下りるようにとの指示がなければそのまま終わっていた 藤堂高虎はころころ負けて朝鮮軍へ勝ち星を進呈しているし
後に家康のポチに成り下がるからそのまま終わっていたほうが豊臣家の為には良かった >>569
巨済島や鳴梁では大きく勝っているし
襲撃されて撃退したのにそれを負け負けと評価するのは偏見 >>566
利休は切腹してない説やってるから打ち切りになったんでしょw まあ寝返りと言っても関ケ原時点ではどっちも豊臣側だからな
豊臣家の為に戦い、将軍様の為に戦ったら、うっかり32万石の
大名になってしまっただけ 藤堂は太閣から見れば陪臣の時機が長かったのだからあまり忠誠心なくても驚くに足りない >>574
でも高虎と黒田は完全に徳川の味方
家康が勝てばどうなるかわからないわけない
加藤清正と福島正則もわかってた 鑑定団に新出文書でたね
1583年閏1月に出された秀吉・長秀・恒興の連署状 小早川秀秋の肖像画なんて明らかに心病んでる顔だもんなあれ
かわいそうにw >>580
死んでから描かれたものだったのか 知らなかった 豊臣秀長亡くなった時点で秀吉の負け
秀次一族殺しと朝鮮出兵を止められる人はいなくなった ストーカーサルうぜえ 必ずみなころす
でないと終わらねえ 司馬の進士太閤記に、秀吉が寧々の前に井伊氏の足軽の娘と結婚していたと書いていたが、
これが事実ならばどうなっていたか。
井伊氏は、正史の浅野氏のようなポジションになり秀吉の家臣になるが、関ケ原で西軍について没落。
東軍に付いたら、秀吉の妻の縁戚として厚遇されて、吉良邸に内入るのは井伊の四十七市になる。 >>581 まことよ ワイなんて使うやつはいないのじゃ 自演キャラには 最適じゃがのう >>585
ああ、確か新婚初夜に打ち解けるために藤吉が何かのモノマネをして
「この猿はなんで踊ってるんだろう?」とかいう感想を持ったあの嫁ね