織田信長の人物像・人間像について考える
通説通り超合理主義でサイコパス 現代で言えば北の将軍様がピッタリ 革新的な人物ってのはちょっとニュアンスがズレてる気がする、ご法度に手を染めまくってるし 仮に本能寺がなくても信長の代では全国統一は無理だったと思うな >>10 信長は自分の支配に素直な民衆はむしろ善政しいていたけどね。信長自身、民衆と祭りに参加したりしてるし。自分に厳しいところもあり、北と同じはさすがにない。 信長が優しかったっていうは本当だと思う。秀吉が天下を獲ってから書状かなんかで「俺は信長みたいに甘くない」って言っていたからな。 信長は光秀に家康殺しを命じたが、光秀は家康を逃し信長を襲った なんでも人任せにしているといつかはそうなる手本 それが本能寺の変 武田信玄との三方ヶ原もそう、 上杉謙信との手取川もそう、 大事なことは自分でしましょうね ちぃとは自分で頑張りなさいよ 信長とはそうゆう人! >>13 信長は総司令官でありながら、常に最前線に立ち続けたがね。武田の時は主戦場が畿内や近江なのに、東にいけば敵前逃亡だし、手取川では後詰として出陣してるが松永久秀の離反で主戦場が大和に変わったんだが。 そもそも手取川は規模自体怪しいし。 光秀に家康暗殺を命じた、とか確証も無いのに何言ってるの? 作家とかが面白おかしく言ってるだけやん。 もう少しお勉強しましょうね。 >>14 君、完全に信長公記信じてるな まっ、凡人はその程度やろけどなっ! 明智の子孫の小説信じるよりは、 信長家臣のひいき交じりの記録を信じた方がいいと思うけどね。 >>17 ご冗談を。 俺が長いものに巻かれるタイプだったら、もっと充実した人生送ってて こんなゴミみたいな掲示板に書き込みなんかしてないよ。 で、土岐氏嫡流が生きてるのに、ガン無視して 土岐氏再興とか言っちゃう小説を信じる理由は? >>15 何で信長公記になるんだよ。 書状とかの一次資料ですら、信長がお前が言ってるような怠け者なんて傍証ないが。 ところで、それだけ偉そうに言ってるなら、家康暗殺を言ってる一次資料か二次資料出せよ、凡人以下。 >>19 君、相当信長好きやなあ 危ないタイプやね どこぞにお泊りに行った時、討たれんように気いつけいや 信玄が教科書から削除されるスレで暴れてる奴に触っちゃいかん 織田信長というと、中世の伝統を破壊した革命児、合理主義に徹したリアリストというイメージが定着したかの感がある。 しかし、他の戦国武将とは違い、こうした既成概念では割り切れない何かを信長は確実に持っていた。 それを一言で言うとすれば、強烈な「カリスマ性」ではないだろうか? 意外と優しかったと思う 宗教関係者の逆恨みを真に受けちゃいけない 宗教関係者も信長ラブの人たちいるしね 対戦相手でも、○願寺なんか戦国期の史料では「信長公」とか敬称つけて、そんな怒ってない様子 江戸時代からだよな、ガンガン批判しはじめるの、たぶん自分等のヤバい部分隠すためだと思う 明智子孫の説信じてる人、今もいるのには驚きやね 今後史料がいろいろ出るにしたがって、子孫氏は恥ずかしくて人前に出られなくなるでしょう なので今のうち、構っといてあげるのもいいかも知れんね 歴史的に語られる織田信長の人物像はというと、よく言われているように、既成の価値観にとらわれずに合理的精神を持って世の中を改革したという革命児的な評価と、 晩年によく見られる、その自分に抵抗する勢力に対して手段を選ばず、武力や虐殺を用いてまでも自らの行動を断行する魔王のような姿がある。 7:00 朝食 めざしに味噌をベタ塗りして食う 12:00 昼食 味噌入りのおにぎりがないと部下を怒鳴り付ける 18:00 夕食 冷奴に味噌をてんこ盛りにして食う 23:00 濃姫とアッー! 何発出しても子ができないと嘆く 自称子孫さんの説ってなんか中途半端なんだよな 真面目な学説としては論外だしトンデモネタにしても地味過ぎてつまらない トンデモ本能寺論だったら八切止夫や立花京子とかの方がよっぽど面白い 最近新しさを求めてこの人物の評価を下げておけばいいって逆張りする人を見かけるが ここはそうでもないようで良かった 目新しさを求めた訳じゃなく実証的な研究によって評価が是正されただけ >>32 その実証的とされる評価も、池上裕子とかおかしいのがやっていて怪しいのが多いがね。 織田信長が「普通の戦国大名」な訳ねえだろ。どこが「普通の戦国大名」なんだよ。今の学者頭おかしいだろ。 >>34 池上裕子に言って下さいよ。 織田信長研究でおかしい文献出してるのあいつだから。 織田信長は旧来の人物とか、人材登用で美濃と尾張出身だけ優遇したから明智、松永、荒木の反乱が起きたとか、信長は徹底的に敵を滅ぼしたから30年かけても天下統一できず、秀吉は敵を取り込んだからわずか8年で天下統一できたとか言ってますから。 池上裕子だけじゃないよね 金子拓、神田千里も是正してるし藤本正行の桶狭間まぐれ勝ちが通説になってきたし 東国の研究者達も信長の後進性を指摘してるし戦国研究会全体が信長を是正するようになった >>36 桶狭間まぐれ勝ちとか大草原だわ。 ならば厳島の毛利元就、川越の北条氏康、今山の龍造寺隆信、耳川の島津義久らもまぐれ勝ちってことでいいのかな? 桶狭間の話をしてるので他の合戦は関係ないな まあ藤本正行の著書を読めばいいと思うよ 今の学会は新説出した者勝ちみたいなところがあるから仕方ない。 でも新説は事実を強引に捻じ曲げて無理矢理証明しようとしたものだからそこには矛盾生じ絶対にその論理は破綻する。 今の学者たちがやってることは10年後には必ず間違いだったことに気付くだろう。 だから日本の戦国史は10年遅れる。 10年遅れて一からまたやり直しになる。 著書とは色々と書き手の思惑があるのが当たり前。 残念ながらそれに引っかかってしまうのも当たり前。 桶狭間の戦いなんかもそのひとつ。 織田と今川の当時の石高はそうは変わらなかったはず。 織田にはあの広大な濃尾平野があるからね。 なのに皆が知っているあの兵力差は何? あんな大差最初からある訳ない。 そんなに力の差があるなら、とっくの昔に織田は滅ぶか今川の家臣になっとる。 おそらく兵の数は倍も変わらなかったはず。 それに今川は上洛軍ではなく、織田を滅ぼし、ただ領地拡張を狙っただけ。 現実は織田が兵1万で、今川が兵1万7千、こんな感じだったのでは! 本拠地の織田が勝っても何ら不思議ではない。 寧ろ織田からしてみれば攻め込んできてくれて有難う、だったのでは。 サッカーに例えると、長い時間相手にボールを持たせておいてひたすら守りながらも、そのボールを奪うと一気に攻め上がる堅守速攻だったのでは! 本音を言えば、織田が勝って当たり前だったような気さえする。 >>41 織田は斎藤や北畠に備える必要があるぶん、半分あるいは半分の半分は動かせないはず。5000、よくて7000がいいところ。 >>41 当時の織田は知多は今川に占領されて 海西郡は服部に占拠されてる その上犬山の信清は同盟者でしかない 領地はまだ尾張の半分以上程度 その領地の大半も占領したばかり 「最新の研究」のように、信長が甘くて保守的な田舎のおっさんならば、 じゃあなんで天下布武などと思いついて実行してしまうのか あいつらは名前を売りたいだけだ まあ定期的に新説出さないとメシ食っていけないからね仕方ないね 最近は有名になってお金稼ごうって専門家が増えてきているから、今までの通説を否定するのに必死。 その方がインパクトがあるから。 その結果うまくいって大河ドラマの監修とかになった者もいる。 例えば上杉謙信の度重なる関東出兵は家臣を食べさせる為だとか。 そんな少人数食べさせたところで何の意味もないがな。 常識で考えて、そこまで言うか、と思うがね。 磯田道史みたいにマジメにやっとる奴が言うならまだわかるがな。 専門家もアタリハズレがあるから気をつけろ! 磯田さんは戦国史に関しては専門家の間じゃそこまで評価されてない気がするな。近年はテレビ出演が多く忙しいからか最近ちゃんとした学術書とか書かないようだし。そう言えばちょっと前までは眼鏡をしていたっけな 信長は相撲好き、は確定だと思う。まぁもしかしたら武将ってそう言う人が多いのかもしれないけど 磯田道史みたいに古文書をスラスラ読めるようになりたい! 織田信長は松下幸之助やジョブズと同じで自分自身は凡人だけれども、 経営の神様タイプだったね! 信長自身も体育会系で水泳や乗馬や相撲で体鍛えてたから結構喧嘩強かったと思う 戦闘と戦略は得意だけどその真ん中である戦術に関しては苦手だったとよく言われてるな 武田信玄関連スレでは、織田信長は和睦詐欺や粛清をやりまくった悪の権化になってるぞ。 >>44 信長に関してはそもそも、「甘い」とされておられる研究者の方はあまりおられないように思うのですけれどね。 そもそも、天下布武自体の意味合いが、 そもそも「布武」という言葉自体が、 古代中国の礼儀作法を書いた礼記にある、「布程の歩幅で規則正しく歩く」という 事柄であって、天下布武、というのは、 「天下(当時は京都周辺・あるいは畿内一帯を天下、と呼称する事も多かった。)を、 礼儀正しく規則正しく歩いていく、やっていく。」 という意味合いであると、最近の論説では唱えられておりますしね。 55はそれほどキチガイでもないよ 信長はやたら真面目な人だよ、優しい人でもあるし これ今の研究家が言ってるわけじゃなく、当時の人が言ってる >>55 明智憲三郎氏涙目 この人自分のブログ名を「天下布文」ってしてるけど あれは絶対「信長は暴力的だが自分は文化的だ」ってアピールしたくて考えついたと思うんだよね >>55 語尾変えても、話し方や内容でバレてるぞ。ねえ君。 研究者ってのは通説を否定するために極端なこと言いすぎなんだよ 何事もせいぜいあくまでそういう一面もあった程度に解釈しておくのが無難 通説と同じこと言ってたら誰にも注目してもらえないからな まぁ天下布武が全国の大名ぶっ潰すって意味だと外交の書状に使ってたのが戦線布告になっちゃうけどな その優しさは命張った塙さんの遺族には別けて貰えんかったのでしょうか? >>63 それはイギリス企業に傭われ武器のセールスマンやってた龍馬じゃなかったっけ? 戦国時代は何かと忙しい時代。 その中でも上杉謙信と織田信長はかなり多忙。 あとの大名達はずっと家に居るかすぐ家に帰る。 謙信と信長は単身で上洛しているし家に帰らないことも多い。 結局この2人が戦国には必要だった。 あとは誰が大名でも良かったのでは。 豊臣以前の段階ではこの2人は天皇にも将軍にも直接会ってるし、広範囲で戦国の状態が分かっていたと思われる。 特に謙信は関東全域と京の都の状態を肌身を持って分かってる。 上杉か織田のどちらかがこの時代を治めないといけなかった。 信長は最後まで生き残るべきだった。 性質から見ても謙信か信長なら海外貿易が盛んに行われていただろう。 今と違った日本になっていただろう。 他は誰が何処で自分なりに全国を治めたとしても、湿っぽい徳川体制とほぼ同じだったと思われる。 今の時代も同じで、アクティブな変人が治めないと面白くもなんともない。 私が生かされ続けてて面白いと思ったのは小泉純一郎政権の5年間だけだ。 今現在はつまんない世の中だ。 誰かアクティブ変人出て来いや! 確か京都には商船に乗り越後からやって来た商人が宿泊する町があったくらいだから比較的、謙信の耳には京都の情勢や噂が入ってたと思う 貿易盛んにしても日本から売れるものがほとんどないんで金銀が流出するだけな気が 海運握る方向に行くべきか >>64 鬼武蔵やお乱みたいのが遺族にいれば、また違ったんでね? 塙(原田)はその遺族が本願寺と内通してたからまとめて追放されたという説もある まず信長っていうか戦国時代の人々を語る場合、勘違いしている人が大半でしょう。 これはアホな歴史家や歴史作家や大河ドラマのせいでもある。 戦国時代の日本人と現代の日本人の思想、価値観はまったく違う 現代の日本人の価値観、思想は江戸時代の儒教を基本とした思想改革から始まっている つまり江戸後期と戦国時代の時点で同じ日本人ではないわけね 戦国時代の思想は大まかに神道仏教からなりたっている だから根本的に現代と戦国時代の人の考え方価値観は違うわけね 現代でも日本人と韓国人と中国欧米で価値観は違うだろ?これは宗教や思想が異なるから この辺を考慮して戦国武将を語らないといけない アホな歴史作家や大河ドラマは、現代の日本人の価値観で戦国の人々を描いているから間違える エンタメなんだから一般読者視聴者が感情移入できないと失敗。基本、現代人の価値観に寄せるでしょ 寄せるにも色々方法論があるし 史実を踏まえて寄せたらあんまり叩かれないんじゃないかな 大河関係のツイートを覗くと最近の歴史研究を踏まえて、そこをこう解釈してきたか!みたいな展開だと受けは良い。 信長のイメージ定着には光栄の影響も大きいよな https://twitter.com/sinkurou/status/943735712007954432 コーエー以前の織田信長のイメージは、教科書によく載ってる あのぬほりんとしたイラついた感じのラッキョみたいな親父の絵ですからね。 それがみんな生頼さんの描いた燃え上がるような逆立った髪と髭の魔王を イメージするように。今年の大河でも顕著でしたが。 それ言うなら最近の武田信玄は完全にあの鎧姿。上杉謙信はGacktになってしまっている。 >>75 いくらなんでも頭悪すぎるだろ ゲーム発売以前からどれだけの役者が燃え上がるようなルックスの信長を演じてきたと思ってんだ 現代のイラストは全部その影響だ ゲームとアニメの世界しか知らないオタクが分かった風なことを言うな 「であるか」の口調も もとは信長公記の道三との会見だろうけど 信長キャラの口癖みたいにつかわれるようになったのは大河なんかの影響か というか、最近信長の評価が落ちすぎと違う? 武田信玄や上杉謙信、豊臣秀吉、徳川家康は相変わらずだけど。 信長に最近は斬新性がない、保守的、縁故重視の人材登用と信長に何か恨みでもあるのかみたいな評価されてるけど。 鉄甲船の開発。 西洋人が見て驚いた安土城の建設。 滝川、明智、木下と何処の馬の骨かわからんのを登用した事実。 楽市楽座の拡大。 長篠での前例のない殲滅戦。 これらが無視されていると思うんだが。 >>83 鉄甲船は鈍足だから遠征ましてや外征に使えるシロモノでは無かった欠陥品 楽市楽座は親父のモノマネ 滝川はともかく秀吉はそこそこの家の出だった説が濃厚なので、であれば濃尾優遇の一環だったのかも 光秀の土岐氏だったのであれば織田の主君筋にあたる由緒正しい家柄になる 殲滅戦自体は浅井朝倉や長島一向宗相手にもやってるね >>84 土岐氏が織田の主筋? 織田の主筋は斯波だが。 楽市楽座はモノマネだけど、それを拡大拡張したのは信長。 鉄甲船は当時最強の毛利水軍を破るためのものだから、遠征に使う必要はない。 信長の功績を否定したい訳じゃないんだけど新しいことを始めた革新者というより既にあるものを上手く使う才能に優れていたと思う 秀吉がそこそこの家出身って武功夜話に書かれたような与太話だろ >>85 土岐って元々は尾張、美濃、伊勢の守護代じゃなかった? 足利義教に習って比叡山焼き討ちするような信長だから過去の歴史は重視してたと思うんだ >>87 元々は今川配下で足軽やってたという 足軽大将が侍大将になり、やがてひとかどの武将になるってのはまぁまぁある話かと 有能なやつに権限渡せる度胸はすごいけどね >>82 秀吉の大河ドラマで渡哲也がやたら連呼してた印象 >>89 正確には今川のそのまた家臣の奉公人 それだけじゃそこそこの家の出という証拠にはならんと思うが 革新的とかは置いといて 魔王キャラじゃなくて意外に優しい、甘いところも多いというのが近年の評価になってない? 最初に信長はイメージより厳しくないと言い出したのは永井路子あたりかも 失敗には寛容だよね 秀吉はすぐ手打ちにするけど信長は次頑張れで許しちゃう 謀叛も鎮圧までは苛烈だけど処分は甘い感じ 武田の残党を勝手に処分したのは信忠だし 本願寺顕如、足利義昭、荒木村重なんかも結局生き延びてる 俺が信長だったら弟とか松永は真っ先に処分してるな 昔は『秀吉の数々の逸話は全部嘘だが信長の伝説的な話は全て本当らしい』 と得意満面に主張する奴がいた 現実には 大嘘の三段打ちに始まって、眉唾の鉄工船、平安時代(多分もっと前)から 戦場では弓が主力なのに見かけ倒しの長槍をさも革新的であるかのように扱う 平安時代から起きている寺社の焼き討ちを神仏を恐れぬ合理主義者と印象操作 その過程で秀吉始め部下たちは天罰に恐れおののく原始人扱い その他パクり政策をオリジナルだと印象操作 信長は何一つ悪くないが信者が持ち上げ過ぎて実像の姿とかけ離れてるね 信長の伝説は全て真実だと言ってた連中は引き下がれないのではないかな この手の連中にとっては本当の事より自分の面子の方が大事だろうから 三段打ちは実際にあった戦術だと判明したけど、信長オリジナルかどうかまでは不明だな 秀吉&秀長は妙に字が上手かったりするから、底辺の農民説を疑う人が出てくるのも無理ないと思う 三段撃ちなんて普通に雑賀がやってたから新しくもない 信長の場合、坂本龍馬と同じで過大評価しすぎて、一度落ち着いて再評価しようって流れでしょう 秀吉の書状はめちゃくちゃな当て字が多い それでいかに無学な成り上がりものだったかがわかるって 高校の先生が言ってたなあ >>96 無学なのでどれが「事実」かはわかりかねますが、 最終行内容はすげええ判る。想像つく。 確か日本では他人のまわし・・・ ああダメだ思い出せない。 桶狭間の圧倒的戦力差っつー話も実は怪しいんやろ 最近は今川義元最強説や浅井長政豪傑説をよう見るで 当時の京でもやらないような牛車や御輿に乗ってる勘違い公家モドきの太ってキモいおっさんと優柔不断でお家を滅ぼした典型的ボンボン 素直に考えたらこんなもんやろ このへんも信長さんの凄さを際立たせるために盛ってるんちゃうの 上総守とか名乗っちゃうからおそらく信長は官位への教養が低かったと思う 北野武の映画を見れば想像つく。 目が座ってる奴は怖い。 >>57 信長は正義漢だし。 しかも陣頭で自ら戦を指導。しかも その判断も優れていることが多い。(ヘマはあるが。) 声はよく通る響く声だし、武芸は鍛錬しているし、 仕事人間だし、まさに当時の英雄。 死後最も早く描かれた肖像画だと信長はいびつな形の頭で長い顔で左頬っぺたにほくろがあったな。なんか怖いって言うより気だるそうなオッサンだった 織田信長の家臣団―派閥と人間関係って本に書いてあったけど、母親に嫌われてたって話も根拠となる資料がないって 書いてあったけど、なぜ、嫌われてたってことに今日までなってるの? 信長の若い頃ってざんばら髪を纏めたでかい丁髷生やした髪型 してる事多いけど事、そういう髪型してたって記述はあるの? >>114 信長公記の首巻 「御髪はちやせんに、くれなゐ糸、もゑぎ糸にて巻き立て」と描かれてる 自らの名声の為に通説を捻じ曲げてまで新説を主張すればいいという今の歴史学会のスタンスでは永遠に事実などわからないだろう。 それで今一番迷惑しているのが織田信長である。 中身の伴わない新説なんてプロパーには相手にされないから名声なんて得られないし、むしろトンデモ説を唱える輩として腫れ物扱いされるだろうな 故人が迷惑しているとか、>>116 は信長と話ができると称して同人漫画を描いていた人か 関係ないスレで信長が評価されたのは平成に入ってから 大河だって信長主役は後からだと主張してる人がいたが ドラマにする場合、信長は秀吉と被っちゃうからな 近年は秀吉の評価が下がってきたから信長メインが増えてる可能性はあるな 残忍な革命児信長像は山岡荘八が作っただとかイワン雷帝をモデルに日本陸軍が作っただの聞くなぁ >>119 しまいにはスレも立ててたけど、あそこまで自説を絶対視してるのもどうかと思う 信長が確実に呼んだと言える和歌ってある?信長記には載ってるようだけどまぁあれじゃん 封建的な人物だと言うことが最近の研究でわかってきているんだって 吉川英治や司馬遼太郎の影響で、秀吉からみた暴君信長像が昭和の大衆の原像だったと いうことがおおきいんじゃないか。「サル!」だの「イヌ!」だの暴言はいて、気分次第で上級 武将を殴り飛ばしたり粛清したり。平成ころから信長像を問い直すような小説が出始めて流れが 変ったようにおもう。個人的には津本陽の「下天は夢か」が面白くて、個人的な信長像が大きく かわるきっかけになったわ。 下天は夢かって武功夜話が元ネタだし有名所の戦国時代小説の中じゃ一番あかんやつだろ 間違った知識を世間に振り撒いたという点では司馬遼太郎とかよりもタチが悪い 信長公記読むと猿だの金柑だの全く言ってないんだよな まあ太田牛一が聞かなかったか省いたかした可能性もあるけど そもそも太田牛一って途中からは丹羽長秀付きで信長の側にはいなかったんでないの? さらにいうなら、まことは、「豚」に反応しているのだろうか 牛一さんは秀吉に仕えたからね、ご主人様の悪いことは言えん ましてや秀吉は光秀関連の資料をみんな破棄させたというじゃない >>131 では側室に鍋だのひょうし、たこ、とか台所にある名前つけたって言うのも嘘? お鍋さんはいますよね。 >>103 不意打ち食らって死んだのは今川義元も織田信長も同じ。 まあ信長は首だけは敵に渡さず切腹したらしいが。 藤吉郎が草履を差し出した。履いてみたら温かかった。その理由(わけ)を次の中から選べい! なお正解者は家臣に取り立てる。 Ⓐ藤吉郎の心がこもっていたから。 Ⓑ藤吉郎が尻に敷いていたから。 豪商加藤図書とか土豪横井時延とか取り込んで、とにかくカネ儲けに長けてる奴を重用してたイメージ。 実は戦争っていうものが大嫌いだから天下統一したかったんだろうなあって思う 戦争をなくすために戦争をするしかない矛盾を生きた人 信長、秀吉、家康はサンカの出身だという説があるけど、 ココの人たちはそれどう思う? >>1 桶狭間の戦いは別に奇跡ではなくで信長の代表的な奇襲戦なんだけどな 牛一の信長記見てわかるように太田牛一も信長の作戦知らされていないし 清州城の家臣は全く信用されていないのな 間者による情報漏洩を恐れての行動で長篠の戦でも信長が同じような行動をとり酒井に奇襲させるのな 桶狭間の戦いも信長が信頼していた武将のみに知らせていた奇襲作戦 桶狭間が奇襲ていうのはとっくに 否定されてんじゃなかったっけ >>149 それは信長記によってだけどよく読むと太田牛一自身が信長の真意をわかっていないからな ただついていっただけで何がそこで計画されて行われたかは書かれていない 安倍「プーチンは言ってみれば戦国時代の武将みたいなもの。たとえば織田信長に人権を守れと言っても全然通用しない」 [デデンネ★] https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1650610796/ 信長公記に若き日の信長の鷹狩りの様子が描かれているが @「鳥見の衆」と呼ばれる斥候を各地に先行させ、どこにどんな鳥がいるか調べて 獲物を見張り、1名は報告に戻る A 鐙にわらを巻き付けた「馬乗り」が、鳥のまわりをゆっくりと乗り回しながら 徐々に獲物に近づく B 馬乗りの陰に隠れていた信長と鷹匠が飛び出して鷹を放つ C 獲物の周りで百姓に扮して田を耕していた「向待ち」が鷹が組み付いた鳥を押さえる 獲物の情報を得たうえで、獲物には自分の存在を悟らせないまま虚をついて仕留める。 ここまで読むと信長は桶狭間で義元相手にこれをやったのだと気づく。 よって桶狭間の戦いは、基本奇襲であったと自分は考える。 >>153 それが正解だと思うね 従来型の桶狭間奇襲が正しいね 信長は用心深い性格だし桶狭間の戦いでも清州城の家臣には何一つ真実を語っていないし 織田軍2000が義元本体5000を攻撃したのが桶狭間の戦い。 兵数2000で奇襲は無理。ぜったいに気づかれる。 実際は雹が混ざるほどの激しい豪雨が降ったので 2000の兵が今川方に気づかれることなく義元本体に接近できただけ。 つまり、桶狭間の戦いは狙った奇襲攻撃が成功したのではなく 豪雨のせいで奇跡的に勝てただけなのだ。 雨が降らなければ信長は殺されていただろう。 >>155 偶然の嵐が信長の勝利に寄与したという点は同意。 信長公記では信長が(義元本陣の)山際に近づいたところで豪雨になったとある。 これは義元が「豪雨の前も」織田勢の接近に気づいていなかったことを示している。 そしてこれが信長が企図した結果だということは、全体の記述から明らかだろう。 つまりは奇襲だったということである。 豪雨の雲(ゲリラ)って俺の地方だとに来る方向ってパターン化してた 南西から此方へ黒い雲が雨を降らせながら向かってくるのが屋上から見える 商業施設の設備やってたから浸水を防ぐ土嚢や排水道具とかの準備してた まだガラケーでネット黎明期の頃 尾張の国はわからないが、少なくとも地元民経験値で遠くに見えるゲリラ豪雨雲の移動予測は出来たのではないかと思う 信長なら義元の本陣とゲリラ豪雨雲の当たるタイミングは計算していたかもしれない >>156 そもそも、信長公記で言うなら、信長は自身達が戦おうとしてる軍勢を、 大高城に兵糧を運んで、丸根鷲津で戦って疲れてる今川の前衛部隊だと解釈してた、っていう話になると思う。 信長公記をそのまんま解釈するなら、そうなると思う。 >山際 これも義元本陣に近い所まで言ってたのか、もっと遠くの距離での山際だったのか、微妙に思うし、義元本陣が気が付いていなかったかも不明瞭としか。 少なくとも、信長公記を読むなら、の話だと。 >>157 さすがに、信長公記でさえ、予想外の豪雨だったように書いているように思われるし、織田勢の反応もそんな感じに思えるので、そんな事はないように思う。 >>158 信長の「今川の武者どもは(略)鷲津・丸根に手を焼いて」云々というセリフは、 すがりついて止める家来に対し、「敵は疲れているから恐れず進め」という 鼓舞として言ったのであって、自身が戦おうとしている軍勢を これらの前線部隊であると解釈していた、と考えるのは無理がある。 なぜなら信長は先ほどの鼓舞のなかで @前日の夜に糧食をとり A夜通し大高へ兵糧を運び B鷲津・丸根に手を焼いて披露しきっている と前線部隊(松平元康隊)の行動を完全に把握しているからである。 このような信長が中島砦から桶狭間方面に移動するに際し その方面の敵を両砦を攻略した前線部隊であると思った、というのは あり得ないことと考える。 (普通に考えて信長でなくても間違わないとは思うが。。) >山際 信長公記の桶狭間合戦に関する記述の中で、山というのはおけはざま山しかでてこない。 このような文章で山とだけ書かれている場合、前述の山を指すのが一般的と思う。 また豪雨が過ぎた直後に信長が今川勢に攻めかかっていることから その山に今川勢が布陣していたことが分かる。 この一致から織田勢が近づいたのはおけはざま山の山際である可能性が大きい。 さて織田勢に攻めかかられた今川勢は算を乱して崩れたとある。 これが攻撃を予知していない部隊の反応であることは言うまでもない。 その際義元の塗輿も打ち捨てて逃げたとのことなので、その部隊は義元の輿を担ぐ人達の 所属する部隊(義元本隊)ということになる。 (しかしながらその後信長が「義元の旗本はあれだ、あれにかかれ」と下知していることから 義元の旗本とは遠目にそれと分かる程度の距離があった) 桶狭間奇襲説の否定は信長公記の解釈によるとのことだが 信長公記に基づきやはり奇襲であったと自分は考える。 >>159 君がそんな事を書いたって、 逆に信長がその時点で、桶狭間山にいる軍勢を、義元本陣だと認識していた、 という論拠自体が無いと思うんだけど。 少なくとも、信長公記を読むなら、その時点で信長が義元本陣の位置を知っていたと思しき記述はどこにもない様に思うし、 義元本陣の状況を知る情報を得ていた形跡もないように思う。 そんなの、敵軍勢の前衛部隊が行う当たり前の事だと思うけど。 信長には、信長公記を読むと、敵が大高城に兵糧を運んだ事、 その後で織田側の丸根、鷲津の砦を攻撃した事、は報告が入っているように思われるし、 その後で救援に向かう信長は、信長公記だと、丸根、鷲津が攻略されたと思しき煙を確認してるように思われるので、 今川勢のここまでの動向は普通に信長は把握してると思う。 問題は、この後の今川勢の動向で、今川勢前衛の松平勢が、信長公記を読むと、 丸根、鷲津が攻略された後で、後方の大高城に戻って休息している事を、 信長がその当時に知れた形跡がないと思われる事。 上記のように、信長は丸根、鷲津の砦が攻略された事さえ、少なくとも、信長公記を読むと、 直接的な情報ではなく、救援に向かって移動中に、それ(丸根、鷲津が攻略された事)を示すと思われる前線からの煙で確認してるように思うので、 この後の今川勢前衛の動向を、信長が知れたと思われる記述は、少なくとも信長公記にはないように思う。 つまり、信長公記を読むと、信長が桶狭間山の軍勢に向かって移動しようとした時に、 義元本陣や今川軍前衛の動向を示す情報を得ていた形跡は、少なくとも僕にはないように思える。 この状況で、信長としては、前線に来ている自身達にほど近い位置にいる、今川のまとまった軍勢を、 順当に今川軍の前衛だと思うのは、極めて自然なように思うけど、どうなの。 >>160 山といったって、結構範囲が広いと思うので、豪雨が来た時に、信長が近づいていたのが、 義元本陣の近くだったかは、まだ疑問の余地があると思う。 言ってみれば、桶狭間山の、義元本陣が布陣していた場所から結構距離のある山際に来た時に、 豪雨が来て、信長公記を読むと、その雨は今川勢にとっては正面から当たる雨で、 桶狭間山の方に向かう織田勢にとっては後ろに当たる通り雨だったように思うので、 そのまま今川勢が前線の状況を把握しにくくなってる状況で、織田勢は義元本陣近くまで移動し、 織田側にはその通り雨が行き過ぎて、今川勢にはまだ当たっていると思われる状況で攻撃した、 っていう解釈も可能だと思う。 上記に書いたように、信長公記を読むと、その豪雨の通り雨は、桶狭間山の方に向かう織田側にとっては背中に当たり、 今川勢にとっては正面から当たる向きの雨だったように思う。 なので、今川勢にとっては正面から当たる向きでいきなり豪雨が、しかも信長公記を読むと、 雨の勢いでそれなりのサイズと思しき木が倒されてるように思うので、 そんなのが正面から当たってきたら、前線の把握どころじゃない状況になっておかしくないと思う。 それで、そうやって今川勢が混乱してる所に、上記のように信長公記を読むと、 今川勢と違って、通り雨が背中に当たる向きで、しかも通り雨が今川勢より先に移動しきって落ち着いた織田勢が攻撃を仕掛けてきたなら、 今川勢は文字通り戦闘どころじゃなくなって、逃げ出すのが普通だと思う。 信長は、信長公記を読むと、今川勢が混乱して敗走した事で、義元の塗輿が捨てられたと思しき描写の後で、 義元の直属部隊について言及してるように思う。 なので、この時点まで信長が自身達が戦っている部隊が、 今川勢の本陣であるかを知っていたのか、疑問に思う。 >>161 にあるような感じで、 少なくとも、信長公記を読むと、信長が桶狭間山に向かって移動しようとするまでにおいて、 信長が義元本陣の場所がどこなのか、を知れるだけの情報を得ている形跡はない様に僕は思う。 呉座勇一の新書が信長などの武将の神格化・人気に至るまでの過程を書いたものだった。 >>161 >逆に信長がその時点で、桶狭間山にいる軍勢を、義元本陣だと認識していた、 >という論拠自体が無いと思うんだけど 信長が善照寺砦に入った際の記述 「軍兵を立て直し、軍勢をそろえられ戦況をご判断なさる。 敵の今川義元は四万五千人の兵を率い、いま桶狭間山で人馬に休憩を与えているところであった」 善照寺砦で報告を受けたことが分かる。 >>164 それは厳しいと思う。 >善照寺砦で報告を受けた 仮にこんな事になってたなら、その後の信長公記にある記述と矛盾してしまうと思う。 なぜなら、信長公記において、信長が桶狭間山の敵に向かおうとした時に、 家臣達が引き留めて、それに対して、信長はそれが疲弊した今川勢前衛だと説明してるように思う。 だけど、仮に善照寺の砦の時点で、桶狭間山にいるのが今川義元本陣だという情報が織田勢にもたらされていたなら、 家臣達に信長が桶狭間山にいるのが今川勢前衛だと言っても、困惑されるだけに思う。 そもそも、信長公記の桶狭間の戦いにおいて、家臣達が信長を引き留めているのは、その前の善照寺の砦からの移動の時もそうと思われ、 この時に信長を引き留めたのは、信長公記を読むと重臣達のように思うから、 信長が桶狭間山の敵に向かおうとした時に、それを引き留めようとしたのも、重臣達に思う。 なので、重臣達であるなら、善照寺の砦の時点で仮に桶狭間山にいるのが今川義元本陣だという情報が、 織田勢に入っていたら、それを知ってるはずに思うので、 その重臣達に対して、信長が桶狭間山にいる敵を今川勢前衛だというのは、個人的にあり得ないと思う。 >>165 の >それが は 信長公記において、桶狭間山にいると思しき敵軍勢の事だね。 わざわざ書かなくてもわかるとは思うけど、わかりやすくする為に補足説明をしておくね。 >>163 呉座先生は色々と大変な目にあったが、非を素直に詫びつつよく耐え忍んだよ 正義の棍棒を振りかざして袋叩きしていた側のまあ醜いことったらありゃしない >>165 信長は情報漏洩を恐れて清州城の家臣には何も教えていないからね 太田牛一にも教えていない そんな何も知らされていない家臣たちが止めただけ 信長の行動はかなりおかしい 清州城の家臣には何も教えないどころか無視して城を出ている ついてきた家臣=太田牛一(信長公記の作者)にも何も教えていない しかし桶狭間の戦いでの今川強襲には2000人余りが参加した まあどう見ても信長は清州城にいた家臣ではなく他の古参の家臣と共に奇襲作戦に及んでいるよね で作戦を理解していない家臣をその場で何とか説得させようとしている つまり信長は清州城の家臣にもスパイ=間者がいると想定していた そして桶狭間の奇襲主力部隊は初めから今川義元を監視しており現地でひそかに展開していた その情報を逐一信長に伝えておりあとは信長到着を待つだけであった >>170 この時の信長自身が若いし周りの家臣も若かったので古参という表現は間違いだった 林や柴田は弟についていたのでまだ完全に信用しておらず柴田の家来の太田にも詳細は明かしていない 但し親しい家来と作戦を練ったのは間違いないと思う 今川強襲も初めから計画されたものだった 信長は本当は隠れながら迂回して今川強襲部隊と合流する予定だった しかし強い雨が背中から降ったのでこれ幸いと最短ルートを選んで進軍した これが信長の判断 そこで今川強襲部隊と合流して位置を特定されている今川義元を囲いながら攻撃したのだ 今川強襲部隊こそ信長の信頼していた精鋭部隊であった 彼らは既に現地に展開していたが、完全に姿は消していた これが桶狭間の真実だと予想する 今川強襲部隊とは信長が信頼を寄せていた部隊 佐久間盛重は丸根砦を守り戦死 前田利家は参戦していたものの出仕停止中で何も知らず 森可成佐久間信盛丹羽長秀織田信房らが中心 この作戦は練りに練った作戦だったので情報漏洩だけは阻止せねばならなかった それが清州城の信長の行動の答えであった つまり 「迂回攻撃説」 「正面攻撃説」 「別動隊説」 「乱取り状態急襲説 」 全部が実は概ね正しい事になる ただ解釈の仕方が異なっただけで 全面的に同意する。 もともと兵力差もなくて勝って普通とか、近くの敵攻撃したら たまたま義元本陣だったとか、だったら当時からそう言われてるだろう。 >>175 確かに 信長公記にもあるようにただ単に秘匿された戦が桶狭間の戦いだった 筆者の太田も佐々成政も家老の林も内情は全く知らなかった >>176 信長公記を読むと、信長が秘匿してる傾向なんてまったくないように思うんだけど。 >>165 にあるような感じで、信長が独自に情報を得ている形跡もないと思うし、 重臣達がそれを知らないという論拠もないように思うのに、 なんで君はそんな事を書くのか、そっちの方が疑問に思うけど。 >>175 そんな事を言ったら、信長奇襲説の基になったと思われる、甫庵信長記の描写、 一応同時代の他家の記録である甲陽軍鑑、太田の記録である信長公記、の全てで 桶狭間の描写は違ってるように思われるのに、君がそんな事を書いたってしょうがないと思う。 織田側の家臣である太田がまとめた信長公記の方が、比較的他の資料よりは信ぴょう性高そうに思われる、 っていうだけの話だと思う。 >>167 おや、また菅沼認定厨さんと思しい君は、菅沼認定なんかをしようとしてるのかな、と思うけど、 その菅沼認定については、ワッチョイスレにおいて、菅沼認定をされた特徴が違う何人もの人々がいたように思うし、 その矛盾について、菅沼認定をしている人が、ろくに答えられてないように思うのに、 そんな事を書いてもしょうがないと思うのだけど、どうなのかな。 いい加減、君自身でさえ、その矛盾についてろくに答えられないように思われる認定を、 他人にしてもしょうがないと思うんだけど、どうかな。 むしろ、ワッチョイスレにおいて、菅沼認定厨さんと思しき人が、IDコロコロや他人を装う事をしている可能性が高い事を指摘されてたように思うのに、 それで君がそんな事を書くのはどうかと思う。 >>169 そんな描写、少なくとも信長公記にはないと思う。 信長だけが独自に情報を得ていた記述も、それを伺わせるような描写もないように思う。 それなのに、君がそんな風に書くのはどうかと思う。 >>170 >>172 >>171 だから、上記に書いたように、信長公記には、それを伺わせるような記述がどこにもない様に思うのに、 それでそんな事を書くのはどうかと思う。 信長公記を読むと、>>161 にも似た事書いたように、信長が城にいた時に認識していた事が確実と思われる情報は、 1.今川軍が大高城に兵糧を運んだ事、 2.今川軍が丸根、鷲津を攻撃した事、 の二つだけに思うけど。 信長は、信長公記を読む限り、2.の情報が入った時点で急いで出陣の支度をして出撃してるように思うし、 上記161にも似た事書いたように、移動途中で丸根、鷲津の砦攻略を示すと思しき煙を見て、 二つの砦が攻略された事を知ったように思う。 つまり、信長公記をそのままシンプルに解釈するなら、信長は城を出た時には、 その目標は、大高城に兵糧を入れ、その後で、丸根、鷲津を攻撃した今川軍前衛を攻撃して勝利し、 丸根、鷲津を救援する事だったように思うけど。 少なくとも、丸根、鷲津が攻略されるまでは、信長公記に今川勢の本陣が今川軍前衛よりも前に出てきていた事を示す記述はないように思うし、 常識的に想定しても、今川軍の動きは、 2−1.今川軍前衛が大高城に兵糧を運び込む、 2−2.今川軍前衛が2−1.の後で丸根、鷲津を攻撃する、 2−3.今川軍前衛が丸根、鷲津を攻略した後で、前衛の松平勢が後方の大高城に戻って休息し、 今川軍本陣が前に出て桶狭間山に移動、 というプロセスのように思う。 なので、丸根、鷲津が攻略されるまでは、今川軍前衛を差し置いて、 今川軍本陣が前に出てきている事はなかったように思うし、信長が城を出た時点では、 今川軍本陣に狙いを定めるような状況にも、なってなかったように思う。 これらから考慮するに、上記にあるように、信長は、今川軍前衛が大高城に兵糧を運んだあとで、 丸根、鷲津を攻撃している所に戦いを挑み、その疲弊をついて勝利し、丸根鷲津を救援しようとした、というだけに思う。 しかし、上記161や上記にあるように、移動途中で丸根、鷲津が攻略された事を知った信長は、 戦略を変更し、丸根鷲津を攻略してさらに疲弊した今川軍前衛を攻撃して戦果にしようとし、周囲の今川勢を探した所、 自身達から近くにいる、桶狭間山にいる今川の軍勢を、その前衛だと思い込んだ、っていうだけに思う。 そもそも、常識的に考えれば、信長がいくら今川義元本陣を攻撃したい、と思ったとしても、 その為には、今川義元本陣が前衛よりも前に出てくる、という事態になっていなければ、まず厳しいように思うし、 仮に義元本陣が大高城で休息でもしてたら、それこそ狙いようがない様に思う。 信長はただ単に、その時の今川軍で自身達の近くにいた、桶狭間山にいる軍勢を、 常識的に今川軍前衛だと思っただけに思うし、それは特に不可解な判断でもないように思う。 >>173 >>174 だから、>>179 にも似た事書いたように、信長公記をそのまま読めば、 信長は丸根、鷲津の砦に攻撃が仕掛けられた情報を受けて、急いで出撃したように思うので、 この時点で信長が今川義元本陣の所在を知っていた形跡は信長公記には、少なくともない様に思うし、 シンプルに考えれば、これは丸根、鷲津を攻撃されて、その救援の為に急いで出撃した、としか解釈の仕様がないように思うけど。 そもそも、これまた上記179にも似た事書いたように、信長が今川義元本陣を狙おうと思うのは結構だけど、 それを可能にするには、今川義元本陣が、信長がそれを攻撃可能な位置や状況にいないと厳しいように思う。 今川義元本陣が、そんな都合いい場所に出てきてくれるかは完全に未知数で、 仮に出てきてくれていたとしても、その前に今川軍前衛がいて、それを守護していたら、 それこそ信長の計画は厳しいと思う。 さらに、これまた上記179にも似た事書いたように、義元本陣が大高城にでもいたら、それこそ信長の計画はお手上げ、っていう事になってしまうと思う。 そもそも、信長公記においての桶狭間の描写を基にしてさえ、豪雨が来なかったら、 信長勢が今川義元本陣に勝てたか疑問に思うし、不確定要素が多すぎると思う。 そもそも、上記179にも似た事書いたように、今川義元本陣が桶狭間山まで移動したのは、 丸根鷲津が攻略された後のように思うので、 信長公記において、信長が丸根、鷲津の砦が攻撃された事を報告され、急いで城を出た時点では、 義元本陣は桶狭間山になんかいなかったと思う。 この時点で、丸根、鷲津が攻略された後に、今川軍前衛の松平勢が後方に下がり、 今川義元本陣が桶狭間山にまで出てくる事を想定可能な情報なんか、特にない様に思う。 なので、信長は特にそんな事を当てにしないで、上記179にも似た事書いたように、 丸根、鷲津を攻略した後の今川軍前衛が、 順当に引き続いて前に出てくる事を想定し、疲弊したその軍勢を攻撃して勝利しようとしていた、 っていうだけに思う。 >>179 それは信長公記の作者や周りの家来が認知していた事実だろう? それの再確認に過ぎないと思うけどな >>180 >信長が今川義元本陣を狙おうと思うのは結構だけど、 それを可能にするには、今川義元本陣が、信長がそれを攻撃可能な位置や状況にいないと厳しいように思う。 >今川義元本陣が、そんな都合いい場所に出てきてくれるかは完全に未知数で、 仮に出てきてくれていたとしても、その前に今川軍前衛がいて、それを守護していたら、 それこそ信長の計画は厳しいと思う。 織田信長が桶狭間の戦いの後の論功行賞で、義元の首を取った毛利新助ではなく、今川軍の位置を信長に知らせた簗田政綱(天正年間に信長の有力武将として活躍した簗田広正の父とされる)が勲功第一とされたという、『信長記』等における逸話である。 そもそも今が義元は見晴らしのいい桶狭間山に陣を取っていた これは信長の計画通りだった つまり豪雨がなければ迂回しなければなかった >『信長公記』によれば信長自身、中嶋砦に入ったところで敵中に突出することを諌める家臣に向かって、敵は丸根、鷲津砦を攻撃した直後で疲れきっているはずであり、戦場に到着したばかりの新手の織田軍がしかければたやすく打ち破れるはずであるという主旨の発言をしている。 これはなんとか味方を動かすための詭弁 >>179 >しかし、上記161や上記にあるように、移動途中で丸根、鷲津が攻略された事を知った信長は、 >戦略を変更し、丸根鷲津を攻略してさらに疲弊した今川軍前衛を攻撃して戦果にしようとし、周囲の今川勢を探した所、 >自身達から近くにいる、桶狭間山にいる今川の軍勢を、その前衛だと思い込んだ、っていうだけに思う。 ええ?信長はなぜか?桶狭間山にある本陣をまっすぐ狙っているぞ? 丸根、鷲津を取るのなら後ろから攻撃だろうが その場合には挟み撃ちになる 桶狭間山に義元がいないのに突っ込めば丸根、鷲津の兵がやがて気がついて挟み撃ちにされる そんなアホな作戦で桶狭間山に突っ込んだのかよ? まずありえないよな どっちを攻撃するにしても自爆 元から桶狭間山に義元がいないとわかっているのなら攻撃はしないはずなんだがな 信長は熱田神宮で先勝祈願をしているが 作戦は練られたものであったが実は完全に自信はなかった だから本来は迂回する予定であったが強い雨という事もあり正面よりの行軍を実施した その姿は実は今川軍からも見えていた そして待機していた強襲部隊からも丸見えだった そこで急襲部隊の指揮官は信長にすぐに近づいて信長に号令をかけさせて 今川本陣を計画通りに強襲した 今川本陣を取り囲んでいた急襲部隊はずっと隠れて待機していた 繰り返すが信長は既に義元の位置を把握していた >『信長公記』によれば信長自身、中嶋砦に入ったところで敵中に突出することを諌める家臣に向かって、敵は丸根、鷲津砦を攻撃した直後で疲れきっているはずであり、戦場に到着したばかりの新手の織田軍がしかければたやすく打ち破れるはずであるという主旨の発言をしている。 こんな詭弁を最後まで言っていたのは義元のスパイを恐れていたから 裏切りを恐れていたから これは一貫している 最後の最後で義元の首を取る事を命じた つまり信長についてきた家来ですら信長は最後まで信用していなかった それは繰り返すが前田利家や信長公記の作者の太田牛一も含まれていた >>183 あのさあ、信長公記を読む限りだと、信長が豪雨が来た後に、ルートを変えたと思しき記述は 無い様に思うんだけど、君は何を言ってるのかな、と思う。 君が言うような部隊の存在は、信長公記を読んでる限りじゃ、どこにも伺えないと思うんだけど。 信長公記を読むと、信長の率いる軍勢が戦っているだけで、君の言うような部隊が動いたと思しき形跡はどこにもないように思うけど。 >>181 だから、そういう話じゃなくて、信長公記を読む限りだと、 >>179 にも似た事書いたように、信長が城から出陣をしたのは、 丸根、鷲津を今川勢が攻撃して、その報告を受けた後に思うので、 この時点じゃ、今川義元本陣が桶狭間山に移動してたと思しき様子は伺えないと思うし、 信長にそれを判断する材料もないと思うのに、どうやって信長がそれを知るのかと思うんだけど。 まあ普通に考えて桶狭間山にいて馬も持っていて前からくる信長も見えている それなのになぜか?逃げきれなかった今川義元 どう考えても信長公記の太田牛一の目からは説明できないおかしな面が多数出てくる >>184 だから、どうやってそんな位置を知るの。 >>185 にもあるような感じで、信長が城から出撃した時点では、 今川義元本陣はまだ桶狭間山にいなかったと思われるのに、 そこを襲撃する為に動くはずもないと思うんだけど。 >>185 うーん、別に信長公記だけが正しい訳じゃないんだけどね まあそんな長文書く暇があれば自分が書いたモノも見てくれよ >この時点じゃ、今川義元本陣が桶狭間山に移動してたと思しき様子は伺えないと思うし、 信長にそれを判断する材料もないと思うのに、どうやって信長がそれを知るのかと思うんだけど。 織田信長が桶狭間の戦いの後の論功行賞で、義元の首を取った毛利新助ではなく、今川軍の位置を信長に知らせた簗田政綱(天正年間に信長の有力武将として活躍した簗田広正の父とされる)が勲功第一とされたという、『信長記』等における逸話である。 これはね今川軍の位置ではなく正確に言うと義元の位置な 善照寺砦から、桶狭間に近い中島砦移動しようとするときには義元の位置がわかっていた だからその時信長は内心義元が前進しないかと焦っていた >>186 それは普通に信長公記の描写で説明がつくと思うけど。 >>162 にも似た事書いたように、信長勢が移動してきた時に、ちょうどよく豪雨の通り雨が来て、 それが今川本陣勢にとっては前から当たる豪雨で、前方の確認や備えがうまくできない状況になって、 そこを織田勢に襲撃されて崩され、義元はその豪雨でぬかるんだ道を逃げる時に、うまく逃げきれずにやられた、 で十分理解可能だと思う。 >>188 >>182 >『信長記』等に これってまさか甫庵信長記の事?創作色が強いと思われる、この資料を信長公記より上位に置くのはどうかと思うし、 甫庵信長記でも、君が言うような事を梁田がしてたかなあ?と疑問に思う。 俗説の類の話をしてない?と思えてしまうんだけど。 >>189 >>182 梁田については、>>190 にあるような感じで、俗説のように思うけど。 だから、>>179 >>180 にあるような感じで、丸根、鷲津を攻略した後で、 今川軍がどのような配置で前進するか、なんていうのは、完全に今川勢に属する事だと思うから、 信長が完全にそれを決める事は出来ないと思うし、 繰り返し言うけど、上記179 上記180にもあるような感じで、信長が城を出た時点では、 桶狭間山に今川本陣がいる事を示すような情報は、信長公記にはないように思うし、 信長がそれを受け取った形跡もないように思うのに、どうやってそれで桶狭間山に今川義元本陣が来ることを予想して、 それに狙うのかな、と思うんだけど。 仮に信長が桶狭間山に義元が来ると思って、それを狙って倒そうと思っていたとしても、 もし今川義元本陣が大高城に留まる事を選んで、今川勢前衛をそのまま進出させる、 という常識的な行動をしたら、それだけでそのプランは崩壊してしまうと思う。 常識的に考えたら、義元本陣を前衛よりも前に動かす、なんていうのは、あまりないと思うから、 信長が桶狭間山にいる今川勢を順当に今川勢前衛が進出してきた、と思うのは、極めて自然だと思う。 >>190 いいや義元軍は信長軍になぜか囲まれて攻撃されているぞ それが数回繰り返さたことで50騎になりやられている 信長公記の描写でも説明できないところは多々あるからな 他のいろいろな記録を見てみないと全体像は把握できないぞ >>191 思うんだけど、君は軍事についてはど素人だよね? だからおかしな事ばかり平気で言うんだよ 信長は言うて当時の軍事のプロだよ >>191 あの当時でも普通に信長直轄の斥候は存在したんだよ つまり24時間今川軍を監視していたという事 >>182 の2 >>185 にも似た事書いたように、信長公記を読むと、信長が豪雨が降った後に道を変えたと思しき記述は、 ないのでは、と思う。 >>179 >>180 にあるような感じで、>>161 にも似た事書いたように、 信長公記を読むと、信長がその時点で桶狭間山にいるのが、 今川義元本陣だという事を知っていたと思しき記述がない様に思う。 >>195 そりゃそうだ なんせ信長公記の作者の太田牛一自身も桶狭間強襲作戦については何も知らないんだから しょうがない >>192 >なぜか囲まれて 何が疑問なの、と思うけど。 信長公記を読むと、>>190 にあるような感じで、 豪雨を前向きに受けた今川勢が、織田勢に襲撃され、それによって崩れが起き、 その敗走する今川勢の中で、300程の今川義元直属部隊が、信長軍の執拗な追撃を受けて、 50程になって、さらに攻撃を受けて倒された、っていう感じに思えるから、 特に疑問に思う所もないように思う。 >>193 それ言ったら、君だって普通に素人としか思えないんだけど。 そもそも、信長が玄人だろうが、素人だろうが、>>191 にも似た事書いたように、 今川勢が丸根鷲津を攻略した後で、どのように軍勢を部署して移動するか、 なんて信長が決められるわけもないと思う。上記191にも似た事書いたように、 信長に出来るのは、順当で常識的な予想、すなわち、今川軍前衛を普通にそのまま前に行かせて、 義元本陣は後方で待機、という予想を立てて、それに対応して、疲弊した今川勢前衛を攻撃して勝利する、 という堅実なプランを立てて、それを実行する事だったと思うし、 これは堅実で相応に無理のないプランだったと思う。 >>196 そんな事を信長が考えていたという論拠自体が、信長公記を読んでも、特に無い様に思うし、 そんな事を計画するだけの情報や状況が、>>179 >>180 にあるような感じで、信長公記を読んでも、 信長が城から出た時点では、なかったように思うのに、 なんで信長がそんな事を計画するのかな、と思う。 >>198 信長は全部秘匿した だから今川義元に与するスパイと言うか間者もその様子をそのまま今川義元に報告した だからこそ桶狭間の戦いに勝利する事ができた 今川義元の位置が送られた時期は知らないが 逐次報告は信長に送られていた だから善照寺砦から、桶狭間に近い中島砦への無理な移動 そして豪雨とは言え中島砦から桶狭間山へのわけのわからない前進があった そして都合のいい桶狭間山の義元の完全包囲があるのな >>182 だから、>>179 にも似た事書いたように、順当に信長は、 大高城に兵糧運び込みを行い、丸根、鷲津を攻略して疲弊した今川軍前衛が、 そのまま前進して桶狭間山にいると思って、それを攻撃して勝利する、っていう事を考えて、 それを実行しようとしただけに思うけど。 >>195 とかにも似た事書いたように、信長が桶狭間山にいる今川勢に向かおうとした時点で、 信長が今川勢本陣の所在に関する情報を得ていたと思しき記述は、少なくとも、信長公記を読む限りでは、 ないように思う。 何を言ってるの?君。 信長は、丸根鷲津が攻略された後で、桶狭間山に今川勢前衛がいると思って、 それを攻撃しようとした、っていうだけの話だと思うし、 君の言い方で言うなら、桶狭間山に今川義元本陣がいたって、 丸根鷲津を抑えている今川勢の救援は想定しないといけない、っていう話になると思う。 桶狭間山に義元本陣がいる状況でだけ、他の今川勢が動かない、なんていう話は無いと思うけど、どうなの。 実際には、距離的にも戦闘時間的にも、すぐに駆けつけてくるのが厳しかった、っていうだけに思うし、 信長もそれを想定していたからこそ、特に信長公記でも、それに言及してないんだと思う。 >>199 義元は馬に乗っているのに逃げきれなかった まずそれがおかしいと思わないとな >>200 だからなんで義元前衛を狙うわけよ すぐ後ろに本陣がいるからすぐにやられるだけだろう しかもすぐ近くには乱取りしている今川軍がいるのにどうしてわからないかな? まず今川前衛を倒してどうにかなるとか思う発想があり得んわ まさに今の歴史愛好家の浅はかな発想だよな >>199 だから、>>179 >>180 にあるような感じで、 信長公記を読む限り、そんな事を示す記述はどこにもないように思う。 当時の情報の伝達速度からして、そんなすぐに情報を伝えられると思えないけど。 当時は人による口伝えや書状くらいしか、伝達手段ない様に思うけど。 狼煙とかもあるにはあるけど、それで位置情報を伝達するのは厳しい様に思うし、 仮にそれをやってたなら、目立つのでなんらかの記述があると思う。 それらは別に不可解じゃないと思うけど。 信長が、信長公記にあるように、桶狭間山にいるのが、疲弊した今川勢前衛だと思っていたなら、 普通に戦って勝てる(と信長は思ってる)んだから、前進をためらう理由もないと思うけど。 さらに、信長勢が桶狭間山に向かって移動して、豪雨が来てるように、信長公記を読むと思うから、 不可解な事は特にないと思うけど。 >>197 にあるような感じで、信長公記を読むと、豪雨の影響もあって、織田勢の襲撃を受けて敗北した今川勢の中で、 今川義元直属部隊の300人くらいが、信長勢の攻撃を受けて、消耗して、義元が倒された、と思われる経緯に、 特に不可解な所はない様に思うけど、君は何を書いているのかな、と疑問に思う。 >>204 まず今川前衛を倒してどうにかなるとか思う発想があり得んわ まさに今の歴史愛好家の浅はかな発想だよな つうか信長公記は正しいは正しいけど間違いもあるぞ 例えば桶狭間の戦いが天文21年になっている >狼煙とかもあるにはあるけど、それで位置情報を伝達するのは厳しい様に思うし、 >仮にそれをやってたなら、目立つのでなんらかの記述があると思う。 だから当時の太田牛一は信長から信頼されていなかっただけ それに秘匿情報をなんで一々太田に教えないといけないわけよ? のろしはだれにでもわかるから通信手段としてはないわな 慶応とか有名大学の人間でも間違いや勘違いを言う時は言うからな >>201 >>190 に既にその答えは書いてあるように思うけど、なんでそんな事を書くのかな、君は。 >>202 >義元前衛 なんでこんな話になってるのかな。僕は>>200 とかでもそんな書き方をしてないと思うんだけど。 僕が言ってるのは、今川軍全体の前衛、っていう意味なんだけど。 例えば、大阪の陣とかでも、家康の本軍は後方にいて、徳川に味方する武将達で、 前衛を任された武将の軍勢が、豊臣方と戦ってるように、 基本的に後方に本軍がいて、直接敵と戦うのは前衛を任された武将の軍勢、っていうのは、 ありふれた事のように思うし、本軍と前衛の位置が離れてる、っていう事例も普通にあるように思う。 今川についても、信長公記を読むと、この時の戦いにおいて、大高城に兵糧入れを行い、 丸根、鷲津で戦って攻略したのは、今川から前衛を任せられた松平勢だと思うので、 その疲弊した前衛部隊が相手なら、信長の率いる軍勢でも十分勝機があると思うので、 信長はそれをしようとしただけに思う。 >乱取り 軍鑑の記述かな?信長公記には特にそんな話なかったように思うけど。 仮に軍鑑の話で言うなら、乱取りで分散している今川勢の隙を突いて、 今川勢に偽装して織田勢が義元を倒した、っていう感じの話になってたと思うから、 それこそ、信長公記とかとまったく違う話になると思う。 >>203 今川については、もともとこの桶狭間において、大高城を救援し、丸根、鷲津を攻略し、 大高城やその周辺地帯を改めて今川の領土にしようとしていたのが、第一目標に思う。 なので、尾張全土を一気に攻略しようとしていたか微妙に思える状況で、前衛を任された松平勢(数千くらいか)が倒されたら、 当時の今川の国力からして、桶狭間の時の軍勢は2万いたかも微妙に思うので、 一割以上の損害を受けたら、さすがにその後の戦いの事も考慮して、それ以上尾張を攻めようとせず、 一旦引き上げて仕切り直し、をしようとするのは普通に思うけど。 むろん、織田も丸根鷲津が攻略され、大高城も救援されて、好ましくない状況に思うけど、 その時点の状況じゃ、今川勢のそれ以上の攻勢を阻止できるなら、それで地域紛争の一局面として十分な成果に思うけど。 >>205 そうだね。他にも、桶狭間においての、今側の軍勢が、信長公記では、4万5千はいるように思うので、 さすがに誇張が過ぎると思う。 でも、他の甫庵信長記は創作が多いと思うし、軍鑑の桶狭間の描写だと、信長公記とも、三河物語とも、 違いが多い様に思う。 織田側の人間がまとめた信長公記が、相対的にましに思われる、っていうだけに思うけど。 >>179 >>180 にあるような感じで、信長が君の言うような計画を、城を出た時点で立てるのは、 信長公記を読む限り、その時において想定される、今川勢について信長が得ていたと思われる情報、 今川勢の配置、などからして、まず厳しい様に思うんだけど、どうなの。 >>207 に似た事書いたように、桶狭間をそれまで今川と織田で20年近くに渡って行ってきたと思われる、 地域紛争の一局面として考えるなら、今川勢としては、丸根、鷲津を攻略して、 大高城も救援して、それを達成した後で、疲弊した前衛の松平勢が倒されたら、 予想される今川勢の軍勢総数の一割近い損害になると思うので、 一旦それまでの戦果を確保して引き揚げ、って事になっておかしくないと思う。 >>207 まあ正面攻撃説の人間はしつこいね これでいろいろな人間を無理やり説き伏せてきたわけか 今川前衛でも同じ事だよ 4万の今川前衛と交戦して勝つとか今の歴史学者しか思いつかんよ なんでそれがわからんかな? 実際には信長はそれらの前衛をスルーして今川義元の本陣と言うか直属の部隊としか交戦しておらんし それらの部隊300を完全包囲しているんだけどな >>209 訂正 今川方の戦死者は2753人だからそれ以上の今川軍と交戦 ただ主目的は義元の首一つ 今川前衛と戦う事ではない >>209 違うと思う。 現状では、君が>>179 や>>180 にあるような感じで、 信長公記を基にするなら、信長が城を出た時点で、 今川義元本陣が桶狭間山にいたかどうかの記述がないように思え事、 (常識的に考えれば、その前に丸根、鷲津の攻略戦が今川勢前衛によって行われているので、 義元本陣はその時点では、今川勢前衛の後方にいたように、個人的には思われる。) なので、信長が桶狭間山にいる義元本陣を狙って倒そうとしても、そもそも信長が城を出た時点では、 上記のように桶狭間山に義元本陣がいないように思われるので、それを狙って倒すも何もないと思われる事、 そもそも、それまで今川の前衛として戦っていた松平勢を後方に下げ、義元本陣が前に出て、 桶狭間山に布陣するかどうかは、完全に今川側の意思によっているように思われ、 信長がそれを誘導するのが厳しい様に思われる事、 そもそも、信長公記を基にすると、信長が城から出た時点で得ていたように思われる情報では、 義元本陣がその時にどこにいるのかを知っていたかも疑問に思われる事、 これらについて、ちゃんとした論拠を基にして十分な説明をしているとは思えない状況なのに、 君がそんな事を書くのはどうかと思う。 君がそんな事を主張するなら、ちゃんとした論拠とかを基にして説明をして欲しいと思うかな。 >>211 の >思え事 は 思える事 に訂正をしておくね。まあ、訂正をしなくてもわかるとは思うんだけど、わかりやすくするために、 一応訂正をしておくね。 ちゃんとした論拠があるなら、憶測が必ずしも良くないとは言わないけど、 >>209 の人が桶狭間についての、信長の行動や意図を語りたいなら、ちゃんとした論拠を基にして語ってほしいと思うんだけど、どうかな。 >>209 >4万の今川前衛と交戦して なんでこんな話になってるのかな、と思う。 >>208 や>>207 にあるような感じで、僕は今川勢が桶狭間の時に4万5千もいたとは思えないし、 今川勢総数で考えても、あの当時の今川の国力から想定しても、せいぜい2万もいたかどうか、ってくらいだと思う。 そして、これまた上記207にもあるような感じで、 僕が今川勢の前衛として想定しているのは、信長公記を読むと、 大高城に兵糧を運び、丸根、鷲津で戦ったように思われる、 せいぜい数千ほどの軍勢と思われる松平勢とかの事なんだけど、 なんで君がそんな風に書いているのかな、っていう事に答えて欲しいと思うかな。 信長が今川勢前衛と戦う事なく、義元本陣と戦う事になった理由は、 >>179 や>>180 にあるような感じで、 信長公記を読むなら、丸根、鷲津を今川勢前衛が攻略した後で、 松平勢が後方の大高城に下がって休息し、今川勢本陣が前に出て、桶狭間山に布陣したから、 っていうだけに思うんだけど。 この今川軍の配置変更は、完全に今川の意思によったものに思うから、信長の関与する所ではないと思うし、 だから信長は、上記179や180にも似た事書いたように、 桶狭間山にいた今川軍を、それまでの戦ってきた松平勢などの今川軍前衛が、 そのまま進出してきた、と思って、それと戦う為に移動しようとしていたと思う。 そして、信長公記において、桶狭間山に向かう前の、信長の家臣達への説明で、 信長が桶狭間山にいる今川勢を、上記のように松平勢などの今川勢前衛(およそ数千ほどか)と思っていた事が わかるように思うけど、どうかな。 >>209 >300を完全包囲 これも普通に>>197 とかで似た事書いてあるように思うけど、その300程の軍勢は、 信長公記を読む限りだと、今川義元直属の部隊である、というだけで、 桶狭間山にいた今川勢の総数ではないように思われるんだけど、 なんで君はそんな事を書いているのか、という事に、答えて欲しいと思うかな。 >>210 >>213 にあるような感じで、信長公記を読むと、桶狭間山にいた今川勢を信長は今川勢前衛の松平勢とかと思っていたように思われる。 桶狭間山に今川勢前衛ではなく、義元本陣が進出していた理由も、同じく上記213にあるような感じで、 >>211 にも似た事書いたように、 信長には誘導しようもない、ただの今川側司令部の判断でしかないと思う。 それを信長がその時に知った様子も、特に信長公記にはないように思うので、 君がそんな事を書くのはどうかと思う。 以前もだれやらがいっていたが、徳川勢と勘違いしたはありえん。 旗や馬印などもあるんだから勘違いは考えにくい でないと戦場で同士討ちしまくるだろう >>215 そんな事言ったって、信長公記を読むと、信長が実際にそのように思ってるように思うし、家臣達もそれで納得してるように思う。 >同士討ち これは、今川勢かどうかを表す旗(武田で言えば、武田菱の旗とか。)で敵味方の判別は可能だと思う。 肝心なのは、それが今川勢の何家の部隊なのか、をどう理解していたか、で。 それが今川勢の前衛なのか、義元本陣なのか、を遠くからで判別するのは、 事前情報もなしでは、かなり厳しい様に思うけど。 そもそも、前衛にも前衛がいて(紛らわしいけど)、本陣にも前衛がいて、 という感じで、その前衛の前衛や、本陣の前衛がいて、それらもそれぞれの旗を掲げてたりするんだろうし、その後方にいるのが本陣なのか、前衛統括者なのか、というのを判断するのって、ちゃんと時間かけて調べないと厳しいような気が。 今川前衛が桶狭間方面に移動するのは不自然だろう。 大高城から前進するなら海沿いの道を北上するのが普通で 桶狭間に行ったのでは前線から後退した形になる。 しかも義元が入城する大高城周辺を固めずに後退するのは 非情に不自然。 信長が桶狭間にいる敵を前衛と考える理由はない。 >>217 織田側の海岸線沿いの砦の前からは多少遠ざかっていても、 丸根、鷲津から移動した先に桶狭間山があるように思うから、 さらなる尾張侵攻、それこそ海岸線沿いでない、中腹からの侵攻を行おうとしていた、と想定しても不可解でないと思う。 それこそ、義元がいるとするなら、大高城やその周辺にいると思うのが普通だと思うし、桶狭間山にいると解釈する方が不可解に思う。 丸根、鷲津で戦って疲れた今川勢前衛が海岸線沿いからやや後退して、 休息しつつ、さらなる中腹からの侵攻を行おうとしている、 もしくは、休息したらまた海岸線沿いの砦の攻略にかかろうとしている、 と解釈しても不可解じゃないと思う。 >>218 >丸根、鷲津で戦って疲れた今川勢前衛が海岸線沿いからやや後退して、 >休息しつつ、さらなる中腹からの侵攻を行おうとしている、 >もしくは、休息したらまた海岸線沿いの砦の攻略にかかろうとしている、 >と解釈しても不可解じゃないと思う。 いや無理でしょ。午前中に砦をおとしたばかりの午後イチだよ。 大高城か占拠した砦に入るし、中島砦は北になる。 桶狭間は東で方向が違う。 >丸根、鷲津から移動した先に桶狭間山があるように思うから、 今川軍の移動ルートからすれば逆でしょ。 丸根・鷲津から桶狭間へは後退した形になるよ。 >>219 地元の織田側の家臣の誰もそれが困難だと思わなかったからこそ、 信長公記を読むと、信長のその説明で納得してるんだと思うんだけど。 だから、>>218 に似た事書いてあるように思うけど、順当な想定としては、 1.義元本陣がわざわざ前線近くに出てくるとは考えにくい。 いるとしたら、大高城かその周辺の安全地帯かと思われる。 2.つまり、桶狭間山にいる、今川勢は義元本陣ではなく、 他の部隊と思われる。 3.桶狭間山は、海岸線沿いの織田側の砦からは遠ざかっているものの、 純粋な位置的には、丸根、鷲津から前に移動した位置にあると思うので、 海岸線沿いでない、中腹からの侵攻を行うとしてる、 もしくは、疲弊した今川勢前衛が、やや後方に下がって、休息してる、 という想定は十分可能。 っていうだけだと思うけど。 君はなぜだか必死に否定しようとしてるように思うけど、 信長公記を基にすれば、事実として、今川勢前衛の松平勢は後方の大高城に戻って休息してるように思うし、織田勢だって今川勢前衛が、前線からやや下がって 休息する事は想定すると思うけど。 その位置が、丸根、鷲津から先に行った、海岸制沿いからやや後方の位置、って言うのは、休息場所としてそこまで不可解でないと思うけど。 〇中島砦 〇桶狭間 〇大高城 この状態で桶狭間にいくとは思わん。 >>220 >海岸制 は 海岸線、 ね。 わざわざ直さなくてもいいような気もするけど、一応修正をしておくね。 >>220 にも似た事書いたように、実際に、信長公記を基にするなら、 信長の説明で今川勢前衛が桶狭間山にいる、という事を織田家臣達は誰も疑ってないように思うので、地理的に特に不可解でもないと思う。 >>221 だから、特に問題ないと思うけど。>>220 にも似た事書いたように思うけど、 その桶狭間山の方向から、海岸線沿いでない、中腹方向に移動しようとしてる、 もしくは、単に疲弊してるので、地理的には丸根、鷲津の先で、 海岸線沿いからはやや下がった所で休息してる、っていう風に考えても、 特に不可解でないと思う。 そもそも、上記220でも、>>222 にも似たような事書いてると思うけど、信長公記を読めば、 実際に信長の説明を受けた織田家臣達は、今川勢前衛が桶狭間山にいる、という事で 納得してるように思うので、その時代の地元の人間である織田家臣達が納得してるように思うのを、 君がそんな事書いたってしょうがないと思う。 休憩するなら大高城か奪い返されないように占拠した砦でにはいるでしょ。 そして中島砦に前進するならそのまま北上すればいいのに何で、そこを手薄にして 桶狭間に迂回するのさ。 それをおかしいと思わないなら仕方ないけど議論は無駄だね。 >>224 丸根、鷲津の砦は、信長公記を読む限り、短時間で攻略されてるように思うので、 そんなに軍勢がいなかったんだと思うし、数千くらいの今川前衛が入るのは厳しかったんじゃないかな、と思う。 そもそも、攻略した時に、あちこち壊れてたなら、籠るどころじゃないとも考えられるし、大高城には義元本隊がいるなら、みんなで固まるよりは、 次の侵攻の為に、前衛は丸根、鷲津の先の、休息しやすい所で休む、というのは、特に不可解でもないと思う。 >>223 とかにも似た事書いてあるけど、実際に信長公記読むと、 信長の説明を受けた、君よりも当時の現地の状況を知っていると思われる、 織田家臣達が桶狭間山に今川前衛がいる、という事を 特に疑ってないように思われるのに、君がそんな事書いてもしょうがないと思われる事について、答えて欲しいと思うかな。 まあ勝手に話を元に戻らせてもらうが 今川軍は25,000 - 45,000人(諸説あり。)だからな 前衛含めてまともに戦ったら信長に勝ち目はないのさ 実際にどの説でも信長軍は前衛をスルーして本陣と戦っている事になっている つまり信長はどこに義元が存在したかを知っていたことになる 前衛にこだわる必要はないだろうよ なぜなら前衛は信長本体とは交戦していないからな ちなみに各砦や城に配置された又は攻略した今川軍は以下の通り 丸根砦攻撃隊 松平元康 石川家成 酒井忠次 鷲津砦攻撃隊 朝比奈泰朝 本多忠勝 本多忠真 鳴海城 岡部元信 大高城 鵜殿長照 沓掛城 浅井政敏 近藤景春 清洲方面展開 葛山氏元 >>226 だからさあ、>>213 とかにも似た事書いたけど、信長公記をそのまま読むと、 信長が桶狭間の時に狙っていたと思われる、今川前衛、というのは、 大高城に兵糧運びをして、丸根、鷲津で戦って疲弊した、松平勢とかの数千ほどの軍勢だと思われ、桶狭間の時に、信長公記で信長が率いていたと思われる軍勢数で十分勝負になるるんだけど、なんで君はそんな事を書いているのか、という事と、 このような事は、上記213でも似た事が書かれてるように思うんだけど、 なんでそんな事を君は書いているのか、っていう事についても、 答えて欲しいと思うかな。 信長は単に、信長公記を読むと、桶狭間山にいる軍勢を今川勢前衛と勘違いして、豪雨の影響もあってそれを崩して、>>162 にも似た事書いたように、 義元の塗輿があった事で、義元本陣の存在に気が付いた、っていうだけに思うんだけど、どうなの。 >>1 今川軍が前夜に大高城へ兵糧を入れる 信長は何の支持も出さずに清州城の家臣にばかにされる 鷲津山・丸根山への攻撃の報が信長に入ったのは夜明け 辰の刻に鷲津・丸根砦の方向で煙が上がっていた この時は騎馬が数人と二百余りの歩兵しかいなかった 午の刻に義元は鷲津・丸根砦を陥落させた報を受けた 豪雨が降り始めたので信長は軍を前進させる この時に前衛をスルーした でいつの間にか義元本陣を囲い込んで義元の首を上げた まあ間違いなく初めから斥候を出して義元を監視しており位置を把握しているよな 4万の義元の軍を見張り、義元の位置を把握していない限りこんな芸当はできない >>228 まず君が何を言っているのかがよくわからんわ ちゃんと整頓してわかるように書いてくれ >義元の塗輿があった事で、義元本陣の存在に気が付いた、っていうだけに思うんだけど、 君がそう思うなら別にそれでいいんじゃないか 俺は違うと思うけどな そんな偶然だらけの戦をなんで信長がやるんだろうね >>229 だからさあ、信長公記読むと、>>162 にも似た事書いたように、 信長は桶狭間山にいる今川の軍勢を本陣だとはまったく思ってないように思うし、 そう思っていたと思しき記述もどこにもないように思うし、 >>228 にも似た事書いたように、豪雨が来る前から桶狭間山の今川勢を、今川前衛だと勘違いして移動して、たまたま豪雨が来た事もあって、 桶狭間山の今川勢を崩す事に成功し、上記162にも似た事書いたように、 それで今川義元の塗輿を発見して、それが本陣である事に気が付き、 >>197 にも似た事書いたように、今川義元の直属部隊300程が固まって逃げてるのに気が付いて、それを攻撃して、ついに倒した、っていうだけに思うんだけど、 なんで君はそんな事書いているのか、っていう事に答えて欲しいと思うかな。 >>231 君の思う思うなんかどうでもいいわ つうか人の文章はちゃんと読んで感想をかけよ 答えるのもアホらしくなるわ >>230 まじめに、何がわからないの?って感じなんだけど。 君、文章からして、前日にもずっと同じような事を書いてた人だと思うけど、 前日にもずっと同じような話がされていて、同じような反論がされている、っていうだけに思うけど、 何がわからないのか、そっちの方が疑問なんだけど。簡単には>>231 にまとめてあるけどさ。 君は随分信長を崇拝してるように僕には思われるけど、 >>179 >>180 >>161 にあるような感じで、 信長公記を読むと、信長が城を出た時点で得ていたと思われる情報、 その時の今川軍の状況、などからして、信長が今川勢本陣の位置を把握できた、していた、 と思われる記述は存在しないように思われるんだけど、 それで君が何をどう言ってもしょうがない様に思うんだけど。 >>231 つうか今川前衛を信長が倒すというのがアホくさいよな 今川は4万の大軍勢 今川前衛で撃沈したらどうするんだ? そういう考えがないとことがマジで正面攻撃説がダメなところだと思うんだわ たまたま偶然とかそんなのがマジであるとか思うのかよ >>232 ぶっちゃけた話、>>231 に書いてある事は、信長公記を基にして、 君と思しき人にこれまでさんざん似たような感じで反論してきた事を、 改めて似た事書いているだけなんだけど。 君の書いていると思しき事が、信長公記にあると思われる、 桶狭間の描写と随分違うように思うから、その事を指摘してる、っていう話なんだけど、 それでそんな事を君が書いても、っていう感じなんだけど、 この事について、答えて欲しいと思うかな。 >>233 だから繰り返し言っているだろうが 信長公記の太田はこの時は信長に信頼されていないと だから何も知らなかったと つうか信長はこれ以外にも数多くの戦いを経験してそれなりの経験者だぞ 側近にも熟練の武将がいる なぜに桶狭間の戦いの時だけこんなにアホになるんだよ >>234 それもさあ、>>228 に似た事書いてあると思うけど、 信長公記読むと、信長が倒そうと思っていたのは、 大高兵糧運び、丸根、鷲津戦闘をした、今川前衛の松平勢とかの数千程であって、 信長公記において、桶狭間で信長が率いていたと思しき軍勢数で、 相手側が疲弊してるなら、十分勝てそうな相手だと思うんだけど、 なんで君はそんな事を書くのかな、って事に答えて欲しいと思うかな。 >>235 別にそう思うならそう思えば そもそも信長公記の桶狭間の戦いの部分には矛盾が多すぎるぞ まず年表から間違えているからな >>237 なんで信長が先鋒の家康を倒すんだよ そんなん倒しても後続の今川(前衛)にひねりつぶされるだけだぞ つうか桶狭間の戦いでなんで急に信長はそんなアホになるんだ? >>237 ああ今度は意味を理解したわ まあそんなアホな事を考えているとは夢にも思わなかった 正面攻撃説の奴ってそんなのばっかりなのか >>236 そういう問題じゃなくて、>>233 にあるような感じで、 信長公記を読む限りだと、その時に信長が得られた情報や、 今川勢の状況からして、城を出た時点で、>>180 にも似た事書いたように、 桶狭間山に今川勢本陣はいなかったと思われるのに、 それを標的にして信長が向かう事なんかあり得ないと思われる、っていう話なんだけど。 そもそも、>>179 にも似た事書いたように、城を出た時点では、信長には今川勢本陣の情報なんか入ってないように思うけど。 経験があったら、超能力者になれるわけじゃないと思うんだけど。 経験あろうとなかろうと、その時点では桶狭間山にいなかったと思われる敵を目標にして 城を飛び出す人はいないと思うし、知りもしない事や、蓋然性が低いと思われる事で戦略を立てる人も少ないだろう、っていう話なんだけど。 信長は単にその時の戦力で冷静に自身達が勝てそうな、疲弊した今川前衛を標的にしてただけに思うんだけど、 信長公記を読むと。 >>241 眠いから寝るわ 今度から書くときはわかりやすくして書いてくれ こっちの予想を超えるわけのわからん書き込みが多いからな >>238 それについても、>>208 で答えられてると思うんだけど、 なんで同じように思える事を書くのかな、と思う。 >>239 >>240 それについても、 上記208や>>207 で似た事答えられているように思うけど、 桶狭間まで今川と織田の戦争はかれこれ20年近く続いてるように思うし、 今川の桶狭間の総軍勢数は国力的に2万いるかも疑問に思うから、 松平勢とかの今川勢前衛数千程が倒されたなら、総戦力の一割以上がやられる、 って事だから、地域紛争の一遠征としては、それまでに得た戦果を確保して帰る理由には、 十分なるくらいの戦果だと思う。 >>242 だからさあ、こっちは信長公記を基にして、論を書いているだけの話に思うし、 >>229 を読むと、君の桶狭間の認識は、信長公記とはいくつもの違いがあるように思うし、 君がこちらのいう事を理解する事が厳しいとしたら、それは信長公記の記述とかを、 君がよく知らないか、変わった解釈をしてるだけに思うんだけど、どうなの。 >>243 まあ何をもって前衛とするのかがまずは問題だな そしてなんの勝算もなしに前衛に飛び込んだら信長軍は全滅するぞ それこそ中島砦などで信長を止めた家臣が正しいという事になる >>244 信長公記を見ているのは俺も同じだぞ つうか俺の意見は信長公記の補填な 信長公記つまり太田が把握していないと思われる事実を利用しての矛盾点の補填な >>245 だからね、君がその書き込みでレスしてると思しき、>>243 において、 僕は普通に松平勢数千程の事を、今川軍の前衛と評してる事がわかると思うんだけど、 君はこんだけ明白に思える事を、なんの余地があると思うのか、 答えて欲しいと思うかな。 本気で聞きたいんだけど、君は僕の書き込みにレスしてるように思うけど、 僕の書き込みをちゃんと読んでいるのか、その事をまず答えて欲しいと思うかな。 信長公記を読むと、信長は、>>213 にもあるような感じで、 桶狭間山にいる今川の軍勢を、大高への兵糧の運び込みを行い、丸根、鷲津で戦って疲弊した、 松平勢だと思ってたように思う。 その疲弊した松平勢数千程が、桶狭間山で他の軍勢から離れて布陣してるなら、 織田勢が攻撃を仕掛けて勝負する余地は十分にあると思われるし、 実際に信長公記でも、信長の説明で家臣達は桶狭間山に攻撃を仕掛ける事を納得してるように思うのに、 君がそんな事を書いてもしょうがないと思うんだけど、どうなの。 >>246 だからね、 >矛盾点 とか君が書いても、既に>>231 >>237 >>243 で僕が君に反論してるレスとかを読んでもらえばわかると思うけど、 特にそんなものないように僕は思うし、 それで君がそんな事を書いても、としか僕には思えないので、 君がそんな事を書くなら、上記の書き込みなどについて、 ちゃんと答えて欲しいと思うかな。 君はこれまでの傾向で言うと、上記231 、上記237、上記243について、 僕には回答がずれているように思われる事を書いて、 肝心の論旨については、まともに答えてないように思われるので、 これらについて、ちゃんと答えてほしいと思うかな。 >>248 の >大高へ は 大高城へ にしておくね。そんな事をしなくても、理解可能だとは思うけど、正しておくね。 >>245 >>246 の人は、 上記248 >>249 にあるような感じのをはじめとして、 概ねこれまでの議論において、答えられる事が答えられているように思うので、 まずはそれらを読み返して欲しいと思うかな。 >>248 松平勢の後にはすぐに今川前衛と本陣が続いているんだぞ すぐにやられるのは火を見るより明らかだろうが どうして丸根、鷲津で戦って疲弊した松平勢を駆逐したら勝てると思うのだ? 乱取りでむしろ騒いでいただけにも見えるがな それに丸根、鷲津はすぐに落ちていて疲労とか言うほどのものではなかったはずだぞ つうか丸根、鷲津で戦っていたのは松平勢で桶狭間山には松平勢はいないはずだぞ そこがまず矛盾しておるわ >>250 まあ信長公記には矛盾が多いからな 特に桶狭間の戦いでは つまり太田の視線に立つと信長を止めた太田ら家臣が一番正しいという事になる お久しぶり。 >>250 なんか君、本当に信長公記を読んでるのか疑問に思うんだけど。 その>>248 にも似た事書いてるように思うけど、 信長は桶狭間山にいた今川の軍勢を、松平勢などの今川軍前衛だと思っていたように思うので、 大高城や丸根、鷲津やその周辺の海岸線地帯からある程度離れた位置に、疲弊した今川軍前衛がいるなら、 それを迅速に攻撃して、他の軍がやってくるまでに撤収可能、と思っても不思議はないと思う。 実際に結果論ではあるけれど、信長公記を基にするなら、桶狭間の実際の戦いにおいて、 今川勢本陣が攻撃を受け、豪雨の影響もあって敗北し、義元が倒されるまでにおいて、 他の今川の軍勢は救援に到着できなかったように思うので、 信長の(信長公記によるなら、前衛と本陣を勘違いしていたように思われる、)計算はそこまで 違ってなかったように思う。 >どうして丸根、鷲津で戦って疲弊した松平勢を駆逐したら勝てると思うのだ? これについては、>>243 に似たような事が書いてあると思うんだけど、 なんで君は既に答えられているように思われる事を、同じように書くのか、 その事について、まずは答えて欲しいと思うんだけど。 上記243にも似た事書いたように、今川は桶狭間まで、織田との戦争を 織田の前代の時代から長年行ってきて、少しずつ地域紛争の成果を蓄積して領土を得ていったように思う。 それを考えると、桶狭間で仮に信長公記にあるような信長の勘違い通りに、 桶狭間山にいたのが松平勢などの今川勢前衛で、それを信長が攻めて倒したとした場合、 当時の今川の国力からして、今川の軍勢は2万いるかどうかに思うから、 松平勢数千がやられた場合、10パーセント以上の損害、という事になると思う。 これだけの損害を受けたら、さすがに地域紛争の一戦闘での損害としては相当な打撃に思うので、 上記にあるような、これまでの今川の行動傾向からして、それ以上の前進をしないで、 大高城周辺を確保して帰国する可能性は高いと思う。 単なるそれまで長年にわたって続いてきた、織田と今川の地域紛争の一戦闘として桶狭間を考えるなら、 信長の計算は(信長公記を基にするなら、それが仮に勘違いに基づいたものであっても) そこまで不可解な話ではないと思う。 だから、それ上記248にも似た事書いたけど、信長公記を基にするなら、 信長が情報不足で今川軍前衛と今川勢本陣を勘違いしていた、っていう話にしかならないと思うんだけど、 なんで君はそんな事を書くのか、答えて欲しいと思うかな。 >>253 の宛先の >>>250 は >>251 が正解なので、訂正をさせてもらうね。 上記251の人は、上記253にあるような事をはじめとして、これまでに僕がしてきた書き込みなどを、 まずちゃんと読んで欲しいと思う。 >>252 後世の客観的で常識的な視点に基づけば、そうだろうね。 でも、信長公記を基にするなら、信長が勘違いで前進した結果、 豪雨が来て、それもあって今川勢本陣を崩して勝利する事が出来た、っていう話になると思う。 >矛盾 これについては、>>253 にもあるような感じで、君が信長公記をちゃんと読んでいるのか、 僕には疑問に思えてしまうような事を書いてたりすると思うので、 本当にそうなのかを、まず僕のこれまでに書いた書き込みなどをよく読んで考えて欲しいと思うかな。 >>253 君は俺の投稿を全然理解していないのが残念だよ 答える答えないの問題ではないんだけどね まあ以前の俺の投稿でも読み返してくれ あと繰り返すが桶狭間の戦いでの太田の身分はそう高くはなく 信長に信用されておらず作戦の中身に関しては全然知らされていなかった だから信長公記みても答えはみつからんよ 長篠の戦いで20日夜の合同軍議中に酒井忠次が発案したものであったが、信長からは「そのような小細工は用いるにあらず」と頭ごなしに罵倒され、問答無用で却下された ここまでしか理解していないのと一緒 実際には信長がこのように軍議の場で忠次の発案を却下したのは、作戦の情報が武田軍に漏れる可能性を恐れてのことであった。軍議の終了後、信長は忠次を密かに呼びつけて、「そなたの発案は理にかなった最善の作戦だ」と忠次の発案を褒めたたえ、直ちに作戦を実行するよう忠次に命じた 5月20日深夜、信長は家康の重臣であった酒井忠次を呼び、徳川軍の中から弓・鉄砲に優れた兵2,000ほどを選び出して酒井忠次に率いさせ、これに自身の鉄砲隊500と金森長近ら検使を加えて約4,000名の別働隊を組織し、奇襲を命じた このように作戦を知らないでただついていっただけの当時に太田の桶狭間の戦いの描写にはどうしても大きな矛盾を残してしまう事になる >>255 僕は君の書き込みをこれまでに十分読んでいて、その上で、>>253 にあるような感じで、 君が僕の書き込みで既に答えられていると思しき事を書いてたり、 信長公記を君が読んでいるのか、疑問に思われるので、>>254 に似た事書いたように、 僕の書き込みをちゃんと読み返してから、書き込みをして欲しいと思う。 そんな事を書くなら、>>208 にも似た事書いたように、 甫庵信長記は創作色が強い所が多いと思うし、軍鑑だと信長公記や三河物語と話が相当違うように思われるし、 その他に桶狭間関係で、これら以上に信頼できそうな資料が何かあるのか、と思うし、 相対的に織田側の事情を知るには、織田側の信長公記がマシに思えるけど。 そもそも、>>241 にあるような感じで、信長公記を基にしてくと、信長が城から出た時点では、 今川勢本陣は桶狭間山にはいなかったように思うので、 信長が桶狭間山に今川勢本陣がいるという情報を得る事は不可能に思える。(実際にいないと思うから。) だから、この時点で信長が桶狭間山にいる今川勢本陣を目指して出撃する事はないと思うし、 (上記にも書いたように、実際にいないと思うから。) これは太田の立場とか関係なく、そうなるだけの話だと思う。 君の書いているような事は、織田側の信長公記には書いてないように思うんだけど。 徳川側の三河物語にも書いてないように思うんだけど。 信長公記を読むと、信長が武田勢主力が設楽に来た事を喜んで、 酒井を呼んで鳶ケ巣山砦への攻勢を指示したように思われるし、 三河物語だと、酒井が信長に提案して、信長が特に否定もせずに承認したように思える。 織田側の信長公記にも、徳川側の三河物語にもないように思える事を書かれても、としか。 まして、それを基にして、桶狭間の時の信長を論じるのは厳しい様に僕は思う。 上記に書いたように、少なくとも、信長公記にあるような状況では、 信長が城を出撃した時点で、桶狭間山に今川勢本陣はいなかったように思うので、 そんな情報を、信長が仮に極秘に情報収集をしたとしても、得る事は出来ないと思う。 (実際に、信長公記を基にするなら、その時点ではいないように思うから。) なので、信長がそれを倒す事を目標にして、行動する事はあり得ないと思うし、 これは太田の立場とかまったく関係のない話に思う。 >>251 に追記として、 松平勢は信長公記を基にするなら、大高城に兵糧運び込みをし、丸根鷲津で戦って実際に疲弊をし、大高城で休息をしてるように思うので、 信長公記においての、信長の想定は、今川勢前衛(松平勢)の疲弊、という意味では当たってた、って事になると思う。 ただ、その後の、信長公記においての、信長の推測、つまり、疲弊した今川勢前衛が桶狭間山で休息している、というのは、信長公記を読む限りでは、違ってたように思うけど。 >>257 まあ君が早く4万の今川軍になんの策もなく正面から飛び込んだ2千の戦上手のはずの信長軍の矛盾点に気が付けばいいと思うわ マジでありえんから そもそも清州城での信長の行動のおかしさにも気が付かんとはね 長文は書かんでいいから少しは頭を使えよと言いたいわ ちなみに俺の見立ては 「迂回攻撃説」 「正面攻撃説」 「別動隊説」 「乱取り状態急襲説」 を合わせたようなもので 信長は今川義元の位置を直属の部隊に監視させていた だから清州城にはもとより信頼がおける家来はほとんどいなかったし 信長は清州城の家来をほぼ無視していた >>258 だからさあ、僕は君がレスしてる>>257 でも、それより前の>>248 にもあるような感じで、 信長公記を基にするなら、信長が狙っていたのは、今川勢全軍ではなくて、 今川前衛の松平勢などの数千ほどの軍勢、それも、大高城への兵糧運び、丸根、鷲津での戦闘で疲弊した軍勢であると思われる事を、 主張してると思うんだけど、君はなんでそんな変に思える事を書くのか、答えて欲しいと思うかな。 信長は、信長公記に基づくならば、>>179 >>180 にもあるような感じで、 丸根、鷲津の砦が今川勢前衛に攻撃された報告を受けて、急いでその救援の為に出撃し、 移動の途中で丸根、鷲津が攻略されたと思しき事を煙で知り、 それまでの戦いで疲弊していたと思われる今川勢前衛(実際に前衛を務めた松平勢は、 信長公記を読む限り疲弊していて、大高城で休息していた。)を攻撃して倒す事に目標を変えた、 そして桶狭間山にいる今川勢を、その今川勢前衛だと思って攻撃を仕掛けたら、それが誤認で本陣だった、 というシンプルな話であって、全然矛盾してないように思うけど。 正直、君は上記にあるような事と似たような事を、僕が上記レスでも示しているように、 僕はこれまでにも書いてきたように思うのに、君に都合のよくないと思しき事を答えないで、 同じような事を書いているように僕には思えるのに、そんな事を書かれても、と思う。 >>259 だからね、>>256 とかにもあるような感じで、それはあり得ないと僕は思う。 >>179 >>180 にもあるような感じで、 信長公記を基にするなら、信長が清州城を出撃した時点では、 まだ丸根、鷲津の砦も攻略されてなかったようで、今川勢本陣がそれより先の桶狭間山に布陣してたとは考えにくいと思う。 なので、信長が出撃した時点で、桶狭間山に今川勢本陣はいなかったと思うし、 それを目標にして信長が出撃する事もあり得ないと思う。 信長がどれだけ今川本陣の動向を探らせようと、上記179にも似た事書いたように、 今川勢本陣が信長が倒しやすそうな位置まで移動してくれるかは、 完全に義元や今川軍主導層の意思次第で、 仮に義元が後方の城や地にいて守りを固めていたら、それこそ信長には厳しいと思うので、 そんな事を当てにして信長が行動するかは疑問だと思う。 だから、>>260 にもあるような感じで、信長公記を基にするなら、 信長はシンプルに常識的に、それまでの戦いで疲弊した松平勢などの今川軍前衛を攻撃して倒す事を目標にして行動し、 桶狭間山にいる敵軍勢を今川軍前衛だと思い込んで攻撃しようとした、というだけに思うんだけど、どうなの。 桶狭間山が鷲津や丸根の砦より先にあるってのがまず誤解なんじゃないの? 距離的は大高城より遠いし、方角的にも今川の勢力範囲に近い。義元の本陣があるんだから当たり前だけど。 こちらを攻めるのは敵陣に深入りする形で危険なのに、とりあえずこっち攻めました みたいな解釈は厳しいわ。 >>262 まず守りやすさで言うなら、大高城の方がずっと上だと思うし、 距離的、っていうなら、どこを起点にして言うかだと思うけど、 織田側が向かう方向としては、既に今川軍の救援があり、 前衛が丸根、鷲津を攻略した大高城に、 そのまんま向かうよりは労力的に楽そうに思う。 さらに今川の視点からしても、信長公記を基にすれば、信長が織田側の砦から移動して、 桶狭間山を攻撃している事からも、その逆ルートで移動すれば、 織田側の砦を攻撃できる位置にあると思うので、 織田側からしても、今川側前衛がさらなる侵攻に備えて布陣してる、もしくは、 疲弊を休めてる、と思うのはおかしくないと思う。 >敵陣に深入り とはいうけど、実際に信長公記を基にするなら、織田側が桶狭間山の義元本陣を攻撃して、豪雨の影響もあってそれを倒すまで、 今川側の他の多くの軍勢が救援に来た形跡はない様に思うし、地理的にもある程度他の今川勢と離れた、孤立した状況に思えるけど。 信長が一撃で疲弊した今川前衛を倒して、撤収しよう、と考えていたなら、 恰好の位置に思えるけど。 そもそも、信長公記を基にするなら、桶狭間山にいる今川勢を、今川前衛だと信長は説明してるように思うけど、 その説明について、家臣達は誰も疑問を呈してないように思うので、そこまで不自然な解釈でもないと思う。 まあ、仮に、の話で、信長公記を基にして、丸根、鷲津の砦が攻撃された報告が信長に入った時に、 仮に今川勢本陣が桶狭間山にいたとして、その情報を信長が得ていたとして(信長公記にはそんな事を伺わせる記述ないように思うけど。)、 信長が桶狭間山を攻撃可能な位置に来るまでに、義元本陣が大高城とかに入っちゃったら、それこそ無駄足に思うし、 常識的に考えれば義元本陣が大高城に向かう可能性はかなりあったように思うのに、 信長がそんな事を目標にして軍を動かすのか、疑問に思うけど、どうなの。 信長は信長公記を基にすると、信長自身が言ってるように思うけど、普通に疲弊した今川前衛を攻撃しようとしていた、というのが無理がない様に思うけど、どうなの。 信長公記首巻を鵜呑みにしてしまうと 既に落ちた自軍の拠点より先に進んでるけど その拠点を落とした部隊を攻めようとした というちょいと不思議な状況なんよね なので首巻には何らかの錯誤や創作がある と考えた方がいいんではないかな >>264 別に不可解な話じゃないんじゃない? >>263 や>>260 とかにあるような感じで、単にそれまでの戦いで疲弊した今川前衛が、ある程度それまでの主戦場から離れた位置で休息してる、 と考えても不思議じゃないと思う。 というか、上記263とかにもあるような感じで、信長公記を基にするなら、 信長や、その説明を受けた信長の家臣達も、その事を特に疑ってないように思うので、そんな不可解な話でもないように思うけど。 >>260 だからな 少しは考えて書けよ 丸根砦攻撃隊は松平元康 石川家成 酒井忠次ですでに落としているし 信長はそれらの砦も無視して進軍してんだぞ つうかな、答える以前の問題で君の認識が間違いだらけなんだよ まずはそれをちゃんと認識しような 正面攻撃説の奴はマジで話にならんね >>266 だからさあ、君はなんでそうずれてるように思える事を書くのかな、と思うんだけど。 君がレスしてる>>260 にも似たような事が書いてあると思うんだけど、 信長公記を基にするなら、信長は丸根、鷲津の砦が攻撃を受けた報告を受け、 急いで支度を整えて出撃し、丸根、鷲津砦が攻略された事を、移動途中に砦がある方角から煙があがった事で知ったように思うので、この時点で攻略されてる砦を救援する目標は変更せざるを得ないと思う。 なので、信長はこの時点で、丸根、鷲津攻略までの戦いで活動して疲弊した今川勢前衛を攻撃して倒す事に目標を変更したように思う。 その為にその松平勢などの今川前衛らしき軍勢を近場で探した所、桶狭間山にいる軍勢をそれだと思って攻撃を仕掛けた、っていうだけにしか、少なくとも信長公記をそのまま基にすると、思えないと思うんだけど、どうなの。 松平勢の動向を、信長がこの時点でどこまで知っていたのかは、信長公記を基にすると不明瞭に思うけど、信長公記を基にするなら、丸根、鷲津が攻略された後で、松平勢は大高城に戻って休息してるように思う。 信長公記を基にするなら、信長がその事を正確に把握はしてなかったと思うけど、丸根、鷲津を攻略した今川の前衛(松平勢とかの)が、砦を攻略した後でどっかに移動した、っていう事くらいはわかったと思うから、それらしき軍勢を近場で探した所、桶狭間山にいる軍勢をそうだと思った、っていうだけに思うんだけど、どうなの。 何について、君はそう書くのか、ちゃんとした論拠などを基にして答えて欲しいと思うかな。 正直、君の書き込みとかを読むと、上記にあるような、信長公記にあるように思う経緯も、君はちゃんと理解しているのか疑問に思えるのに、 そんな事を書かれても、と思うんだけど、どうなの。 >>267 〉信長はこの時点で、丸根、鷲津攻略までの戦いで活動して疲弊した今川勢前衛を攻撃して倒す事に目標を変更したように思う。 どうして信長が自軍の砦の位置さえ掌握していないんだよ 君の言っていることは一からデタラメだらけなんだけどな >>267 の >攻略されてる砦 は 攻撃を受けている砦、 に変更をしておこうかな。こっちの方が意味が分かりやすいと思うので。 >>266 の人は、>>260 にあるような信長公記にあるように思う経緯とかを、 ちゃんと理解しているのか、まずはそれを答えて欲しいと思うかな。 >>268 はあ?マジで、僕のその文章をどんな風に理解したの? >>267 にあるような感じで、信長は、信長公記を基にするなら、 始めは丸根、鷲津の砦を救援する事を目標にしていたけど、 その為に移動してる時に、その砦の方から煙があがった事で、それらが攻略された事を知ったように思う。 そして砦救援の目標から、砦を攻略するまでの戦いで疲弊した今川勢前衛(松平勢とかの)を 攻撃して倒す事に目標を変更した、 そして、その今川勢前衛(松平勢とかの)らしき軍勢を探した所、桶狭間山にいる軍勢をそうだと思った、 という風に、信長公記を基にすると思える、という話なんだけど、 なんで君はそんな事を書くのか、答えて欲しいと思うかな。 >>270 >そして砦救援の目標から、砦を攻略するまでの戦いで疲弊した今川勢前衛(松平勢とかの)を攻撃して倒す事に目標を変更した、 >そして、その今川勢前衛(松平勢とかの)らしき軍勢を探した所、桶狭間山にいる軍勢をそうだと思った もう一度地図を見返してみろ よくそんなデタラメが言えるな >>270 、 >そして、その今川勢前衛(松平勢とかの)らしき軍勢を探した所、桶狭間山にいる軍勢をそうだと思った わざわざ索敵して見つけた敵を誤認するかねっていうのがね。。 特に今川家といえば有名な赤鳥紋で一発でしょ。 しかもここで索敵して義元隊発見してるなら、それ以前に索敵してても おかしくないのに、なぜかその可能性は否定するし。 >>265 疲弊した兵をさらに移動させて野営させんの? やっぱ奇妙な想定に思えるけどな 敵の攻撃を防ぎやすい場所に移動することは別に不思議では無いんじゃないの? 実際にそういう場所に移動したかは知らんけど 【2月13日】 原発上空にUFO? 【震度6強】 ://egg.5ch.net/test/read.cgi/atom/1615255108/l50 お久しぶり。 >>271 >>275 うん、だからさあ、君がそんな事を書いたって、>>263 に似た事書いてあるように、 信長公記において、実際に織田家臣達は信長がそのように説明したことで、 特に疑問を抱かずに納得してるように思われるのに、 400年以上たった後の、当時の現状も地形も知らないと思われる君が、 勝手にそんな事を言ったってしょうがないと思うんだけど。 君が地図を見て思った事は、君がそう思っただけの話に思うから、 それを優先させるには、妥当な論拠が必要に思うんだけど、どうなの。 お久しぶり。 >>271 >>275 うん、だからさあ、君がそんな事を書いたって、>>263 に似た事書いてあるように、 信長公記において、実際に織田家臣達は信長がそのように説明したことで、 特に疑問を抱かずに納得してるように思われるのに、 400年以上たった後の、当時の現状も地形も知らないと思われる君が、 勝手にそんな事を言ったってしょうがないと思うんだけど。 君が地図を見て思った事は、君がそう思っただけの話に思うから、 それを優先させるには、妥当な論拠が必要に思うんだけど、どうなの。 うんだからろくに地図も知らずに創作された話だろな あなたが事実をそのまま書いてると思い込んでるからそれに気づかないだけで おや、連投になってしまった。失敬。 >>263 別にそんなに不可解な話じゃないと思うけどなあ。 今川勢の前衛がさらなる侵攻の前に、前線からそれなりに離れた位置で休息する、 なんていうのは、普通にあり得ると思うけど。 >>278 にも似た事書いたように、実際に信長公記を基にするなら、 織田家臣達は、信長に桶狭間山にいる軍勢を、今川勢前衛だと説明されて、 特に疑った描写もなく納得して行動してるように思うので、君が言うほど不可解な話ではなく、 当時の現場を知ってる織田家臣達からは、十分に納得可能な話だったって事だと思うけど、どうなの。 >>280 だから、そう言ってるのは君だけに思うので、 そんな事を書くなら、ちゃんとした論拠を提示して欲しいと思うかな。 前から思うけど、>>278 >>279 にも似た事書いたけど、 君が地図見て思った程度の事が、そんなに論拠もないのに優先される事はないと思うので、 ちゃんとした論拠を提示して欲しいと思うかな。 >>272 だからさあ、それも>>216 で似たような事書いてあると思うけど、 今川勢に所属してる事を示す旗(例えば、武田家では武田菱の旗)は、 今川勢に所属してる軍勢は普通に持ってるだろうから、 それを持ってる事で今川勢前衛なのか、本陣なのかの判別は厳しいと思うんだけど。 実際に、信長公記を基にするなら、信長は普通に今川勢前衛(松平勢とかの)と本陣を普通に誤認してるように思うし、 >>278 とかにも似た事書いたように、信長家臣達も信長の説明で納得してるように思うんだけど。 お願いだから、もう少し相手側の論旨とかを読んでから書き込みして欲しいと思うかな。 具体的に、いつそんな事をしたというのかな。 これも>>179 >>180 でたっぷりと似た事が書いてあると思うけど、 信長公記を基にするなら、信長が城から出撃したのは、 丸根鷲津の砦が攻撃された事を伝えられての事に思うので、 順当に考えるなら、信長は丸根、鷲津の砦の救援に向かう為に出撃したと思われるんだけど。 この状況で今川義元本陣がどこにいたのか、信長公記には記述がないように思うし、 信長も特に調べた形跡は、少なくとも信長公記にはないように思う。 それで、信長公記を基にするなら、信長は丸根、鷲津の救援に向かって移動する途中で、 それが攻略されたと思しき煙から、二つの砦が攻略された事を知ったように思うので、 この時点までの信長は、普通に丸根、鷲津の砦の救援が目標で、今川勢本陣の事なんか探ろうともしてないように思うんだけど、どうなの。 そもそも、これまた上記180にも似た事書いてあるように、 信長が城を出撃する時か、それ以前かに義元本陣を探したって(信長公記にはそんな記述ないように思うけど。)、 仮に首尾よくその位置を把握したって、信長がそこに到着するまでに義元本陣が移動したりする可能性は高いでしょ。 (実際に、信長公記を基にするなら、信長が城を出撃した時に、義元本陣が桶狭間山にいたのかは疑問、少なくとも信長公記では不確定に思える。) 仮に大高城にでも入られてたら、それこそ信長にはどうしようもないと思うので、 そんなものをわざわざ当てにするより、信長公記を基にするなら、大高城に兵糧を運び込み、 丸根、鷲津の砦を攻略して疲弊した、前線やその近辺にいる可能性が高い今川勢前衛(松平勢などの)を 狙う方がよっぽど勝てる可能性が高いと思うのは、常識的だけど、妥当な判断だと思うけど。 お願いだから、もう少し相手の書き込みを確認してから、書き込みをして欲しいと思うかな。 いやだからあなたが思ったといくら力説されても困るんだってのw そっくりそのままお返しするわ >>284 こちらは信長公記の記述とかを基にしてるのであって、 少なくとも、君が地図を見て思っただけの事よりは、論拠として優越してると思うので、 そんな事を書くなら、君もちゃんとした論拠を基にして話をして欲しいと思うかな。 こっちも公記と地図をもとにおかしいと言ってんの まじで理解できないんだな そもそも元から信長公記首巻のその辺の記述が 怪しいぞって言われてるんやで >>286 どこで? >>280 >>275 >>271 において、君は地図については言ってると思うけど、 信長公記の記述についてなんて、まったく語ってないように思うけど、 どこでそんな事書いたの? >>287 信長公記においての、桶狭間の記述は、当時は今川側だった徳川家(松平家)の三河物語とも 符号する所があると思うので、それなりに信用できそうに思うけどね。 仮に信長公記を桶狭間において参考にしないなら、当時の想定される石高で考慮した場合、 信長は当時尾張の多くを支配していたっぽいし、今川も東海三国+尾張の一部くらいで、 今川側が遠征側で領国に守備兵力が必要と思われる事、 織田側が守勢である事、を考慮すれば、その動員可能兵力にそこまでの違いはないように思える。 それで、当時は今川側の三河物語を考慮すると、桶狭間において、今川側は岡部、鵜殿、松平の軍勢は 義元の近くにいなかったように思え、下手すれば総合的な決戦の時の軍勢は織田側と今川でそう変わらない可能性があって、 三河物語にもあるように(信長公記にもあるように)、豪雨の影響もあって混乱した今川勢に織田側が勝利して、 義元が倒された、というそんなにドラマ性のない話になりそうに思うけど。 >>289 それが妥当だろうね 公記首巻のドラマティックにするために盛ってる >>264 の段階で疑念を呈した通り 他の方もそれに先立って信長公記首巻の 矛盾点について指摘しているね つまり あなた以外「信長公記首巻には矛盾がある」 あなた「でも信長公記主観によるとこうだ」 という平行線 >>291 例えばどこでどんな論拠に基づいて、それを主張してるの? なんか君が言ってる事と僕が言ってる事はかなり違いがあるように思うんだけど。 信長公記においての信長公記の記述が信用できないかどうかは、まだ別に決まってないと思うし、 それを否定するなら、相応の論拠を基に話をしないといけないと思う。 >>289 はあくまでも、仮に信長公記を否定する場合、という仮定の話であって、 それが確定的な主張とは、僕でさえ言ってないんだけど。 むしろ、僕は上記289において、信長公記の桶狭間における記述において、 その当時今川側だった徳川家(松平家)の三河物語との共通性についても、 指摘をしているように思うんだけど、それでなんで君はそんな結論になるのか、 説明をしてくれないかな。 君はその書き込みからして、信長公記の桶狭間においての記述を否定したいように思うけど、 それはどんな論拠に基づいて、どんな風に否定できると思うのか、答えて欲しいと思うかな。 >>292 の >信長公記においての信長公記の は 信長公記においての桶狭間の、 に訂正をしておくね。 なんだこりゃ、変な風に書いちゃったね。 文脈で考慮すればわかるかもしれないけど、一応訂正はしておく事にするね。 それで、上記292の宛先の>>291 の人についての指摘に付け足しをさせてもらうと、 >>271 >>273 >>275 のつながりを見ると、この3つの書き込みをしてる人は、 同じ人にも思えるんだけど、君の言うような >他の方 って例えば誰の事言ってんの?正直、このスレで議論をしてる人々ってそんなに数が多いとは思えないんだけど、 そこら辺はどうなのかな。 それで、君のいう人々とやらは、相応の論拠に基づいて、信長公記の記述の否定をしてるのかどうかについても、 答えて欲しいと思うかな。 >>290 >>213 にあるように、僕も信長公記の桶狭間の今川の軍勢記述などについては、 疑問を呈していると思うけど、それは>>289 のように、当時の想定可能そうな石高などを論拠にしているのであって、 君が信長公記の記述に否定や疑問を呈したいというなら、相応の論拠を基にした方がいいと思う。 そもそもの話として、>>289 で僕が書いた事を仮に基にするなら、 「圧倒的な今川の大軍を前に不利な信長が緻密な情報収集で今川勢本陣の動向を把握し、奇襲をかけて倒した」というような劇的な話ではなく、 「桶狭間においての今川側遠征軍勢数と守勢の織田側軍勢数はそこまでの違いはなく、 その上、今川は複数の部隊を本陣とは別方面に移動させていて、決戦の時の軍勢数は 織田の軍勢と今川本陣勢でそこまで違いがあったか疑問で、豪雨の影響もあって織田側が勝利して義元を倒した、」 という劇的とは言い難い話になると思う。君はこれでいいのか、という事について、答えて欲しいと思うかな。 >>293 悪いが同一人物ではないぞ その三つのうち273が俺だが他は別 対立する意見が全部同じに見えるのは勘弁 首巻の桶狭間への疑問は複数から言われてて その主なものは砦を落とした兵が落とした場所にいるでもなく 休ませるにも敵から見て背後に戻るでもなく わざわざ桶狭間に出るのはおかしいというもの >>283 >順当に考えるなら、信長は丸根、鷲津の砦の救援に向かう為に出撃したと思われるんだけど。 それはさすがにないと思うぞ、信長は自分の領地さえ把握していないのかよ >>283 >この時点までの信長は、普通に丸根、鷲津の砦の救援が目標で、今川勢本陣の事なんか探ろうともしてないように思うんだけど、どうなの。 今川との闘いなのに今川本陣を把握しようともしないなんて逆におかしいだろうよ >>296 だから、なんでそんな話になるの? 君は一体どんなロジックでそんな風に主張してるのか、説明してくれないかな。 君がレスしてる>>283 に似た事書いてあると思うけど、 信長は、信長公記を基にするなら、今川勢が丸根、鷲津を攻撃し始めたという報告を受けて、 城から出てるように思われる。 順当に考えて、これは丸根、鷲津の救援の為に城から出たと思えるし、他にどう解釈するの? 君はこれだけ自明に思える事を、なんでそんな風に書いてるのか、答えて欲しいと思うかな。 >>297 だから、>>299 にも似た事書いたけど、 君がレスしてる>>283 にそのまんま答えとなる事が書いてあると思うんだけど。 上記283や上記299にも似た事が書かれてると思うけど、 信長は、信長公記を基にするなら、丸根、鷲津に今川勢が攻勢を仕掛けて、戦闘が開始された事を、 報告されて、支度をして城から移動してるように思われる。 常識的に考えれば、これは丸根、鷲津の砦を救援するための行動だったと思えるし、 この時点で信長が今川勢本陣の所在を知っている記述は存在しないように思う。 そもそも、>>283 にも似た事書いたように、信長公記でも、信長が城から移動した時点で、 義元本陣がどこにいたのか、特に記述はないと思うし、順当に考えれば、 その時点で義元本陣が桶狭間山にいたのかは極めて疑問だと思う。 つまり、信長が仮に城から移動する前に義元本陣の所在を知っていたとしても、 遠征軍である今川軍は義元本陣の所在が移動していく事が考えられ、 仮に義元が大高城にでも入ってしまえば、信長が襲撃する事は甚だ厳しくなると思え、 「義元本陣が、他の今川勢からある程度離れた、襲撃しやすい位置に移動する」という そんな不確定に思える事を信長が当てにするのか、と思うんだけど。 >>295 さて、どうなのかなあ。 ワッチョイスレでは、やたらと信長を持ち上げようとする人に思われる人が、 IDコロコロや他人を装う事をしている可能性が高い事が指摘されてたと思うし、 ここまでの議論の経緯を見ても、>>299 >>300 などにもあるように、 議論相手の「人々」は既に答えられている事を、なぜか都合がよくないと思われる事を答えずに、 同じような事を書いている傾向があると思うけど、行動傾向まで一致する事って普通はないんじゃないかと思うけど。 それについても、>>265 とかで答えられてるように思うけど。 なんで君、それらにちゃんと答えないで、同じように書いているのか、と思うし、 そもそも、>>282 とかにも似た事書いたように、君が地図を見て色々思うとしても、 それを優先される想定にするには、相応の論拠が必要だと思うので、 相応の論拠を基にして話をして欲しいと思うかな。 >>295 ついでに、君は>>292 や>>294 で聞かれてる事には答えないのか、という事にも答えて欲しいと思うかな。 >>301 しらねーよ 自演主張さんならそれこそちゃんと根拠持ってこいや 自演認定で逃げ切りたいなら知らんがなとしか言いようがない 敵を避けて休息するなら適地ではない 適地だというなら根拠は?となるだけの話なのに あなたは公記に書いてる否定する奴は自演だで片付けてる どのツラ下げて相応の根拠とか抜かしてんだから >>292 単に創作だと言ってる 砦の救援に行ってるのに目的地をずらして そこに砦落とした敵がいる記述されてる 普通に考えたらその場で守りを固めるか 休息するなら大高に戻れば良い >>294 それは既に解答済みだ 実際にはドラマティックでないのが普通で ドラマティックにするために創作がある >>299 また長文ダラダラかよ 実際には丸根、鷲津の救援はないんだけどな ちゃんと考えてレスしろよ >>300 なんで義元が最前線の大高城に移動すんだよ 丸根、鷲津はまだ落とされたばかりだぞ 正面攻撃説は地図さえ見ることができないのな >>306 だから、僕には君が論拠を基にした説明をしてるようにも思えないのに、 そんな事を書かれても、としか言えないんだけど。 君は何を論拠にして、どんなロジックでそんな事を書いているのか、 説明してくれないかな。 >>299 は信長公記の記述を基にして推測をしているので、 これを違うというなら、相応の論拠を基に説明をして欲しいと思うかな。 >>307 最前線には、それこそ前衛となる軍勢を置いておけばいいだろうに。 義元が本軍を率いて大高城に籠っていれば、少なくとも、信長がうかつに攻撃を仕掛ける事は出来ないと思うから、 安全地帯だと思う。 >>305 ほうほう。 つまり、君が仮に>>294 にあるような仮定を肯定するという場合、 「信長は、そこまで不利でない状況で、偶然あった豪雨の影響などもあって義元を倒して勝利した、」 という話になって、桶狭間においての信長の劇的性を否定する事になると思うんだけど、 君は仮にそうだとしたら、この状況で何を主張したいのか、という事に答えて欲しいと思うかな。 >>304 それについては、当時今川に属していた徳川(松平)の三河物語では、 松平勢が大高城に入ったのは、それまで城を守っていた鵜殿の交代を誰にしようかと会議して、 候補者がいなかったので、家康(当時は元康)とその軍勢が入る事になったように思う。 なので、松平勢が大高城に入ったのも、上記のように、三河物語を基にするなら、 必ずしも必然とは言い難く思う。 仮に大高城を守備する候補者が他にいて、それが城に入っていたなら、 松平勢は休息もかねて、最前線でも、大高城でもない所に移動していた可能性が高いと思う。 信長公記では織田側が、桶狭間山にいた軍勢を疲弊した今川勢前衛(松平勢などの)と想定したと思えるが、 上記のような経緯や事情を考慮するなら、それはそこまで外れた想定ではなかったと思われる。 実際に信長公記を基にするなら、信長も、その説明を受けた織田家臣達も、>>283 とかにも似た事書いたように、 桶狭間山にいる軍勢を今川勢前衛(松平勢などの)という事に、特に疑いを持っているようには思えないんだけど。 >>303 それを言うなら、>>301 にあるような事情などが、という事になるんだけど、 僕としてもそれを言い合うのはそれ程楽しい話題ではないね。 ただ、僕として言いたいのは、>>291 や>>295 の君の書き込みでは、 まるで君が論拠や論旨ではなく、数を頼みにしてるようにも、僕には思えてしまうけど、 君が何かを主張したいなら、論拠を基にした論旨を基に相手と語り合うべきだと僕は思う。 僕はそんな事してないと思う。僕のスタンスは、上記のような感じかな。 徳川(当時は松平)が大高城で休息する事になった、三河物語を基にした場合の経緯は、>>311 にあるような感じで、 それは必然だったとはし難いように思える。 信長公記や三河物語を基にした場合の史実において、 1.実際に松平勢が大高城に入り、最前線から退いている事、 2.丸根、鷲津の砦は信長公記でも、三河物語でも、比較的短期に攻略されているように思え、 守備兵はそこまで多くなかったと思われ(数百程か)、戦闘で損傷している事も考慮すれば、 数千ほどと思われる松平勢が、敵を警戒しつつ休息して滞在するのに向いた所とも思い難い事、 などを考慮すれば、 上記311に似た事書いたように、仮に大高城の守備候補者がいて、それが城を守る事になった場合、 松平勢は大高城ではなく、さりとて、丸根、鷲津近辺でもない所で休息をしていた可能性は高いと思う。 よって、これまた上記311に似た事書いたように、信長公記において、 桶狭間山にいる今川の軍勢を、疲弊した松平勢などの今川勢前衛だと思った信長及び織田家臣達の想定は、 それなりの妥当性をもったものだった、という事になると思う。 >>308 だからなロジックとか関係ないんだよ 信長は丸根、鷲津を見捨てているからな >>309 だからな、丸根、鷲津は落とされたばかりだってーの 何が最前線の大高城が安全なんだよ それは後から桶狭間の戦いの結果を知った現代人のインチキ知ったかだぞ >>313 その論拠は?君が相応の論拠を基にしてないように思われるのに、そう書かれても、と思う。 少なくとも、信長公記の記述を基にするなら、信長は丸根、鷲津の砦の救援の為に移動し、 その途中でその二つの砦の方面から煙が上がったのを確認した事で、 両砦が攻略された事を知ったように思えるので、普通に救援しようとしたけど、間に合わなかったと、少なくとも信長公記を基にするなら思える。 >>314 その二つの砦が攻略されたからと言って、その前にでも、やや後ろにでも、それまで戦ってない新鮮な部隊を置きつつ、 それより後方の大高城に今川義元本陣を入れれば、少なくとも桶狭間山にポツンといるよりは、 守りやすいと思う。 >>312 の 一部訂正。 2.の論旨だけど、三河物語においては、松平勢が攻略したのは、佐久間が守っていたという棒山砦だけに思え、 これが信長公記において、松平勢が攻略したと思われる丸根、鷲津の砦をまとめているのか、 それとも、佐久間が守っていた方だけの砦を示しているのか、は三河物語を読むだけでは、 不明確に思えるかな。 ついでに、>>315 の、信長公記においての信長と丸根、鷲津の砦の動向については、僕が書いた>>161 とかに似た事が書いてある。 >>311 ますます何言いたいのかわからん 大高入りの決定には蓋然性があるでしょ 合理的で蓋然性がある結論に至るための手段が会議だ それによって既に先に言ったように大高入りがきまった というだけの話だよ 桶狭間移動は合理的ではない あえて桶狭間に行く合理性とは何か? ということをあなたは全く無視してる >>312 知るかよ お前は俺を自演野郎扱いしてんだぞ 「自演をする奴はいる→だから俺が自演してる」 なんてのは「俺が自演してる根拠」ではない そんなあやふやなもので論争相手を貶めといてな 謝りもせずなにを冷静気取ってんだ? 大高入りの蓋然性について 付近で安全に休息できるという意味では最適地だ 元々今川の勢力圏内であるし大高に別の将が入っても 大高方面に陣を敷いた方が味方にも近い 桶狭間古戦場近辺は実際に戦場になった通り 決して安全でも優位な地形でもない 現在の道でも両砦から1時間程度かかる >>321 ないわ、マジで正面攻撃説の人間は桶狭間の戦いを見てから結論を言っているのな そもそも大高城は最前線だぞ 丸根、鷲津砦を落としたのも当日だからな 話をぶった切って済まんが、「必死に生きてこそ、その生涯は輝く」というのが信長の名言として出回ってるんだけど 誰ぞ出典知ってる? 難しい言葉が嫌なら妥当性でもいいぞ 兵を休ませるためと言いながら 攻撃を受けやすいとこの方が 受けにくいとこの方が良いという そこにどんな妥当性があるんだ? >>325 難しい易しいの話じゃないよ 蓋然性ってのは可能性の類義語 あなたの言いたいことはおそらく、対義語の必然性 つまり真逆の言葉を使ってる 妥当性でもいいけど ありがとう 冷静になると確かに妥当性と言わなきゃおかしいか >>283 >今川勢に所属してる事を示す旗(例えば、武田家では武田菱の旗)は、 >今川勢に所属してる軍勢は普通に持ってるだろうから、 >それを持ってる事で今川勢前衛なのか、本陣なのかの判別は厳しいと思うんだけど。 いや、義元本隊と、松平や井伊の旗はちがうだろ。アホか? >>320 それを言ったら、僕には君が現時点で、>>312 に書かれている論旨に答えずに、 君が答えて相手を叩けそうな事にだけ答えようとしていると思われ、 それは議論的に十分非礼な行動にも思えるし、 上記312にあるように、君が仮に論旨の妥当性ではなく、数でもって威圧をかけようとしていたなら、 それも議論的に十分非礼な行動という事になると思うけど、 そこら辺について、君は何か言う事はないのかな? 君がその文章で書いた論旨に基づけば、君は何らかの謝罪を僕にすべきに思うけど、どうなのかな。 あやふやかなあ?現状でこのスレに、ここまでの議論で、信長公記に否定的な事を書いた人、というのが、 そこまでの数がいるのか疑問、というのは、>>301 にあるような感じで、 ある程度の妥当性を有すると思うけど、どうなの。 まあ、この話について、そこまで僕は突き詰めたいのではなく、僕が言いたいのは、 >>312 に似た事書いたように、君が何かを主張したいというなら、 それは相応の論拠とそれに基づいた論旨を基にして話をするべきであって、 数をどうこう言うのは違うと思うんだけど、どうなの。 >>328 今川家全体を表す旗は、それこそ武田で言うなら武田菱の旗は、 今川家に属する軍勢が持っているだろうし、 今川本陣勢だって、複数の軍勢の集合体なんだから、 それだけで本陣勢か前衛なのか、を判断するのは厳しいんじゃないかな、と思う。 その煽りを主体とした口調とか、特徴的なように思うんだけどなあ。 ID変えたの? >>330 いや、だから家や個人毎に異なる旗をもってるんだって。 っていうか、旗で識別できないなんて言う人初めて見たわ。 >>319 なんというのかなあ。 君は三河物語のその部分の記述を知らないのか、それとも、僕が>>311 で書いている事を 変な風に解釈してるのかと思うけど、なんでそんな解釈になるのか、 僕にはそっちの方が疑問だよ。 >>319 に似た事書いてあるように、三河物語の記述を基にするなら、 今川勢では元々松平勢が大高城に入る事は予定されておらず、 他の候補者がいるならそっちに城を任せるつもりだったけど、 色々話し合っても候補者がいなかったので、松平勢が入る事になっただけに思う。 なので、松平勢が大高城に入ったのは、三河物語の記述を基にするならば、 別に決められていた事でもなければ、 必然性があったわけでもなく、ただその時の今川勢に、他に候補者がいなかったので、 消去法で入る事になっただけに思うので、君の言うような論旨には該当しにくいように思うけど、どうなの。 だから、それについては>>311 に書いてあるように思うけど。 上記311に似た事書いてあるように、それまでの戦闘で疲弊していた松平勢は、 仮に大高城に入らない場合、丸根、鷲津もそれまでの戦闘で損傷してたと思われるので、 休息の為にもある程度前線から離れた場所に移動してた可能性は普通にある、という話だよ。 桶狭間山はある程度の高所で、前線からも離れすぎず、近すぎず、で疲弊した軍勢が休息するには程よい場所に思うけどね。 >>331 だから、今川本陣勢だって、義元の直属部隊だけしかいないわけじゃなくて、 複数の家の軍勢の集合体に思うから、いくつもの家の旗印が混じっている状況で、 今川家全体を表す旗をつけている事から、今川の軍勢だという事はわかっても、 それが本陣勢なのか、前衛部隊なのか、を認識する事は簡単ではないように思うけど。 そもそも、>>161 にも似た事書いたように、信長公記を基にするなら、信長は今川軍が丸根、鷲津を攻撃した事を報告された後で、 救援に向かって移動し、その現地に着くまでもなく、煙によって丸根、鷲津が攻略された事を知ったように思うので、 そもそも、丸根、鷲津を攻略したのが今川の軍勢だという事は知っていても、松平勢だという事を知っていたのかは確定的とは言えないと思うけど。 >>333 いや、だから義元本陣なら赤鳥紋だ。 その旗みてさっき砦を落とした前衛部隊がここで休憩してるぞーって 思う馬鹿な物見はいないよ。 >>321 大高城に他の今川の武将が入っているなら、信長公記や三河物語を基にした場合、 それまでの戦闘で疲弊していたと思われる松平勢が、ろくな防御地形もない所で、 野ざらしで休むというのは、厳しい様に思うけど、どうなの。 >安全でも優位な地形でもない 桶狭間山について、僕は上記のように、そこまでよくない地形とは思わないけど、 (三河物語でも、信長公記でも、今川義元本陣勢が信長勢に敗北したのは、 急な豪雨が一因のように思える。) 仮に君がそのように思い、それが妥当であると仮にした場合、 そのような場所に今川本陣勢が来ているとは、 さすがに織田側は思わないんじゃないかな。 仮に君の主張通りなら、そんなよくない地勢の所にわざわざ布陣しているのは、 今川軍の本陣ではなく前衛だと織田側が思うのは妥当、という話になりそうに思うけど、どうなの。 >>334 だからね、>>333 にも似た事書いてあるように、 義元本陣勢だって、それに所属するいくつもの家の軍勢が、それぞれの旗印をもって参加してて、 今川家全体を表す旗も持って参加してると思う。 このような状況で、義元本陣勢だって、義元の直轄部隊が最前列にいるわけじゃなくて、他の家の軍勢が最前列とか、第2陣とかを固めてて、 それらが旗を立てていると思われ、それらのさらに後方にいると思われる、義元本陣勢の旗印まで確認するのは、 色々と厳しいんじゃないかと思う。 信長公記の記述を読むと、信長が自身達が戦っているのが義元本陣勢である事に気が付いたのは、 個人的には、義元本陣勢が敗北し、本陣にあった塗輿を確認して以降に思える。 なので、個人的にはそれまでは、桶狭間山にいる軍勢を、義元本陣だと思う根拠を、少なくとも信長公記を読む限りでは、 信長は持っていなかったように思うけど、どうなの。 >>321 ついでに、君は >安全に休息できるという意味では最適地だ と大高城の事を書いているように思えるが、仮にそうなら、 (僕も>>180 や>>300 とかにもあるように、 義元本陣勢を確実に保全するなら、大高城にいた方がいいと思っているけど。) 織田側だってそう思うんじゃないのかな。 そんなに地勢的にいい所には、義元本陣勢が入って、義元とその軍勢を保全するに違いない、 前衛とかは他の場所にいるに違いない、と 織田側が思うのは、妥当な事なんじゃないかと思うけど、どうなの。 そう織田側が思った場合、なんか大高城や最前線からある程度離れた桶狭間山に、 他の部隊からある程度孤立した状況で、今川の詳細不明の軍勢がいる、と知った時、 それを今川の前衛だと思うのは、そこまで不可解な想定でもないように思うけど。 >>336 の >義元本陣勢の旗印 は 義元直轄軍勢の旗印、に訂正をしておこうかな。 文章の前後の意味合いで考慮していけば、訂正しなくても理解できるんじゃないかと思うけど、 よりわかりやすくするために、一応訂正をしておく事にするかな。 >>329 それを言ったらとか関係ない そのレスでは俺はあんたが真面目に議論するんじゃなく 自演野郎とかレッテル貼してきたことを怒ってる それ以外については別のレスで書いてる それ無視して、レッテル貼の件も話晒してんじゃねえよ >>337 休息が必要なのは砦落とした兵だろ? だから休息してるはずという話だったんだろ? 信長公記には詳細不明な今川前衛ではなく 大高城に兵糧入れて丸根、鷲津両砦を落として 疲弊した兵だと信長が号令したと書いてるだろ? なんであえて疲弊した兵をさらにわざわざ移動させて さらにあえて敵から近い地を選ぶのか? 別に大高城と桶狭間以外に選択肢がないわけでもないし 砦落とした部隊以外が今川にいないわけでもない >>340 補足 「砦を落とした兵が桶狭間古戦場付近に移動する」以外にも そこに敵部隊が展開している可能性は十分ある 実際にそこにいたのは進軍してきた義元だった あなたが想定したように義元が既に大高に入った場合 玉突きで元いた部隊や全く別の移動してくる可能性もある 他にも可能性はあるにもかかわらず 信長公記首巻の信長は砦を攻撃した部隊だと断定 宵に兵糧を使った(きり)だとまで断定 誰も疑問に思わない 信長公記首巻を信じるなら多少おかしくても 実際そうだったんだから仕方ないとなるだろう でも実際どうなのか?という疑問 今川の前衛の松平軍は丸根、鷲津砦を落としたばかりで乱捕りしている最中 義元本陣の大高城への進軍もそれが終わってから つまり義元は桶狭間山に留まるしかなかった >>339 なんか違うと思うんだけどなあ。 もともとの話としては、>>312 にも似た事書いてあるように、 君が>>291 や>>295 において、 相応の論拠やそれに基づいた論旨によってではなく、 数によって圧をかけようとしているように思われる事をした事が、 今回の話題の始まりに思うから、>>329 にも似た事書いたように、君の理屈で言うなら、君は僕になんらかの謝罪をするべきに思うし、 その事について、君は答えてないように思う。 さらに言うと、上記312にも君の行動について、僕は指摘をしていて、 その事について、君は答えてないように思うのに、 そのように書くのはどうかと思う。 正直、君が気が付いているのかどうかは知らないが、君って結構特徴的なように思うから、 この件については、もっと話を進めるのもやぶさかではないけど、 君が普通に議論をする、というなら、これ以上込み入った話をしないで、普通に議論をしようと思うんだけど、どうなの。 >>340 これもなんか変な風に君が僕の書き込みを解釈をしてるように思うんだけどなあ。 今川義元本陣勢は、今川軍総帥の軍勢なんだから、それが倒される事は、 戦いの勝敗を左右しかねず、その保全の為には、より安全性の高い大高城に入れておく方が、 安全であると思われる、っていう話なんだけど。 大高城に入る理由が、休息だけしかない、っていう話ではないと思うんだけど。 >>332 にも似た事書いてあるように、三河物語の記述を基にするなら、 松平勢が大高城に入る事になったのは、単に他の候補者がいなかっただけに思う。 なので、松平勢が大高城で休息する事になったのは、単なる結果論に思え、 他の候補者がいるなら、もしくは今川義元本陣勢が大高城に入っていたなら、 松平勢が大高城以外の他の場所で休息する事になっていた可能性は普通にあったように思う。 >詳細不明な今川前衛ではなく これも僕の書き込みを変な風に解釈してるように思うんだけど。 織田側にとってみれば、桶狭間山にいる軍勢は、今川勢である事はわかっても、詳しい事はよくわからない軍勢で、 それが今川勢前衛なのか、今川義元本陣勢なのか、はたまた他の今川勢なのか、 はっきりした事はわからなかったように思う。 なので、織田側としては推論を立てるしかなかったように思うけど、 その常識的な推論としては、>>337 にも似た事書いてあるように、 上記にも一部似た事書いたように、 1.安全性が高いと思われる大高城には、重要性の高い義元本陣勢を入れて保全するはず、 2.今川勢前衛はここまでで、(信長公記を基にするなら、)大高城に兵糧を運び、 丸根、鷲津の二つの砦を攻略し、疲弊しているはずなので、どこかで休息をとるに違いない、 3.>>311 にも似た事書いたように、 丸根、鷲津の砦は(上記311にあるような理由で推測される)規模からも、戦闘における砦の損壊からも、 そのまま今川勢前衛が留まって休息するには不向きに思われる、 4.1.の理由で大高城には義元本陣勢が入り、今川勢前衛は休息した後の戦闘の為にも、 最前線から近すぎず、遠すぎない、どこか他の、ある程度守備と休息に向いた場所で休息をとるに違いない 5.となると、この桶狭間山にいる織田側にとってはよくわからない、今川の軍勢は、 それまでの疲弊を、休息して癒そうとしている今川勢前衛である可能性が高い、 と織田側が推測するのは、そこまで不可解な話でもないように思う。 >>341 >>344 のような理由じゃないかと思う。 >>342 信長公記を基にしても、三河物語を基にしても、 織田側の砦を攻略した後の松平勢は大高城に入ってるように思うけど。 >>345 それは今川の前衛の松平な 彼らは今川義元のために戦い安全確保のために動いていた >>336 >だからね、>>333 にも似た事書いてあるように、 >義元本陣勢だって、それに所属するいくつもの家の軍勢が、それぞれの旗印をもって参加してて、 >今川家全体を表す旗も持って参加してると思う。 >このような状況で、義元本陣勢だって、義元の直轄部隊が最前列にいるわけじゃなくて、他の家の軍勢が最前列とか、第2陣とかを固めてて、 >それらが旗を立てていると思われ、それらのさらに後方にいると思われる、義元本陣勢の旗印まで確認するのは、 >色々と厳しいんじゃないかと思う。 そんなことありえないってことを言ってるのに、結局同じセリフを繰り返すだけだな。 幟旗を見ても今川本陣であることを判断できないなら、どうやって前衛部隊と 判断したのかも説明できないんですけど。 >>343 また数によって圧というレッテル貼かよ いきなり自演がどうこう言い出したのもお前 それで自分は真面目に議論したいけど相手がとか 言っちゃ悪いけど不快以外の何者でもない はっきり言うが卑怯そのものだ 以前そう言う話はしたくないとか(自分で始めといて) 言っておいて今回も結局そういうレッテル貼から >>344 砦を攻めた部隊が桶狭間にいることは たった一つに絞って断定するほど 明白な状態ではない 俺が繰り返し言ってるのはそれだけ いくらあんたがその可能性もあり得たと力説しようが 俺の主張の部分には何一つ答えてない >>346 ん?君は>>342 において、その松平勢について、 >乱捕りしている最中 と書いているように思うけど、>>345 において似た事書いたように、 信長公記録でも、三河物語でも、松平勢は織田側の砦を攻略するまでの行動をした後、 特に周辺の略奪とかをしている様子はないように思われ、 そのまま大高城に移動してるように思うんだけど。 >>347 また君にとって都合のよくない流れになると、そうやって菅沼認定をしようとしてるように思うけど、 >>178 にも似た事書いてあるように、ワッチョイスレでは、菅沼認定厨さんと思しき人が、 特徴の違う幾人もの人々に菅沼認定をして、その事について聞かれても、ろくに答えられてなかったと思われるのに、 まだそうやって菅沼認定を君はするのかな。 そのワッチョイスレでは、菅沼認定厨さんと思しき人が、IDコロコロをしたり、 他人を装ったりする事を、している可能性が高いという事を、 指摘されていたように思えるんだけど、君はまだ菅沼認定をしようというのかな、 という事に答えて欲しいと思うかな。 >>348 ん?なんでそう君は言うのかな。 僕が書いている>>336 の文章に、 そのまんま答えが書いてあるように思うけど。 君が既に僕が書いているように思われる事を、変な風に解釈してるように思うから、 僕も丁寧に似た事を説明せざるを得ないように思うんだけど。 上記336にも似た事書いてあるように、今川義元本陣勢だって複数の家の軍勢が 集まって出来上がってるように思うけど、 それらも今川勢を表す旗は持ってるだろうから、今川勢である事はわかるでしょ。 ただ、今川義元の旗本部隊は、本陣勢の他の家の軍勢が前を固めているさらに後ろに 座していたと思われるので、ぱっと見ただけじゃ、義元の旗本部隊の旗を確認するのは厳しいと思うんだけど、どうなの。 端的に言うなら、今川義元本陣勢の一つの仮定の構成としては、 1.最前列 本陣勢所属の家Aの軍勢 2.第二陣 本陣勢所属の家Bの軍勢 3.第三陣 今川義元旗本勢 というような感じであって、織田側の偵察要員が桶狭間山の今川勢を確認して、 ぱっと見で確認できるのは、最前列の軍勢やその旗だけに思え、 それよりずっと後方にいたと思われる、義元旗本勢の旗まで一気に確認するのは、 厳しかったように思うけど、どうなの。 正直、君って今すごく特徴的に思えるんだけど、もう色々無理があると思わないかな? >>348 織田側が桶狭間山にいる今川勢を、今川勢前衛だと判断した理由は、 個人的に>>344 のような理由だと思う。 >>350 うん、そうだね。実際に信長公記において、織田側が桶狭間山にいる今川勢を 今川前衛だと判断した事は、信長公記を基にすると、明確に間違っていて、 それが今川義元本陣でした、っていう話に思えるね。 ただ、現代と違って情報収集手段に限りのあった戦国時代においては、 敵軍の数や実情の誤認はある種仕方ない事に思え、将帥達はその時において、自身が持ちえた情報を基に、 自身なりの推論で敵情を考察し、可能性が高いと思う事を選ぶしかなかったように思う。 なので、歴史上の戦史において、いくつもの戦いで、そういった敵軍の数や実情の誤認が起こっているように思うね。 信長公記を基にするなら、信長は限られた情報を基にして、 今川勢の状況を判断せざるを得ず、個人的には>>344 にあるような、常識的な推論を基にして、 桶狭間山にいる今川の軍勢が、今川勢前衛の可能性が高いと判断したんだと思う。 ただ、結局それは今川義元本陣勢が安全な大高城に入らず、 織田側から攻撃可能に思われる桶狭間山に布陣している、という 織田側にとっては意外な実情によって、食い違う事になったんじゃないかと、個人的に思うかな。 >>349 またそうやって、変な事を書いているように思うけど、 実際に議論の流れとして、>>340 にも似た事書いてあるように、 君が>>291 や>>295 において、論拠や論旨ではなく、数によって圧をかけようとしていると思われる行動を、 しているように僕には思われ、それは今のこの話題のはじめだと思うのに、 君がそんな事を書くのはどうかと思う。 それもさあ、また変な風に僕の書き込みを解釈しようとしてるように思うんだけど、 僕は、君が不可解な事を書くなら、こちらとしてもそれについて反論をしていくしかないように思うんだけど。 君が今書いている事は、>>343 で僕が書いている事と趣旨が違うように思うんだけど、どうなの。 >卑怯 君は上記の一段落にあるような、議論の経緯において、指摘されているとしても、 都合のよくない所は答えないようにしているように思われるし、 上記343で聞かれてる事にも答えてないように思うけど、 それでそんな事を書くのはどうかと思う。 正直、上記343にも似た事書いたけど、君って自身が気が付いているのかはともかく、 かなり特徴的に思うんだけど。 >>353 ,354 >端的に言うなら、今川義元本陣勢の一つの仮定の構成としては、 >1.最前列 本陣勢所属の家Aの軍勢 >2.第二陣 本陣勢所属の家Bの軍勢 >3.第三陣 今川義元旗本勢 >というような感じであって、織田側の偵察要員が桶狭間山の今川勢を確認して、 >ぱっと見で確認できるのは、最前列の軍勢やその旗だけに思え、 >それよりずっと後方にいたと思われる、義元旗本勢の旗まで一気に確認するのは、 >厳しかったように思うけど、どうなの。 どうなのって言われても全部君の想像だからなあ。 ここまで史料に基づかない妄想について、どうなのっていわれても 「何を言ってるんだ、こいつは」とかしか思えませんが。 >>336 の推論とやらについても同じ。 >正直、君って今すごく特徴的に思えるんだけど、 いや、君の方が特徴的やろ。。 全てにおいて何を言ってるんだと思ってます。 >>351 なんでせっかくとった砦を捨てて大高城に撤退するんだよ だから正面攻撃説の君は馬鹿にされんだよ 一々アホな意見をどうでもいい長文で書きまくるからな >>356 そんな事書いたって、>>356 にあるのは常識的な配置だと思うし、 信長公記を基にしても、桶狭間山の決戦において、まず信長は豪雨の影響もあって、今川義元本陣勢の前衛を攻撃して撃破して、 敗走する今川勢の中に義元旗本衆300人程を発見して、これに攻撃を集中してるように思う。 なので、少なくとも、義元本陣勢の最前列に義元旗本衆はいなかったように思われるのに、 なんで君はそんな事を書くのかな、と思う。 そもそも、僕の書き込みについて、そこまで書くのなら、君こそ、義元旗本衆が最前列にいたという事を、 資料に基づいて論証をした方がいいように思うんだけど、どうなの。 正直、もう君は、色々と無理があるように思うんだけど、そんな事を書かれても、としか。 >>359 の >>>356 に は >>353 に、 に訂正をしておくね。まあ、上記356の人が僕の書き込みを大幅に引用してるように思うので、 そこに僕の書き込みがあると思えば、違ってもいないと思うけど、一応訂正はしておく事にするかな。 >>336 の推論についても、僕は一応信長公記を基にして考慮をしてるので、 君がそう思うなら、君も資料などを基にして論旨で説明をしてみた方がいいと思うんだけど、どうなの。 >>357 だからさあ、君がそんな事書いたって、>>351 にも似た事書いたように、 信長公記でも、三河物語でも、松平勢が織田側の砦を攻略した後で、大高城に移動してるのは、 共通してるように思う。 なのに、君がそんな事を書くって事は、君は信長公記も三河物語も参考にしないで、この桶狭間の戦いを語ろうとしてるように思うけど、 何の資料を論拠にして、そんな事を書いているのか、答えて欲しいと思うかな。 もともと、この桶狭間に至る戦いは、織田側が今川側の城である、大高城などを織田側の砦で封鎖した事で起きたように思うから、 今川側としては、織田側の砦を攻略して破壊したなら、必要がなければ維持しておく事もないように思うけど。 >>358 またその菅沼認定やってんの?と思うけど、 >>352 にあるような感じで、ワッチョイスレでは、菅沼認定厨さんと思しき人が 特徴の違うように思われる幾人もの人々を菅沼認定し、 その矛盾についての説明を、菅沼認定厨さんと思しき人はろくにできてなかったように思うのに、 そんな事書かれても、って感じかな。 むしろ、同じく>>352 に似たような事書かれてると思うけど、菅沼認定厨さんと思しき人の方が IDコロコロや他人を装いをしている可能性が高いと思われる事を、指摘されていたように思うけど、 それでなお、菅沼認定に執着するのはどうかと思う。 >>355 知らんよ この一連の流れも俺と他の人を 混同して返してるじゃん あんたが自覚してないだけで相手は俺じゃないのまで俺のせいにしてる そんなんばっかだぞ >>363 そんな事ないと思うけどなあ。そんな事を言うなら、君の書き込みはこれまでで、 僕が提示したのと何が違うのか、君の書き込みは何なのか、というのを、 提示してもらえると嬉しいかな、と思う。 まあ、僕も議論が主体なので、君が普通に議論をするなら、 そこまで追求しなくてもいいかとも思うので、君が嫌ならやらんでもいいとは思うけどね。 >>363 ついでに、>>354 の僕の書き込みについては、ご同意いただけた、っていう事でいいのかな。 >>365 信長公記にどう書いてあるかについてなら 俺はそもそも異議を挟んでない その内容が妥当で装飾を含んだものであるかどうか という意味では多分にそうであると判断する という話だけを繰り返している >>366 それについては、>>354 にも似た事書いたように、信長公記の、桶狭間山にいる今川の軍勢を信長が 今川前衛と判断した事については、信長公記を基にするなら、いわば(結果として)信長の盛大な勘違いであったわけで、 それを糊塗しないで書いている事からも、そこに虚飾はないように思うけど。 これまた上記354に似た事書いたように、信長が、信長公記において、桶狭間山にいる今川勢を、 今川前衛と判断した事については、当時の情報収集方法の限界と、それで得られた情報を基に、 >>344 に書かれてるような感じの、常識的な推論を基にした結果だと思われるから、 そんなに無理がないように思うけど、どうなの。 >>367 すまん何が言いたいのかわからんわ 「それについて」てどれについて? 「どうなの」って何が? あんたが信長公記の小説的な記述を 全て信じ込みたいという気持ちなら 普通に伝わってるぞ でも小説的な記述だなという印象は 何一つ変わらない その中で信長が勘違いをしてるから真実だとか 乱暴な推論をしてるのを常識だとか言われても・・・ としか思わん >>368 そんなに難しい事書いてないと思うんだけど。 >どれについて? これについては、君が>>366 において、 >装飾を含んだものであるかどうか と書いていると思われる事についてだよ。 君が信長公記においての、桶狭間の記述について、そのように思うとしても、 >>367 に似た事書いたように、 信長公記において、信長が桶狭間山にいる今川本陣勢を、今川勢前衛と誤認している事については、 いわば主人公である信長が、明確に敵情判断を違えている、っていう事で、 飾って書くような事じゃないと思うんだけど。 もし仮に君の言うような、 >小説的な記述 とやらである場合、それこそ信長が明察な知性でもって敵情を完全に把握し、 桶狭間山にいる今川勢を今川本陣勢であると確信して、味方にそれを演説し、 義元を倒すように号令し、織田勢がそれに応じて奮戦する、という話にした方がいいと思うけど、 君はこれについてどう思うのかな。 信長公記は、一応織田家臣の太田が元主君である信長についてまとめた書物に思う。 なので、正直な話、仮に元主君を創作的に持ち上げるつもりで、元家臣が過去の戦いについて描く場合、 その戦いにおいて、元主君が敵情を明確に誤認している事を描く、なんていう必要性がどこにあるのかと思うんだけど。 仮に太田が創作的にそんな事をした場合、元主君を持ち上げるどころか、元主君が敵情を誤認していた事にわざわざしてる事になると思うので、 この部分について、太田が創作をする必要性が薄いんじゃないか、という僕からすると常識的な推論なんだけど、 この事について、君はどう思うのかな。 >>369 うん俺もあなたが難しいこと言ってると思わない 単に長々と似たようなこと書いてるなと思ってるだけ 創作は別に主君を完全無欠に描くためだけにする というものではないので内容だけで判断はできない また首巻は牛一の直筆本がなく書き方も大きく異なり 別人が書いている可能性も否定できない 牛一の手によるとしても当時信長の 家中にいなかった牛一が聞き取りして書いてる 聞き取りして書いてるので 信長本人に取材したわけではないのだろうから 記述自体が正確でないのは仕方ないのでは? 取材対象が 義元の本陣強襲部隊の中で本陣前衛に突撃した 人だった。 信長自身は更にそこから兵を割って義元の首を獲りにいった。 本陣突入は企図。成功は運。 >>370 その割には、>>368 で君は >すまん何が言いたいのかわからんわ と書いていて、僕の書いている事を理解しがたいように書いているように思えたから、 僕は>>369 においてそのように書いた、という話なんだけど。 >単に長々と似たようなこと書いてるなと思ってるだけ と君は書くけど、上記369にあるような論旨は、上記369からしか書いてないように思うんだけど、 これについては、君はどう思うのかな。 仮に上記368の事を君が言っているとしたら、そんなに長くないように思うんだけど、 君はこの事について、どう思うのかな。 信長公記首巻の創作性については、稲生での信長の勝利の仕方とか読むと、 やっぱり信長を英雄として、持ち上げる方向で創作してる傾向が強いように思うけど。 全体的に信長公記首巻は信長について、好意的に書いていると思えるから、 (首巻以外の信長公記も、基本的に信長に好意的に書いていると思うけど。) いきなり桶狭間の所だけ非好意的に創作する理由がわからないと思う。 そもそもの話として、信長公記首巻だけでなく、信長公記全体を通して、 信長に非好意的に創作してると思われる所ってどこかあるのかな。 基本的に太田はそんな事をしてないように思うんだけど。どこかあったっけ? >牛一が聞き取りして書いてる そうであるなら、太田が取材した誰か、は自身が経験した事か、 もしくは伝えられている事を、そのまま太田に伝えた可能性が高いと思うんだけど。 常識的に考えるなら、太田が取材相手に選ぶのは、その当時において信長に仕えていた人、 もしくはその縁者だと思うので、やっぱりその人達が信長に非好意的に創作をする理由が薄いと思う。 >>371 ちょっと君はどこのレスに対して、レスをしているのか、レスアンカー付きで示してくれるとありがたいと思う。 >>179 >>180 にあるような感じで、信長公記を基にするなら、信長が城から出撃した時点で、 今川義元本陣の所在を知っていた形跡はないように思うし、そもそもこの時点で義元本陣が桶狭間山にいたのかも不明に思うし、 信長自身も出撃目的として、義元本陣を狙っていた形跡がないように思うんだけど。 仮に信長が城から出撃した時点で義元本陣勢を狙っていた、という事を君が主張したい場合、 (君に限らないけど、) 上記179 上記180とか、一部上記にも似た事書いているように、 1.信長公記を基にするなら、信長は丸根、鷲津の砦が攻撃を受けた報告を受けて出撃してるように思うので、 その目的は両砦の救援の為に、今川勢前衛と戦う事だったと思え、 この時点で今川義元本陣を狙ってる形跡も、義元本陣の所在を知っている形跡もないように思われる事、 2.信長公記を基にするなら、信長が出撃した時点で、義元本陣が桶狭間山にいたかは不明確な事、 3.信長が仮に義元本陣を狙いたいと思っていても、総帥である義元が自身の安全性を優先して、大高城とかに行ってしまえば、 信長が襲撃するのはかなり厳しいと思われ、義元本陣が織田側が攻撃可能そうな位置まで来てくれる、という 義元の気分次第で、しかも可能性の低そうな事を、信長が当てにして行動するか疑問に思われる事。 といった事ついて、まずは論拠を基にして答えて欲しいと思うかな。 >>371 ついでに、仮に君が仮に丸根、鷲津の砦が攻略された後で、 信長が今川本陣勢が桶狭間山にいる事を察知した、という事を主張したい場合、 >>353 >>359 にあるような理由で厳しいんじゃないかと個人的に思う。 >>374 私は歴史研究家ではないのであくまで推論ですが 信長は合戦のかなり早い段階で野戦で義元を 撃退することを想定してたと考えてるので。 義元の行軍に関してはかなり早い段階から 情報収集を開始してたはずで、それが記録にないのは 合戦に勝利するためのトップシークレットだったから。 鷲尾と丸根が攻撃されてから動いたのは 両砦が落ちることで義元が大高城に入ることが ほぼ確定的になると考えたから。 義元が砦陥落の報を受けて大高城に向かって確実に 動き出すのを確認してから本陣を急襲するためには 時間的に中島砦に入る必要があった。 はなから鷲尾と丸根は落ちること前提で、中島砦までの 行動は後詰めとみせかけたブラフだと思ってる。 砦の救援なら信長本人が動く必要ないので。 今川の本陣を確認するのは赤鳥紋のぼりが あるかどうか確認すればよいはずで、 一般的に言われる義元の本陣部隊が3千から5千くらいの 規模であれば、斥候の位置にもよるけどおおよその配置は 目視できる範囲内に展開していたのではと。 なので信長の攻撃は確実に義元の位置を把握した上で 正面部隊と迂回部隊の2方向から攻撃をしたのでは? と推論してます。 信長は情報の重要性と収集を当時の戦国大名のなかでも かなり高いレベルで理解してた人物だと思ってる。 >>375 信長が義元本陣勢の場所を前々から知っていたという記述は、少なくとも信長公記にはどこにもないと思うし、 仮に信長がそれを得ていたって、当時の情報収集手段及び、その伝達速度を考慮すれば、 信長が城にいた時に知った義元本陣勢の位置が、信長が移動した時には変わってない保証なんかどこにもないと思うし、 >>373 にも似た事書いたように、 義元本陣勢が織田側が攻撃可能そうな位置にいるかどうかは、完全に義元側の判断だと思うので、 そんな事当てにして飛び出して、攻撃できそうにない位置や配置に今川本陣勢がいたら、 それこそ信長は無駄足になるだけだと思うんだけど。 そんな不確定な事を、信長がする意味がわからないと思う。 >砦の救援なら信長本人が動く必要ない 当時の織田と今川の勢力関係で言うなら、信長自身が主力を率いて動かないとどうにもならないと思うし、 ただでさえ、総合的な軍勢数的には少なくとも今川の方が優位そうなのに、 そこで軍勢を小出しにする理由の方が分からないと思う。 この状況じゃ、可能なだけ当主である信長の元に織田は軍勢をまとめて、分散した今川勢の倒せそうな敵を狙うのがセオリーに思う。 その意味で、信長公記を基にするなら、信長は自身の直接率いる軍勢で、疲弊した今川前衛を狙っているように思うので、 セオリーにのっとった行動に思う。 義元直属部隊の旗指物の確認については、>>374 に提示されている、>>353 >>359 にもろに それが厳しいと思われる理由について、書いてあると思うんだけど、なんで君読まないの? わざわざそのまんま提示してあると思うんだけど。 >2方向から そんな記述、信長公記にも、三河物語にもないように思うけど。 信長公記でも、三河物語でも、信長が直接率いる軍勢が、義元本陣勢を攻撃して勝利したのは共通してるように思うし、 複数方面から攻撃を仕掛けたと思しき記述は特にないように思うけど。 >>376 記述がないのは 取材先の人間がそれを把握してないからでしょ? 取材されてる方も自分の体験か聞いたことしかわからない。 大名の馬印は家来も同じものが立てられるっけ? 推論を推論で否定されても埒が開かないので 私は失礼しますね。 >>372 いや悪いが難しいこと言ってなくても 全体に何言いたいかわからない書き込み多いぞ君 部分的に何を言ってるかはわかるんだが それを俺に力説してどうしたいのかということが多い 今回の書き込みもそうだな 俺は首巻の性質について断定はしていない 個人的には第三者が牛一の記述にない終わり一国時代を 書き足したものではないかと考えているが 牛一自身の筆によるものという説もあるので 諸説あるという認識 あなたは牛一自筆で史実 創作なら信長を褒め称えるためのもの と断定してるけどそれには材料が足りんと思うよ 桶狭間にいた部隊が砦攻めた後の疲れた兵というのが正しい可能性もあるだろ。 士気上げるハッタリだった可能性の方がまだ高いかもしれんが。 >>379 ハッタリの可能性は結構あると思う 嘘も方便で勝利を導いた というようにも読めなくはないんよね ただそれも含め上洛後と比べた場合 公記の書き振りをどこまで信用していいか というのは別の話なのだけど 合理的な現代人にいそうだけどいないタイプ 合理性そのものよりも周りの声や不安に惑わされることなくどんどん合理的行動ができる胆力が常人離れしていたんだろう 現代なら冷徹なプーチンに近い感じか >>381 むしろ「外聞」をいつも史料上でも気にしているから、民主政体の指導者に近いよ 民衆からの支持率を気にした最初の政治家 苛烈に行動する合理主義者というのは 昭和→平成的な信長感よね 革新的でもなければ合理主義でもなければ無神論者でもない 幕府・朝廷を重んじる常識的な人間やね 一日ぶり。 >>378 例えばどこら辺が? 具体的に書いてみてもらえるかな。 こちらは、そちらとの会話において、論旨的に妥当と思われる事を 返しているだけなんだけど。 それはさすがに不可解な答えじゃないかな。 ここまでの議論において、信長公記の桶狭間の該当部分の記述が、 特に信長が桶狭間山の今川勢を、今川前衛と説明している部分について、 それが史実であるのか創作であるのか否か、というのが論点に思うけど。 それは、>>368 において、貴方が信長公記の記述について、 >信長公記の小説的な記述 と書いていて、そこからここまでの議論が行われている事からも、 明らかに思うけど。 貴方が信長公記の桶狭間の記述について、特に信長が桶狭間山の今川勢を 説明した記述について、それが創作なのか、史実を反映したものなのか、 という事について、僕は>>369 や>>372 にあるような感じで、 信長公記において、信長の勘違いを書く事は、 創作的に信長を持ち上げる事にはなりえず、 その意味で、この記述は史実を反映したものなんじゃないのか、というような事を 主張してるのであって、それで君がそんな事を書くのは、 それこそここまでの議論の経緯からして、不可解に思うんだけど、 この事について、答えて欲しいと思うかな。 >創作なら信長を褒め称えるためのもの 別に僕はこんな事書いてないように思うんだけど。 これについては、>>372 に似た事書いてあるように、僕は信長公記の首巻でも、 それ以降の巻でも、信長公記において、信長を貶める意味で創作した記述があるとはちょっと思えず、 君がそんな事を書くなら、信長公記において、信長を貶める意味で創作してる部分について、 提示をする事が必要に思うんだけど、それについて、君は答えて欲しいと思うかな。 無論、敵側の資料が敵側の武将を創作的に貶めたり、味方側であっても、愚将と言われた人物を創作的に貶める事はあると思うけど、 信長公記において、信長を創作的に貶めている場面がどこにあるのか、僕にはちょっと思い当たらないんだけど、 その事について、君はどう思うのかな。 >>377 そんな事言うなら、信長公記において、信長が桶狭間山にいる今川勢(義元本陣勢)を 今川前衛だと説明してる事が、不可解になってしまうと思うんだけど。 仮にこの時点で信長が桶狭間山にいる今川の軍勢を、 義元本陣勢として認識していたなら、それを攻撃する時に、 その軍勢を今川本陣勢だとして説明するはずじゃないのかな。 信長公記では、信長は桶狭間山にいる今川の軍勢を、今川前衛だと主張してるように思うけど、 これは君の論旨と矛盾してるように思うんだけど、どう思うかな。 馬印ってそもそもこの時期にそんなにメジャーになってたっけ? >>380 横からだけど、さすがにそれは厳しいと思う。 信長公記の桶狭間の記述において、信長が桶狭間山にいる今川勢について、 虚言で前衛だと言ったという事を思わせる記述はないように思うし、 仮にそうだったとしたら、その事を信長を称える為に当たり前に書くように思うけど、 どう思うかな。 ついでに、>>289 や>>292 にも似た事書いてあるように、信長公記の桶狭間の記述については、 当時は今川家の配下だった松平家(後の徳川家)の三河物語と比較しても、 結構符合する所があるように思うんだけど。 この事からしても、 信長公記の桶狭間の記述を完全に否定する事は厳しい様に思うけど、君はどう思うのかな。 そもそも、もともとの話として、>>310 でも似た事を聞いているように思うけど、 君は信長公記の桶狭間の記述を仮に否定するとして、どんな桶狭間像を正しいと思うのか、 その事を説明してもらってないように思うんだけど、この事について、答えて欲しいと思うかな。 >>388 >虚言で前衛だと言ったという事を思わせる記述はないように思うし 反対押し切って進軍し続けてたが、ついに信長が進もうとしても家臣が反対必死に止めて動かなくなった、 そうなった状態で突然あれは疲れた部隊だからと言い出して家臣を説得して進軍開始 話の流れからだと嘘言った可能性は十分ある。 仮に信長が間違えていたのならそうなる前に言っていた可能性の方が高い。 >仮にそうだったとしたら、その事を信長を称える為に当たり前に書くように思うけど 筆者が全てを知ってるわけじゃないで済む話だろ、反論にしてももう少し考えて書こうぜ。 当時の感覚なら間違いなく常識人ではないな そういう面もあっただろうが、それは信長の最たる特徴を表す表現としては不適切 糞度胸の行動力オバケなのは間違いないだろう そんな奴は現代でも昔でもあまりいないだろうから変わり者扱いされて当然 >>387 うーん。描写の解釈の違いだからなんともだけど。 義元本体の前衛部隊は 松井、井伊の部隊を指してると思う。 信長が前衛に正面突撃をかけてそれを突き崩して 義元の本陣になだれ込んだんなら、 松井と井伊を討ち取った描写もあっていいはず。 この戦で打ち取られた両名なので。 信長が移動を開始してから激しい雨が降ったとの 描写があったあと、信長の号令で襲いかかった部隊は 大いに崩れて逃げ惑うという描写の中に 義元の塗輿も打ち捨てられてという表現がある。 これは信長の号令と共に本陣に信長本隊が 殺到したという描写に捉えられると思うけど。 雨を僥倖として義元本陣に一気に寄せていったと 見ているんだがどう? そもそも本陣突撃は信長の頭の中にだけあったんだろうと 思ってる。情報漏洩を防ぐために。 だから最後まで標的を明かさず先頭突っ切ったんじゃないだろうか。 当然自分の進む方に部下はついてくるからね。 信長の砦攻めが間違ってないと言うのはどういう理屈何だ? >>379 へのレスです 士気上げるためのハッタリだった可能性というのは理解出来るんだが 通説の 沓掛から大高に移動中の桶狭間で襲われたが間違いで 実際には大高攻めた後、沓掛へ移動中に桶狭間で襲われたってことかと? 丸根鷲津の間違いか? 義元本隊が攻めたとしても後陣で積極的には戦っていないだろうと思う、 三河物語など徳川系の史料に記録されていないのは今川本隊の支援のもとより 単独で勝ったことにした方が都合がいいとかで説明は一応可能か。 信長公記に即するなら信長が敵を今川本隊だと 認識したことがわかるのは攻めかかる時の号令だね 攻めかかるために風雨の中進む際ではない 正面攻撃説はそのまんま信長公記の記述を取り入れているだけだからな 信長の機転というか策略はほぼ無視 だからおかしな事になるのが理解できずにいるのな お久しぶり。 >>398 そんな事を言っても、君の言う、 >信長の機転というか策略 とやらを裏付けるような資料的記述とか、記録とか、論拠とかがないように思われるのに、 それで君がそんな事を書いてもしょうがないと思う。 君はそのような事を主張したいなら、資料的記述や、記録や、論拠とかを基にして話をしていくべきだと思うんだけど、 これについて答えて欲しいと思うかな。 >>396 >>394 当時は今川側だった徳川の三河物語にも、織田側の信長公記にも、 桶狭間の戦いにおいて、織田側の砦を攻略したのは松平勢だったように書いていると思うので、 敵味方で一致してるなら、それを否定する場合、相応の論拠が必要なんじゃないかな、と思う。 >>389 仮にそんな事を言うなら、信長が事前に桶狭間山にいるのが、今川勢本陣だという事を知っていた記述や描写があってしかるべきだと思うし、 そんな情報を得ていたなら、>>165 にも似た事書いたように、少なくとも重臣達には知らせてると思うんだけど。 仮に信長が事前に情報収集をしていたとして、今川義元本陣の情報を得たのに、 それを重臣達に説明もしないで、進軍をしようとする理由もわからないと思うし、 情報の伝達役も、普通に考えたら、信長や重臣達が集まっている所で情報を報告するんじゃないかと思うけど、どうなのかな。 こっちは十分に考えて書いていると思うけど。 仮に君の言う通りだとした場合、信長公記首巻を書いた人、もしくは、その人に桶狭間の事について伝えた人、は 信長の動きや動静について、やたらと詳しい様に思われるのに、 (信長公記首巻を基にするなら、信長の出陣前後の様子まで詳しく知ってた事になると思う。) 信長が事前に情報収集をしていた事も、その報告を受けた事も、全く知らない、っていう事になると思うけど、 さすがにそれは不可解な話だと思う。 >>390 戦国武将で勇猛果敢な武将ってそれこそ数多くいるのでは?と思う。 >>391 んん? 君は信長公記をちゃんと読んでるのかな?と疑問に思う。 信長公記首巻を基にするなら、信長が言う、今川勢前衛は、 大高城に兵糧の輸送をして、丸根、鷲津の砦を攻略して疲れた部隊だそうなので、 信長公記を基にするなら、それは松平勢の事だと思うんだけど。 それで、信長公記を基にするなら、松平勢は上記の活動をした後で、 大高城に移動して休息してるように思われるから、 桶狭間山にいる今川勢ではない、という事になると思うんだけど。 >>384 超有能で冷徹で革新的な独裁者だったら、 本能寺の変の時のような大ミスはやらんと思う 創作によくあるイメージなら、斎藤氏や本願寺などに手間取らず 1582年より前に日本統一し、皇位簒奪後に、海外進出してそう >>403 信長のミスは明智光秀を信用しすぎたこと 明智光秀は信長にゴマをする事にかけては天下一品でうまく騙してきた 最後は森蘭丸の忠告も退けて光秀の泣き落としに騙された 信長は森蘭丸ら小姓の監視網により明智光秀の謀反の兆候をキャッチした そのために信長は光秀につらく当たる 最後には確認のために二人きりになり尋問される その時に信長は光秀を足蹴りにする 光秀は泣いて信長に忠誠を誓い弁明する その芝居に信長は騙された そのために信長は本能寺の変の前にまた光秀を信用して 大軍を任せていた 一つ言えるのは光秀の子孫の解釈はあまりに光秀寄りの解釈であり正しくはないということだ 有能ではあっても革新的でも合理的でも無神論でもない って言うだけやね 20世紀的天才像が突然戦国の世に現れた的な そういう現代小説的な理解は覆された 天下布武の説明も変わってきてるしね 昔は信長が天下を武で統一する事と当然のように語られてきたけど >>406 痛いと思うのならその理由を書けよ お前のつまらん感想なんか書くな >>410 いや、書き込みの史料上の根拠書いて 書けるんでしょ? 鉄砲で言えばこの武器が戦の役に立つと理解してなければ国産化しようとはならんよね 信長ら大名は戦の役に立つと分かっていた武器を買って使っただけ 結局、多少戦争が強い以外は 極々普通の戦国大名でことね 逆になんか特徴はないのかな あまりにも平々凡々すぎる ・本気で足利幕府を復興させようとした ・朝廷を重んじていた ・寺社勢力を保護した 他の大名よりも伝統と秩序を重んじていたという特徴がある 伝統重んじたせいで幕臣と対立する 朝廷寺社公家保護しようとしたため畿内の大名国人衆、一部寺社に反発される 反発した相手を潰していったら結果として革新的みたいな行動になった と個人的には思っている >>411 じゃあ根拠となる史料はなんですか?と聞けよ 痛いとか書き込むな 無礼にもほどがあるわ >>418 アンカーつけてないのに自分の書き込みが痛いと思われたという自覚があったんでしょ? で、史料的な根拠は? ないんだったら痛いという印象から変化なし それとも小説かなにかの読書感想文でも書き込んだの? ていうかすべてが幼稚 >>419 お前が幼稚なんだが、アホか 出典は日本史な 信長好きなら軽く目を通しておけ >>420 まずはお前の脳みそに沸いているウジ虫をどうにかしろ >>421 ん、フロイスの日本史か? 小姓のネットワークで叛意サーチなんて書いてあったかな? 足蹴にしたくらいなら角川太閤記や稲葉家譜などに記述あるけどな ほんとにあなた史料読めるの? 崩し字まで読めと、そこまでは求めないけど >>423 川角ね、間違えた なんの小説か漫画読んだのか知らないが、小姓ネットワークだの泣いて謝っただのはどこソース? 居酒屋で不勉強なおっさんが「政治が悪い」とか床屋政談してるくらいにみっともない書き込みだよ それを痛いとか幼稚と表現したまで 君はおうむ返ししかできなさそうだから語彙も乏しいんだろう 珍説?を周囲に言い触らさないことをおすすめする 史学かじった人間には確実に鼻で笑われるからね >>423 蘭丸ら森三兄弟は小姓だったからな しかも蘭丸は各地に使者として派遣されているのは信長公記にも書かれている おまけに小姓で5万石だから特別待遇で信長の家臣を観察していた >>424 当時はネットワークとかそんな言葉はなかったな だけれども蘭丸はいろいろな情報を使者という立場から把握していたから お前の言うように全くの出鱈目というわけではないぞ そもそもその時代にわずか十代で5万石とか異常なんだがな >>425 手元の信長公記でいま確認したが、森乱が派遣されたのは岐阜城に銭溜め込む仕事だけで、ほかは安土含め信長のところで「御使」やってるだけだな 万見仙千代はじめ、政務に活躍した小姓は検使役なんかでいろいろ出回ってるけどな はい、史料ありませんでした えらそうに言うなら信長公記くらいせめて一度は通読してるよね? してれば森乱があまり派遣されてないの分かるはずだけど 幼稚だから理解できないか 安土にほぼいて大名監視とは恐れ入るね 森乱はドラマの水戸黄門みたいに諸国行脚でもしてたのかい? >>427 そこの信長公記引用しようか? 天正十年三月二十九日条 武田征伐の論功行賞だな 「金山よなだ嶋、森乱に下さる。是は勝蔵忝き次第なり」 森乱はじめ兄弟が優遇されたのは事実だが、長可の旧領をもらっただけで、長可の功績である だから勝蔵が喜んでいると記述されているな なんか反論ある? そもそも金山五万石もらったからといって森乱が諜報活動に従事していた証拠になんてなんらならないんだが 森家譜は現代の人間が読むとどーなのよと思う残虐行為まで赤裸々に書いているんだが(史実かはともかく)森乱が諜報活動していたなんて記述なかったね ほんと、なにが根拠なのか意味不明 単なるニワカの妄想でしょ >>428 信長公記では使者の任だけで3回書かれているからな 活躍した方だろうよ あまり派遣されていないとかないからな あと報告などに関しては他の小姓もやっていることでそれが当たり前のことだぞ 信長はそれらの情報をもとに動いいているからな >>429 >>430 ううん? 俺が蘭丸が忍者のように諜報活動したとか書いているか? それこそお前の妄想だろうが >>431 三回ってどれ? 信長の元を離れて使者やったのは岐阜城、もう一件怪しい塩河伯耆への褒美の使者も常識的に考えれば安土でだろう 曖昧なのじゃなくて明確な根拠示して しかし、信長の小姓諜報網とやらはよほどずさんだったんだな 松永にせよ荒木にせよ、信長は謀叛するはずがないと当初疑っているからねえ 小姓が嘘の報告していたのか、信長が報告を信じなかったのか いやあ、君の論は実に素晴らしいねえ 慧眼慧眼 >>434 偉そうに知ったかしているんだから それくらい調べろよ どんだけ他人便りなんだよ、お前はよ つうか、蘭丸が諜報活動したと俺が発言した部分はどこにある まずはそれをちゃんと指摘しろよ >>433 小姓の監視網で光秀の謀叛の兆候をキャッチしたと書いたのは誰ですか? そもそもね、二次史料で言及されているのは光秀が出すぎた真似をして信長がぶん殴る それでカツラまで取れたりして恨みを募らせて謀叛なんで順番もあべこべ 細川家記だったと思うが、武田に内通していたのが穴山帰順でばれるのが怖くて謀叛なんて二次史料はあるがな こっちは証言者が証言者だけになかなか信憑性あるんだが、そんなこと知らなかったろ >>435 いや、こっちは手元の信長公記の索引で森乱の全部読んだ上で指摘してるんですけど なんなら全部書き上げてもいいぞ 君が信長公記を読んでないのが明白すぎて草 >>438 いいんじゃないか? お前のぼろ検索で引っかからなくても俺の知ったことではないわ >>437 なんだそりゃあ お前も妄想がすごいよな かつらとかどこの史料が元なんだよ >>440 稲葉家譜だよ 史実かはともかく、一応史料にはある 小姓が謀叛察知してなんて妄想よりはましでしょ >>439 大家の奥野先生監修の索引にオンボロとは、君は相当えらい研究者なんだなあ そういうところも含めて信長公記すら読んでいないのが分かる 現代語訳くらいは読んでるのかな? 読む価値ないけどな 結局まともな返答なしか どの作家の作品をソースにしたのかは知りたかったな >>440 というか史料に疎すぎない、君? 読んでてこっちが恥ずかしくなる そんな程度でも周囲からは歴史の先生とか呼ばれてるのかな 受ける >>444 ? 索引の意味すら知らないのか? もしかしてあなた子供? 一般的な教養レベルにすら到達してないな まあいいや 森乱が信長公記で三回、信長の元を離れて使者にたったソースをくれ こっちはいつでも出せるからな >>445 お前がいつでも出せるのなら問題ないじゃないか >>446 詳細はともかく信長公記読む限り森乱が信長の元を離れて仕事をしたのは一回だけ そこはもう書いただろ 三回っていう君の根拠を示せよ ウスノロ >>434 俺が書いたのは使者の任だからな、お前の言う変な条件はないからな でその他、本領安堵の朱印状の件で矢部善七郎、森乱を使者としてつかわしている >>447 つうか、なんだよ、ウスノロとかよ お前はケンカ売って遊んでいるだけだろうが >>434 つうかよ 荒木の謀反の時に蘭丸はまだ13歳だぞ 小姓としてまだ入ったばかりだからな >>449 ウスノロが返答した こっちが要求した三回の根拠出せばいいだけだろ それもできずにグズグズクチャクチャ言い訳しているからウスノロと書いたんだ これでも遠慮した表現だよウスラバカ >>451 つうかよ、バカはお前だろうが お前みたいなのに返答する義理もないんだが と言うか明智光秀オタはマジで頭おかしいのな 自分の恩人で上司の信長だけではなくまだ高校生の蘭丸まで殺しているからな それで反省もなくただただ犠牲者の悪口しか言わないし >>452 自分で三回と書いたんだから相手がどんなバカでも開示する義務があるだろ そんなことも分からないのか ウスノロ、早く出せよ >>452 口先だけと判断するぞウスノロ トロトロすんな 三回分をきっちり耳揃えて出せよ 出せねえからウスノロつってんだよ >>455 御託はけっこうウスノロ 自分で書いた三回分を早く書けウスノロ それともウスノロじゃなくて頭がトロいだけか? >>458 お前の書いた二回に俺のその他足して三回だろうが アホか >>459 その三件目はなに? 君の言うことは毎度具体的な指摘がない つまり発言の意味がないウスノロ いつ、どこになぜ派遣されたか書けよウスノロ >>422 ケンカ吹っかけるようなレスする人に言ったのに 君も同類だったのね 元となった小説は明智軍記だな 蘭丸もちゃんと出てくる >>460 天正7年(1579年)「四月十八日 塩河伯耆守へ銀子百枚遣はされ候、御使森乱(蘭丸)、中西権兵衛相副へ下され、過分忝きの由候なり」 天正8年(1580年)「正月廿六日、森乱御使にて、濃州岐阜御土蔵に、先年、鳥目一万六干貫入れおかれ侯」 >>448 本領安堵の朱印状の件で矢部善七郎、森乱を使者としてつかわしている で3件だな >>465 塩河伯耆については「どこで」が特定できないと言及したでしょ 伯耆の在所まで運んだというより、銀子下賜なんかは本人が挨拶に来たときにするのが通例 この場合は伯耆の安土邸かもしれない 三件目については少なくともあなたが挙げた信長公記には記述がない では森乱と同じく夭逝した代表的小姓、万見はどうか信長公記で見てみよう 天正6年、兵庫に派遣され防御体制について信長に報告 同年、神吉城攻め御検使 同年、自邸で南部を饗応 同年、謀反疑いの荒木を詰問 同年、甲山で百姓を撃退 同年、伊丹攻めで鉄砲衆の奉行を務めて討ち死に 同9年、二代目に知行あてがい 森乱なんかより重大業務や出張ばかり 森乱はじめ小姓が使者業務で謀反の兆候をつかんだとか妄想はたくさん マンツーマンで光秀が泣いて謝ったというのも二次史料にすらソースないな いくつか光秀に手を上げた逸話があるが、どれも公衆の面前でやられて恥をかいて恨みを募らせたってストーリー 稲葉家譜じゃカツラまで取れて面目を失ったと 殴られた、蹴られた原因はいくつかあるけどな 万見は若いけど森乱ほどには若くないから比較としては不適切な気が 訂正 若くないだろうから 生年不明だから推測でしか話せんが あんま関係ないけど乙夜之書物がまたニュースになっている 引用写真をざっくり読むと、斎藤道三は山城山崎の油屋で美濃に下って謀反 子の「吉辰」が実子か疑って不和になり、紛争が勃発 大方の美濃衆は土岐の実子と思って吉辰につき、竹中半兵衛が吉辰の兄弟二人をいっぺんに斬り殺した いよいよ明日合戦というとき、吉辰は道三の生け捕りを二人の家臣に命じ…で写真終了 古い道三一代説がどう広まったかの証明にはなりそうだが、史実をなにか補強するものではない印象 半兵衛が二人の道三実子を討ったというのが珍しいといえば珍しいか >>469 幼名で最後まで記されているから若いとしか思えないよ 奇妙丸もかなり歳いくまでそうだったから織田家が特殊なのかもしれないが 仮に不適切だったとしても小姓が謀反を察知したとかいうとんでもよりはマシだろう 万見は荒木の謀反に気づかずのこのこお話にいったことになるしなあ >>471 >仮に不適切だったとしても小姓が謀反を察知したとかいうとんでもよりはマシだろう それに関しては全く同感だ 美濃国諸旧記(1640年ぐらい?)で道三一代説出てるから それの影響受けたと考えるのがまず一番自然な考え方だろうな >>467 フロイスの日本史で光秀は詐欺師で必要とあれば平気で嘘の涙を流すと書かれているけどな >>473 油売りの記述はこれまで初出が18世紀前半だったから最古だろうということだってさ 著者の関屋は斎藤利宗と間接的に繋がりがあったから、一代説で記述しているのはどうなんだろうか まあ最近の二代説の詳細(根拠は六角の史料だったよね)を知らないからなんとも言えないけど 乙夜はちゃんと取材先を書いてあるところはそこそこ信用できると思ってるんだが 今回の記述にソースがついているかは写真がないから不明 >>474 あの人物評はフロイスの宗教的バイアスを含めて考えても秀逸とは思うよ、確かに ただ具体的にいつどこでってのは一切書いてないからね 例えばちょっと上で話題にした乙夜関係者の斎藤利宗 ちろっと昨日も書いたけど、細川家記では利宗の証言として、光秀は武田に内通していたが、穴山が降伏してきて露見することを恐れて謀反したという記述がある ちなみに利宗は一時、細川家に身を寄せている 穴山安土訪問と饗応役解任とぴったりだし、こういうせめて二次史料でも記載があることから妄想するのは楽しいんだけどなあ >>466 それは万見の死があったからだろう つうか君はなぜか蘭丸の事を知らないし憎んでいるだけだけだからね 万見の死は蘭丸が13歳で入ってきて間もない時に発生した で幼い時はそれこそ信長の身の回りの世話 それから数年後にだんだん使者の仕事をしている 実際には万見と同じような事をしている 最後は信長を命を懸けて助けているから万見なんかよりはるかに有名なんだけどね 万見の仕事が蘭丸以上とか言うのは明智の子孫くらいだろうな >>477 憎むとか子孫だからとかそういう幼稚な話してないんだけど 二次史料でもいいからあなたの妄想の根拠を耳揃えて出してくださいって言っているだけ 「森乱は謀反の兆候を探っていなかった」なんて一次史料があるわけないんだから、こっちは傍証を挙げている >>478 森乱(蘭丸)の光秀反乱推測説にすればいいだけだろうよ 妄想ばかり流していろいろな黒幕説たれ流しているのは光秀子孫も同じことだぞ >>479 やってることは光秀の自称子孫と変わらんな 下らない さわって損したよ 100年ほど後に書かれたのを信用出来ると考えるのは流石にまずいだろ 現代でいうなら老人が昔シベリア出兵の関係者からいろいろ聞いたのをまとめました みたいな感じか? >>481 今回のニュースも「発見者」がいうように史実というより道三が油売りからのしあがった逸話がどう広がったってとこで 斎藤利宗が実際に参加したはずの山崎の戦いも軍記物っぽいエピソードになっていたり ただ、引用者を明示しているところはある程度信じてみたいとも思う 原文写真が切れてるから細部は不明だが、右三ヶ条を斎藤佐渡守(利宗)が語っていたのを井上清右衛門から話を聞いたとか 本能寺の最後の信長の様子については、女房衆が4、5人いたが、信長は出よ出よと退出させた その内の一人が長生きして恒川斎仁に語ったことを関屋が聞いたとある この時代だから女房衆はともかく、実名で記している >>482 シベリア出兵経験者に話を聞いたじいさんからさらに話を聞く又聞きだね たとえば女房衆は信長の身の回りの世話をするからセキュリティが大事 ビズリーチで雇用するはずもなく縁故、尾張美濃に広げても近江から採用したと考えるのが史料はなくとも自然 信長と利家の関係を考えれば尾張荒子の前田家関係者が採用されているのは当然とも思える 前述の井上は利宗の甥だったはず 恒川の一族は前田の古くからの重臣 もちろん嘘や誇張、勘違いや聞き間違いも多々あろうが、まあ出所として?ってのはない 本能寺の描写とかは、信長公記やフロイス日本史とよく似ている それらを参考にした可能性は捨てきれないが、当時の直後から生存者の証言が出回っていたとも考えられる 乙夜が面白いのは、本能寺襲撃について利宗視点と女房衆視点でそれぞれ語られていること 細かい違いとしては、乙夜だと明智左馬、斎藤内蔵の五千が日が昇るまで外に待ち、下男が水打ちに門を開けたところを付け入ったこと 信長が最後、四周に畳を立て掛けさせたこと(ほかの史料にもあったような気もするが) 女房衆が逃げられた理由は「女房なるに依てか敵かまわず逃れ出たるよし」と推測してるが、本城覚書でも本城は男は斬っても女は主人の在処や服装を聞いただけだった ついでだからその後も翻刻すると「右女房達の内ながらえ居て語りけると恒川斎仁物語なり」 俺の妄想の何が悪い この場で何も関係ない第三者もやってるだろ! て地獄かな? >>486 すまないね お手間だけどNGにでもぶちこんどいて まあ大半が創作だったり他の軍記物参考にしたりだろうけど、 中には本当に又聞きしたことも混ざってるかもしれない程度だろうな。 >>489 まあ気が向いたら本能寺襲撃についての(おそらく、というか原文写真のつづきがないから確定できない)利宗視点と女房視点のとこあたり翻刻するから自分の目で見て確かめてくれ 利宗視点 手元に崩し字字典ないし漢字カタカナは常用などに変えるんで参考までに 一 明智弥平次斎藤内蔵助五千余騎にて本能寺え押寄たれば早夜はほのぼのと明にけり 内より水●の下郎水桶をにない出けるが敵の押寄たる体を見て内えにけこみ(逃げ込み)門を立る 「あの門たてさするな」とて押詰門を打やぶり乱入る 当番の衆「是は何事ぞ」とをき(起き)ふためきはしり出て見ければ敵早門内え込入たり 各(おのおの)鑓を取て縁の上下にて攻合信長公白き御帷子をかしみだれがみ(乱れ髪)にて出させたまい御弓にて座の敵をさし取引つめ射たまう 御弓のつるきれたりと見えて御弓をなけすてたまい十文字の鑓を取てせり合たまう 然所(しかるところ)に御手(怪我)を負はれたりと見えて白き御帷子に血かかつて見える 御鑓投すて奥え御入ほどなく奥の方より焼崩たり 女房視点 一 信長公御手を被負ける(負われける)と見えてあけ(明け)になつてほだい所(お台所)え帰りたまう ほだい所の方より焼崩たりと見えてけむり来る 信長公いかが思召たるかたたみあげて四方に立かけたまう 女房達四五人在りつるを「何も出よ出よ」(いずれもいでよいでよ)のたまうに依てにで出たれ共女房なるに依てか敵かまわずのかれ(逃れ)いでたるよし右女房達の内ながらえ居て語りけると恒川斎仁物語なり >>466 君の信長公記には記述がないのかもね まあなんといういい加減な人間なのか? >>476 フロイスの日本史にはちゃんと本能寺の変の前に信長が光秀を足蹴りにしたとの記述があるけどな まああまりに有名で忘れているのかもしれないが 信長公記では信長がどこの軍勢が攻めてきたのかと蘭丸に尋ねて即座に蘭丸は明智の軍と答えている >>476 武田が既に滅んでいるのに内通露見とかおかしくね? 穴山じゃなくてもいつ露見してもおかしくない状況だったろうに 足蹴りとか折檻とかは実際にあれば 大事件なので生前記録されたと思うんよね 当時として巨大な軍事力を握った大名同士なので そんなんあればあわや戦争待ったなしの 大ニュースなのに死後の噂話としてだけ出てくる 信長-光秀間にそんな緊張関係があった様子もなく 本能寺の奇襲作戦が成立してる訳だし あるいは信長と家臣の間では暴行が日常茶飯事 みたいに言われることもあるのだけども それも仮にも大名同士異常な関係なので 記録されないというんはどうなんだと この時折見る二次史料をやたら推す人は関係者か何かなのか? >>497 一次だろうが二次だろうが大事なのは史料批判することでしょ その材料の一部を読みやすいように翻刻して提供したまでだ 二次二次とレッテル貼りする前に中身を読むべきでないかい? 信長の最後について証言者が提示されている史料をほかに知らないし まあ442みたいな人もいるんだし 歴史の楽しみ方は人それぞれだから 興味ない話題はスルーしとけばいい 乙夜之書物に拘ってる人もあまりむきになるな 荒らしと思われるだけだぞ 詳しく検証したいなら史料スレ行くか新スレでも建てればいい 昔から無駄に煽るのが害悪 加えて煽るのは仕方ないなど開き直る 小姓による監視網といい二次史料といい、どっちもまともに信用できないと言うのが素直な感想なんだが >>502 横からだけど、君の定義だと2次資料って信長公記とか、三河物語とか、甲陽軍鑑とかは含まれないのかな? これらの2次資料は、著者が戦国時代当時に生きていたと思われる人である事から、 参考になると思うし、これらをまったく参考にしないとなると、例えば桶狭間の戦いとか、 ものすごく実相がわかりにくくなると思うんだけど。 >>501 >>410 の人の書き方もどうかと思う。 >>503 その辺の当時の人間が生きていたような時代の書物と、 100年ぐらいだってからの軍記物は別だと思っているんじゃないか? 自分は信長公記はそれなりに信用する、 三河物語甲陽軍鑑はある程度は信用するって感じだな、 ただ信長公記は桶狭間というか首巻自体あまり信用していないが。 >>496 明智光秀はただの信長の家臣 はじめの領地の5万石も信長から貰ったもの 別に武田のように大名というわけではないからね その関係は本能寺の変まで変わりはない それだけ信長は光秀を信用していた >>502 読んだ上で言ってるのかな? 読んだ上での反論を聞いたことがないんだよな こてんこてんに自分が論破されるのが望みなんだが >>507 そういうチャチャはいいから自分の考えでも書き込めば? なんか楽しいの? >>509 504は横からレスしてきた別人だったんじゃ >>510 は? 何が言いたいかてんで分からないんだが 人をくさしたり人物透視する暇があったら材料出したんだからそこの批評でもしてみたらどうですか? 崩し字の原文を現代文字で起こして分かりにくいところには注釈も入れたんだからさすがに意味くらい取れるだろ それもできないなら現代訳語するから言ってくれ ちょっと話はそれるが、うわべしか知らない知ったかぶりなやつほど「二次史料だから~」という現象な 先にも書いたがいずれにせよ史料批判が欠かせないんだけどな なので乙夜について、一部には信憑性があると考えてよいのではないかと簡単にいくつか考えを紹介したんだが、個別具体への反論ではなく単純に「二次史料だから~」 それ、反論になってないから >人をくさしたり人物透視する暇があったら材料出したんだからそこの批評でもしてみたらどうですか? それに対するみんなの反応が現状では信用できない二次史料という感想なのでは? >>511 >人をくさしたり人物透視する暇があったら材料出したんだからそこの批評でもしてみたらどうですか? 自分は散々汚い言葉で人を罵っておいて自分が煽られるのはイヤとか本当に勘弁してほしいです >>510 僕は>>504 の人間だけど、>>509 の人とは別人だよ。 君は、>>501 のような事を書くなら、その相手側の事も言及しないのは、個人的に不公平に思えるかな。 >>513 >>514 にあるような感じで、相手側の人もあまり口調が高尚とは言えないと思うのに、 一方だけそのように書こうとするのは、個人的にどうかと思う。 まぁまぁまぁまぁ 俺の顔に免じて許してやってくれないか まあ、後世の編纂資料をどう使うか、というのはそれなりに難しい話ではあると思う。 例えば、中国の歴史とか、基本的には定義としては、後世の編纂資料である、 正史をはじめとした複数の歴史書の記録とかを基にして、それらを相互に検証しながら行われるのが基本に思うし、 日本だって日本書紀にある記録とか、編纂されたのは、その同時代からかなり後になっての記録が多いと思うけど、 これを参考にしないで、日本の古代史が語れるか?というと疑問に思うし、 いろいろ難しいと思う。 どうして信長は光秀をあすこまで信用したのか? 光秀は信長の前だけでは偽りの仮面をつけていたから だから最後の最後まで光秀を信用していた しかし後年はの信長より年上でボケも入り失態を繰り返したと考えられる そのために信長にたびたび折檻を受ける 泣き落としで信長をなんとかごまかしてきた だが内には激しい信長への憎悪が芽生えていた 信長の前では一切その表情は見失せぬもののそれ以外の場所では隠し切れなくなり 蘭丸以外の坊丸や力丸の兄弟やらその小姓の前ではもはや怒りは隠し切れなくなった 故にそのような報告を受けた信長は本能寺の変の前に光秀に問い詰めたが 光秀はいつものようにかしこまり二心はございませんということで信用した しかし佐久間や林の追放を見ていた光秀はこれ以上はごまかしきぬと判断して謀反に及んだ そう思うけどな その他の秀吉や蘭丸は信長を敬愛していた >>518 個人的に、君はもう少し資料的論拠を基にして話をした方がいいかと思う。 もしくは、仮に君が資料的論拠をそこまで重視しないなら、歴史系のスレとかで語るのではなく、 創作文芸とかをした方がいいんじゃないか、とも個人的には思う。 >>520 史料はフロイスの日本史が中心となっているからね それを見ればこういう考えも十分にありだと思うよ 君らは明智の子孫に洗脳されすぎなんだよ >>520 そうはいっても明智子孫信者の妄想もすごいからな 史料も実はろくに読んでいないのはバレバレな 明智子孫信者の妄想のせいでWIKIは黒幕説で一杯だからな かなり逝かれた状態な >>521 どんなものかなあ。 君の書いた>>518 について言うなら、信長の前で憎悪を隠蔽できるなら、 その側近達の前でも隠蔽できるだろうし、側近達の前で隠蔽できないなら、 とっくに信長の知る所となってると思う。 信長は、信長に好意的に思われる信長公記を基にしても、過去にあった、既に許したはずと思われる事を理由にして家臣達を粛清してる事例が複数あると思う。 他にも、信長の都合で粛清されたと思われる武将達も何人もいるように思われる。 なので、信長が怪しいと思ったら、個人的にはそれこそ光秀に聞いたりしないで、そのまま粛清してしまうと思う。 そもそも、信長に謀反や反乱を起こしてる武将達は、信長公記を読んでも数多いと思うし、 上記のように、信長自身が粛清してる事例も多いと思う。 信長に比較的好意的と思われる信長公記でもこれなら、 こういった、信長の人格的、政治的な理由を基にして、信長時代の織田家で謀反や反乱が多かったとするなら、 光秀の行動もその一環に過ぎない様にも思うんだけど。個人的には。 >>524 だからね 光秀は信長のお気に入り武将だったんだよ 折檻は光秀が悪いから当然というのが信長の考え 中央で大軍を率いていたのも信長の厚い信頼があってこそ 蘭丸の事はかなり信用していたけど それでも長い付き合いのある光秀の言い分を尊重した だけれども光秀はもう駄目だとばかりに信長に謀反を企てた フロイスも折檻は信長死後の噂話として書いてる そういう事実があったとも断定してないし 信じてるとも思えない記述 「あの人が何故」てなって色々噂が飛んだんだろね >>503 含まれる。 大まかな話の流れはある程度信じていいと思うけど、 一級史料とされる信長公記でも細かい部分は一次史料の裏付けなどないなら基本的には信用しないな。 >>525 どうなのかなあ。 信長に仕えてた期間が長くて、畿内で多くの軍勢を動かしていた、というなら、 佐久間の方がずっと明智よりも上だと思うけど、その佐久間も普通に粛清されてると思うので、 仮に光秀に信長が思う所があったなら、わざわざ聞いたりしないんじゃないかと個人的には思う。 光秀にしたって、>>524 にあるような、信長の性格や行動などがなかったら、 謀反をしたのか、疑問に思うかな。個人的には。 >>527 ほうほう。それだと、>>517 にあるような、日本古代史や、中国歴史系の検証って、 君の理屈だと、不可能になる事例が多い様に思うけど、そこら辺はどう? >>527 ついでに、その理屈だと、長篠の戦いで、織田徳川側が鉄砲と陣地を組み合わせて武田勢に勝利をした、っていうのも、 一次資料からはわかりにくくないかな。 長篠の戦いで、織田徳川側が野戦陣地と鉄砲を組み合わせて、攻めてくる武田勢を迎撃して、勝利をした、というのは、 信長公記、三河物語、甲陽軍鑑、などにあるように思うけど、一次資料だと、ここら辺は伺い難いように思うけど、どう? >>529 実際細かい部分とかはほとんど検証不可能で、そういう風に伝わってるみたいな感じになってると思うが。 >>530 実際一次史料からはわからないからいろんな説が出てるでしょ。 鉄砲活用は細川などから鉄砲集めていることとか陣地築いていたことは発掘からある程度は裏付け取れるけど。 まあ一次史料だからって絶対に信用できるわけじゃないけどね、 戦果誇張が普通にあるから。 >>531 どうかなあ?何のかんのと、日本古代史の研究って、日本書紀とかを基にして、 色々進められてるように思うけど。 >>532 長篠の戦いについては、>>530 にあるように、概ね信長公記、三河物語、甲陽軍鑑、などを基にして、 鉄砲と野戦陣地を組み合わせて、攻めてくる武田勢を迎撃して織田徳川側が勝利した、っていうのが、 主流イメージに思うけど。 この主流イメージから大きく外れた主張って、あったとしても、極めてマイナーなんじゃないかと思うけど。 >>531 ついでに、中国の歴史書関係については、例えば史記や三国志については、 後世の学者が詳細な検証や研究を行って注釈を作り、 それを基にして、また後世の人々が研究を行い、という感じで、 研究が進められてるように思うけど。 僕自身としても、できる事なら可能なだけ一次資料を基にした方がいいとは思うけど、それじゃわからない事、わかりにくい事もあると思うし、 一次資料だけじゃわからない空白を埋めるのに、二次資料は何のかんのと使える事もあるんじゃないかな、と思う。個人的には。 菅沼って呼ばれてるやつだろ、こいつ 中身なんもない まあなんら主張もせず「二次史料だから~」というやつよりはましかもな >>536 またそうやって菅沼認定?僕は菅沼なんていう名前じゃないし、>>362 にもあるように、 君こと菅沼認定厨さんは、ワッチョイスレとかで、特徴がバラバラのように思われる人々を何人も菅沼認定して、 その矛盾に答えられてなかったように思われる事や、 そう言ってる菅沼認定厨さんご自身が、IDコロコロや他人を装う事をしている可能性が高い事を、 指摘されていたように思うのに、それでもまだ君は菅沼認定に固執しようというのかな、と思うんだけど、どうなの。 僕の論旨について、そのように書くなら、ちゃんとどんな論拠や理由でそう書くのかを、 ちゃんとした論旨で書いて欲しいと思うかな。 >>536 まあ、君が菅沼認定厨さんかどうかは、とりあえず置いておくとして、 僕の論旨について、言いたい事があるなら、>>537 にも似たような事書いたと思うけど、 論旨でもって話をして欲しいと思うかな。でないと、議論的な話合いにならないと思うので。 >>538 菅沼認定なんてしてないよ だいたい菅沼って誰だか知らないし でも、君がいろんな人に菅沼だって言われて、むきになって中身のない全レスする「他称菅沼」なのは事実だろ? こっちは史料と傍証挙げて、乙夜之書物でソースが明記されている箇所は一定の信憑性を考えていいんじゃないかと具体的に主張してるんだよ 具体的な反論が誰からも示されないもんでぴえん状態だがな まあつまり、史料読める人間がいないんだろう よそではたまに史料読みの人が出てくるんだけどなあ >>539 だから、僕の論旨について、そのように書くなら、具体的にその理由を説明してくれないと、 話し合いにならないと思うし、それこそ、レッテル貼りというしかないと思う。 >>537 にもあるように、僕だけでなく、幾人もの人々が菅沼認定をされていて、 その矛盾について、菅沼認定をしている人は、ろくに答えられてないように思われる事も、 君は考慮をした方がいいと思う。 乙夜之書物については、僕は正直そこまでの興味がない、という感じかな。 ただ、二次資料であるという事だけで、>>502 の人とかが否定しようとしてるように思え、 それには異議を唱えた、という感じかな。 僕はその論旨に基づいて、>>530 >>534 などでは長篠の戦いなどを事例にして、 二次資料に基づかないと、主流イメージを構築するのが困難な場合もある、という事を説明してるように思うけど、 それを君がそのように書くなら、具体的な論旨でもって反論をして欲しいと思うかな。 この反応、まさか本当に菅沼だったのか 意外だ完全に別人だと思って ノブの人間関係構築は一方的だからな 浅井には北近江を任せてたのに何が不満だったんだとか言ってるし、荒木や松永にも似たようなことを言っている 彼らからしてみたら信長に従う前から自分で切り取った土地なんだがって言いたいところだろう >>539 どう考えてもあなたのやり口が汚いからだよ >>541 >>542 また変な事書書かれてるように思うけど、僕は>>537 にもあるように、 菅沼とかいう名前じゃないよ。 そもそも、>>362 に似た事書いてあるように、 菅沼認定をしている菅沼認定厨さんと思しき人は、 ワッチョイスレにおいて、僕とまったく特徴の違うように思われる、 複数の人々を菅沼認定して、その矛盾に答えられてなかったように思うけど、 それでどうやって僕を菅沼認定するのかな、と思う。 さらに言うと、これまた上記362に似た事書いてあるように思うけど、 菅沼認定厨さんと思しき人が、ワッチョイスレにおいて、 IDコロコロや他人を装う事をしている可能性が高い事を指摘されてたように思うけど、 それでそんな事を書くのはどうかと思う。 >>1 テレビや雑誌本に引っ張りだこの明智子孫 司馬遼太郎の人気作家を巻き込んでやりたい放題 はじめは明智光秀子孫は >なぜ先祖はいじめられたくらいで謀反を起こしたのか。 その疑問は若いころの私をずっと重苦しい気分にしてきました。 と同情票を買うものの結局は信長や蘭丸を叩きまくり光秀を上げまくるだけ そもそも明智光秀はいなくても信長は上洛して天下を取っていた 信長は数万の兵力を持ち明智光秀は領土も持たずにいた 光秀が始めて領土を手に入れたのは蘭丸父のかたき討ちの比叡山延暦寺の焼き討ちから ここで初めて光秀は信長に認められて坂本城をたてる その後にいろいろあって本能寺の変なわけだが 光秀は信長の意向を確かめてその通りに動いて機嫌を取っていた だから信長は光秀の事を大切にした 反面、佐久間などは古参ということでの信長に反論し意見しいろいろと自分勝手に動いていたので追放された 明智子孫はやりすぎだ 特にwikiで見てもわかるように妄想黒幕説が大すぎ これはただの妄想の発展系にすぎないのにあたかも真実であるかのように語られる 反面、真実と思われる本流が明智子孫によって傍流に押しやられている始末 挙句に史料さえ読まないチンピラがそれに乗じて大暴れする始末 乙夜之書物にはほかにもソースが明示されているところがある 前ページの写真が新聞社のサイトにないから詳細は不明だが、「進士作左衛門二代目作左衛門に常に語りたるとて我等(私=関屋)に語る」とあり、後段には斎藤内蔵助一万五千石とか重臣の石高が列挙され、「同人語る」と記載されている 作左衛門含む進士氏については前もどこかで挙げたが、ttps://www.bimikyushin.com/chapter_3/03_ref/shinji.htmlという料理?サイトが詳しい 進士藤延がえーろくの変を生き延びて光秀になった説を肯定しているのが玉に瑕だが、「御成」説などは興味深いし、通説では光秀と作左衛門は叔父と甥の関係である 山崎で光秀と落ち延びた七騎の一人、作左衛門は細川、前田家に身を寄せている(一応言っておくと関屋は加賀藩士の軍学者) 何が言いたいかって言うと、これまで記した人物も作左衛門にしてもソース元が光秀にとても近いんだよ そこら辺をどう考えるのか それとは別に、進士氏は幕府有力守護に仕えて将軍を「御成」饗応していた家で、関係の深い光秀が安土饗応を最初任されたという上記サイトの指摘は興味深いので一読あれ >>548 出たよ、チンピラが お前こそちゃんと信長公記くらい目を通して置けよ >>547 特にwikiで見てもわかるように妄想黒幕説が多すぎ に訂正 しかしどうして信長を裏切っただけの武将の明智信奉者がこんなに態度でかいのやら マジでありえんよな 菅沼、勝頼スレ時代から変わらんなほんと >>37 >>40 あれ?今度はその人が菅沼なの? 菅沼っていう認定は、ワッチョイスレでも、 菅沼認定厨さんに菅沼認定をされた特徴の違う何人もの人々がいると思しき事、 その矛盾に菅沼認定厨さんが答えられてないように思われる事、 菅沼認定厨さん自身がIDコロコロや他人を装う事をしている可能性が高い事、 とかを指摘されていたように思うけど、 それで菅沼認定してもしょうがなくない?と思うんだけど、どうなの。 >>540 菅沼 お前に資料なんか関係ないだろ 勝頼スレのときみんなに指摘されたら いつも長文で胡麻化してただけやん しかも間違い指摘してくれても長文ごまかししてたし おや、なんか菅沼認定厨さんの書き込みが来てるね。 >>554 具体的に何のこと言ってるの?また>>545 にあるように、僕と違う人を菅沼認定して、 その所業を僕に押し付けようとでもしてるのかな。 そんな事をされても、僕には困惑しかないので、君がそんな事を書くなら、 まずは上記545にあるような、菅沼認定の矛盾をはじめとして、 君に聞かれている事を答える事から始めて欲しいと思うかな。 >>553 実際に、君こと菅沼認定厨さんと思しき人は、上記545にもあるような、 菅沼認定の矛盾にろくに答えられてないように思われるのに、 そんな事を書いてもしょうがないと思うんだけど。 そんな事を書くなら、是非とも僕から聞かれている菅沼認定の矛盾について、 答えて欲しいと思うかな。 >>552 上記にあるように、僕は菅沼とか言う名前でもないので、君にそんな事を指図される筋合いもないし、 君がそんな認定をするなら、上記545とかにあるような、菅沼認定の矛盾とかについて、 ちゃんと答える事から始めてほしいと思うかな。 >>554 ついでに、僕は君が書くような事をした覚えは特にないけど、 君がそんな事を書くなら、何の話題について語りたいのか、 是非とも提示をして欲しいかな。 君が議題を提示するなら、ここで論旨をもって話をしたって全く問題ないと思うんだけど。 君がそんな事を書くという事は、君は論旨でもって僕に対して、 議論的に勝利する事が可能だと思っているように、僕には思われるので、 それなら、ここで議論をする事に特に問題はないと思うんだけど。 >>332 の二つ目の >>>319 は >>311 、の間違いなので、遅くなったけど、修正をしておく事にするね。 見返してみて、気が付いたので、修正をしておく事にするのでよろしく。 国盗り物語 NHKニュース 2024年4月24日 5時48分 戦国武将、織田信長の義理の父にあたる斎藤道三が、信長について「若造で至らない点もあるが末永くつきあってほしい」と近隣の領主にお願いした書状が見つかりました。専門家は「道三が信長のことを気にかけているとわかる貴重な資料だ」と指摘しています。 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240424/k10014431231000.html read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる