【黒衣の宰相】政僧について考えてみる【師匠・外交僧】 [無断転載禁止]©2ch.net
徳川の天海や崇伝、毛利の恵心や恵瓊、織田の沢彦や日乗、
伊達の宗乙、今川の雪斎など大名に関わった僧は多数いますが
それら僧について色々と考察してみましょう 安国寺恵瓊って、秀吉を「さりとてはの者」っていう評価する一方、日乗を「太公望」と評価してたらしいな
全然慧眼じゃないじゃん 神龍院梵舜って豊国神社再建を断られて家康呪詛したとか言う僧か 西笑承兌か?居たよ。
確か冬の陣の頃豊臣と徳川の間の使僧だったりした人。 筥崎座主の安武方清は、立花ギン千代の異父兄で立花家に色々協力してたらしいが
大僧正になった後で、筥崎を出て柳川に行って立花家臣になったんだったかな 家康の政僧だが天海や崇伝に比べ
三要元佶がいまいち影が薄いのは何故だろう >>8
やっていることが朱印状の発行とかいまいち地味だし
なにより大坂の陣前に無くなっているから
見せ場が無いからじゃないかな 寿桂尼とか北政所、慶ァ尼、常高院など夫の死後出家して
色々と政治に影響を残した尼さんも一種の政僧なのかな >>3
自分に好意的に接してくれた相手を持ち上げただけでしょう
関ヶ原での行動を見ても、その人物はしれているだろう 天海は蘆名氏、崇伝は一色氏、恵瓊は武田氏、
雪斎は氏親の息子説があるし、政僧言われる人は
血筋がいい人が多いのかな? 今年名を売った田中さん
今までは信玄と信廉の区別がつかなかった人に過ぎなかったのに 沢彦とか信長の師匠とか言われているけど
岐阜の命名くらいであまり有名な逸話が無いな
快川紹喜と兄弟の契りを結んだとかも言われているけど
実際どうなんだろう >>11
彼女達は大名の妻や身内という特別な「御家の女主人」というべき人だった上に才覚もあったから
政治に采配を振るえたので、ただの縁も無い尼僧ならあんな事は不可能に近いし実例もない。
これは彼女達の立場が為せる業。己の才覚と影響力で大名に関わった政僧達とはちょっと違うような。 政僧とは違うかも知れないが方広寺の鐘銘を書いた文英清韓、
加藤清正の祐筆だったらしいが、加藤家を豊臣家につなぎ止める為に
選んだのかなぁ、やぶ蛇になったけど
ただ大坂の陣のあと拘束されたけど、家康の死後羅山らの取りなしによって
許されているんだよな 幼少時僧に教育を受けた戦国大名って
結構いそうだし、影響力が大きいのも
仕方ないかなって感じだな >>19
今川義元、徳川家康と雪斎の関係もあるな。
僧侶は読み書きがができるから、教育者でもあった。これは、ヨーロッパでも同じで修道院が大学の元になってる。 若い頃の家康に影響を与えた僧侶だと登誉天室ってのもいるみたいだけど
いまいち事跡が分からないな >>23
家康、一生かけてその目標を達成して戦乱を終わらせたからな。 >>20
それこそ松平家は超誉存牛とか輩出してるからな
豊臣政権以降家康は京での貴族や文化人とのコネクションを強めて結果的に天下人に近づいていくけど、こういう下地になった可能性は間違いなくあるだろうね 大樹寺は、征夷大将軍寺の意味で、ご先祖は子孫から将軍が出ることを祈願して建立したとか。
将軍家菩提寺を領内に持った藩主も大変だったろう。 登誉は桶狭間後に大樹寺が織田軍に囲まれた時に家康と共に戦ったんじゃなかったっけ? >>27
>登誉は桶狭間後に大樹寺が織田軍に囲まれた時に家康と共に戦った
これってなんて史料に出てくるの? こんど始まった大河だと南渓瑞聞あたりが活躍しそうな感じだね 沢庵宗彭とか創作もので結構持ち上げられている僧だと思う 戦国大名の中で早雲や信玄、謙信みたいに出家する人と
氏康や元就みたいに出家しない人の違いは何なんだろう 自らの所業に何か自責や後悔がある人は出家するっていう何の根拠もない物凄いざっくりしたイメージ 氏綱みたいに弟の幻庵とかを出家させて
当主である自分は俗人のままでいるとかは 毛利家の政僧と言えば安国寺恵瓊が有名だけど
その師匠で骭ウが深く帰依していたと言われる
竺雲恵心は毛利家にどの程度政治的影響力があたんだろう >>21
創作物だと家康は雪斎の薫陶を受けたことになっている物があるけど
実際はどうだろう
研究者では受けた派と受けなかった派だとどちらが多いんだろうか 家康再建の臨済寺に竹千代手習いの間が有るんだよな。
家康としては雪斎の思い出が有った感じだ。 >>37
片岡愛之助の番組で見たな。絶対ウソだと思ってるw 板部岡江雪斎さん
姪は徳川頼宣 徳川頼房を生んだお万の方 関与の度合いはその御家によって違うけど
室町戦国江戸と当主が僧にアドバイスを受けることは多々ある >>36
薫陶はともかく三河に対しては関与してる雪斎は 若き日の信長を見て
「あれこそ国を持つ人よ」
と評した筑紫の僧侶は慧眼だった。