【文禄慶長】 秀吉の朝鮮征伐スレ7 【壬辰倭乱】 [無断転載禁止]©2ch.net
当時の西欧は日本を利用して明を征服する気満タンだったのだから
うまく立ち回れば唐入りは成功してただろうに
朝鮮経由せずに寧波経由でよかったんや 故に朝鮮水軍ですら日本水軍に太刀打ちできた。
日本も朝鮮・明も軍艦の設計はそんなに変わらずまた航海技術もそこまで変わらなかった。
日本が明に直接攻撃できていればまた歴史は変わっていたろうに。 とりあえず朝鮮半島南部を支配で明と和睦しておけばよかったな。ホンタイジが攻めてくるだろうが、大量の鉄砲で追い払えるだろう。 明と朝鮮の要求は半島からの完全撤退だからな。
既に交渉にならん。
朝鮮人捕虜を売ったって何にもならんし、其の内日本人を売るようになって反乱が起きるのは目に見えてる。 人狩りはコスト最悪だよ
アフリカ奴隷は現地の王が自国民を売り飛ばしたから短期的なコストに見合った(長期的はもちろん亡国 朝鮮には搾取する富すらなかった
明や元が朝鮮を併合しなかった理由がそれ。 朝鮮末期の古写真見てものすごく貧しい国であることがわかる。
山の木々は乏しく雨量も少ない、産物もない寒冷地。
ホンタイジのように首都を陥としてすぐに帰国すれば良かったのに。 秀吉が死んだ頃、在朝鮮の日本軍は六万五千くらい。
海岸付近に築城された城に配置されていた。再攻勢の拠点やね。
健康が回復したら秀吉は、自身が直率する休養充分の大軍をもって、
再進攻するつもりだったと思う。再征を決めた当初の予定では。
ただ健康が不安になり、秀頼可愛さで忘れてたかもしれないけど。
何が言いたいかというと負けてるとか苦戦しているという意識は、
少なくとも秀吉にはないということ。従う将兵はやる気ゼロだと思うけどね。
戦い続けることに疲れ果ててたと思う。信長に謀反を起こした明智みたいに。
朝鮮の役は途中で一方的に国内事情で停戦になった戦争だといえる。
だから勝ち負けの判定が難しいと思う。戦争目的は達成できてないけど
明・朝鮮軍に負けたという意識もないと思うね。実際負けてないし。
荻生徂徠は、軍事教練の練度の差で負けたと読み代えて警世の書を
書いたみたいだけどね。 中学校の教科書見てみたら李舜臣と活躍と明の援軍によって敗勢となったと書いてあるよ
後者はともかく前者は無関係なんでしょ? 文科省はなにやってるのかな?
ちなみにウィキペディアの記述は負け惜しみみたいで笑える >>100
同時に蝦夷地、樺太、千島攻略を進言すればよかったのに
2方面からの大陸侵攻なら反対しない パク・ヘイル、ピョン・ヨハンら共演 閑山島海戦を映画化した『ハンサン』日本公開へ
https://realsound.jp/movie/2022/12/post-1214839.html
また歴史捏造のオンパレードかな 本格的に日ノ本の外に派兵するなら、まずは実地調査だろう。
スパイを送り込んだりして、調略したり、地形調査だったり、国土の大きさだったり、
後は、水軍の編成強化。派兵するなら蝦夷地が一番いい。日本列島の首にあたる部分だから、
ぜひとも当時から確保する必要がある。 婦人公論2023年04月27日
文禄・慶長の役で秀吉率いる日本軍を苦しめた「亀甲船」はどれだけ強かった?13門の大砲を装備したという戦闘力を技術的に解析する
日本史サイエンス弐
播田 安弘
https://fujinkoron.jp/articles/-/8336 https://twitter.com/take_nakanishi/status/1653374966212218883
中西豪@史道不覚悟
@take_nakanishi
「どれだけ強かった?」という疑問に対しては、それほど強くはなかった、緒戦の奇襲効果はあったけれど、
と言う他ないかなあ。その隻数は最大戦力期の李舜臣艦隊の大型軍船の一割も占めない。本来砲甲板に
あたる上甲板に蓋をしてしまったので砲煙が船内にこもり、継戦能力が低かったから……
火力戦を重視する朝鮮水軍は増備を見合わせたのでは、という推論もある。上甲板に被せた「屋根」には
鉄錐を植えて日本軍得意の移乗白兵戦を防いだ。その上で先鋒となって日本船団に入り交じり周囲を
砲撃する戦法で確かに緒戦では戦果を上げている。ただ、その「亀甲」は強固な装甲ではなかった……
……ようで、釜山浦襲撃時に先鋒の亀船に座乗した鹿島万戸・鄭運は船外に身を乗り出して指揮を執っていたが
負傷して船室に運び込まれたところに貫通してきた砲弾(朝鮮側の観測から推測すると百匁玉の大鉄炮相当)に当たって戦死している。
朝鮮固有の大砲(銃筒)は鋳鉄製か鋳銅(青銅)製の前装砲です。仏狼機は来援明軍が大量に持ち込み、戦後朝鮮軍の正式装備にもなりました。
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 独立した砲甲板を持たず、櫓の間に配置せざるを得なかったからこの数となるのでしょうね。
史料から確認できる搭載砲は玄字銃筒、和砲の一貫目筒よりちょっと小さいくらいのものでしょうか。
朝鮮水軍の艦載砲は最大のものが一貫五百目筒相当の天字銃筒ですね。次いで地字、玄字、黄字銃筒となります
(上で玄字銃筒としたのは地字銃筒の間違い)。黄字銃筒は西欧のスイベルガンにそっくりです。粗雑な鋳造砲ですが
近接砲戦で当初は大口径火器を持たぬ日本水軍を圧倒しました。
確か『宣祖実録』にはそのような砲配置の説明があったように記憶します。船首の龍頭の口中では硫黄を燃やして
威嚇効果を狙ったという説もあります。 中西豪@史道不覚悟
@take_nakanishi
ネット界隈を中心に嘲韓史観からの亀甲船非実在説が蔓延する中で「亀甲船はあった」と明言し、
その実態を究明しようとする姿勢は好感が持てます。でも金在瑾『朝鮮王朝軍船研究』は朝鮮在来型船舶の
研究とかけ離れた推論で亀甲船を復元しようとするところがあり、それに依拠するところで危うい……
現代韓国で復元された「亀船」(コブクソン。「亀甲船」はもっぱら日本で通用する俗称)が浮かばなかったり
燃えたりするもので嘲笑され、その存在自体も疑問視されてしまう。しかし「明・朝鮮の同時代史料にも見えない」
などというデタラメをその根拠として吹聴し、それを信じて拡散する輩が多いのは… 一応備忘録的に転載させてもらった
しかし、自分が未だに2ちゃん(5ちゃん)に入り浸ってるからだけかもしらんが、亀甲船非実在説なんて唱える奴がいんのか?
「ネトウヨ」の定義はともかく、ツイッター界隈だとハン板出身者も多いから、そういう史実完全無視の態度とるやつが多いとは思えん・・
というか世の中が若い人に入れ替わっただけか それと日本側の日記や軍記物なんかの記述だと、例のいい話悪い話スレまとめなんかにも書いてあるが
金属弾丸砲よりは棒火矢的な将軍箭の被害を述べてるような気がするんだけどね
そこらへん宇田川含めてきっちり研究した人いるんだろうか まず、李舜臣の自筆陣中日記『乱中日記草』にその建造経緯、操練の様子が書かれている。柳成龍『草本懲毖録』、
王朝の正史的な『宣祖実録』にもある。明との外交文書を収集編纂した『事大文軌』には講和交渉期間中に朝鮮水軍は
5隻の亀船を保有していたことを明に報告する文書が収められている。 李朝実録における亀甲船の構造
李朝実録宣祖25年5月
舜臣大修戰備,自以意造龜船,其制船上鋪板如龜,背上有十字細路,纔容我人通行,餘皆列?刀、錐。
前作龍頭,口爲銃穴,後爲龜尾,尾下有銃穴。左右各有銃穴六,藏兵其底,四面發砲,進退縱橫,捷速如飛。
戰時覆以編茅,使錐、刀不露,賊超登,則?于錐、刀,掩圍則火銃齊發。橫行賊船中,我軍無所損,
而所向披靡,以此常勝。朝廷見舜臣捷報,賞加嘉善。 使える兵器なら敵味方関係なく鹵獲兵器として使ったりコピーしたりと多用されるはずだからねえ
実際日本側は鹵獲した大砲を流用したりしている >>126
そもそも中西豪は自虐史観の持ち主で
以前の朝鮮征伐ものではそら卑屈な言説を
垂れ流していたりしたもんだけど
最近は、狂った韓国朝鮮に多くの日本人が抵抗
するようになり、半島絡みでも自由に発言できるようになったけど、そしたら中西豪も卑屈な言説を垂れ流してたのに
朝鮮征伐の1人者かのように振る舞い出して
明朝鮮ヨイショを減らしたりして高説垂れてる
こんな日和見で姑息な人物を参考にするのは
流石にNG 「倭城」はまだ適切で短い用語がないから自分も使ったりするんですが、朝鮮の役を「壬申戦争」「倭軍」と書いちゃう向きは何考えてんだ?
自分でレッテル貼った「ネトウヨ」とやらをバカにするのは結構だが、そんな相手に阿った態度でまともな論考ができると思うなよ
・・というか結構いるなそういうタイプ、朝鮮半島よりは中国史系の方に
考古学界隈だと「韓半島」表記の論文よく見かけるな
あっちは遺跡・古墳出土品の研究で付き合いあるのも理由だが何も考えてなさそうだ 「倭城」はまだ適切で短い用語がないから自分も使ったりするんですが、朝鮮の役を「壬申戦争」「倭軍」と書いちゃう向きは何考えてんだ?
自分でレッテル貼った「ネトウヨ」とやらをバカにするのは結構だが、そんな相手に阿った態度でまともな論考ができると思うなよ
・・というか結構いるなそういうタイプ、朝鮮半島よりは中国史系の方に
考古学界隈だと「韓半島」表記の論文よく見かけるな
あっちは遺跡・古墳出土品の研究で付き合いあるのも理由だが何も考えてなさそうだ 最終的に失敗するとしても中国が護っている城や関を豊臣軍がどうやって攻略するか?は知りたかったな
中国史クラスタは無理だと考えてる人が多いと思うが
中国のは対騎兵や遊牧民を想定した軍備で日本式の鉄砲と歩兵の編成は想定してないだろうから
長い城壁は歩兵の大軍には弱い
草束とかで埋められて簡単に乗り越えられる 朝鮮すら征服できなかったのに明に攻め込む妄想しても無意味だと思うが 亀甲船てはなく亀船な
とある兵器が有力なら敵も味方もコピーして量産多用する
ミニエー銃に対するエンフィールド銃のように
そして亀船はそうでは無かった >>138
付け加えておくと、
慶長の役終了の時点で、朝鮮側は崩壊する寸前だった
朝鮮の大臣たち自身が、あのまま日本軍が半島に駐留していたら
もうなんの打つ手もなかったと発言してる
日本軍は、別に明軍や朝鮮軍に追い落とされて撤兵したのではない
ところは絶対に抑えておきたいポイント 日本にも厭戦ムードが相当広まっていたから秀吉の死はちょうどいい頃合いだったのかもな 北島万次氏の著作読んでるんだけど
三成・行長と並んで
寺沢広高が清正・長政の諸大名からボロクソに言われてて笑える。 慶長の役が終了した時点で
日本軍は戦略的・戦術的目標をすべて達成していて
翌年には朝鮮国の首都への大攻勢の予定があった
対する明朝鮮軍は11万人以上を動員した大攻勢をしかけたが
すべて敗退して、人員もなく兵糧もなく、
秀吉が亡くなった後も、もしあのまま日本軍が駐留していたら
もうなんの手立てもなかったと朝鮮の記録に記されている
戦略も戦術も進退も完全に日本が
イニシチアブをとっていたので、この状態においての
戦争の終了の状況を日本が負けとの表現はまったく正しくない
指導者が亡くなったので戦争終了が正しい
(同じ例としてモンゴル帝国の欧州遠征等がある)
当時の明将・麻貴の発言にも日本軍が引いたのは秀吉が死んだからとある
日本軍にまったく対応できずに、終戦まで翻弄され続けているのがわかる 豊臣軍VS明軍の対戦表↓
明軍が関わった数万単位の合戦で、明確に明軍の勝利と
言えるのは第二次平壌攻めくらい(おまけに不意打ち)
第一次平壌の戦い(日本勝利)
第二次平壌の戦い(明軍勝利 勧告により小西が城を明け渡す)
碧蹄館の戦い(日本勝利)
稷山の戦い(日本勝利)
南原城の戦い(日本勝利)
第一次蔚山(日本勝利)
第二次蔚山(日本勝利)
泗川 (日本勝利)
順天(日本勝利)
露梁(引き分け)
露梁について補足。
明軍、朝鮮軍、日本軍の2倍の兵力&待ち伏せの好条件ながらも
小西軍、島津軍を殲滅できずに取り逃がす。
朝鮮軍主将の李舜臣が戦死 明軍副将のケ子竜が戦死。 フロイス日本史には「日本人はシナ人よりも勇敢で、 武器ならびに戦術の点で優れており、 数々の面でシナ軍の劣勢は疑えない。」と日本軍の戦闘力を評価している。
戦闘では明軍より強かった日本軍だがフロイス史には文禄の役での日本軍の死者は殆どが病死、餓死、凍死とあるように1回目の文禄の役ではリサーチ不足により兵站や防寒対策がしっかりしておらず戦闘以外で大量の死者を出したそうだ。
2回目の慶長の役ではその辺しっかり対策して明軍相手に無敗。 第一次蔚山城の戦いで朝鮮の記録によると落城寸前に残ってた日本軍の兵力は3000ほどらしい。
平壌奪回前の報告では小西軍15000をは5000-6000と報告してるので明や朝鮮では非戦闘員は兵力としてカウントしないのだろう。
当時の戦国時代の編成は10000人の軍勢がいたとすると40%〜60%は非戦闘員。
とすると第一次蔚山城の戦いの10000人の内兵力が5000ほどだとするとこの戦いにおいて2000の兵力の損失か。 日本戦史・朝鮮役や壬辰戦乱史によれば記録上の明軍の兵力は基本的に戦闘員のみの数字でその補給や給養(人足や駄馬)には朝鮮の官民が動員されたとのことらしい。
碧蹄館の戦いにおいて日本軍は2万と言われているが懲録に書かれてる日本軍は2万ではなく半分の1万余りとある
平壌の戦いにおいても小西軍は15000とされているが宣祖実録による平壌奪回前の報告では5000-6000と報告している。
日本軍の数は軍役上の数字で実際の戦闘員は40%から60%程度。
明や朝鮮は基本的に戦闘員以外兵力としてカウントしてないと考えたら正しい数字かも
明や朝鮮と同じように日本軍の兵力(戦闘員)を計算すると
平壌の戦い7000
碧蹄館の戦い10000
稷山の戦い2000
蔚山城の戦い5000
第二次蔚山城の戦い5000
泗川の戦い7000
順天城の戦い7000
となる 日本軍は戦闘以外の病死や凍死や餓死もあるので実際に戦った戦闘員はもっと少なくなると思う 恐ろしく杜撰にみえる兵站線
来てる服も凍る極寒の大地
しょうもない嘘を重ねる対馬の大使
あの秀吉が用意した戦争とは思えない残念な結果に… 信長も殺されるほどの下克上が大正義の時代だったから、天下取ったら取ったで、常に部下の謀反におびえてる状態になる訳だろ
その板子一枚下は地獄という恐怖を考えたら、外敵を作りたくなるのはわかる WW2の米海軍の雷撃機乗員が「魚雷投下までは私は海軍のために戦うが、魚雷を投下したら自分のために戦う」などと言ってる
魚雷を投下し任務を終えたとたんに恐怖心にとらわれるらしい 戦争は凡ゆる手段を使って回避すべきもので最悪なのは戦争のために戦争すること。秀吉が唐入りを志した時点で失敗は決まっていた