川中島合戦の真実 [転載禁止]©2ch.net
戦国時代の超有名な上杉謙信と武田信玄の戦いです。
でもこの戦いには実は謎が多いです。
啄木鳥戦法は本当にあったのでしょうか?
第4次川中島の戦いについては甲陽軍鑑くらいにしかこの合戦のことは載っていないとも言われています。
改めて川中島合戦についてみなさんで検討してみましょう。 原文を知らずにショボイ本に書かれている出典元を鵜呑みにしてる素人が最近多過ぎ。
織田厨とかのせいでレベル下がりまくりで困ったもんだ。 お前が蘆名との共同作戦は妄想とか言ってたの分かってるからね
もう恥の上塗りするの止めたら? >>166
だからさ、蘆名との共同作戦があったとの根拠を早く証明してみろよ笑 いちいちアホだのカスだの付けないと書き込みできないんだね
下品だね 武田信玄は2回くらい大河になってるが
上杉謙信やら北条氏康はなんないなw 第4次川中島の戦いでの真田幸隆の役割について教えてください 上杉軍が妻女山の上に陣取ったっての疑わしい気がする
糞小便の処理、水の確保、飯を炊くための薪の確保
これらの問題を解決する方法がないと山上に陣取るのは危険なんだが 兵法では「高きにおいて低きを攻めれば、その勢い一瀉千里の如し」とされ、水断ちされても山上から勢いをつけて平地の敵を打てば良いとされた。 とりあえず高所を取れはWW2ですら有効だった基本中の基本 >>176
孫子の兵法九地篇にある「これを死地に陥れて然る後に生く」という兵法の応用。 176です、確かに兵法とかだと高所に陣取るのはいいとされているけど
丘みたいな大軍勢が一気に下りれる高所ならともかく日本の山みたいに木が林立していて
一気に下りれない山だと難しいのではないかと
関ヶ原の時毛利軍が南宮山の上に陣取ってるのを見て本多忠勝があいつらは戦う気がないと諸将に言った話や
三国志の街亭の戦いで蜀の馬ショクが山の上に陣取って水断ちくらって大敗した話とかでそう思ったので
まあ、関が原では松尾山の小早川軍が山から駆け下りて大谷軍殲滅してるのでケースバイケースなのかもしれませんが 続きです
水断ちされても高所から一気に駆け下りて平地の軍勢を撃つといいますが
川中島の時は結構長期にわたってみらみあってたということなので、それを実行するにはかなりきついのではないかと思うのです
信玄は水断ちしなかったのか?謙信は長期対陣になって水断ちされる危険性についてどう考えていたのか?
歴戦の武将である二人が考えないわけがないと思い、妻女山に陣取ってはいなかったのではと思ったのです
浅い知識で書き込みすみません 妻女山に布陣する時に謙信公が槍尻で岩を突いて湧き水を出すのに成功しており、その湧き水は今でも水が枯れずに湧き出している
妻女山には他にも湧き水がでる地点が何箇所かある >>176
糞小便の処理も出来ない場所だったという根拠は?
水の確保の確保が出来ないという根拠は?
薪の確保の確保が出来ないという根拠は?
多くの合戦で本陣は定石通り高所に置かれているわけで
妻女山では例外的にそれが出来ないという根拠を示してもらわないと突っ込み所が多すぎて煩雑になるので
議論を集約するために要点の根拠となるものを提示してもらいたい >>183
水に関しては182で破たんしてますね、薪、糞尿ともに根拠と呼べるものはないです
全軍が山頂に布陣していたと勘違いしていたのかもしれません
今後は私の発言はアホのたわごととスルーしてください
すみませんでした http://ninkyou.blogspot.jp/?m=1
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画像を御覧くださいませ!! まぁ色々私案出すのは良いことだよ
山に関しては、当時はほぼハゲ山だったんじゃないの? 職場の38歳×1の女が、
「出会いはあるけどろくな男がいない」
「再婚したら仕事辞めて専業主婦になりたい」
って言ってました。 きつつき戦法なんてあるわけないじゃん
いくら昔でレーダーがなくても何千人もの兵隊が動いたら、気が付かないわけがない
そんなの昔も今もいっしょ。むしろ昔の方が静かだから、ばれないわけがない まー川中島みたら武田騎馬隊はいなかったってのがよく分かるよね
使い道がない まあ、戦うときは降りて戦うみたいだねえ
移動するときは馬に乗ってかっこよかったんじゃね? 川中島の戦いだけなら、信玄の完全勝利じゃね?
だって北信濃の、今の長野市あたりの領有権をめぐって
戦ったんだからさ 被害は大きくとも、北信濃を領土にした信玄の勝ち うん、信玄の勝ちだね
謙信は信玄の裏をかくのに成功した
だが攻め切れなかった
結果、信玄の粘り勝ち 第4次のこと?
あれ戦闘では実質謙信が勝ったじゃん。 >>198
主戦場から追撃受けながら撤退したのを、勝ったとは言わないやろ。 武田は山本勘助や武田信繁など名のある武将討ち取られてるやん 武田信繁なんか豊臣政権での秀長のポジションだしな
ナンバー2だもんね 戦争の勝ち負けの判断基準は「損害の多寡」ではなくて、「目的を達成したかどうか」。
武田軍は大損害を受けたが、戦後も善光寺平を支配していたから、戦略的には勝利。
信玄に「越後侵攻なんてとても無理」と理解させた謙信にとっても戦った甲斐はあった。 目的達成だったら決戦志向の謙信が信玄に痛打を与える目的を達成したから謙信の勝ち
水掛け論まだやる? 目的達成基準だから、「両方勝ち」「両方負け」も有り得る。両雄の内心は推測するしかないけど
欲張った願望では「信玄を討てなかった謙信の負け」と同時に「越後征服を断念せざるを得なかった
信玄の負け」だったかも知れない。
関東志向の謙信にしてみれば、以後は信玄が南進・西進に転じて、信越国境から春日山を直撃される
脅威を排除できたから、こっちも戦略的には勝ちは勝ち。「信玄に追われた信濃国衆を助ける“義”の
戦い」なんて後世の謙信ファンが信じた精神論的解釈は別にして。 謙信「今回の威嚇合戦はこの辺ええか、そろそろ帰ろ。下山するで」
信玄「そろそろ終わりかな。撤収の準備せえや」
謙信「おっ霧が濃いな、前が見えへんやんけ」
上杉軍の兵士「下山の方向あってるの?逆じゃね?」
武田軍「霧が濃いな、こんな時に兵を移動させるバカはおらんやろ(鼻ほじー」
上杉軍「あっ」
武田軍「えっ」
上杉軍&武田軍「ああああああああああああああああああ」 信玄はともかく謙信は威嚇どころか機会があれば決戦を狙ってるのは書状見れば分かること 第四次で討ち死にした武田家の方々
武田信繁 (武田軍の副将、信繁軍の大将)
武田昌清(諸角虎定、諸角軍の大将・武田信虎時代から唯一裏切らず仕え続け、勇将として飯富と並び称された)
武田信連(信玄の側室・油川夫人の兄、油川信吉=信友の子・武田家一門衆)
葛山安信(信玄の孫・葛山信貞の子)
武田義勝(武田信繁の嫡男・別名は望月信頼=望月軍の大将)
望月盛時(本来の望月家当主、武田義勝の軍奉行)
初鹿野忠次(武田一門衆・小田原城への援軍では信玄代理の大将)
三枝守直(武田家以前の甲斐国主・信玄奥近衆=側近中の側近)
安間弘家 (甲斐&信濃の訴人頭・信玄の相談相手)
山寺信明 (武川衆の一党・武田信繁が旗本)
山本晴幸(山本勘助のモデルで信玄の伝令将校) いっぱい死んだなあ〜〜〜
でも長野市は武田に獲られた
素直に認めればいいのに 和議違反の火事場泥棒で取ったって言ってもね実力ではないな
偽の感状作って誤魔化したくなるほどの敗北だったんだよ 書状の中で越後侵攻に言及してるから信玄の目的は初めから越後だったことがわかる
信玄の誤算は謙信が予想以上に強かったことだろう 武田家と上杉家の直系子孫が対談「父の代で関係が復活した」
2016.07.11 16:00
“越後の龍”、“甲斐の虎”と並び称された宿命のライバルである上杉謙信と武田信玄。今回、両家の直系子孫である上杉家第32代当主・上杉邦憲氏(73)と武田家第17代当主・武田邦信氏(68)の対談が実現した。
「川中島の戦い」から450年の時を経て、“龍虎”が再び相まみえる──。
上杉:私たちがお会いするのは初めてですよね。
武田:本家ではない上杉家の方とお会いすることはあるのですが……。私の父と上杉さんのお父様とは交流があったようです。父は居酒屋で酒を酌み交わした写真を亡くなるまで大切にしていましたから。年賀状のやり取りもしていた。
上杉:父親同士がNHKのクイズ番組『私の秘密』で共演したことから両家の交流が始まったんですよね。その後、私自身も武田さんのお父様と雑誌の企画でお会いして。川中島の一騎打ちの銅像の前で並んで写真を撮りました。
武田:それまでは両家の交流はなかったけれど、父の代で関係を復活させた。
http://www.news-postseven.com/archives/20160711_428666.html
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=125&id=4087893 >>211 謙信をリーダーキャプテンにして、川中島に出場して武田軍を迎撃することは
聖戦ジハードか甲子園出場みたいに、一種異様な盛り上がりを見せているからな。
越後の武将に残った書状では。 >>208 信玄の馬回りや身近な親族などが
討ち死にしているんだね。
これは相当の損害だ。
浅井朝倉追撃戦で、
刀根坂の戦いで朝倉軍を壊滅させたのと匹敵するじゃん。大将は逃したが。 大将は逃したが親族を討ち取ったという点に着目して、他の合戦と比較してみよう。
桶狭間(大将死亡)>刀根坂の戦い(朝倉壊滅)>川中島>姉川の戦い
姉川の戦いでは夜間のうちに山を降りて、暗いうちに織田軍の前面へ展開、
明るくなってから一気に攻めかかっている。織田軍は正反対の横山城へ向いて布陣していたので
織田の馬回り衆(旗本)は後ろの方であり、そこへ浅井軍が夜間のうちに接近してきたから
朝から信長本陣への直接攻撃だった。
川中島では霧が多いそうだから、夜明けで暗いうちに接近して朝になっても霧が濃くて、
思わぬ接近戦の連続になったのかもな。 結局上杉謙信と武田信玄はどっちのほうが強かったんですか? 武田信玄の狙いとしては、武田家は甲斐、南信濃、西上野に領地を広げてきたけれども、大国である北条家の聞こえを計算して、同盟の実を示す為に戦したとも取れるし、
越後の上杉謙信に対して、うちの領土を狙うといっても、互いにズタボロになるから損のほうが大きいですよとアピールする狙いがあったからこそ、親族や重臣を多く犠牲にしても勝負に出る必要があったのだろう 信玄は初めから越後侵攻を明言してて文書にも残ってる
信玄の目的が越後侵攻だったことは明白
川中島地方の確保は越後侵攻の通過点に過ぎない
信玄に痛打を与え越後どころか北信濃突破も許さなかった謙信の勝ちだよ しかも信玄は謙信1人に集中できる情勢だったにもかかわらずだからな
謙信は北条武田一向一揆同時に敵に回してたのにさ 謙信が死んで景勝の時代になるとめちゃくちゃ弱くなったからな上杉
もはや武田勝頼に臣従してたと言っても過言じゃない 謙信が史実でもチートキャラなのは疑いようがない。
謙信さえいなければ、信玄も木曽義仲ルートで越後北陸道制して信長より先に上洛できた可能性はあると思う。
後年東海道を選んだ信玄もたぶんその頃は北陸での勢力伸長を考えていたと思う、東海には今川がいたしね。 >>189
お前都会暮らしか?
田舎の闇夜だと見える要素ないぞ
そりゃ松明焚いてれば見えるかもしれんけども >>208
>>葛山安信(信玄の孫・葛山信貞の子)
ありえないだろ >>212
両者とも「邦」の字を偏諱で貰って通字の上に付けてるかのようなお名前だな ☆ 日本の核武装は早急に必須です。総務省の、『憲法改正国民投票法』、
でググってみてください。現在、衆参の両議員のそれぞれで、改憲議員が
3分の2を超えています。私たち日本人の、日本国憲法を改正しましょう。
憲法改正国民投票法、でググってみてください。お願い致します。☆☆ まー殆ど意味ないからね
海津城が出来た時点で川中島の戦う理由はなくなった
むしろなんで第四次が激戦になったのか?
上杉サイドが海津城を攻め落とすのが目的ならわかるが、そうじゃないしね
武田が西に方針転換して武田と上杉の争いがなくなったと言うが
こんなもん上杉からしたら武田との戦争を辞める理由にならんのね
むしろ北長野の取るチャンスなわけよ
つまりね1560年前後に武田が海津城を作りましたで終わる話なんよ
教科書にはいらん 武田にしてみれば北信の領土が取れるわけでなく毎度毎度川中島にでばる上杉は意味不明
大義だ越後防衛だか何だか良くわからない
(このレベルの武将としては)外交下手戦争下手
武田は北信への勢力を排除して信州手中で既に戦争目的は達成してはいる
しかしだからこそ戦争になる
敵として上杉は怖いから叩き潰したかった武田
外交戦略的にでたらめだが上杉の強さは異常、脅威は取り除かなければ
本当に越後に今回進攻できるとは思ってはいないだろうが
大きく叩ければ越後へ越中へそっからの上洛へ道が広がる
でそのために北条や一揆始め周到に根回し、上杉包囲網
海津城を作り負ける要素は薄い
ここまでやりゃ勝つ見込みは高い
越後を取るぞと檄を飛ばして川中島出陣
苦境に追い込まれた上杉もここが勝負どころ乾坤一擲の大勝負ここで負けられない弱味は見せられない
苦境の時にこそ敵を叩け越後よ結集しろで対陣
負ける要素はないはずの上杉に乾坤一擲の大勝負に出られ思わぬ大苦戦で
以降打倒上杉や日本海進出は完全に諦める
上杉も戦略ばっちり固めた武田の甲信には手を出せないで以降の両雄が直接全軍指揮しての対決はなくなる
互いに相手の脅威は恐るべきだが取り除くことめ諦めるしかない割に合わない避けるべき存在と完全に確認
両者にとって一度はやらなければなかった避けられなかった戦い
通過儀礼
良くも悪くもこのレベルで外交戦略戦術
軍隊指揮して戦える武将が全力で激突した上で一方的にならずバランス取れたのも戦国でここだけ
だからロマン 相手が欲得づくなら利害関係をハッキリさせて外交に持ち込めるんだろうけど、上杉は正義だの大義だの基準にするから武田も困っただろうな 戦そのものは謙信の判定勝ちだが、戦略を達成したのは信玄。珊瑚海海戦の日米みたいなもの。 こないだ長野に行ったんだが、川中島って長野市中心部より南にあるのね。
つまり長野市中心部は上杉の勢力圏。
川中島に手こずってるようじゃ武田の信濃制圧なんて遠い話だわな。 武田信玄がわざわざ川中島合戦に5回も付き合ったのは、川中島という土地そのものにこだわったわけではなかった
もちろん手に入ればそれに越したことはないが
上杉謙信と北条氏康に対する政治外交的メッセージを発することが目的であり、
北信濃を欲しがるのは結構だが、上杉軍3000、武田軍3300の死者という、互いにあれだけの被害が出て、共倒れになるだけだからいい加減止めろ、というメッセージを上杉謙信に
わが甲斐はこれだけの被害を出しながらも甲相同盟に忠実だ、というメッセージを北条氏康に、
発するのが目標である 3000人と忠実で有能な弟を犠牲にして割に合わんメッセージをだしたもんだな
すぐ方針転換してコロコロ破るのに 大河の武田信玄では信玄が夜の段階で上杉軍が妻女山を下った事を察知してた描写が新鮮だった。
あと上杉方も武田軍が海津城を出るのを察知してたり。
いくら夜とはいえ軍勢が動くのを全く察知出来ないというのは無理があるかな。
指揮官の死亡率が高いのも退却中不意の遭遇戦なら説明が付くのかな。
確か長篠の重臣の戦死者も退却中が多かったんだっけか。 普通に北信濃を制圧した武田軍の勝ち
目的達成した側の勝ちでしょ 領土争いに関しては信玄が信濃守護になった時点で決着がついてる。第4次はお互い相手に損害を与える決戦目的 >>242
村上義清の領土回復が目的だろ
武田側:北信濃の防衛
上杉側:北信濃の奪回 戦争の勝ち負けの判断基準は「損害の多寡」ではなくて、「目的を達成したかどうか」。
武田軍は大損害を受けたが、戦後も善光寺平を支配していたから、武田軍の勝利。 武田軍は感状を出してないから武田側は敗北と捉えていた可能性があると丸島教授は言ってるな 北信濃確保という意味では武田が勝ったと言えるが…後遺症が強かったんじゃないか。対今川の外交転換までに7年もかかっている。あとは、副将信繁の討死 いやすぐに西上野取りに行ってるやん
謙信は助けにも行けなかったね >>247
永禄4年(1561)年7月2日の武田信玄書状で「加賀・越中一向一揆が連合して越府(越後府中=直江津)攻めるように」と支持してるので信玄が勝ったら一気に日本海にでようとしたのは事実。 >>241
第四次川中島の戦いが終わった2か月後の永禄4年(1561)11月の埼玉県本庄市での北条氏康軍との戦いでの敗北。 >>249
それは第4次で引き分けた、もしくは謙信に大打撃を与えられなかったから一向一揆に支援を求めたんじゃないの?
信玄は第4次の後は西上野に侵入している
西上野に侵攻するのに謙信を越後の西側に警戒させて牽制するメリットがあるけど、第4次に勝ったとして日本海に侵攻するのに一向一揆を越後に侵入させるのはやや矛盾している
加勢が欲しいくらいなら信玄は無理に越後を攻めないだろうし一向一揆の関与はその後の統治に問題を残す
加賀の一向一揆と通じてるよという情報を謙信に流すのが一番の目的でこの頃の信玄が加賀一向一揆を自在に操れたとは考えられない >>251
信玄は弘治3年(1557)年辺りから使僧・長延寺実了を越中等に派遣して工作してるよ。詳しくは「川中島合戦再考」(新人物往来社)の「信濃にとっての川中島合戦」を参考のこと。 >>251
第4次が終わったのは9月10日です。
加賀・越中一向一揆に支持したのはその2か月前の7月2日です。 >>252
そもそも一向一揆が富山城すら攻めてない時期に越後侵攻できんの?
せいぜい越中内で神保や上杉支持方の領地を荒らしてほしいくらいじゃない?
第5次川中島直前の信玄による北陸の一向一揆への働きかけとは根本的に違うような
その本も専門書ではなさそうだしね 普通に北信濃を制圧した武田軍の勝ち
目的達成した側の勝ちでしょ >>254
永禄3年(1560)3月に神保長職が椎名康胤を攻めて椎名が長尾景虎(謙信)に救援要請を出している。これが上杉謙信の初の北陸出兵。神保氏は越中一向一揆と武田氏と通じていた。 >>254
「川中島合戦再考」は2000年に長野県飯山市で笹本正治氏等山梨・長野・新潟三県の学芸員が川中島合戦についての研究を発表したもの。あなたはそうした人達を研究者とは思わないんだ。今度山梨県の歴史研究者に聞いてみるわ。 >>255
北信濃の領地は武田の勝ち。
でも残念ながらそれで西上作戦が遅れてしまい、義信を犠牲にしたのも事実。 >>257
でも2000年刊行なんでしょ?論文や歴史書はせめて5年以内のものを読めと言うぞ
20年もあれば研究が進んで学説は変わる
重版や改訂版が今も出てればいいけど無いならちょっと参考にはできない
で、その人たちは今はどう言ってるの? >>260
ちなみにこれは2017年秋の新潟県立博物館の企画展「川中島の戦い」の資料より永禄4年(1561)の武田信玄の書状より。ここの主催者の学芸員さんは永禄10年(1567)にもう一回川中島合戦があったのではと提起してます。 >>259
一般市民は図書館にある書物を信じるんでね。
そんな常識しらんのですわ。
アホですみません。あなたたちもはやく論文書いて市民に普及させたらどうですか?ここで叫んでないで。(苦笑) >>259
5年以内のものなら・・。
「上杉謙信」(高志書院・2017年)より
「上杉謙信の北陸出兵」(萩原大輔)246〜247P
から→「謙信が越後へ戻った後ほどなく、神保長職は勢力を盛り返した。早くも永禄三年七月には婦負郡の極楽寺(現富山市)へ禁制を出しており、富山城まで近いエリアまで影響力を回復させたのである。かような神保氏と協力して越後を攻撃するよう、一向一揆勢力に対して働きかけたのが武田信玄だ。信玄は、越中一向一揆の中核寺院たる瑞泉寺に門徒たちを説き伏せるよう求めている。」と書いてある。 >>263
だからそもそも信玄が調略したのは神保であって一向一揆じゃないよね
永禄5年に椎名氏の要請で上杉が越中に進軍するまでの一向一揆の動きは分からない
その後も信玄は永禄12年に椎名康胤を寝返らせて椎名の援軍を一向一揆に頼んでるけど越後侵攻を要請したというのはどの資料なんだろう あと元亀3年に信玄が越中一向一揆を動かした記録では、大阪本願寺を通じて依頼してる
その後5月に大阪本願寺が人を派遣して加賀一向一揆経由で越中一向一揆を動かしている
元亀の時点でこういう手続き取ってるけど、信玄がその前から越中一向一揆を動かせるのなら何で直接動かさなかったのかね?そこが分からない