大友氏について語ろう 3(再)
下りて行ったところに、有能な家臣の萩尾大学の墓もある。
囲まれてるのは家臣団のものもある。
一旦下りて、筑紫野市(西鉄二日市駅近く)の紹運の首塚にも行ってほしかったな。 >>444
ほう、首塚が別にあるのね
次回行ってみよう >>350
秋月家が高鍋に飛ばされたあと鷹山の兄種茂が明倫堂って藩校つくるんだけど、それを種茂に進言して師範になったのが千手八太郎と財津十郎兵衛
千手家は旧臣だからわかるけど財津が代々秋月に仕えてるのがよくわからん
日田八奉行だから秋月とは何度も戦ってるのに 大友本で一次資料重視で書かれたものでオススメありますか?
島津四兄弟の九州統一戦 が素晴らしかったで >>396
大友の肥後支配は消極的なもので反大友が育たなければよしとした
筑後の国人ように軍役もなかった
小代、甲斐などのを手馴づけて利用した >>447
千手て独立勢力じゃないの?
宗像と河津みたいな関係かと思っていた 細川忠興の四男立孝は大友義鎮(宗麟)の女系子孫
その子孫が元内閣総理大臣細川護熙
大友義鎮(宗麟)→ジュスタ(清田鎮忠継室) →娘(清田鎮乗室)→幾知→細川立孝 大友の聖将 単行本 ? 2018/7/12
赤~諒
出たみたいよ・・ >>450
もと7000石ぐらいで大友氏に対抗してたがのちに衰退し、秋月の配下になった
高鍋にもついていった >>453
鞍手の杉はどこらへんに勢力を張っていたの? 当時一番お金持ってた大名って事でいいの?
街とか宣教師がみてもすごかったらしいし。 序列をつけて1番と断言するのは難しいけど裕福な大名なのは間違いない
府内の発掘調査や出土品を見る限りはね
大友氏が戦国時代に中央政権に贈った物に海外からの輸入品が多いことも豊かさの表徴と見ていいだろう
火薬調合方法について書かれた巻物を足利将軍家に贈ったのも大友宗麟(のちに上洛した上杉謙信に下賜されて現存してる)
人口でいうと
宣教師によると府内の人口は8000人
センゴクの仙石権兵衛が戸次川の戦いで負けて府内が焼かれる直前の手紙によると5000戸程度だという
ちなみに京都はザビエルによると9万6千戸、ガスパル・ヴィレラによると30万だったのが戦乱で6万戸になっているという報告
大内氏の山口はコスメ・デ・トーレスによると2万戸
大友氏の場合は臼杵も本拠地として使ってて分散してる可能性があるから単純な都市人口の大小は裕福さの比較にならないかもしれない
貿易交渉を担当していたと考えられる仲屋宗悦も臼杵の豪商だった
似たようなケースとして信長時代の岐阜もフロイスによると1万人でちょっと少ない感じがするけど
織田家も清須や岐阜と後に安土にも分散してたんじゃないかと考えられる
実際に安土に単身赴任してた家臣が多い事を知って岐阜の屋敷を焼いて家族全員引っ越させたという話も残ってる
そういえば最近センゴクの宮下先生と本郷和人氏がゲストでコンパルホールでフォーラムがあったらしいね
今は実家に住んでないけど行きたかったわ なんかあんま有名じゃないからてっきり島津にやられて滅びた
んだろうな
って思ってたんだけど戦国時代を生き延びてはいるんだな。
豊臣傘下になってたのか。 戦国大名大友氏の館と権力
しっかしたけぇ〜なw一万かw
買う人が少ないからこんな価格になるんだよなw こういうキリシタン大名って自分もキリシタンになるぐらいだから
町並みとかも西洋風にしてたりしたんだろうか? 尼でやっと買える金額になったな中古。それでも高いがww 神社仏閣を破却したのが嘘なら嘘でいいが、家臣たちが宗麟を裏切った理由を論理的に
説明してほしいがなww 戦国大名は主君が頼りなくなったりすると家臣たちが離れていうのは珍しくないけど
大友氏の場合は主君がアレでも離れずに愚直なまでに忠実な家臣が多いのが不思議だな。 高橋鎮種 たかはしちんシュ
高橋統増 たかはしトーマス
志賀親次 しがないオヤジ >>426 養子になった中原家の家紋が抱き花杏葉だった。
つまり中原一族だと言う証に同じ紋を使った。 >>467 頼朝の信頼が厚かったからな。 うちも能直と一緒に九州に降り、地頭になると共に大友家の侍大将として登城してた。
南北朝時代大友は最初は後醍醐天皇を助けていたが、足利が九州に逃げてくると尊氏を助け兄弟3人は氏泰をはじめ皆氏の一字をもらい養子として認められることになった。
所が次男の氏宗(氏行、宗行)は南朝方につき兄弟で争うことになる。この時うちの祖先も氏行(氏宗)と一緒に南朝方で戦ったが最終的に負けてしまい、領地は召し上げられ没落してしまった。 この時に氏行から杏葉紋をもらった。 大友の家紋は抱き花杏葉だけど何故か花の無い抱き杏葉の家紋を出してるのを時々見かけるけどどうしてだろ。
大友宗麟の時代辺りから花無し杏葉が出てき始めてる気もしないでもないが。 >>472 大友自身が、抱き花杏葉紋の事を単に杏葉と言ってたから、後の人間が花無し杏葉と勘違いしてしまったんじゃないのかな。
ただ、家紋の解説本に宗家は花無しを使い家臣に花ありを与えたなんて記述も見かけるが、それはどうかなと思うな。
だって家紋をぶんどった鍋島だって花有りだし。
見聞諸家紋(1400年代) にも大友豊後守親繁の紋は杏葉と書かれてるが、抱き花杏葉紋が登録されてるんだからな。 大分市広報誌の戦国武将イラストが「信長の野望」と酷似 担当者が無断で参考に
https://mainichi.jp/articles/20200509/k00/00m/040/136000c
立花道雪とかだけど、ニュースになって嬉しいね! >>471
初代の大友能直は、一説に源頼朝の寵童だったらしい。
戦功が目立つわけでもないけど、相当優遇されている。
ただし、大友能直自身は九州には下っていない。
次男以下は下っているが。
頼朝側近の中原親能・大江広元と一緒に鎌倉と京都を行き来している。
豊後に下ってきたのは、三代の頼泰から。
>南北朝時代大友は最初は後醍醐天皇を助けていたが、
実は後醍醐天皇が、足利尊氏に声をかける前に大友氏とは通じていた。
>足利が九州に逃げてくると尊氏を助け兄弟3人は氏泰をはじめ皆氏の一字をもらい養子として認められることになった。
養子じゃなくて、猶子な。
家督相続を伴わない親子関係。 >>467
義鎮はクーデターで家督を継承し
義鎮を支えてたのは先代と違い同紋衆
義統の家督継承が1570年末から71年初旬でその方針は当初は継承している
自分が一番評価されるのが大友と思ってたかもね 大友家は盛り上がらないね。
いつの日か、大河ドラマで取り上げられれば変わるかな。
良い小説もないし… >>485
19年前にNHKの正月時代劇でやったよ。遠藤周作原作の小説のドラマね。アルメイダとの出会いとかハンセン病治療を行ったとかいいエピソードあるんだけどね。 基本的に家を滅ぼした当主は軍記物とかで盛られたりしてるからそこら辺割り引くと無能であってもどうしようも無いやつや害悪な奴は少ないんだがその点大友義統って凄いよな。
最初から最後まで無能たっぷりかつ一次史料でも全方位ボロくそ言われてて再評価する度にdisるのが正当化され地元や戦国史クラスタからも蛇蝎の如く嫌われててで宮崎大分の寺社仏閣破壊も行って地域史に大損害与えてるし人格面も素行もどうしようも無いし状況とかによる擁護も一切不可能だからすげぇわ。
一次史料見るとsyamuさんが戦国大名になったパターンだろこれとしか思えんわ。
ガチ目に世界史でも北斉後主やヴェンツェル位しか対抗出来ないと言うか此奴ら超えた人類史上1番の無能と言えるんじゃないか?て思うわ。 寺社仏閣の破壊なんて宗教的な理由じゃないの?
珍しくもないと思うけど >>488
宗教的な奴じゃなくて織田信長がやったから俺がやっても正しい+寺社仏閣の奴らから金没したら儲かるやんでやってるからなんの擁護も出来ないぞ
働き者の無能どころか即決銃殺すべき働き者の害悪でどうしようも無い無能でしかないからな。歴史上で見てもここまでなんの擁護も不可能かつ一次史料で詳細かつ全方位で低評価食らってる人間他におらんぞ ゴンベが散々叩かれてる戸次川のやらかしだって元を辿れば義統が援軍送らなかったのが原因だしこいつは何処まで言ってもボロくそ扱き下ろしてサンドバッグ扱いするしか価値の無いポル・ポト以下の人間でしかないんだよ。
だって一次資料探しても何一ついい所も無く更にはどんどん悪い話やろくでもない話しか出てこないんだぜ?無能で害悪でどうしようも無くて人格最低でソースも豊富とか歴史上の無能でもこいつを超えるような存在は未来永劫現れないだろうって断言出来るレベルだからな。 大友吉統は敵前逃亡を咎められて豊後一国を没収され、
廃絶となったが、実は、朝鮮派兵のための物資拠点が必要で、
大友はその犠牲なったという可能性を指摘する 「戦国武将列伝」では大友義統が朝鮮出兵失敗のスケープゴートにされたと書かれてるね