【摂津・河内・和泉】 畿 内 【山城・大和】
【摂津】
西国街道に沿う地域〜争いに度々巻き込まれていた地域
主な有力者は『池田氏』『伊丹氏』『三宅氏』後期は『和田氏』『高山氏』『荒木氏』『中川氏』etc
【河内】
戦国期、戦国大名化した畠山義就、南と北で分裂した畠山氏とそれに付随してのし上がろうとする国人達
主な有力者は『畠山氏総州家』『畠山氏尾洲家』『遊佐氏』『木沢氏』『安見氏』
【和泉】
〜堺〜商人の街〜世界と繋がる貿易港
一国を商人達が仕切り、国自体が自由都市と成っていた特殊地域
主な有力者『和泉細川氏』『松浦氏』 【今井家】【津田家】【千家】
【大和】
エリート坊主の古の地、生駒山脈に囲まれた事により、摂河泉とは意識が遅れたか!?
松永久秀が侵入するまで独自の地から戦国大名は排出せず
主な有力者『松永氏』『筒井氏』『柳生氏』『古市氏』『越智氏』
【山城】
公家と京童が住む街、色々な宗派の寺社が犇めき合い見動きが取りずらい、攻め安く守りにくい
川向うは京都ではない、西の岡に住む国人連合
主な有力者『足利氏』『細川京兆家』『物集氏』『長岡氏』『一条氏』『九条氏』『山科氏』etc
戦国期の五畿内とその周辺【丹波・山科・播磨】を絡めてもおk
畿内は寺社勢力が強すぎて、武家が一国を完全に掌握できていない気がする。
四天王寺や根来寺、三井寺とかなにげに強力。 六角あたりは強力な戦国大名と言えるが、あれですら近江半国だからな。 六角は定頼の強固な体制の時期と比べると
義賢の頃はどうしてこうなった・・・信長にやられるにしても
戦国大名六角氏としての消滅の仕方がものっそしょぼい。
>>18
一応、伝統の甲賀持久戦を展開したけど、
いつのまにか駆逐されていたね。 義昭の扱いを巡り
観音寺騒動が起こり
六角自体が分裂したからだろ。 >>21
略年表
永禄6年に観音寺騒動
永禄8年に将軍義輝弑逆
永禄11年に義昭将軍就任
観音寺騒動の時点で義昭は一条院覚慶と名乗っている
よってID:jXjzNsMCの認識は間違っている 羽曳野市・八尾市・柏原市 中心「総合運転代行 河内」
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三好政権に服従する義賢が騒動で家臣暗殺をして家中は一時的に統制されたかに見えたが、
義輝が暗殺されるや畠山や奉公衆や反義賢の六角家臣による義昭の近江脱出が図られ、
永禄9年4月になると義昭を左馬頭に任官させ、
一方、三好が働きかけている左馬頭義栄の将軍任命拒否を出させるなど朝廷工作を成功させた上で、
反義賢家臣や畠山や若狭武田や信長や徳川や北畠を率いて義昭が8月に上洛戦開始することになる。
しかし土壇場で信長が義昭が和睦斡旋した斎藤を奇襲する背反をした挙句に大敗し、
この上洛戦自体が崩壊し、三好の後援を受けている義賢の威勢が増し義昭は近江にいられなくなり朝倉を頼り逃げた。
そして信長の裏切りから脈なしと見た朝廷が三好が押す義栄を将軍にしてしまった。
このように義昭問題によりさらに混迷したものの、
反義賢重臣たちは奉公衆と協力し、
織田と浅井の婚姻を成立さ
せるなど上洛戦を成功させる手を打ち、
中央政界でも朝廷工作をして反三好+義賢+近衛の勢力と結託し、
ついに永禄10年に当主権限を制限する六角氏式目に
同意せざるを得なくなるまで義賢らを追い詰められた。
これが可能になったのは再度、義昭上洛戦をする為であり、
斎藤と義賢を凋落させることに成功。
これにより義昭は再度、近江に戻ってくる。
今回は奉公衆の他に大和衆や松永久秀も三好軍を引き付ける為に義昭上洛戦を前に挙兵させるなど辣腕を振るう。
しかしこの近江の反義賢勢力や浅井らを統合指揮して
高いレベルの朝廷工作もやってのけるだけの高い家格の持主が誰なのかわかんないんだよね。
京極は浅井の操り人形に過ぎず六角系家臣は操れないし。 >>14-15
>国人の実力が『ほぼ』平均化してたから
京兆家は、突出した家臣や内衆を作らない様にしていた。
畿内国人の実力が『ほぼ』平均化したのは、それが京兆家の方針だったと言う面もある。 神戸市の東、芦屋西宮の知的障害者施設で未成年利用者に性的な行為をして淫行条例で逮捕された三田谷学園元職員の堂垣直人(西宮市老松町)は、結局どういう罪になったの?
被害者家族のケアを芦屋市役所と兵庫県警はちゃんとやったのか?
差別や虐待は環境を選べない子供には関係ない。
http://www.youtube.com/watch?v=JxMzW3ZlV4g&sns=em >>26
後藤さんや遠藤さんも有能
というか六角家臣団は結構有能だよ >>15
和泉と言えば、沼間、松浦、寺田、真鍋氏。
真鍋氏、沼間氏は、和田竜の村上海賊の娘にでてくる真鍋七五三兵衛、沼間義晴が
今後注目度が上がりそう。
松浦氏は、和泉守護細川氏の守護代なのだけど、大きな謎がある。
松浦盛ー松浦守ー松浦万満までの系譜は誰もが認めるところ、
その後の松浦孫五郎と松浦孫八郎の内争の勝者がわからない。
松浦孫五郎=松浦虎
松浦孫八郎=松浦万満
であるところまでは納得できるけれど、
最後の城主松浦光が松浦孫八郎という説は疑問が残る。 松浦孫八郎=松浦万満は、十河一存の実子で親三好派、
対する松浦孫五郎は当然、反三好派で親畠山派なのだけど、
最後の城主松浦光は、元亀年間において親畠山派=新織田派であり、
孫五郎の係累もしくは孫五郎本人の可能性がある。
しかも松浦光は十河某と共闘して三好義継と戦っており、むしろ、
十河某=松浦孫八郎であったほうがいいような。
松浦光は寺田安太夫に下克上され家を乗っ取られる。寺田安太夫は後に松浦氏を
名乗るのだから親族だったのだろうか?
どちらにせよ、松浦光の出自の確定情報が早く欲しいと思う。 松浦孫八郎=松浦万満は十河一存の実子で三好義継の実の兄弟だから
松永方についていた義継に調略されて松永方、ひいては信長側についたとしてもそう不思議な事じゃないと思うけど
正確にはよくわからんが その辺はよくわからんな
でも松浦肥前守は十河存保が織田に通じさせる仲介もやってたようだし
十河一存の実子の万満である可能性が濃厚そう って、ああ。虎と万満が和解するなり虎が万満を服属させたって説なのか
教興寺の戦いの後は永禄の変の後に不穏になったぐらいで三好統治で安定に向かってたらしい摂河泉で
虎が万満を従えて上になるってかなりきつそうに思えるが >>36
十河存保とは確定してないでしょ。十河一行なんかも畿内に居るし。
松肥(虎)が十河某(万松)を織田に通じさせる仲介をやったっていう可能性もある。 岸和田市年表だと
1566年(永禄9) 2月 松浦孫八郎、和泉国衆ら、畠山高政軍に加わり家原(堺市)で三好三人衆軍と
合戦し、敗れて岸和田城に篭る。「九条家文書」
1566年(永禄9) 8月 松浦肥前守虎が極楽寺(極楽寺町)に禁制を下す。
ってなんてんだな。 孫八郎=虎でなく孫八郎=万満ならば、万満は義継久秀畠山側についてたという事だが
そして2月から8月の間に岸和田城主が万満から虎に変わったのか?禁制出したからといって虎が岸和田城主になっていたとは限らんかもしれんが
というか2月時点で孫八郎と義継が組んで畠山ともラインが繋がっていたのなら孫八郎の対抗馬の旗印としての松浦虎の立場も無くなってそうなものだが
松浦虎は孫八郎=万満が義継側についたのを見て畠山から三人衆側に鞍替えして岸和田城を攻め落としたとか?
この年表だけ見ると孫八郎=虎だとすんなりいきそうだけど
うん、わからんw 三好房一は、東軍に味方したのに、東軍従軍中に西軍に
領地を押さえられたから減封って酷くね?
河内なんて場所柄、西軍に奪われてもしょうがないし、
むしろ二股かけてなかったという忠義の証しだろうに >>39
家原城の説明と一致する。
家原城は松永方の和泉国の侍たち(和泉衆)がたてこもっていました。
永禄9年(1566)2月松永方は城を出て上之芝(現在の上野芝)で戦い、
三好三人衆の軍勢に敗れ、岸和田城へ逃れました。
だからどうだって言われると何もないのだけど、同年2月と9月の出来事であることは
それぞれ間違いなさそう。 孫五郎=虎(根来寺と同盟)vs孫八郎=万満(十河系)はどの本見ても同じ事言ってて
なんかしらないけど確定。
孫八郎が畠山に属し2月に岸和田城に逃げ込んで、8月には虎が禁制をだしている。
孫八郎はその後、文献に出てこない。
城に逃げ込んだ時点で従属したか殺されたか。
虎も文献から消える。
そして松浦光が登場。 永禄10年の孫五郎見つけたけど、わかりにくい。
飯盛城址(大阪府全志より)
翌四月教興寺の一戰に敗けて、高政は紀州に遁れ遊佐・安見は石山に落ち、
三好氏全盛を極めたりしが、同七年七月廿四日長慶は當城に逝去せしも、
病中と稱して喪を秘し、同九年六月二十四日に至りて葬儀を行ひしといふ。
長慶の死後は其の子三好義永此に居りしも、同八年七月迎へられて高屋城に
入り、三人衆の随一たる三好政康當城に居れり。
同十年十月三人衆の奈良大佛殿に本陣して、三好義次・松永久秀に破られし折、
杉山彦十郎・松浦孫五郎の三人衆の味方となりしを安藝守に案内せざりしとて、
安藝守怒りて三好義次に味方しければ、三人衆は討手を彦十郎に添へて當城内
なる安藝守の私宅を攻め、安藝守防ぎかねて同月十五日堺に退き、再び三人衆
方へ歸参せり。然るに當城に籠れる三好政康は、同十一年九月織田信長の足利
義昭を扶けて攝州に入るに及び、同月二十九日城を開けて四國に落ち去りしが、
城の破却せられしは、同十三年信長の高屋城を攻め落とし、當國に於ける諸城
を破却せしときならん。
元々は 孫八郎:三好側 孫五郎:畠山側 だったのが三好家の内紛以降では
孫八郎:畠山側 孫五郎:三好(三人衆)側 に入れ替わってるのかな
それぞれが畠山側、三好側に鞍替えしたタイミングは
孫八郎は三好が分裂した時に松永側について結果畠山とも組む事になった
孫五郎は教興寺の戦い後に三好が岸和田城取り戻した頃に降伏して三好の支配下に取り込まれて三好側になっていたか
孫八郎-松永-畠山の同盟ができた時に反孫八郎の立場から三人衆側に鞍替えしたかってところか? >>45
永禄10年に「孫五郎→虎」が三好三人衆側だったとすると、
松永−畠山方の「孫八郎」が織田−畠山方の「光」と同一人物である説の方が、
確かにすっきりする感じですね。
それから、永禄9年8月の「虎」の禁制は、岸和田城主の「孫八郎」との合戦のおりに出しただけで、
城主の交代も無かったのかも。 大和の交野城と私部城、安見宗房、安見右近、安見新七郎の関係が全然頭に入らない。
・交野城と私部城は同じ城。
・安見宗房は交野城主ではない?
・安見右近、安見新七郎は交野城主で親子。
・安見新七郎は織田家の援軍により交野城を松永久秀から守り抜いた。
・交野城は安見新七郎から筒井氏が攻め取った? 「村上海賊の娘」を読んでて思ったんだけど
和泉の松浦(寺田)兄弟について
弟の松浦安太夫(松浦宗清)はウィキペにいるんだけど
弓の名手って設定の兄・又右衛門(寺田正家)については、あまり情報がないんだが
この人がいつ没したかとか具体的な事跡わかりませんか?
1585年の四国攻めで戦死した「寺田生家」は別人なのでしょうか? テメエらポーラ名作劇場で放送してた『幻花』を憶えて居ねえのかい?
足利義政を山口崇、日野富子を夏純子、今参局を藤村志保、裏松重子を三益愛子が
好演してたテレビ・ドマラだゼッ!
昭和の歴史ドマラにしちゃあ面白えほうだったのサッ!
原作が瀬戸内晴美、現・寂聴尼だからナッ!
ソイツを見てから云々しやがれーイッ!
分かったナッ!
! Wikipediaに坂上頼泰の項目が出来てた
このまま塩川国満とか摂津国のあとあたりの情報がどんどん広がってほしい 戎光祥中世史論集 第5巻 南近畿の戦国時代―躍動する武士・寺社・民衆
【目次】
第一部 南近畿の在地社会と城郭
第1章 紀伊国における守護拠点の形成と展開(新谷和之)
第2章 山城から平城へ―― 一五七〇年代前後の畿内と城郭(中西裕樹)
第3章 文明の和泉国一揆と国人・惣国(廣田浩治)
第4章 戦国時代の大和にあった共和国(田中慶治)
第5章 織豊期の南近畿の寺社と在地勢力――高野山攻めを中心に(小谷利明)
第二部 戦国時代の河内と権力
第1章 河内王国の問題点(弓倉弘年)
第2章 木沢長政の政治的立場と軍事編成(馬部隆弘)
第3章 三好氏の本拠地としての河内(天野忠幸)
https://www.ebisukosyo.co.jp/item/389/
河内王国とな >>25
まず六角が三好に服従という認識からしてずれている
まあ7年も前だけど REVELATION
資金源/コング
フロント/天下り/右翼思想
フィクサー/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入
汚職/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入/揉み消し
揉み消し加担