【陸奥】葛西氏を語る【奥州】
>>2
盛岡藩系譜:葛西晴重嗣子
仙台藩系譜:伊達稙宗嗣子
>>3
石巻はギリギリ葛西の勢力圏だった辺りか。 石巻あたりなら輝宗影響下と葛西影響下と両属とで国人達は混在してたろうね。
大崎も黒川とか輝宗影響下に入っちまってるし。 >>7
伊達は陸奥守護職?をもらってるから、格上かと思ってた。
家格は一切関係無しで、献金の賜物?w いや伊達のは分郡守護に過ぎない。
そんなもんは蘆名や相馬だってとっくにもらってる。
田舎者だからその分郡守護を探題と混同して使ってたに過ぎない。
>伊達のは分郡守護に過ぎない
そう書いてある史料でもあるの? >>11
それがね伊達研究の権威たる小林清治氏の『戦国大名伊達氏の研究』に書かれているんだよw
残念だったねバァカ無知低脳伊達厨くんw サブのことだからまた読み違えてるか都合のいいよに捏造してんじゃねーの?w 葛西・伊達・大崎の地域対立はもう無くなったといってもいいだろうか >>10>>12
もしやと思って読んでみたらホントに書いてなかった
捏造すんなよ
小林清治「戦国大名伊達氏の研究」p195
こうして上杉景勝が継いだ上杉の家系は、関東管領という高い格式です。こ
れに対する伊達氏の場合は、政宗の曾祖父である伊達稙宗が陸奥国守護に任命
され、その子で政宗の祖父にあたる晴宗が奥州探題に任命されています。室町
幕府が陸奥国守護と奥州探題を同じものと考えたことは、晴宗が奥州探題に任
命された際に、その老臣の桑折貞長が幕府から守護代に任じられている事実に
よって明らかです。
こうしたわけで、景勝と政宗はともに、関東管領あるいは奥州探題(陸奥国
守護)という高い格式の系統を継ぎ、あるいはそのような家に生まれたことに
なります。 葛西氏の奥州奉行職は早々に形骸化したと聞くけど、いつ頃まで実効力を持っていたんだろ?
>>12の件はきっちり書かれていますし、コーエー政宗厨ではなく、本当の意味で伊達好きなら常識の範囲なのに、
あらら自信満々に痛い人が登場してますね。
該当の小林氏の本では、そもそも探題が守護代を任じてること自体が探題と守護を混同して使っているとまで指摘されているんですよ。
ゲーム脳を捨ててちゃんと読んでくださいませ。
あなたは1万円もする資料を読む力が無く完全に無駄にしてますよ。 >>18
奥羽が義満により鎌倉府管轄になった時に葛西も大崎も鎌倉出仕になったので完全に息の根を止められた。
そのプライドから関東管領上杉に対抗しようとして伊達が大崎を誘い挙兵したが、
戦況不利なため伊達に見捨てられて大崎当主は自害し大崎はこれを期に没落衰退。 >>19
逃げてないでソースだせばいいじゃん
>探題が守護代を任じてること
決定的に読み違いをしているらしい
文盲さん? 逃げるも何もちゃんと載ってるわけだが。
お前本当に読んだのか?読んでないのバレバレだぞ。 >>22
またまた逃げてる
いくら煽ったところで反証を提示できないなら痛々しいだけ
言い訳してないでソースをどうぞw 晴宗の奥州探題職補任と同時に、その股肱たる桑折貞長・牧野久仲は「守護代」に補任された。
奥州探題職と陸奥守護職とのあいまいな同一性がここに看取される。
なお藤木氏は、小林宏氏の説を「奥州守護職と奥州探題とを混同するという特異な手法」と…省略
相馬親胤は〜陸奥国東海道守護に補任された〜さきの行方郡等四郡一保の検断職のそれと殆んど変るところのないものであろう。また結城親朝は〜省略
検断職=守護職機構成立の前提は、鎌倉幕府下における奥州に顕著であった郡郷地頭の存在であったと見られる〜省略〜
南北朝期および室町期の史料を大きく欠如する伊達氏もまた、
あるいはかつて検断=郡守護に補任され、
その職権は伊達氏の発展のテコになっていたことを… >>24
p.460とp465の注釈から必死に切り貼りすか?
出典(ページ)は出さない(出せない)は、都合の悪いところは省略しまくるは…
引用もまともにできないのか?
そのくせして>>10>>12の論証にはほど遠すますがなw
やりなおしー 訂正
そのくせして>>10>>12の論証にはほど遠すぎますがなw 相馬の陸奥海道守護に関しては、
古くは石城国、新しくは磐城国といった具合に、
本来なら歴とした一国の守護の規模で、
分郡守護の範疇を越えてるよなあ。 >>25>>26
と、いくら熟読してもまったく見つけられず、そんなの載ってないと自信満々にレスしたカッコ悪いやつのために
親切に転載してやったら悔し涙のレスをする文盲アホ低脳の伊達厨房の負け惜しみ発言でした。
動揺し焦ってレスして、取り繕うとして訂正までして惨めだなおい。 >>28
引用がなってないからやり直せといってるのに、印象操作しかできないのか?
歪曲がひどいので当該ページを以下にアップ(jpg5枚をzip圧縮、DLKeyはsubw)
http://toku.xdisc.net/Sn3/zzx/op5606.zip.html
線を引いている部分が>>24で頑張って切り貼りしているところだが、
あんた、文盲というより完全に悪意を持って作文してるだろ?
>>10で伊達は「田舎者だからその分郡守護を探題と混同して使ってたに過ぎない」と
いっておきながら
>>24
>晴宗の奥州探題職補任と同時に、その股肱たる桑折貞長・牧野久仲は「守護代」に補任された。
↑がそのソースだそうで、田舎者だから混同もなにも、自分から「奥州探題職補任」を
認めちゃダメだろ…
で、蘆名や相馬の奥州探題職補任のソースはどこに?
しかも>>24が省略している箇所には以下のような記述もあったり
小林清治「戦国大名伊達氏の研究」p461
おそらくは、陸奥国司・鎮守大将軍下の検断職は、その系譜を大きく変えるこ
となく奥州探題下の郡守護乃至検断奉行と編成がえされたものと推測される。
小林清治「戦国大名伊達氏の研究」p461-462
南北朝期および室町期の史料を大きく欠如する伊達氏もまた、あるいはかつ
て=検断=郡守護に補任され、その職権は伊達氏の発展のテコとなっていたこ
とを、必ずしも否定しさることはできないであろう。そうであるならば大永年
間における陸奥国守護補任に対する評価は、これによってもまた決定的なもの
となしえぬこととなろう。稙宗の子伊達晴宗は、天文末〜弘治初年の交に「奥
州探題職」に補任された。当時、陸奥一国守護職の有する公権がしかく大であ
り、かつその職制が堅いものであったならば、晴宗が奥州探題職を望みこれに
補任されることはなかったであろう。両者は同一視される体のいわばあいまい
なものとなっていたのではあるまいか。
しかしながら、一国守護の権威が即ちに伊達氏の権力を強化させたことは、
外向的にも内省的にも否定することはできないであろう。
以上の引用から
○奥州探題下の郡守護乃至検断奉行
○奥州探題=一国守護の権威
ということで、奥州探題職=分郡守護という文脈ではまっく語られていない
晴宗の奥州探題職は「分郡守護に過ぎない(>>10)」のソースを出すように
あと決定的に読み違っているが、
○伊達晴宗を奥州探題職に補任したのは幕府(>>17>>29)。自称詐称ではない。
○「陸奥国守護と奥州探題を同じものと考えた」のも幕府(>>17>>29)。
○桑折・牧野を「守護代」に補任したのも幕府(>>17)。
陸奥国守護と奥州探題職の職制は当時「同一視される体のいわばあいまい
なものとなっていた」というのが小林清治の論旨
ということで、あんたには次の言葉をあげる
>19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/19(木) 08:57:46 ID:iXD0001X
>あなたは1万円もする資料を読む力が無く完全に無駄にしてますよ。 アホだなあ。伊達厨で常に伊達寄りの思考しかしてない小林氏の書かれたことに、盲信してすべて同意していないだけの話なのに必死になって…
お前みたいな信者は頭で考えずに伊達偏向資料を鵜呑みにするんだよな。
俺は常に周辺領主にも等しく平等的視点を持ち中立的思考の伊達好きだ。
与えられた偏向資料を取捨選択し常に批判的精神を持ち、賛同する点は賛同し、批判する点は批判するのが歴史研究というものだ。
だいたい小林氏の本だけ読んでるわけじゃないし、他家資料も読んでる集大成が俺の発言に結実してるんだ。
お前はまだまだ無知だから発言を理解できんのよ。
簡単な話、伊達偏向資料や政宗マンセー資料などを常に批判して矯正してあげてるだけ。
盲信してる政宗狂信者は取捨選択の重要性が理解できんだろうね。 伊達は奥州探題になんかなってないし
分郡守護を探題と混同してたから探題就任の日付すらまったくわからない。
さらに自称探題の下に守護代を設置する無知をさらけ出したわけだ。
もし探題になったと言うなら探題の権利である裏書き御免の伊達書状や朱の采配使用の証拠を教えてくれよ。
分郡守護だから守護の特権たる白傘袋ももらえないんだろうが。
否定したいなら伊達が白傘袋を使用した証拠を出してみろよ。由良氏でさえちゃんと記録にあるのに、なぜ不思議にも伊達には全く記録も証拠もないのかね? >>32-33
>分郡守護を探題と混同してたから探題就任の日付すらまったくわからない
だから、この部分が記載された史料の提示を求めているわけだが?
お前の脳内ソースはもういいからさ。
>伊達には全く記録も証拠もないのかね?
これについては
【魔玉・真の】伊達政宗総合スレ【権力者】http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1153999525
の後半部分で、大日本古文書(東京大学史料編纂所)所収の伊達文書に、
伊達家が陸奥国守護or奥州探題に任じられた際に、伊達家がその礼状を足利将軍家に出し、
その礼状に対して足利将軍家から伊達家に送られた返書が存在していることを指摘するレスがついていたよ。
因みに、そのレスがついた途端にそれまで散々荒らしてたアンチがサーッといなくなったことを覚えている。
お前覚えないかw?
>>34
指摘も何ももともと俺がその該当先のリンクを貼ってやって初めて知ったんじゃねぇかよ。
でその際にも偽偽造だけどなって言ってる。
なぜかって理由で日付が判明しないから公家日記なら探題就任ほどな事柄なら書かれているはずなのに
公家や幕臣の日記にすらこんな大事件を一切記してない。
要するに任官してやった当事者らはまったく知らないわけだ。
それに陸奥国は広いし、陸奥全域に支配権を確立させたり、南部らに守護に任官されたからと言う報せの書状なども皆無だし分郡の守護の方が自然な話だ。
そもそも尽力してやった細川高国はその御礼もしない伊達はあまりに無礼だとその後すぐに憤ってるから、分郡守護でさえ取り消しさせられたと思うがね。
そんで抹消されて、のちに探題なんて自称を開始してんだよ。 前言をひるがえしてソースなしの妄想を繰り返しても説得力皆無w 言い争ってる連中は本や論文じゃなく元になった「文書」を出せや
つかさすが葛西スレだな、乗っ取られるのも伊達厨にかよw たしかに政宗が父の代から探題と秀吉政権に言っているのと大きく矛盾するんだよね。
秀吉への言い訳から捏造された探題ネタの整合性を合わせるために伊達は探題に就任したと偽造したとする方が自然。
しかも政宗は曾祖父を政治がデタラメだったとボロクソに悪口を言っており、祖父晴宗の母も不明であり、
伊達の血脈も祖父によって纂奪されて、伊達史を大きく改変して祖父以降の正当化のために探題就任を自称してると思われる。 懲りないねえ
せめて学説から引用しろよ妄想を吐くだけなら板違いだ 実際、晴宗が下賤な生まれだったらしく岩城から婚姻を拒否られてしまい
怒った晴宗は仲間の賊と一緒に山賊紛いの岩城から輿入れの道中だった花嫁強奪事件を引き起こす程に大逆無道で政治がデタラメだった。 >>43
その低い出自がために晴宗の子の輝宗が無位無官のままになってしまった。
政宗が父の代から探題なんてすぐバレる小学生低学年並みの嘘をついたのは戦国史に特筆されるアホ事件。 まだやっとるw
父の代すかー?
出典は?
「前代」を父の代に無理矢理解釈してたりしてw
いいかげん論考・ソース出してレスしろよ
どこが無理やりだよwww
前代が輝宗じゃなかったら誰だよ?バカが。
前代が輝宗とは違う人間と書いてる本なんてねぇよwww >>47
まーたソースを出さないで逃げてる
どの文献で「政宗が父の代から探題と秀吉政権に言っている(>>41)」のか、
またその「前代」とやらの語句を「父の代」と解釈できるのか議論するから、
ソースと論考を出せって
現代文すら読み違えるあんたに、出典も文脈も示さず「前代」=「父の代」の
解釈しかありえないと説かれても、こっちが恥ずかしくなるだけだから
あんたがいってるのが仮に天正17年の「上郡山仲為書状写」のことだとして、
同文にある「奥州五十四郡之儀者、自前代伊達探題ニ付」は「奥州五十四郡は
前々より伊達氏が探題であるので」と解釈する例もあるので、というか「父の代」と
している解釈例は未見なので、是非提示してくれ
>>44によると
>政宗が父の代から探題なんてすぐバレる小学生低学年並みの嘘をついたのは戦
国史に特筆されるアホ事件
だそうだから「前代」の出典も、それを「父の代」と解釈して前代未聞の
奥州探題詐称を説いている論考も速攻提示できるだろ? >>48
貞山公治家記録に転載されてる書状でしょそれ。
それを「前々」なんて解釈はどっから読んでもできない無茶苦茶な主張だよ。
そもそも文中に前々と書かれてないのだから、
訳者が無理やり前々と解釈するなら、
自分の主観や願望を組み込んでるに過ぎないし。 それと
諸事政宗申付義とその後の文章に続くけど
政宗が探題に申し付けられたとするトコも
完全に大嘘なんだな。
其隠候処なんて開き直ってるが、
豊臣政権首脳からそんな話は知らんとばかりにガン無視されてるし・・・
以後、その出鱈目を伊達側からも主張しなくなってますね。 >>49-50
>それを「前々」なんて解釈はどっから読んでもできない無茶苦茶な主張だよ。
いやだから識者の解釈文・論考を披露してくれってw
>諸事政宗申付義とその後の文章に続くけど
>政宗が探題に申し付けられたとするトコも
>完全に大嘘なんだな
「被」の字句もない「諸事政宗申付儀」の案分を「政宗が探題に申し付けられた」と
読み違いする人に、ソースも識者の論考もなしに「無茶苦茶」「完全に大嘘なんだな」と
いわれても、何の説得力もないから
>豊臣政権首脳からそんな話は知らんとばかりにガン無視されてるし・・・
>以後、その出鱈目を伊達側からも主張しなくなってますね
空想小説を披露したいだけだったら創作文芸板でやってくれる?
その論法?が許されるなら、政宗の「奥州探題」の話が嘘なら秀吉に取り潰し
されていた「はずだ」でもなんでも適当に語れてしまう
再度念押ししておくけど>>44によると
>政宗が父の代から探題なんてすぐバレる小学生低学年並みの嘘をついたのは戦国史に特筆されるアホ事件
だそうだから「前代」の出典も、それを「父の代」と解釈して前代未聞の
奥州探題詐称を説いている論考も速攻提示できるだろ?
それともここでご大層に新説を披露しているつもりなのか?
当初の「伊達研究の権威たる小林清治氏の『戦国大名伊達氏の研究』に
書かれているんだよw(>>12)」からの宗旨替えは問題外として、
稙宗の陸奥国守護の取り消しのソースもなければ、晴宗の奥州探題補任が
虚偽のソースも皆無、政宗の「前代伊達探題ニ付」の弁明にいたっては、
「そう読めない」の一点張り?
>>48の
>自分の主観や願望を組み込んでるに過ぎないし。
というのは自分の自省の言葉すか? 何故か他スレで細々と関連レスらしきものをやってるようだけど…何がしたいんだ?
【輝宗】伊達氏を語ろう 2【稙宗】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1194605218/438
由良氏にまつわる御内書案?を持ち出して伊達氏には「こんなに詳しくわかるのに
捏造伊達はほとんど詳細不明ってwww(同スレ>>438)」って煽られても…だから何?
伊達氏のは焼失でものしたんじゃねーの?w
あと由良氏の例を持ち出したところであんたの論法からいえば、「それは捏造
」で終わる気がするが?
>1535年6月2日に足利義晴から御内書が下され、大鷹献上のお礼に上龍下龍の
太刀一腰を下賜し、白傘袋の免許くれたし
>由良側からお礼に太刀一腰、刀一、唐織物、黄金三十両がきた事に義晴が謝
意を伝えてる
↑の由良氏の例をどうしても強調したいのなら、せめてソースを提示してくれ。
何の文献に記されているのか、そして伊達氏に伝存する御内書は捏造で、
由良氏の例を伝える「何か」は捏造ではないといいきれる根拠は?
(1)足利義輝御内書(『大日本古文書家わけ第三 伊達家文書之一』219)
任奥州探題職御禮就申上義輝公御内書
就奥州探題職儀、為禮大鷹一本、馬一匹雲雀毛、黄金三十両到来、目出候、猶
晴光可申候、為其差下孝阿候也、
九月二十四日 (足利義輝)(花押)
伊達左京大夫とのへ
(2)足利義輝御内書(『大日本古文書家わけ第三 伊達家文書之一』221)
奥州守護代之儀被仰下義輝公御内書
奥州守護代事、申付桑折播磨守牧野弾正忠両人條、可存其旨事肝要候、為
其差下孝阿候、猶晴光可申候也、
九月二十四日 (足利義輝)(花押)
伊達左京大夫とのへ
(3)足利義輝御内書(『福島市史』第6巻,p173)
為毛氈鞍覆白傘礼、大鷹一連、黄金十両到来、被訖聞食、猶晴光可申候也、
五月三日 (義輝)(花押)
桑折播磨守とのへ
>伊達が探題なら裏書き御免の書状や朱の采配や屋形号の使用実績が何でまっ
たくないの?
それをいうなら同時期の(伊達晴宗以外の本来の)奥州探題の裏書き御免の
書状や朱の采配使用の証拠とやらを提示してからにしてくれ
>>38によると
>それに陸奥国は広いし、陸奥全域に支配権を確立させたり、南部らに守護に
任官されたからと言う報せの書状なども皆無だし分郡の守護の方が自然な話だ。
だそうなので、本来の奥州探題の書状とやらが伝存してるんだろ?
それを出せば終わる話だと思うが?
>なんで探題が家臣を守護代にするの?守護と探題を混同するアホって伊達だ
けだよね。
何度もいっているが桑折・牧野を守護代に補任したのは幕府だって… 裏書き御免の書状、朱の采配や屋形号の使用実績、白傘袋うんぬん、訳知り顔
で語られても正直意味不明。それらがこの時期、奥州探題補任の必須事項であるこ
と、また本来の奥州探題(大崎氏が探題を続けていたといいたいのか?)がそ
れらを保持していたことを証明してから語ってくれよ
当初あんたが持ち上げていたはずの小林清治は、伊達氏の奥州守護職は「儀礼的
権威的なものにすぎなかった」と論じている
小林清治「第2節 奥州探題伊達晴宗」『福島市史』p535-536
ところで、晴宗の「奥州探題」に対して、桑折・牧野が「守護代」となって
いることは、「奥州探題」が「奥州守護」にほかならなかったことを示している。
すでにみたように、稙宗の奥州守護職は、現実的な官職というよりは、すぐれて
権威的ないし名目的なものにすぎなかったのであるが、晴宗の例によれば、
その名目すら守護と探題が混同される状態となっていたのである。おなじころ、
桑折貞長は足利義輝から毛氈の鞍覆と白の傘袋を許され、その礼として大鷹一連
・黄金十両を義輝に親献している。これは奥州守護代補任と関連する格式であり、
晴宗の奥州探題職についてもこれに相当する格式が許されたものと推測されるが、
それらは所詮、儀礼的権威的なものにすぎなかったのである。
陸奥国を統一的に支配する国衙機構そのものがすでに早くから解体していた以上、
奥州守護=探題への就任は、それ自体では直接に権力的な意義をもたず、機能を
はたしえない。それは、守護=探題の権威によって、間接的に伊達氏の権力を
強化拡大するものとして作用したのである。
けれども、その作用が、ほとんど決定的といってよいほどに大きなものだった
ことは、稙宗の項に述べたとおりであり、晴宗の奥州探題就任は、伊達氏を守護
=探題の家として固定化させるものとして、きわめて重要な意義をもったと
いわねばならない。
ちなみに晴宗の奥州探題補任と同時期と思われる大友宗麟の九州探題補任に
書礼札は与えられていないそうだ
黒嶋敏「室町幕府・奥州探題のゆくえ」『陸奥国の戦国社会』p17
ここで目を転じて、西の九州探題を見てみよう。
伊達晴宗の奥州探題職補任と同じ永禄2年、大友宗麟は九州探題に補任されている。
この宗麟の場合も探題家並みの書礼札を免除された形跡はなく、「単なる名誉称号に
過ぎず」(田北学編『増補訂正編年大友史料』33頁)と理解されている。
以上、また他スレで隠れたようにレスされてもいちいち拾ってあげられないかもしれ
ないのであしからず
>>53
足利義輝御内書(1)(2)
大館陸奥守源晴光が金もらって偽造した書状でしょそれ
だから公家や幕府の要路の人の日記にも記載されていなくて
何年に出された書状かもさっぱりわからない不思議な書状。
もちろん、伊達家も家臣も、周辺諸国の書状などにも、
その事実がまったく知れ渡った証拠も使用実績も皆無。
裏書き御免の書状、朱の采配や屋形号の使用実績、白傘袋なにひとつ使用許可が書かれてない。
(3)なんてもう思いっきり怪しい書状だから家わけ文書に収録されず、米沢市史にも収録されてない
シロモノで福島市史だけが必死に掲載してるもんじゃん。
そもそも年代特定できない上に(1)(2)と日付もまったく違う以上、それらと関連あるのか
同時期のものなのかもわからない。
年代特定できんから広範囲に調べても、使用実績皆無どころか触れている文書や日記もない。
だいたい年が書かれてないのは御伴御教書ではないし、さらに日付より宛名がだいぶ下の位置に書かれている薄礼ぶり。
とても探題ほどを任じる書式じゃあないね。略式いや私的文書の体裁だよこれ。
>>稙宗の奥州守護職は、現実的な官職というよりは、すぐれて
権威的ないし名目的なものにすぎなかったのであるが
このように伊達に同情的解釈をして、中立性を保てない人は
あいまい表現で苦しい解釈を無理やり作り出して探題になったと肯定しようとしてる。
裏をかえせば、その微妙な言い回しこそが、限りなく黒だけど・・・白とする。
そう、最初に結論ありきで、どうにかしてでも探題を認めたいから弁明に明快さがない。
>>その名目すら守護と探題が混同される状態
普通にありえないことを無理やり結論ありきで語ろうとするから矛盾が生じてる。
そんなことは現実にありえないことに強引な解釈をしてる。
>>48
前代を
「前々」と言い換えるのこそが捏造歪曲そのもの。
書かれてない字句を付け足す時点で、その人の恣意的解釈がなされていて中立性が欠如している。
つかどっちも出てけやあああああああああああああああw
ここは葛西スレだあああああああああああああああああ!
葛 西 ス レ
葛 西 ス レ
葛 西 ス レ
葛 西 ス レ
葛西晴信でも晴胤でもいいから誰か来いやあああああああ(ムリいうnry
石巻系でも寺池系でもいいから葛西さんについて語れやあああああああw
伊達うぜえええええええええええええええええw さて、葛西について語ろうよ。
葛西晴信ってけっこう頑張ったと思うんだが、どうよ?
寺池系・石巻系、親伊達・反伊達の混迷の極みにありながら、
さらに江刺・千葉党・富沢・柏山などが自立化していく中で、
なんだかんだいって1590年まで家を保てたのは凄いんじゃないかと。
……うん、もちろん弱小と呼ばれる勢力にしてはね、って話なんだけどさ。
最初に読んだ本が葛西氏の動きを載せた本だったんで(「日本の合戦:奥羽編」だったような)、
けっこう愛着あるんだよな。
誰か葛西晴信について詳しい人、ぜひぜひご教授お願いしたい! >>55-56
あー>>53の(3)足利義輝御内書は
大日本古文書 家わけ三ノ一の27に載ってるので…
なんなのその知ったかぶりは?
ソースもない、自分の考えをサポートする論考も示せない、知識もないところで、
「偽造」「捏造」「怪しい」「はずだ」「ありえない」「読めない」などと
わめかれて、意味不明だから
であんたは、晴宗の代わりにどこの誰が奥州探題をつとめていたと考えているんだ?
酔ってるので細かくはレスしないが、いいかげん論理的に回答しろってw 河童は遠野だけでなかったのか。
ちなみに上野国にはカッパドキアなる遊園地があったらしいが今は荒廃してるとか。 どうも岩出山に昔、片目の妖怪猿が住んでたらしい
地元の住民は、「夜中に1人で徘徊する皮かむり竿妖怪藤次郎は服を着ておらず城下町で見かけたら、
接吻され股関をなめられた後に、男なら撫で斬りされたり、女なら妖怪の子を宿らさせられた後に発見されたりするから見たらすぐ逃げるように」って言って恐れたと古老の話に伝え聞く。 カンガルーが出たあたりは大崎の領地だが……。
>>59
弱小とはいうが、ガチで30万石はあったわけだろ?
あと、対大崎戦はほぼ全勝に近い状態で、
栗原郡の大半を奪取するところまでいってる。
東北地方の太平洋側の大名の悲しさ、小田原に行かなかったことで全部パー……。 >>70
どうだろう?
三十万石は検地の結果であって、葛西氏の支配構造を考えると
所領の広さと勢力の強さは比例していない気もするし
大崎家同様伊達に振り回されてるしなぁ……
大崎よりはマシだし独立を維持できなかった国分とかよりもいいとは思うけど、
小田原の役で ボッシュートです は悲しすぎる 小田原がもう少し近ければ、佐竹みたいなやりようはあったよな。<支配構造の転換 小田原行ったとしても、領土守れなかったらやっぱり没収だから
どのみちアウトだったんだよ 宮城県は仙台を別とすれば、石巻や登米を巡ってみると
伊達というより、葛西氏や大崎氏の領地だったことが
感覚的にわかる。
葛西、、工藤
と、、青森には多いよ苗字
流れたんだな 青森には、津島も多い、、太宰も津島だ
対馬から流れてきたな 伊達家から入嗣したのは晴胤ではなくて、晴清なんでしょうか? 戦国大名葛西氏家臣団事典
紫桃正隆
宝文堂
っての読んだ人いる?どうだった?
高いんで手出すか迷ってる >>87
葛西家臣以外だと歴史研究家くらいしか面白いとは思いません。
どこに誰が居たと言う情報がただ並んでいるだけです。
ただ宮城・岩手地方だと自分の苗字と宗家の場所とがわかれば
鎌倉期〜戦国期に葛西家臣だったかどうかがわかります。
>>82
工藤なら鎌倉時代に黒石をおさめていた工藤氏の関係だろうな
工藤は南部と婚姻を結んで繁栄した 佐竹のようになるには国人を粛清しまくるしかないじゃん >>94
伊達の軍事行動に葛西が従った事なんてある? 伊達正宗に謀殺されたという武鑓典膳にゆかりがあるのでしょうか、
倉敷の曽原地区に武鑓姓が結構あります。 >>99
その説に固執するやつと論争になったことあるけど
俺は「二系に分かれた説」は信用できないと思う 旧伊達家領の百姓衆(肝煎層)は葛西旧臣・大崎旧臣って意識強そう くず [葛]マメ科のつる性多年草。秋の七草の一つ
にし [西]方角の一つで,太陽の沈む方向。北に向かって左。また,その方向にある場所。相撲で,正面から土俵に向かって右の方。また,番付の西方(にしがた)。東洋に対して,西洋。また,東欧に対して,西欧。「西の文化」 末裔(?)が銀と銅2つもメダル獲れてよかったね!! 室町期には奥州大名の席順はあるよ、上から大崎、留守、葛西伊達は同列、白川結城、蘆名は同列、桃生千葉,登米千葉、相馬、田村は同列、だと思う 葛西とか大崎の歴史に詳しい郷土史マニアのおっさんや爺さんたちも
ほとんど津波で死んじゃったし本とか資料も散逸したの多そう
みんな手元にある資料は捨てるなよ >>87
そういうの図書館に注文カード出せば仕入れてくれるよ
借りて読んでみて手元に置きたいと思えば購入すればいいんじゃないかな
もしかしたら同じ都道府県のどこかに蔵書があれば
他の図書館から取り寄せてくれるかもしれないし 【平昌五輪】葛西「韓国料理は好きなので合っている。味もおいしい」食事には満足も「暖房が壊れていた」 平昌選手村を公開[02/06]
http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1517911502/
【平昌冬季五輪】葛西、食事には満足も「暖房が壊れていた」 平昌選手村を公開
http://hayabusa9.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1517923640/
/(^o^)\ナンテコッタイ 大崎氏がまだ奥州探題として力があった時代の席次
伊達ー葛西ー南部ー留守ー白河結城ー蘆名ー岩城ー桃生ー登米ー深谷ー相馬ー田村ー和賀ー稗貫の序列
斯波は別格、羽州探題の最上も別枠になるのかな
21 奥州といえば相馬氏スレが埋まったので次スレ建ててほしいです 葛西氏自体内紛説もある訳で争いに負けた側が津軽に逃れていてもおかしくはない 東北でイマイチだったのは、
もっと蝦夷地行けば良かったのに 大崎(俗に30万石)は、根回しして、旧封土三分の一にて、御家家名再興を図っていたが、伊達が旧大崎、葛西の一揆をそそのかし、その後伊達は旧大崎、葛西領への転封が決まり、大崎家復興はフイにされた。 石高かなりあっただろうになんで伊達に従属してたんだろ 伊達に従属しないと家中が纏まらないからじゃね。
室町時代は名家としてそれなりに纏まっていても、戦国期に時代が下ると
遠い親戚というかほぼ他家になるなんてよくある話しだし。 和賀氏、仙北小野寺氏と共に最盛期の南部家の南信を食い止めた功績はもっと認められてもいいと思うけどな REVELATION
資金源/コング
フロント/天下り/右翼思想
フィクサー/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入
汚職/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入/揉み消し
揉み消し加担 >>127
亀レスだが大崎20万石のうち半分以上は北上盆地の柏山が領有してたからかと。
当時の登米近辺や石巻はヤマセが直撃することがあって石高は高くないしな。 今の岩手県金ヶ崎市で九戸政実とも戦ったらしいね。
西は大崎、北は南部となかなか苦労してたんだな。 九戸政実に従属した斯波御所が九戸の助力を得て
江戸時代には金ヶ崎要害とされる伊達と南部の藩境の地で
戦っていたらしい