【東播磨】別所氏を語る【三木城】
>>90
後藤又兵衛の父・基次は長治の家臣で又兵衛自身も少年時代三木の干殺しを体験したとかしないとか。 >>93
あ、別所の家臣はダメなのか。いやでも又兵衛自身は別所家には仕えてないからアリ? 播磨はもともと豊かな土地だから、何かあっても適当に強そうな方に合わせとけばええやん
まあ、何とかなるやろって感じだろw 完全に侵略されましたね。本当にありがとうございました。 >>95
>>96
田舎者なので中央情勢に疎く、
強そうな方でなくて、弱そうな方に合わせてしまったから。 最近目にする「別所就治が尼子に降った説」の典拠がさっぱりわからん。
何か新史料でも出たんでしょうか? >>99
上月に義久の墓があるとかそんなことからじゃないの? >>99
三好侵攻と尼子が志方まで瞬間最大風速でやって来たのがごっちゃになってるんだろう。
尼子城の将監墓は遠すぎてたぶん関係ない。
山口の大内
広島の毛利
島根の尼子
岡山の宇喜多
阿波の三好
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
鳥取の山名、武田、南条
兵庫の赤松、別所、宇野
香川の香川、十河、
>>99
多分、得平定阿の『赤松記』の新解釈。
晴政が摂津瀧山に避難した際のくだりを、読み込んで解釈したんだろうて。
それより、いつまでたっても「就治」の表記が改まらないのはなぜだろう。 週間ヤングマガジンで連載しているセンゴク天正記が
ついに播磨編に入りましたよ。
先生なら三木合戦も熱く書きそうだし楽しみですね。 三木に長い事住んでましたよ
保育所は城址の本丸にある保育所でした
昔は塀とかなかったのですが今は長治像や銃眼付きの塀が建ってます
釜山と言われる本丸からかなり離れた大宮八幡宮あたりまで城だったらしく規模はかなりの大きさですね
淡河城もそうですが典型的な中世の山城です
蓑川沿いが再開発で住宅地になった時に三木合戦の遺骨が沢山出たらしいですよ
今度の休みにドライブがてら淡河あたりに行ってみようかな。 渡邊大門『戦国期赤松氏の研究』岩田書院(2010年5月刊行/定価 7,900円・税別)
<目次>
序 章 赤松氏研究の現状と課題
第一部 赤松氏と守護代・国人層
第一章 西播守護代赤松政秀の権力形成過程
第二章 東播守護代別所則治の権力形成過程
第三章 戦国期における播磨国一宮伊和神社と宇野氏
第四章 赤松春日部家の基礎的研究
第五章 美作地域における奉公衆の研究
付論1 戦国初期の宇喜多氏について
付論2 中近世移行期における宇喜多氏の権力構造
第二部 戦国期赤松氏の領国支配構造と展開
第一章 戦国期赤松氏の領国支配の構造
第二章 戦国期赤松氏の領国支配の展開
終 章
あとがき 別所就治┳安治┳長治┳竹姫
┣吉親┗友之┣虎姫
┗重棟━吉治┣虎千代
┗松千代 天文5年から9年にかけての尼子詮久の備前・播磨への大遠征。
いずれも敵はなく候(大館常興日記)。
赤松晴久は、命からがら淡路に逃亡。
しかし別所村治のこもる三木城が攻略できず撤退。
村治とは、就治の父?? 村治=就治では?
則忠─則治─就治(村治)─安治─長治なんじゃあ? 連投申し訳ない
武将の家紋-戦国大名家一覧というところが詳しい 【長治が信長に謀反しなければ…】
本能寺の変のとき秀吉・長治(村重もかな)は安芸・石見まで侵攻
秀吉は長治に侵攻を任せて中国大返しをして明智を滅ぼす
清洲会議までに長治は毛利を滅ぼし三木から防・長・芸90万石?へ転封
賤々岳・長久手には九州の抑えのため不参加
九州攻めは筑前方面から攻撃。功により豊前を加増され100万石に
朝鮮攻めに参加して5万石加増
関が原に西軍として参加、勝利
備後20万石加増される
三木城跡の総合報告書、買ったやついる?
一般販売を知った頃にはもう売り切れだったんだが・・・
増刷してくれねえかなあ。全コピーはかさばっていやなんだよなー。 うちのご先祖だけど人気ないなー
イケメンだったとかネタがないからかな? >>122
はやく由来書や古文書を公開するんだ!
別所は良質な史料が少なすぎるからマジ困る。 「女中(と言っても少女)が赤ん坊だったご先祖を
抱えて城から逃げた」
ってな話を小さい頃祖父から聞かされてたけど、うちの母(嫁いで来た)は
「そんな非現実的な話ある?どうせ寝返ったんだよ」
って言ってる。
古文書は知らない。家図は見たことあるけど上のような理由であまり信じてない。
お取り壊しになった後もうちの一族は代々裕福だったらしいとのことです。
>>125
レスさんくす。
別所に「味方した」家の子孫って名乗る人たちは結構いる。
赤松の一族って名乗る人たちもたくさんいるけど、
別所の子孫って名乗る人たちって、あんまり聞いたことないんだわ。
それだけに>122さんの家の話がすごく気になる。
案外、本当だったりするかもよ。
裕福なうちだったということだけど、庄屋とか肝煎とかやってたのかな。
差し支えなければ、どのへん(郡名くらいでかまわないから)に住んでたかを教えてもらえる? 江戸で呉服商をやっていたそうです。
詳しく書くと親戚に怒られそうだからこれくらいで。 ごめんね。根掘り葉掘り。
それくらいに興味深かったもんで。
武士として潰れても、子孫が幸せに暮らせたんだから、
家としては成功した方っていえるのかな。
赤松惣領家みたいに行方不明同然に消滅するより…。
ともかく、おもしろい話をありがとう。 どーも、三好氏スレのモンですが
ここの人達は勿論別所氏関連の資料を持ってると思い伺いました。
三好氏の播磨攻めに関して何か別所氏側で三好氏に関係する事柄が載っていたら教えて欲しいです。
相手側の資料に新記述があったりすることも案外あり得ると思うので
渡邊大門『戦国期赤松氏の研究』岩田書院(2010年5月刊行/定価 7,900円・税別)に別所氏の論文が載っているが、これがなかなか参考になる。渡邊大門『宇喜多直家・秀家』ミネルヴァ書房(2011年1月10日刊行/定価3,000円・税別)を読むと、もっと当時の情勢がわかるぜ。 俺はむしろ別所氏など自立傾向に発展した国人とは逆に、
領地が分散点在してしまい集約出来なかったのが原因で、
赤松氏権力に頼らないと維持できず、
赤松氏の政治機構を守る側についた上月氏について詳しく知りたい。
>>81
英賀城にも籠城してるんだけど、どっちが先なんだろう。
三木城落城後に英賀城下の広に居住したとあるけど、時間的に可能? 情報提供だぜ。
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論 文
中 脇 聖 戦国期一条氏の家領維持政策に見る福原荘と幡多荘
畑 康 明 戦国期播磨国における「地域権力」の形成過程
―播磨国清水寺を通じてみた依藤氏を中心に―
渡邊 大門 美作国後藤氏の権力構造
書評と紹介
片山 正彦 大西泰正著『豊臣期の宇喜多氏と宇喜多秀家』
中村 直人 渡邊大門著『戦国史研究叢書7 戦国期赤松氏の研究』
文献目録
渡邊 大門 赤松氏文献目録稿(2010年1月〜12月分・補遺)
投稿規定・バックナンバー
【『年報赤松氏研究』第3号(2010.3)目次】在庫あり
論 文
大西 泰正 宇喜多秀家と豊臣政権
苅米 一志 明応五年備前国金岡県西大寺化縁疏并序の成立 ―龍澤天隠をめぐる人々と観音信仰―
光成 準治 中・近世移行期における村落統治と法 ―備前・美作国を中心に―
渡邊 大門 戦国期依藤氏の存在形態
研究動向
片山 正彦 近年の宇喜多氏研究をめぐって
書 評
森脇 崇文 濱田浩一郎『播磨 赤松一族』新人物往来社
文献目録
渡邊 大門 赤松氏文献目録稿(2009年1月〜12月分・補遺) 別所吉親の吉って、秀吉から一文字もらったと思ったが、
不仲だったことを考えると別の由来があるのかな? 別所吉親内室お波の畠山総州とはいったい誰でしょう? 畠山には総州家と尾州家があったようで、二人とも尾州家の人なので
違うと思います。年齢的には尚誠かと思うのですが何の根拠もありません。
詳しい人いませんか?
総州家なのは間違い無いのでしょうか?
ネットで調べた限りでは政国とか昭高と書いてあったりします。
私がちょこっと調べた事なんて、当然調べてらっしゃるんでしょうが^^;
wikiだと安治の生年が1532年で重宗の生年が1529年になってるな と言う事は、wikiはあまり当てに出来ないみたいですねー
どっちにしろ畠山も落ちたね
赤松一族とはいえ相当遠い分家の庶子の嫁とは 公家の娘が三河の土豪の家臣の、そのまた分家に嫁に行く時代だからねえ 「三木戦史」によると、新城の戦いでお波が「女と思い侮るな。畠山総州が
娘なるぞ、我と思わん者あれば、いざ組まん」と鬼神の如く立ち働いたとある。
でも「三木戦史」自体が事実と違う可能性もあります。お波が自刃したのが
1580年1月17日、当時23歳説、28歳説があり、政国は1550年没説、1552年隠居説が
あり、少しむりがあるようです。昭高は時代的には合うようです。この件はもう少し
研究します。皆さんも新情報があれば教えてください。 畠山総州と名乗ってるわけだからやっぱり尚誠じゃないのかね
当時は尾州家の家臣みたいなとこにまで落ちてたみたいだし、
娘が地方豪族に縁付いても不思議はない
つか吉親ともそうとう歳の差あるな 細川管領家も高国娘が赤松有馬の分家に嫁いでいるからな
同族争いで味方作るためには手段は選らばないのでは 別所に滅ぼされた依藤氏の事ってどのスレにおいてもほとんど語られた事無いね
まあ単なる一地方国人レベルだけど戦国初期の東播磨ではそれなりの勢力だったのでは? >>126別所の子孫は3系統あるよ。一つは八木藩の別所吉治の系統。参勤交代をサボって八木藩お取りつぶしの後は、
旗本になっている。あとは、三木姓で水戸藩の家老になっているよ。そして、水戸光圀が父親から
殺せと言われたのだけど、こっそりわが子として育てているよ。そして、水戸には三木神社がある。
そして、その一族の子孫は、三木啓次郎という人で北辰一刀流の達人で松下幸之助の暴漢から
すくって、二股ソケットの話を聞いて資金援助した。それで松下が大成功して三木神社は松下の
資金で建てられている。あとこの縁で松下が水戸黄門をスポンサーで始めた。三木啓次郎は
このあたりの経緯を堺の南宗寺の家康の墓を再建した時書いている。あと、別所の一族で
黒田藩に使えて、黒田騒動に連座して京都で豪商になった三木清閑という人もいる。
この一族の一派は幕末まで黒田藩で300石ぐらいで藩の勘定方などをしていた。
どうもこの一族は以上に意地張りで主君といまいち反りが合わないことあるけど
理財の感覚はあるみたい。 三木城は1617年まで存在していたわけで、豊臣政権下では大名の居城で、
徳川政権下では姫路城の支城ながら伊木氏3万7千石の居城だったわけなので、最終的には近世城郭で天守もあったと思いますが、
6年ほど前の本丸跡の発掘調査では、伝天守台は天守台ではなく、廃城後に作られた土盛りとのことです。
で、あるならば、本当の天守台はどこにあったのか、ぜひ調べてほしいです。
絵図が残ってないので天守の姿はわかりませんが、天守台の跡が例え基礎部でも見つかれば、おおよその規模がわかるので、予算があれば、模擬天守を建てることができます。
なぜ模擬か?と言うと、史料が無いので復元が無理だからです。
それに、三木城跡が既に土地開発されすぎてしまっているため、いまさら復元なんて虫が良すぎます。
なので、三木市のシンボルとして、模擬であることを前提に天守らしい建物を建てるのがいいと思います。 播磨に織田勢力を引き込んだ張本人は別所氏なのだが、大抵の小説では
黒田官兵衛が別所を織田に引き込んだことになっている。 諸篭りで約7500人だったから、別所氏は吉田郡山城の戦い時の毛利と同規模と思っていいのかな >>162
領外の勢力も多いので,比較できない。
例えば英賀の三木氏も400人くらい派遣している。 >>161
別所「長」治
黒田「長」政
一文字拝領的には同格なのか?
「長政」は随分後になってからだがw 長政
木沢長政(高屋畠山氏の重臣)・・・河内国の守護代。左京亮。河内飯盛山城主
三好長慶と争い敗れ、討ち死
木造長政(木造具政の子)・・・織田信雄に仕えていたが没落すると、
織田秀信の家老関ヶ原敗戦後、福島正則に仕えた
市橋長政(織田信長に仕えた市橋長勝の養嗣子)・・・越後三条藩の第2代藩主
池田長政(池田恒興の四男)・・・関ヶ原の戦いでは兄・輝政と共に東軍に与して
上杉景勝攻めで軍功を挙げ1万5000石を加増、播磨赤穂城主に任命された
その後、さらに1万石の加増を受け、最終的には3万2000石の領主となる
早川長政(豊臣秀吉の馬廻衆)・・・豊後国府内城主2万石。関ヶ原敗戦後改易。
大坂の役の際、大坂城入城後消息不明
織田長政(織田有楽斎の四男)・・・大和国戒重藩1万石初代藩主
織田長政(宇陀松山藩主織田高長の3男)・・・高家旗本織田家第1代当主
関長政(美作津山藩主森忠政の重臣・関成次の次男)・・・兄・森長継が
第2代美作津山藩主として後を継いだため、兄より1万8700石を分与されて
津山藩の支藩である宮川藩を立藩
上杉長政(徳川家旗本上杉長員の長男)・・・高家上杉家第2代当主
下記参照
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5:Search?search=%E9%9.. 「のぼうの城」を観て思ったんだが、三木合戦の映画かTVドラマを作れば
おもしろい作品になるんじゃないかな?
別所長治が「のぼう」みたいなやつという設定で、
実際に若かったし、百姓・町人から好かれていたとすれば、町おこしにもなる。
毛利と織田から次々と使者が来て、あの手この手で味方に誘うんだけど、長治
がアホな返答ばっかりする。
業を煮やした2人の伯父・吉親(賀相)と重棟(重宗)が長治抜きで相談する
が物別れになり、吉親は毛利に、重棟は織田に通じてしまう。
加古川での会議で、秀吉の態度に激怒した吉親が開戦を主張し、長治も開戦に
同意してしまう。
最初の戦闘で別所方が羽柴方を撃退。まぁ緒戦なので羽柴方も本気でなかった
ろうが、「のぼうの城」のようにオーバーに「勝った」ことにする。
さらに淡河定範が羽柴秀長を撃退して、三木城に入るシーンも入れれば、盛り
上がる。
そして、兵糧攻め。ズル賢い秀吉の汚い手だと、観衆を怒らせるための演出を
盛りだくさんに入れる。
平井山の戦い。これは決死隊を組んで秀吉の本陣を急襲した戦い。
別所方の視点で描けば感動のシーンになる。
大村の戦い。三木合戦の中で最大の戦い。別所方は最後の出撃。
淡河定範とか有力武将が討ち死に。泣ける。
随所に秀吉と信長のズル賢さ、性悪さを表すシーンを織り込む。
この時点で、観衆は「この世に秀吉と信長ほど悪いヤツはいない」と完全に
洗脳される。
籠城が1年8か月たち、ただの飾り殿様だった長治が、自身の切腹と引き換
えに城兵の助命を願い出る。
このシーンをことさらオーバーに描けば、観客は大泣きする。
どうだろうか?
「のぼうの城」の真似だって叩かれるだろうかね? >>168
別所は信長上洛の段階から信長方だけど。
いち早く信長についた別所安治(長治の父)が死んで、安治の弟の親信長方の重宗と反信長方の
賀相の兄弟ケンカが始まったのが最大の原因。
安治がもう少し長生きするか、長治が祖父就治並の能力があれば、三木合戦は無かったと思う。 名字が別所って人は子孫なのか?あんまり聞かない名字だが。 >>170
赤松氏時代から別所と浦上は同格だったのに
信長へワイロを贈ったために浦上の下に別所が帰属する方針となったために
別所が親織田派と反織田派に分裂したの過ぎない。 >>172
確かどっかの大学教授のじいさんのはず。
苗字も別所じゃなかったような…
別所長治自体の直系子孫はいないはずだから、血縁者の中から代表立てて子孫名乗らせてるんじゃないかなあ。 黒田官兵衛始まって盛り上がってくれるといいのだけれど。
三木城、三木合戦とかって全国的にどのくらい有名なんだろ?
地元に住んでると別所長治の辞世の句が空で言えたり3時のおやつは長治煎餅だったりするんで(嘘)有名かどうかよくわからん。 ほぼ太閤記の時価と連動するから、韓国がうるさくて昔ほど秀吉を庶民のヒーロー的に持ち上げられない今は、
良い敵役としての別所氏の知名度も下がってるだろうな。昭和の末ごろは大人なら誰でも知ってたんだが。 三木合戦って太平洋戦争に似てない?
最初はいいけど、すぐに防戦一方になり、だんだん包囲網を狭められて、兵士は餓死。 >>177
別所長治は、2人の叔父が全てをやってくれるおめでたいおぼっちゃんで、
優柔不断な性格に育ったせいで、お家の一大事にまともに状況判断できず、
最後は腹がへって降伏して自害しましたということを、大河によって全国
に知らしめたわけだな。 城兵の命と引き換えに切腹した別所長治は、今でも三木市民の誇りと言われ
るが、その話自体、戦いの後に治めやすくするために秀吉側が流布させた可能
性があるという説があるらしいね。 別所の方が先だから、清水宗治「に」似てるというのは違うんじゃないの 別所長治と清水宗治の逸話が似てるのは、どちらかが創作でコピーされた可能性もあるのか 俺の父親が三木出身で、父方の親戚も三木にたくさんいた。三木城そばのナメラ商店街によく行ったものだ。30〜40年前のことだが。 同じ播磨に三木氏がいるからややこしいよな
三木氏の三木は讃岐の地名から来てるらしいが 別所安治は天文元年(1532年)生まれで嫡男
別所重宗は享禄2年(1529年)生まれで三男
重宗は庶子ってこと?それとも資料の記載誤り? 山本太郎
愛媛県の伊方原発が再稼動される。正気とは思えない判断だ。東電原発事故や熊本地震から一体、何を学んだのだろうか?
http://ameblo.jp/yamamototaro1124/entry-12189491723.html
マイト レーヤは原発の閉鎖を助言されます。
マイト レーヤによれば、放射能は自然界の要素を妨害し、飛行機など原子のパターンが妨害されると墜落します。
マイト レーヤの唇からますます厳しい警告と重みが発せられることを覚悟しなさい。彼はいかなる人間よりもその危険をよくご存じです。
日本の福島では多くの子どもたちが癌をもたらす量の放射能を内部被ばくしています。
健康上のリスクは福島に近づくほど、高まります。福島県民は発電所が閉鎖されれば1年か2年で戻って来られるでしょう。
日本の近海から採れた食料を食べることは、それほど安全ではありません。汚染されたかもしれない食料品は廃棄すべきです。
問題は、多くの人々が核の汚染の影響で死んでいるのに、日本政府が、原子力産業を終わらせるおそれのあることを何も認めようとしないことです。
注意欠陥障害(ADD)多動性障害(ADHD)、慢性疲労、あらゆる種類の癌の増大、呼吸そのものが脅かされています。
世界中で病気、主に皮膚、心臓、肺に関する病気の発生率が上昇し、ずっと昔に征服された病気が復活しはじめています。
汚染による死者の数は、他のいかなる原因よりも多いです。河川の汚染は社会に対する犯罪と見られなければなりません。
免疫システムの崩壊の結果がアレルギーです。人々は肺炎やインフルエンザやHIV/エイズなどに抵抗できなくなっています。
認知症の過程は放射能汚染によって加速します。増加するアルツハイマー病の原因となっており、より若い人々に起こっています。
2011年
3月18日 「致死量の放射能を放出しました」東電の小森常務は、こう発言したあと泣き崩れた。
事故に直接責任のある清水・勝俣に20億円を支払い、事故当時の経営陣は全員、全額退職金を税金から分捕って逃亡 >>189
三木氏は河野氏の一族であり本性は鴨氏。
別所氏は赤松氏の一族で本性は源氏。