【下克上】三好氏スレ2代目【天下人】
プレ織田政権って評価はどうなのかな?
権益問題の解決に三好氏が最終処断まで行っていないっていう歴史家の評価もあるし、
信長や秀吉のように天下の為を大義名分として諸大名に動員かけてたようにもみえないし、 義輝を擁した三好政権は足利体制を解体していったじゃない
長慶死後の内訌も結果として三好政権の崩壊に繋がったけど
その過程で旧体制も十分に弱体化していなければ
信長の天下制圧は史実以上に困難になっていたよ 久秀は長慶死後は自分の利益中心に行動してたって聞いたんだけど
実際は義継との関係はどうだったの? 9月16月曜 22時 BSTBS
にっぽん歴史鑑定 信長より先に天下人になった男 三好長慶 >>592
期待だな
最近のNHKの歴史番組より良い仕事してると思う 三好長慶は智謀勇才を兼て天下を制すべき器なり、
豊前入道実休は国家を謀るべき謀将なり、
十河左衛門督一存は大敵を挫くべき勇将なり、
安宅摂津守冬康は国家を懐くべき仁将なり
『南海治乱記』より 私は三好姓の者ですが、先祖について非常に情報が少なくて調べています。徳島の三好市役所まで行き調べてもらったのですが詳しい系譜は明治までしか無くその以前の物は全く分かりませんでした。 その後父の話によるとよく美馬市脇町の辺りの公園で兄弟で遊んでいた記憶があると言われたのですがこの辺りに残った三好一族として考えられるのは実休らしいのですが…何か手がかりはありませんでしょうか。 三好氏には名前が残っていない一族も山ほどいるからなあ
姓と昭和期の住所だけで特定は厳しい 596です。現地に三好長慶武者行列の主催者のお一人にお会いできたのですが、三好町及びその近辺にはそもそも三好姓の人が多くなく、その辺りの出身ならばほぼ末裔で間違いないとの事でした。しかし系図が残っている訳でもなく途方に暮れておるところです。 明治時代まで辿れてるなら、その住所付近のお寺に連絡とってみるのはどうだろうか
もしかしたら過去帳が残ってるかもしれないし 前になんでも鑑定団に出てた曜変天目茶碗に三好氏の系図が付属してたぞ 三好三人衆の一人・釣竿斎宛て利休の手紙 永禄年間、親密な交友
茶道を大成させた千利休が、徳島ゆかりの戦国武将三好三人衆の一人、三好釣竿斎(出家前は政生)に
宛てた手紙が見つかった。茶道史に詳しい茶道資料館(京都市)の筒井紘一顧問は「手紙から利休が、
釣竿斎から茶席に招かれて茶道具を鑑賞したこと、釣竿斎がお礼のため利休を訪ねたことが分かる。
江州(滋賀)の地名があるが、前後の意味は詳しく分からない」と話す。
昨日は、そちらにうかがって茶道具2品を拝見し、お茶も大変素晴らしいものでした。また、その後、
茶席のお礼としておたずねいただき、恐縮に存じます。うかがってお礼を申し入れるべきところですが、
近江国へ行くと「香」がおっしゃっておりますので、その件につき、取り乱しております。
恐惶謹言 16日 易(花押)
https://news.yahoo.co.jp/articles/eece97061f5011fca38a7c2bf239102bd28bf240 >>1
小笠原氏と三好氏の動向と系譜
南北朝後期の小笠原頼清とほぼ同じ世代に三好義房・義隆が系図に記載される
義隆について、久米左京亮と号し予州久米荘に居した(譜註)
久米氏は平氏を名乗ったがそれでも三好同族という所伝は残した
久米氏は神話の大来目命の子孫とあるが(神話は全部嘘)実際は球磨隼人の末裔 信長上洛時の三好家って何であんなに弱かったんだろ?
あっという間に四国へ逃げてしまう
それだけ内部分裂が酷かったのかな? >>606
もう主力が淡路海軍しか残ってなかったんだからしょうがない >>606
長慶の時代だって四国勢の軍事力をあてにしてたくらいだし畿内を拠点とする本宗家、三人衆、松永じゃ大した抵抗もできんだろ >>606
六角が想定より簡単に崩れた
三好宗家と松永が信長に寝返った
神輿の義栄が瀕死の重病だった
畠山が義昭についたので南北挟撃されら恐れがあった
戦力を温存するために戦略的撤退をしたのが大きいと思う
その後も本圀寺奇襲や野田福島の戦いなど信玄が死ぬまではかなり頑張ってる 岩成主税が六角の援軍に向かったが間に合いそうになかったので
取って返して勝竜寺城に籠もった
というのをどこかで読んだけど出典も何もわからなかった 松永久秀が村上水軍を動かしたというのが最近の研究で分かってきたそうだぞ
理由として一番しっくりくる >>613
もちろん毛利などの西国大名の窓口を久秀が三好長慶下でやってたから村上水軍にも顔が利いた
村上水軍は三好の水軍の縄張を奪うチャンスでもあるからその話に乗ってくる
四国への渡海を封鎖されたら三好は困るんで逃げ帰る
こんな芸当は当時の上洛したばかりの信長には西国へ顔が利かないから無理 >>613
河野は三好長逸を取次として長慶と通じてたし
実休が西讃岐守護代の香川を攻めた時には河野と村上水軍も応援を出してたとか
1567年頃には河野と伊予村上水軍は毛利の傘下に入ってたので
信長が上洛軍を起こした1568年に久秀が村上水軍を直接動かしたというのは考えにくいかと
毛利には先に仁義を切った上で村上水軍と義昭の取次をしたんじゃないかな? 麒麟が来るに全く出ないな
義継の名前だけで三好一派っていうその他大勢扱い 大河ドラマに三好長逸でるね
宮原将護って長慶より若くてイケメンじゃん
出してくれるのは嬉しいけどこのペースだと赤井直正とか内藤如安とか丹波勢が省略されそう 三好三人衆、三好義継まで出た大河なんて初めてだろうね
長慶、久秀は今までもあったけど >>615
村上武吉の能島村上水軍ね
1568年に村上武吉は毛利の援軍と共に備前の香西又五郎(三好長治家臣)と戦って勝利
村上武吉は勝利したことを松永久秀に伝えている 松平忠明の側室に「三好氏」がいるが、誰の娘なんだろうか?
忠明著とも言われる当代記が長慶政権期から始まってることと
関係してるんじゃないかと妄想してみたり 松永久秀が主人公のマンガ連載始まったね少年マガジンで >>107 >>270
>永禄の変は『暗殺』という認識食らって・・・・
公方足利義輝を殺害してまで三好三人衆は何を実現したかったのか? >>623
最近の研究だと御所巻のつもりだったのが要求を拒絶されて現場の兵士が暴走しちゃったという説が有力らしいね
あと信長公記には、義輝がご謀反を企てたために(死んでるはずの)長慶に誅殺されたと書かれてるし、当時の認識もそんなもんだったんじゃないの 三好三人衆は未結成だったらしいしね
三好長逸や松永久秀はすぐに事態の収拾に動いてるし
政所執事の摂津晴門がクソ無能過ぎて
解任を迫っての御所巻きだったのに
義輝側がいきり立って暴発したみたいな >>626
松平忠明は大坂の陣のあと、摂津大坂藩の藩主を務めている
当時、河内には旗本の三好為三が存命だから大坂復興で協力しただろうし、
同じく河内に所領があった三好房一も忠明が大坂藩主になる前年に死んでいる
そのどちらかの一族から娶ったとしてもおかしくない >>626-627
正室ではなく側室なら旗本よりは家臣の方がと思うがどうなんだろうね >>565
松永のライバルと三好家中でいうなら同じ長慶抜擢の岩成では?
長逸は別格だろう >>624
長慶存命の頃から計画されてたと言う認識なのかな 細川氏之と三好之虎
↓
細川持隆と三好義賢
↓
流布
不思議 織田家旗本から高家が出ている。しからば、同じく畿内を席巻した経験のある三好氏から高家が出ても良かったかもしれない。 >>547 >>544
三好長慶・義興親子の相継ぐ死後その子や孫は
何処に没落したのだろうか? >>631
細川持隆→『櫛淵村細川家旧記』→『平島殿先祖幷細川家三好家覚書』・阿州足利平島伝来記』
三好義賢→『三好記』『平島殿先祖並細川家三好家覚書』『阿州足利平島傳来記』『阿州古戰記』
『阿州足利平島傳来記』・『平島殿先祖並細川家三好家覚書』
この2つというか平島公方家周辺から広まった・広まっていく感じ ワシが見た中で まことが一番 負け惜しみをほざくのじゃ 本人も納得じゃろ ?!