【下克上】三好氏スレ2代目【天下人】
のぶやぼでは長慶の本拠だった芥川山城が無くて
十河一存が松浦家養子乗っ取りするまで松浦家のものだった岸和田城が長慶の居城扱いされてるのはどういう事なのか
一国一城制のタイトルはまだしも一国に複数城がある創造や戦国立志伝でも芥川山や飯盛ではなく
かたくなに長慶の居城を岸和田城にする(それもまだ岸和田城が三好家の城ではなかった頃から)のは何考えてるのか 三好氏の拠点は越水、十七箇所、芥川山あたりの摂津北部なんだよな
越水は戦国立志伝で建てれるようになったけど
芥川山は城下町こそないが晴元長慶時代の政治の中心地だし規模も大きいので長慶存命のシナリオまでは本城扱いにして欲しいものだ
マップ引いたときに摂津に卍がデッカく表示されるのいつも腑に落ちないもの >>531
天下創世だと長慶の本拠地は芥川山城になってるよ
烈風伝の方は高屋城だけど
後は知らん 三好政生の号がWikipediaだと釣竿斎になってるけど長坂と同じ釣閑斎じゃないの? DC-BANKからの返答
古 着一枚で(調 査会 社?)を使っていたら大 赤 字です。(調 査会 社等)のど こが
具 体的なのでしょうか?被 害 届?早く出し てもらえると ありがたいです。
落札者から 「 非常に悪い 出品者 」 と評価されました。
落札者からのコメント:店名で検索すると被害が沢山報告されています。過去には偽物の販売や
ネットに個人名まで書き込まれた落札者もいるようでした。落札者の個人名を第三者が悪戯で
書き込めるでしょうか…?
DC-BANK 返答出来ず
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ネットも過熱「娯楽番組では済まされないぞ」
http://www.sankei.com/west/news/170216/wst1702160005-n1.html
> 三好家の家系図などと一緒に埋もれてしまっていたが、
> 気になって番組に鑑定を依頼したようだ。
この家系図のほうこそ国宝級
家系図がぜひ見たい
「三好政勝」とかどう書かれているのか知りたい ttps://pbs.twimg.com/media/C0H-ewQUoAAbPHq.jpg
これか
モザイクがかかってるところは「一存ノ實子〇長慶ノ養子トス元亀一年七月ニ死ス」と
読めるから義誥は義継のことだろうけど、元亀?天正じゃないのか?
長慶の隠居城もなぜか摂州中ノ嶋城になってるし突っ込みどころだらけだね 久秀が毒殺ってのも俗説
見るからに後年作られたもんだろね 仮に毒殺だったとしても、久秀がやったって決めつけるのおかしいよね 義興は祈祷とかもしてるし普通に病死だろうけどね
むしろ久秀は長慶の次に義興の死を悲しんだんじゃないかって意見もあるが
柳生文書にある久秀の手紙の内容を知るとあながち間違いでもないと思う
この間須藤氏の講演で茶碗の話が出たけど、明言はしなかったが
あの茶碗が三好長慶由来のもの、というには難しいのでは、という趣旨
の発言をしてたよ 下層から長慶に見出されて出世して身分を得た久秀にとったら長慶義興親子の死は三好家中における自身の身分保障者の消失みたいなものだろうし
自分の三好家中での地位にもかかわるだろう義興の病状は必死で心配して八方手を尽くそうとしたとしても当然だろうな
実際長慶義興両者がいなくなった後の松永家はああなったわけだし
足利季世記と続応仁後記の一存が久秀の事を非常に嫌っていたっていう落馬のあの記述も胡散臭く思う
岸和田城で一存と一緒に暮らしてただろう実子の孫八郎と義継は両方ともなんのかんので久秀側を支持してるし
久秀と一存の仲が悪かったなら義継はともかく孫八郎と岸和田勢が早期に久秀側に味方したのは訝しく感じる 松永親子は見直しが必要だね、特に久秀
三好家を支えてただけなのに酷いレッテル貼られてるよね
久秀は陰謀キャラじゃないと魅力が薄くなりそうだからちょっと残念かな 三好義継と松浦万満の母は九条稙通の養女
松中久秀継室は武家伝奏の広橋保子
九条家や広橋家が松永と義継兄弟を仲介したと言われているね
公卿も従来思われていた以上に権門勢家としての実力を保持していて武家の闘争の裏で暗躍してたみたいね 広橋保子は久秀と結構年が離れてそうだけど結婚期間はあんまり長くないし
子供もいなかったみたいだね
というか長慶も久秀もきちんと確定してる子供は義興と久通だけだって知ってびっくりした
久秀が長慶の娘を嫁にしたとか、嫁を分捕ったとかいう話もあるけどあの辺は
久秀の梟雄像からできた作り話なのかな 長慶の娘をもらったとされる人物は結構いたと思うけど、信憑性はともかく
久秀が長慶の娘を嫁にって事はさすがに年齢差がありすぎてまずありえないんじゃね?
関係強化のために血縁者を嫁に取らせるとしても長慶の娘を嫁に出すとしたら相手は久通になるんじゃないかと思う
久秀が長慶の娘を嫁にしたってソースはどこなんだろう、果心居士のどう考えても創作な逸話ぐらいしか出てくるものがわからん >>548
そうなんだ、本当の娘かはおいといて久秀の娘が長治に嫁ぐ予定だったとか
伊勢貞良の妻だったとか何回か目にしたことはあるんだが
長慶の娘に関しては久秀の嫁になった娘しか聞いたことがなかったよ
自分も長慶が娘を嫁がせるなら久秀ではなく久通だと思うし、おかしい話だとは思う
長慶の娘=松永女房という話はネットでしか見たことがなくて
ソースは全く知らないし、どの辺から出た話なんだろうね >>544
> 下層から長慶に見出されて出世して身分を得た久秀にとったら
下層なのかなあ?
久秀だけ見たらそうかもしれないが、弟の長頼は丹波の名門、細川氏の
重臣守護代内藤家の名跡を継いでいる。
武力を背景にしたものとはいえ、下郎からの成り上がりが1431年から
100年以上も丹波守護代の地位を保った名家を継ぐのは
味方の細川系・丹波系の武将からも不満を持たれそうだ。
それに、久秀も低い身分とはいえ祐筆・茶坊主として早くから長慶に仕え、
その頃から連歌や茶の才能を認められていることからも、下層出身にしては
教養の高さが釣り合わない気がする。
奈良大の科学鑑定では化学顔料出なかったそうだ>4つ目の天目 1540年が祐筆としての初出で越長慶の越水城入城後位に仕えたっていうのが有力なのかな
自分は読んだことないんだが在野の歴史研究家の方の本で久秀の叔母が駿河の
入江氏に嫁いでいるので、少なくてもある程度教養の身につく家柄、豪商の
可能性があると指摘してたみたいだ
それが本当なら永種はその伝で養子になったのかも 久秀に関しては法華宗との繋がりとか公卿と昵懇にしてたりと謎が多いね
長慶有力被官の今村氏もカーストで言えば低位だし
長治の側室に藍染の低カースト出身者がいたとか
三好家には下克上的雰囲気が充満してたのは
世間によく知られていたみたい
この辺が後の江戸時代に存在を風化させられた原因の一つかな? 蘆間に混じる薄一むら
古沼の浅き方より野となりて
これって後世の創作説があるけど
江戸時代初期に長慶の人物像が
どう伝わっていたかを考えるうえで興味深いよね
古い沼の岸部に今は(沼地を好む)蘆が生い茂ってるけど
やがては干上がって今は一群しかない(乾いた土地を好む)薄に取って代わられるだろうって歌ってるんだよね
つまり長慶は時代の変革者、新時代の先駆けだと自認する人物だととらえられてたんじゃないかな?
現代では真逆のイメージがこびり付いてるけど 547だがあのあと堺市立博物館の研究報告で長治と婚姻するはずだった
娘は保子の娘と書かれていたし、他にも養子かは不明だが娘はいたみたい
>>554
再婚だけど広橋保子と結婚できたのも何気に凄いと思う
あと、出自があいまいなのに内藤氏と婚姻関係になった長頼もすごい
久秀は下剋上の代名詞、長慶は保守的な凡人
このイメージが浸透しすぎてレッテルを覆すのは相当難しいんだろうね
久秀は実は忠臣だという人も以前より多くなった気がするが
革新=信長の代名詞になってるからか長慶が革新的とは誰も言わないね >>556
松永久秀は美男で人当たりが良かったとされる田沼意次みたいな感じの人だったんじゃないかと思う今日此頃
久秀より先に出世した内藤宗勝は兄以上に魅力的な容姿の人物だったかも
兄弟揃ってくせ者揃いの丹波大和を押さえた実力も尋常ではない
三好時代の畿内の各地では
念仏踊や操り灯篭など祭りが流行したんだけど
公卿や僧侶・新興武士らと町衆庶民等が身分を超えて交流していて
身分の垣根はかなり低くなってはいたみたい
御所も外庭の辺りまでは半ば公共スペース化して
皇居が覗き見できる位の所まで庶民でも入れたんだとか
信長なんかはごちゃ混ぜ状態を嫌って
上洛後に身分秩序を元に戻そうとするんだけど
長慶はその辺はおおらかなんだよね
ごちゃ混ぜの中から新しい秩序を模索していたように思えて面白い 三好義継は、その死にざまについて信長公記で名将馬場信春と並ぶ
「比類なし」という評価をもらったのだから、統率はともかく
武勇は75ぐらいください > 光栄 >>557
旧秩序を壊すという意味での革新性では細川政元周辺のポスト応仁の乱世代が一番酷くて、高国長慶信長あたりの世代はその後始末と復旧に追われてただけという感じだね。
なぜか、復旧世代の最後期にあたる信長が破壊王みたいに言われてるけど。 そもそも、釣竿斎と久秀の相性が悪すぎる気がする。
岩成は、まあ、格下の同僚。
長逸は、血筋だけの煙たいおっさん。(かつてのライバル)
・釣竿斎・晴元は八木城を取り合って長頼が直接戦ってる。
・釣竿斎は晴元への忠誠心を失ってない。(義栄の将軍就任は故晴元の城)
・榎並問題では、立場上、久秀が表立っていろいろやってる。例の管若とか。
六角が3人衆側になった時点で、義栄が上洛できないわけがないんだよな。
高槻から京都御所まで歩いて7〜8時間だし。
釣竿斎はわざと摂津幕府を作ろうとしてたんじゃないかな。
まあ、永禄変・本能寺変を考えても、京都は防御力ゼロだから。 >>565
味方だったから防ごうとしなかっただけだろう>京都の防御力
さすがにゼロは言い杉 ソシャゲで三好長慶特集があった
長瀬が男前だったし久秀も忠臣のようだったので良かったぞ 仇討ちを物語の中心にしたら大河でも行けそうだけどな
耐えて耐えてようやく仇討ち達成したらなんか将軍も管領も逃げてあれ?おれ天下とった?
で完。斜陽描写はやらない 軽くググった程度だと三好長慶よりも松永久秀の暴れぶりにビビる
三好を、より松永をもっと評価すべきなんじゃないかてぐらい この時勢に仇討ちなんてやめとけやめとけ
戦国一のお人好しをテーマに「争いは憎しみしか生まない(キリッ」
とでも言わせときゃあお花畑理論家爆釣れ間違いなしだわ >>574
「争いは憎しみしか生まない(キリッ」
と言いつつ向かってくる敵皆ボコボコにするんですね 逸話ではなく事績を追っていくと政治家・軍略家としては圧倒的に長慶の存在感が大きくて
久秀は能力はあっても英雄としては数段落ちる感じだよ
武士かどうかすら分からないような素生不明の者が
相伴衆まで成り上がったインパクトが大きくて
尾ひれが付いた逸話が独り歩きしちゃったんだろうけど 三好三人衆にもボコボコにされてた久秀
内藤宗勝が死んでたから仕方ないといえば仕方ないが すみません。ここしか「下克上」スレが見つからなかったので質問させてください。
勘定奉行はどうやって見つけるのでしょうか? >>565
長逸が血筋だけは過小評価じゃない?
畿内を転戦しつつ、取次を勤め、キリスト教にも理解のある文武両道の名将じゃない? 長逸は調略得意で戦下手なイメージ
松永と戦うにあたって篠原池田筒井別所等に相当根回ししてたはず
合戦や政治実務は他の2人が補う 長逸は義輝、晴元らを相手にした時は無難に勝ってるし戦下手って程でもないような 鉄砲の伝来時期と重なって戦いが激変した頃なんだよな
そら実休も撃たれるわ ニコニコ大百科の書き込みで実休さんの歌はセンスあると思う >>574
むしろ自分は仇討ちしておきながら他人には「争いは憎しみしか生まない」とか言ってマウンティングするスーパー腹黒で頼むわw プレ織田政権って評価はどうなのかな?
権益問題の解決に三好氏が最終処断まで行っていないっていう歴史家の評価もあるし、
信長や秀吉のように天下の為を大義名分として諸大名に動員かけてたようにもみえないし、 義輝を擁した三好政権は足利体制を解体していったじゃない
長慶死後の内訌も結果として三好政権の崩壊に繋がったけど
その過程で旧体制も十分に弱体化していなければ
信長の天下制圧は史実以上に困難になっていたよ 久秀は長慶死後は自分の利益中心に行動してたって聞いたんだけど
実際は義継との関係はどうだったの? 9月16月曜 22時 BSTBS
にっぽん歴史鑑定 信長より先に天下人になった男 三好長慶 >>592
期待だな
最近のNHKの歴史番組より良い仕事してると思う 三好長慶は智謀勇才を兼て天下を制すべき器なり、
豊前入道実休は国家を謀るべき謀将なり、
十河左衛門督一存は大敵を挫くべき勇将なり、
安宅摂津守冬康は国家を懐くべき仁将なり
『南海治乱記』より 私は三好姓の者ですが、先祖について非常に情報が少なくて調べています。徳島の三好市役所まで行き調べてもらったのですが詳しい系譜は明治までしか無くその以前の物は全く分かりませんでした。 その後父の話によるとよく美馬市脇町の辺りの公園で兄弟で遊んでいた記憶があると言われたのですがこの辺りに残った三好一族として考えられるのは実休らしいのですが…何か手がかりはありませんでしょうか。 三好氏には名前が残っていない一族も山ほどいるからなあ
姓と昭和期の住所だけで特定は厳しい 596です。現地に三好長慶武者行列の主催者のお一人にお会いできたのですが、三好町及びその近辺にはそもそも三好姓の人が多くなく、その辺りの出身ならばほぼ末裔で間違いないとの事でした。しかし系図が残っている訳でもなく途方に暮れておるところです。 明治時代まで辿れてるなら、その住所付近のお寺に連絡とってみるのはどうだろうか
もしかしたら過去帳が残ってるかもしれないし 前になんでも鑑定団に出てた曜変天目茶碗に三好氏の系図が付属してたぞ 三好三人衆の一人・釣竿斎宛て利休の手紙 永禄年間、親密な交友
茶道を大成させた千利休が、徳島ゆかりの戦国武将三好三人衆の一人、三好釣竿斎(出家前は政生)に
宛てた手紙が見つかった。茶道史に詳しい茶道資料館(京都市)の筒井紘一顧問は「手紙から利休が、
釣竿斎から茶席に招かれて茶道具を鑑賞したこと、釣竿斎がお礼のため利休を訪ねたことが分かる。
江州(滋賀)の地名があるが、前後の意味は詳しく分からない」と話す。
昨日は、そちらにうかがって茶道具2品を拝見し、お茶も大変素晴らしいものでした。また、その後、
茶席のお礼としておたずねいただき、恐縮に存じます。うかがってお礼を申し入れるべきところですが、
近江国へ行くと「香」がおっしゃっておりますので、その件につき、取り乱しております。
恐惶謹言 16日 易(花押)
https://news.yahoo.co.jp/articles/eece97061f5011fca38a7c2bf239102bd28bf240 >>1
小笠原氏と三好氏の動向と系譜
南北朝後期の小笠原頼清とほぼ同じ世代に三好義房・義隆が系図に記載される
義隆について、久米左京亮と号し予州久米荘に居した(譜註)
久米氏は平氏を名乗ったがそれでも三好同族という所伝は残した
久米氏は神話の大来目命の子孫とあるが(神話は全部嘘)実際は球磨隼人の末裔 信長上洛時の三好家って何であんなに弱かったんだろ?
あっという間に四国へ逃げてしまう
それだけ内部分裂が酷かったのかな? >>606
もう主力が淡路海軍しか残ってなかったんだからしょうがない >>606
長慶の時代だって四国勢の軍事力をあてにしてたくらいだし畿内を拠点とする本宗家、三人衆、松永じゃ大した抵抗もできんだろ >>606
六角が想定より簡単に崩れた
三好宗家と松永が信長に寝返った
神輿の義栄が瀕死の重病だった
畠山が義昭についたので南北挟撃されら恐れがあった
戦力を温存するために戦略的撤退をしたのが大きいと思う
その後も本圀寺奇襲や野田福島の戦いなど信玄が死ぬまではかなり頑張ってる 岩成主税が六角の援軍に向かったが間に合いそうになかったので
取って返して勝竜寺城に籠もった
というのをどこかで読んだけど出典も何もわからなかった 松永久秀が村上水軍を動かしたというのが最近の研究で分かってきたそうだぞ
理由として一番しっくりくる >>613
もちろん毛利などの西国大名の窓口を久秀が三好長慶下でやってたから村上水軍にも顔が利いた
村上水軍は三好の水軍の縄張を奪うチャンスでもあるからその話に乗ってくる
四国への渡海を封鎖されたら三好は困るんで逃げ帰る
こんな芸当は当時の上洛したばかりの信長には西国へ顔が利かないから無理 >>613
河野は三好長逸を取次として長慶と通じてたし
実休が西讃岐守護代の香川を攻めた時には河野と村上水軍も応援を出してたとか
1567年頃には河野と伊予村上水軍は毛利の傘下に入ってたので
信長が上洛軍を起こした1568年に久秀が村上水軍を直接動かしたというのは考えにくいかと
毛利には先に仁義を切った上で村上水軍と義昭の取次をしたんじゃないかな? 麒麟が来るに全く出ないな
義継の名前だけで三好一派っていうその他大勢扱い 大河ドラマに三好長逸でるね
宮原将護って長慶より若くてイケメンじゃん
出してくれるのは嬉しいけどこのペースだと赤井直正とか内藤如安とか丹波勢が省略されそう 三好三人衆、三好義継まで出た大河なんて初めてだろうね
長慶、久秀は今までもあったけど >>615
村上武吉の能島村上水軍ね
1568年に村上武吉は毛利の援軍と共に備前の香西又五郎(三好長治家臣)と戦って勝利
村上武吉は勝利したことを松永久秀に伝えている 松平忠明の側室に「三好氏」がいるが、誰の娘なんだろうか?
忠明著とも言われる当代記が長慶政権期から始まってることと
関係してるんじゃないかと妄想してみたり 松永久秀が主人公のマンガ連載始まったね少年マガジンで >>107 >>270
>永禄の変は『暗殺』という認識食らって・・・・
公方足利義輝を殺害してまで三好三人衆は何を実現したかったのか? >>623
最近の研究だと御所巻のつもりだったのが要求を拒絶されて現場の兵士が暴走しちゃったという説が有力らしいね
あと信長公記には、義輝がご謀反を企てたために(死んでるはずの)長慶に誅殺されたと書かれてるし、当時の認識もそんなもんだったんじゃないの 三好三人衆は未結成だったらしいしね
三好長逸や松永久秀はすぐに事態の収拾に動いてるし
政所執事の摂津晴門がクソ無能過ぎて
解任を迫っての御所巻きだったのに
義輝側がいきり立って暴発したみたいな >>626
松平忠明は大坂の陣のあと、摂津大坂藩の藩主を務めている
当時、河内には旗本の三好為三が存命だから大坂復興で協力しただろうし、
同じく河内に所領があった三好房一も忠明が大坂藩主になる前年に死んでいる
そのどちらかの一族から娶ったとしてもおかしくない >>626-627
正室ではなく側室なら旗本よりは家臣の方がと思うがどうなんだろうね >>565
松永のライバルと三好家中でいうなら同じ長慶抜擢の岩成では?
長逸は別格だろう >>624
長慶存命の頃から計画されてたと言う認識なのかな 細川氏之と三好之虎
↓
細川持隆と三好義賢
↓
流布
不思議