【川崎】Jリーグ中継を語るスレ【横浜M】
1993年、Jリーグが開幕。その頃は毎節地上波での中継が必ずあった。
しかし、人気が低迷しだしたのと同時期に地上波での中継が減り、BSやCSでの放送がメインとなった。
そして、2002年以降は、フジとテレ朝ではリーグ戦の中継自体やらなくなってしまった。
現在では地上波(関東)では生中継がNHKとTBSが不定期で土日の昼間、日テレが深夜に緑メインの試合を放送する程度。
そんな毎節放送していた頃のJリーグ中継を語ってみましょう。
>>282
しかし、Jリーグ発足間近まで、「オウン・ゴール」を「自殺点」
「vゴール(ゴールデン・ゴール)」は「サドンデス・ゴール(突然の死)」
と平気で言っていたもんだな
これは日本独特の文化だろうか? https://www.youtube.com/watch?v=1bljEOJNKNs
1981年6月開催のJSLカップ、鞘ヶ谷で行われた
当時2部に降格していた新日鉄八幡と1部の読売FC戦。
梅雨時とあってピッチコンディションは最悪。
PK戦にもつれ込むが読売が1部の意地を見せる。
ナレーションは堀尾正明アナなのでNHK福岡or北九州からだろうか https://www.youtube.com/watch?v=jRP9ukGTK-M&t=58s
1979年 国立競技場での日韓定期戦。
当時は1年ごとに日本と韓国でホームアンドアウェーを繰り返していたが、
敵対関係にある韓国の前に日本は手も足も出ず
しかし、この試合ではホームで若手の台頭が光り2-1で辛勝。
4年半ぶり(1974年以来)の勝ち星という形になったようだが https://www.youtube.com/watch?v=H45kN1cRB-k
1981年 日本代表対ポーランド4連戦。
第2試合は徳島県営蔵本球場(現在のむつみスタジアム)で行われた。
第3戦は瑞穂ラグビー場。1988年オリンピック誘致へ向けて盛り上がっていた時期である https://www.youtube.com/watch?v=hCFiy0rbQms
奥寺康彦氏の凱旋試合となった1978年ジャパンカップ(まだこの時はキリンの協賛はなかった)
日本代表対奥寺率いる1FCケルンとの一戦。
日本代表は永井、田口、細谷、落合ら日本リーグ勢に、のちに日本リーグでも活躍する
加藤、金田が大学生として出場している。 https://www.youtube.com/watch?v=v5mfJ0HpARM
1980年11月、フライング・ダッチマンことクライフ率いるアメリカリーグ・ワシントンディプロマッツが来日。
福岡平和台と国立で日本代表と、広島スタジアムでオール広島県選抜と対戦する https://www.youtube.com/watch?v=QzB2ZkmTItA
1989-90年度の25回記念大会となった日本リーグの日産サッカー部を取り上げた
テレビ神奈川「日産FCサッカーダイジェスト」第15戦、高知・春野陸上競技場での
日産主催扱いでの古河戦。首位攻防戦。前日読売FCが暫定首位となるが、
この試合で勝った方がその節での首位が確定するというものだったらしく、
双方激しい攻防の90分が展開された。
デーゲームを終えて、加茂氏と鈴木正治選手が試合の疲れを見せずに、
また翌日も出勤日で工場勤務があるにも関わらず、生放送でtvkのスタジオに駆け付ける https://www.youtube.com/watch?v=2qxrUzO4iX0
1995年、当時イタリア・ジェノアに移籍していた三浦知良の凱旋試合として、
対ヴェルディー川崎戦。横浜スタジアムの人工芝グラウンドの上に、
天然芝シート(ビッグエッグターフ)を敷いて開催した。
解説は松木安太郎、三浦泰年(カズの兄)、川平慈英の豪華版 https://www.youtube.com/watch?v=QuHShzKTxXI
1979年NHK北海道向けローカルニュースから
のちのオールスターの母体となるJSL東西対抗戦が札幌円山球場(陸上競技場ではない)で
行われた。
当時北海道からJSLに参加したクラブがなく、年数回しか公式戦が行われない地域で、
スター選手の競演に酔いしれたのではないか https://www.youtube.com/watch?v=9WUr4yv2OAs
1980年、ジャパンカップ・キリンワールドサッカーのスポーツニュースで取り上げられた試合の数々。
日本代表のほか、世界の強豪クラブ・国家代表、さらに日本リーグ勢までを巻き込んで行われた、
初夏の祭典。
アルゼンチンの古豪・アルヘンティノス、イングランド・ミドルスブラと互角に渡り合う。
残念ながら開催地優勝は逃したが、単なる日本代表不出場の消化試合ではなく、
海外の古豪同士の対戦でも3万人近いサポーターが熱く盛り上げた https://www.youtube.com/watch?v=3GFC1CA3L9c
1983年、現在のJリーグ同様の春〜秋制の春のリーグ(前期)最終戦、
古河対ヤマハの試合。メインスタンドしかないため、チアガールもそこに陣取って応援。
バックスタンド相当のところが道路になっているというのどかなグラウンド。
今の時代ではJリーグで使用することはサテライトリーグ以外では難しい場所だが、
冒頭の箇所がカットされているため、詳細な会場は不明 https://www.youtube.com/watch?v=6RVGHQfKvxs
1982年度(83年元日)天皇杯全日本サッカー総合選手権大会決勝戦
当時2部リーグにいたヤマハと、1部の雄・フジタ工業による対戦。
親会社に楽器メーカーを持つヤマハならではの吹奏楽団による華やかな応援団。
さながら都市対抗野球だろうか
45分ハーフ0-0の末、優勝をかけた10分ハーフ延長戦、
まずコーナーキックから吉田光範が先制点。
この1点を守り切って見事ヤマハが全国タイトル初優勝を飾る https://www.youtube.com/watch?v=dujUMIwrW44
1983年ごろ放送、おそらくtvk神奈川の「日産FCサッカーダイジェスト」からだろうか。
三ッ沢サッカー場、日産のホームピッチにヤマハを迎え撃つ。
日産当時若手のエース・水沼貴史起死回生の同点弾 https://www.youtube.com/watch?v=UW9ILlOCfrc
1984年、川崎市等々力にて行われた読売FC対ヤマハ戦。
のちに大女優・長澤まさみの父として知られるヤマハの長澤和明がPKを決める https://www.youtube.com/watch?v=RMznvtBxVFI
これはJリーグ・JSLではなく、高校サッカーから。
1982年1月(1981年度)全国高校サッカー選手権大会全国大会準決勝
隣県同市の山梨・韮崎高校と静岡・清水市立商業
のちに、交通事故で車いすのサッカー指導者となる羽中田昌が韮崎高校のエースとして活躍するが、
この試合はけがでベンチを離れてしまっている。 https://www.youtube.com/watch?v=YpI4qpm3pro
1985年 日本リーグ1部に昇格したばかりの住友金属鹿島蹴球団。
アウェー・等々力での読売FCとの対戦で追い上げられるも1点差で逃げ切る大金星を挙げた。
のちにこの2チームは1993年Jリーグ第1回オリジナルメンバーとなり、
その年のリーグ年間決勝で直接対決し、ヴェルディー川崎が初代王者となった。
鹿島がリーグ戦のタイトルを手にするのは1996年のこと https://www.youtube.com/watch?v=-ebjdOZNLTM
1979年世界ワールドユースサッカー選手権大会予選リーグから
旧ソ連対ウルグアイ戦(三ッ沢公園サッカー場)
夏休み期間中の試合とあって、小中学生が多数応援に駆け付けるどころか、
当時サッカー部が本拠地としていた古河電工の社宅(バックスタンド。現横浜市民総合病院)にも
多数の子供らが高みの見物をするというのどかな風景。 https://youtu.be/FBBYeSi5EE8
1998年12月、TVK神奈川での横浜フリューゲルスアワー
まだこの当時は概念としてのビッグクラブとプロビンチャーが
あまり確立されてなかった頃で、
フリューゲルスはいわばプロビンチャーだったが、
ゼネコン不況で佐藤工業が撤退
全日空(ANA)単独では経営が成り立たないためと、
ビッグクラブであるマリノスと合併
フリューゲルスはわずか7年でJリーグを去る
その後、フリューゲルスのサポーター有志による、
横浜FCが設立され今日に至る。
運営法人の横浜フリエSCはそのフリューゲルス存続運動の名残から付けられたもの https://www.youtube.com/watch?v=BR_mDmN8FBA
1992年8月 瑞穂スタジアム改築前に行われたJリーグエキシビションマッチ
(当時はまだプレシーズンマッチとは言っていなかった)のグランパス対ブラジルのコリンチャンス戦。
リネカー選手がこの瑞穂スタジアムでグランパスの一員としてデビュー。
この9月以後は1994年わかしゃち国体仕様でスタンドの改修や芝生の養生などのため、
2年間(1994年後期開幕前まで)、隣接するラグビー場を一応の本拠地として暫定利用する。 https://www.youtube.com/watch?v=O9KecJJkA1s
9月に入り、翌年から開幕するリーグ戦の前哨戦・プレ開幕戦と位置付けられたナビスコ杯が開幕。
春〜秋制に戻すための準備期間として、この年は1回総当たり(9試合)のリーグ戦から、
のちに上位4チームによるプレーオフが行われた。
この年、まだ本来のスタジアムが改築や新設工事中であるため、
ジーコのJリーグデビュー戦・鹿島対横浜Fは東海村・笠松運動公園で、
ガンバ大阪主催の横浜M戦は神戸中央、浦和対市原(千葉)は大宮、
広島対V川崎は広島スタジアム(現在はJ1基準外)行われている。
https://www.youtube.com/watch?v=37iZyyyUT4M
第2節、鹿島が東京・国立デビュー。鹿島主催扱いでV川崎を迎え撃つ。
https://www.youtube.com/watch?v=2rcX0IVyqp0
第3節、等々力で三浦カズが名門浦和レッズを前に華麗な技を展開。
長崎では当時セカンドホームタウンの横浜Fが九州遠征初戦のG大阪戦。
ジーコ率いる鹿島は群馬県太田市という現状ではJ3以上は開催できないスタジアムを
満員にしてジェフ市原と対戦、満員御礼。 https://www.youtube.com/watch?v=Ttp6vREWF28
第4節 平塚でのジェフ市原戦に登場した名古屋・小倉。
超高校生ルーキーが早くもプレ開幕戦ながら躍動。
横浜F、当時のJリーグ最南端・鹿児島での遠征。
当時は九州に本拠地を持つクラブがなく、薩摩っ子はJリーグのスーパープレーに温かい拍手
https://www.youtube.com/watch?v=erMn5UqG_80
第5節。フリューゲルスが神奈川での初戦、平塚に浦和を迎えるが、
遠征が続いたせいもあって横浜Fは調子に乗れなかった。
横浜M対鹿島 マリノスのエバートン、鹿島のジーコというベテラン外人勢が活躍
https://www.youtube.com/watch?v=q_Riy-RaNJE
第6節 浦和・柱谷幸一(弟)が、埼玉県川越で古巣・横浜Mの挑戦を受ける https://www.youtube.com/watch?v=f0qMyobXzLk
第7節 いよいよ当時の「ジャパニーズ・ナショナルダービー」といわれた
日産→横浜Mと読売→V川崎の大一番。国立競技場に34000人もの大応援団。
ナショナルダービーらしく、白熱の1点を争う攻防を展開した。
延長戦13分・マリノスの神野がサドンデスゴール(のちのVゴール)でまたもマリノスに凱歌
ジェフ市原主催の横浜F戦はPK戦。
当時は5人づつではなく、1人目からのサドンデスを行い、ジェフ・パベルが成功するが、
フリューゲルス・エウレルがゴールポストに当ててあっけなく決着
https://www.youtube.com/watch?v=9yhmDZfBqR0
第8節 ヴェルディ・カズとエスパルス・ヤス、三浦兄弟がたもとを分かち初対決。
この後Jリーグ初期の頃は、このヴェルディ・エスパルス、
さらには鹿島、横浜M、平塚(1994年昇格)を巻き込んでの優勝争いが繰り広げられていく。
鹿島主催扱いのG大阪戦(西京極)アウェーながら準地元のガンバの逆転勝ちに、
熱狂したガンバ応援団がグラウンドになだれ込むあり様
また大宮を本拠地とした浦和レッズは、グランパスに不可解なノーゴールで敗れたことに怒りを覚え、
こちらは怒りのなだれ込み
https://www.youtube.com/watch?v=vTAo5wlTvpY
第9節 ベスト4が決まり、準決勝はV川崎-鹿島と清水-名古屋に決定
エスパルス、Jリーグ加盟最初の大会でいきなりのベスト4という大健闘。
平塚でJリーグ初の(同一都市による)ダービー・横浜決戦
名門・マリノスはベスト4に残るには勝たなければならないが、
すでに予選敗退が決まっていたフリューゲルスもプロビンチャーの意地を見せて、
延長戦、アルフレッドによる劇的なサヨナラサドンデスゴールでマリノスの初タイトルの夢を打ち砕く https://www.youtube.com/watch?v=YaD2b-AFNZE
1979年度天皇杯サッカーから。
日本リーグ当時の強豪・フジタ。Jリーグ初期の名解説者・マリーニョが活躍。
https://www.youtube.com/watch?v=lUERLH1mqLY
同大会1980年度決勝。大阪から当時2部リーグの田辺製薬が決勝に進出し、
はるばる田辺の工場従業員ら1万人の大声援を受けるが、
名門三菱の前に屈しタイトル獲得ならず https://www.youtube.com/watch?v=T70lu6cD878
1991年11月3日 当時の日本サッカーリーグ第3のカップ戦として行われた
「コニカカップチャレンジ92」第2回大会の決勝。
東海勢同士の本田技研浜松とトヨタ自動車。
当時、アマチュア大会でありながらも強化費用という名目で
賞金3000万円がかかるとだけあって、選手は目の色を変えて戦った。
のちに宮本征勝監督率いる鹿島のJリーグ1期生となる黒崎、長谷川、内藤らを擁した本田、
一方のちに多くがグランパスの1期生となる選手が大半残ったトヨタ。
国内最高峰の自動車メーカーの代理戦争ともいえる戦いは90分で4-4
その後延長戦(15分×2流し)に入っても点の取り合いとなり、最後は後半終了間際、
トヨタ・クリシューマのハットトリックで決着。6-5で制したトヨタが当時の4大タイトル初優勝を飾る。
あくる1992年からJSLカップとコニカカップが統合し、スポンサーもナビスコ(現山崎ビスケット)に代わり、
現在も続くナビスコ→ルヴァンカップとなって今日に至る。 https://www.youtube.com/watch?v=SPpipGC-ooI
1994年2月 ジュビロ磐田がJリーグ(J1)昇格を果たした際、
Jリーグ基準を充足するスタジアムにリニューアルされた
ヤマハ東山グラウンド改めジュビロ磐田サッカースタジアム(現・ヤマハサッカースタジアム)のお披露目の試合は、非公式戦(プレシーズンマッチ)ながら、
清水エスパルスとの静岡ダービーマッチ。
日本リーグ時代は現バックスタンドのみ5000人程度の収容、
ヤマハが楽器メーカーである故、チアガールにブラスバンドの華やかな応援だったが、
Jリーグ入りに当り、現メインスタンドが新設され、当時は公式には15490人収容
その後、1995年にエスパルスの日本平の増築(推定1万→2万248人)に対抗して、北側ホームゴール裏(現アウェー側)が二層式となり公称19000人を経て、
バックスタンドの立ち見・ベンチを個別席にするなどしたため、最終的には13000人程度まで縮小されるが、
2013年に南側のゴール裏が増築され現在は15165人とかろうじてJ1基準を満たす程度になっている。 https://www.youtube.com/watch?v=VjxwAHCCjNA
1996年9月 1995年休止により2年ぶりに再開されたナビスコJリーグ杯決勝。
1992年・1993年と2回にわたり決勝戦でヴェルディー川崎に苦杯をなめられた清水エスパルス。
壮絶な90分+延長30分(15分×2 ノンVゴール)の120分を経て3-3の同点。シーソーゲームを展開した末に、
いよいよPK合戦を迎える。
当時はメインスタンドから見て左側がホーム扱いとされたが、
PK戦はアウェー扱いの清水、同市内から駆け付けた大応援団をバックに展開される。
2人目、V川崎・マグロンがポスト左に外れてまずはエスパルス優位。
それ以外は全員がきっちりとゴールを決めて5人目を迎える。
そしてエスパルス・オリバ。全選手・応援団が肩を組んで固唾を組んで見守る中、
冷静に決めた瞬間、苦節4年にして念願のJリーグ初の公式戦タイトルを手中にする この「TVK神奈川」という書き方が実に気持ち悪い
TVKテレビなのかtvkなのかテレビ神奈川なのか https://www.youtube.com/watch?v=Y0hFYj1C5xg
1986-87年ごろのNHKニュースワイドから。
当時海外のサッカーリーグを紹介する機会はごく限られていた
イングランドFA1部リーグ(現プレミアリーグ)のルートン対ウェストハムの一戦。
現在FIFA公認のスタジアムにおいては人工芝単独のものは原則使用不可
(ただし、芝生が育たない、日本でいう地域リーグ相当など特殊な例は別)であるが、
当時は1部リーグの試合会場でも人工芝を張り付けていた。
アメリカの現MLSの前身であるNASLでもニューヨークコスモスなどいくつかは人工芝を使用していたりするし、
今も世界最大の国家面積を持ちその中に16チームがエントリーするロシアプレミアリーグでも
人工芝を使用するチーム(特に北極圏に近い地域)はいくつかある https://www.youtube.com/watch?v=8lnnImnDc9w
https://www.youtube.com/watch?v=OVnZBF0PGvg
1993年5月15日 旧国立競技場で行われた第1回Jリーグの記念すべき開会式。
まず、Jリーグ公式アンセム「J’s Ballade」に乗せて、リーグロゴをあしらったテントが登場。
次いで「J’s THEME」という激しいロック風の演奏に代わり、TUBEでも活躍するギターリスト・春畑道哉氏が颯爽と登場。ピッチを所せましと駆け抜ける。
再び「J's Ballade」に戻り、今度はおそらくJリーグ各クラブのサポーター有志か、
ユース選手の有志だろうか、第1回Jリーグに加盟する10チームのクラブフラッグが入場行進。
そして川渕三郎初代チェアマンが盛大に開会宣言を行い、
日本のスポーツ文化の大革命となったJリーグの開幕を飾る >>311
誤 J’s THEME
正 BORN TO WIN https://www.youtube.com/watch?v=iTeqPQh9_p0
これは過去にYouTubeで、鹿児島か熊本がフリューゲルスのセカンドホームタウン(特別活動県)だった時に
CMで放送されていたものでさわりを聞いたことがあるが、
Jリーグ公式アンセム「J’s THEME」の歌入りバージョン「風を追いかけて」のフルコーラス。
Ridingの伊藤一義氏がうたっている。ちなみにRidingはこの曲を作曲したギタリスト・春畑氏がいる
TUBEの兄弟ユニットに当るという https://www.youtube.com/watch?v=28uP7oUbseg
これはテレビ東京系で放送された「Number12」というサッカー情報番組で、
1998年に放送されたもので、横浜フリューゲルスがマリノスに統合されるタイミングで、
フリューゲルスをはじめとする主要15クラブのサポーターによる討論会。
このフリューゲルスの合併問題は単なる序章にしかすぎず、
2004年のプロ野球・近鉄がオリックスに合併し、さらに宮城に東北楽天イーグルスを誕生させ、
企業主導型から市民参加型、Jリーグが考える地域密着の理念の考えを変える
大きなシフトチェンジのきっかけづくりにもつながっていく大変革につながるきっかけにもなった >>311
さらに訂正
最初の「J’s Ballade」→「J’s THEME」
後者はそのまま(同じ楽曲ではあるが、アレンジ違い) https://youtu.be/PXiSHZvV5AU
1980年、日本ほか西側(民主国家)諸国が、
ソ連のアフガン侵攻に講義してボイコットした
あの因縁のモスクワオリンピック
決勝も当時の東側(共産圏)諸国同士の東ドイツ対チェコスロバキアだった それから8年、西ドイツにて
https://youtu.be/DKJEEAGLMec
ヨーロッパ選手権大会(夏季五輪イヤー開催)
旧ソ連として事実上最後の決勝は、
フリットという焼きそばパーマをしたおっさんのいた
オランダとの対戦 https://youtu.be/Y0KMPGDRe4A
1992年ナビスコカップ決勝
名門ヴェルディー川崎に、新興勢力、オール静岡で臨んだ清水エスパルスが挑戦。
ヴェルディ、三浦知良が先制点を守り、
プレ開幕戦初代チャンピオンの座を射止める 1983年JSLカップ
https://youtu.be/Lkr9nK_Jez4
日本鋼管対古河電工(会場不明 恐らく日本鋼管の川崎市内の工場にあるグランドか)
古河が2部の鋼管に惜敗。試合後、古河イレブンに、
奥寺康彦選手(当時西ドイツにいた)が一時帰国中だったこともあり、
戦術についてのアドバイスを行う https://www.youtube.com/watch?v=W4gpY4jRqLE
1997年末放送のJリーグ総集編。
この年はヴィッセル神戸がJFLから昇格して17チーム。
前年の1シーズン制が不評だったため、2回総当たりを維持し、1回づつの前後期制を導入。
前期は前年度ディフェンディングチャンピオンの鹿島が順当に勝ち上がり、
後期は2年目の94年の昇格以来優勝候補に挙がりながら優勝に届かなかった磐田がまずはステージ1位を獲得
年間総合優勝をかけたチャンピオンシップ。この年リーグ戦・ナビスコ決勝とも
鹿島に苦杯をなめられた磐田。しかし、この大一番で磐田は第1戦は延長戦Vゴール方式を制し、
第2戦、逆転優勝を信じた鹿島の大応援団を前に、奥野のレッドカードで数的優位となったのを見計らい、
土壇場、ゴン中山のミドルシュートがさく裂し、鹿島の応援団を唖然とさせる。
ついに磐田初優勝。
この戦いが、「V川崎VS横浜M」に代わる新たなジャパニーズナショナルダービーの幕開けにもなった
しかし、磐田はここ数年J1・J2を行ったり来たりしており、ナショナルダービーの色合いは消されている https://www.youtube.com/watch?v=cztFaWtMTy4&t=1862s
1993年のJリーグ総集編 オリジナル10チームの中で、現在もJ1から陥落したことがないのが、
この年の前半戦・サントリーステージ1位の鹿島と、2年後のチャンピオン・横浜Mの2チームのみ。
亡き横浜Fを除き、何らかの形でJリーグ主催のタイトルを手にしている。
・鹿島 今だJ2降格なし 1996年年間初優勝以後、Jリーグ最多19回にわたるタイトルホルダー
・浦和 1999年最終戦でJ2降格も1年で復帰 2005年念願の初優勝もリーグタイトルはこれだけ アジアチャンピオンリーグ2回優勝
・市原(千葉) フクアリに実質移転した2005・06年ナビスコ杯連覇も、2008年を最後にJ2陥落。今はJ3降格圏を右往左往
・V川崎(東京V) 1993・94年のリーグ戦、92-94年のナビスコ杯などリーグ序盤はタイトルホルダーも、2006年以後は2008年を除きJ2。こちらもJ3降格圏を右往左往
・横浜M 1995年リーグ戦初優勝。2003年第2Sでは、横浜MのCSでの対戦相手となるはずだった磐田との直接対決を制し、同じく鹿島が引き分け、3チーム勝ち点26で横並びも得失点差で勝った横浜Mが史上2チーム目の完全制覇 ・横浜F 1993年度天皇杯で初タイトル。1998年横浜Mと合併したことにサポーター激怒。リーグ終盤から天皇杯まで破竹の連勝街道で有終の美。現在はサポーター有志により横浜FCがJ1でプレー
・清水 1992・93年ナビスコ決勝で当時のV川崎に苦杯。1996年3度目の正直でナビスコ制覇。1999年第2S1位も、CS・磐田との静岡ダービーに屈しリーグ戦はいまだ無冠。ここ数年はJ1の下位に甘んじている
・名古屋 長年ピクシー・ストイコビッチでチームは成長。天皇杯に1995・99年度制するが、リーグタイトルとは無縁。2010年ピクシー監督でJ1初優勝も、2016年無念のJ2降格。1年で復帰
・G大阪 2005年、関西勢初のJ1リーグ戦タイトル。早くから育成に主眼を置いた取り組みをするが、2012年J2降格。2013年J2・14年はJ1を制し、天皇杯・ナビスコとの1年での三冠を獲得したが、ここ数年は低迷気味
・広島 1994年第1S1位、その後はタイトルから縁がなく、2003・07年J2降格。2010年代は3度リーグ年間制覇を上げ復調気配でACL常連に https://www.youtube.com/watch?v=6vqnZRW5zyg
女子サッカー黎明期(1990年代)、当時の読売西友ベレーザ(現・日テレヴェルディーベレーザ)の
高倉麻子選手(日本女子代表監督)が日本代表のユニフォームを着て女子の国際親善試合に臨む https://www.youtube.com/watch?v=inBtd6cKl8Y&t=230s
Jリーグではないが、1985年当時の欧州チャンピオンカップ決勝戦。
欧州チャンピオン決定戦は原則として毎年開催地を中立地で行う取り決めとなっているが、
この年はベルギー・ヘーゼルで行われた。
その決勝戦、イングランド・リヴァプールと、イタリア・ユベントスという、
いづれも熱狂的な応援団を抱えるチーム同士で対戦が行われたが、
余りの熱狂から試合開始前から暴動がおこり40人近くの死者が出るという大惨事となってしまった。
いわゆる暴力的応援団「フーリガン」の暴徒化の最高潮といえる事例である。
日本ではそこまでひどくないとはいえ、浦和レッズの応援団が、度重なる問題行動を起こし、
日本のフーリガンといわれたりもした https://www.youtube.com/watch?v=OU9GEiGftRk
1983年秋ごろ、TVK神奈川「日産FCサッカーダイジェスト」から。
三ッ沢サッカー場、今よりはかなり薄暗い。どちらかといえば今のヨドコウスタジアムのような中で、
日産対三菱重工の自動車代理戦争。
日産は清水、早野、柱谷兄弟、フジタから移籍のマリーニョなど、
一方三菱は現Jリーグ副理事長で、かつてのJFA技術委員長でもある原博実らが所属。
地味にパフパフがよく聞こえるが、チアガールの声援もほとんどない https://www.youtube.com/watch?v=zUq3QTl7_kM
1993年4月13日 Jリーグの浦和レッズが当初の本拠地として使うことを前提として、
照明設備やバックスタンドの座席化などの改修工事の竣工を記念して行われた国際親善試合
浦和レッズ対イングランド1部(現プレミアリーグ)のマンチェスターシティー戦。
Jリーグ開幕を記念して、イングランドのチームがシーズン終盤にもかかわらず、
浦和レッズの新スタジアムのこけら落としのためにわざわざ来日。
当時は下位に甘んじていた(その後2・3部=現表記では1・2部に降格してしまった)が、
今や同じマンチェスターでもユナイテッドをしのぐ強豪に君臨している
32秒当たりのオーロラビジョンは車載搭載型の仮設。
その2年後の1995年にバックスタンドの増築が行われた際、正式な常設のものが設けられた >>53
豊橋で偶然受信して録画もした
宮内聡さんが出てた(当時は伊賀にいた?) 三重テレビが港サッカー場の鯱のホームゲームを生中継したことがあったな https://www.youtube.com/watch?v=tB9c_dhjwzU
1984年(YouTubeの説明は誤り)に行われた、日本リーグ「フジタvs読売FC」
西が丘サッカー場(味フィ西)、当時は見事なまでに田んぼの状態の中でのキックオフも、
名門同士のプライドがぶつかり合い、3-3のドローマッチ >>296
https://www.youtube.com/watch?v=k79lbEXhaSo
一方こちらは1983年の同じカード、ホームとアウェーが入れ替わり、
ヤマハのホーム・東山グラウンド。
80年代の新興勢力、いづれも念願の日本リーグ1部初優勝をかけた直接対決。
このシーズンは読売FCが優勝。 そしてゾロ目を(σ・∀・)σゲッツ!!
やはりクソスレ終了w 在広民放局は今ではRCCが年1試合やるかやらないか程度なんだよな。
むしろJTサンダーズ広島(主にHTV・TSSが放送)や
広島ドラゴンフライズ(全曲で放送実績あり)の方が放送が多いぐらいになった。 https://www.youtube.com/watch?v=qKZ1AeIrV8E
ニュース映画より
1972年5月、ブラジルリーグ1000得点を決める実力者・ペレのいるサントスの来日試合。
日本代表との対戦。試合開始前からファンがトラックに乱入して当時はまだ世界に遠く及ばなかった
日本を前に、本場のプレーを繰り広げ、ファンはむしろそちらに集中する https://www.youtube.com/watch?v=7JqqnOmVAEw
1982年 スペインw杯に入る前に、アルゼンチン1部のボカ・ジュニアーズが来日。
日本代表とのプレシーズンマッチに、3年前の世界ユース優勝メンバーだったマラドーナが凱旋 https://www.youtube.com/watch?v=Tv9q15bXA9s
1985年「三菱ダイヤモンドサッカー」
西ドイツ(当時)のブンデスリーガ優勝を占うブレーメン対バイエルン
おなじみの金子・岡野の名コンビに松本典子が参戦
(のちの笘篠兄婦人) https://www.youtube.com/watch?v=I9PQRktFftU
1984年日本リーグ1部、当時はまだ横浜市に拠点があった古河サッカー部(現・ジェフ千葉)主催扱いの
対日産戦。本拠地が三ツ沢サッカー場であるため今日でいう「横浜ダービー」
今だとダービー独特の異様な雰囲気があるが、当時の三ツ沢は照明塔が500ルクスも満たないだろうか
真夜中の墓場の中でサッカーをしている感じにも見える。
その中で華やかないかにも企業対抗というニュアンスのチアガールによる応援合戦が目立つ https://www.youtube.com/watch?v=_GEEba9kVrc
1984年 三菱対ヤマハ(今の浦和対磐田)
当時のパフパフでの応援が多いのは楽器会社がスポンサーのヤマハ発動機ならではといえる https://www.youtube.com/watch?v=xc8BwBon9ds
第100回記念の高校サッカー。
こちらは1980年度(81年1月)の59回大会から。
名門・清水東が徳島商に苦戦を強いられる。
https://www.youtube.com/watch?v=iHjVL4j7uA0
その決勝戦は、茨城の古河一との対戦。当時の日本サッカーはこの冬の甲子園こと国立ぐらいしか盛り上がらなかった
古河一が優勝し、関東勢7連覇を記録する。
その茨城県は住友金属鹿島が一時期日本リーグ1部に上がるも、
長らく低迷が続き、クラブチーム・鹿島アントラーズになってジーコが入部し、
選手にプロ魂を与え、今やJ1で20以上のタイトルを手にする強豪となるが、
これを除いて現状茨城でトップリーグを経験しているチームはない。
水戸も新スタジアムの建設計画を打ち出しているがなかなか進んでいない。
ケーズスタの増築もめど立たず
古河にはこの大会当時に立派なサッカー場が建っているが、Jリーグ発足後は残念ながら
カシマやケーズスタに比べると貧相になってしまった >>341
高校サッカーを冬の甲子園だなんて現代ならやきうアンチが発狂間違いなしだな https://www.youtube.com/watch?v=Irw1y6qP5DI
1984年頃のヤマハ対古河。古河の岡田武史選手がけがで退場してしまった。
会場は名古屋・瑞穂ラグビー場。
今と比べるとかなり質素な、近所の運動広場での試合みたいな感じだな https://www.youtube.com/watch?v=ioW0XveLQZM
1983年正月、全国高校サッカー選手権準決勝
高校イレブンのあこがれ、聖地・冬の甲子園こと国立にて長谷川健太、堀池巧、大榎克己の
「清水東3羽ガラス」が大躍進を遂げる。
のちに大学・社会人では袂を分かつが、
1993年、この10年後に清水エスパルスに再結集。Jリーグを盛り上げる。
その後、堀池はサッカーコメンテーターとして「やべっちFC」の名コメンテーターとなるが、
大榎、長谷川は指導者の道を歩み、長谷川は清水→G大阪→F東京を経て、4クラブ目の名古屋の監督に https://www.youtube.com/watch?v=kmYSBmv4Ras
1981年1月、高校サッカー選手権、大宮サッカー場で地元・埼玉県の浦和南が高松商業に
ワンサイドゲーム6-0の圧勝を見せる https://www.youtube.com/watch?v=O3d3nabxSAU
1984年日本リーグ「日産自動車対三菱重工」
あの木梨氏と同僚だったという当時の三菱の川添孝一がコーナーキックから値千金の決勝点 https://www.youtube.com/watch?v=I9PQRktFftU
同じ年の「横浜ダービー」日産対古河
薄暗い三ツ沢サッカー場。日本代表の主力が多数登場し、
それなりの大熱戦を展開する >>347
https://www.youtube.com/watch?v=OU9GEiGftRk
同じ組み合わせの1983年の日本リーグ。
日産の社員だったころの清水秀彦、早野宏史、木村和司
三菱の田口 https://www.youtube.com/watch?v=C6eL505xjc4
1984年の日本リーグ「本田技研(浜松)対読売FC」
ゴールをたたいた関塚隆はのちに鹿島に移籍して監督となった人物
浜松工場・都田グラウンドゴール裏に駐車場が多数あるが、
ホンダ以外は泊められなかったのだろうか? https://www.youtube.com/watch?v=0wavUciXPUU
1985年の日本リーグ「読売FC対日立本社」
当時は秋〜春制。読売FCに与那城ジョージやラモス瑠偉ら、
ブラジル出身の選手たちが在籍していた時代 https://www.youtube.com/watch?v=4obgH-yqwiI
1981年2月 第1回トヨタカップのために来日した、ウルグアイのナシオナル・モンテビデオが、
日本ユース(U-18)との練習マッチを開催。
当時の日本のサッカーは企業主体の日本流ステートアマだったが、
実力は完全プロの南米のチームには遠く及ばず、もはや子ども扱いにしかならなかった https://www.youtube.com/watch?v=0qRM3v4CwnM
かつて、20世紀末〜21世紀初期のころ、イングランドのチェルシーは、
ディビジョン1(2部)に降格した時代があり、
イギリスのテレビはローカル放送であっても積極的に下位リーグをフォローしていたため、
あまり日の目を見なさそうな地方クラブ(今でいうJ2・J3・JFLレベル)との対戦の映像も残っていたりする https://www.youtube.com/watch?v=m-KWdJioSUI
1981年高校サッカー・大宮での遠野高校対済々黌高校
亡き古葉氏の母校はサッカーにも出てたようだが、惜しくも敗戦を喫している https://www.youtube.com/watch?v=zA6b9Sc-GzI
1979年高校サッカー、冬の甲子園こと国立に駒を進めたのは
いづれも地元では名門・北海道・室蘭大谷対茨城・古賀一
高校サッカーはいまだに北海道からの出場枠は1枠のみ。
(高校野球や春高バレー、もう一つの冬の甲子園・ラグビーは南北から代表が出ているが)
さすがに、決勝戦らしい熱戦が繰り広げられている。 https://www.youtube.com/watch?v=H2sRmnYKhe8
1981年高校サッカー初戦、大阪の北陽高校に立ち向かう宮崎の西目農業
西目・小松という選手が50mの超ループシュートを直接北陽ゴールに叩き込み決勝点を挙げる >>356
https://www.asahi.com/articles/ASLD7644DLD7UTQP026.html
その後小松は、ヤンマーに入社し、日本リーグ1部で11ゴールを挙げ、
引退後も育成で手腕を振るう。
現在は高知の強豪・明徳義塾の監督 https://www.youtube.com/watch?v=j2tQxgkzCWs
1981年11月開催の第60回記念大会・埼玉予選。
当時はまだ全国各都道府県1代表ではなく、いくつかのブロック大会で争っていたが、
開催地の4都県からは各1チームが出場という体裁。
ただ、この第60回記念大会は特例で、全国47都道府県から代表(東京のみは2チーム)が選出されていた。
埼玉県代表決定戦は名門・武南高校と浦和南高校。埼玉県からは1チームしか出場できないため、
それにふさわしい激闘が80分間にわたり展開され、2−2の同点ののち、
20分の延長戦、さらにはPK合戦に持ち越される。
そのPK合戦も双方の応援団の手拍子を背に大激闘を繰り広げるが、武南が勝ち名乗りをあげ、
全国大会出場権を手繰り寄せる https://www.youtube.com/watch?v=cPXPdHwwmfw
こちらは、テレ玉が高校サッカー100回記念大会を記念して製作した特番。
先ごろ放送されたばかりである。
大宮サッカー場改めNACK5スタジアム大宮。埼玉県大会決勝、さらには全国大会でも使われる
埼玉サッカーの聖地
ゲストはのちに日産黄金時代を引っ張る浦和南出身の水沼貴史
司会はテレ玉のスポーツ中継を語るうえで欠かすことのできぬ生き字引・上野晃アナ https://www.youtube.com/watch?v=PVWBHamVi0c
1977年、冬の甲子園・国立に舞台を移した高校サッカーの名勝負
このころから浦和南、帝京、古河一など、関東勢の台頭が目立つ https://www.youtube.com/watch?v=g_caeX42xYo
埼玉勢12回目の優勝を飾る、1982年正月の60回記念大会決勝・武南。
同じく関東の雄・山梨の韮崎を2-0で圧勝を果たす https://www.youtube.com/watch?v=7gOQ3Sj01A4
1992年70回記念大会 滋賀県・水口高校との対戦で、
武南高校の上野良治からのパスを江原選手がヘディングゴールを挙げる。
本来の埼玉県の主会場の一つ・駒場での開催。現在は浦和レッズの本拠地としての利用のため改築されているが、
当時はまだスタンドが十分備わっておらず、陸上トラックに客を入れるほどの盛況 https://www.youtube.com/watch?v=QypFo_3WNkI
1985年5月、イギリス・イングランドのブラッドフォード球技場大火災。
タバコの吸い殻を起因としてメインスタンド(木造)が一瞬にして炎に包まれ、
この映像では41人死亡とある。(NHKお昼のニュース 梶原四郎アナ司会)
その他ANNニュースレーダー、JNNニュースコープより https://www.youtube.com/watch?v=sKA-aQZd8Ac
1982年・第55回全国高校選手権、冬の甲子園・国立を舞台に、
関東の横綱同士、帝京対浦和南
決勝進出をかけた80分の死闘の末ドロー。PK戦にもつれる。
そしてPK戦、帝京5人目の選手がGKのパンチングで勝負あり
日テレの公式映像だが、実況音声はカットされている https://www.youtube.com/watch?v=6-cUeXy-BrE
1979年夏の世界ユース選手権(U−20)において、アルゼンチンが優勝した時、
国立競技場にファンがスタンドからグラウンドになだれ込むさま。
そこで、グランドに飛び降りないようにと説得しているが、わずか4か月後、
1980年冬の甲子園(高校サッカー)決勝における、帝京高校の優勝に歓喜し
約5000人のファンがまたもスタンドからグランドに殺到してしまう。
その模様は記事のみ。 >>366
https://www.youtube.com/watch?v=PVWBHamVi0c
その1980年大会を含む、首都圏に移行してからの大会の歴史・名勝負
明らかに、帝京イレブンの優勝を祝おうとする応援団が
スタンドから降りて拍手・胴上げに参加しようとするタイミングを計る人らがいる https://www.youtube.com/watch?v=M0m1ezLe3yY
1988年高校サッカー準々決勝 埼玉・武南と対戦し、3-0で大勝しベスト4を決めた
市立船橋の中川秀樹選手。のちのお笑いコンビ・ペナルティーのヒデに当たる。 https://www.youtube.com/watch?v=ZEYzL1sRR40
1991年、この年はアジアユースの関係で、県予選を免除された特別シード4校を加えた52校での大会。
2回戦、PK合戦もサドンデスとなる大熱戦の末敗れた市立船橋。
7人目に蹴った脇田寧人青年。これがのちのペナルティー・ワッキーとなる https://www.youtube.com/watch?v=_uaNx6Xye98
1980年の大会出場をかけた東京都予選会の決勝。当時はまだ全都道府県ではなく
ブロック代表制だったため、東京都からも1校しか全国の切符を手にできなかった。
修得高校との対戦に挑んだ帝京高校の木梨憲武選手。当時17歳、初々しくふさふさしていた https://www.youtube.com/watch?v=YzYv9DC5uT4
1992年、Jリーグ幕開け前の冬の甲子園・国立をはじめ首都圏各地で
熱戦を繰り広げた選手たちのゴール集
前園(鹿児島実業→横浜F→V川崎→ブラジル→湘南→韓国→サッカー解説・タレント)
木場(滝川第2→G大阪)、松波(帝京→G大阪→指導者としてG大阪・鳥取)、
小倉(四日市中央工→名古屋→オランダ→名古屋→市原→東京V→札幌→甲府→解説者→名古屋監督→伊勢志摩FC監督)
Jリーグ1期生の主力選手たちの競演 Jリーグ元年、1993年の冬の甲子園ゴール集
Jリーガーをあきらめ俳優に舵を切りメガレンジャーのメガブラックになった江原淳史(武南)
国見からマリノス内定を受け日本代表、現在はヴィッセル神戸を率いる三浦淳宏 https://www.youtube.com/watch?v=ZbE6nYvIoGU
昭和から平成へ、1989年1月の大会のゴール集
中口雅史は国見→大阪産業大→ガンバ大阪→佐川大阪でプレーするが、
選手としてというよりはのちに佐川大阪→佐川滋賀を強豪に導く指導者に
野口幸司は市立船橋からフジタ(のちの湘南・平塚)をJリーグに導く。
山田隆裕は清水市立商業から日産(横浜M) https://www.youtube.com/watch?v=eBhokcYekDU
1991年 Jリーグ発足を目前に、空前のサッカーブーム。
企業主体の日本リーグが事実上のセミプロ化したこともあって、冬の甲子園もにぎやかになる。
のちにジュビロのエースとなる名波(清水商)、浦和レッズの宴会部長・水内(旭)、
そしてまたも国見の中口 https://www.youtube.com/watch?v=9Mfg6KftXlM
ドーハの悲劇を乗り越えて、1994年、アメリカからフランスへの再出発の年。
のちにベガルタを振り出しにアジアを中心に20か国でプレーしたジプシー・伊藤壇(登別大谷)
清水商業からマリノス入団を果たした安永聡太郎、
国見からガンバ大阪に鳴り物入りで入団するも、その後はJ2・JFLに戦いを求めた船越優蔵
そしてこの年のJリーグ開幕戦、地元市原で伝説のバク転を決めて沸かせた鹿児島実業の城彰二は、
今や高校サッカー中継の語りべとなった https://www.youtube.com/watch?v=Yb22j0LbE94
1988年。まだプロ化すらクローズアップされていないまさに冬の時代。
のちに名古屋グランパスで活躍した森山泰之が帝京高校のエースストライカーだった https://www.youtube.com/watch?v=H_5Jp1-4IfM
のちにスペインで活躍する乾貴士。
2005年、野洲高校を滋賀県初の冬の甲子園日本一に導く伝説的なゴールシーン https://www.youtube.com/watch?v=I3FIDy-HlAs
1991年、プロ化を目前に控え、賑わいを見せるようになった日本リーグ最終シーズン
三ツ沢でホーム日産が読売SCを迎える。エバートンの先制点 https://www.youtube.com/watch?v=9og1dlLNXCs
1991年の冬の甲子園出場をかけた北海道大会のCM。
まだJリーグが発足する直前、当時の北海道のサッカーのメイン会場といえば、
円山陸上競技場か月寒ラグビー場というイメージが強かったが、
予選は芝生の整っていない河川敷の小さなグラウンドが舞台 https://www.youtube.com/watch?v=2Hq-HZYj8d8
1990年第68回大会の北海道予選。
1989年はまなす国体を終えた厚別公園陸上競技場。
室蘭大谷高校の深川はのちにJリーグ・セレッソ大阪、
そして地元のコンサドーレ札幌に凱旋。コーチとしても活躍した。