【川崎】Jリーグ中継を語るスレ【横浜M】
https://www.youtube.com/watch?v=SADOATjWWyM
帝京高校の初優勝は1975年、当時は関西(長居メインスタジアム、靭球技場)
清水商業を下して念願の初優勝。
その後首都圏での開催で常連校の仲間入りを果たす https://www.youtube.com/watch?v=nvInu4AEDZY
1988年1月 大宮で行われた高校サッカー・帝京対東海大一
当時高校サッカー界のアイドル・平沢や、のちにエスパルス入団の沢登らタレントが揃う東海一、
一方帝京はJリーグ初期のエース、磯貝、森山らが在籍し、大一番にふさわしい展開。
入場料がどれだけ取られたか知らんが、1万人収容のスタンドに入りきれないファンが、
グラウンドのゴール裏目前まで下りるという大盛況 https://www.youtube.com/watch?v=J8qqNnMWbAo
1995年 中京テレビ「Viva‼サッカー」、グランパスが中心かと思ったが、
アトランタ五輪出場を手繰り寄せた、前園(横浜F)と小倉(名古屋)の特集 https://www.youtube.com/watch?v=BlGlw_FlLYA
1996年の天皇杯サッカー・3回戦 三浦知良(鈴鹿)がV川崎時代に、
鳥取バードスタジアムでプレー。大分トリニティー(現在のJ2トリニータの元母体)との対戦。
トリニティーはこの年JFL(当時は現在のJ2相当)に在籍していたが、10位と初年度にしては健闘
Jリーグ2連覇・ナビスコ3連覇の名門を相手にやはり苦戦を強いられていた https://www.youtube.com/watch?v=PqnmauXLtMg
コカ・コーラの1980年代中盤ごろのインフォマーシャル。
当時はまだマイナースポーツだったサッカーの普及啓もうのため、
セルジオ越後氏が中心となって取り組む「さわやかサッカー教室」について、
そのセルジオ氏と森繫久彌氏が紹介する >>395
今はほとんどの地域販売会社(ボトラー)が東京・福岡の2本社制となった
コカ・コーラボトラーズジャパンに統合されているが、
1980年代は北は北海道から南は沖縄に至る17のブロックの販売会社に
分かれていたことから、Jリーグの理念と同じ地域密着型という経営姿勢を打ち出していることがわかる そして血葉のス××ロ××ンポー××ッツの400阻止 https://www.youtube.com/watch?v=xniPDFvaaI8
1983年の日本リーグ、JSL時代屈指の近隣自治体ダービー「天竜川決戦」
本田技研浜松サッカー部の本拠・都田で行われた本田対ヤマハ発動機の対戦。
今でこそダービーマッチは地元の自治体のサポーターによる郷土色豊かな応援合戦で火花を散らすが、
当時はまだ企業チームの域でしかなかったので、どちらかといえば企業対抗の応援団の対決的なものだった。
今だホンダFCは企業チームでありJ3昇格のめどが立っていない現状を考えると、
しばらくは「ジュビロvs浜松新チーム」の天竜川ダービーは先延ばしかもしれない https://www.youtube.com/watch?v=Cu9CsobKLxA
1984年 NHK G「今週の顔」、当時日本からブラジルリーグ1部のサンパウロFCに、
日本人選手として初めて入団した水島武蔵選手が凱旋し、スタジオで草野仁氏からインタビューを受ける。
当時ブラジルリーグの規定で、外国人枠が自国選手育成の観点から1人のみしか獲得できなかったので、
あえて日本国籍を捨ててブラジル国籍を選び、日系ブラジル人1世としてプレーする道を選ぶ。
Jリーグ発足間近に日立(柏レイソル)→横浜フリューゲルスに移籍するも、1993年に引退。
現在はサッカー指導者となっている https://www.youtube.com/watch?v=KtaGLxf-AdM
1984年、TX「少年サッカー教室」講師・釜本邦茂選手(元ヤンマー)に、
当時の高校生年代・ユースの選手たちが指導を受ける。
小島、大榎、長谷川健太、梶野、松山、堀池、武田修宏と、
のちのJリーグ初期を彩る選手たちが登場し、レジェンド・釜本からの教えを被る贅沢な企画だった https://www.youtube.com/watch?v=v_r1SOlXp-U
1976年、国立競技場
日本代表のナショナルチーム同士の対戦ですらも閑古鳥だった時代だが、
アメリカ・ニューヨークコスモスにいた、世界のペレが来日した時、
日本選抜との親善試合を開催した時は推定5万は入っていただろうか? https://www.youtube.com/watch?v=ntqEu7N8KlE
1984年、ロス五輪明けに行われた日本リーグ後半の開幕カード
三ツ沢での古河電工対読売FC。かなり薄暗い、今のヨドコウスタジアムみたいな感じ https://www.youtube.com/watch?v=cBXTjMjpoWg
1993年Jリーグ開幕を前に、外国の強豪チームが発足を祝って大挙来日し、
親善試合を開催する中、日本平(まだゴール裏のスタンドが低かったのと、
バックスタンドもガラス張りスタンドがなかったころ)で行われたエスパルス対ブラジルのグレミオ戦 https://www.youtube.com/watch?v=korMS8otv2M
1984年日本リーグ「ヤンマー対日産(現在のセレッソ対マリノス)」
陸上競技場だが、どこで行われたかの明確な記述なし。
当時はまだ企業レクリエーションの範疇であるため、
応援もかなりバレーボールやバスケのような素朴なチアガールと応援リーダーがいるこじんまりとしたもの 186名無しだョ!全員集合2022/09/28(水) 04:37:30.51ID:JiWB6/ki
https://youtu.be/roAEvYuzBm4
1974年7月、ワールドカップサッカー西ドイツ大会、
日本のテレビ史上初めて、決勝戦の生中継を東京12が行う。
当日は参院選があり、地方都市は即日開票が行われていたが、その開票速報の合間に、
ミュンヘン五輪スタジアムから、開催国西ドイツとオランダ、
今では世界の6大サッカー大国(イングランド、スペイン、フランス、ドイツ、イタリア、オランダ)を担う
強豪2か国の決勝戦を、おなじみ「三菱ダイヤモンドサッカー」のコンビと、
ゲスト解説に現地から三菱重工の二宮寛監督、スタジオものちのJリーグ専務理事の森健児氏
協賛も三菱グループ各社という、ダイヤモンドサッカーの特別版的な位置づけで放送された。 1993年8月20日付の新聞テレビ欄を見ていたら
清水e-鹿島aの試合が入っていました。 本日、鹿島が28年ぶりにホームで5失点大敗やらかしたが、
28年前にホームで5失点大敗やらかした試合、1995年9月2日の対V川崎戦はフジで全国ネットで晒されてるんですよ 因みにこの時のV川崎のゴール
カズ×3
武田
北澤
他に、
現 福岡監督が前半で交代
ラモスは不出場 鹿島が12年ぶりに国立競技場で主催試合
カシマスタジアムが小さかった頃は年数回、国立競技場で主催試合を行っていた
1999年〜2001年シーズンのスタジアム改修の頃は国立競技場で主催していた試合も多かった
5万人入った1999年GWの磐田戦とか印象に残っている >>135
テレビ東京 J-LEAGUE LIVE95
オープニングテーマは
影山ヒロノブ「GET WIN THE ''J''」
エンディングテーマは
前期 TEARS「さよなら」
後期 TEARS「あの空を忘れない」
当該のwikiができたらお願いします TEARSってデビュー曲しか売れなかったんだよ
日テレの1994年のヴェルディ戦中継のエンディングも歌ってた スタジオキャスター
フジ 西山喜久恵
テレ朝 大下容子
フジの場合はテレゴング使って視聴者に勝敗予想クイズしていた wikipediaなどでも中継実績とか書かれてないね
みんな関心薄かったのかな 図書館で新聞の縮刷版でも調べればテレビ欄はあるから何月何日にどことどこの対戦がどこのチャンネルで放送されたかがわかる
今忙しくてちょっと大きい図書館に行く機会が無いから無理だ 民放で最初のJリーグ中継したのがテレ東だったとは意外 >>423
ドラゴンボールZのWikipediaだと休止した日にどことどこの対戦が組まれたと書いてあるよ 1995年頃から視聴率傾き出してテレビ局も中継から次々と撤退していったしね
TBSとテレ東はまだ1996年以降も年に数回はゴールデンでの中継を行っていた >>428
テレ東は一時期Jリーグ中継がドル箱番組だったし
その貯金もあってバラエティではなんでも鑑定団やアド街ック天国をこの時代に開始させた
ただ、ニョキニョキ植物王国に至ってはちょっと残念だったな。テレビ初の植物題材のクイズ番組と銘打ってただけに
時間帯が他のとこだったらこっちも人気番組になれたかもしれない
あと、アニメではジャングルの王者ターちゃんやとっても!ラッキーマンや鬼神童子ZENKIなどのジャンプ系の作品も積極的に行ったのもこの時代 テレ東は土曜日のゴールデンは特番枠だったから難なく組めたんだよ
当時はまだローカル路線バス乗り継ぎ旅なんてのも無かったからね https://www.youtube.com/watch?v=EJPocvU3WGw&lc=Ugz33RhbBq_gsY_9oj14AaABAg
1985年、日本サッカーリーグ1部、日産対古河(現マリノス対千葉)。
現在はホームタウン制度の問題上、他チームのホームエリアでの開催はタブーだが、
当時はクラブ主管・主催でも平気で他チームの本拠地で主管することは珍しくなかった。
愛知県豊橋市球技場。すなわち現在でいうとグランパスのホームタウンでの日産主催。
おそらく日産の関連会社に名古屋を拠点とする愛知機械(コニー360)があるからか。
しかもこの試合、芝生はまともに生えておらず、砂のグラウンド。近所の学校の校庭じゃないんだから
今のサテライト・ユースですらも人工芝を貼り付けて開催しないと許可が下りない。
プロ野球の2軍でも河川敷の砂のグラウンドから、立派な3000-5000人のスタンドがある
立派な人工芝か外野芝のグラウンドを使わないと許可が下りない時代になっていることから、
この当時、いかに会場調達が緩すぎたことか https://www.youtube.com/watch?v=Rm2Fahr_xNM
1981年、現ヤンマー長居スタジアムに当たる旧長居陸上競技場での国際親善試合。
この当時のヤンマーは基本本拠地を神戸中央球技場(ノエスタ)に置いており、
不定期で長居でも試合をしていたが、その一つ、オランダ/エクセルシオールとのプレシーズンマッチ。
なぜかチーム名が「アカイ」とされているが、これは当時エクセルシオールのユニフォーム協賛が
赤井電機の現地法人によるもの。
多分6-7月の開催。雨天決行、しかも当時はメインスタンドを除けば屋根なし、ナイターなしという
最悪なピッチコンディションで行われる。 https://www.youtube.com/watch?v=FnkALepmE9o
1983年、当時等々力での「日本版クラシコ」だった読売対日産。
まだ当時は読売クラブは1部に昇格して間もなかったため、今のような盛り上がりではなかったが、
日産・木村、読売・ラモスというJリーグ一期生にもなる選手らも多数擁していた https://www.youtube.com/watch?v=O_Gu3Q3FTeA
1990-91年日本リーグ「読売対松下(現東京ヴェルディ対ガンバ大阪)」
地域密着の市民スポーツを訴える川渕氏。
序盤の数年間は企業スポーツからの脱皮に苦しみ、97年には1試合平均3000人という始末。
98年ワールドカップ初出場を決めるも、横浜フリューゲルスの解散という憂き目を見て存亡機器になるが、
99年のJ2発足後、地方クラブが増加。AKB48などのご当地文化の定着も進み、
今やJリーグはその「身近に愛される」存在のきっかけとなる