ネットもスマホもなく35年引きこもり───両親を殺した61歳の告白
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30年以上にわたって自室に引きこもっていた。同居の両親とも関わりを避け、DVDや漫画を見続ける毎日。
苦手だった父が認知症になった。話しかけられることが増え、ストレスがたまっていく。
ある夜、うっぷんが爆発して電気コードを父の首に巻き付けた。その様子を母が後ろから見ていた――。
福岡市の住宅街にある自宅で、父親(当時88)と母親(同87)を殺害したとして、次男の被告(61)が起訴された。
昨年12月、裁判員裁判が福岡地裁で始まった。
大学を中退後、定職に就かずに実家で引きこもっていた被告。両親を殺害するまでに何があったのか。裁判でのやりとりから経緯をたどる。
12月14日の初公判。貸与された緑色の服を着て、裸足にサンダルを履いた被告は認否を問われ、「間違いないです」とはっきりした声で答えた。
https://www.asahi.com/sp/articles/ASR1K66XWQDVTIPE00P.html?iref=sp_new_news_list_n 大学中退を機に始まった単調な引きこもり生活
被告は、建設会社の社長だった父と、自宅で酒店を営む母の間に生まれた。
高校を卒業し、福岡県内の大学に進学。だが、授業の内容に興味が持てず、単位がとれなかった。
3年生になる前、両親に無断で中退した。
父は「家を出て行け」と激怒した。母は何も言わなかった。
弁護人「中退を伝えて父親が怒った時、どう思った」
被告「途方に暮れて、極力、父と顔を合わせないようにしようと思いました」
弁護人「一緒に暮らしていれば、顔を合わせざるをえないのでは」
被告「生活のサイクルをずらして、必要最低限にとどめようとしました」
被告はその後、会社に就職して営業の仕事を始めたが、半年で辞めた。
母の酒店を手伝うこともあったが、ほとんどの時間を2階の6畳和室に引きこもって過ごすようになった。
生活は単調に繰り返された。
朝5時に起き、両親と会わないよう炊飯器のスイッチを押した。
食材を冷蔵庫から出し、食事の準備をする。両親の食事が終わると後片付けをし、自分の食事をとった。
昼食も同じようにとり、それ以外はずっと自室で過ごした。布団に入るのは午後9時だった。 「仲のいい友達はいたか」の問いかけに
弁護人「部屋では何をしていたのか」
被告「アニメやDVD、漫画を見ていました」
弁護人「両親の食事の準備や片付けと、自分の食事がずれているのはなぜか」
被告「父と顔を合わせたくなかったからです」
弁護人「DVDや漫画を買うお金はどうしていたのか」
被告「最初は月に3万円のおこづかいをもらっていたが、徐々に減らされて最近は1万円くらいでした」
弁護人「35年間、ずっと変わらずその生活をしていたのか」
被告「ほぼ、そんな感じです」
弁護人「パソコンやスマホ、インターネットを使ったことは」
被告「ありません」
弁護人「友人と出かけることは」
被告「ありません」
弁護人「小学校から大学まで、仲のいい友達は」
被告「特にいませんでした」
外出は、母に頼まれた食材と自分のDVDや漫画を買いに行くときだけだった。
ただ、ずっと続くと思っていた引きこもり生活は、家族の加齢によって少しずつ変化していく。
2017年。アルコール依存症だった兄が老人ホームに入った。
母は18年ごろから、けがなどで入退院を繰り返し、外出時には車いすが必要になった。通院に付き添うこともあった。
20年、父に認知症の症状が出始めた。
自転車で銀行に出かけたことを忘れてタクシーで帰宅し、「取ってきてくれ」とせがまれたり、家の権利書をくまなく探すように命じられたり。母の入院中は、特に頼み事をされることが増えた。 初めて頼まれたトイレ介抱
そして事件当日を迎える。
21年6月20日午後6時。自室でDVDを見ていた。
1階の寝室から父に呼ばれ、トイレの介助を頼まれた。
初めてのことだった。体を抱き上げてトイレに連れていき、終わると寝室に戻した。1時間後にも同じように頼まれ、しぶしぶ介助した。
午後9時。布団に入ったところで、3度目の声が耳に飛び込んできた。
抱き上げようとすると、ベッドに座ったまま立ち上がれない。「バケツを持ってきてくれ」と頼んできた。
被告「バケツを頼まれて、その後のことが容易に想像できました」
弁護人「その後とは」
被告「父が用を足して、私がその後始末をしなければならないな、と。しかも1回じゃ済まず、何回もやらなければいけないんだなと」
弁護人「何回も、とはその日のうちにという意味か」
被告「その日だけじゃなく、明日、明後日、その後もと考えました」
弁護人「それだけのことが殺意につながるのか、疑問に感じる」
それまで淡々と答えていた被告が、考え込むように沈黙した。
被告「……大学中退の時に父と溝ができて、それ以降、苦手意識がありました」
「弱ってきた父が私を使うようになって、自分の時間が削られることが嫌でした」
「母の介護に手いっぱいで、これ以上、上乗せされたらたまらんなと感じました」
頼まれたバケツを取りに行くふりをして、居間の電気ポットからコードを取り外した。
戻ると、ベッドに腰掛ける父の首に巻き付けた。
父は「あっ」と小さな声を上げただけで、抵抗はしなかった。
数分間にわたって首を絞めていると、部屋のドア近くに立っている母に気づいた。「もう死んどるよ」。母は言った。 母殺害は「やり過ぎた」
被告は父の息がないことを確認し、隣に座ってきた母の首にコードを巻き付けた。
弁護人「母親に対しても苦手意識はあったか」
被告「それはありません」
弁護人「では、なぜ殺したのか」
被告「犯行現場を見られたというのが一番大きいですけど。あれはもう、完全にやり過ぎたと今は思います。ただ、あのときはブレーキが利かなかった」
母がぐったりとしたのを見届けると、2人を引きずり、酒店だった頃に使っていた高さ約2メートルの冷蔵ケースのそばに運んだ。
握力はほとんど無くなっていた。2人の首を絞めるために、強くコードを引っ張っていたからだ。
2人を体育座りのような格好にしてケースに押し込み、粘着テープで正面のガラス扉を目張りした。
3日後、家を出た。普通列車で兵庫、岩手、静岡、京都など8府県を転々とし、ホテルに泊まった。宿帳には本名と実家の住所を書いた。
弁護人「なぜ、遺体を冷蔵ケースに入れて、テープを貼ったのか」
被告「単純に、2人の死体を見たくなかったからです」
弁護人「全国を転々としたのは」
被告「結論の先送りです。できるだけ捕まるのを先延ばしにしたかった」
弁護人「各地のホテルで本名を書いたのは」
被告「日本の警察は優秀で、小細工をしてもいずれ捕まると思ったからです」
被告人質問の終盤。裁判長は一つだけ質問をした。
裁判長「亡くなった両親に、あなたが今していることはありますか」
被告「特にありません」
裁判長「手を合わせたりとか」
被告「していません」
裁判長「今後、やってみようとは思いませんか」
被告「そもそも、事件のことを思い出さないようにしているので……」
検察側は論告で、その日初めてトイレの介助を頼まれただけで父親を殺したと指摘。「長時間の介護による『介護疲れ』の事案とは全く異なり、極めて身勝手だ」と述べた。
母親も口封じのためだけに殺したとし、「冷酷で容赦のない犯行」として無期懲役を求刑した。
弁護側は、被告が起訴内容を認めていることなどを挙げ、懲役23年程度が相当だと主張した。 裁判長が語りかけたこととは
判決は23年1月6日にあった。裁判長は「強固な殺意に基づいて冷酷に両親を殺害していて悪質だ」と指摘し、懲役30年を言い渡した。
一方で、「父親との確執も被告のみに責任があるとは言えない」と、無期懲役ではなく有期刑の上限とした理由を述べた。
最後には被告に対し、こう語りかけた。
相当長い刑期になるが、考える時間はいっぱいある。
両親がどういった思いであなたを育ててきたのか、よく考えてもらいたい。
しんどそうなことから目を背けて、逃げ回るばかりでいいのか、よく考えてください。
裁判長の説諭を、被告はじっと前を見つめて聞いていた。
18日、被告は判決を不服として福岡高裁に控訴した。(中山直樹) 父が社長で母は酒屋やってて蓄えないのか?老人ホームに入れたらいいだろ 老人ホームなんて5年で2000万円飛ぶくらい高いし、そもそも何年待ちとか当たり前だしで現実的じゃない 【福岡・両親殺害】「背景に介護の8050問題」ひきこもり35年次男に届かなかった支援
知能検査などをした精神科医が証人として出廷。
被告人は、知能指数130で「非常に高い知能」だったことを明かした。
https://news.yahoo.co.jp/byline/masakiikegami/20221227-00330253 死刑囚として独房暮らしのがいいんでないかい?
30年母親としかしゃべったことないおっさんが
くせ者だらけの刑務所で30年も集団生活とか地獄だろう ネット普及いぜんの80年代のヒキコモリは凄いと思う
だから、余りに暇で監禁とか適当にしに行ったのかもだけど アル中だった兄が老人ホームに入った
ここがキーだと思う ≫苦手だった父が認知症になった。話しかけられることが増え、ストレスがたまっていく。
まじ脅威 はよ池 ひでえ判決だなこれ
介護したことないだろ
まぢで便所が夜中ずっとだからな
しかも終わりが見えないしな
IQ高いから予測したんだろう ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています