[鈴木g3蒸機好き出入禁止]【HOn3-1/2 HOm】1/87 12mmスレ【HOj HO1067】 -12- [無断転載禁止]©2ch.net
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キット、パーツ等だいぶ手に入りやすくなりましたし
待望のプラ客車も・・!
楽しんでまいりましょう。
【注意事項】
他規格批判スレッドではありません。
他規格(16番、13mmなど)に対する批判や否定的な書き込みは厳禁です。
また他規格狂信者の荒らし煽り行為は徹底無視でお願いします。 ____
/ \ /\ 貴方のような人は一般社会において、最も忌み嫌われる厄介者であり
. / (ー) (ー)\ まともな社会生活を送れているとは思えませんね キリッ
/ ⌒(__人__)⌒ \
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ノ \
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↑蒸機好き ◆sUsWyf6ekg
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/ノ \ u. \ !?
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| (__人__) u. | オマユウ クスクス>
\ u.` ⌒´ /
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<クスクス / \!??
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リソースの有効活用という点でそれも良いのかもしれない。 Q:ここには株ニートは来ないのか?
A:お呼びですか?
単なるニートですが・・・ 鈴木老いぼれg3(72歳)は認知症なので
信用しないようにしましょう。 問題は私に動機がないって事かなw
最近ここに来ることも減ってさ。ネタも貯めてないし。 鉱山鉄道っていいよね!
仕事が明確で、しかも鉄道向きである点がいい。体積のある重量物輸送。
しかも方向により荷姿が大きく違い、いかにも仕事をした感じが漂う。
実物では液体輸送も重量物輸送だけれども、姿形に変化は感じないので寂しい。
鉄道模型では、積荷は積みっぱなしだ。
セキでもホキでもセムでも積車同士が、あるいは空車同士が複線ですれ違うのはおかしい。
積車と空車がすれ違って欲しい。模型で、鉱物資源の片道輸送を再現したい。
では積空二種類の編成を用意すれば・・・って実際にやればわかると思うけど大変で無駄で嫌になるよ。
これが積年の難問。 Youtubeの前面動画に旧ユーゴスラビアの路線が大量にアップされている。
面白い。戦争で保線どころではなかったのだろう。
結果的に、少し前の時代の線路を高画質で記録したような雰囲気がでている。 少し前の話だが大井川鉄道で7200形を見て、格好良さに打ちのめされてしまった。
今までステンレス車を、東急車を嫌って避けていた。
各地のローカル私鉄への導入例を苦々しく感じ、どうせ次は廃線の報せだろうと見限っていた。
積極的に訪れるはずも無い。
のだが!
大井川いいじゃないの。
ステンレスという素材も古びてくると味が出てくるものなのか。
ロケーションの素晴らしさが全てを許し蕩かすのか。
ああ、買ったよ天賞堂。帯無し冷房仕様。年末年始のお楽しみだ。
しばらくこのまま走らせて、やがてウチの会社にもステンレス車が来る時代になったか仕様に改める。
改めるって言っても路線カラー色帯一本プシューするだけですけどね。
こんな醜態を晒すようになるまで営業を続けている設定ではなかった筈なのだが。 吉田類の酒場放浪記、西日暮里編にモデルワムが出てきて驚いた。再々再放送ぐらいだろうけど。
ブラスモデル見て金額一桁違うと驚くとか、まぁ、それが一般人の反応だよねー。 80の電車は大きい。あと時間軸を現代まで伸ばすと世界観崩壊寸前。
どう考えても地方私鉄への譲渡は90年代だろう。
手持ち車両に並べると世界がブワッと広がる。
ついでに80軽便の存在価値も再認識した。87は小さ過ぎる。 三山線の車両史を伸ばして東急7200、くっつかないかな。
三岐鉄道のような会社を興すしかないか。
西武ではなくて東急車が入る三岐。 東芝HDB800が格好良過ぎ。
これは製品化が期待されるが、HOでは確実に出るだろう。
日本型世界に持ち込むには好都合。ここで87派は拘りの代償として孤立する。そういう一面を絶対に認めようとしないからますます孤立する。 メルクリンのスタートセットの中に、LEGOが入っているやつがある。
足回りメルクリンで車体をLEGOで造れというもの。
そう来るか、というか、そういう発想がうらやましい。巨人同士の幸せな結託。 >>23
積み込みホッパーの反対側がトンネルで積み下ろしホッパーになっているレイアウトプランがあった。
貨物ヤードも編成が二つありますけど。 >>31
積車は積み下ろしがわで突っ込んだら積み込み側で引っ張り出す、空車はその逆。 >東芝HDB800が格好良過ぎ。
>これは製品化が期待されるが、HOでは確実に出るだろう。
HOじゃ出ないんじゃね・・・HOn3-1/2 じゃね、それかガニ股で十六番 >>23
米型オアカーをヤフオクなどで大量購入し艶消し黒に塗り変え、まさにそれを愉しもうと企んだ
私がここにおります。尤も日本型化(?)改装に丁度良い小柄なラウンドハウス(MDC)の
製品は20両しか手に入らず、少々大柄なIHC製品とモデルパワー製品が合わせて46両。
大柄ゆえに最後尾が背の高いヨ8000でないとバランス悪い…まっ(笑)安ければいいや。 >>33
〉それかガニ股で十六番
あぁ、H Oで出るかもしれないんだ。 >>33
〉それかガニ股で十六番
あぁ、H Oで出るかもしれないんだ。 >>35 確信犯な二回書き 2021/01/09(土) 11:03:06.49 ID:IRCtuynF
>>36 確信犯な二回書 2021/01/09(土) 11:03:07.28 ID:IRCtuynF
>>それかガニ股で十六番
>あぁ、H Oで出るかもしれないんだ。
確信犯な二回書きのオツムに中、ガニ股十六番がHOだとよ、解釈は人それぞれだからな(笑)
でもさ、スノープラウ無いと「ガニ股バッチリで、前から見らんね〜だろ」ど〜よ
見ないフリかい、好みは人それぞれだからな(笑)
立派な下半身でもな(大笑い) HDB800の正体ぐらい把握してからにしろよ。
ドイツに納品する標準軌の機関車だぞ。 >>39
そいつらエアジェージャーだから(どこぞのチェアカー君を見ながらw 前もって調べる能があれば、わざわざ恥をかきに来ないでしょ
あ、かわいそうだから必死チェッカーで調べてよそで何て書き込んでたか見ちゃだめだぞw あからさな釣り。仕掛けは見せびらかしている。
火事場にダイナマイトを投げ込むようなものだが期待した爆発は起きて、良い見世物にはなったな。
イデオロギー的闘争が先に立つ争いからは距離を置き、本スレは基本sageで占拠された。以上。 スーツさんが近鉄「楽」を借りて名古屋から京都までの企画列車を走らせた、という動画を見た。
近鉄名古屋線っていいなあ。標準軌の幹線が三重県北部のような状況を走る路線って珍しいよね。
いま色々調べている。 東武ED611は格好良い。
日本の電気機関車部門で三枝に入る可愛さ。
このサイズ感と丸みがいい。
栗原時代の派手な色がよく似合う。
私鉄っていいなぁ。 東武時代の並びを再現したい。
でもED 4001のハードルは高いぞ。
珊瑚製品は難しいというし碓氷時代だし、重要なラック関係部品を敢えて付けないというのは勇気がいる。
伊豆箱根仕様を作ったのだから日光仕様も出すと期待していたのだが。
中古は高騰してる。論外だなぁ。 ED4001ってなんだ。
602ね。
ロッド駆動電気機関車であればいいけどな。 蒸気機関車で一番良いのはC56。次がC11、その次が9600。
以下はズーーっと距離を置いてドングリの背比べ。
異論は認めるが、同意はしない。 PIKOのHOレールがロコもどきで面白い。
軟質ゴムの特は保護期間が終わったのかもしれない。
本家ROCO製が硬質整形で特許を回避したが客も減らしたように思う。
新参PIKOはさて、どこまでシェアを奪えるか。
ポイントの所でポイントの数だけ道床にハサミを入れねばならない可能性もある訳ですが。 岡山模型店って、いつになったら袋詰め終わるんだろうか・・・w
室内を考えるとゾッとしてしまう。 椿井文書を知って、少し興奮している。
江戸時代に同一人物により作られた偽書の一群なのだが、その手口が私の理想だ。
架空が多い鉄道ネタ話の作り方を、証拠書類の偽造という分野だが二百年以上先行して実施して逃げ切った奴がいる。
九の真実に一つ嘘を混ぜる。別の角度から引用して信憑性を高める。
咄嗟には指摘しにくい穴を突く。
上手い。やられた、と思う。 戦中戦後の名鉄の西尾蒲郡線が実にカオス。
谷汲線生え抜きの大型単車70型がパンタグラフ乗せて末端部の主役になり、そこでは海軍の基地建設のため国鉄6250型が無蓋車二両を牽引し蒲郡線まで往復している。
蒲郡線は末端非電化で、蒸気動車までいる。国鉄から廻って来ただけで動車としては稼働していないみたいだけど。
数年前まで睨み合っていた吉良駅構内は前述の6250型を通すために急カーブで結ばれて、ここを小なりとはいえ明治時代の東海道線の主力機が通ったのか。
ああ、見たかったなぁ。 久しぶりに気になった乗工社の羽鶴を見ようと蓋を開けたらスポンジ崩壊していた。押すと無抵抗で爪先が沈んでゆく。
確か昨年も開封し健全であった筈なので、時期が着たら急激に劣化するという経験談は納得できる。
崩壊はいずれ来るだろうと予め和紙で包んであったので模型へのダメージは見つからない。
乗江社廃業から何年経つのか。金箱銀箱の黒いスポンジはもう駄目だ。
全て開封してベト付かないうちに棄てなくてはならない。
崩壊時期は排気ガスの量に比例するとか言うけど、本当かな。 戦前、国鉄から私鉄や専用線に向けての小型蒸気機関車の処分に興味ある。
ある形式の処分が始まると、長くても10年ほど譲渡が続く。
ネタがなくなると終わる。その頃には次の形式の処分が始まる。
つまり、私鉄側の希望よりも車両更新という国鉄内部の強い事情が優先されるのだろう。
私鉄が希望した車両は、国鉄が必要とする限り、例外的措置を除いて譲渡は実現しない。
その中で例外的に、私鉄向きだが国鉄には小型過ぎる20トン前後のCタンクは改番の手間さえ惜しいと言わんばかりに常に処分が急がれた。
国鉄経由では数が足りないので新車の製造も盛んになる。少し上の1C1クラスからは、譲渡車が幅を利かせるようになる。
B6級は数は多いのだが国鉄が必要として、なかなか処分しない。
最後のグループはDD13型の目処が立つまで引っ張り続けた。DD13型で代役が果たせたかどうか、疑問だが。
重すぎて私鉄が欲しがらなかったのか、要求を断らねばならないほど国鉄が手放さないのかは不明。 私がいま足跡を追っているのは、1070形に代表される改造タンク機関車。
1930年代半ばから整理対象となり開戦まで盛んに譲渡が続く。
戦時体制入りしてからは譲渡例は減り、戦後にまた小さなピークを迎えて50年代には国鉄線上より姿を消す。
改造されなかった6250型も似たような経緯をたどっており、結局ボイラーなどの各部の状態が処分時期を左右したのかなと思う。
中堅私鉄に意外とよく出没してはいるのだが、なぜか活動は短期間で終わる事が多い。
大きな動輪径のB型というのは、代役は務まっても長く主役は保てないのか。
同類を日本で最もよく使役したのは、実は東武鉄道だったりして。テンダー機だけど。
その期間の長さは官鉄や日本鉄道を引き離し、それらから余剰車を集めて戦後にATSまで載せて走り続けた。
東海道線や東北線のようなスケールは無く花道も無いが、地味ではないと思う。
けむりプロで東武蒸気本が出ないかと、少し期待している。
タンク改造機に戻る。
使い道を間違えなければ、模型としては好ましいのではないか。
大き過ぎず小さ過ぎず、実に好ましい大きさ感になる。
私に向けてちょうどイイアッピールだけれども。
乗工社製品を見て改めて惚れ込んでしまい、手持ち車両の中からどんな車両と共存するだろうかとあれこれ考えていた次第。
サイドタンクから大きく外に出たエアタンクが可愛い。 国立公文書館の公開文書すげえな。
膨大な情報量がある。
まだ未公開分があるのが堪らん。 忙しい。ネタ培養中だが現地に行きたくなってきた。
県境を超える移動はお控えください・・・ 吾妻線はなぜ東急による開発を拒んだのだろうか。
まだ世間は混乱期を脱しきれていない時期であるが、東急を断ることと国鉄建設線昇格は連動した動きに思えてならない。
東急は巨額投資リスクを避けて国鉄による建設の段取りをつけたのか。
そんな力技が振えるほどの化け物には見えない。 草軽が後に吾妻線となる専用線を土木工事レベルで買収したことは、確からしい。
この辺の事情を整合性ある説明をした記事が見当たらない。
草軽はせっかく買収した予定線を、直ちに国に譲り渡したのか。
国鉄線は概ね専用線線路敷を活用しているらしい。
台風被災はたまたまの偶然なのか。開発を諦めたことと関係あるのか。
悩ましい。 賑わう草津温泉が、鉄道がない理由が判らん。草軽電鉄が速すぎて依存しすぎたか。
草軽電鉄が昭和36年に廃線となったことは、やや唐突だった。このタイミングからの新たな私鉄建設は難しかろう。
同年度中に碓氷峠からアプト式の廃品を貰えるように段取りをつけようとしたが上手く行かず、以後は鉄道に恵まれない観光地となる。
太子鉄山への専用線の橋梁が放置されているのも、何か事情があるのだろうか。通常は速やかに撤去して鉄道建設前に復旧せねばならない筈だ。
残すということは使うあてがあるということで、昭和45年の廃止時点で何かの動きがあったのではないか。
例えば、太子駅から草津温泉に向けての新線構想に必要とか。
先のアプト式草津鉄道構想が、太子駅経由だとしたらどうなったか。
昭和40年前後に草津温泉と太子駅間にアプト式草津電気鉄道を開業させていたら、国鉄太子線も存続していただろう。
しかし草津電気鉄道、収支合いそうもないなあ。太子駅と草津温泉の間にロープウェイを設けてはどうか。索道ならば経営成り立つような気もしますが。
譲渡を受けたED42型が働く草津電鉄。バブル期に新型機も出たりする。
国鉄も観光特急に本腰を入れ、JR化後のいまも高崎駅で新幹線に接続する、吾妻線専用観光特化形特急がある。他所からの改造車だけど線内を何度も往復する。
たとえば五両編成で、これが太子駅に着くとアプト式機関車が尻に連結され、草津温泉へと向かう。
どうかな。651系短縮編成にED42形をつけても、これで文句を言わせない。 草軽電鉄は、昭和35年から十年間ほど営業休止できなかったんだろうか。
軽井沢駅の跡地利用がしたかった、わけではない。驚く無かれ今も駐車場である。
そこから別荘地を抜けるまでは線路敷は処分され、別荘側も喜んで買っただろう。
別荘地から先は、線路敷地はほぼ、原野に戻っているのではないか。
草津温泉側は、橋も流されたことでもあるし残念ながら切り捨てるしかない。
軽井沢駅前から北軽井沢までの区間であれば、極端に運行本数を減らして10年以上の延命はできたのではないか。
具体的に言うと、冬期運休してしまえということ。その状態のまま時間が経てば、夏季には人気を集めるようになるだろう。通年運行も可能となるかもしれない。
先に南半分が廃止となったのは、北軽井沢駅と上州三原駅の間の成績が最低であったことと、軽井沢駅付近で敷地を売れるだけ売って資金回収しようという目論見ではないか。
私の案では真逆である。吾妻川から北を廃止にして、北軽井沢駅から北は勝算なしとして切り捨てる。
冬季は軽井沢駅周辺だけ、せいぜい鶴溜駅までの往復にとどめ、夏季に北軽井沢まで足を延ばす。
その縮小体制で10年間耐え切ればバブル期に設備更新され、現在まで存続することは期待できる。
昔は草津温泉まで走っていたんだけれども台風で流されてね、という解説付きで軽井沢駅にL電が何本も並ぶ。外観は古いが中身は別物の強力機である。
太く整備された軌条の上を、続行運転で次々と発車してゆく。空席も旧軽井沢駅で全て埋まった。全席指定なのです。
どうかな。 草軽の応用は意外と効く。
似たような架空鉄道を近隣で展開してみる。 草軽鉄道は開業時点においてすでに軽井沢の別荘の客筋を読み違えていたのではないだろうか。
会社の主体となったのは草津温泉の有力者たちと聞く。
当初は吾妻川沿いに降るつもりが、架橋地点に困り、一箇所だけで済む軽井沢を目指した方が安上がりとして信越線へ結んだ。
だから軽井沢別荘文化とは少し、いやかなり筋が違うのだ。
草津温泉は万病に効くというが特に皮膚病に霊験ありとされ、長期湯治の傾向が強かった。
それは草軽の開通で交通の便よくなり滞在短期間に変わって行くのだが、おおよそ別荘の住人とは異なる。
それが、軽井沢の開発を目指した西武コクドの理想からは遠かったのではないだろうか。 草軽と黒部渓谷鉄道の最初の電気機関車が兄弟であるという説は興味深い。
電気機関車黎明期はこの程度の工事用でも引っ張りだこなのか。 硫黄つながりで妄想が蔵王に飛んだ。
蔵王高速鉄道を調べると戦前にも計画があったという。温泉側とトラブルが起り頓挫したとか。
この話で辻褄合わない細部は、温泉側は硫黄採掘を問題視したという点だ。
その年代には蔵王で硫黄採掘は既に始まっている。採掘の悪影響を懸念というけど、既に操業している。操業規模拡大を懸念したものか。
戦前蔵王鉄道は、ケチ臭い温泉と組まずに硫黄臭い鉱山と組めばよかった。
鉱山では麓まで索道を敷いたが、それは昭和13年のこと。
大正時代には山奥からの製品搬出で困っていたはずだ。別に温泉所有の土地を跨がねば鉱山まで上れないということでもなかろう。
起点も山形市内に求める必要は無い。奥羽本線の蔵王駅(当時金井駅)に接続すれば良い。
蔵王鉱山までの急勾配をジグザグに登る勾配から、電化の必要はある。
まず手堅く金井駅と蔵王鉱山までを結んで経営を軌道に乗せてから、鉱山から蔵王温泉街までを造ろうと思うけど温泉街はどう考えるかね?と迫ればよかった。
鉱山と温泉は直線距離で2キロ以上離れている。それがどうした。温泉まで延ばしてほしければ土地を寄付しろという事になる。
山形市内など、そこまで出来てから考えればいい。どうせ花巻電鉄のような、路肩を走る軌道線になるだろう。
戦後、硫黄鉱山の閉山までは維持できるかもしれない。鉱山と運命を共にするだろう。
花巻の馬面とジェフリー製機関車が同居するような仮想鉄道の出来上がり。
硫黄を運ぶ貨車が未舗装の県道をゴトゴトと行く、沼尻を電化したような光景になる。
沼尻貨車と草軽L電を連結しても良いわけだ。
蔵王高速鉄道は、一流品を求めた点が間違いだと思う。航空写真を見ても山形、上山双方の市街地は手付かずに見える。
成功例である弘前電気鉄道の弘前市街地へのアプローチの苦しさは、奇跡的なものだ。
国鉄駅を避けた事も賢明だが、いまある線路は建設時点までは洪水氾濫原として放置されていた土地ではなかったか。
普通、土手に線路は敷かせない。良くぞ国が認可したものだ。
国鉄駅正面側にもぐり込む事の難しさは長野駅や浜松駅など実例が無数にある。
蔵王高速鉄道の山形駅はどこに設けるつもりだったのか。戦前の計画ではどうか。
興味は尽きない。 近江鉄道220型、HOでキットが欲しい。
20m級は俺には長過ぎる。 不出来な子ほど可愛いというのなら、JR東海は優秀過ぎて憎たらしくて愛せそうにない。 矢口高雄先生のおらが村という漫画を読んでいる。
今時一冊300円という安さでこれが読めるというのは、法外な事だ。
既に故人となられた方だが、その故郷が雄勝線が走った場所であると知り読まずに居れなくなった。
厳密には電車線沿いではなくバス路線沿いの集落の事だが、廃線沿線の当時の世相を知るには最高の環境だろう。 世界の車窓から、がアマゾンプライムに出てきた。
かなりの本数がある。細切れでないのが有難い。 宗谷本線が面白い。
Youtubeで旭川駅から普通列車で北上すると、どんどん線路が酷くなってゆく。
最初は立派な旭川駅。架線さえある高架複線なのに、主要駅を経るにつれ両脇の植物が迫力を増す。
ここを、最後のC55客レなどと騒いでいたのかなぁ。
先人たちが撮った画像を漁ると半分が荷物車の4両編成であったようで、列車本数が多かったのだろうが当時でも客車2両なのかと思う。客車だけで6両はあると思ってた。
改めて調べると特急列車設定時期が遅い。サンロクトオは無理にせよヨンサントオには特急ネットワークが通じたと思い込んでいた。道内のエル特急は旭川が北限だったか。
先人たちはSLブームの折、冬季によくぞ遠征してくれたものと思う。今見ても遭難しそうだよ。
日曹天塩炭鉱専用線もいっそう遠く感じられる。時間的にも、距離的にも。 騙されたと思って、LGB 20782 と入力して画像検索してください。
2021年発売。いまならドイツの模型店のどこでも手に入る現行機種です。
色は別として、どこをどう見てもニッポンの地方私鉄でしょ、これ。
フランス製造の機関車ですが特に強い自己主張はなく、日本の車両メーカーが競うようにコピーした可能性が非常に高い。似過ぎでしょう。
実物はメーターゲージで動態保存されています。
つまり、製品のままで、強いて手間を指摘すると連結器をケィディに換装するだけで、ニッポンの1067mm地方鉄道の機関車が手に入ります。
ヘッドライトが気になるかもしれませんね。それはまあ楽しみの一つでしょう。
700ドル前後に運賃プラスで、10万を切ります。
ワールド工芸12mmC型蒸気が完成品12万(既に完売)ですので、どうですか。
いや、なんで薦めてるのか判りませんけど、犬の糞のような車両を真剣に愛でられますか?夢見るレイアウトの可能性はどれぐらい?
12mmよりも家族の理解、得られ易いんじゃないでしょうか。大きさに呆れられますが、大衆の賛同は得易いと思うのです。 ヨーロッパにもワールド工芸のような会社があるね。
プラダイカストではあり得ない、中華製からも手に余るようなマイナー形式が出てる。
日本からどうやって求めたら良いのか見当もつかないので悔しい。 衝動的に入札した模型が落札されてしまった。深く反省している。
以前から欲しかった車種なので一目ぼれしたのだが、初めて見るにも拘らず正体を調べることを怠り適当に少し上回る金額で応札した。どうせ落とせないだろ。
その行為そのものを忘れてしまい、昨日メールをチェックしていたところ落札を知らせる件が見つかった。何を買ったのか思い出せない。
正体を探っていたら、結構な規模の電鉄だった。現在も超低床車などを入れて平行する鉄道線と競合しつつ盛業中です。
ウィーンのバーデン地方鉄道。所要一時間借弱、毎時四本のくせにほぼ全区間複線専用軌道。ところどころで併用軌道。なんとまあ豪華な福武線であることよ。
解せないのは最新型電気機関車などを多数保有しているところ。積極経営という奴で、機関車リース業に進出しているのだろうか?
http://www.railfaneurope.net/pix/at/private/WLB/trams/historic/2003_09_19_TW_24_Baden-Leesdorf_GH_klein2.jpg
http://www.railfaneurope.net/pix/at/private/WLB/trams/historic/wlb032_ds110122.jpg
どうだいこれ。前面妻板が左右非対称の馬面電車というところに痺れてしまった。
車体更新を受けているらしいが原形では幅の狭いほうは貫通扉だった可能性もある。根拠はヘッドライトの位置で、中央についてない。
扉は中央とした名鉄モ600型よりも、賢いのではないだろうか。
ニコちゃん大王のようなデコの灯具は何だろう。方向指示器だろうか。なにこれ。
有りがちなナローではなく標準軌なのでガニマタ感が凄い。
見たことない奇妙な連結器をしているし。これどうやってロックするのだろう。
短めの古典的な電車が欲しかった。
プロトタイプに拘らず夢の世界で遊ぼうと思う。岳南デキ1型などと相性は良いはずだ。 アインハイツロコ寸前のドイツの機関車が最高ですね。
蒸気機関車も電気機関車も。
内燃機関には少し早すぎるのも良し。 篠原正瑛教授は今年で没後二十年にもなるのか。
その鉄ヲタ愛満ち溢れた書物の内容が今染み渡るように判るような気がする。
ある程度のレベル以上の本は、本当に関心が向かうまで上っ面の文字の列を眺めているだけで終わる。
しかしウィキペデアの猛追はすごい。日本語版記事も増殖している。
ドイツ語版記事を訳しても、技術的に筋が通らなかったり文脈が通じないことは今も多発しているので、現時点ではまだ教授の著作物がリードしている。
今回はウイキで予習してるから理解度が深いのかもしれない。 ポールセルーの旅行記に続編があるとは知らなかった。
古きパタゴニアの急行列車、という。
先ほど古書店で見つけて買い求めた。
先行する鉄道大バザールはよほど売れたらしい。
私も新刊で読んだ。家族旅行で上野より北へ向かうブルートレインに乗るときに多分上野駅で親にねだったのだろう。
車中では字が細かいのと、それどころではないので早々に投げ捨てた。しかし宿についてから四六時中読み耽って親に注意された記憶がある。
その続編を知らないのは、まああり得る。大長編の前作に見劣りしないよう、続編では活字が大きいのが苦心を伺わせる。 最近、鉄道模型の模型化プロセスに伴う、「二線式」は本当に必要かつ意義あるものか?という思いに囚われている。
左右いずれかの車輪を絶縁としなくてはならないし、その絶縁車輪へ集電ブラシを当てねばならぬ。
これが結構な弱点だという事は、比べるものを体験していないと全く理解できないだろう。
鉄道模型の、ただ走ることの大切さを考えると三線式は実に楽で、スタートラインにチートが効いている状態だ。
この簡単さを多くの人に知ってほしいと思う。 草軽電気鉄道を現在まで延命してみる。
軽井沢は西武鉄道だとか怪しい話が流布しているけど、実は東武鉄道のほうが可能性はあったんじゃないか。
東武日光線は伊勢崎線に匹敵するような延長距離があるではないか。1920年代にこれを完成せしめた東武はすごい実力の持ち主だ。
そして日光線の距離を当てはめると、伊勢崎駅から草津温泉まで届きそうだ。こっちでフルスイングすればどうなったか。
史実では間に挟まる東京電燈前橋線や吾妻軌道があまりにも設備貧弱、酷かったものだから、ゼロから建設するも同然であったこともあり着手に至らなかった。
仮に、たとえば吾妻軌道が親会社のバックアップを受けて秩父鉄道並みの地方私鉄の体裁を備えていたら?東京電燈前橋線が上毛電鉄並みの線路設備であったら?
1920年代半ばの東京電燈編成時に、東電は鉄道経営に積極的ではなかったらしい。
そうなると東電の経営者を兼ねた人物が経営する東武が圧倒的に有利である。
戦前1930年代に東武伊勢崎延長線が中之条町に到達しても、おかしくはないのだ。
開業したばかりの省線上越線に対抗して伊香保と草津の両温泉を、東武の観光地としてアッピールする。熾烈な競争は優秀な車両を残す。
デハ5型やデハ10型は草津方向のためにも製造数が何割も増えることになる。 東武鉄道吾妻線は戦時に至り鉄鉱石輸送をその任に加える。何しろ大東武なので戦時買収の可能性はない。
草津温泉にむけて未成区間の半分ほど、長野原までは非電化専用線で出来てしまう。
実際の輸送量は微々たる物に終わったらしいので、明治生まれの古典蒸気機関車が吾妻川に沿って上り下りする。
長野原から先、嬬恋方向へも専用鉄道の路盤は伸び、終戦目前には線路まで敷かれていた。
それを譲り受け営業に耐えうるように、電化など追加設備投資、昭和20年代半ばには嬬恋まで東武嬬恋線として開業を果たす。
前後して独立資本であった草軽電気鉄道が翼下に加わる。嬬恋駅より北を「草津温泉線」、東武嬬恋駅より南を「軽井沢線」と呼称した。
東武5300系電車を主とする急行電車は浅草駅を出て、はるばる4時間をかけて嬬恋駅に到着し、ここで草軽電鉄線に乗換えとなる。
それでも国鉄線碓井峠経由より2時間以上早く東京から草津温泉へと入れるようになり、利用者は増加に転じた。
日光線同様に夏季シーズンは夜行列車も設定された。草軽電鉄は設備増強に追われ、東武との合併に向かう。 もちろん台風被害はあるが、すでに草軽線は東武にとって重要な路線である。
初回被災からの復旧時に線路は100mほど上流側に、同時に十メートル近く嵩上げし、市街地を迂回することで東三原のスイッチバックも解消された。
この新吾妻川橋梁は将来の1067mm化も想定した、軽便には不似合いなものだった。
軽井沢方向は国鉄信越線の複線電化など増強に遭い時間的に逆転され苦戦するが、昭和40年代になると高原列車の風情が人気を呼び始める。
L電の続行運転が始まり、やがて黒部渓谷鉄道のような大型凸電が導入され始め・・・・・。
一方で草津温泉方向は抜本的な増強策として1067mmへの改軌が図られる。
途中の急曲線は大胆にショートカットされ、幾本かのトンネルや橋梁に置き換わる。結果的に新線同然となり軽便時代の路盤はほとんどが放棄された。
旧来の草軽電鉄草津温泉駅も立地が悪いと利用されず、大きく東から廻り込んで湯畑に近い場所に東武草津温泉駅が開業する。
以後、日光方面と草津温泉方面は東武を支える二枚看板として、競うようにロマンスカーの投入が続くのであった。
ただし、日光方面が二時間を大きく切るようになったのに対し草津方面は四時間近く、私鉄界でも屈指の乗車時間を誇るようになってしまった。
結果的にロマンスカーも長距離利用に特化したタイプとなっている。
軽井沢における東武の存在感もまた、大きい。北陸新幹線開業後も草津温泉まで含めた回遊ルートを構成し続けている。
国鉄吾妻線など無かったことにするのが大切。
草軽はL電のままでは生き残れないが、黒部渓谷のような長蛇のトロッコ列車となって中山道を横切り観光客に親しまれ続ける。運行本数も黒部並みが必要だろう。
少数のL電は復元されたサマーカーとともに、北軽井沢駅付近で観光列車を牽く。 軽井沢駅前の草軽デキ13ですけど、鋳物製側台枠にマイナスネジ頭が幾つも顔を覗かせていますよね。しかも実物を良く見ると、テーパーのついた皿頭になっている。
これはなぜでしょう?当時すでに六角頭ボルトが多用されていたはずです。考えてみました。
皿ネジはテーパーのある下孔加工が面倒臭い。それに六角頭であれば大きなレンチで無理やり外すこともできるし、最悪頭を焼き切ることは、どの鉄工場でもすぐにできる。
それに対しマイナスネジは溝を痛めれば終わりで、そうなったら皿頭のボルトより少し小さな径のドリルでボルトを内側から薄く削って外すという、恐ろしく面倒臭い仕事をしないとリカバリーできない。再組み立て時に必要な皿頭ボルトは特注せねば手に入らないでしょう。
損得を考えた仮説。
「側台枠と連結器ブロックの固定で精密な位置決めがしたかったが、この様な大物鋳造部品同士を溶接で組み上げる事ができなかった」からではないか。
メーカーとしては、このネジが外される事態は全く想定していない。
三本のネジが直線に並んでいないところも、寸法誤差を最小限に抑えようという意図を感じます。
わが国のカトーやサカイでは、同じ側台枠部分の鋳物を凹ませ、薄くなった部分に六角ナットを多数並べています。
連結器ブロックの側にボルトを多数植え込んでいるのでしょう。
連結器ブロック側は貫通孔ではない筈です。側台枠と連結器ブロックの双方が貫通孔の場合、孔とボルト径の隙間だけ二重に動いてボルトが斜めになります。
鉄道車両の場合は致命的で、衝撃でナットもすぐに弛むでしょう。機械設計の禁じ手です。
どの機関車もこの部分だけはナットが表に出ているのは、弛みを覚悟しているためです。
ナットを内側に隠してしまうと、外れていても判りません。
表に出ているナットの喪失は日常点検で判ります。
これは外して台枠をバラバラにすることも必要という設計上の配慮か、それとも皿頭孔加工が面倒臭いのか。
ナット頭露出から見ても、構造上の弱点と認識していたことは確かでしょう。
たまにこの部分のボルトがやけに本数が多い実物がありますが、それは連結器ブロック側も貫通孔で普通のボルトナットで絞めているのではないでしょうか。
正に弱点です。数さえあればナットが何個も欠損して動軸の平行さえ保てなくなるまで時間は稼げます。
皿頭はテーパーの角度が決まっており、それは一般的なドリル先端部とは異なります。
ネジ孔加工の仕上げはテーパー角度にあわせた仕上げ専用の刃先工具が必要となります。
角度が一致しない場合はテーパーのごく一部しか支えにならず、皿頭を用いる意味がなくなります。
絞めるだけで位置が一点に決まるのが皿頭最大の長所であり、単に突出させないだけなら円筒形に深く大きな穴を掘って六角頭ボルトを沈めればよいのです。
カトーやサカイのように。
草軽デキ13のように互い違いに配置した皿頭ボルトはちぐはぐな方向に引っ張り合って釣り合うことで、連結器ブロックと側台枠の位置関係はボルト数本を絞めるだけで全く不変となる筈です。
車両の牽引力の大半は側台枠と連結器ブロックの間の摩擦で伝達されます。皿頭ボルトは両者をきつく締め付けて強い摩擦力を維持するためのものです。
この締め付け力はテーパー部分を通じて伝達されますので、ネジ孔加工は極めて大切な意味を持つわけです。
ボルトの弛みは摩擦力をゼロに等しくしてしまい、牽引力のすべてがボルトを経由することで弛みも加速度的に悪化します。
専用工具を使い精度は出るが台枠の分解はできないジェフリーと、そこは諦めて監視し易くし、台枠までバラバラにできるカトーやサカイ。
いずれが正解なのか。
一体鋳造ができればそれに越したことはないし、溶接技術の進歩で板台枠へと移ってゆくわけです。 草軽の電気機関車は、機械としては汎用量産品なのであちこちの軽便へ譲渡話が創作可能だ。
零細な電化軽便自体が物件が少ないわけですけど。 水力発電所って津々浦々にあるのね。
小規模発電所が設備更新期に不経済として廃止が相次いだ時期もあるけど、今は小規模水力発電所として再興の機運があるらしい。 イギリスの保存鉄道の映像を見ていると、この国に生まれた不幸に浸ってしまう。 宇宙イチ格好イイ鉄の塊だと信仰しているC11254が会津田島駅前にある。
同類ジャンル中で頭一つ抜きでて優れた性能の、よい設計。
現場で愛され、しかも兄弟機の中で一番カッコいい。
何も言うことは無い。
何十年も昔にチラ見した。
こんな愛しい物品が近所にあったら生活できない。
ほかのタンク機を見て動悸を抑えてる。
いきなりC11254号機見たら多分死んでしまう。 >>89
>イギリスの保存鉄道の映像を見ていると、この国に生まれた不幸に浸ってしまう。
イギリスは日本にはない移民や医療関連の問題を抱えているよ。
特に医療関連の問題は深刻で富裕層出ない限りは緊急を要する盲腸の手術でさえ待たされたり手軽にレントゲン検査も受けられないらしい。
食生活の問題もあり、富裕層を除く一般庶民の平均寿命は日本より短い。
古いものを大切にする習慣があるのは良い事だけどそれに関する社会的な負担も大きい。 保存鉄道のために不幸になるのなら、構わないさ。
私の物差しが壊れてるんだよ、最初から最後まで。 一つだけ言っとくと
「不幸になったやつ」は保存鉄道に関わる余裕はないよ では数々の保存鉄道がある事で、杞憂だと実証されてるんですね!
捨て台詞も少しは考えて言えよと思いました。 英国には余裕のあるやつとそうでないやつが居るってだけの話だが?
あたまつかお? そもそも俺はイギリスの全肯定などしていないのだよ?
あたま、使おうな、本当に、心配するよ 別にイギリスを全肯定してるわけじゃないのよ。
ユートピアなど無い。そんなの当たり前の大前提じゃない。
なんでそんな大前提を受け付けポストに捻じ込んでくる奴が出るわけ?理解不能。
書く必要もないことをわざわざ教えてくれようとする意味は何?
常識を押し売りしておいて、その対応に使う俺の脳細胞などないわw
お前が頭使えよ、ほんとうに。 自分が不幸な状態なのに保存鉄道の支援とかできるわけねーだろって話に対して
>>94みたいな返しをするのは、必要なことなのかな?
普段どんな扱いされてんのか知らんが、ろくに討論したわけでもない相手の言葉を
捨て台詞扱いするのも頭おかしいし(挨拶代わりに罵られてる日常なのか?)
とにかく>>93のどこがぶっ刺さったのか知らんが、突然錯乱するのは勘弁な
壊れてるのがものさしだけじゃないのは判ったがw そして 1/80・16.5mmの HOゲージプラ完成品は益々増殖し続ける♪ グーグルアースでサウスジョージア・サウンスサンドイッチ諸島を探してほしい。
なんじゃそらというのは当然。フォークランド諸島の東の彼方1000キロにある英国領の孤島。
例の戦争で、よせばいいのにアルゼンチン軍が占領したものだから、誰も知らない奪回作戦が行われていた。
フォークランドが果てしなく遠いのに、そこからさらに1000キロですよ。
南極が目と鼻の先にあるため天候に恵まれず、両軍とも敵は空模様という始末。
まあそれはさておき、主な集落らしいクリトピゲンを検索して特定し、ストリートビューで降り立ってほしい。
まずは目標として博物館が良かろう。その庭に。
ナベトロが、おる。
屋内に収まらぬ捕鯨砲などの道具の向こうに、きれいに塗られたナベトロが短い線路の上におる。
こんな極地にナベトロがおるとは・・・
まてよと周囲を探検すると、桟橋のひとつから土に埋もれた細い線路があり、錆びたナベトロがもう一台。
しかもこの線路、桟橋方向を拡大するとペンギンがいる。トロッコとペンギン。
付近にはナベと台枠が分離した奴も何台か見出され、合計で10台前後はいたらしい。
周囲は一面の廃墟で、荒涼としており、錆色と雪の取り合わせがなんともいえぬ。
このナベトロたちは、何を運んでいたのだろう。
鯨油生産が唯一の産業であったらしい。周辺の廃墟は捕鯨産業衰退の結果だろうか。
そうなると、船上で解体した鯨肉でも運搬していたんでしょうかねえ。人力で。 Wikiは便利だなあ。
パニアタンクについて一通り勉強できてしまった。日本語版だって英語版で触れていなけりゃタンク式機関車の項目でもスルーだろう。
今ほど知名度を上げるには、機関車トーマスの力なしに考えられない。
ほかにも様々な珍しい様式が、子供のために調べるママさんの懸命の努力で世界的な規模の無駄知識になりつつある。
機関車トーマスを見ていて一番格好いいのがダックですな。異論は構わないが認めん。
そこからパニアタンクの深みにはまる。
この機関車(もちろん実物)を知らなかった訳ではなく、それどころか英国型の泥沼へと誘う恐ろしい存在として警戒対象であった。
トーマスに出てくれば追いかけてしまうのも当然だ。
ただ、以前はパニアタンクという知識を仕入れることは簡単ではなかったように思う。
初めて見たのは大昔の「とれいん」誌上ではあったが、そこにパニエタンクという解説はあっただろうか?
だから、トーマスがwikiを詳しくしたんじゃないかって勝手に思ってる。そのほうが楽しい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%8B%E3%82%A2#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:GWR_Pannier_7714.JPG
サイドタンクに対するパニアタンクのメリットが思い浮かばない。
バルブギアのメンテがし易いって、お前らほとんどインサイドシリンダーだろうが。
ランボードの位置が低めで半月型の動輪ケースがあるので、メンテナンスは長所にはならんぞ。
重心は高くなるだろ。だからといってボイラーに重力で給水できるはずも無くインゼクタはついてる。
ハンドレールは高くなるので、低いランボード位置とあわせ外周を歩きやすい。メリットかな。グリースの補充とか地際からでも出来そうな気がする。
パニアアンクとランボードの間に目障りな給油装置とか収めてもあまり気にならない。これはメリット。
結局、ボスになったエンジニアの偏った美意識の産物だろ?
GWRでは雑多な入換機の統一と性能向上を図る際にペルペア式火室を導入することにした。
ペルペア式はボイラー上に平らな場所が出来るので、それまで大半を占めていたサドルタンク機の水槽をすべて交換しなくてはならなくなった。
効率が数パーセント違うというけど、そうまでしてやることか。
普通のサイドタンクでも良いんだろうけど、なぜかパニアタンクという特異な様式に。
最初からパニアタンクの新規製造車がどんどん増えて英国でも有名な一大勢力に。
国有化で旧GWR地域から離れた場所にも生息域を広げて、GWRだけでなく英国蒸気のアイコンの一つになる。
俺この形が好きだから、で採用したということにしてほしい。
特に長所など無くて良い。美しいセンスが形になった、すばらしい機械だと思う。 上の文章を書いた後、パニアタンクとぺルペア火室の深いかかわりが判ってきた。
バニアタンクの謎も解けた。
元は大量の、そして出所も多様なサドルタンク機の群れであったらしい。
当時のGWRは超広軌の乱痴気騒ぎの後遺症もあって、機関車を部品単位で見て適時組み合わせて出場させることに違和感を感じないという面があった。
検査に一番時間がかかるボイラーなど、ストック品から載せられるものを載せて出してしまう。工場敷地が狭かったんだろうな。
そういう中に、効率を改善した新型ボイラーとしてペルペア式火室を設計し、検査交換サイクルに入れてしまった。
だから、「パニアタンク付新型ボイラー」は、「サドルタンク付旧型ボイラー」と完全な寸法互換性があった。
入換機が入場したときに、先に検査終了した足回りに載せられるボイラーが新型か旧型かは、わからない。
以前はバニアタンク付新型が載っていた番号が入場して出場するとサドルタンク付旧型であったりする。
だから、サイドタンクでは無理なわけだ。サドルタンク機時代のランボードが板大枠についているから。
ランボードとペルペア式火室を避けたタンク体の形が、パニアタンクということ。
そのうちにこの標準ボイラー規格を使う足回りだけ新たに製造して新ナンバーを収得したりする。
その新ナンバーも検査サイクルに入ると、古いサドルタンクを背負って出場することがある。
こうして、写真と番号を見比べてファンを楽しませることになる。
こんな検査体制を敷いているのはGWRぐらいなもの。他社はランボードから作り変えればよいので真似をしない。
美意識の産物ではないが、パニエタンクの曲線に美意識を見出したい。 GWRって深いな。趣味探求の限界、底が見えない。
まず英米ファンが100年かけて掘った深い穴の存在を感じる。 ルクセンブルグ5519号機
間違いなくドイツの042型だけれども、一度もドイツ国籍であったことがない戦後生まれ。
しかも現時点ではルクセンブルグ国鉄の信号システムに対応できておらず、活動の本拠地をドイツ国内においている。
でもドイツ籍ではないので、ドイツの保存蒸気のリストからは漏れていることが結構ある。
042型で稼動状態にあるのは、現時点でこの一両だけ。
オーストリアのウィーンにあって、いまは操業を止めた車両工場の製品。
戦時中にこの工場ではまず52型の量産に参加していたけど、生産計画の変更で途中から42型の主力生産拠点に指定されたか、敗戦前には完成車を送り出し始めていた。
ドイツ本国内メーカーは戦車生産に動員され機関車製造からは手を引いていたようだ。占領地のメーカーを動員した52型の大量産はまず上手く運んでいたということだろう。
42型は52型の重量増加、出力強化型のはずだが材料が思うように集まらず予定の性能を出すことに苦労はしたようだ。
(42型という形式は、軽量52型の量産構造と高出力43型の折衷という意味があるのではないか)
戦後の復興についても42型なら売れると見込んだのか、確約がないまま大量の見込み生産を始めたのです。これが過ちの始まり。
東西ドイツからはキャンセルされ、頼みのオーストリア国鉄からは、水力発電で電力余ってるから幹線電化を急ぐと断られた。
大量の完成車が行く先もなく側線を埋めていたところを、深刻な車両不足に悩むルクセンブルグが見つけた。
まだソ連占領時代の1949年のことで、20両まとめてバーゲン価格で引き取った。
ちなみにこの会社からは1952年にもブルガリアに、33両も42型が売れている。
その後に他の車両製造会社に吸収されて今は存在しないが、大量の見込み生産品が業績悪化を招いたのではないか。
当時、ルクセンブルグは大戦末期のバルジの戦いで国土は荒廃の極みにあり、独立維持が危ぶまれるほどの状況にあった。
戦前から欲を持つベルギーが併合を提案さえしたけど、戦争前の旧状復帰を求めた米英仏の介入で阻止された。
ベルギー自体が破綻寸前だったし、大戦中にベルギー王室がドイツ寄りであったことを、特にアメリカは忘れていない。それにフランスもベネルクスが強くなることを望まない。
この地域は米英独仏のパワーバランスの影響下にあり、集団安保や金融業の成功でルクセンブルグが発展し始めるのは後の話。
当時はまぁ、観光地も無くて退屈極まるカリオストロ公国みたいなものだろう。
廃墟の中で発足したルクセンブルグ国鉄は、連合国からの救援物資としてイギリス製のコンソリ「リべレーションクラス」を20両手に入れて、ようやく一息ついていた。
復興に役立つ材料としては、戦後すぐから隣のフランスでは深刻な石炭不足が起きており、ルクセンブルグ国内の炭鉱から輸出すれば安直に外貨が稼げる情勢にあった。
そのための重牽引貨物用機関車を探していて、オーストリア製42型のバーゲンセールに出会ったわけだ。
1950年代に入ると、フランスは輸送量が急増した石炭輸送ルートを電化することにした。ルクセンブルグやベルギーの国境近くである。
しかも商用周波数交流電化。戦前から仏国内で研究は進んでいたという下地があったのはもちろんだが、旧ドイツ占領地から接収した交流電化設備の影響も大きい。
この電化で、初期交流電気機関車の名作であるBB12000型を生んだ。
この石炭輸送ルートにルクセンブルグが片足を深く突っ込んでいたお陰で、ルクセンブルグ国鉄も全く同型のBB3600型を20両、導入することになる。
1958年ごろのことで、このころに発足したEC体制下でルクセンブルグは金融首都として発展し始める。
交流電化が蒸気機関車引退を早めたのは間違いない。直接的にはディーゼル機関車に交代した。
しばらく公園機関車として余生を過ごしていた5519号機だが、復活を遂げる。
このタイミングが良かった。最初はルクセンブルグ国鉄工場で修繕をしていたのだが、東西ドイツ統一が起きてしまう。
これで旧東ドイツ内の企業に自由にアクセスできるようになった。そして旧東ドイツには、蒸気機関車のボイラー製造能力を保持し続けていた企業が残っていたのだ。
5519号機は旧東ドイツ内で残りの修繕を済ませ、動態保存機として再デビューを飾る。
更に2001年には同所で製造された溶接ボイラーに交換したとの事。「全力で走ることができる、042型」という地位を手に入れた。
生粋のドイツ人から見れば、間違いなく純正042型でもドイツの鉄道の籍を一度も得ていないことが、気に障るらしい。
製造時点では042型としての仮番(戦時生産下での計画だが)で扱われていたが、結局その番号では構内試運転程度しかしていない筈だ。 ダージリン鉄道の新しい動画が色々出ている。
撮り方の上手な人が、一度に見るのに適切な尺で多数上げている。
すごく楽しい。 戦時中に急造されていた上信鉱業専用線が草軽に買収されることで、草軽の延命が図れなかったのは残念なことだ。
専用線は路盤まで完成していたとされるが、買収失敗については原因が判らないままだ。
用地買収には成功していたという記述もあれば、東急が乗り出してもできなかったという記述もある。
その理由は・・敗戦直後の資材難の価値観をもって評価しても、当時の草軽電鉄があり無いほど酷かったせいではないだろうか?
いまさらあんなものに走られても困るというのが、住民の正直な気持ちなのかもしれない。
D51型が入線可能という国鉄長野原線がすでに来ており旅客営業も間近だというのに、昭和20年代になって草軽レベルの軽便鉄道が通じても困る。
長野原駅から嬬恋方向にも国鉄規格の線路を作ってくれ。
と、いう要望が地元からあったのではないかと思うのだが、どこにも気配が無い。
そういう動きでもないと空白が埋められないのだが、肝心のピースがみつからない。
そもそも、なぜ長野原線改め吾妻線の、長野原駅から西に向けて、大前駅までの間が建設されたのだろう?
東急がここでも「やらかした」のではないか。
着工は昭和38年です。この時期に東急は大糸線沿線の白馬にスキー場をつくり、「タイミングよく」、地元自治体が県を通じて請願した南小谷電化工事が行われています。
村の中心市街地でも無い南小谷駅が電化工事の終点に選ばれた理由は駅前にバス転回場を設ける事が出来たからで、癒着というのも恥ずかしくなるほどに官民がガッチリ手を携えた観光開発でした。
東急にとっては、大糸線白馬電化よりも長野原線延伸案件のほうが関わりが古い。長野原線の成功体験を大糸線電化推進に応用したのではないか。
草軽が東急と関係を持ったのは敗戦前のことで、いくらなんでも速すぎる。これも事情がありそうだが、草軽のほうから東急翼下に入ることを選んだとある。
東急対西武の対決に最初に火を放ったのは、実は草軽鉄道かもしれない。
草軽は草津温泉関係者により設立され、湯治客を運びつつ北軽井沢の別荘地開発で知られる。これが軽井沢を創業の地とするコクドの気に触ったのではないだろうか。
コクドは、戦前の異様に早い時期に浅間山麓に自動車専用道路を開業させる。
高所得層しかいない別荘の住人の自家用車保有率は問題なかったろうし、軽井沢を他の方向に出ても道は未舗装で、ドライブという気分になり難い。
だから高所得層向け有料自動車道路という発想は正しいのだが、問題はこの道路がほぼ、草軽電鉄に並行する点です。ああ縦割行政。
今まで西武と東急の争いを論じた記事は多いが、戦前のコクド対草軽という図式を論じた人はいるだろうか?
草軽が東急翼下に入ったのは、西武の圧力に耐えきれなくなっていたのではないか。
戦前すでに圧倒されっぱなしで、戦中の産業統制が終われば西武に押し潰されるのは目に見えていた。 それにしても鮮やかな対比です。
有料道路を行く、ほとんど輸入車であろうマイカーを運転する別荘の主が、コクドの客。
凝った観光用の客車をもつとはいえ極限の最底辺の設備で温泉湯治客を運ぶ草軽電鉄。
有料道路にバスが走り始めたら、草軽側は圧倒されたのでしょう。そこに天災です。
草軽電鉄は社業の発展を、上信鉱業線を合わせる事に賭けた。コクドに押し潰されそうなので東急との資本関係を望んだ。
天災を受けるまでも無く、東急はコクド相手では草軽電鉄線を推しても勝てないと見た。地元も軽便鉄道の延伸には気乗りしていない。
そこで東急は、草軽が望む専用線買収案件を適当に流した。草軽電鉄サイドの記述に乱れがあるのはこのためだ。
その代わり、長野原線の嬬恋延伸を企てた。東急資本を動員することはない、国に作らせれば良いのだ。
天災を逃さず草軽には廃線を指導し、バス会社として手足のように使う。
地元長野原町はこの後、コクドと対立する。
file:///C:/Users/design-kondo/Downloads/atomi_kankomi3_07%20.pdf
この論文は長野原町視点で記述されたものだ。
民間資本を活用するにあたり、まず草軽東急ありきであることに少し戸惑いを覚える。
そしてコクドが妨害に出て、自治体とコクドの間で裁判になる。
なぜ草軽東急と長野原町が「ズブズブの関係」にあるのかは、この論文では触れられていない。
コクドの立場に立てば、小資本草軽が相手であった筈のものを東急が出てきて、しかも自治体を味方につけて逆にコクドを圧迫し始めたことが腹に据えかねたのではないか。
伊豆戦争や箱根戦争と比べて、軽井沢は西武の圧勝もしくは無風状態と捉えられてきた。
実は異なり、しかも爆薬の点火スイッチが押されたのは、浅間山麓ではないだろうか? 迷宮食堂、キューバ、ハーシー編
インターアーバンの工場にヒロシがグイグイ入ってゆく。
あそこ、モーターコイル手巻きで修繕してるんだね。
普通に撮ってると出てこない映像だよ。 コロナが終息したら、また軽井沢に行きたい。
行き先は廃線跡なので道路が少々混む事を除けば空いてるし。
前回よりも、もう少し奥に入りたい。 草軽のホハ30型だけれども、形式図の説明に室内端部を仕切ることができるとある。
これは、病客車ホヘ19号の代わりではないだろうか。
ホハ30型と入れ替わるように病客車ホヘ19号が引退している。
ホヘ19号の運用実態は酷いものであったというが、果たしてどれだけ利用されたのか。
以下私の想像です。
ホヘ19号による病人輸送用夜行列車は細々と運行が続いた。
それは会社と群馬県の合意事項なので履行せざるを得ないことなのだが、しかし会社はこの列車の面倒くささに音を上げてしまった。
そこで昭和7年のホハ23型、続いて翌昭和8年から量産が始まるホハ30型に工夫を凝らした。
どうせ病人の利用者はいないのだし、客車の端部に仕切り壁をもうけて、いざ本当に来たときは仮設の寝床を設けてカーテン等で仕切ればいいではないか。
寝床を置く可能性があるので、そちら側の妻板の扉は引き戸になっている。
群馬県より病院へは送迎用に自動車が貸し与えられており、その自動車が上越線渋川駅などから病院までを結んでいた。
その結果、草軽鉄道も(やる気の無い)病人輸送をしていることは、患者界隈ではすっかり忘れられていたのではないだろうか。
草軽は病人用夜行列車の存在を極力伏せたはずだし、行政や病院の側はトラブル回避のために自動車の活用を病人に勧めたはずだ。
そこで利用実態のない病人専用列車を廃止するため、群馬県には今後は昼間の列車の客車内に仕切りを設けて対処しますと報告した。
差別がますます高まる時勢だけに、何ら問題とはされなかったのだろう。
表向きは昼間の定期列車に病人も便乗可能となったわけだが、自動車への隔離追放が成功したからこその便乗容認ではないだろうか。
患者隔離設備はホハ30型にしかなさそうだが、運用は限定されていたのだろうか?
どうもそんな事はなさそうな気がする。
新軽井沢駅で切符を買おうとする病人はゼロに等しく、仮にいても先ず病院に電話をするように薦められ、病院でも即応するようになったのではないか。
迎えに参上すれば、病人が温泉街へ宿を取る可能性もない。
草軽は有料だが送迎自動車は無料の筈だ。
ホハ30型によりタテマエでは病人輸送の責を担いながらも、病人輸送からは解放されたわけだ。 田口線の起点、飯田線本長篠駅構内、よくこれで認可されたな。
急勾配を下って入ってくる田口線側に安全側線の類がない。
制御不能の電気機関車が勾配を下り降りてくる事故は実際に起きたらしい。
経営陣が実質同じであったとしても、実質的に支線であるとしても、配慮無さすぎ。
しかも飯田線は国有化してるわけです。
今の第三セクターの縁切りとは大違いで興味深い。 標準軌の地方私鉄、やりたくなってきたなぁ。前スレの続きで。 小川功氏の軽井沢、吾妻に関する論文が面白くて仕方がない。
ネットで読めるのは有難いが、まとまった本で読みたい。 海外情報が簡単に手に入るようになると、いままでのような適当な振る舞いが難しくなってくるな。
ヘレンタール線に興味を抱いて調べはじめたは良いが、次から次へと出てくる情報量に圧倒される。
おかしい、こんな筈ではなかった。
日本の鉄道模型を侵し滅ぼす悪癖だと私が思う、フル編成、特定番号嗜好。
こんなもの想像力を減衰させる悪趣味の類でしかない。走らせて見分けがつかない細部に金を費やすべきではない。それよりも楽しい鉄道模型に時間を費やそうぜ。
そこを、外国型鉄道模型は都合が良かった。元情報が言語の壁の向こう側にあるので、見えない。
何十両と並ぶヨーロッパの蒸気機関車の棚を見て一言。うわー、全部同じだー、と思えてしまうんですよ。
あくまでも外国型の場合はね。これは情報量不足が成せる悪戯。
日本型蒸気機関車の場合は同じ形式が何両と並んでいても仕様の違いとその背景がすぐに連想されて、見飽きるということがない。
全てのバージョン違いを理解して各々に物欲が沸く。
しかし外国型は、例えばドイツ蒸気に限定しても、44型と43型の差が判らないし、テンダーの形態違いから連想する事象に乏しい。
軸配置が同じなら01と03の両方持つ必要無いんじゃね?これ日本で言えばC62とC59以上の差が開くのだろうけど・・・。
無知とは恐ろしいが、それでも今までは無知で生活できていた。万人に開かれた優れた情報源が無いから。
今は違う。WIKIのドイツ母国語記事が莫大な量に達し、機械翻訳も精度が上がり鉄道用語の法則を理解すれば内容は読めてしまう。
情報のダムが決壊し、無知の平野を大洪水が襲う。
先のルクセンブルグの保存蒸気機関車だって、ほんの少し前まで存在を掴むことさえ難しかったはずだ。
いまは模型店の棚から特定番号の製品を見つける能力が、ついてしまった。
編成の特定も簡単だろう。それが皆が共有する時代が来る。ああ困った困った。 >いままでのような適当な振る舞いが難しくなってくるな。
過疎スレ占拠してるような奴がなに気にしてんだ
キチガイの思考はマジわからん 過疎スレは使って消費するのが正しい。志半ばに倒れた1への供養にもなろう。
お前も何か面白いことを書き込みたまえ。ここでも、他の過疎スレでもいい。 ヘレンタール線の前面展望映像も簡単に視聴できる。もう誰もテレビ番組に戻らないだろう。
そこで、何という急勾配と急曲線の連続であることか。55‰の登坂が、右に左に折れながら延々と続く。
これを標準軌で敷いて、しかも粘着式にして、さらに商用周波数交流電化の試験線にする。
粘着運転の切り札として投じられた85型は三気筒機で、44型から足回りの設計を流用している。
それでも55‰勾配で僅か165トンしか牽引出来なかった。平坦区間のおおよそ1割でしかない。
ドイツ人の狂気を感じる。 ちょっと魔がさして仙山線の前面展望も見てみた。もちろん仙台から勾配を登る方向で。
共通するのは亜幹線でさえない所と、急勾配の交流電化試験線と言う所か。
そこ以外は全然違う。当たり前か。
右に左に頑張って登ってくれるけど、33‰だからなぁ。 あ、遊んでやってるわけじゃないから勘違いすんなよ? 良い感じの里に来ると、架空の鉄道を敷いてやりたくなる。
特に何の産業もなさそうだと途方に暮れてしまう。 55‰の勾配って碓氷峠の手前ぐらいはある。
五動軸もあるBR85型が二軸客車三両と荷物車一両しか牽引していない戦前の記録映画もある。
これ、連結器が破断したら大事故でしょう。動力車を勾配の下に置くという登山鉄道の方法を用いない。
あくまでも普通の鉄道として、僅かな乗客に大型機を充てがう。
信越本線と異なり、迂回する術がないというのとも違う。大きな輸送量を持つ幹線はやや離れて並行して存在する。
なんのために作ったんだろう、この路線。 やっぱり蒸気機関車の動輪は一つでも多い方が良いな! メルクリンの4656と言う貨車をご存知だろうか。
何十年も昔に出た製品だが、独特の形が災いしたか日本では滅多に見かけない。
動く弁当箱という体裁でまことに見た目が悪い。
https://marnan.eu/media/catalog/product/cache/3b28cd24ecc870320f879d37d9a25edd/i/m/img_0446_1.jpg
私はこれを、自由形フリーランスだと長く決め付けていた。グランピー鉱車のようなものだと考えていた。
だって実物写真に全く見かけない形だもの。こんなに容積が大きくて二軸貨車というのもおかしい。
ところが、ネットとは面白いもので、改めて正体を探ったら実物が出て来た。
https://www.cooltrain.be/index.php/nmbs-type-1000g1-en-1000g2
えええええ・・・。
これ、メルクリンにしてはかなり再現度の高い模型だったの?
模型化したのは登場まもない時期であり、運用開始後すぐにページ下のほうのワッフル模様の補強がついた、らしい。
輸送中に積荷が凍結して、払い落すためにガンガン叩かれたんだね。
叩くといえば中京地区にいる赤ホキの車体下部にある丸い模様は、冬場に凍結したらこの円を狙って叩けという意味だってね。
最近登場した後継形式には丸はついてないので、省力化のために作業方法が変わったのだろう。積荷カバーと関係あるかもしれない。
ドイツで現役のFalnsシリーズの側扉には打撃痕もないし、そもそも厚みがあるように見える。
二重にして断熱層を設け積荷の凍結を防ぎ、機械的に強引に開けるのか。
日本のセキでは石炭が壁内側にガッチリと張り付いて、扉の開放を妨げるほどだったと聞く。
開放は手動でハンドルが廻るようになるまで、真冬の吹き曝しの石炭埠頭高架桟橋の上で大勢の人夫がガンガンガンガン叩き続けていたらしい。
当時でも問題になるほど低効率で超ブラックな職場であったそうで、やがて蒸気で貨車ごと蒸して氷を解かし、さらに貨車ごとひっくり返す設備が整えられるに至る。
扉を開けないのに専用のバスタブゴンドラを開発しなかった怠慢は永遠の謎だ。
そう言う事情を踏まえると、非常に近い構造のベルギーワッフル貨車が気になります。
メルクリン4656も冬場の荷降ろしの際にはガンガン叩かれて、工業地帯に物悲しい音を響かせていたのかもしれません。
それを割り引いても実物の貨物列車に見かけない理由は、ベルギー国内の炭鉱とオランダ国境付近にある工場のあいだを往復するだけの、限定運用だったから。
この二軸貨車、最高速度は何キロまで許容されたのだろう。
日本で喩えるとエンドウブリキ貨車のミ10型みたいなもの、かな。
模型では知ってるけど実物は見たことがないという奴。 タクナーアリカ間鉄道
ペルー国の南部にあるタクナ市内に素敵な廃線を見つけ追跡していたら、この線路は現役だった。
タクナはペルー、アリカはチリに属し、植民地からの独立後に、新興国家間の戦争により領土が複雑に入れ替わっている。
元は内陸部のタクナ市とアリカ港という関係で、ペルーの鉄道では最古に近いものらしい。
戦争で両市の間に国境が引かれてしまったが、戦勝国チリは戦勝時点でタクナ市まで占領、領有したものを、アメリカの仲介でペルーに占領地の北側を返還した。
こういうケースでは怨恨が長く残りそうなものだが、領有権などで対立が起きてなさそうなのが不思議だ。
多分、戦争前はボリビアの領土であったらしいことが、両国間を共犯意識で連帯を可能にしてるんじゃないのかなー?
内陸国ボリビアが太平洋岸の領有権を主張し、チリとの関係があまりよろしくないのは有名です。
考えすぎか。
よく判らないがチリ領内の鉄道施設もペルーが所有し管理し続けているらしい。
その管理も鉄道というカテゴリーではなく、ペルーの交通文化財という事らしいので驚く。
稼働車両は一両だけで、2010年代に製造された可能性もあるが、なんと、片方向にしか進めないタンタン式?気動車である。
世界でも最新の実例ではないだろうか。 ブラジルでオリジナルのHOゲージの鉄道模型製品がかなり豊富に出回っている。
中国製かもしれない。
中国で中国型が色々出ていることは知っていたが、まさかブラジルでも自国車両の製品化の動きがあったとは。
地域柄、アメリカの車両の偽物の様な形が多くて面白い。特に貨車は、塗替え品かもしれない。
これ、日本でも買えないかな。アメリカの模型店では扱いはない様だ。 ブラジルの鉄道模型メーカーですけど、EMDのG12A1Aというやつが出てるじゃないですか。
これは悩ましい問題が起きた・・・・。判ってますでしょうか?
アメリカの汎用輸出型機関車でも台車内に遊軸を与えて、軸重軽量化に努めてるタイプです。
台湾に1067mm版が入ってきておりましてね。
ええ・・・台湾のHOは1/80スケールを採用する16.5mmゲージで御座います。
ブラジル製はHOで、1/87スケール16.5mmゲージです。
な、並べてやりたい・・・・・・。
日本でも様々なノックダウン試作機をムサシノモデルが1/80で作ってますし、輸入機であるDD12型など1/87製品と並べてやることは可能なので今更ですけど。
言わずもがなですけどブラジルは標準軌よりも広軌の勢力が強く、アルゼンチンやチリと並んで南米に広軌鉄道網を広げています。
三か国相互の連携が今も恐ろしく悪いのが理解できませんが。
そのブラジルのHOが、1/87はともかく、シレっと16.5mmゲージでありますのは当然ですが面白い。
「HOとはまず16.5mmゲージのことだ」説を補強するものであります。
日本以外の世界中の常識HO・・・・などという主張があやふやなものになります。
汎世界で常識のHOとは、日本と南米も例外としないHOゲージのほうでしょう。 さて機関車に戻るとして、EMDのG12型は日本も避けて通れない。
IFの話ですが、日米貿易摩擦で貿易障壁なるものが崩されたわけです。
もし仮に貿易障壁がもっと早く崩されて存在しないとしたら、G12型はまとまった数が輸入されていた可能性が出て来ます。
日立製DF91型とEMDの関係は、語られた資料を見たことはありません。
EMD製の低軸重型輸出機とDF91型は外観がよく似ているほか、台湾では一連のシリーズ扱いも同然の様に見えます。
DF91型のエンジンがドイツ製という事もあり、登場の背景については私は判りません。
日立のライバルである日本車両が、GEと提携して釧路のDE601型を作ってます。
国鉄は海外企業と日本企業が個別にパテント契約を結んで製品を供給する体制を、嫌っていた節があります。
オールジャパン体制で国鉄指定の複数企業が競争入札をする。
裏で談合まみれであろうとタテマエは日本企業だけで競争入札があるという美学?が大切だった。
いくら世界市場で売れていようが、海外企業のパテントで縛られて独占契約となる技術は発注できないのです。
三菱製DD54型も、故障頻発ならDD51型だって同じですしDD20型のように国産機も死屍累々ではないですか。
三菱がパテントを持つから欲しくても買えないし、早期引退の理由を故障に求めざるを得なかった、というのが真実ではないでしょうか?
DD54型のドイツ本家形式ってまだ本国で現役機がいるらしいですね。何が欠陥機だ。
DD51型の最大の長所とは、日本企業であればだれでも競争入札に参加できる点でしょう。
それが貿易障壁なのです。
日立=EMD、日本車両=GE、加えて三菱=ドイツ企業連合?の三グループはいずれも海外企業の進んだ技術力を背景に国鉄市場に食い込もうと働きかけますが、凡庸なDD51型にバッサリと切られて排除されたのです。
話を元に戻します。
貿易障壁が外国の圧力で早々と崩されていたら、どうなっていたか。
国鉄色の、日立によるノックダウン生産のEMD=G12型、軸配置A1A仕様が、かなりまとまった数で日本の線路上を走りまくっていたことでしょう。台湾の鉄道と似た状況です。
それがHO模型が市販されており、1/87スケールの16.5mmゲージである点で非常に面白いと思うわけです。
国鉄色に塗り替えて、10系寝台車などを含む夜行急行でも牽引させてやりたい。 ブラジルの鉄道の動画、探し慣れてくると紐付けされるのか、急にヒット数が増える。
今まで未知の地域だけに新鮮。
意外とメーターゲージが多いように思えるが、どの路線のいつの動画なのかまでは探れない。
三線軌道の走行動画もありました。 DD51型は少し偏見で見過ぎたかもしれない。
とりあえず格好は良いよね。
これで折れたらクロコダイルだったのに(毒 定山渓鉄道の本、発売時はスルーしていたけど立ち読みしていたら買っていた。
地元新聞社が全力投球したカラービジュアルガイド。ここまで調べて厚くしてこの値段は安い。
もっと早く買えばよかった。全国に図書館に置くべき。 >>133
もっと思う存分書き込んで下さいよ…
このスレ、楽しみにしてるので(笑)。 仕事が忙し過ぎて見るのが精一杯というのが昨今の個人事情。
でも暇あれば色々考えているんです。
昔からの課題に新しい切り口が見つかることもあれば、形にならず消えてゆく思いつきもあります。 何年ぶりかでプラモデル売り場にゆく。マスクは年齢も挙動不審もバレにくいので便利だ。
完全なる浦島太郎状態を味わう。工具類の充実ぶりは今の若い世代が羨ましい。
裏返せば、とても金のかかる趣味でもあり、子供のいない売り場だった。
客数の減少を値上げで補っているのだろうか、田宮MMシリーズもすごく高価に感じる。
88ミリ砲が有れば衝動買いもしたのだがと言い訳してみる。当時と同じ金型か知らないがカタログ落ちは無いようだ。
この88ミリ砲は今までに二回組んだ。幼い頃に縁日夜店の籤で大当たりしたのが最初だった。
当時はコレをプラモデルにする意味から理解できず、素直に形にはしたがすぐに捨てたと思う。
はるか後の書物で、88ミリ砲の製品化が、それまでタイガーだのパンサーだの花形戦車しかなかった分野に泥臭い、汗臭いジオラマを拓くきっかけであったのだと知る。
ベージュ色一色の兵隊さんが数多く入っていた事は確かに覚えている。右手と左手をつけ間違えるなど散々な出来だった。 だんだん思い出してきたけど、ベージュの人形は田宮ではない別の何かだな。
当時は色を塗る人が少ないので、ミリタリー色、オリーブドラブ色のような濃い色でランナーは整形されていた。
色番を指示するなど塗装を勧めるようになってから成形色は明るくなったように記憶している。
何で覚えているかというと、その濃い顔を肌色に塗ろうとしてドボドボにしていた事を思い出したから。
二回塗らないと、尖った西洋人の鼻先や頬骨が黒いままだったんだよね。
MMで鍛えたので、GMの板キットに全く抵抗感はなかった。むしろ簡単過ぎて面白くなかった。
東武DRCの頭とか田宮が作ればイイものになるだろうな、とか考えてましたね。 別の大きなプラモ屋さんで88ミリ買ってしまった。
言い訳は沢山ある。 言い訳
88ミリ、バイクを組むだけで視力の衰えを嫌になる程に思い知らされる。
ああ、こんな筈ではなかxtyた。
サクッと素組をするつもりだったけど、ガッタガタ。 >>133
「定山渓鉄道」で思いだしましたが、長野電鉄のED5101が好きでした。
そのせいか、カツミのフリー『ED58』が自分なりに気に入ってて、
貨物の最後尾にアルモデルのワフをつないだり、
ワム90000に赤円板つけたりして楽しんでます。 ED58 は好き嫌いが別れますよね。車体も二種類以上ある様に思えます。
OゲージED58は実物EFに近いのに、HOゲージになると実物よりもスマート。
その方が格好いいからなんでしょうか。
模型として手を加えようとすると難しいというのが定説ですよね。
そのままか、塗り替えるのがいい。 時計見たら日付変わっていた。
88ミリはおおよそ7割ぐらいの進行。
素組が精一杯で、古いキットゆえに金型の合いも悪く丁寧に組むには大変な労力が想像できる。
完成後も砲身が後退したり車輪の着脱ができたりとあちこちが動くところがMMとしては異色で、初期作品ならではだろう。
作りながらも楽しい。
プラ成形の厚みやプラゆえの弱さも目立つ。本当に88ミリが欲しければ全てブラスで作れたら、素晴らしいと思う。
自分が知らないだけで、そういう製品は過去にあるのだろう。ヨーロッパのモデラーにも偏執的な奴が大勢いる事は知っている。
日本で海洋堂が所有しているそうだが、実物が見たい。でも見てしまうとまたキットに手を出して今度こそ泥沼だ。 銚子電鉄のことを調べていて、ヤマサ醤油第一工場のことが気になった。
有名なオットー君(以下敬愛を込めてオットー君で統一する)は国鉄銚子駅構内や新生貨物駅に入る許可は得ていたのだろうか。
第二工場の側線入換までヤマサ醤油は自社機で行ったかどうかということなんだけれども。
憶測だが、第二工場の側線は国鉄蒸気機関車に委ねていたのではないか。新生貨物駅の写真は多いけど、常に分不相応な国鉄大型蒸気ばかりでヤマサ社有機を見かけない。
第一工場の話。
北側側線は昭和4年敷設で銚子電鉄が入換を担当する電化線。
南側側線は昭和32年敷設でオットー君が引退まで活躍し、その後も国鉄貨物廃止まで社有内燃機が入換を担当した非電化線。
この南北の側線の使い分けはどうなっていたのか。ヤマサ醤油工場内の施設配置図があれば分かり易いのだが。
憶測だが第一工場の西側は原材料受入をする倉庫群。中央から東側にかけて醸造を行う工場があるのではないか。
その仮説が正しい場合、北側側線は倉庫群と工場の双方に面している。建設以来長く全ての貨物を扱っていたのだろう。
第一工場の生産量増加に伴い、北側側線で原材料の搬入まで行うことを止めて南側側線を原材料倉庫の中に引き込んだのではあるまいか。
我らが?銚子デキ3型が活躍する北側側線のほうが先に活動を止めた節がある。
輸送中の温度管理が問題となる醤油製品出荷のほうが先にトラック化されたと考えれば納得は行く。
一方で原材料をワム等で搬入することに不都合はなかろうから、国鉄貨物廃止まで南側側線は細々と現役であり続ける。
あるいは、仲ノ町駅を跨いで両工場間にパイプラインが渡っていることをご存じか??
第一工場で製造した製品を第二工場へ送りボトリング、新生貨物駅もしくはトラックにより出荷していたのではあるまいか。
このパイプラインが何年の写真まで遡って確認できるのか判らないが、設置時期がデキ3型失業の時かもしれない。 判らないのは、第一工場の側線に配置された機関車がなぜ二種類もあったのかという点。
第一工場でも北側と南側で側線の扱いが違うので、北では電気機関車、南では内燃機関車を配置するという不経済な真似も許されたのか。
南側側線を設ける時に、多少余計な出費をしても電化して銚子電鉄に入換業務委託するという事を考えずにオットー君を探したのはなぜなんだろう?
オットー君で済む仕事量なのだから、デキ3型一両でも充分にこなせた筈と思う。
昭和32年といえば小型内燃機関車製造も量産体制ができており、酒井でも加藤でも、贅沢に日本車両でも新車購入ができたはずだ。
なぜヤマサ醤油は昭和32年にオットー君を活用しようと考えたのか?戦中を挟んだ状況から見て昭和32年時点で廃車同然であってもおかしくはない。
以下仮説
当初計画では新設する南側側線も電化し銚子電鉄に業務委託する方針であった。
ところが契約交渉をしてみると、経営難の銚子電鉄が出した見積もりが想像を超えて高かった。
怒ったヤマサ醤油は電化を中止し、近隣から中古機関車を急ぎ探して自前で入換を行った。
さらに第一工場から第二工場に向けてパイプラインを敷設し、製品出荷までも銚子電鉄に依存せずに済む体制に仕立て上げてしまう。
強気のヤマサ醤油を前に銚子電鉄は平身低頭したのだが時すでに遅し。北側側線は低調なまま、やがて他よりも先に活動を止めてしまう。
デキ3型の保存にヤマサ醤油が前向きに絡んでこないのに対し、オットー君に特別の愛着を感じるヤマサ社員がいるような気がする。デキ3型は他人でオット−君は身内。
ところでオットー君、デキ3型とどちらが強いんだろう??最弱を競うようにしか見えないんだが。
「探し回ってオットー君」というあたり、ヤマサ醤油はデキ3型を南側側線のために使う機関車の目安にしていたという、傍証ではあるまいか。
あるいは風向きによっては反省した?銚子電鉄と業務委託契約し南側側線も電化。オットー君は極めて短期間の活動で終わるという可能性も、昭和32年時点ではありえたのではないか。
デキ3型に期待した仕事がこなせれば、ボロボロの機関車でも何でもよかった。
ただ銚子電鉄と契約しないことが確定したので、ボロボロのオットー君は現役数年で二代目社有機へと交代した。
天下のヤマサ醤油とあろうものが、最初から非電化で考えた専用線に充てた機関車がよりによってオットー君だったというアンバランスな出来事に、納得がいかないんです。
繰り返しますが昭和32年は、普通に内燃機関車が買える年です。そしてヤマサ醤油はその時点ですでに大企業の筈です。 >>145
オットー君はヤマサに来る前はどこに居たのですか?
デキ3が10t、オットー君が7t、いずれにしても1067mm軌間では超小型ですよね。
ところでデキ3は客車牽いて外川まで走ったりなんてしたのかな? 銚子電鉄で今一番詳しい資料はRMライブラリーの銚子電鉄上下巻です。
私の妄想のほとんどを再読を繰り返す事で打ち砕いてくれてます。
それによるとオットー君の本籍地は本千葉駅で、三松工業の専用線とのこと。
三松の三には表記揺れがあり資料によっては漢字が参になります。
読みはミマツなんでしょうけど。 両機とも本質は貨車移動機で、エアーブレーキ持ってないことでは共通します。
両機とも手回しのハンドブレーキだけ。
ですから本線での列車運用など運用する身になると考えたくもない・・・筈。
銚子デキ3のほうは電車故障時の代走だそうですが客車一両を牽引している様が記録に残り、やってないことはない模様。
あと、SLブーム後の時期にファンの訴えに応じ本線に出ては見たものの、単機回送で戻ってくる様なイベントを鉄道ファン誌上で読んだ覚えがあります。
車体全体が傾いてムリって事になったんでしょう。 三連投すいません。
ヤマサ専用線ですけど、機関車が三両も記録されてます。
ほぼ知名度のない二代目も、相当のポンコツエリートです。
おそらく、初代オットー君が導入数年にして致命的な故障を起こしたのではなかろうか?
それで、同じ担当者がまた同じ真似を繰り返して、二代目としてとんでもない中古車を探してきた?
なぜなら経理部や総務部には、機関車の相場ってこんなものという認識しかないから。(ヤマサ内部署名は超テキトーです)
それも故障が頻発し営繕費用が高止まり。都度国鉄機の応援を借りていた。流石におかしい買い物だと誰もが気がつき始める。
三代目でようやく社内の担当者も一新され、普通に普通の新車を買い今度こそ鉄道ファンから無視される。
隣の敷地が銚子電鉄なのに、誰がカメラを向けるか、というぐらいに平凡な三代目。 >>147
レスどうもです。確かにあの大きさなら実質的には「貨車移動機」ですよね。
他の私鉄を見ても、こんな小型機何に使うんだろう?みたいな例がありますね。
板橋区の城北公園にあるコッペル8t機、東武の所有でしたが元は有田鉄道の1号機。
戦時中に気動車と交換で東武に来たとのことですが、東武はこの小型機を何に使うつもりだったのだろうか。 お題頂きましたぁ。
あの東武が何で貰ったのか判らない、という機関車ですね。
情報の少ない時代ですけど、事前に重量とか牽引力ぐらいは得ていることでしょう。基本的なスペックを見ただけでも察せられそうなものです。
物々交換のアンバランスさから東武が騙された説が昔からありますけど、以上の点からは考え難い。
原因は、有田鉄道に先立つものは何もなく、機関車という名の屑鉄しか差し出すものがなかったからではないでしょうか。
東武の置かれた立場を想像してみましょう。
緊急に欲しいのは63型で、その割り当ての加減は国が握っております。そこで得点を稼ぐために目立つように中小企業支援をした・・・のではないか。
東武は電車も、大手他社に比べるとなかなかの上玉を中堅私鉄へ放出しています。
とにかく定員の大きな63型に化けてくれればいいという想いが透けて見えるような気がします。
よく判らんのは、豆粒機関車を受け取った東武は長期保管した末に、廃車にするために車籍を与えている点ですね。
そりゃ車籍のないものを廃車手続きも出来ないだろうけど、そんなに書類上の辻褄合わせが大切なことだったのか。
書類の説明を受ける運輸省担当者が困ってしまいそうです。車籍を与えた時点で稼働可能とも思えない。
税制上はどういう扱いだったのか。放置中は国から見れば行方不明も同然ですから当然非課税でしょう。
車籍を得て即座に廃車手続きをして、資産価値は日割り計算して納税したんでしょうか。 東上線を回送するときに車軸が焼け付いたというけど、本当かなあ?
普通、運ぶときは長物車に載せるでしょう。煙突とキャブ上半分を切り取ってでも長物車に載せたい筈。
キャブの水平方向に鋼板継手が見える小型機関車は散見されますし、後の国鉄貨車移動機の背の低さは長物車で運ぶためのもの。
走り装置を廻して東海道線を延々と回送なんて考え難い。
メインロッドは外せてもサイドロッドはバランス上外すことは出来ないし、終戦直後とはいえ東海道線を牽かれて走ることなどできそうにない。
だから国鉄は長物車に載せて川越駅まで運んだのだけど、そこで東武の線路上に下ろしてから、受け取った東武担当者が注油を怠って東上線で白煙を吹いた・・・のではないかな。
多分、有田鉄道でも稼働状態にない代物で元々油切れに近かったんでしょう。
焼け付いたことが使わない理由にはならないと思うけどね。最初から使う気がなかったんで受け取りも疎かになったんでしょう。 この取引を調べていて、有田鉄道に行った元東武の気動車が最終的に尾花沢線に入っていたので同線を調べていたところ、戦後まもなく燃料難の時代に同線も電化を計画していたという。
顛末はRMライブラリ参照。尾花沢線よ、お前もか。
こういう歴史のほころびを見つけると嬉しくなってしまう。
近隣の秋田中央交通はようやく電化に漕ぎつけ、尾花沢線は内燃化を選んだ。その差はおそらく紙一重であるだろう。しかし史書には結果しか記述されない。
電化された尾花沢線を考えてみよう。
尾花沢線はディーゼル機関車牽引だが1067mmとしては国内最小クラスの筈。協三工業製で貨車移動機といっても通用しそうな機関車です。
順調に当初計画通り電化されていたとしたらどんな電気機関車が入っていたのか。メーカーに設計を依頼していたというから、新製機です。
結論を先に言いましょう。
尾花沢線の電化計画に際しメーカーに依頼されていた電気機関車の注文流れは、越後交通→秋田中央交通のEB111型ではないだろうか?
タイミング的には符合するし、越後交通には小さ過ぎる。
越後交通の電化工事は驚異的な短期間で済んだそうじゃないか。車両の手当てをしている時間はないのにEB111型だけ新車で入ってきている。
後に沿線に工場進出相次ぐと秋田中央交通へと渡っていった。この越後交通の体質改善の話も出世物語のようで、すごく面白い。 >>151-152
レスサンクスです。
当方もネットで調べてみたら、このコッペルは有田から持ってきた当初は、ひとまず
新高徳に回送されたとの資料もありますね。
だからといって、(元国鉄5500が主力の)矢板線で使うとも考えにくいし。
やはり東武はハナから使うつもりなど無かったのでしょうね。
余談ですがこのコッペル、廃車手続き後の一時期どういうわけか「東上鉄道1号機」として
池袋の東上業務局前に約1年間ほど展示してあったとか。
現代から見れば笑えるようなデタラメを堂々とやってのけるほど長閑な時代だったのですね。 >>153
> この取引を調べていて、有田鉄道に行った元東武の気動車が最終的に尾花沢線に入っていたので
尾花沢線では廃線まで在籍していたとの事ですね。エンジンは東武時代に既に抜かれていたとか。
結局は有田でも(気動車としては)使い物にならなかった、という事でしょうか。
もっとも有田には件のコッペル以外にも雨宮の12t機(Bタンク)とか居たみたいだし。
東武から来たキハは、客車として少しは役に立ったのかな?
> 越後交通の電化工事は驚異的な短期間で済んだそうじゃないか。車両の手当てをしている時間はないのにEB111型だけ新車で入ってきている。
> 後に沿線に工場進出相次ぐと秋田中央交通へと渡っていった。この越後交通の体質改善の話も出世物語のようで、すごく面白い。
長岡線の電化は、田中角榮が旧長岡鉄道の社長在任中の事業ですね。 越後交通は私にとって鬼門ですね。
私は最終目標を模型のための架空鉄道づくりにおいてます。
かりそめの匿名に甘えて過去にいくつも駄作を公表してます。
史実は様々なエピソードの中から、どこまで逸脱すると真実味を失うか判断力を養うために調べるようなものです。
過去に苦手だと感じた史実は、たとえば名古屋市電800型。
アレを空想ででっち上げた文章にリアリティを与えるなど私はできそうにない。だけど実在はするようだ・・・(半信半疑
田中角栄も、その類なんですよ。この人は自伝を綴っても多分、嘘くさくなる。
堤康次郎は架空のお話のテコとして大いに利用価値があるけど、角栄は器が違う化け物だ。
頭が良過ぎる。サイコロで、相手だけ全ての目が6のようなものだ。
角栄の名を出せば新幹線でも何でも敷けてしまうのでリアリティも何も、問題外なんですよ。
チートしているようで実に扱いづらい。チートを疑われ、逆にリアリティが遠のくように感じます。
越後交通は、特に車両調達が非常に上手いんですよ。越後線も栃尾線も凄くうまいと思います。
昔からこの点が不思議で仕方がないんですね。
それに廃止など重大な決断も異常に素早く、しかも貨物列車だけ残したりする。すべてが上手い。
もし仮に判断が田中角栄近辺から出ているとしたら、金権政治という派手なレッテルに隠されて見えなくなっている怪物の天才の証ではないか。
こんな超人的なチート、創作で真似して綴っても嘘くささが増すばかりで上手くまとまらないんですよ。 津島軽便堂に東武矢板線の写真が追加。
くうううううう・・・・ 矢板線問題
米軍撮影の戦後間もなくの航空写真で新高徳駅付近を見ると驚くよ。
三角線の路盤がほぼ出来上がっている。出来立てなので白く目立つ。
たぶん、東北本線鬼怒川橋梁が爆撃されることを懸念したのでしょう。未成に終わったためかほとんど取り上げられないので、知名度が低い。
現在の土地区画からも痕跡に乏しく、おそらく敗戦後速やかに復元されたのだろう。
矢板線は、最後の区間をなぜ建設したのだろうか。
東武日光線建設の件は公示などで当然知っていただろうし、下今市駅付近で東武線と平面交差するという交渉さえ始まっていたかもしれない。
時間的に微妙に前後して、もう矢板線全線開業も近いというときになって東武鉄道から平面交差を申し込まれたのかもしれない。遅いよ。
温泉街となった鬼怒川からは想像し難いが、下野電気鉄道の建設目的は鉱山にある。
結果論的に言えば足尾のように鉱脈にたどり着けなかったらしいが、付近は成功した鉱山も多い。
矢板までの建設に踏み切った理由は、今市から高徳までの間に面倒くさい川が三つもあったから以外にないだろう。河原を見ればいずれも相当な暴れ川であることが判る。
下野電気鉄道は、根拠はないが沿線鉱山の成功を信じて疑わなかったのではないか?すべて上手くいかなかった結果を知る私たちが断罪することは不可能だ。
少量の貨物輸送なら日光線に接続した軽便鉄道で充分であったはずだ。しかし実際に営業して軽便鉄道の限界を知ったことだろう。
1067mm鉄道への輸送力強化を目論見、しかし、三つの川に架けた橋梁が障害となった。
軽便鉄道の橋梁が耐えられるはずがない。しかし架け替え費用は高額なものになった。
そこで、橋を架ける必要がない矢板までの建設を検討したら、そのほうが安上がりだった。
(橋梁の工事費用はとてつもなく高価なものだそうです。) 矢板線を作っていたら、東武日光線ができるという噂を聞く。
でも下野電気には関係ないし建設は続行される。貧弱な橋梁を強化する資金は、矢板線の建設でいよいよ当てが無くなっていたからだ。
東武線のため下今市駅まで路線が短縮される件も大きく揉めないだろう。矢板駅で東北本線に接続できれば、東武線との接続などどうでもいい。
この時期の下野電気鉄道は、今市と高徳の間の廃線さえ考えていてもおかしくない。まず鉱山鉄道であり、東北本線と1067mmの線路で結ばれればよかった。
そして日光線が開業。東武の怒涛の攻勢が始まる。
資金不足に陥った下野電気鉄道の経営に食い込み、問題の三橋梁に東武の資金が潤沢に注がれ改築強化され鬼怒川線となる。
下野電気鉄道の本線となる筈だった矢板線は、全線開通後わずか数年で無用となった・・・・・。
河川争奪という現象があるそうで、この説明がまさに矢板線の運命。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e8/Stream_capture.png
下野電気鉄道経営悪化の原因が矢板線建設強行にあるとしたら、何が悪いのか全く判らないよ。
東武とて日光線開通にまだリスクがある状態で鬼怒川線を推進することなど出来ないだろうし、その時点での下野電気鉄道は交渉相手として難しい筈だ。
下野電鉄株主は鉱山の将来に期待して、まだガッポリ儲けるつもりでいるので東武との交渉に応じない可能性もある。
なにしろ矢板線を作らせるほどの強気の株主がいたのだから。 東武進出後数年間の変化は下野株主たちを呆然とさせたのだろう。
それでもなお、買収が昭和18年まで遅れた辺りに、鉱山の成績に期待する下野株主たちの抵抗が見て取れる。
しかし戦時体制下に強化対象とならない銅山に、何の価値があろう。
国は価値を認めず東武に併合され、株価は二束三文のまま。
不思議なのは、戦時体制下に矢板線が不要不急線に指定されなかったことだ。
不要不急線の指定自体が条件が曖昧で根拠不明なのだが、国も鉱山が大化けするかもなど考えて両天秤をかけたのだろうか。
それとも三角線つまり東北本線の迂回ルートとして価値ありと認めたのか。
東武にとっては誠にありがた迷惑であった筈で、要らない矢板線は残されるのに日光線は単線にされるという始末。
既に関係が断たれた旧経営陣は東北本線迂回ルートという思いもよらぬ活用策に、何を考えたのだろう。 >>158
鬼怒川線の前身、下野軌道の敷設目的のひとつに、鬼怒川発電所のダム建設の資材運搬があったとも言われていますが。
…でもまさか小田急とは関係無いですよね?w
(Wikipediaで「鬼怒川水力電気」をクリックすると小田急電鉄のページに飛ばされてしまいますw) 電力業界と鉄道業界の結びつきは面白過ぎますよね。
時期にもよりますが資金調達能力は電力業界の圧勝であることが多い。
戦前の電力会社が弱肉強食で競っていた時期にも、陸上交通の王者であるはずの鉄道会社を圧倒します。
電力=ライフラインと輸送業界では収入構造が全く違うのでしょう。
電力業界は副業で電鉄経営しますし、発電所を作るために線路を敷きます。
この、発電所建設のための線路ですが、電力業界からみれば使い捨て出来てしまいます。
実際に使い捨てた実例が複数見つかっています。典型が、草軽のL型電機が輸入時に使われた軌道。
草軽が大変に有名ですので遡って調査されておりますが、地図に載る暇もなく廃線になっています。
鉄道業界から見ると、電力業界の需要は最大瞬間風速です。短期間に膨大な貨物を輸送して途絶えてしまう。
地方私鉄が巻き込まれた典型が松本電鉄上高地線でしょうか。儲かったとも言われますが松電の設備投資額も大きい。
使い捨て出来るほどの資金力を振るって、工事完成後に不要となった路線。
この鉄道をなんとかして永続的に維持したい地元などの関係者の振る舞いが、非常に面白い。
そもそも地元には地方私鉄を作る資金力などないのです。
特に山間部では軌道の存在は奇跡に等しいのですから、払い下げを受けたりして自主運営したケースが見いだされる。
揖斐川上流部はイビデンがダムを含む発電所を、かなり早い段階から建設しています。
この資材輸送に軌道がつかわれ、建設終了後に地元に移管され運営されているのです。
そんな場所に鉄道など、かつて報告されたことはないと思います。もちろん地図でも見当たりません。
法的に鉄道でもなく、森林鉄道などで管理もされていないので公的な資料がない。
起点と終点さえわかりません。現地には当時の古レールが使われた柵があるらしいのですけど。
下野電気鉄道もそうした電力会社の残した路線の、典型の一つでしょう。
莫大な資金力で暴れ川に架橋して、あとは欲しければ差し上げるから頑張ってね、という展開ではないか。
路線維持は大変だったかと思われます。
東武が来る前に水害一つあれば、鬼怒川線は随分と様相を変えていたことでしょう。 >>162
電力会社と鉄道会社の関係で少し特殊な存在だった北恵那鉄道を調べているうちに、
北恵那の車両関連で、なぜか名鉄瀬戸線が気になってきました。
少年時分の一時期を沿線の小幡で過ごした私としては、瀬戸電の車両については
かなり種々と調べましたが、未だに写真が見られない車両があります。
それが1号蒸機。これまで得られた情報としては、
・1920(大正9)年5月雨宮製
・運転整備重量8トン
・1922(大正11)年、開業当初の淡路鉄道(→淡路交通)に数ヵ月間貸し出し
(淡路の発注した蒸機の納車が遅れて開業に間に合わなかったので)
・1937(昭和12)年7月、会社が蒸気動力廃止を届出
(肝心の1号機自体がどうなったのかは不明)
で、既出の元・有田鉄道のコッペルと同様、3呎6吋軌間で8トンとは超小型であり
軸配置はおそらく0-4-0と思われますが。。。
しかし乍ら、そもそも電車と電動貨車(どちらも路面電車然としたもの)で
営業していた瀬戸電が、何に使うつもりで蒸機を買ったのか。
瀬戸電は開業当初“瀬戸自動鉄道”で、皆さんご存知の通りフランスから輸入した
“セルポレー式蒸気動車”3両で開業。このセルポレーが故障多発で取扱いに難渋し
わずか2年で電車に切り替えられた。
しかし、皮肉にもセルポレーの扱いにも次第に慣れてきたのか、故障も少なくなり
電化後も補助的に使われ続けた、とのこと。
このセルポレーの廃車時期だが、1911(明治44)年と云う説と、1922(大正11)年と
云う説があります。私は後者が正しいと考えておりますが。 瀬戸線はかなり特殊な路線だと思います。
普通、セルボレー式に手を出して素早く電化に切り替える資金の出所がない。そう思いませんか?
蒸気機関車の存在も霞んでしまいそうです。
開業時から複線というのも、沿線を考えるとすごい。終点瀬戸以外はほぼ水田ですよ。 確かにすごく特殊な路線ですよね。戦前はどちらかと云えば貨物本位の路線だったようで。
あの凸型電機(名鉄機号デキ201・202)にしても、あの当時ポール集電だった割には
ハイスペック(75.5kW×4)なものを入れているし。
ところで、セルポレーですが、電化後は貨車の入換にでも使っていたのではないか?
尾張瀬戸、堀川の両終端か、国鉄線と接続する大曽根のいずれかの駅で。
旅客用としての稼働記録が1911年で途絶えているとは云うが、導入後6〜7年で廃車とは
いかに厄介者といえども早すぎないか、とも思えるので。
雨宮の8トン蒸機は、3両のセルポレーの何れかの代替機ではないかと。
その蒸機と相前後して導入されたのがテワ(実質デト?)1・2で、これが電車に代って
デキ入線まで貨物を牽いていたのでしょう。
それにしても、1号機の写真がどこからも出てこないのは何でだろう。
当然乍ら名鉄には引継いでいないので、どこへ行ったかも判らないし。 瀬戸は心くすぐられますね。鉄道史を無視しても興味があります。
狭い地域で長期間、活発な経済活動が営まれたことでは日本でも指折りかと思います。
土地利用の変化の激しさが面白い。いまだに瀬戸を掴み損ねている思いが強いのです。
たとえば写真家臼井薫さんの写真集を見ると、裸の子供に衝撃を受けます。陶土採掘現場の男たちも半裸でトロッコを押しています。
亡くなられたころに瀬戸市美術館で展覧会がありましたが、撮影年代は昭和30年代とのこと。
瀬戸線の踏切ですら撮影場所が判らない。狭い谷間から出ていない筈で、その狭い地域にどれほどの人が住み何本の煙突が建っていたのか。
その燃料を搬入し製品を搬出する手段が、瀬戸線です。
古い地図を見ると瀬戸の谷間に入る寸前まで、ぽつぽつと集落のある水田地帯です。瀬戸だけが真っ黒な市街地として表されます。
その昔、瀬戸線に乗れば、行く手の狭い谷間に何本もの煙突が重なる異様な景色が見られたかと思います。矢田川の水も白く濁っていたと聞きます。
小さな電気機関車が十数両もの貨車を牽いて日に何度も往復したことでしょう。尾張瀬戸駅は本来は旅客スペースの何倍もの面積の貨物扱い施設を持つ駅です。
電車は昭和24年の体質改善まで、単車を含む路面電車タイプの高頻度運転。戦時中は美濃町線モ510型が応援に来たとされる。
戦後までホームは低いままであったことは驚くよりほかにない。
(瀬戸線車両の転出で「近代化」される岐阜市内線ってどうかという件もあるがw) 貨物列車は、軌道法時代は電車に貨車一両程度しか許されない筈です。デキ導入で貨物列車になるのは地方私鉄になってから、です。
ですから、軌道時代に入換機は無いんじゃ無いかと思います。むしろ、貨車一両の牽引に駆り出されていたのでは無いでしょうか?
複線ですし、頻繁に貨物列車が行き来する光景が想像できます。
蒸気動車の整理は、鉄道法規に何かが適合しなかったからでは無いでしょうか。廃車は鉄道法移行の翌年の筈です。 瀬戸線は面白いですね。
でも調べても調べても、雨宮製蒸気機関車のことは判りません。
誤植じゃ無いんでスカ?(w >>168
“瀬戸電気鉄道1号機”についての記述は、私も鉄ピクの古い号で2つしか見たことがありません。
ひとつは1971年4月号の名鉄の記事。(寄稿者は加藤久爾夫氏と渡辺肇氏。)
旧瀬戸電の電車と気動車については詳らかに述べられていますが、1号蒸機については
在籍したことが述べられているのみ。
もうひとつは1972年2月号の淡路交通の記事。(寄稿者は藤井信夫氏。)
こちらは洲本口(宇山)〜市村間開業当初の借入れ記録に関する記述のみ。
因みに、Wikipediaの記述も、この2冊を出典として書かれているようです(笑)。 8トン機が真実ならばセルポレー式の予備機でしょうか。
https://fr.wikipedia.org/wiki/Mat%C3%A9riel_roulant_du_tramway_de_Gen%C3%A8ve#/media/Fichier:1VEGi.jpg
wikiから拾えたセルポレー式の画像で判明しているスペックは、これで自重10トンだそうです。
瀬戸線の同系機は一回り以上小型のようですので、自重からは一致する。
当時の電車は単車ばかりですので、8トンがレール負担力の限界なのかもしれません。当時の矢田川橋梁など細いですからね。
セルポレー式は廃車こそ免れているが稼働率は低かったされます。
稼働三両では足りないのではなく、満足に動かないので同等品を買ったのではないか。
その目的は、地方鉄道への鞍替えに伴う諸々の工事用ではないでしょうか。
Wikiに1920年〜1937年とありますが、雨宮の事情から見て1920年の製造に納得できるとして、早くも1922年に一旦不要になる。
1921年に地方鉄道になるまで大忙しで働き、翌年は暇になったという筋書きは出来過ぎか。
淡路の借入は1922年11月から翌年4月までのようですね。
セルポレー式が廃車になったという1922年と符合します。
セルポレー式の末期はやはり、ほぼ稼働しなかったのでしょう。しかし社内には熟練の機関士が電車運転士とは別に大勢いる(w
そこで同クラスの蒸気機関車を一両だけ購入し、セルポレー式もなんとか動かして、信号機など地方鉄道に必要な建設工事を行う。
一段落したのでセルポレー式は廃車処分。雨宮は淡路に貸す。返還後は複線化工事どに時折使う。
全線複線化されると電気機関車も投じられ、雨宮は車庫の奥で眠りにつく。
購入から17年目で廃車というのは減価償却期間だったりして。
当時の単車がけん引できる貨車は、せいぜい一両が限度でしょう。
セルポレー式や8トン機は、貨車二両程度が限界だったのではないか。いずれもエアブレーキを装備できないとおもいます。
堀川駅まで来たんでしょうね。有名なサンチャインカーブを通る貨物列車・・・・。
堀川駅の大正時代の写真を見て、北側のホームが南側よりも背が高いですよね。
旅客用としては実質一面一線で、北側は貨物専用ということですね.。
他の貨物扱量の多い軌道線では見ない光景で、他では荷扱いは地面から貨車の床まで長い渡り板を斜めにかけて人夫が上下するのが当たり前でしょう。 セルボレー式の評価はこの、末期の印象が決定的になったんでしょうね。
製品としては決して粗雑なものではなかったと思います。まず外観は試作然とした感じが全くしない。
セルボレーも会社としては蒸気自動車のメーカーとして有名なようで、生産台数も少なくはなさそう。
ですから日本側の受け入れ態勢が調わなかったのでしょう。 瀬戸線の歴史の前半分、瀬戸電気鉄道の経営内容は判らないですね。
当線に限らず被合併企業の歴史は語られ難い部分があります。社史は、しばしば、自らに都合の悪い事実を書き残しません。
それは会社にとっても編纂の意味を揺るがしかねない問題ですので、社史編纂の外部委託が進んでいるわけです。
一昔前は、社史編纂室といえば窓際の象徴のようなポストでしたけど、派閥と縁を絶ったような立ち位置でなければ歴史の記述は不可能でもあります。恨まれても左遷のしようがない。
名鉄の社史も例外ではなく、最新のものほど「よく書けているなぁ」と思ってしまいます・・・・w
時代を経れば当事者への聞き取り調査も困難になるわけで、時間との戦いです。
話は変わりますがモンスター経営者のいる会社の歴史は難しいですね。
まず社史の類がまともではない。代表例が西武鉄道。西武が本当の意味での普通の会社になる目安は、社史を刊行できるかどうかに懸かっていると思います。
外部のライターから散々貶められた内容を会社自ら筆を曲げすに記録として残せるか。
越後交通も同じ。田中真紀子が大株主である間は「お父ちゃんの悪口」など不可能でしょう。
こうしている間にも、たとえば電化工事の当事者などはどんどん鬼籍入りしてしまいます。
裏返せば、社史を多数読むことで、外部から判る事象との差異があれば、そこに組織や経営の歪みを見出すことは可能になってきます。
不都合な経営者の存在ごと素っ飛ばすような社史が、他社の事例ですがあるようですよ。
朝日新聞社は、他社による戦前の大見出しの刊行を妨げました。軍国主義を煽った当事者そのものであった歴史が暴かれることを嫌ったためです。
新聞社は同族経営やワンマン経営が多くて、社史は面白い読み物になりがちだそうですよ。
メガバンクも社史編纂できるのでしょうか。旧行の対立が噂される「みずほ銀行」の歪みをどう客観視して残せるのか。
戦史編纂も筆の曲げ具合がいかようにも調整出来て、歴史家の注目の的です。
日露戦争の戦史は誰も責任を問われることがない総花的なものであり資料として信用に値せずと、司馬遼太郎から嘆かれておりました。
その司馬も自ら関わったノモンハン戦役の研究ではソ連側資料の欠落により判断を誤っております。
太平洋戦争の戦史を防衛省が編纂しておりますが、負けた戦争だけあって客観視には努めているようで研究者からも一定の評価を得ているようです。
しかしこれも、アメリカ側の戦果報告書との甚だしい食い違いがしばしば見られるようで記述の難しさを感じさせます。
アメリカは無批判に前線の報告を受け入れて真偽の検証を怠る傾向が強くあり、問題を引き起こしてもいます。南北戦争の戦史編纂でまだ南北間で揉めてるという噂も。
外国の戦史はどうなんでしょうね。
歴史認識の基礎資料となる自国の戦争の客観視を許さない政治情勢の国は、危ういです。
話が大きくそれました。
瀬戸電に戻りますが、今なぜ全く別の話にそらせざるを得ないかというと居場所の問題で名鉄社史を参照できないストレスがあるからであって・・・・・・w
ただ名鉄社史ですが昭和33年版よりも百年記念事業版のほうが踏み込んだ内容になり、これが部外者の編纂関与による影響かどうかは判断しかねますが名鉄社内に何らかの原資料があることを示します。
資料検証の立場から見れば昭和33年版の編集で丸ごと省かれた部分がもしあれば、「行間を読む価値」が出て来ます。 商用交流電化の始まりについて、ヘレンタール線のことを調べています。
Wikiを中心に海外テキストの翻訳が中心です。
紙の本を読む、特に洋書を手に入れて辞書片手に一行づつ解読するという読書法は完全に過去のものになっています。
大昔はそうやって重く厚い本を楽しんでいた記憶があるのですが。
鉄道書は日本より海外のほうがハードカバーの歴史が古く、日本でも「トレイン」など盛んに立派な写真集を刊行してきました。
その歴史ももう終わるのでしょう。「レイル」が電子版になるときが楽しみです。
読書という習慣そのものが大きくスタイルを変えているのです。読書が廃れたとは思いません。
私はwikiや青空文庫へのアクセス数はありますし、youtubeの視聴時間まで含めると、読書とテレビの時間が新しい方法に置き換わっただけです。
そもそもの始まりは鉄道模型で、メルクリンの95型が大好きだってことです。
小さな動輪が多数ある機関車が、動力方式を問わず好きなのですね。C62は嫌いです。
そうなるとヘレンタール線専用機ですので編成を組むとなると調べねばならない。
洋書頼みでは難解で小さな版のドイツ語文献しかなく、読書を妨げていた。
ところがwikiのドイツ語版などの充実ぶりは目覚ましく、絶壁が溶けて消えてしまう。 ヘレンタール線の支線にドライゼーンバーンという路線があるのですよ。
ドイツという国は線路に路線名が付いたりつかなかったりする不思議な国で、たとえばライン西岸線というのは大雑把な路線の集合体で、日本の東海道線に諸々の貨物線がついてくるのと似てる。
ただし定義は難しく文献により終点や範囲が違う。
どうも法律でも明確でないというか、分邦鉄道時代はまた別の名前、二度の戦争もあって名称が二転三転しているためか、文献ごとに筆者が分かり易く説明しようと悪戦苦闘している気配を感じる。
支線は固有名が付いているケースが多いが、それよりも最近はSバーンの地方への浸透により系統番号のほうが幅を利かせて路線名は使われていないようなケースがある。
ルクセンブルクのような隣の小国は全土系統番号だけで問題の収拾を図っている模様。
やはり命名基準がないことが利用者にも判り難さとなって受け取られているんでしょう。
ヘレンタール線は昔からヘレンタール線で、固有名として定着してます。
商用交流電化の試験のためか、地理的に独立しているからか。ヘレンタールというのは訳せば地獄谷だそうで、通過する著名地名を路線名としています。
「地獄谷」が例えば「箱根八里」のようにドイツ文化圏で浸透しているので、ドイツ人誰でも分かり易いアイコンになっているのですね。
そのヘレンタール線から「ドライセンバーン」?なる路線が支線として分岐しています。
このドライゼーンが判らない。三重線という訳語が出てきて困りました。ドイツ語で13というのは綴りが違うけど、13番線なる路線名が山奥にありうるのか。
地名ゆえに何かを足した合成語だろうけどドイツ語の素養は全くない。
しばし困った末に,wiki英語版を和訳してみて疑問氷解。
三つの湖をめぐる路線という意味なんだそうで、やはり単語を合成した造語らしい。
三湖線とでも訳しましょうか。
これで、小一時間を費やしている。やれやれ。 >>172
YouTubeに“昭和初期のせとでん”と云うタイトルで動画が上がってます。
https://m.youtube.com/watch?v=OnGpdQTevZY
矢田川鉄橋がまだ単線ですが、デキや半鋼製ボギー車がデビューしているので
昭和2〜3年頃の撮影と思われます。 素晴らしいですね。
逆ハの字に上が広がった木製架線柱。
故意に枕木を埋めて、さりとて砕石ではなく土で埋め、しかし道路としては使わない軌道。
いずれもいつのまにか日本から消えました。 尾張瀬戸駅の、自動車の数が多過ぎw
凄まじい好景気なのか。
二つ目玉、付随車牽引してますね。乗客も多い。
当時最も成功した電鉄の一つではないでしょうか。
これだけ連結した列車が多いと、終点での付け替えが気になります。
尾張瀬戸駅は良くわかるのですけど、堀川駅ではどうやっていたのか。
側線が気になります。映画でもチラリと出てきますけど、手前に客車が入っています。
これが入換方法を物語るのではないか。 >>177
時代的には昭和恐慌の直前ですね。
瀬戸電自体も羽振りがよかったのでしょうね。
全線複線化工事を一気に進め、電機2両に鋼製ボギー電車10両を投入した頃。
(明治末期に投入した単車を9両廃車したのもその頃、と云われています。)
矢田川鉄橋を渡る貨物列車、何故か懐かしい気分になりますね。
私の小学生時分(昭和40年代後半)もあのような貨物列車が走ってました。
デキの屋根上こそパンタグラフでしたが、国鉄の貨車数両+しんがりに小柄な
木造ワフをしたがえていたのは同じ。
因みに私が見た最長牽引は8両(国鉄ワム7両+ワフ)でした。
小幡駅を通過する貨物の中にワム90000によく似た「ポム」の記号を見つけて
帰宅して早速「ポムって何だ?」と鉄道図鑑を調べたのも懐かしい思い出(笑)。 せとでん100年という本のp18に雨宮製蒸気機関車の写真がある。
若干不鮮明だが040の、1067ミリ用に見えない小型機。
しかし車両紹介では全く取り上げていないようだ。
瀬戸電時代の車両一覧表からも抜け落ちている。
本当に謎なんだろうね。 パンナム、パンアメリカン航空のブランドは今、米北東部の田舎鉄道会社が所有している。
http://www.panamrailways.com/
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e8/Mec_31933_08-04-2005.jpg
お年寄りには懐かしいパンナムのマークが入った貨車があるらしいのだが、田舎過ぎて数が少ない。
おまけにインターモーダルの浸透でボックスカーに出番が少ない。
北米のファンでも、見かけるとちょっと嬉しいネタとなっている。
何で北東部の鉄道が気宇壮大な、ということだけど、実は距離的にヨーロッパに一番近い。
だからこの大き過ぎるブランドを掲げる行為も、一種の伝統なのでしょう。
European and North American Railwayという冗談みたいな会社が実在した。
なんとかパシフィツク鉄道という企画倒れ会社が米中西部に数多くあるが、こちらは大西洋が間にあるのに気にしないという破格のスケールで迫る。
「京福電鉄」で京都と福井の間ガーなどと悩む島国根性が、恥ずかしい。
この地域は似たようで少し大人しい、でもローカル線には似合わない大袈裟な名前の鉄道がしばしば歴史に出てくる。
現在では航空機の航続距離が伸び、軍用では空中給油機が当たり前になって、北東部の空軍基地はほぼ消滅したようだ。
第二次大戦中は英国へ空輸される戦闘機などは当地に集結し、増槽まで燃料満タンにして、長い長い滑走路をえんやコラと離陸していったという。
それでもギリギリの航続距離という機種が多かったみたいだ。
船で運ぶとUボートに遭って全損するかもしれないので仕方がない。
冷戦時もアイスランドや北欧に最も近い米本土とあって、B52の根拠地として重要だった。
冷戦終了とともに膨大な燃料輸送が途絶え軍人家族も引き上げ、鉄道会社も潰れ再編成された。
かつて飛行機で世界と結ばれ栄えた地域の歴史を継承するための、パンナムブランドなのでしょう。冷やかされても気にしない。
鉄道模型、パンナム鉄道、格好悪いんだよネええ・・・・w(有個人差、しかし認めん
群青の濃いめの色は夜間や荒天時の視認性最悪では?
実物はライト点けっぱなしだから関係ないのか。
汚れが全く判らない色であり、実物写真見ても埃だらけに見える機関車が多い。 >>179
> せとでん100年という本のp18に雨宮製蒸気機関車の写真がある。
名古屋近辺の図書館ならあるはずなので探してみます。有難う御座います。
余談ですが、>>180
パンナムと聞くと私はどうしても、昭和時代の大相撲千秋楽の
デヴィッド・ジョーンズ氏を思い出してしまいます。
あぁ、昭和は遠くなりにけり。。。 表彰状という文章があるとつい、ヒョーショージョーと読んでしまう私ですけど、若い人には通じなくなりましたね。
パンナムを調べていて気がついたのですけど、戦前の太平洋便はミッドウェー島からサイパンまで南下してフイリピンを通り香港へ向かうのです。
1930年代半ばの事ですけど、そこまで日米関係は悪化していたのか。
羽田に来るのは戦後のことです。東京湾に大型水上機が飛来することを、日本は嫌がったのでしょう。 >>182
航空会社の目的が太平洋横断であり、目的地が日本じゃ無いだけ。 えっと、一行では説明が全く足りないと思います。
航空会社の目的は商業航路の開設にあり、記録に挑戦する事ではないと思いますよね?「太平洋横断」自体は目的ではないです。
利益を得るために新しい航空路を模索するのです。
それになぜ日本を目的にしなかったのかという謎を大きくしますね。
当時、横浜航路などの商船航路は花盛りであり、客を奪うには絶好の相手であるはずです。
パンナムはなぜ需要(利益)が見込める日本に寄らず、営利企業としては狂気の沙汰であろう「太平洋横断」という記録に固執したんですか?
いま現時点でもたとえば「世界一周に挑む航空会社」などという記録に挑む航空会社がいたら、正気を疑うと思います。 別にパンナム(航空史)に興味があるわけではないのでどうでもいいです。
ただこちらも色々調べているうちに、太平洋航路開設にしては不自然だと既に考えていたから納得できないだけの事。 >>185
商業としての目的地が横浜ではなく大陸であり香港だっただけ。 太平洋航路っても、太平洋横断が目的ってわけじゃないしね。
パナマ航路って言ってもパナマ運河通過の観光旅行なわけないし。 >>185
要らん解説がどうでもいいとか言うんなら、このスレの大半の書き込みがそれだぞ
ここ一応12mmスレなのに、無関係な解説だらけだぞ いや、もはやここは要らん解説のスレですからw
しかも個人的見解ですから。
あえて言えばパンナムや初期の太平洋の航空路に興味がある人が居られるのなら、自由帳として使っていただいて結構です。
要らん解説は、その時点まで興味が薄くても刺激を受けるやも知れず面白いですから。 うんだから過疎スレの目的外乗っ取り専有をすんなって話ね
ちゃんと目的に沿ったスレ立てて、過疎スレはそのまま落とせって事 嫌です。
念を押しておきますが、別にこのスレに執着している訳ではないので、ここで邪魔をしても移動するだけです。
読者を想定しておりません。
こうしているのも無駄なやりとりですね。 このスレに執着してない、読者を想定していないのならば
自分でブログ立ててやればいいのに。>>191 廃物利用ですよ。
誰かに迷惑かけてますか?
他のスレに移動しましょか?w 別にあなたの機嫌を伺う必要は無かったんだったねゴメンなさい。
私の次の行動は、私の自由です。 誰かに迷惑かけてるかと聞いたやつが、他所に迷惑かけに行こうとしてるんだから世話ねえわ
構ってもらえて嬉しそうだが、キチガイのやる事を遠巻きに見てるだけだぜ?(たまに口は出す) たまに、だからな?
そうそう遊んでもらえると思うなよ うっはw謎の上から目線、何の役にも立たないクズw
おっといけない時間の無駄だ。 ドイツなどで車輪が三軸の短めの客車を二両、半固定連結にする事がある。
理由がわからなかったけど、最近、最高速度向上のためだと判った。
やはりというか、三軸車両は高速では走りにくい。
そこで二両を組にして、その間のバッファに数トンの圧力をかけて普段外せないようにする。
そうすると、安定性が向上するんだそうだ。
日本にはほとんどない車種なので、面白い。 >>199
二軸運材車は2台の間を丸太で固定してボギー車としてひかれてるよ。
目的が高速ではないだけで。 それ、丸太だけだと牽引力でスッポ抜ける事があるそうですね。
米のディスコネクトログカーの場合は、先方は丸太の直径が大きくて重いので自重で抜けない。丸太の定尺も長く20mぐらいありそうな写真を見る。
しかし日本は、場合によっては直径30センチを切ったり、定尺8mでしたっけ?積荷は軽い。
そこを十組以上の列を連ねる訳で、スッポ抜け事故の話を聞きます。
木曽などは丸太の定尺を厳しくして台車間を連結棒で結んで丸太に牽引力が伝わらないようにしていた筈。
またまた米では細い丸太はディスコネクト台車に載せない規制があり、代わりに長物車の枠組みのような特殊な運材貨車がありました。
ケィディがしっかり製品化してますけど、その使い分けまで知る人は少ないと思う。 >>201
ディスコネクテッド・ログカーとコネクテッド・ログカーと、フラット・ログカーの使い分けをごちゃごちゃにしてません? ぜひ解説してくださいな。
1級鉄道などへの乗り入れ条件なども絡めながら。 どうして素直に知らないので教えて下さいと言えないのか 私は色々な考え方があるし各自が自分の考えを言えばいいと思ってるんですけど、どーしても勝ち負けにしないと我慢できない心の病を抱えた人がいるようで。
ログカーには様々な形式があるし、踏み込めば泥沼だと思ってますよ。
航空機の時もそうですけど、どんどん意見を言ってくれて構わないんですよ。
理解し難いのは、それら全て、勝ち負けのフォーマットに乗せないと発言も出来ない病んでる人が多いこと。怖いのかなあ? >>205
キミがマウント取れる日が来るといいね。 ひとつ前の発言ぐらい読んでくださいよ。
あなた、ここで自分なりの見解も述べずに立ち去ったら、あなた自身に対しての負け犬ですよ。
見解を述べる勇気がないのですか? >>208
なぜいちいちマウントを取らずにいられないのかw 好例として蒸気好き氏を挙げさせてもらいますが、氏の意見に「ん?」と思う部分があってもいちいちひっかけません。
他の人がどんな史料に目を通しているのか判らないし、同じものを別の角度から見ればカタチが違うのは当たり前です。
むしろ予想外の形を示してくれることが有難くもあります。「ん?」は宝物としてとっておいて、頭が冷えてから自分なりに深めています。
他の人が私よりも楽しくこの場を使ってくれるのなら、私はその間は黙って引きます。この場の占有が目的ではないからです。
その、ステージに、上がれない人がいる。
これはマウントとかそういう類の可愛い問題ではなくて、もっと相手に関して深刻な要素があると思います。
相手は言葉をそのまま混ぜ返せば対抗できていると思っているみたいですけど、そもそも対等な場に上がれていない。
これで遊んでやっているとか強がりを重ねるわけです。己の意見を言う勇気もないくせに。 >>199
ドイツでは客車が必ずしも“牽かれるもの”とは限らないから、と云うことも
関係してないでしょうか?(※個人の見解です。)
朝日新聞社の“世界の鉄道・昭和51年版”にいわゆるペンデルツークの写真が
載っていますが、運転室付きのボギー客車と小型DLの間に3軸小型客車が2両
挟まってます。速度もさることながら、こういう使われ方が定期の営業列車で
当たり前な国なので、走行安定性を高める必要があったのかな、と。
ペンデルツークが日本で実用化された例はJR北海道の“オクハテ”など数例
あるようですが、いずれもジョイフルトレインの類にとどまっていますね。 >>211
大井川とか。
嵐山のトロッコとか黒部峡谷もでしたっけ。 >>203がある意味マウント行為だという自覚がない子が占拠したがるスレ 三弦橋?夕張で湖に沈んだ、トラス三枚を断面が三角形になるように組み合わせて内側に車両を通す鉄橋。
ダム湖の水位観測施設や水道橋では当たり前に見るけど、中を車両を通すには狭いので国内の鉄道橋では夕張の一例しか知られていない。
アレを上下逆にして三角形の平面を頂辺にして、上に線路敷けばいいんじゃないかという実例をドイツで見つけた。
ライン川の洪水で流された鉄道橋の、どうしますか困ったねというYouTubeの動画で橋台に残された桁の断面が逆三角形だったのです。
橋台に乗る桁の端部の作りに少し無理を感じたけどね。 ドイツの蒸気機関車が、戦後に軒並み溶接ボイラーへ換装している。
それは以前から知っていたが、ドイツは性能向上のため絶え間ない努力を続ける技術の国なのだと解釈していた。
事実は、そもそも製作したときに選定した特殊鋼材に問題があり、急速に劣化し、いつ破裂するか判らない状態になったため。
戦前の段階でボイラー圧力を設計値からいくらか落して使用していた。
戦時設計世代は問題発覚後の改良品なので大丈夫らしいが・・・・・。
戦後になり車両不足の中で危機的な状況を迎え、西ドイツも東ドイツもそれぞれ全溶接ボイラーを大量に製作し換装している。
へー知らんかった。技術大国のメッキが剥がれそう・・・・w ボイラー換装は日本でも戦後に戦時中に生産されたD52等で実施された。
>へー知らんかった。技術大国のメッキが剥がれそう・・・・w
不良品はボイラーに限った話ではなく
ドイツから輸入したDC10形、DC11形ディーゼル機関車の故障頻発や
水中翼船のMB820Dbエンジンのガスケットに関する設計不良が報告されている。
水中翼船"伊勢湾戦争"旧聞
dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/111C0000001-92.pdf すごく羨ましい人生を発見。
ポールセン・スペンスさん。1895年生まれ1961年没の米国人。
高圧蒸気配管の調圧バルプの発明で知られ、ニューヨークで手広く商いをして第二次大戦中に軍需生産で大いに稼ぎ、戦後まもなく莫大な特許収入を確保しつつ経営を離れて自由の身となる。
氏は郷里でもないルイジアナに転居して、実に不可解な行動をとりはじめる。ルイジアナでは当時、川砂利の採取業が将来有望と言われていることを知り、採取業をおっぱじめた。
この川砂利屋が、鉄道趣味的に大迷走し始める。その最大の要因が、経営者であるスペンス氏が特許収入で潤い、全く金に困っていないこと!
採取同業者にとっては実に扱いにくいライバルであったそうだ。
では何のために事業をするのか。スペンス氏が突然の死を迎えたことと、自身の手記などが見当たらないため、この点が謎に包まれている。
ひょっとしたら、大義名分を得るための偽装が目的なんじゃなかろうか。
彼は、砂利輸送用という名目でショートラインを敷設し、何両か蒸気機関車を買ったのです。本物。
うわぁ・・・・。
以後、次から次へと買うわ、買うわ・・・・。ディーゼル化の圧力が激しい当時、各地で荒れるに任せていた蒸気機関車をどんどん買い漁る。
ほとんどが稼働状態になく、近隣鉄道の工場に持ち込んで再起のための修繕を依頼した。細いレールでは持たないと知ると太い中古レールに敷き替えた。無限の資金力。
どんどんコレクションの数が増え、スペンスさんは場所が足りないと思ったのだろう。
かなり大規模な入換小鉄道の敷設計画を、真剣な裏付けがあるという計画をぶち上げる。その動力車はなんと、すべて蒸気機関車!
1950年代のことで、さすがに当局も真意を疑ったらしく計画は取り上げられなかった。
氏は、中古の蒸気機関車を数十両購入したほうが安上がりで運行経費も優れていると主張した。予定線は平坦なのでライドミカドもしくはヘヴィーパシフィックの単機牽引で貨車100両程度は問題ないとも。
遠大な計画は進まなかったが、その間もスペンス氏は自腹で周辺各社から引退してゆく蒸気機関車の購入を続けた。業界内で相当の有名人になったことだろう。
希少な古典機も含む何両もの活きている蒸気機関車が、鉄道ファンの目に留まらぬわけがない。
撮り鉄が大勢押し寄せるが、ある一人はスペンス氏から、撮りたい機関車があれば勝手に動かしていいよ、と言われたとか。私有地で所有者が言うのだから問題ない、のか・・・・?
夢は長く続かない。スペンス氏の天命が尽きた。
1961年、旅先で心臓発作を起こして亡くなってしまう。遺産管財人は蒸気機関車に興味を示さず、丸ごと動態保存への望みは絶たれてしまう。
数十両ものコレクションのうち4両だけが救い出されて遊園地などに現存するか、大半は美しい記録写真を残してスクラップにされてしまった。
形として残らないのは誠に残念ではあるが、なんとも羨ましい銭の浪費であることよ・・・・。
鉄道模型ではなくて、鉄道を敷くという鉄道趣味が本当にあるとは。
D&GRNの元ネタだったりして。 入換機ですから、連結時に衝撃が大きいと丸棒がゴロゴロ―ッと転がって戒めになる?・・・・w 名古屋市電800型はオーパーツの様なものと思っていたけど。
戦前ヨーロッパでは似た様な駆動方式の電車が覇を競っていたのですね。
超軽量車体も、第二次大戦の寸前にはいくつか形になっていた様子。
海外文献をよく研究したうえで、戦後に機会を得て実践をしてみた電車なのでしょう。
惜しむらくは、独自の開発では何かか足りない経験不足でしょうか。
超低床電車も戦前から欧米で先行事例があり、戦後に戦前から連続するチャレンジがあって初めて大成したもの。 ドイツとベルギーの国境に面白いトンネルを見つけた。
国境の丘陵地帯をトンネルで抜けるわけだが、建設限界が狭い。電化工事の際に拡幅したが、まだ一部の貨物列車に対しては狭い。
そこで複線断面のトンネルの、複線の中央にもう一本線路を敷き、限界を超える断面を持つ列車が通過する際はトンネル中央の線路を通すことにした。
中央の線路を列車通過中は、単線扱いとなる。つまり、ガントレットのようなものだ。
日本で類例は聞いたことがないが、なるほどと思ってしまった。
この工事ができたのは1991年のこと。それまでは大型貨物輸送のためだけにトンネル無しで峠越えをする線路(旧線?)が維持されていた。
このローカル線のドイツ側は既に線路も撤去されているが、いまもベルギー側だけが残され、鉄道愛好家らしき人が使っている。
なぜ廃止できないのかは判らない。 曲がっているトラス橋梁というのが話題になったことがある。
上から見てハの字、片側が広がっている橋梁はご存じだろうか。
線路の上に枠がないポニートラスと呼ばれるタイプだが。
ニューヨーク地下鉄のリヴォニア・アベニュー駅Livonia Avenueの少し南150mほどのところ。
地下鉄高架線から分岐し、ロングアイランド鉄道の側線を跨いで保線基地らしい区画へと入ってゆく。
その保線基地?も興味深いが、側線を跨ぐ橋梁が、上から見てハの字になっている。
地下鉄線路のS字曲線が急過ぎてこうなったらしい。 イギリスのディーゼル機関車の歴史は死屍累々。特に草創期には変態的な作品が並ぶ。
蒸気機関車末期もすごいし同時代の飛行機もすごかった。大英帝国どうした。
ディーゼル機関車だが現在はアメリカの技術を無理やり縮小車両限界に押し込んだ様な機関車が主力なのは皮肉というか、可哀想だな。
で、class 17という機関車を調べてみてほしい。
DD 51がおる!笑ってしまうほど似ている。まぁ中間台車はないし電気式なので全く違うと言えば違うんですけどね。
wiki読むとボロクソに書いてある。
エンジン二個を端に、運転室を中央にというアイデアは視界確保のためだったが実際は視界が悪かったとか。
ほんとダメダメな機関車だったらしいですね。
不人気ゆえに模型化が最近になったおかげで、結構良い模型が出ている。物欲が騒ぐ。 DD 16と言われるとつい、物欲がくすぐられる。
これは買うかもしれない。買ってしまうかも。 wiki外国語は情報の宝庫だ。
米国の鉄道速度
列車の向き
などなど日本語項目にはない事柄が特に面白い。
例えば米国では
>多くの鉄道は、東に走る同じクラスの列車が西に走る列車よりも優れていると指定しています。
単線区間で待避線に入るのは、原則として西行列車なのだそうだ。
へーーー!(100へえ
オーストラリアでは
>シドニーからメルボルンに移動する州間列車は、オルベリーで州境を越えるまで「下り」列車であり、そこで分類が「上り」列車に変更されます。
へーーーー!(2000へえ
よく事故が起きてないな。 国境地帯の鉄道には非常に興味があります。
ドイツとベルギーの接するところは両大戦での激戦地にも近く、鉄道路線に影響が大きい。
東西方向にも南北方向にも廃線があり、国境の移動や分断が影を落としている。
同じ西側に属し同じEU圏でもこの有様だ。
東西ドイツ国境やドイツポーランド国境など、触れば何が出てくるか判ったものではない。
ソ連が絡むと底なしの泥沼だろうが、しかしwikiの記事量が増える見込みは薄い。
まず東西方向の廃線だが、シュリーフェンプランを支える兵站輸送線がある。
路線記事に民間輸送をさほど考慮していないとあるから驚きだ。
ベルサイユ条約でベルギー領になり、第二次大戦の開戦初日に撤退するベルギー軍により橋梁が爆破され使命を終えた。
つまり、ほぼ、両大戦間にしか存在しない鉄道路線という事だ。
しかもこの東西方向線は本来あるべき企画の西半分に過ぎない。
幻に終わった東側は第一次大戦の停戦により着手の機会を永遠に失ったという。
南北方向は、隣国ルクセンブルグとアーヘンを最短距離で結ぶ路線として企画された。
計画時点ではルクセンブルグ国境から北は全てプロイセン領であり、後に起こる問題はなかった。
しかし第一次大戦で路線の経由地が、継ぎ接ぎでベルギー領に編入されてしまう。
またまたベルサイユ条約では、両端が外国になった鉄道の管理権について規定する項目があるという。
ドイツとベルギーの間を行ったり来たりするので、素直に読めばドイツ側が管理権を主張しても構わない筈だ。
しかし戦勝国ベルギーが強く、線路敷地もベルギー領になるのでドイツには飛び地がいくつも出来てしまった。
ベルギーは飛び地も全てベルギー領に編入せよと迫るなど、大変であったようだ。
これで、この南北方向の路線も命運が断たれてしまう。
EUのような関税同盟が無いわけですよ。ルクセンブルグを出てドイツ領アーヘンにたどり着くまでに、何回国境を越えるやら。
ベルギー税関職員との折衝や納税が面倒くさくて、そのままローカル線へ転落した。
第二次大戦で侵攻したドイツ軍によりすべてドイツ領に編入されるのだが、数年後のバルジの戦いで戦場になる。
戦前のドイツ国境の良い目印だということで、アメリカ陸軍は反撃の到達目標にしてしまう。
この線路を越えたらドイツ本土に侵入したということですね。鉄道が無事で済むはずがない。
戦後もベルギー国鉄により管理されるが、2002年に最後の区間も運行を終えた。
この地域は大きな凸凹が多く、路線のルート選定は大変に難しかったようだ。
どの鉄道も、直線距離の倍近い迂回ルートで距離を稼いで線路を敷いている。大きな橋梁や180度におよぶループ線が多い。
その廃線ですから眺めも良く、サイクリングロードになっている場所が多い。 架空の鉄道は難しい。
まず自分自身を騙さねばなるまい。
自ら書いた文章を寝かせておいて、読むと騙される域を目指したい。 万葉線のことが判らねえ・・・・今までの理解が浅かった。
万葉線の歴史を、越中電気鉄道から解きほぐしつつ国鉄新湊線も絡めてスッキリと解説したい!!
特に現万葉線の新湊駅(現六渡寺駅)と現JRの新湊駅(現在廃止?移転改名により消失)の関係。
六渡寺という中州のような場所の意味。
まずこれが鍵だった。余所者の悲しさか、庄川河口部が明治時代に付け替えられていたことを知らなかった。
六渡寺は幕末の新湊では不可分の一部であり、だから現在も小さな道路の筋が庄川を跨いで川の両岸で連続している。
(これは現地で六渡寺の存在に興味を持ち、さ迷って地図も見た筈なのだが、うかつにも気が付かなかった)
東西に大きな新湊を分断するように、庄川と小矢部川の分離工事が行われ、いまある庄川河口部は人為的に造成された人工地形です。
六渡寺集落はこの工事の結果、両河川に挟まれた中洲のような場所になってしまった。
そう考えると「新庄川橋」の古さも合点が行く。何度も通りながら歴史のある古い橋だとは感じていた。
集落を分断する事業の補償案件なので,地域で一番古い橋という事になるらしい。
現在架け替えが決まっているが、現存する古い側の橋よりさらに遡って明治時代の橋梁があった。
六渡寺集落は新湊の、不可分の一部である。いまも祭礼などで庄川を間に挟んでなお、結びつきは強固なことだろう。
これが何年昔の事案の補償であることかと踏まえると、人為的に地形を変更した結果の補償である渡船が簡単に廃止できない事情も見えてくる。
また六渡寺集落の現状は、港口切断反対運動が過熱化した遠因ではないだろうか。 話を線路に戻す。
いま六渡寺駅と呼ばれている駅の名前が、万葉線と現JR線で何回か駅名が変わっている。
同じ場所にあり、違う駅名であった時期がかなり長い。
国鉄は、中越鉄道として1918年に先行開業し、新湊駅という名前で旅客営業をした。
幅広い庄川下流部があるが、既に橋はあるし、六渡寺集落は新湊の一部というアイデンティティもある。問題は少なく理解はできる。
その後に1933年、越中電気鉄道が伸びてきたときに、問題が起こる。
越中電気鉄道は富山市方向から「新湊の市街地を半周して、庄川を渡り、国鉄線と接続を持った」
こちらの立場になって考えてみよう。新湊中心部をすでに通りすぎて庄川も渡ったのに、そこにある国鉄駅が新湊駅とは混乱するじゃないか。
そこで越中電気鉄道はややこしいことに、国鉄新湊駅に隣接して「新伏木口駅」と命名した。
せめて六渡寺駅にしてやれよと思うのだが、営業上の理由がある。
六渡寺と小矢部川対岸の伏木市街地を結んで渡船があり、電車線はコレに接続して伏木から集客したいのだ。
富山へ行くのに、高岡経由で汽車に乗るよりも渡船を使って電車に乗ってくださいよ、ということ。
翌1934年に「新伏木港駅」に改称する。越中電気鉄道は駅名改称について大変に尻軽であり、他の駅も改称履歴が多い。
しかし終点を改称しては訂正する場所が多くはないかと、要らぬお節介を焼きたくなる。 ところでこの河口部、新湊港なの?新伏木港なの?双方に言い分がありそうで、六渡寺の意向が気になるところ。
数年後1939年、この問題が解決する。伏木港から岩瀬港までの幅広い地域の港湾設備が行政面で統合され、「伏木岩瀬港」になる。
同時に「新伏木港駅」は「新湊駅」に改称する。
国鉄線とめでたく同じ駅名になったけど、越中鉄道としては旅客の案内で大いに問題アリ。
既に述べたとおり富山市方向から順に「東新湊」「中新湊」ひとつおいて「西新湊」を経てから「新湊」駅という順番になる。
浦和問題よりも酷いぞ。遠来の客は新湊中心市街地を通り過ぎて、新湊でも場末の六渡寺(失礼)で降りてしまう。
改称の原因は伏木港が無くなったからか。それよりも渡船連絡客が定着しなかったのだろうか。
それらよりも、周辺に工場の立地が相次いで貨車の扱いが急増したからではないだろうか。
貨車受け渡し駅の駅名が違うことの面倒くささは想像がつく。
戦後1951年になり高岡軌道線が開業したことを機会に、国鉄線が旅客営業を廃止した。
国鉄新湊駅は貨物駅となり、揃える理由は薄くなった。
しかし駅名が六渡寺駅になるのは実に1985年のこと。
この間1959年に加越能鉄道へ軌道線が譲渡され、新湊駅は会社の分割位置になった。
1966年に港口分割が行われ、鉄道線も加越能鉄道へ譲渡された。
改称の機会はあった筈だ。 穿った見方だが、分離後も東新湊にある日本高周波鋼業へ貨物輸送があった。
新湊貨物駅において貨車の受け渡しが行われ、デキ6501型が活躍していた。
この貨物列車、廃止時期がはっきりしない。それどころか写真が一枚も見当たらない。昼寝を貪る電気機関車の写真が数枚あるのみ。
デキ6501型も従来除雪用と説明されることが多かったが、他に小回りの利く古い電車が除雪専用でおり、こんな小さな電鉄に二種もいるものか。
貨車受け渡しに同じ駅名であった方が都合がよく、譲渡時も分割時もチャンスを逃したのではないだろうか。
デキ6501型の廃車は1973年のことで、既に稼働状態から退いて長かったらしく、貨物列車の最終日は判らない。
以上 庄川水力電気専用線の電気機関車について
形式は「庄水3号型」だとされる。でも複雑極まる改番の履歴の中で、KEL型という不思議な形式が頻出するのです。
しかも譲渡先の複数の会社で同時に見られる。KELをデキに改番したのに合併で再びKELに戻した車両さえある。
庄川水力から地方私鉄へ譲渡されるより前に、「庄水」から「KEL」へ、改称されていたとしか考えるしかない。
カワサキの電気機関車という意味なんでしょうね。譲渡を受けた私鉄各社は現車をKEL型であると認識していたはず。
専用鉄道は届け出がいらないので改番履歴はわからないままだ。無届でオープン客車の運行もしていたという。
デキ6501(元KEL3?)元とデキ6502(元KEL1?)は1943年から1950年まで射水線に配置され、同線の貨物最盛期を支えたのだろう。
1950年にデキ6502型が笹津線へ移動、一両減車になる辺りに射水線のささやかな輸送量が偲ばれる。
それからデキ6501一両で孤塁を守り続け、加越能鉄道により1973年まで生き延びた。
その後1975年に笹津線が廃線となるとデキ6502が射水線の富山市側に移動し、1980年に射水線廃止により富山南車庫へ移動している。
加越能鉄道の区間が1966年まで元射水線なので、一度読んだぐらいでは混乱してしまう。
デキ6501型は1966年の港口切断まで四方車庫で検査を受けられたであろうが、地鉄から加越能へ譲渡されてからは米島口車庫に出入りした訳だ。
併用軌道をゴロゴロと走っていたのだろうが、貨物列車が走っているうちは新湊駅の行き止まりの側線で昼寝を貪っていた。
さすがに毎日路上を走らせることは気が引けたのだろうか。 海をゆけば、海を見る鉄道の好ましさを考えてしまう。
小さな造船所のスロープのレールも触りたい。
漁港の片隅に赤錆色の平行線を見ると、その場へ行きたくなる。
雨脚が強くなってきた。 庄川争議に出てくる、流木権って何だろう。
電力会社は県から森林鉄道の類を建設しろと命ぜられ、それは承諾されている。
だから木材輸送手段は出来上がる予定だった。
しかし、地域の多くの人が筏流しで現金収入を得ていた、のだろう。
森林鉄道に反対し、このまま筏流しが続けられる事を権利として主張したのが、流木権という、他所ではあまり聞かない言葉なのだろう。
争議に触れた文献は結構あるが、この前近代性に触れた論文は見たことがない。
地域に国有林が多ければ、業務内容の改善ということで運送方法の変更も命令で済んだのだろう。
民有林が多かったのではないか。
林業の単位が小さいと輸送量も小さく分割されてしまい、森林鉄道に馴染みにくくなる。
吉野杉で有名な吉野がこの典型で、あまり大きな森林鉄道を見なかった。
その中で高野山森林鉄道が目立つが、コレ高野山が突出した山林主だというオチじゃないの?
敷設事には所有は過去形でも良いけど、大きな一塊の山林がそのまま維新後の林業の単位として引き継がれたのが高野山付近だけ、とか。
話を庄川に戻すけど、森林鉄道には使いにくさもあった、ということだろう。
庄川上流部に電力会社の手で作られたのは道路であって鉄道では無かった。
森林所有が分割され過ぎていて、トラックで運べる様な単位でしか丸太の出荷がないのだろう。 この森林鉄道の話は独り歩きしたらしい。
上流部に利賀村という自治体があるのだが、高山本線を起点にした森林鉄道予定線の密な路線図が存在するらしい。
それは交通機関に恵まれない山村の切ない夢、なのだろう。
利賀森林鉄道というのは、仮想鉄道の可能性の一つだと考えている。 吉野鉄道は、近鉄に呑み込まれて幸せになれたのだろうか。
大阪鉄道と早くくっ付いて耐え凌げば、戦後に戦時統合から分離できたのではないか。 フランスの交流電化の始まりを解説する仏の動画。
字幕はないが画面を見ていると流れは掴めて面白い。
でもしかし、仏の試作機だけちょろっと紹介してドイツの努力をろくに説明してないのはどういう事だw
独仏でも微妙な問題では仲が悪い、ただ間を取り持つ人の活動が目立つだけだ。 >>241
周回遅れでゴメソ。
吉野は近鉄(大軌)に呑み込まれる以外に生きる途があったのかな?
どこの会社も経営難に喘いでいた時代に。
それと、あの小私鉄の、あの輸送量に、何故あの馬鹿デカい電気機関車。
まさか国鉄の客車でも牽くつもりだったのか?
一応、畝傍と吉野口で線路はつながっているけど。 吉野鉄道の電気機関車ですが、畝傍駅からの国鉄客車直通を目論んだもの、だと思います。
デ51型は、実は弱め界磁に重連総括制御装置付なのです。
おそらく畝傍駅から樫原神宮最寄駅までの平坦な短区間は単機で、そして吉野までは重連を想定したのではないか。
国鉄客車の7両〜8両ぐらいなら勾配もグイグイ超えて吉野川橋梁を渡ってゆけそうです。
ただ、乗り入れが実際に行われたかどうか判らない。
ともあれ、わが国の1067mm私鉄電気の中で、新製時に旅客目的であったことが確定している数少ない事例です。
大阪鉄道と吉野鉄道には、吸収された身として「実は言いたかったこと」が沢山あったように思えます。
近鉄の社史は大軌視点からしか綴られません。大阪鉄道と吉野鉄道の間で交わされた会話や将来構想など大軌も詳しくは知らないでしょう。
その辺りが、物語作者としては常に気になります。気に障ると言ってよい状態。 実際起きなかったことには起きない理由がある。
でも、南海鉄道が現在の南大阪線を抑えず放置した理由が全く判らない。
河南鉄道は大阪側親会社(関西鉄道)が国有化され、高野山側が南海になることで意義を失ったも同然でした。
そこで大阪を目指すわけですが、発想が大胆過ぎる。河南鉄道沿線には大都市がない。
関西本線と南海高野線のちょうど中間にある松原を経由しているのだけれども、全体としては高野線をトレースしている。
南海にしてみれば、物凄く目障りじゃない?
しかも河南鉄道改め大阪鉄道は、この時点で資金難でした。当たり前でしょう。
しかも×2、大阪寄りではほぼ鉄道線規格の南海平野線とがっつり、重なる。
当時南海は盛業中で、経営に問題はない。強いて言えばなんば駅の連続高架事業や高野線乗り入れ工事などに意欲的であったか。
大阪鉄道へ出資し翼下において、平野線を1067mmに造り替え、荻野茶屋付近だけ市街地の新線を設け、なんば駅まで入れることは出来た筈。
この時代ならなんば駅出口付近に三複線用の敷地の手当ても、出来た筈。
この状態で固定し樫原神宮へと路線を伸ばせなかったとしても、南海は泉南を「南海平野」としてがっつり確保して安泰で居られたと思う。
南海グループの手で樫原神宮へ伸ばすとしても、資金的には随分と余裕がある。
史実の大阪鉄道は経営難の筈なのに物凄い数の大型車を入れ、結果的にこれが大事故につながっている。
南海翼下であれば本線の2001系同系車となるだろうし、吉野乗り入れは1900型同系車になる。
普通列車としても当時本選に増殖していた酷い鋼体化電車などが融通できただろう。
吉野鉄道は落ち目の大阪鉄道を見限って、孤立無援の中で標準軌の大軌に屈した訳です。
もし大阪鉄道が南海翼下で、吉野鉄道の頭上で南海が大軌とガンの飛ばし合いをしていたら?
大軌の「吉野へ線路伸ばすぞ!」という脅しに吉野は屈することなく、南海大親分の元へと走ると思うわけです。
南海は大軌に、「アンタは伊勢をシマにするんでしょ?吉野に構ってる場合じゃないでしょ?」と諭す。南海は伊勢、行かないから。
こうして大物ヤクザの間で手打ちが行われ、樫原神宮前駅にて両社は共存共栄の道を選び接続を持つ。
そのまま戦時体制に入り大近鉄になったとしても、戦後の分割で近鉄に南大阪線がもっていかれる筋は無いと思う。
晴れて南海の吉野線になり、あの緑色の二扉車がなんば駅から吉野駅を目指す。
「南海吉野線」というのは、私の脳裏にずっとこびりついている妄想なのです。
その南海の元でデ51型は南海色になり、大出力を買われて南海本線を快走していたらどうしましょう。
少数派という事で吉野のヌシ的地位は変わらないかな。
近鉄大阪線と南海吉野線はライバル関係になり、これも目が離せない競争になることでしょう。 >>245
『南海吉野線』、なんか、いいですね…寒っwww
で、もし『南海吉野線』で1960年代に突入したら?
難波からは「こうや号」みたいなデラックスズームカーの「よしの号」が走り
京都からは国鉄奈良・桜井線を介して国鉄型DCもどき(社形キハ55みたいなヤツ)が直通運転。
お花見のシーズンには国鉄から客車が乗り入れてデ51形電機が大活躍。
もっとも、針中野辺りから都心寄りの区間と、阿部野橋駅の地位というか位置付けがビミョーになるなw 大阪阿部野駅の場所は何もないか、阪和線が使っている筈なんですよ・・・
大阪鉄道が大胆にも南海平野線に被せてきて、なぜ南海が激怒しなかったのか私には南海の気持ちが理解できないw
普通、企みが公然となる免許申請を知った時から、平行線だと捻じ込んで支配下に置こうとするでしょう。
そして現実の南大阪線は関西線と高野線の中間を狙ってきます。三等分すると分け前が一番大きくなるからでしょう。
しかし南海が関与すると平野線をそのまま道明寺駅へと伸ばすような、北よりの線形になるでしょう。
南海の縄張りを北へ北へと広げるのが目的に変わりますから。
南海なんば駅は3+3+3の、阪急梅田駅と双璧を成す大ターミナルとなり何かと比較されるようになる。
阪急と違うのは、妍を競う特急列車の競演です。
四国接続、高野山、よしのと三方面の列車の同時発車が一日に何度か。(四国連絡は流石に一日に何本もない)
まさか、ズームカーと全くの同型をよしの方面へは入れないと思います。勾配も緩いし20m級が入れますからね。
南海が愛用していた帝国車両が、さてどんな電車を生み出すか。私の想像を越えます。
だから、近鉄じゃないほうが幸せだって思うのですよ。
近鉄って10100系の1067mm版を造ろうとしなかったのですよね。
16000系は乱暴に言えば11400系の幅を詰めた様なものでしょ。
10100系だって幅を2740mmに出来た筈でしょ。
そんな努力もしないから、俺に飽きられてしまうんですよ。 38型(P8)はドイツ蒸気機関車の中のロバみたいな存在です。プロイセンの馬車馬。
特に尖った性能は無いが経済性に優れ、なにより時局に乗って大量生産された恩恵を充分に発揮した。
製造数で上回るアインハイツロコは、戦時型050型ぐらいしかない筈。
アインハイツロコの記述で、制式設計の確立後も意外と製造数が伸びなかったというものがある。(多分、篠原氏の著作内)
それは先に38型が何千両と作られ役に立っていたからではないか。
ゆっくりとしたペースだが幹線電化が始まった影響を受けたせいもあるだろう。
ドイツ国内でもアインハイツロコが存在感を増すのは、戦争が本格化してからのことだった。
それも050型の大増殖で、何十年か安定していた勢力図が塗り替えられたかのような表現をあちこちで目にする。
アインハイツロコは幹線筋では主役であったものの、地方に下るとP8型やT3型の世界がずっと続いていたという事かな。
38型を見るとどうしても、8620型に連想が向かってしまう。では55型、56型辺りが9600型になるのだろうか。
鉄道省で主流を占めたという「ドイツ派」設計者たちは、大いに親近感を抱いた筈である。
050型の桁違いの万能ぶりも改めて思う。辺境の地方ローカル線へも盛んに浸食している。
いくらなんでも、機関車として大き過ぎやしないだろうか?
038型と050型の並びは違和感を感じていたけど、実はそうではなかったのだ。
050型に置き換えられつつも戦時の損耗を生き延びた038型は、戦後の機関車不足の中で重用された。
東西双方とも蒸気機関車の末期まで長命を保つ。面白いことに東西双方とも、テンダーを交換して容量を増している。
P8原形では古い小さいターンテーブルに合わせて燃料搭載量を犠牲にしていた。
ところが050型の大増殖は、地方の機関区に転車台の大型化を否応なく強いていたらしい。(大量投入は本当に合理的なのか?w)
制限が外されるとなると不満は燃料搭載量に向かうのは当然のこと。
特に西側では先に廃車になった052型辺りから近代的な全溶接バスタブテンダーを譲り受けて、アンバランスな姿になった。
鉄道模型では以前からアンバランスな38型を目にし、その理由が判らず嫌っていた。
理屈が判ればなるほど、です。 小型蒸気機関車全記録という本、何度見ても良い本だな。
ほぼ全て写真付きというのが凄い。
もっと判型が大きくても良いのに。 ウィスマールレールバス=ハノーバータイプ
通商豚の鼻。わが国の端単式と同じ発想だがドイツのほうが賢いと思う。
まず豚鼻が長い。エンジンルームを豪快に突き出して客室内空間をしっかり確保している。日本ではバランス上無理であったのだろう。
次に両端式です。同じシステムを前後に対称に配置しただけ、らしい。
標準軌まで範囲に含めている。何両かの1435mm仕様があり、ベモのOEMでメルクリンが製品に含めている。
もちろんベモからは二線式HO仕様も出ており、実に小さい。
両端式は常に半分の機関が遊んでいることになるのだけれども、進行方向を転じるに転車台を必要としない。
豚鼻の長さは両端式ならではないだろうか。前後でバランスがとれる。wikiによると全溶接軽量車体であったという。
ハノーバータイプとは、メーカーは先行して様々なレールバスを生産していたことから区別する必要があったため。
最初にハノーバーから大量注文を受け様式を確立し、標準化された設計で何十両と手広く販売している。
彼我の戦力差というか、物質的豊かさの差を感じる。
ドイツでは超ローカル線と言えども全溶接軽量車体の両端式になる。これが彼らの思う最底辺?の車両。
一方同時代の日本では??
両端式も稀にあったけど、主流は半鋼製の単端式に落ち着き普及を見た。丸山式辺りが日本のスタンダードなんだろうね。
ドイツにも銀龍号同然の奴はあったんだろうか?
日本では高級品であろう日本車両の単端式など、ドイツを大いに意識していたスタイルと思うんだけどね。 例えば、東北の小私鉄の写真を見たとするじゃない。地域はどこでもいいけどあなたの居住地から遠方が条件。
心打たれることがあるけど、なぜなんだろう??
いま集中的に見ているドイツの片田舎の鉄道は、当然ながら初見の写真が多い。
でも心打たれるかと言えば、正直そーでもない。なぜ?
当たり前の事だけれども、なぜかと気になると理由が判らない。
背景となる社会の情報量の差だろうか。遠隔地と言えど国内であれば、知らず知らずのうちに情報は厚くなる。
例えばNHKの「新日本風土記」を見る。好きな番組だけど、全国の暮らしのことを見知ってしまう。
細部の記憶はないけれど、たとえば「岩木山」というパワーワード一つで数限りない要素が刺激される。
なんとなく、だけれども、今まででに様々な書物や番組などで見知った周辺地域の情報の厚みに囲われたような気がする。
それはおそらくほとんどが正確ではないと思う。思い込みや他の地域の情報と入れ替わったりする。
それは問題ではなく、共感を起こさざるを得ない厚みに押し切られてしまう。
知らない私鉄の写真一枚に共感するかどうかというのは、この差なんだろうと思う。
先日のウィスマールレールバスだけれども、ウィスマールはバルト海沿岸の港町。
ドイツ北部でも旧東ドイツ。ホルスタインとか近いらしいけど、そのホルスタインがもう意味不明。乳牛の事だと思ってた。
知識の量が、完全な空白なのですよ・・・・。
ベモのカタログで見た両端式気動車だけれども、背後の風景に思入れが全くない。何も湧いてこない。
その、転んで手を付いても何の反応もないスカスカ感が逆に凄くて面白い。
誰が住んでいるのか。どんなお話があるのか。「新日本風土記」みたいな番組はないのかよう・・・・。
そもそもドイツ人って、何喰っているんだっけ。ビールとソーセージか? 本家クロコダイルも改めて調べると面白い。
Ce6/8UとCe6/8Vがある上にBe6/8になっていることもある。意外と複雑です。
これら日本でいえば全てEF10、EF11、EF12ぐらいの差異しかない、と思う。
以下退屈でしょうが私の学習の復習メモです。読まずにwikiでも読んどくれ。
まずUとVの違いはロッドの差だと思っていい。具体的には「遊軸」の有無です。
先行するUは当然ながら古典的で、電動機出力軸と遊軸の間に渡された大きなロッド(通称三角ロッド)が特徴。
第一動輪はこの大きな三角ロッド内に上下動を許された軸受けを持ち、直接伝導される。
第二、第三動輪は三角ロッドと細いロッドで結ばれ伝導される。
続くVは「ウィンターツールドライブ」と呼ばれる合理的な方法を採用。まず目立つ際は遊軸が存在しないこと。
電動機出力軸から第三動輪にむけて細く長いロッドが伸び、第三動輪から第二を経て第一動輪までサイドロットが結ばれる。
見た目にも簡素であるし部品点数が大幅に減っている。ずいぶんと軽量化に貢献したことだろう。
後期型であるVのほうが性能良さそうに思えるじゃない?でも違う。
乗務員によると断然静かなのはUのほうで、Vは振動が激しく五月蠅かったんですと。Vには揺れる揺りかごのような綽名がついていた。
動輪は動輪でめいめい勝手に動きたがるわけですし、簡素な方法には無理があった、という事か。
実用に耐えるのなら問題ない。乗務員は我慢しなさいというメーカーの声が聞こえてきそうだ。
Uは総計33両のうち13両が1941年に大幅な出力増強改造を受けて新形式Be6/8Uに改番されている。同時に最高速度も75キロに増加した。
しかしVに同様の改装は施されず、増速の試みにも失敗し最高速度は65キロに据え置かれたまま引退した。
出力はBe6/8UのほうがVよりも大きく、立場が逆転されている。引退もVのほうがUよりも10年近く速い。
Uの最終的な引退は1986年にまで下がったが、これは新型汎用機の開発失敗が原因。(何型かなぁ?w)
当時のSBBは老兵を予備としていつでも使えるように維持しなくてはならないほどの機関車不足に陥っていたため、だそうな。
あと数年を予備機として延命できたら、シングルアームパンタグラフ化されたりして。
現在もなお観光列車を頻繁に牽引しているわけです。 昔、鉄道ファン誌だったかウィンターツールドライブの記事が連載されていた。
エリエイのレイルにも数号連載されたかと思う。
読んでおけばよかった。 ドイツの軽便鉄道が面白い。特に東ドイツからポーランドにかけて。
年表見てると1945年夏にいきなり終わってる。独ソ戦で戦場になり、ソ連占領時期に略奪に遭う。
ポーランド領域は略奪は微妙だが戦場となった影響が深刻。
1948年前後からレールを再敷設するなどして復活してゆく。
その際に様々なゲージを統一している辺りに破壊の深刻さが伺える。
40年代末におそらくポーランドで0−8−0テンダー機のプロトタイプが出てくる。
そのうち二両が中国へ送られ、数年後のC2型になる。
何もかも破壊され尽くして深刻な機関車不足で、この大型ナロー蒸気機関車は各国で空前の量産をされた、らしい。
源流を辿るとオーストリアなどで20年代にはD型テンダー機が出ており、何らかの参考になっていると思う。
まだポーランドは歴史がわかる。そこから東側となると皆目・・・・。 大昔、西山洋書で求めたハードカバーのドイツ鉄道地図。
全土入りで廃線まで記載されていたため、買い求めた。
写真類が全くないので廉かった覚えがある。
当時はグーグルアースもなく、書庫の奥へ忘れられた。
最近発掘されてさぁ!
すごく役に立つんです。昔の俺を褒めて差し上げたい。 工部省釜石鉄道がなぜ838ミリゲージだったのか、理由が全く判らない。
国際的にも極めて珍しい。
1067ミリについては国際的には立場の強いゲージでもあったのだし理由も判るが、838ミリはどこから出てきたのだろう? いや、838ミリでいいなら標準軌でもいいでしょ。
明治一桁に工部省の隣の部局で1435ミリの車両を輸入していたら、一体どんな騒ぎになるだろうか?
まだ、やり直せたかも、しれない。 岩手軽便のボールドウィンを考察してみた。
後ろ側妻板が観音開きであることと、水タンクの容量の大きさが目を引く。
この特徴はいずれも、満州時代はテンダーを常に連結していたからだろうね。テンダーは専用ではなく低側無蓋車に石炭を積んだもの。
建設用なので最前線に転車台などがない場合もあるだろうから、転向できるところまではキャブ内の石炭だけで走る事もある。
キャブ内に小さな炭庫があるのだろう。でも水は補給場所が限られるし常に必要だから水槽は大きめ。
石炭を積んだ低側無蓋車を次に連結したとしても、まさか走行中に観音開きの戸を開け放って石炭を取りに行くことは出来ないだろう。
普通のテンダーでは車両の間に渡されている床板がないから危ない。停車中に次の駅までの分を移し替えていたはずだ。
岩手軽便に来て、このアンバランスな水と燃料の搭載量になっている機関車は扱いにくくなかったのか。
水はそこそこ手に入るだろう。満州程長くはないにせよ国内の軽便としては最長クラスだ。
wikiによると総数は55両に達したとサラッと触れているが、岩手にきたのは6両だけ。残りはどこへ。
こういう失われた機関車の記録があると架空鉄道も捗る。
時期さえ符合させれば、「くろがねのあひる」は日本のどこに出現してもおかしくはないのです。
模型製品はあまり人気がある様にも思えないが、年月の経過とともに良質な中古品は減る一方です。
ところでこれ、一種の軍用機関車ですよね。
ボールドウィン社は他所の戦場で似た様な機関車を納車した経験はあるのだろうか。
観音開きの目的が当たっているなら、やけに手慣れた設計ですけど。 伊豆戦争で、西武はプリンスホテル敷地を買い占めて東急の邪魔をしたと言われますけど、話は逆じゃね?
下田プリンスホテルの山手側は崖ではないので、線路敷地ぐらい当時ならいくらでも確保できたと思うぞ。
下田の谷間の形からアプローチは南北方向に線路を敷いたほうが良いし、そのためには谷津トンネルで内陸部に移ったほうがベスト。
むしろ、西武資本の下田の用地買収状況を調べて、あらゆる駅から遠くなるように伊豆急の線形を決めたんじゃないか?
西武としては「ウチが線路を造るのならギリギリまで海岸沿いに南下して原田付近から東中までトンネル通して下田町の裏手に入る」と考えたのでは?
ところが東急の側のほうがエゲつなくて、稲梓駅まで北上させて谷津トンネルで短絡して建設費を下げた。
景勝地を外された地元への言い訳に「西武に邪魔されまして・・・すいません」。これで伝説が始まった。
梯子を外された西武が何も言える筈がない。
下田駅の位置も、以南への延伸を全く考えてない。
「西武案」(w)で、今の下田総合庁舎の辺りでトンネルから出て、手狭になるが今の下田駅と全く同じ位置に北東から南西方向にホームを設けたと考えてくれよ。
そのラインの延長には下田プリンスホテルが来ますよ。
この「西武案下田駅」にすると、伊豆半島の先端まで延伸しますぜ、という主張も妄言と思えなくなる。
後発の西武のほうが割と地元の事を真剣に考えていて、先発の東急は免許に胡坐をかいて嫌がらせをしつつ金惜しみをしたと考えます。如何? 軽井沢戦争を調べていた折に、東急系ってひょっとしたら第一印象よりもずっと腹黒い企業体質を隠しているのではないか?と気がつきました。
相対的な問題で西武系を持ち上げたりしませんが、西武悪玉説などの第一印象が剥がされたきっかけでしたけどね。
西武系暴露本のおかげでライバルである東急はすいぶんとクリーンにイメージアップしてきたことは、否定できないでしょう。
「伊豆箱根鉄道下田線」は、どんな車両が走ったのか見たかったな。駿豆線、大雄山線と並ぶ三本柱となり、中堅鉄道の仲間入り。
下田線の業績は伊豆急と全く同じ低迷を受け入れるとしても、通勤路線を二つ持つことで会社としての業績はまだ救われる筈です。
JR乗り入れ対象路線が駿豆線と下田線の二つになるわけで、特急用共通車両の登場は当然予想できますよね。
下田線が足を引っ張って、現実にある二路線への新車投入が妨げられるか。
駿豆線7000系に相当する下田線車両の伊東線乗り入れは簡単に実現するだろうし、その延長ならば駿豆線車両の熱海着発のハードルは下がるでしょう。
会社全体の業績低迷のあおりを受けて、元国鉄113系が駿豆線を走る事も、、元西武101系が下田線を走る事も、あり得ます。
西武の絡む争いごとは西武悪玉論に傾きがちですけど、先入観が先進的な考え方の導入など功績を評価する妨げになっていてはいけません。
近江鉄道も伊豆箱根鉄道も西武出身者への役員の総入れ替えにより、東京と時間差の無い企業体質になったかと思います。
西武は企業支配の目的意識が明確で、無駄金を惜しむのでしょう。
名鉄系や東急系、近鉄系など、系列下に入れながら地元ボスが温存され、企業体質に変化が全く感じられないケースが目立ちます。
単に縄張り争いの結果、責任も方針も成果も曖昧なまま時が過ぎてゆくような事績が多い。 鉱山鉄道を標榜する当私鉄としては鉱山の有り様も無関心ではいられない。
鉱脈って、縦方向の板状になって地中に存在するんですね。
それは知識として知ってはいたが実物を見たことが無かった。理由は単純で、価値ある鉱石を鉱脈から取り出すために鉱山を営む以上、鉱脈を残すわけがない。
有名な実例が佐渡の金山にあり、縦方向の板になった鉱脈を追いかけて上へ上へと進んだら「道遊の割戸」が出来上がった。
多少幅が広がってはいるが「鉱脈の形」を写し取っていると見て良い。なぜなら、無駄な仕事は嫌なものだから。
労働の価値は運び出した鉱石で評価され、いわゆるズリの重量はどれほど大量であろうと全く評価されないものらしい。
それに大量のズリが出たら足元を埋めて足場にしてさらに上を掘ろうとする筈で、綺麗に溝になって残る時点で佐渡の金脈の厚みを察してください。
多分地下にも溝は続いており、そこはズリで埋まっているのだろうとは思うけどね。
伊豆半島、土肥の金山で、テーマパークと化して金塊を飾っているほうではない。その隣近所に寂れ切ったもう一つの観光用鉱山があるのです。
草生した駐車場の様子を見る限り訪問者の比率はたぶん1:1000以上の大差なので、伊豆観光をしたあなたも訪れていない筈だ。
この坑道は江戸時代に松明だけで作業をし、何らかの理由で鉱脈の多くを残したまま放棄され、維新後も再開発されなかった。
多分、すべて、隣の坑道が栄え過ぎた影響だと思う。
隣との関係性が知りたいものだが、鉱業権の関係で古い坑道があっても事業の権利は失われているのではないか。
今も鉱脈が残る理由はそれで説明がつく。
だから坑口から、鉱脈(金!)がホラここに露頭しています、という信じ難いブツを足蹴にしながら坑内に入ることになる。
鉱脈はその姿のまま足元と頭上にあり、人が通れる幅の坑道を鉱脈に沿って奥へと掘り進んでいる。
仕事が上下に向かわなかった理由は尋ね損ねたが、鉱脈探査のつもりであったのか、それとも高品位な場所を選んでいたのか。
松明だけで掘り進むにも限度があり、近代的な鉱山に比べて坑道は極端に短い。すぐに行き止まりになる。
その先にすごく有望な鉱脈が続いているのだけれども、当時は全くの暗闇で何も出来なかったのだろう。
(まぁそのすごく有望な鉱脈は隣の施設の方向を向いているんですけどねw)
(鉱業権を持つ隣の鉱山が、壁一枚隔てたところまで鉱石の回収を済ませていたりして・・・w)
生の鉱脈の「板」を見たことは、非常に貴重な体験でした。
近代的な鉱山のテーマパークって、鉱石の搬出を行ったトロッコのルートだけを往復することが多い。
規模が大き過ぎてとても奥まで案内できないのだろう。そしてそれは残念ながら鉱脈とは全く関係がない、ただのトンネルである。
鉱石を掘り出す人形がコースのハイライトとして飾ってあるのはお約束だけれども、やはりそこは見易く展示されている。
そもそも価値ある鉱脈が坑口に近い場所に残ってるわけがない。掘っているとしたらこんな感じ、でしかないわけです。
(足尾銅山で板状の鉱脈を余さず斜め上に掘り上げてゆくために作業者の足元の溝をズリで埋めて足場を築く、優れた展示があったように思います。) 下田へ鉄道を敷くのに、大仁か修善寺から天城峠経由で結ぼう、
とかいう構想は無かったのだろうか?
無いだろうなw 駿豆鉄道は予定線を引くぐらいには温まっていたらしいよ。
ただそれも途中まで。
伊豆半島は溶岩の塊みたいなものだから海岸沿いは厳しいだろうし、消去法で天城越えを誰しも考えるでしょうね。 有りがたうさん、という映画をご存知だろうか?
昭和11年に撮影された映画で、トーキーです。
ロケ地が伊豆半島で、天城越えをする路線バスの車中の話。
冒頭からモータリーゼーション以前の日本の道路事情が出てきて言葉を失う。
当時、線路がない事は大変な僻地であったのだ。
このルートに鉄道を、と思う人は是非見てほしい。
と、いうのもYouTubeで全編公開されてるんですよね。
架空の鉄道を考える人には、とても勉強になる映画です。
物語として誇張はあるにせよ、当時の路線バスが解るというのは実に貴重です。 鉄ピク表紙の583系だけれども、ホームに白装束の集団がいる。
もちろん食堂車のスタッフで、だから鉄ピクもトリミングしなかった。
スタッフが主役の編集にしてもおかしくないぐらいいい写真だ。
白状します。最初書店で平積み状態の表紙を一瞥して、
パナウェーブがなぜここに??って思いました。パナウェーブがわからない人は検索してください御免なさいw 宇部鉄道の買収国電に酷いのがいた。
普通三扉電車といえば扉間三枚窓とか四枚窓で想像はつく。
この電車は中央の扉を挟んで片側が窓三枚、反対側が窓四枚。
合造車であればまだ納得できるけど、そういう前歴はなし。
世の中広いものだ。よく客は納得して納品できたものだ。 多分インドネシアと思うけど、精糖線の動画をものすごいペースで上げ続けているユーチュバーがいる。
しかも廃線や廃車体、草むした線路といったツボを的確に抑えてくる、「解っているタイプの確信犯」
時折自分撮りしているけど明らかに現地人で、現場にガンガン入り込んで馴染んでいる。
鉄道趣味の広がりを実感するとともに、軽便趣味は世界中にあるものなんですね。
推定マレーシアでも面白い動画を上げてくる人がいる。
ポーランドにもクセの強い投稿者が一人、いるようだ。
推定というのは皆、国旗とかわかりやすい目印をしないので。そりゃ日本人でも同じですけど。
地名を検索すればすぐに判るでしょうけど、今は曖昧な視聴者の立場を楽しみたい。現場を特定したくない。 石川県の私鉄という本に、木造時代のED 251型の写真が出ています。
しかも一枚はサハ二両を牽引する「私鉄客車列車」として。
これは凄い発掘だと思います。 wikiは実に勉強になる。
フランスに「拳骨型機関車」ってありますよね。
その影響で北総線にも拳骨電車がありましたよね。
ゲンコツ、どこから出てきたんでしょう?
というのも、wikiの仏語版を見ると綽名は拳骨ではない。
「鼻が潰れた」と書いてある。英語版でブロークン・ノーズ・ヘッド。
「鼻潰れ」という表現を、日本の行政が自主規制したんじゃあるまいか?
フランスでは別に珍しいことも無しで無頓着に使われたんじゃないか?
このくだりは日本語版wikiのゲンコツ型機関車で言及があるが、なぜ鼻潰れではなくゲンコツなのかという考察は無い。
日本語の記述からゲンコツの初出を知りたいものだ。
北総開発鉄道7000系の記述が面白い。
「ゲンコツ電車」「Σカット」などと呼ばれ、とありフランスの由来まで紹介しながら「鼻潰れ」に一切触れていない。
本家とまで言いながら、ここまでスルーが丁寧だと奇妙な印象を受ける。
やはり行政レベルで「鼻潰れ」は検閲に遭い、穏当な言葉に差し替えられたと考えるのだが如何か。言葉狩り説を提唱したい。
当時存在しないwikiで各国語版をこうして比較できるようになるとは。まさに想定外。
私たち鉄道ファンまで言葉狩りに、いつまでも付き合う筋はないのだ。どう思いますか「鼻潰れ」。 放置スレを日記帳代わりに使うのは非常識だってことも学習しろ >>253
>昔、鉄道ファン誌だったかウィンターツールドライブの記事が連載されていた。
1987年頃に鉄道ファン誌に1年間くらい連載されていた「スイス電機のクラシック」の記事ではないでしょうか?
スコッチヨークに関して説明されていました。
hirodas.com/swiss/gotthard06.html
>>267
>多分インドネシアと思うけど、精糖線の動画をものすごいペースで上げ続けているユーチュバーがいる。
>しかも廃線や廃車体、草むした線路といったツボを的確に抑えてくる、「解っているタイプの確信犯」
>時折自分撮りしているけど明らかに現地人で、現場にガンガン入り込んで馴染んでいる。
>鉄道趣味の広がりを実感するとともに、軽便趣味は世界中にあるものなんですね。
鉄道ファン誌で1990年代初頭に「失われた地平線を求めて インドネシアの産業用蒸気機関車」という連載があり、詳しく紹介されていました。
いつか現地を訪問したいと思っていましたが未だに実現できていません。 バカが他人に読んでもらえてると勘違いして、はしゃいでるなw >>273
1987年でしたか。
「南満州鉄道」が典型ですが昔から鉄道ファンは、ボリュームが多い研究記事を期限付きで掲載せざるを得なかったみたいですね。
著者の無念を拾い集めていたのがエリエイで、「レイル」の後半は大体それw
赤黒で動きを示した絵も小さかったようで、単行本化しても採算取れそうなんですけどね。
精糖線はahmad arif 29 というチャンネルで地味な内容にもかかわらず登録者数2.5万人!
たぶんこの仕事だけで食べているんじゃないでしょうか。
今気が付きましたけど、まさか、アフメド=アリフさん29歳じゃないでしょうね。
蒸気機関車まで含めて廃止の気配などみじんも感じられず、息ある限りチャンスはあると思いますよ。 国会図書館の絶版本閲覧開始。鉄道関係は何がどれだけ含まれているのだろう。
既に勇者が切り込んでいると思われるが、報告を待つ。
俺、ちょっと手が離せないんです・・・・。 ようつべにアメリカ人がupしてる、Nゲージレイアウト制作動画が面白い。
言葉など理解しなくても大丈夫。早送りで要所だけ抑えればいい。
いや、その、これでいいの?という技法と作例の連発。これで終わり?
凄い神モデラーは奇跡だったんだよ・・・w
これがアメリカの平均値だよ・・・そうなのか? 277みたいに書いたけど、実はこれって必要な事なんじゃないかと考え直した。
日本がおかしいんだよ。超絶技巧を持つ神の手の紹介ばかりしてさ。
機関車なんて特定番号を持て囃してさ。
うまくできません、接着剤はみ出ます。歪んでしまいます。草地を草地のように作る事さえできません。
そういう工作を楽しげに?見せて、あなたもやってみようよという記事は雑誌では無理でしょう。アメリカでも。
必要な事なのでしょう。言葉がわからないけど見てみます。 >>278
> そういう工作を楽しげに?見せて、あなたもやってみようよという記事は雑誌では無理でしょう。アメリカでも。
TMSの小林さんの記事はまさにそんな感じで
連載してるね。 そうだよね。あの記事だけトーンが違うよね。
そのレイアウト版がある感じ。
小林氏の作風は完成度を感じさせ、破綻していない点が批評批判を封じているのでしょう。
レイアウトで同種の完成度を維持するのは難しいかも。 前面展望映像、様々な国を巡って楽しんでいる。
最近はフランスが面白くて好んで見ている。
どう表現したらいいのか、お隣のドイツやスイスの几帳面さに気付かされるw
例えば渡り線で、こちらの分岐器と向こうの分岐器の角度が合ってない。
嘘だと思うでしょう?でもフランスは、渡り線の間に急曲線を入れて結んでる場面があるのよ。
駅構内も通過列車がないとすぐに直吊架線になって、カテナリーがない。
本当に建築限界大丈夫かという陸橋の橋脚の隙間を通ったり。ドイツ人は余裕を見るところをフランス人はオッケー出しちゃうのか。
TGVの走る在来線は踏切の廃止を徹底したようで、構内踏切も撤去されたかのような場所が散見される。
小駅の廃止も進んでいるようだ。 >>284
> 本当に建築限界大丈夫かという陸橋の橋脚の隙間を通ったり。ドイツ人は余裕を見るところをフランス人はオッケー出しちゃうのか。
建築限界とか車輌限界って知ってる? やーですから建築限界に余裕をとっていたドイツに、同じ限界とは思えない狭い場所を通すフランスを見て気付かされる訳なんですけど読解力低過ぎない?
あ、キツイ言葉出ちゃった。 >>286
建築限界と車輌限界が守られているならば基本的に接触は起こらないはずなんだけど
建築限界とか車輌限界って理解できてる? >>288
えっと、あなたは建築限界と車輌限界を理解できていないのかね。 限界の件など当然の前提で話が進んでいる事を理解できない、幼稚さ、低レベルであることを当人に判らせるには何をすればいい?w 限界をクリアしているから列車が走り、映像も出てくるわけですよ。
限界は守られていることが大前提で、そんなことは触れる必要もない。
だけど、他人を見下ろしたくて堪らない人は、まずそのことが最優先で辻褄などに思いが及ばないのねw
ドイツ人は限界以上に空間を確保することがどうやら習慣らしい。
なぜそれが察せられるかと言えばフランス人は「限界を守りつつ」隙間を与えなくてはという発想がない。
それを対比させることで互いの国の気質が読み取れて面白い。
と、言葉にする必要もない筈なんだけど、幼稚なマウントポジション希望者約一名のためにわざわざ解説してあげた。
限界は大前提で、そんなレベル触れる必要もない場所で私は話がしたいのよ。 >>290
本当に建築限界大丈夫かという陸橋の橋脚の隙間があろうと、建築限界と車輌限界を理解できていること前提ならば大丈夫なんですよ。
限界の件など当然の前提である事を理解できない、幼稚さ、低レベルであることを当人に判らせるには何をすればいい?w
限界をクリアしているから列車が走り、映像も出てくるわけですよ。
限界は守られていることが大前提で、そんなことは触れる必要もない。
だけど、自分の感情だけで反応しちゃう人は
まずそのことが最優先で辻褄などに思いが及ばないのねw 日本でも低屋根必須の中央線のみならず、
四国など古い建築限界で掘られたトンネルなんかは
割とキツキツて列車を走らせてるね。 と、言葉にする必要もない筈なんだけど、幼稚なマウントポジション希望者約一名のためにわざわざ解説してあげた。
限界は大前提で、そんなレベル触れる必要もない場所で話をしたいならば、専用スレッド建てて書き込みはそこだけにして、
とりあえずこのスレッドからは出て行け。 やだよーんw
俺しか利用してないし。
俺はどのスレにも出没する可能性があるし、
どのスレも守る気がないし。
この時点で、理由は不明だがこのスレを守ろうとしているお前に勝ち目はないのw
ところで、今頃になって前提に気が付かなかった不覚を繕おうとも無駄ですよ。鸚鵡返しになってない。 俺はスレへの書き込みを半年しなくても平気だし、他のスレに移動しても全く構わない。拘りはない。
ただ、このスレを守ろうという意味不明な人への嫌がらせだけは、暇な時にしてもいいかなとは思う。 >>296-697
じゃあ批判されても言い訳や泣き言なんか
言わずに、幼稚なマウントポジションを
心の支えにしてまぁがんばれ。 ただのキチガイじゃなくて性根も腐ってたんだな
まあそうじゃなきゃ放置スレ占拠でお山の大将気取ったりしないかw >俺はスレへの書き込みを半年しなくても平気だし
それはそれで、逃げてほとぼりが冷めるのを待ってると判断するだけだよw >>296
> 俺はスレへの書き込みを半年しなくても平気だし、他のスレに移動しても全く構わない。拘りはない。
じゃあ試しに書き込みやめてくれる?
半年と言わずにずっと。
どれぐらい我慢できるのか。 やだ
アホじゃね?あんた。
俺に干渉できないことを早く知れ。 手の届かないところで生きてる人には、罵倒するぐらいしかやることがなくなるんだよね。
でもあなたはそれを毎日ずっと続けられないけどこれは好き勝手に行動するんだよ。
罵倒もまた無意味になる定め。 >>301
あんたも他人に干渉できないね。
>>303
あなたは毎日他人を罵倒できる人なんだね。
それくらいしかやることがないんだね。 >>296
> 俺はスレへの書き込みを半年しなくても平気だし、他のスレに移動しても全く構わない。拘りはない。
と、言う割には書き込まずにはいられない模様。 >>291
> ドイツ人は限界以上に空間を確保することがどうやら習慣らしい。
もともとの限界の規格に、許容値が大きかったと言う可能性も。 その可能性もありますね。
日本の新幹線の複線の線路の間隔は時速200qでの走行を前提に設定されていて高速鉄道としては世界で一番狭いようで
すれ違い時の風圧が大きく高速化に支障をきたすようです。 >手の届かないところで生きてる人には、罵倒するぐらいしかやることがなくなるんだよね。
罵倒されてる自覚はあったのか、意外だな
まあ胆力があるとかじゃなくて、罵られるのが好きなんだろうがなw NHKがCGで草創期の日本の鉄道を再現した映像は、価値がありますね。
細かい部分まで行き届いている。
枕木まで細かい砂利で埋めてしまう線路の作り方は謎です。何を考えたのだろう? 外国のローカル線を紐解いてゆくと、色々面白い記述にぶつかる。
ドイツ南部の歴史ある電化鉄道線が、戦時色がますます強まる1939年に電気運転を取りやめて蒸気機関車による運行となっている。
その理由が凄くて、新たに開設した空軍基地の滑走路から飛び立つ飛行機の邪魔だから。
・・・・いや、電化された線路を避けて場所探すでしょ?普通は・・・・。
という疑問を解決するため、現地を確かめようとすると大変なのが、ストリートビューが使い難い事。
ドイツはストビューに冷たい国で、住人が写っては駄目ということらしい。
幸いなことに検閲済みらしいストビュー付道路があり、大まかな地形は把握できた。
困ったことに基地が見当たらない。
未舗装の滑走路を持つ小さな空港が営まれているが、昔の軍用飛行場とは別の場所にある別のものらしい。
この昔の飛行場が、どんな検索ワードを駆使しても当時のドイツ空軍のリストから見つからない。
地名から写真が何枚かヒットしたが、戦闘機は草むらの中に駐機している。
つまり、舗装され整えられた滑走路はなかったのではないか。
前線の野戦飛行場を意識した訓練用のフィールドのようなもので、とても部隊を常駐させることなどできない。
これが飛行場リストに含まれない原因だろうか。
そして舗装された滑走路を持たないからこそ、隣接地を通る電化鉄道の架線が脅威となったのではないか。
飛行機は「あのあたりの平らなところ」へと降りてゆくわけで、離陸だって降りた場所から好き放題だろう。
そういう広場の端に電化鉄道があるというのは、問題だろう。
推測だが、開場して何度か離着陸して初めて、飛行士から架線が危険だという指摘があったんじゃないかな。
鉄道は基地との共存は許された。しかし、架線が邪魔ということは離着陸中に列車が通っても危ないという事だ。
しかし架線と異なり、日に何度か通るだけの列車は、遅いので機上から目視して避けられるという事かな。
展開したのは小型の戦闘機ばかり、Bf109という奴でしょう。演習用の基地に珍しい機体はやってこない。
引き込み式の脚が架線スレスレを通り過ぎてゆく有様を想像してしまうんである。
HOスケールの模型はある筈だ。メルクリンの貨車の積み荷になってるんじゃないか。
基地は無くなっても鉄道は今日も運行を続けている。
車両はなんとシーメンスの「デジロ」という豪華な奴で、毎時二本もあるというが本当だろうか。 ちゃんとワッチョイとか無いスレを選ぶ理由はわかったw wikiは本当に勉強になりますわあ。
その1
ドイツでは小さな電鉄の連結器は標準軌であってもバッファーを持たないことがある。
いわゆる朝顔形が多いのですが、ドイツではトランペットカップリングと呼ぶ。
Trompetenkupplung
楽器に詳しくないが、トランペットはドイツ語が由来なのだろうか。
朝顔は雅な、鉄道車両に用いるにはもったいないような格調高い言葉だと思うが、トランペットカップリングも耳に響きが良いねえ。
この形状の連結器の発明国がどこなのか未だに判らないのだが、よくぞ名付けたドイツ人。
日本型味噌汁軽便談義の際に、トランペットカップリングを使って煙に巻いてやろう。
相手車両との接触部が四角いタイプは違いますぞ。円形をした朝顔形限定の呼び名ですぞ。
ところで、四角いほうが合理的で作り易かろうに、なぜ円形を目指したのだろう?
円形のバッフアーと付き合い慣れた地域の発明品かな。
そういう実用性に欠ける造形が朝顔型連結器固有の美しさであり、わざわざ再現したくもなるのです。
その2
Schlepptriebwagen
シュレップトラビワゴン?牽引車両?
日本で電動貨車というと、機関車と何かの二種混合という座りの悪さもあって説明に困る。
ほぼ見かけなくなった現在では動く貨車という説明ではJR貨物の例の立派なアレを巻き込んでしまい、イメージが傷付く。
鵺のような存在感はドイツでも同じらしい。
長ったらしい名前は三つの単語の合成語で、分割したらそれぞれが翻訳できた。
「機関車には含まれないが、牽引力を求められる車両」という意味らしい。
単に自走可能なのではなく他車に牽引力を及ぼすという意味であるのが味噌。
元になった単語に電気動力の意味はなく、気動車も含まれる。
日本では例が見当たらないが、例えば銀龍号が旅客営業を止めて機関車代用になればSchlepptriebwagenだろう。
客室は小さいか無くて、郵便荷物室を持つものが多いとある。モニ、モユニが多かった。
ドイツ国内のグループとしては非常に珍しい少数派で、DBにはほぼ類例が見られないらしい。
以上、全部受け売り。 注として、例えばレールバスの様にセットで企画された同系付随車を牽引してもグループには含まれないんだと。
機関車代用として貨車なら貨車で何でも牽引しないと認めて貰えないんだそうな。
だから同じレールバスでも私鉄で想定外の使われ方をしているとシュレップトラビワゴンと呼ばれてしまう。
定義廚って、どこの国にでも居るんですね・・・・w
あくまでも使われ方の定義であり、車両自体に差異はない。 最低限自分が思ってる10倍くらいの期間を置かなきゃ、ほとぼりは冷めないぞw >>311
そういう線路で、列車との接触事故とかもあったのかな?
汽車(電車)vsクルマとか、汽車vs自転車の事故とかならよくありそうだけど
汽車vs飛行機の事故とか聞いたことないな。。。 列車と飛行機は私も聞いたこと無いですね。
ただ飛行機は避けようとしただけで墜落しそうですから、鉄道側では我関せずの航空機単独事故になっていたりして・・・。 >汽車vs飛行機
私は>>311を読んでいて、何故か日本の美保基地(米子空港)を連想してました。
因みに美保基地では、米軍時代の1954年に境線の上り貨物の牽機と
米軍のC119輸送機との接触事故が起きていますね。
C119輸送機の愛称が“フライング・ボックスカー”と云うのも何とも皮肉ですが、
擦られたほうの蒸機の機番が不明ですが、やはりC11だったのかな?
ま、流石に“C119”ではなかったようです。
(C119が米子に配置されたのは件の接触事故の後の話ですね。) >>311 >>321
美保基地ができたのもWW2大戦中だよね。
境線は元々非電化だから架線剥がされることは無かったが
移転前の旧大篠津駅の信号機にはちと笑えたw >>314
>ところで、四角いほうが合理的で作り易かろうに、なぜ円形を目指したのだろう?
四角だと角が少ない接触面積で接触して摩耗したり応力が集中してしまうからでは?
>円形のバッフアーと付き合い慣れた地域の発明品かな。
バッファーの角が丸いのは角が尖っていると急曲線通過時などに先端部に応力が集中して欠ける可能性があり、危険だからでは? >>321
飛行機の事故から探っても,、資料がwikiでは墜落死亡レベルでないと記載されないみたいだ。
そこで初めて知ったんだが昭和20年代、30年代の飛行機事故のすさまじい数。
厚木基地と相模鉄道も、何度かニアミス起こしてるんですね。
>>322
美保基地といえば池波正太郎が兵役を送っていたところ、というイメージしかない。
世界的に見ても誇れるレベル?の酷いロケーションですね(褒め言葉
ジブラルタル並み。 当たり前のようで普段意識しないのが、貨車の有り様が国や地域により大きく違うという事です。
日本では無蓋車が独特の発展をしています。トムやトラ、トキの一族は海外ではそのままの姿をほとんど見かけません。
(無蓋車で画像検索をかけてみると良い)
強いて言えばローサイドゴンドラです。
日本の無蓋車は側壁を付け根から外側へ倒せるようにして、台枠に何個ものアオリ戸受けをつけています。
同類に見えても海外でアオリ戸受けまで備えていることは滅多にありません。日本の貨車固有の部分の一つです。
海外では日本よりもフラットカーの出番が多いように感じます。亜種としてステークカーがあります。
日本ではステークはチキの台枠の縁にコの字型の金物を並べ、そこに木角材を臨時に立てるものという認識です。
しかし、海外ではステークカーは独立したジャンルを確立し、抜き差しは可能だけれども鋼材の立派なステークを備えている。
ローサイドゴンドラもよく見るとコの字型金物から足が立ち上がっており、側壁を外せばフラットカーに早変わりしそうな貨車がある。
海外では大勢力になりがちなゴンドラカーを日本ではほぼ見かけないのが面白い。
正解は一つではないと地で行くような感触を受ける。意識されないほどのちいさな判断の差から子孫が違う姿に進化したのだろう。
日本では無蓋車は有蓋車に次ぐ汎用貨車の座を占めてるのは、面白い。
アオリ戸受けは便利な発明だと思うが海外へ伝播した気配を感じられないあたりが、日本の場末感を漂わせて面白い。
海外の鉄道ファンはアオリ戸受けが並ぶトキ25000型辺りを見て、工夫に気がついてくれるだろうか? >>324
美保基地って何が酷いの?
>>325
ゴンドラ・カーって無害車(ト)じゃないの?
側壁が空くかどうかはよくわかんないけど。 ゴンドラカー、特にハイサイドゴンドラカーが日本で嫌われた?理由が明確ではない。
満州鉄道には大量にあるので知らなかったのではなく、大量導入を阻む理由があったのだろう。
思い当たるのは荷役作業の機械化の遅れ。ハイサイドゴンドラカーは側壁の扉が荷下ろしに不向きなほどに小さいことが多い。
扉の様な可動部がない事を重視したかの様なスタイルが目立つ。
その傾向が強まり扉の無いバスタブゴンドラに至る。側壁の扉は「作業員が出入りするため」ではないだろうか。
つまりゴンドラカーは、濡れても良い貨物をクレーンで積み下ろしをすることに特化した貨車です。
そして日本はクレーンを使う荷役の導入に大幅に出遅れた。
バスタブゴンドラに至っては貨車を反転させる荷降ろし機械の普及と勢力拡大がセットではないだろうか。
特にアメリカで石炭を運ぶ貨車と言えば、バスタブゴンドラです。
日本では室蘭港にセキを反転させる仕組みの石炭埠頭が戦前に完成しましたが、しかしその後もセキの追加を続けた。
車体備え付けの扉は不要なのに、変な話です。
他に同和鉱業の片上駅に貨車を反転させる機械が導入され荷降ろしの合理化を図っていますが、その貨車は最後まで無蓋車でした。
専用の貨車を用意するには及ばなかった。荷降ろしの合理化圧力も、日本では不十分か、時期が遅すぎたのです。 >>327
プラットフォームと貨車床面がツライチならば
側面扉ありが便利。
プラットホームのない場所でクレーンを使うのが前提ならば即扉は不要。
線路周りが舗装してあってフォークリフトが走り回れるなら別だが、
そんな線路周りは随分と後年。 治安の悪いアメリカじゃ、手で運べるようなものは有蓋車だろ。 そうですね。
無蓋車という概念、車両設計の方向性が日本の鉄道の特徴の一つとしても良さそうです。
これが有蓋車に次ぐ勢力らしいのが面白いところ。 >>330
車両設計の話なんかではなく、主に荷主の要求。 全く同じ事でしょう。荷主の要求に従い車両は作られるのですから。 全くもって意味不明なので打ち切らせていただきますね。 先に少しだけ紹介したインドネシア製糖線のyoutuber 最近の動画がキテる。
農場周辺の道路という道路がアスファルト舗装されてるらしいのよ。真新しい舗装ばかり。
で、なぜか知らないけど踏切で専用線の線路を見事に塗りつぶして舗装工事を終えてらっしゃるの。
もうこの時点で日本的感覚としてはアウトなわけだけど、踏切の、専用線側から見た工事の仕上げ?を動画でたっぷり見せてくれるのね。
Cタイプディーゼル機関車の9号機、なぜかいつも9号機がやってきて、アスファルトを踏みつぶして自らの自重でフランジウェイを作るんです。
これアップで動画取ってるシーンあるので、手に汗握りながら観戦?できる。
アスファルトが割れて凸凹になってるところがみられるけど、今度は今度で専用線側は散らかった現場を無視して走り去るのねw
互いに自分の仕事さえできればそれでいいという、打合せなしの実力行使。
動画再生数が100万回を軽く超えてる奴が多いので、多分世界中から注目されている。 どうせなら「そういうあなたは半可臭い」とかだろ
言葉選びのセンスねえな >>339
> どうせなら「そういうあなたは半可臭い」とかだろ
道民ですか?(笑) 21世紀の今では保存鉄道ではない現役の蒸機の運行は貴重ですね。 インドネシアでは今でもサトウキビを製糖工場まで運ぶ目的で蒸機が運用されているらしい。
燃料はサトウキビの搾りかす(バガス)なので燃料費高騰も無関係でカーボンニュートラル。 トミックスがǸゲージの上位版としてレールシステム込みで12mmに手を出してくれると、何もかもひっくり返る。
少し考えてしまった。HOゲージで生産ラインが有り余るほど売れ行きに詰まったら、考えるだろうか?
ハイクラス向けの大型Nゲージという位置づけでイモンとは上下で分業体制を狙う。
特定番号はしない。いまǸゲージでしていることを12mmでも行い、値段を10倍前後にして利益を確保する。
Ǹゲージの10倍の値段でもまだイモン特定番号の桁違いの下に収まるんじゃないか。
12mmトミックスレールは、ジョイナーやポイントマシンなどをǸゲージと共通にする。
分岐器ではフログの構造もそのまま拡大コピー。踏切や信号機も「少し」大きくするだけで仕組みは同じ。(基盤剥き出し)
線路関係はǸゲージの五倍から十倍の値段にしていい。技術面で新規設計は全く無いので大量に売れなくても利幅は見込めるだろう。
Ǹゲージ仕様に文句をいう奴はトミックスの客ではないので、相手にしない。
初回製品として583系でも出せば、売れると思うんですけどねえ。もちろんHOゲージトミックス583系の値段の二倍近い単価をつける。
と、いう夢を見た。 >>345
> 12mmトミックスレールは、ジョイナーやポイントマシンなどをǸゲージと共通にする。
ポイントマシンならまだしも、ジョイナーそのものは難しくなかろうか。
まあ今の1/80よりは高くなるだろうが、
金属よりは安くはなるんだろうな。
1/80よりもうかる値段設定にできるのかはわかんないけど。 >まあ今の1/80よりは高くなるだろうが、
>金属よりは安くはなるんだろうな。
>1/80よりもうかる値段設定にできるのかはわかんないけど。
一部地域で先行販売されたデアゴの12mmのEF66を見ると7000円であのクオリティならお買い得感がある。
今後583系や500系新幹線なども予定されているそうだけど中間車や旧客やコキ等も出してくれるとありがたい。 サトウキビのプランテーションの分布は熱帯の中でも偏りがあって面白い。水の豊富な土地が良いのでモンスーンなど雨季があることが条件だが。
鉄道も現役のところが意外なほど多い。日本人から未知な場所はエジプトで、かなりの軌道があると言う。
不思議なことに西欧の奴らもエジプトの辺鄙な場所になると怖いのか、報告例が極端に少ない。 >>347
「鉄道模型」とは何かってのを理解してから出直せ ネオランバーという、ガラス繊維入りプラスチックがある。
商品名は知らなくて当たり前だが合成枕木としても使われているため、視野に入ったことはあると思います。
見た目は滋賀県のコンニャクみたいな奴で、トミックスの合成枕木分岐器の画像でも見て思い出して下さい。
もちろん複数の会社で似た様な製品を製造しているであろうから、その分野の中の一つになるわけですけど。
メーカーHPを見ていたら鉄道分野での使用例に「大三帆条保護板」って書いてあった。
企業HPでここまで大きな誤植の放置は珍しい。軌条と入力して帆条にはならないと思いますが。帆条ってなんだ。
大三帆条という、大航海時代に出て来そうな品物を空想してしまう。後ろのマストについている三角形の小さな帆とか。 模型と玩具の境目は時に曖昧で難しいやね。
ただ今回はディアゴの体質を居て見ぬふりしてぬか喜びする人がやたらと目立つとは思うね。一人かな?
アレは他の会社が汗かいた市場を荒らして立ち去る専門商社ですよね。
今回が好例ですが隙間探しの才能はあると思います。
毎度毎度違う分野でどうやって商品をまとめているのか。雑誌付録の延長でしょうけど大変でしょうね。
大変でも新しい商品企画を繰り返し、常に立ち去ることで背負わされるリスクを小さくしている。
「踏み止まって支えない」という点を無視していることも、信者が軽んじられる点ですね。
トミックスを例に挙げたのは、まがりなりにも「立ち去れない立場の大企業」だから。
築き上げたǸゲージ市場に瑕疵がつくような振る舞いはしない。利益を得て多くの社員を養う事だけが大切で、ファインスケール(笑)に興味は無い。
今回ディアゴに期待を寄せるような人に、トミックスの側は全く共感しないんです。繰り返しますがファインスケール(笑)に興味は無い。
大きな資本になればなるほどリスクが重くなります。
これは企業の行動パターンに詳しい人なら説明されなくても納得できることの類ですが、残念ながら全員が納得できるわけではない。
その納得しないポンコツエリートの中からファインスケール(笑)プラ製待望論が出てきてしまうわけです。
私は夢オチにしたというのに・・・w 農耕民族と狩猟民族の違いかもしれませんね。
狩猟民族は常に手を変え品を変え新たな獲物を探します。
一方、農耕民族は継続性を重視します。
近年、経済戦争において日本が敗北を喫するのはそのあたりに一因がありそうです。 モデルワーゲンの包装のスポンジが加水分解起こしてた。
和紙でくるんであったけど塗装の一部に大ダメージ。
ちょっとショックだ。 ここまで読んでみて、>>347が一番「はんかくせぇ」。
鉄道模型が何たるかを解っていない。 「毎号コキ一両がついてくる」って言われたら
26冊とか買うのだろうか。
まあ型は一個で済むし、連結器さえ交換すれば何とかなるかもだし、
出ればいいかもね。
客車や電車の中間車の敷居は高いだろうけど。 EF58の動画見てたら涙脆くなってしまった。
飽きたと思うほど見たのに、居なくなって長い時間が経っていた。 井の頭線沿線にフライングズウというお店があった。何回も通わせて頂いたけど有名なラーメン屋さんは行列が絶えなくて入ったことがない。
フライングズウと井の頭線は記憶が一致するので、今もよく思い出す。
店内は狭かったが大人のお店だった。趣味にも階層があってワンランクもツーランクも上の世界を覗き込むような思い。
新額堂以上に変な物しかないお店。一癖ありそうな客。私は子供だった。
サウンドシステムを初めて買ったお店で、今はもう使わない本体に例のペンギンシールが残る。子供過ぎて色々迷惑をかけたように思う。
ふと思い出したのは小型B凸電気機関車を手にした時に裏側にペンギンのエッチング銘板を見出したから。ああこれ、杉山/フライングズウ製品であったか。
GE16トンと言う製品で、その昔苦労して12ミリ用車軸を作り平歯車を移し替えて1067ミリ仕様にして放置したもの。
なぜ放置したかと言うと日本の車両にしては軸距離が長過ぎて、二軸貨車が全く似合わないから。アメリカ風ホギー貨車をつなげると実に良い雰囲気なのですけど。
軸重8トンであれば地方私鉄にも入れそうだが。(このボリュームで本当に16トンならば車体の中はガランドウの筈です。)
アメリカにしては大柄なB凸だが、わざと走行抵抗を高めて牽引力に変えたのではないだろうか。
ホギー台車の値段はかなりお高いと聞きますし、板台枠B凸は値段と牽引力のバランスが取れた設計なのでしょう。
何十年かぶりに、パンタグラフなど残りの作業を片付けて現役復帰させてやろうと思った。
あの店の思い出と共に。 RMライブラリ「北恵那鉄道」を見ていて驚いたことを一つ。
有名な大きな中津町駅舎のすぐ隣に、土蔵が建っている。なまこ壁の土蔵。駅構内図を見ると小さくカタカナでドゾウと書いてあった。
http://tsushima-keibendo.a.la9.jp/kitaena-tounou/kitaena1.html
これ。違和感が全くなくて気がつかなかった。このHPでもごく自然に背景に溶け込んでいる。
鉄道といえば近代的なものだと思っていたが、駅構内に土蔵が建っている事例を始めて見た。
国鉄の構内建築としては煉瓦造りの油庫が有名ですよね。
土蔵造りは国鉄が採用しなかったので見た記憶がないだけで、地方私鉄では金庫代わりに土蔵を立てる例もあったのか。
中津町駅舎が大変に立派な洋館であるだけに、意識し始めてしまうと和洋のミスマッチの具合が半端ない。
ご覧あれ。
駅本屋と同時期の建築だろうか?
地方では洋館に対する不信感でもあったのだろうか??
大きな駅舎内に金庫を収めるのではなく、離れに土蔵を建てるという発想が面白い。煉瓦造りでない所が堪らない。 日記帳を他人に見せびらかすのって、どういう性癖なんだろうな
偉人の気分になれる(偉人の日記はたいてい晒される)とかかねw 潰れ鼻機関車のフォローを続けていたら、オランダの同系機に自動連結器付があると言う。
プッシュプルなど旅客列車も牽引する一部の機関車に取り付けられているらしい。
探してみたら、ありました。
通常のチェーンフックの真下に、線路との間の狭い空間に密連がついている。
そんな低い場所に・・・ってここしか場所が無いか。
プッシュプルは半固定編成だと思うのだけれども、頻繁に連結を解くことがあるのだろうか。 機関車トーマスのNG集と言う動画がある。当然ですがCGではない奴。
腹筋崩壊するわ・・・w誰だこれ放流したの・・・。 先のトーマスだが、メルクリンの1番ゲージを改造して使ったそうです。
これだけ大きいと質量を感じます。なにしろ脱線シーンばかりですので・・・w
機関車も貨車も石炭が一体成形のままであるなどNGで初めてわかることもありますが。撮影用ですから当然ですけど。
レールの寸法的な緩み、バネが無さそうなどの不満は出てきますけど、HOゲージの貨車の脱線とはやはり、違います。 かつて90年代にポンキッキで放送されていましたね。
種車は入門セットのBR89でしょうか? そこまで古いと記憶にないですね。手に入れやすいセットと言えばそうなるのでしょうけど。 足回りがバラバラですから多分、機関車は車輪から作っていたんじゃないかな。
その昔、イギリスの鉄道模型は、スポーク動輪のバランスウェイトは後付けで、大きなスポーク車輪の素材が数ミリごとに売られているような感じであったので。
そういうメーカーがいくつかあって、多少の不揃いを自分で直せばどんな大きさの動輪も手に入った。 借景がしたくて、模型を何両かと線路を少し持って山の中へ。
初挑戦でしたけどかなり難しいね。結局一枚も撮ろうと思えなかった。 RMライブラリ日車標準形。
トミックスの例の製品から、君は何を改造して何を作る?するための本でしょう!
もちろん一言も触れてないけれど、出版社か編集者か筆者の「圧」を感じるw 東京ディズニーランドの鉄道の、スティルウォータージャンクションにあるカブースが、リオグランデウェスタン鉄道のショートカブースの実物だと知って驚き呆れてる。
最も前所有者がいて、そこで窓配置など大改造を経ているためオリジナル部分は台枠以下しかないとも言われておるが。
にしても、あの名車両、数々の製品化に恵まれ、私も持っているあのショートカブースの実物が東京にあるというのは凄い。 >東京ディズニーランドの鉄道の、スティルウォータージャンクションにあるカブースが、リオグランデウェスタン鉄道のショートカブースの実物だと知って驚き呆れてる。
アメリカにあれば準鉄道記念物に指定されても良いくらいですね。 どうかな?車体は原型を留めてないよ。近いのは七軒村カブースなんじゃないか。これをモデルにしたのか。
多分、遊園地に引き取られた時にすでに木造部分は原型を留めていられなかったのだろうと思う。 小さな電気機関車が好きで、十数両に達した。気に入らないものや重複まで含めると50両に届くんじゃないだろうか。
不思議なことに内燃機はあまり好きではない。これは良い製品が昔から少ないためだろう。電気機関車と比べ差別されている。
蒸気機関車も良い製品が少ないと思えて、あまり粒が揃わない。
様々な機関車を一堂に並べて楽しい。これから片付けるのだが、それが憂鬱で憂鬱でw
やはり塗装まで終えた完成品に限るね。キットは珍しくても何箱あっても無力だ。 もう9月なのに日記つけてるけど、まだ夏休み終わってないの?w インドネシア精糖線に二人目の配信者が現れたみたいだ。
まだ登録者も閲覧数も伸びていないけど、私のように世界中から観に来るのだろうと思う。
保線シーンを扱う一本に、通称ジンクロでレールの歪みを治しているシーンがあった。
至って簡単な構造ですし見当はつくのですが、実際にじんわりと圧をかけてゆく所は初めて見ます。
かつては日本の鉄道でも普及して、地方鉄道や軽便鉄道でも見られたであろう光景。 急勾配で有名なピラトゥスの登山鉄道、保線用に随分と立派な車両持ってるのね。
そりゃそうだ、線路から架線まで一台で何役もこなすスーパー重機。 RUSTに出てくる地下鉄道が面白い。
自分でプレイしていてはPCの性能が追いつかない事と到底奥地にまで潜入できないので、兎田ぺこらのプレイなどを見ながら楽しんでいる。
廃墟感の汚れが素晴らしい。 1950年台のグレートノーザンアイアンオアオペレーション、という動画がupされている。
あの、天賞堂製品の数々が動いてる動画・・・・・と思って貰えば良い。
特に080、ヤードゴートの動画に目を奪われてしまう。
第一世代ディーゼル機も今の作風ではなく、アサン青箱に見えてしまうのはフィルムの画質の荒さ故か。
昔は良かった。
そして、こんな国と戦争したらアカンよ。 仕事〜が忙しい〜い。
鉄道のことが脳裏からすっぽ抜けるぐらい忙しかった。
今我に帰ったw
こちらが真の自分?w DRGのE71型が新規製品化されるけど、欲しい。
電気も機械も、現代の視点から評価すると未熟な時代に、素晴らしいアイデアを豊富に盛り込んだ完成度の高さ。
喩えればからくり人形。茶運び人形のようなもの。第一次大戦前の傑作機。
油冷式抵抗器の放熱器を車体の両側面、室外に露出させている点が素晴らしい。
空冷ではないらしい。液体が、しかもとても熱い流体が流れる配管ですよ。それが放熱フィンだけで室外に出ている。
日本でも交流電気機関車の初期に油冷式の機器を用いているけど、ラジエーターは機械室内おそらく天井付近だと思う。
さらに日本の蒸気機関車のエアブレーキ関係は圧縮時の発熱を除くために、何度も往復する放熱管を露出で設けている。
でも気体ですからね。液体とは比重が違う。ドイツでは風雨に晒されて、よく何十年も壊れなかったな。
ドイツがどのようなジョイントで配管同士をつなげていたか全く手掛かりはないが、プラスチックはもちろん合成ゴムも未熟な時代です。
フェルトぐらいしかパッキンの素材は無い、筈。どのようなアイデアで熱い油の液漏れを防いでいたんでしょうか。
シルエットを見ると床下、両台車間にバッファーがついている。
両台車を通常の連結器類似の方法で結び牽引力を伝えるとともに、上に乗る機械室は牽引力に関係しない。
推定だが片方の台車の芯皿は一点に固定するピボット、他方の芯皿は多少の前後左右動を許容する平面なのだろう。
それはよく見られる方法なんだが、床下に古典的なバッファーが丸見えというのが過渡期を感じさせて面白い。
台車には機械室が乗り一体化して首を振る。これを称してミニクロコダイルという広告を見るけど、さすがにそれは商業主義ではないか。
レーティシュ鉄道を差し置いてというのもあるし、クロコダイルはメルクリンが与えた綽名でしょう。
メルクリン以外がDRGのE71型をミニクロコダイルと呼ぶ例が見つかったけど、腑に落ちないものを感じる。
台車に機械室が乗る理由は、まだモーターの小型化が追い付かないのでしょう。
日本でいえばEC40型など碓氷峠の初期の電気機関車が同世代。モーターが台車内に収まらない。
モーターは空冷用機器を必要とするので、台車と共にモーターと空冷機器が首を振ることは合理的と言える。
モーター小型化の歴史も、よく判らないんだよね。 ドイツの電気機関車史を見ていると、吊りかけ式が最終回答、決定版であるかのような記述を見る。
モーターが十分に小型化軽量化して初めて、その重量の半分を車軸に託し振動に耐えることに成功しました、という感じ。
超大型多極モーターを台枠に乗せることから始まり。ロッドがやがてブフリー式のような伝達方式へと変わる。
でもブフリー式は高コストなのか一部の急客機に限られ、貨物用を中心にロッド伝導が洗練する。まだ台車にモーターを内装できない。
さらにモーターの小型化が進み、ついに通常の台車内に単純な構造で収まりましたよ、というのが吊りかけ。
日本との違いは、ブフリー式などから類似の、車軸に巨大なモーターの荷重を載せない方式が何十と試されたこと。
この中に今の日本で普及したカルダン駆動式の種が含まれる。中空軸など種類が多過ぎて一つ一つ挙げられない。
複雑で高価な方式を嫌になるほど試して、その後に、当時の感覚としては超小型、軽量で頑丈になったモーターによる吊りかけ式が決定版として出る。
ここで日本とヨーロッパで新技術の順番が逆転している。(戦後のアメリカは新技術開発から脱落している)
戦前日本の電気機関車は幹線用大型機としても欧米から見ればインターアーバンサイズに留まるので、いきなり吊りかけている。
欧米から見ると路面電車サイズのような小出力のモーターを六個も使ってEF級に仕立て上げていた。当時の欧米にモーター六個ってそんなにないよ。
そして戦後になって狭軌に合うカルダン類似方式の開発へと向かう。だから吊りかけ式には旧式という印象が強く刻み込まれてしまった。
おそらく国鉄の新性能電車、旧型国電という分類方法が決定的な影響を及ぼしたのでしょう。
しかし欧米、特にヨーロッパでは吊りかけ式は最終回答のようなものなので、取り上げ方が違うのではないだろうか。
ドイツでは吊りかけ式の電車は1980年代まで製造が続いた筈です。
日本の電車では吊りかけを止めることはコスト増に勝るメリットがあったに違いなく、それは高速走行時に貧弱な線路への追従性を高めることではなかったか。
では「現時点」で、吊りかけを忌避する理由は何だろう?
60kgレールなど重軌条の通勤電車が、部品点数の減少により一層の低コストになりはしないのだろうか。昔のような歯車の音がするのだろうか。 ひょっとして近鉄って面白いのか?旧型車の時代が気にかかる。
特に伊賀線が、あまり類例のない経過を辿って面白い。
伊賀線の貨物列車が盛業していた時代に飛びたい。
伊賀上野駅では国鉄の非電化の貨物側線に電化された伊賀線が挟まれていた様だが、電気機関車でどこまで入換したのだろうか? RMライブラリ淡路交通にて、瀬戸線の蒸気機関車の借り上げに触れていますね。短期間のことゆえ淡路側で撮られた写真が無いのは当然でしょう。
よく読むと1920年5月製造の機関車を1922年に借りており、ピカピカの新車だけれども瀬戸線側では必ずしも必要とされていない。興味をそそります。
セルポレー式の廃車も1922年ですし、この年に瀬戸線の完全電化が成ったのでしょう。
よくいわれるセルポレー式不調説ですが、やや誇張が過ぎている可能性があります。
本当に不動ならば1903年の開業時点で大問題になり、その時点での蒸気機関車の借入記録が無いのは不自然です。
瀬戸線開業時点では、時刻通りに運行できなかったかもしれないが営業運転が不可能なほどではなかったのではないか。
その後の1913年に休車、1918年に復活というのも整合性がある筈です。
1913年は「二つ目玉」の登場時期に重なり、ネジ式連結器のついたグループがセルポレー式の使用停止を可能にした。
復活というのが、謎ですね。電車も貨物も共に運行本数増加で客貨分離が行われたのだとしたら面白い。1918年に実施した例は他にあるのだろうか。
瀬戸電はその後ホギー車の増備など陣容強化が著しいので、旅客数は大きく伸びていると思います。
貨物輸送量も、デキ200型を購入するほどですから伸長著しい。車両の内容を見る限り著しい成長路線であったわけです。
1913年に貨車を電車牽引にしたのちも、現状の輸送量の伸びっぶりから見て蒸気動車は解体せず温存することになった。
案の定、1918年には電車が足りなくなりセルボレー式稼働再開。
でもセルボレー式が不調であることに変わりはない。そこで1920年製造の「二つ目玉」が貨車牽引のため50馬力モーターになっています。
同年には雨宮製蒸気機関車を一両追加することに。
で、なぜ1922年に蒸気動車と蒸気機関車がお役御免になるのでしょう????デキ200型の投入は1927年です。
1921年に地方鉄道に変更になっている点が、鍵なのかなと思います。
うろ覚えですが軌道法では、一両しか貨車の牽引は許されない筈。閉塞もないしブレーキ力も小さい。
そのため50馬力の二つ目玉も、その力を充分に活用できていなかったのではないでしょうか。
地方鉄道になった瀬戸線では単車が数両の貨車を牽く貨物列車が走り始め、セルボレー式は牽引力不足で運用から外れたのではないでしょうか。
その状態で1921年から1927年までを過ごし、さらに貨物の増加の気配がするのでデキ200型を入れて二度目の客貨分離を図った。
これで車両の移り変わりの説明になったでしょうか。
1913年から1927年までの十数年間、かなり、場当たり的といいますか、応急処置を重ねているように見えますが・・・・w
後のモ560型とデキ200型のまとまった数の投入で瀬戸線は面目を改めたわけで、その二両が揃って解体され失われる秋は悲しいものです。 伊賀線の上林駅と比土駅の間で、ため池の脇を通過する。路線内でも屈指の風景に、目指した人も多いのではないか。
車で行くもんじゃないね。酷い目に遭った。
上林駅から線路沿いの道を進むと堤の下に車が数台止められる小さな平場がある。
ここを通過してはいけない。駐車して徒歩で先へ進もう。
えっ・・・・車で進みたいって?いいだろう。
南へ進むと、池側が垂直に水面に落ちる、車一台分しか幅の無い道になる。その道が急角度で曲がってる。もう後悔しても遅い。
農地側が一段高く石積みの壁が仕上がっており、本当に車一台の幅しかあなたには与えられない。
やがて踏切に出るが、道路は線路に対し鋭角に斜めに横切り、その踏板は車一台分あるかどうか。
想像して欲しいんだが、線路と道路の交わる角度は30度ぐらい。かなりの鋭角だ。
それぞれが車一台分ほどの長さしかない木角材が数本、道路の方向に合わせてカクカクと位置をずらしてレールの間に並べられている。
つまり、カクカクの部分だけ幅が足りない上に、端部が遠めに見ても腐ってるのが判る。
よほどの小型車でない限り、レールの間にタイヤが落ちる予感がする。絶望。
踏切の手前に転向スペースはなく、先ほど来た道をバックで戻るしかない。これが生き地獄か。
グーグルアースで見て欲しいんだが現地は耕作地が放棄されており、荒れて印象はかなり異なる。およそ人が訪れる場所ではない。
この区間には第三種踏切が二つ連続するが、特に上林駅から南へ二つ目の踏切は、線路を越えた地点から先が山林へ戻っている。
踏切までアプローチは出来るが、線路を越えた先へは徒歩でも侵入は難しいと思う。道のような凹みはわかるが、道だと理解したくない。
私は一歩も入る気がしなかった。この森の側に面した警報機も光っているのだろうけど、列車通過中に灯具が見える角度に人は入れそうにない。
無用の空間に向く警報器に、「超芸術トマソン」という言葉を思い出してしまった。
ちなみに電車は速度を落とし、警笛を鳴らして通過するようだ。警報機が鳴るとはいえ遮断機の無い踏切が二つ連続するからか。
もっと南側の、線路も峠を越えて古都地区にあるため池の縁を伊賀線が通る。
きつい勾配に加え通行量の多い車道が遠ざかり、モーターの音も聞こえるに違いない。
でもこちらは接近できる道が無さそうだ。車道どころか細道さえ無さそう。200mは藪を進まないと堤まで出られそうにない。
電車から見るとかなり良さそうに思えるんだか、堤からは何が見えるんだろう。
この辺りは詳細な地図に道があっても現地に存在しないことが多く、耕作放棄地もあって過疎を感じる。
しかし堤には藪はなく、年数回の草刈りがしっかりと行われているのでしょう。そういう機会しか踏切を利用する人は現れないのではないか。
問題の堤も草刈りは万全で、ということは道がある?? >>383
>日本との違いは、ブフリー式などから類似の、車軸に巨大なモーターの荷重を載せない方式が何十と試されたこと。
1980年代後半に鉄道ファン誌で「スイス電機のクラシック」という連載があり、試行錯誤の様子が解説されていましたね。
「鉄道ファン」の1987年4月号で、「スイス電機のクラシック」を書いている加山昭氏によると、スイス国鉄の技術陣 はCe6/8 II型の設計審査にあたり、
斜めロッド・ドライブ方式では高出力の動力伝達には不適であるとの判断を下し、複雑なスコッ チ・ヨーク方式を採用したとしてい bワす。
とbアろがこの判断bヘ根拠のないもbフとわかり、III型からは斜めロッド・ドライブ方式が採用されたそうです。
hirodas.com/swiss/gotthard06.html
>欧米から見ると路面電車サイズのような小出力のモーターを六個も使ってEF級に仕立て上げていた。当時の欧米にモーター六個ってそんなにないよ。
そういばミルウォーキー鉄道EP-2(バイポーラ)は回転子が車軸にあるダイレクトドライブでした。
>日本の電車では吊りかけを止めることはコスト増に勝るメリットがあったに違いなく、それは高速走行時に貧弱な線路への追従性を高めることではなかったか。
>では「現時点」で、吊りかけを忌避する理由は何だろう?
ばね下重量が軽減されるので路面追従性が向上するだけでなく、軌道破壊が抑えられるので保線周期を伸ばすことができることも一因ではないでしょうか。
>60kgレールなど重軌条の通勤電車が、部品点数の減少により一層の低コストになりはしないのだろうか。昔のような歯車の音がするのだろうか。
鉄道総研では上述のダイレクトドライブの現代版が試験されていたそうです。
歯車が不要で静かになり整備が軽減されるそうです。
CDプレイヤーやレコードプレイヤーだけでなく、最近は電動自転車にもダイレクトドライブがあり、輸送機関連ではダイレクトドライブ化が波及しつつあるようです。
xtech.nikkei.com/dm/article/HONSHI/20060730/119684/ バイポーラは心に刺さります。
メーカーは成功だと自己評価し、事実長命でした。
車体更新までして使い続けたのはミルウォーキーの貧乏な台所事情も関係するのでしょうけど。
でも、同類の機構を採用した会社はないという不思議。
これが東海岸、ペンシィかNYCに現れていたら、もっと広まったか、あるいは欠陥も認められたか。
模型も持っていますけど、良くて大物車、悪口でムカデの様な足回りが堪りません。異様な構成の車体もあって決して格好良くはないw
貧乏ミルウォーキー、バイポーラ運用区間では単線に見える橋梁がガントレッドであったりします。橋の前後は通常の複線なのです。
橋梁は単線幅で架ける。そこまで貧乏を極められるのかと感心します。 余裕がないからこそダイレクトドライブならではの歯車による減速機構が不要なので歯車の摩耗、交換もなく、整備が比較的楽だったことも長命だった一因かもしれませんね。
東海岸の鉄道会社では余裕があったので他の車輛との互換性の乏しい方式の機関車は広まらなかったのかもしれません。
今の時代ならパワーエレクトロニクスが発展しているのでダイレクトドライブは再び脚光を浴びる可能性もあります。
例えば、タルゴのような左右独立車輪で軌間可変式の動力分散式の車輛を実現しようとすれば事実上、他に選択肢はなさそうです。 バイポーラを取り巻く事情はかなり複雑です。
技術資料が大変に少ないのですが、以下の仮説を考えています。
まず長命の原因はミルウォーキー鉄道が、電化区間に対し自家発電を行い、電化区間に近接して水力発電所を持つがゆえに原価で電力を供給でき、効率の悪い電気機関車を許容できたため。
電化区間はロッキー山地であり、豊富な雪解け水を比較的簡易な導水管の工事で発電に利用できたらしいんですよ。
発電能力の限界と送電線を設けないことでロッキー山中でも電化区間は二か所に分かれておりました。
効率の悪さ。
バイポーラって何かわかりますか?電動機の回転子が二極であるということです。
これおかしいですよね。モーターは三極以上なければ回転をはじめることが困難になるはずです。簡易な工作教材のモーターでもスイッチで回転し始めるのは三極から。
二極の教材は、回転軸を指で回さなければ始動しないはずなんです。回転子と固定側の磁石の位置の問題です。
機関車の動輪は動きますよね。バイポーラだって動輪の上下動を板バネで制限し支えています。
磁力は数センチでも距離が変わると大幅に減衰します。動輪の回転子と車体側のコイルの距離関係が変動すると、まともに走れません。
ですからバイポーラ、車体側のコイルは車両進行方向に限られ、動輪の上下には(車軸が上下するがゆえに)何も設けられないのではないか。
バイポーラの二極モーターは、動輪が一回転する間に二回しか出力を発揮できません。回転子が二つしかない、それが180度の位置にあるのです。
この甚だしい出力の凸凹が、多すぎる動輪の数をもたらします。
バイポーラには動輪が14個もあります。これはなぜか。
電動機一つ当たりの出力が小さいことと、位相をずらすためではないか。
車輪は空転しますので、走行中にモーターの位相はバラバラになるでしょう。
位相がずれますから、360度を14分割したようになり凸凹は均されて、機関車としては歯車の音もなくスムーズに走る。
でも、起動時は???
起動時には、たまたま停車時に最大出力を発揮しうる動軸が14軸の中にいくつあるのか?という問題になります。
下手すると1割強しか力が出せないこともありうる。そうなると、空転します。
起動時には多くの動輪が空転し、最大出力になる場所で停止、多くの動輪の足並みがそろったところでようやく加速を始めるのではないか。
初動時はゴンゴンと連結器に響く出力の凸凹があり、やがて位相がズレて巡行体制になる。
以上を踏まえるとバイポーラ、電力効率は恐ろしく低かったはずです。特に起動時は発電所に負担を強いたことでしょう。
他社では相手にされないかと思います。 >>390
起動すれば問題ないということ?
アメリカの駅間距離を山手線レベルでイメージしてるの? >バイポーラって何かわかりますか?電動機の回転子が二極であるということです。
かつてマブチミニベビーという指で回すと回転を始めるモーターがモーターがあったことを思い出しました。
>これおかしいですよね。モーターは三極以上なければ回転をはじめることが困難になるはずです。簡易な工作教材のモーターでもスイッチで回転し始めるのは三極から。
>二極の教材は、回転軸を指で回さなければ始動しないはずなんです。回転子と固定側の磁石の位置の問題です。
↓英語版のwikipediaのEP2のリンクを辿って2極モータの記事を読んだところ、以下の下りがありました。
The 'bipolar' term refers to the stationary field of the motor, not the rotor. The rotors often have more than two poles, three for a simple motor and potentially more for a high-power motor. A two-pole rotor has the disadvantage that it is not self-starting in all positions and so requires to be flicked to start.
en.wikipedia.org/wiki/Bipolar_electric_motor
「バイポーラ」という用語は、回転子ではなくモータの静止磁界を指す。回転子は2極以上あることが多く、単純なモータでは3極、高出力モータではそれ以上ある可能性もある。
2極の回転子では、すべての位置で自己始動しないため、始動するためにフリック操作が必要であるという欠点がある。
回転子は整流子を介して励磁されるので3極以上あった可能性もあるのではないでしょうか?
以下引用
このシステムの複雑な点は、サスペンションの移動に伴ってアーマチュアがフィールドに対して上下に自由に動けるようにしなければならないことである。
現代の4極モーターでは、上下極のポールギャップが変化し、おそらくアーマチュアがポールピースに当たってしまう(サスペンションの移動量は一般的なポールギャップよりはるかに大きい)。
そこで、比較的古くからあるバイポーラモータに戻すことにした。ポールをアーマチュアの側面に配置し、平らな垂直面を与えることで、アーマチュアがポールの間を自由に上下することができたのである。
このモーター設計は、当時の基準から見ても比較的効率の悪いものであったが、これらの機関車は、効率を重視して設計されたというより、安い水力発電の電気をふんだんに使って、
そのパワーと運搬能力を発揮するために設計されたものであった。 どうだったんでしょうかねえ?私にも判らないんですよ。電気関係は苦手なんです。
動いた、長年よく働いたことまでは判りますが、短所など語れるほどの確実な材料はないんです。
この機関車ほど不思議な存在は見当たりません。ミステリアスです。
バイポーラモーターの英語版記述を見ると、予想は近いんじゃないかと思いますけど。(車軸の動きや水力発電との関係など)
確かに回転子が多極であれば、起動に心配は要らなさそうですね。
モーターは軽量小型小出力でょうから、12軸(先従輪ありました。)もの動軸の説明もつきます。
「バイポーラ」というカテゴリーに多極の回転子が含まれるのか、という点が判らない。
マブチFA-130は永久磁石(磁界)が一組相対していて三極の回転子ですよね。
ケース側の磁界が一組で相対している事なら際立つ特徴ではない、と思う。でも電気機関車のような分野では巻き方が違うのかもしれない。
二極回転子にありがちな死点?があるということ自体がおかしい。たとえ12軸あっても最終的な解決ではない筈です。
いつかはC53型蒸気機関車のように起動不能になる。C53型だって理論上言われるだけで滅多に起きてない模様ですが。
二極の回転子を束ねればいいという原始的で野蛮な発想が、できるものだろうか。
色々記事を読むうちに謎は深まりました。NYCのSクラス電気機関車もバイポーラだそうで。
前から見ても横から見ても凸型という、戦前のブリキの玩具に好んで遊ばれた逸品です。
今までこの機関車を追いかけて来ませんでしたが、「急加速と減速が可能で」 「コミューターレールに理想的」だそうな。
オマケに動輪は四つらしい。旅客専用らしいですけど。
私にとってバイポーラは失われた遺物扱いなんですよ。 >>394
疑問点をダラダラ書くんじゃなくて、
どっかの質問箱に投稿して、回答もらってからまとめだけ書き込んでくれない? 言葉足らずだったかね。
私にとっては判らない機構は趣味の対象なんですよね。
結論だけ寄こせという人は単に趣味が合わないのだから、他のスレで楽しめばいいと思うよ。
特に機械要素で判らないことは多く、頭で空想は出来ても実際にモノを見ても、結果と一致すると思えず納得がいかないことが多い。
これが半導体のようにモノを見ても動作が全く判らないと興味の対象ではなくなる。
BASICなら興味があるが二進数の羅列になるとヒトには読めなくなるようなものか。違うか。
「今の有り様が勝ち残る前に試された、無数のアイデア」などというものは大好物ですね。
閃きの高揚感から他人の発明に負けて顧みられなくなるまでの物語が好き。バイポーラも熱っぽく語るGEのエンジニアが居たんでしょうねえ。
結論を急ぐ人とは本当に反りが合わないので、私を相手にしないで。私は結論ではなく物語を求めています。 違うだろ
こうやって過疎スレ占拠して適当にダラダラ書いてりゃ
そのうち誰かが構ってくれると思ってやってるだけだろ?w 独りでやってりゃ日記といわれw
反応があれば妬ましがられw
マイペースの邪魔がしたいだけの人よりは生産性は高いだろうね。
お前は価値を削るマイナスの人。 そして 1/80・16.5mmの HOゲージプラ完成品は益々増殖し続ける♪ あ、別に生産性も求めてないわ俺。
俺の求めない価値においてもマイナスなお前、なw アメリカの鉄道について大して詳しくない私が、ミルウォーキー鉄道と聞いてまず
連想するのが、"ハイアワサ"のしんがりを飾る流麗な展望車。
小学生時分、とある鉄道図鑑でハイアワサの後ろ姿の写真を見たとき、てっきり
あれは気動車がこっちへ向かって走ってくる場面、と思っていた(笑)。
それにしても、その"スカイトップ・ラウンジ"客車と、EP-2形電気機関車、
まさか同じ会社の所有物だとは…どうにも信じがたいですね。 >>394
>「バイポーラ」というカテゴリーに多極の回転子が含まれるのか、という点が判らない。
>マブチFA-130は永久磁石(磁界)が一組相対していて三極の回転子ですよね。
>ケース側の磁界が一組で相対している事なら際立つ特徴ではない、と思う。でも電気機関車のような分野では巻き方が違うのかもしれない。
>二極回転子にありがちな死点?があるということ自体がおかしい。たとえ12軸あっても最終的な解決ではない筈です。
>いつかはC53型蒸気機関車のように起動不能になる。C53型だって理論上言われるだけで滅多に起きてない模様ですが。
>二極の回転子を束ねればいいという原始的で野蛮な発想が、できるものだろうか。
「バイポーラ」(二極)というのは回転子ではなく、固定子が二極だったのでしょう。固定子が二極でもマブチFA-130と同様に回転子が3極であれば起動可能です。
www.youtube.com/watch?v=kPUt-3PBcp8
www.youtube.com/watch?v=ijQ44aXdyxc >>400
日記を見せびらかすのが趣味なんだろってのはとっくに指摘してるんだが
今さら何を焦って取り繕ってんだw スペインは鉄道が撮影禁止で、テロもあったので極端に動画が少ない。
の、はずだったんだが最近見つけた前面展望動画で衝撃。
PC枕木などが標準軌への改軌前提になってる!
スペインの広軌は標準軌の差が微妙に小さくてレール固定ボルトが干渉するから、三線軌道自体が難しいとか聞いたことはあるのね。
だからPC枕木のレール固定用ボルト穴が、広軌のレールの内輪に未使用の穴が開いている。
近鉄名古屋線とスケールが違う、すごい準備工事だよ。 >スペインの広軌は標準軌の差が微妙に小さくてレール固定ボルトが干渉するから、三線軌道自体が難しいとか聞いたことはあるのね。
イベリアゲージは1668 mmなので標準軌とは233mmの隙間があるので三線軌道は十分可能で実際にそのような路線も存在する。
commons.wikimedia.org/wiki/File:Track_gauge.svg
>近鉄名古屋線とスケールが違う、すごい準備工事だよ。
近鉄名古屋線の時代はまだ木製の枕木を使用していた。
国内でも青函トンネルの3線化の時には予めPC枕木に準備されていたので比較的短期間でできた。 >>407
近鉄名古屋線もしゅうとうに準備はしてあって、
伊勢湾台風で前倒ししただけだしね。 難しさの評価はそれぞれなんだろうけど、レール底面幅が150mm近いところで233ミリの差というのは充分に狭いと思うよ。
枕木に固定する犬釘やボルト類を二組、約80ミリ~90ミリの間に納めねばならない。
JRのPC枕木を見ていても、同じものを40ミリじゃ無理でしょう。
スペインではPC枕木の幅を全て使い切り、金具類を互い違いに納めているみたいだ。
木枕木でレール取付位置を端に寄せたり材自体の幅を広くするのは無理だろう。
同じく動画ではポイントフログを一体鋳造していた。
いわゆる弾性ポイントではないらしいリードレールの関節部は痛々しいような狭苦しい収まり。
まあ、その難しさの評価は人それぞれであることは認める。 大阪窯業セメント伊吹工場専用線を発展させて小さな電鉄の幻影を見ることは出来るか。
ないものは無いんだからないんだろう。uruseee!
岳南鉄道のように、迷惑施設地元民対策として専用線を北に伸ばして旅客営業を始めさせる。上武鉄道のような感じになるか。
ベルトコンベアに並行させて、鉱山直下の集落まで伸ばすか。
スキー場開設を見据えて旅客営業を始めるが、スキー場直結は集落の反対を受け500mほど土産物店の間を歩かされる。
専用線は1952年開業、スキー場は1956年開業。
1956年に専用線の車止めから200mほど真っすぐ延伸。未舗装の県道を踏切で斜めに横切る。当時バイパスは存在しない。
周囲の地形がせり上がる中で、掘割の底のような立地。終点「伊吹山駅」は上野集落の南の縁にある。
機回し線はなく棒線にホーム一面のみの終点で、数段の階段を上って小さな駅本屋と県道に面した広場がある。
当駅から東海道線に接続する「近江長岡駅」まで、途中に「工場前」「高番」の二駅を置く。いずれも棒線で交換設備無し。
総延長は3.9キロしかないミニ私鉄。途中で堂々とセメント工場内を横断し、左右から背の高い工場建築と荷扱線に挟まれる。
地元への見返りなので、工場が操業している間は廃止の心配はない。
開業から昭和50年代までは冬季スノーシーズンには大盛況で、昼間はピストン輸送をしていた。
北陸道の延伸で遠方のスキー場に客を奪われて衰退がはじまる。それでもバブル期までは、冬季の賑わいは健在であった。
全盛時の冬季に走る客車列車が白眉であろう。国鉄から借りた61系の四両編成。
先頭に立つはもちろん「いぶき」号。蒸気暖房はないので室内の座席をいくつか外して火鉢がおいてある。
近江長岡駅の国鉄駅改札を出て徒歩百歩、機回し線のある伊吹電車の近江長岡駅は狭いが人で溢れている。
一日リフト券と往復乗車券がセットになったものが飛ぶように売れている。
シーズン時には毎時一往復の客車列車に混じり貨物列車も走る。(機関車が足りねーよw)
シーズン以外に走る電車は一番長いもので15m級という、ミニ電車の小世帯。
終点まで約10分。終点では到着後ただちに工場内から別の電気機関車が来て近江長岡方へ連結される。
そして出発後、ポツンと取り残された電気機関車は工場内の機関庫へ戻って行く。
どう考えても「いぶき」が四両、要るな・・・w
冬季だけ近傍の会社から借りてくるとか。そうなるとED14型などと言う可能性も。
旅客営業時にスキー場経営とセットで、乞われて近江鉄道が大阪窯業セメントと半々で資本参加したとしよう。
元々天王寺駅で勾配を上り下りしていたロコ1100型が転属したりして。
現実では近江から上田を経由して銚子鉄道へ譲渡された超小型電車は、伊吹山で大切に使わせてもらおう。
末期にはスキー客も激減。インターチェンジから近いのに駐車場が足りない。東海道線に乗ってスキーに来る人もいない。
長距離列車が減り、スキー道具を抱え米原駅の跨線橋を渡って隣のホームへ乗り換えを強いられるという面も嫌われた。
終日、全長10m程度の小さな電車が往復し続けるだけ。
果ては午前と午後の一日二往復。やがて工場は操業を止め、電車も走らなくなった。数年してスキー場も閉鎖された。
主要なキャラクターは鉄コレで揃う点がいいね。阪和の入換機だけは贅沢か。なぜ製品化されないのだろう。 >>410
>木枕木でレール取付位置を端に寄せたり材自体の幅を広くするのは無理だろう。
京成の馬車軌から標準軌への改軌は木枕木でやったんじゃなかったっけ?
車庫線なんかの後回しにされる部分では、差が少ないのを
逆に利用してそのまま改軌前にゆっくり走らせて凌いだり。
>同じものを40ミリじゃ無理でしょう。
太さ何ミリの犬釘を使っているのかと。
まあ軌間センターをシフトさせた方が楽かもしれないけど、ホームのある日本では難しいかな。 西濃鉄道ですが、しばし考えた末に絡むことは無いと判断しました。
出来る限り史実を利用しながら嘘をつきたいことと、資本関係とノウハウの問題。致命傷が電化。
近江鉄道、伊吹山スキー場を実際に経営しておりました。ですから嘘は部分的なものになります。
1950年代半ばに地元集落が保障として鉄道を求め大阪窯業セメントが専用線を現物提供すれば、有り得た話だと思います。
10年経過してしまうと観光バスの時代になります。
次に西濃鉄道の株主の問題。金生山周辺で石灰採掘業を営む企業が西濃鉄道の主要株主です。
大阪窯業セメントの立場に立ってみてください。なぜ輸送ルートを同業他社の影響下に置かねばならないのか。
金生山系企業の接近(出資)を、とても強く警戒すると思います。
近江鉄道は滋賀県最大の私鉄であり、50年代には既にコクド滋賀営業所のようなものです。さらに電化の経験が長い。
大阪窯業セメントから見ても非常に魅力的な相手です。西濃鉄道との競争力の差は比較不能だと思いますよ。
地元住民から見ると、戦前から軽井沢などで実績あるコクドの名刺の価値は重い。実際に営業開始に至ってますし。
最後の致命傷ですが、西濃鉄道は勾配も緩く無煙化の時期も遅く稼働状態のB6型を後世に残せたほどです。
専用線がある時代のいつであろうと、彼らが伊吹山を訪れても何もできることがありません。
ところで最近の西濃鉄道、ダークサイドでイイ味出てますね。ピンク色のDD451型には驚きました。 >>414
西濃鉄道は旅客営業もやってたよ。
小さな電鉄の幻影そのまま。
残念なのは小さすぎて話題になることすら少ない。 ttps://youtu.be/Y0xJbyOOLw0
懐かしくて、涙が出そうなほど。
これこそが小学生時分に私の見ていた"瀬戸電"だ。
ガソリンカーくずれの2221,2222がまだ元気だったから、昭和45〜47年頃か。
この当時、緑色の"一般車"にはドアエンジンが無く手動扉だった、
オール2両編成…否、単行運用もあったぞ…の懐かしい瀬戸電。 緑色が明るく感じますね。
瀬戸線は不思議な路線です。単に孤立した路線なら他にもあるが、保護?している大手私鉄が当時超貧乏であるケースはない。
それなのに全区間複線の都市近郊路線だというアンバランスさが堪らない。
わずか3両の蒸気動車で始まるとは、想像の限界の向こう側にある。 瀬戸線が独立したまま。
さらに旧名古屋鉄道と愛知電気鉄道が合併せずに共に大手私鉄扱い。(この世界軸では旧名古屋鉄道はそのまま在り続けるので説明しづらいw)
名古屋に私鉄が、近鉄含め四社という世界観は魅力的。果たしてパノラマは自然発生するか?w >>418
> 瀬戸線が独立したまま。
どうかな?
確かに現状の瀬戸線(栄町〜尾張瀬戸)なら独立採算でも十分成り立ちそうですが
史実を見る限り、名古屋市交通局(地下鉄)との関係は避けて通れません。
場合によっては栄乗り入れどころか、大曽根から都心寄りは存続できたか否かも
危なかったのですから。
事実、地下鉄名城線計画時に瀬戸線の大曽根以西を廃止して地下鉄に乗り入れる
と云う案も検討されていたとか。
(ま、その煽りで名城線がもし3ft6in・架空電線式で造られたら? と仮定するのは
それはそれで面白いのですが。笑)
> さらに旧名古屋鉄道と愛知電気鉄道が合併せずに共に大手私鉄扱い。
> この世界軸では旧名古屋鉄道はそのまま在り続けるので説明しづらいw)
もし、現名鉄の岐阜・犬山方面と、豊橋・知多方面とのスルー運転がなかったら
名古屋の都心近くに、阪急梅田or南海難波級の大ターミナル駅が二つ要りますね(笑)。
尤も地下鉄鶴舞線のような事例は、たとえ旧名鉄(名岐)と愛電が別会社であっても
東京メトロや都交通局がやってるように“三社直通”で無問題でしょうが。
> 名古屋に私鉄が、近鉄含め四社という世界観は魅力的。果たしてパノラマは自然発生するか?w
それより、近鉄が今の枠組み(大軌・参急が伊勢電を取り込み名阪間を結ぶ)に
ならなかったら?という可能性を私は妄想したくなってしまいます。
伊勢電を大軌系でなく、旧名鉄(名岐)もしくは愛電が取り込む可能性を。
旧伊勢電区間が史実通りの“近鉄名古屋線”ではなく“名鉄伊勢線”だったら?
まっ(笑)もしそうなると名古屋近辺云々よりも、津〜松阪〜宇治山田の辺りが
スゴいことになってそうですが。 旧名岐プラス伊勢電鉄というのはとてつもなく魅力的ですよね。
竹鼻線から養老線の接続もおちょぼ稲荷経由で実現一歩手前であったとも言いますし、濃尾平野各地から伊勢神宮へ直通しうる。
で、サングウキュウコウが上手く行かないとなると、京阪系名古屋急行に融資してくださる銀行も出てくるわけですよ。
もうカオスですが、名古屋急行は金山へ乗り入れて愛電と親和性が高い計画だとも言われます。
ボタンのかけ違いで、現実と全く異なる勢力地図に。 日本の鉄道模型はまた周回遅れ
カトーがOO9の蒸気機関車を突然リリースした原因は、中華製国際資本バックマンがOO9で攻勢をかけていたから、なんですね。
半世紀もの時代遅れな製品しか無いPECOには対抗しうる術が一つしかなかった。カトーにOEM供給を乞うたわけだ。カトーも勝算ありと見た。
それぐらいバックマンの製品群は充実してるぞ。
で、バックマンのラインナップを見ていたら凄いものを発見。
ループ式の引っ掛けカプラーに磁石を仕込んで遠方でのハンドフリーのアンカプリングを可能にしている。
しかもNEMポケット採用の単体パーツがあって、つまりNゲージの一部製品にもソケットで装着可能。
ナックルカプラーと信頼性の高さは比較できる材料が無い。でも左右動のナックルより上下動のループタイプの方が合理的に見える。
知らない間に大きな動きがあった、のかもしれない。 琴電長尾線の最終目的地が面白過ぎる。本気であったのだろうか?
年代を調べると国鉄高徳線の建設開業が遅すぎる。高松電気鉄道による高徳間の開業は可能であったのではないか。
ケース1
あるいは白鳥本町まで開業してしまい、首尾よく吉野川河口を済ませた阿波電気鉄道とのミッシングリンクの開通に挑む。
接続し高徳電気鉄道となる。同区間の国鉄線の計画は棚上げ。
しかし、戦時買収は免れないでしょう。高徳型買収国電に与えられる形式は何だろう。電気機関車もあるのでしょうね。
ケース2
阿波電気鉄道が育たない場合。
白鳥本町まで開業後に、国に買収される。国鉄の手により残り区間の建設が行われる。
現実の高徳線との交差部分から高松駅側は、国鉄の手により建設される。
志度線の戦中の営業休止区間は存在しない。
高徳線の旧高松電気鉄道区間の車両限界は広げられ、戦後まもなくから17m級旧型国電が入る。
徳島電化も比較的早く、電車の無い県という汚名?はない。
史実ではおそらく高徳線が具体化したことから長尾以遠への意欲が失われたのでしょう。
しかし、予算がつかず、そして国は私鉄建設を促し開業後に必要あれば国有化するつもりであったなら?
高松と徳島の間の流動は、どれぐらいあったのだろう? 四国面白い。改めて調べると面白い地方ですね。この先のJR線は大変ですけど。
人口や経済規模と比べての私鉄の元気さが良い。 Delay and Block と言うyou tubeのチャンネルが面白い。
数日前は元SPのSD9に現役機がいると言う動画で、よくもまあこんなに汚い機関車をそのまま使うものだと恐れ入る掟破りの汚さ。
SPは機関車が汚いことで有名でファンの間でお株を下げていたのだけれども、その元SPである事がわかる程に塗り替えてない・・・。
SP時代のナンバーすら隠せていないパッチワーク修繕。
地上作業員の定位置だけは整備されているし、黄色の反射帯は法令によりやむを得ず?つけたものだろう。
このチャンネル、翌日に取材した鉄道の貨車の脱線を目撃して現場よりレポしている。
面白い団体だ。 海外の鉄道模型ショーの映像ばかり見てる。
ホーンビィがTTを初めていますね。やはりというかマラードが看板商品。
手にした感じは想像するしかないけれども、ちょっと興味はある。
OOの様なトイライクな遺産はなく、Nゲージほど省略されてはいない感じはする。 ホーンビィのTTスケール展開はPECOと連動しているようだ。
PECOは現時点で貴重な独立資本大手で、生き残りに懸命ですね。
ホーンビィの台所事情を調べたら、旧東ドイツなどを地盤にTTで商いを続けているようだ。懐かしきDRの新製品があるとは思わなかった。
だから今回のイギリスへの展開も、製造ラインというか設計手法は全く同じだろう。
TT120という名前を付けている。これが実は凄いことになると思う。
イギリス型鉄道模型で、量産品で初めてゲージとスケールが一致するんじゃないでしょうか??という話。
ホーンビィのHPではその件に一言も触れてないけど、大昔からある英国型TTゲージはゲージとスケールが一致しなかった。
(英国流に3mmスケールと呼ぶらしい。存在感はない。)
イギリスの媒体も特に触れてないようだし、ホーンビィの宣伝動画でもそれっぽい下りは無さそうだ。
EMゲージだと思うが、ごく一部の人以外には一致など特に重要なことではないという事か。
凝り性に寄り添う姿勢を見せたら、一般大衆を遠ざけてしまうのかもしれない。(どこの国とは言わないがw)
大手国際資本による新スケール展開は常に「ちゃぶ台返し」を目的とする。
OOゲージもNゲージも自社他社交えて長い間に製品が出過ぎており、どんな売れ筋製品にも有名な先代があるという熟した市場。
先代製品との差別化が難しくて売れるものが作れない。
しかし、新スケールならば、流行言葉でいう処の「ブルーオーシャン」になる。
ホーンビイは新規展開リスクをカバーするためもあろうが、イギリス型をするに避けて通れないメジャーな売れ線を初動でぶつけてきている。
ブルーオーシャンにはリスクもありますが、売れ線を押さえて市場を長く支配し続けることができます。
熟しきったOOに新規参入を図るヘルヤンが、ロンドン地下鉄という超マイナーで未開拓なニッチ路線を選んだのと、鮮やかな対比を見せます。
なんで気にしてるかというと、「日本市場」の問題を考えてしまうわけ・・・・。
日本は世界でも大きな鉄道模型の市場だけれども、熟したスケールとゲージが寡占状態にあり、いわゆる「レッドオーシャン」状態にあります。
つまり、ブルーオーシャンを開くだけの資本力のある存在が海の外からやってくる可能性は、実はあるのです。
突然大攻勢をかけてきた中華製HOスケール12mmが売れ線を日本企業より先に抑えてしまうという可能性も、あるのではないでしょうか。
ストレートにバックマンブランドで、「夢見てきたプラ製HO日本型」が店頭に並ぶ可能性です。
そうなると面白いと思います。ブラスモデルのイモンや、所詮ミニカーのディアゴとは訳が違います。
ホーンビィTTの見本を見る限り、中華製だからなどと言って侮っていると負けると思います。(何に?w)
問題は為替ですよねえ。 >突然大攻勢をかけてきた中華製HOスケール12mmが売れ線を日本企業より先に抑えてしまうという可能性も、あるのではないでしょうか。
>ストレートにバックマンブランドで、「夢見てきたプラ製HO日本型」が店頭に並ぶ可能性です。
是非やってもらいたいですが、日本市場は規模が欧米よりも小さく、バックマンは天賞堂の下請けなので客の機嫌を損ねるような真似は迂闊にはできないでしょう。
とはいえ、500系新幹線は欧米ではバックマンブランドで販売されているようですし、
業績不振や後継者難の日本企業を傘下に収めて事実上子会社化することで日本企業に成りすまして参入する可能性はあるかも。
試算すると、1形式毎に金型が1千万円かかるとして、蒸機は下回りの部品をある程度流用できるので主要な形式を揃えようとすれば仮に20形式で1憶5000万?
電機も主要な形式で旧型電機の場合には台車や動力を共通化しても20形式で1憶5000万?ディーゼル機関車はDD13、DD51、DE10、DF50、DF200の5形式で5000万はかかるでしょう。
蛇足ながら、エッチングとロストワックスのブラスモデルであれば金型が不要なので1形式毎の初期投資は100万円以下に抑えられます。人件費の安い国で組めば1輌3万円以下も可能でしょう。 できてないことはできない合理的な理由があることはごもっとも、なんだけどね。
欧米全体ではなくイギリス市場との比較。人口比から見てイギリス市場が日本よりも大きいとは思わない。それに2本以上に成熟し切った市場に見える。
天賞堂とバックマンの資本を比べるとバックマンの圧勝。比喩するならばカトーとホビートレインの関係に近い。
カトーはドイツ型などホビートレインが現地窓口である間は利用するが、いつでも関係を切れる。
バックマンはいつでも天賞堂との関係を切れる立場にある。いわゆる日本国内の下請け構造ではない。
ホンビィTT120の展開を見ると初動で大型蒸気二形式、ディーゼル一形式しか出してない。
20も出すのに5年以上かかるのではないか。その間の投資が一億五千万なら正直言って安過ぎる。その十倍でもイケるんじゃないでしょうか。
ブラスモデルは一部の人にしか広がらない。
ちゃぶ台返しのターゲットはNゲージであり、生産量が多くなければ成り立たない。
トミックスもカトーも5年で十億ぐらい使ってると思うんだけどね。
まぁ、現に出来てないことが大切だね。
しかしホーンビィTT 120も今年本格スタートだ。そういう実例があるから考えたのですよ。 >トミックスもカトーも5年で十億ぐらい使ってると思うんだけどね。
売上高の推移を見ると金型を内製する企業において年間2憶の投資というのはあながちあり得ない数字ではなさそうですね。
K社売り上げ
30億5,100万円 (2006年5月期)
40.8億円 (2011年)
55.5億円(2020年)
www.tokyo-cci.or.jp/sansei/chizai100/sekisuikinzoku.pdf
www.itmedia.co.jp/business/articles/2102/05/news040_2.html 現にないってことは何か見落としがあるんだろうし、有無で議論しても始まらない。
ただ、黒船来航(元寇かもw)の可能性はゼロにはならないし、外国が日本を見落としているわけでもないという事です。
既存市場に入るのならば既存規格を選ぶのは当然です。日本企業が海外に製造委託する例はあり過ぎるほどある。
でも、既存市場の制圧は無理です。同業者が多過ぎ、歴史が長過ぎで新参者にチャンスはない。
大きな資本は既存市場を破壊する覚悟で、新しい規格で来る筈です。
そういう意味では日本の現状はスキが丸見えだとは言えるかと思います。別に油断してるわけではないでしょうけど。 元はと言えば、蒸気機関車はイギリスに限るよねえと動画を漁っていたことからどうしてこうなった。
B6型は見る角度を選ばず美しい。
英本土で探せば、パニエタンクと呼ばれる一党が特に好きです。日本で採用例が無いのですけど。 Pannier tankってカタカナ表記だとパニアタンクが一般的では?
ネイティブの発音だとパニエにも聞こえる 確かに、鉄道ファン紙かと思いますがバーニアタンクとあった様な?
動画ですとパニエって聞こえました。ワンパニエとか。
以前から好きなのですけど、模型はすぐに粗探ししてしまうので怖くて一両も持ってません。
アスターがライブスチームを出した時は転びそうになりました。転んでおけば良かった。 >動画ですとパニエって聞こえました。ワンパニエとか。
アスターの説明書にもパニエと書かれていました。
>転んでおけば良かった。
以前、中古で10万円くらいで売られていたのを見ました。
ヤフオクに出品される時もあるようです。 10万は商品としては安いですね。私には高いw
アスターはビッグスケールですが設計センスが良いのか、一番破綻が少ないように見えます。
様々な色を纏い、かなりの数が輸出されたみたいですね。今もイギリス国内で検索すると店頭在庫が見つかりますが、なかなかいいお値段で・・・。 あの機関車は繊細で固着して動かなくなる場合があるようです。
www.mylargescale.com/threads/aster-pannier-lockup.92776/ 蒸気機関車は原理的に低速からの引出しに強い。蒸気の膨張に関わるからだとされる。
とはいうものの、小型のライブスチームの走り出しの弱さは定評?ありますよね。
実物とは異なる重量や走行抵抗と出力のバランスの悪さかと思いますが、低速の弱さは明らか。
小型ライブスチームの動画は大抵、物凄い勢いでぶっ飛んでゆきます。
眺めていると、走り始めを手で補助していることも多い。
大きさの多少の違いでは、走行抵抗の元となる軸受けなどの数に大差がないからじゃないでしょうか。
ヨーロッパの安いマシンオイルには、経年変化で琥珀のような硬い塊となるものがあります。
以前、中古品を輸入したら足回りが化石のように固められていて大変な目に遭いました。
透明な琥珀のようになった油分を針先で刺して割って、歯車の歯の一枚分だけ廻して次の琥珀を取り除く。
動輪が一回転するまでこの作業を続けました。前オーナーは動きが渋くなるたびに物凄い量を注油していたみたいです。
だからたっっぷり注油して放置すると、大変なことになることもあるかと思います。
HOサイズでは過剰な注油品を見ること自体が稀ですけどね。 >蒸気機関車は原理的に低速からの引出しに強い。蒸気の膨張に関わるからだとされる。
>とはいうものの、小型のライブスチームの走り出しの弱さは定評?ありますよね。
>実物とは異なる重量や走行抵抗と出力のバランスの悪さかと思いますが、低速の弱さは明らか。
>小型ライブスチームの動画は大抵、物凄い勢いでぶっ飛んでゆきます。
起動時の抵抗が大きいのは二乗三乗の法則により仮に大きさが1/10になればシリンダーの容積は1/1000、車輛の重量は1/1000、接触面積に比例する摩擦は1/100で
エンジン出力はシリンダーの容積に比例するので1/1000なのに摩擦は1/100で相対的に摩擦による損失が増えます。また、シリンダーの単位容積毎の表面積が10倍になるので放熱による凝結も増えます。
したがって、起動時にシリンダーが温まるまで出力が低い状態が続きます。また、一般的に動摩擦の方が静摩擦よりも小さいので動き出すと摩擦抵抗が減ります。
>眺めていると、走り始めを手で補助していることも多い。
車種によっては弁装置の簡略化のためにスリップエキセントリックやスリップリターンクランクを採用している車種もあります。
これらの車種は逆転器を備えておらず、停止した状態での弁のポジションによっては自己起動ができず、押した方向に進みます。 昨日上げられた凄い動画がある。列車通過を線路内に放置したカメラで撮るアイデアは古典的だが機材と着想が凄い。
カメラ部が小さいと思うのだが視点の高さがレール面と同じか、やや高い。
踏切の踏み板とレールの間の隙間のような距離感でレールに寄せている。
鉄のレールと車輪は変形しないため常に点で接している、知識では知ってはいるが実際には見たことがないその点が見える!
列車通過時に映像はスローとなり、鉄の車輪が点のシルエットを見せて次々に通り過ぎてゆく。
後半でレールが沈み込むような、いわゆる弱い線路で撮るところなど巧みであるし、さらに焦点浅く車輪に接近してゆく。
YouTubeにしては長編だが最後までとても楽しめた。 きょうは、ユーチューブのどうがをみました。
おもしろかったです。 戦前ドイツの電車や客車貨車は緑色が多い。
ところが模型は製品により濃淡様々な緑色があって面白い。
規格好きなドイツだけれども緑色の多様さは不思議だ。同じ形式でも模型メーカーが違うと、色調にかなり差が出る。
全体の傾向としては、大柄な客車に黒ずんだ、灰色のような緑色が多い。
小さな車両にはライトグリーンと呼んで差し支えないような明るめの緑色が目立つ。(もちろん真逆もありますよ)
これは、実物のトーンがバラバラで、製品化する模型メーカーのアレンジの手が入っているんでしょうか?
我が国の気動車の青色のように褪色し易いのか、あるいは塗り替えの間隔が長いので昔の緑色がいつまでも残っていた?
常にドイツとは犬猿の仲であることで有名なイギリスがまた、濃淡様々な緑色が大好きなんですよね。
蒸気機関車も緑色は多いし、戦後のディーゼル機関車など妻板の警戒色以外は深緑が定番。
(同じ姿形で地の色が青色の車両があるけど、何だろう?)
でも模型製品の緑色のバラツキは異なる鉄道会社や時代でも、ドイツほどでもない。不思議不思議。英国性塗料は昔から品質に優れており・・・まさかね。
どういう事が理解できないけど、模型にすると英独でほぼ同じ色調に見える緑色の製品がある。
平和な時期に同じ塗料メーカーから購入したか、色見本帳に互換性があったか。ドイツ人が英国製塗料を用いたか。
塗り替えの間隔の長さで先日面白かった動画が、最近撮影のアメリカの貨物列車にロックアイランド鉄道塗装が混じっていたもの。
よくある形式番号付近だけ小さな長方形で塗り替えて、あとの大半は錆びようが構わずラクガキまみれで放置という奴でしょう。
それにしても限度があろう。何十年前の廃業会社だ?ということで撮影者も大騒ぎでテロップまでいれていました。気持ちは判る。
アメリカ人の美醜の感覚が判らん。
日本は高温多湿であり保存車両も朽ちやすく、一般に現役車両のメンテナンスも熱心かつ丁寧で、つねに綺麗に見えます。 色の識別にはカラーピッカーが便利
Datacolor ColorReader カラーマッチングツール CR100
manuals.plus/ja/datacolor/cr100-colorreader-color-matching-tool-manual
Nix Mini 2 カラーセンサー測色計
note.com/zaganearwisroly/n/n1395de200aab
kanimcilegon.kemenkumham.go.id/web/63478etistytosty142889
Palette Pico(パレット ピコ)
www.swtoo.com/pico/ >>444
何が言いたいのか分からんので、短くまとめてくれる?
短くまとめると結局>>443ということ? ここは過疎スレを乗っ取った小学生(なみの知能の大人)が日記を書く所だからw 小型電気機関車の電動機の強制空冷って何が採用理由なのかな。
ED22凸型はコピー機まで含めて例外なくブロワーがついている模様だ。その実質的なコピー機である名鉄デキ300型もブロワー付き。
しかし英国製遠鉄ED28型は立派な台車を履いているのに強制空冷ではない。
三岐鉄道の電気機関車にもブロワーがない。と言うことは東武の電気機関車にもついていないのか。秩父はどうなんだろう。
電車用台車を履いていると、強制空冷の証である電動機と車体を繋ぐジャバラが取り付けられないのだろうか?
東芝戦時型は両方あるけれども、強制空冷は省略されているのだろうか?
国鉄電気機関車のブロワーの音は大したものだが、私鉄機では珍しい音なのかも知れない。
ED22型のコピー機である名鉄デキ370型にはついている筈なのだが、聞いた覚えがない。そもそも稼働しているのを見たことがないが。 >>448
自動車(オートバイ)のエンジンは空冷と水冷があるけど、
決まりなんかないけど? オートバイはね。
電気機関車の決まりを考えているんですよ。決まりというか自然放熱の限界はどの辺りであったのか、ですけど。 大正時代に輸入された英国製電機は故障が頻発したそうだけど
送風機を備えた車種もあったみたい。
ktymtskz.my.coocan.jp/yuge/hidaka6.htm
私鉄の譲渡後、軸重軽減のために送風機を撤去とある
西武では線路に合せて軸重を軽くするため、主電動機を冷す送風機を撤去し空気圧縮機を小形のものにするなどの改造を行なったので出力はかなり減ったが、
外形は運転室に窓を増設した位で殆ど変っていないのは嬉しい。
ktymtskz.my.coocan.jp/yuge/hidaka3.htm ありがとうございます。
無くても何とかなりそうな部品ですので、改造で失われることもあったんですね。
私は単純に長距離で連続した負荷が加わるときに、モーターの焼損を防ぐための装備だろうなと考えています。
ですから私鉄転属にともない外されることは納得できます。
アメリカのインターアーバン用電気機関車の組立図を見ると大抵ついているようで、ED22型もメーカー標準仕様だったのでしょう。
三岐鉄道のED22型は以前床下の写真を撮りまくっているんで、移設時の復元かと思いますが送風ダクトがついているのが判ります。
日本車両によるコピー機にはあるのか、蒲原の電気機関車が気になります。
スキー場に移設したときに台車だけ撮った画像はネットで見つかったのですが、データが荒くて拡大しても全く判らない。
東濃鉄道では機関車も電車も同じ台車だけどモーターの型番が違う。
東芝は、「判らないことがあればGEに聞け」みたいな部分が結構あるので略していない可能性はあると思う。
調べるには松尾鉱業の準同型機を見るのが良いのだろうが・・・・遠い。
台車の車体の間にカメラを突っ込むような撮り方をしないと判らない部分なのでネットでは判断できない。
性能表には出てこない部分ですので、気になります。 >>452
空冷エンジンの自動車も飛行機もあるよ。 >>452
> 自然放熱の限界はどの辺りであったのか、ですけど。
運用にもよるし車内に熱がこもらないよう作業状態の改善の意味もあるし、
機械部品の寿命を延ばす意味もあるし、メンテナンス性を考える部分もある。 >>455
知ってますよ、というか前提ですよ。456も基礎知識に近いかな。
問題は有無ではなくて、外観では同じ形態に見えるのになぜ?という部分です。
太平洋戦争中の戦闘機で型式も外観も全く同じに見えるのに液冷と空冷があったら、中身はどうなってるのと思うでしょ。 幹線用の電気機関車に必要な装備であることも判りますw
どうも、私が判らず興味があることを把握できないヒトが苛立ってコメントをつけていてくれるような?
何百字も重ねて余計な可能性を潰せば読まないだろうし第一書きたくない。塩対応ごめんね。 >>460
同情します。
面倒くさいでしょうから、あなたは最初から、
一字も書かなくていいよ。 わざわざ読む方が面倒くさいんだよねw
書く方は好きな時に書き散らして反応ゼロでも一向に構わない。
それを待って読んで返事書く奴の1割ぐらいしかエネルギー使わないんじゃないか。
反応ご苦労様です。 >>460
>どうも、私が判らず興味があることを把握できないヒトが苛立ってコメントをつけていてくれるような?
>何百字も重ねて余計な可能性を潰せば読まないだろうし第一書きたくない。塩対応ごめんね。
素朴な疑問でも調べてみたら奥が深い理由があったりするので興味深いです。
知的好奇心を刺激されます。 >>462
大丈夫、全部読まなくてもレス付けられる程度の内容だからw
>反応ご苦労様です。
嬉ション乙 工業製品はどんな分野でも、性能を極めると似てくるものだろうか。
たとえば航空機は発明されたときが最もバラツキが大きく、さまざまな試みが花開いてから時間経過とともにどんどん似てくる。
第一次大戦や戦間期は「間違い」「駄作機」が量産されて、最も楽しかった時代だ。
冷戦期になると、用途が同じなら形状は似てくるものだと旧東側が言い訳をしていたが。
遠鉄ED28型が面白い。何にも似ていない。役に立つので駄作とまではいわれないが追従する存在はない。
滅茶苦茶な形に思えるがメーカーの同時代の他の海外事例と並べてみると、違和感は若干薄まる。
まだ手探りで電気機関車も正解がいくつもある時代。ED28型に将来性を夢見た設計者もいたのだろう。
決して奇をてらっていたのではなく真面目に考えた正解のつもりであった筈だ。
優劣と正解が定まった後世から見ると、なんでこうなった?という扱いになるのが面白い。
試行錯誤の時代にたまたま、未来の正解を掴んでしまうことがある。それは当前の事として扱ってはいけない。
日立ED15型は先輪がない。ED16型に先輪がついたときに日立は悔しがったというが本当だろうか。
EF級の三軸台車ならば先輪が必要になるのだが、ED級ならば要らない筈というのが日立(と英国)の見極めだった。
鉄道省は慎重な姿勢で事に当たったため、国産第一世代電気機関車はいずれも保守的で拡張余地の大きな造りになった。
EF級は戦後EF58型まで基本的な構成を変えずに出力増強できたし、ED16型は後継こそないが様々な試験に使われた。
もし国産第一世代がED15型類似であったなら、どうなった事だろう。結果的に鉄道省は良い判断をしたと思う。
設計されたその時点の正しさと後世の評価は違う。後世からは正統と見做されない機械が私は好きだ。
造っているときは正しさを疑わないが、いざ余所と競争させてみるとダメじゃんこれ、という機械。
だから遠鉄ED28型の強烈な外観は面白い。決して正解ではなさそうなんだけど、こうして今も形がある所が良い。
近江ED31型だって、全面的に正しいと思って作っていたんでしょうねえ。間違いを作る奴はいない。 なんで模型板に書くんだろう。
実物の板で書くほどには詳しくないからかな?
模型作ってからこっちに帰ってきてね。
>>465 >日立ED15型は先輪がない。ED16型に先輪がついたときに日立は悔しがったというが本当だろうか。
>EF級の三軸台車ならば先輪が必要になるのだが、ED級ならば要らない筈というのが日立(と英国)の見極めだった。
>鉄道省は慎重な姿勢で事に当たったため、国産第一世代電気機関車はいずれも保守的で拡張余地の大きな造りになった。
>EF級は戦後EF58型まで基本的な構成を変えずに出力増強できたし、ED16型は後継こそないが様々な試験に使われた。
>もし国産第一世代がED15型類似であったなら、どうなった事だろう。結果的に鉄道省は良い判断をしたと思う。
同時期、路面電車では二軸式の車輛が普及しており、ボギー台車を備えた電動車も普及していた。
路面電車の開発をしていた技術陣が電気機関車にもボギー台車の採用を働きかけたことは想像に難くないのでは? 先輪は沼ですので、私は遠くから眺めるだけにしたいなあ。
特に一軸の先台車が隣の動輪を導く仕組みは世界に何種類あるのやら、状況は蒸気機関車のバルブギアにも似ます。
同じ場所に様々な方式が同時にあるような状況は、その時代に問題は深刻と見做されながら最良の手段が知られていなかったことを示します。
おそらく技術者の間でも百家争鳴ではなかったか。
だから先輪についてのスッキリとした説明は、先輪が必要とされた時代を正しく解説していないような気がするのです。いわゆる後知恵です。
有無についても方式についても、それぞれの場面ごとに贔屓の技術者の言い分に耳を傾ける必要があるのではないか。
機械の部品点数は一つでも少ないほど良いのは、鉄道が始まるより前から判り切ってます。沢山の部品を揃えるのは嫌です。
イギリスで初めて先輪をつけた奴は多分、動輪の誘導など考えていなかったでしょう。動輪を二つ連動させる発想がなかっただけ。
そのうちにサイドロッドが一般化し全車輪の動輪化が試みられスピードが上がってから、進路誘導をする本当の意味の先輪になります。
先輪は台枠固定から一軸やホギー台車へと複雑になり部品点数も増え続けます。効果の検証と部品点数削減の試みの段階です。
後世から見て、迷走が感じられるから趣味的に面白い。
B6型は後進方向が本来の姿だそうですけど、別に先輪がなくとも問題はないことが運用を始めてから判り前後進で速度の差はありませんでした。
従輪(先輪?)の複雑な支持方法を見ていると、迷走を感じます。
日本ではC50型など先輪に呪われた形式は比較的少数で、ほとんどは部品点数の少ない簡易な構造が多いと思います。
先輪に呪われた本場は英独仏あたりでしょう。日本でも輸入機に多い。B6型は英国人設計機です。
日本人は先輪と長くつきあいながらも凝る事にはつきあわなかったらしく、先輪に対する本音が聞きたいものです。
他の多くの部品と同じように真似ることに集中して、自主開発など軽視されてきたんだろうとは思いますがw >B6型は後進方向が本来の姿だそうですけど、別に先輪がなくとも問題はないことが運用を始めてから判り前後進で速度の差はありませんでした。
蒸気機関車は煙突がある方が前という既成概念が定着しているが、前方の視界や煙の影響を考慮すればキャブフォワードの方が理にかなっていますね。
E10もキャブフォワードですし、C11はバックの方が速かったそうですね。
C62の速度記録が129km/h という話を持ち出すと、「140は出る。いつも出してた。」と鼻で笑った。「C11の方が速い。145は出る。」という話になった。
「バックのほうが速いんだな。気持ちいいぞ。名鉄の電車をあっという間に抜いてやるんだ。」という凄い話も出てきた
dda40x.blog.jp/archives/51116437.html >>473
石炭炊きのテンダー機のキャパフォワードは
給炭どうするのかって問題がある。
「自動給炭装置がー」って思った人は実用化時期と信頼性も考えてから書き込んでね。
あと、アメリカで有名なキャブフォワードのアレは重油炊きだから可能。 作れないものには作れなかった合理的な理由が千もあると思って良い。
サザンパシフィック鉄道の使う重油は重油でも一番重いクラス。
一つ上がアスファルトという重さ。だから液体だと思ってはいけない。アスファルト同様に捨て場所のないゴミなので燃料に採用された。
使用後の蒸気をテンダー内に引き込んで重油を加熱していた。
その昔、国鉄もアスファルト輸送用貨車を持ち、積み下ろし用にバーナーを2本もつけていた事を思い出して頂きたい。
加熱してようやく流動性を出して、特殊なポンプで圧送していた。
だから、液体といえば液体なのだが・・・w
パイプライン的な送油管を想像している場合は、様相は違う。
一方で我が国鉄が石炭液化にご執心であったことは、あまり知られていない。いつまでも実用にならないから今がある訳ですけど。
隙がないような「作れなかった壁」にも、お話を広げるひび割れはある。 書いた後に思ったけどサザンパシフィックの円筒形テンダーは、ボイラー並みとまではいかないまでも接近すると温もりを感じたはずだよね。
完全に冷えてしまうと体積が変わるので、中で割れる音がする筈だ。
保存鉄道にあるんだろうか。重油は石炭より厄介に思える。圧送する管の中で冷えたらどうやって取り出すんだろうか。重油は石炭よりも水よりも遥かに厄介な代物ですぞ。
似たような燃料を貨物船が使っているけど船体内の空間が大きいので、構造に無理はないと言われる。排気管で温められた重油は重力で落ちてくるだけらしい。
大型キャブフォワードがSP以外に広まらないのは燃料がゴミとして入手できるかどうかという地域性以外に、案外面倒臭い代物であったという疑惑が出てきたぞ。
同じ地域を走るサンタフェなども燃料は入手可能なのだから。 >書いた後に思ったけどサザンパシフィックの円筒形テンダーは、ボイラー並みとまではいかないまでも接近すると温もりを感じたはずだよね。
円筒型の炭水車というのはホエールバックテンダーでしょうか?
>保存鉄道にあるんだろうか。重油は石炭より厄介に思える。圧送する管の中で冷えたらどうやって取り出すんだろうか。重油は石炭よりも水よりも遥かに厄介な代物ですぞ。
圧送管は二重構造になっていて蒸気を循環させる構造になっている可能性があります。
蒸機現役時代の末期にはユニオンパシフィックのFEFやSNCFの141R等重油専燃の蒸機も多数運行されていたようですね。
またC重油はユニオンパシフィックでもガスタービン機関車の燃料として一時期使用されていたそうです。
後にオイルショックや石油化学産業での原料としての用途が見いだされた事もあり値段が上がり経済性が損なわれたようです。
そういえば復活したビッグボーイは軽油を燃料として使用しているそうですね。 送風機の探求から派生した話。
凸電の、機械室を簡単にセンターからずらして置いてしまう癖はなぜなのだろう?
そして凸型ディーゼル機関車には同類が見当たらないのはなぜ??
機械室というのは凸電の車体中央のキャブから突き出た部分を指します。
凸電を凸電たらしめる部分ですね。
東濃鉄道の電気機関車。ED1000型。この機械室が車体中心線上にないと言われるが、写真から判断できるだろうか??
原因はキャブ妻板についている乗務員扉で、通行できる幅にするために機械室を端に寄せた。
似た様なサイズ感の類例が近江で最期を迎えたロコ1100型で、これはもうはっきりと片側に寄せていることがわかる。
近江の例ほど幅が広い乗務員扉を設けてもらえば納得するしかない。
振り返って東濃を見ると、乗務員扉も狭い。キャブ前後の機械室の食い違いが目視では判らない。
なぜそこで妥協したんだろう??もっと大胆に寄せればイイのにと形状の理屈が判らない。
もっと判らないのが伊賀電気鉄道の機関車、近鉄デ8型。
いわゆる川崎製凸型の始祖ですが、この小さな鼻先のような機械室がセンターにない。
乗務員扉を避けて、偏っているんだそうです。
そうなると小田急ED1010型はどうなっていたんだろう?
右側運転台で乗務員扉の位置が違う西武E21型はどうなっていたんだろう??
岳南に現存する同形機を誰が、実測して欲しい。
次の問題は、凸型が多い中型小型のディーゼル機関車で寄せた例を全く耳にしないこと。
DD13型など乗務員扉が狭そうではあるが、気にはならないのか。 重油用テンダーにはチューブタイプなど色々な形があります。
会社により呼び方が変わることもあるようです。
ホエールバックはSP固有の蒲鉾型の奴ですね?平らな床板があり台枠を持つタイプ。
私には長所が今一つ掴めない形なんですがw 容積が減って工作が難しくなるだけでは?
模型にすると面白く、乗工社ミニランドが有名ですね。
米国型模型には色々と緩い部分がありまして、異形のテンダーだけの単品製品が出ていました。
最近でもバックマンなどは重油用円筒形テンダーの単独製品を出しています。
付け替えて遊べということで、USRAなどの定番機関車もテンダーで雰囲気が変わりますからね。
私はホェールバックが意味不明なところが大好きで、中古市場で単品を見つけ次第求めていた時期があります。
米国型模型は元々緩い考え方が支配的で、韓国製ブラスモデルの固有番号の追及っぷりが異常でした。
ディーゼル機関車も中華製は車体を会社ごとの作り分けを徹底して先行するカトーの追い落としを計ります。
カトーも最近は細部の作り分けをアッピールしないと売れないみたいです。
ひと昔前は沢山あった加工用パーツ市場が静まりかえっています。完成品が出れば皆それを買うからね。
線路に載せるたびにテンダーを選んで付け替えを楽しむ程度に緩い遊び方が、私には合ってます。
重油燃料は難しいですね。Wiki見ても粘度の定義の幅が、液体以下アスファルト以上と大き過ぎる。
どれぐらいドロッとしたものを使用していたのか、動画が見つかれば良いのですけど。 >重油用テンダーにはチューブタイプなど色々な形があります。
チューブタイプというのはヴァンダービルト式とは別なのでしょうか?
>ホエールバックはSP固有の蒲鉾型の奴ですね?平らな床板があり台枠を持つタイプ。
>私には長所が今一つ掴めない形なんですがw 容積が減って工作が難しくなるだけでは?
>模型にすると面白く、乗工社ミニランドが有名ですね。
かつて東海道線で特急つばめで使用されていた水槽車ミキ20形もホエールバックに似ていますね。
入れ替えやバックで運転する時に後方の視界が良い事が長所でしょうか?
>どれぐらいドロッとしたものを使用していたのか、動画が見つかれば良いのですけど。
製油の残渣で温度によって粘性が変化するようで糖蜜状だったとの説もありますね。 チューブというのは会社によってはソーセージって呼ばれる事もあったらしい。
バンダービルドは大手私鉄三社を束ねた資本家が統一形式を出そうとして採用したテンダーで、機関車の方は上手く行かないこともあったけどテンダーは普及したので名を残した。 1日おきの同じ様な時間帯に交互に書き込まれるの、面白いですね >>482
>バンダービルドは大手私鉄三社を束ねた資本家が統一形式を出そうとして採用したテンダーで、機関車の方は上手く行かないこともあったけどテンダーは普及したので名を残した。
そのような経緯があったのですね。勉強になります。 >>475
>一つ上がアスファルトという重さ。だから液体だと思ってはいけない。アスファルト同様に捨て場所のないゴミなので燃料に採用された。
揮発性の可燃ガスがある時点で別にゴミではないし、重さと粘度も関係はない。
>>746
>完全に冷えてしまうと体積が変わるので、中で割れる音がする筈だ。
アスファルトではなく重油の、融点を何度だと想定してます?
>>481
>製油の残渣で温度によって粘性が変化するようで糖蜜状だったとの説もありますね。
融点を越えれば大抵のものは温度が上がると流動性も上がるものなのだが、
何か例外ってありました? まず、なぜ喧嘩腰でないと発言一つできないのだ?
原油の採掘が始まったころのアスファルトは使い道のないゴミでしかなく始末の悪いものだったのだよ。
それを道路の舗装に使おうというアイデアが後から出てきて初めて商品価値が出てきたのですよ。
アスファルトと重油の境界線上にあるような、重油としては使い道に困るような重い液体を機関車の燃料に使おうとしたのですよ。
石油の知識はあるようだけど歴史的な知識が、あなたには不足してないかい? あとさ、鉄道会社は経費にすごく敏感であるわけですよ。
バーナーで加熱すれば良い、で終わる問題じゃなくてバーナーの燃料が勿体無いから減らそうとか、何度に保とうとか真剣な検討があって当然なんです。
熱すればいいというところで終わってほしくない。キャブフォワードの火室までどうやって運んだのか。どうやって火室にとうじたのか。
そこまで考えての発言とも思えないものが、なぜ喧嘩腰なの? 今の時点では石油の商品化も限界に達し何もかも商取引の対象になって、だからゴミ呼ばわりに納得行かないんだろうなとは思う。
でも道路の舗装を開発した人はタダ同然のゴミが使えると知って商品化に動いているんですね。
蒸気機関車だって重油採用の前に、こんなもんどうやって使うんだという段階があったわけです。石油の歴史から見てもそういう時期ではありませんか?
だからキャブフォワードを語る時にゴミの有効活用という話題になってくるんですよ。 ところで、
JNRのC59127は、どんな重油を焚いていたのだろうか? >>486-488
石油の知識が無いらしいあなたは喧嘩腰でないと発言一つできないのかね? >>487
>熱すればいいというところで終わってほしくない。キャブフォワードの火室までどうやって運んだのか。どうやって火室にとうじたのか。
>そこまで考えての発言とも思えないものが、なぜ喧嘩腰なの?
アスファルトではなく重油なのだからポンプ使えばいい。
粘度に問題があるなら加熱が必要になるだろう。
コストに問題がというならば軽油なりガソリンも選択肢になるだろう。石炭も選択肢だ。
オタクはなにも考えずに話を難しくしようとしているだけなの?
なぜそんなに喧嘩腰なの? >コストに問題がというならば軽油なりガソリンも選択肢になるだろう。
重油よりも高価な軽油やガソリンが選択肢になるのでしょうか?
>石炭も選択肢だ。
長大なトンネルのあるSPでは機関助士の労力を軽減するために重油燃焼が採用されたそうです。
沿線に油田があったことも要因だそうです。
またキャブフォワードの燃料は焚口が前にあるので流動性のない石炭は選択肢になりません。 いま稼働状態にはなくなったものの技術的な話をしているのだから、過去の話が主になるのは当たり前でしょう。
いまの石油の知識を持ち出して何になるというのだろう。ガソリンが候補になると本気で考えているのか。
大人同士の会話に口を差しはさみたがる子供のようだ。ご指摘の通り、難しい話がしたくてしているのです。
簡単に答えが見当たらず、想像で補うよりほかにないような話です。
子供のような割り込み方を喧嘩腰とは言いませんでしたね。失礼しました。それは幼稚というのでしたね。 ホェールバックと言えばSPの18号機が復活しましたね。現存することは知ってはおりましたが、まさか復活するとは思いませんでした。
独特のテンダーが行き来する動画が公開されてますから探してみてください。SP 18 だけで動画検索できます。
本当にソーセージのようなチューブタイプは鉄道模型でクマタ製造と思われる小型機を見て思わず購入したことがあります。
余り姿を見てないので製造数は少ない筈。模型で満足して実物の正体も追及してません。
サイズ感はいわゆるソーセージで、フランクフルトではない。用が足りれば格好良さなど関係ないという割り切りぶりが凄い。
極限まで追求したタキ43000型のようなテンダーも可能性はあったのでしょうけど、それより先に蒸気の時代が終わったのでしょう。
アメリカ人はロコモティブとエンジンを使い分けており、機関車の事をエンジンと呼んだ時にはテンダーを含まないそうです。
エンジンとテンダーの間は棒連結器のようなもので半永久固定されているかと思うのですが、別の車両という意識が強いようです。
つまり、それぐらいテンダーの付け替えを常に行っていることになります。
列車の写真を見ていてもよく判りませんが、ロングタイプとショートタイプがあるようなことは普通の模様。
ペンシルバニア鉄道やサンタフェ鉄道で特にみられたそうです。 >>493
>ご指摘の通り、難しい話がしたくてしているのです。
あなたは簡単に言える話を難しく言ってるだけでしょ。
>想像で補うよりほかにないような話です。
あなたの想像力が大人同士の会話に口を差しはさみたがる子供のようなだけでしょ。
>>492
>重油よりも高価な軽油やガソリンが選択肢になるのでしょうか?
コストを考えた結果が重油ということでしょう。
あと、日本のガソリンスタンドで売っているガソリンは税金が半分くらい(うろ覚え)だから、
日本の値段の感覚とはちょいと違うよ。
重油と比べて安くなるってわけではないが。
>長大なトンネルのあるSPでは機関助士の労力を軽減するために重油燃焼が採用されたそうです。
煙対策の意味も大きかったらしい。
>またキャブフォワードの燃料は焚口が前にあるので流動性のない石炭は選択肢になりません。
石炭を選択肢にあげる以前に、重油だから
テンダー機関車でもキャパフォワードが設計できたんじゃない? >>494
アメリカの模型のカタログではテンダーだけ売ってたりしますよ。
本体とテンダーは一体という認識は薄かった模様。多分、テンダーだけ付け替えて変化を楽しむ人も多かったのではないでしょうか。
子供の頃はそんなカタログを見て「テンダーだけ買わせてどうやって遊べというつもりなんだ?」と
思ったものです。 >>496
見えるよ
もう何度も小学生扱いしてんのに、まだ理解してなかったのかw 熊谷組の草創期の話として三信鉄道が重要だと思うが、余り流布していないな。今どきの価値基準では受け入れ難いためか。
引き受け手がいないほどの難工事と言われるが、現場から語らせると必要なお金が下へ流れてこないという事。
それで現場を高効率で廻して開業に持ち込ませたことが「手腕を評価されて」熊谷組設立へと至る。
評価される価値基準が今と違・・・わない。アマゾンの倉庫係の労務管理も似た様なものだ。
熊谷独立の動機を深読みすれば、元受けである飛島建設が現場監督をバックアップ仕切れなかったことへの不満が疑われる。
飛島は精一杯支援したつもりでも現場を仕切る熊谷の立場からは許せる限度を超えていた。
現場を終わらせる力量が買われて熊谷独立へと向かうのだが、表面的には仲良く暖簾分けの体裁をとる。
作家葉山嘉樹氏の「万福追想」(青空文庫で無料で読めます)など露骨に三信鉄道の飯場を描いている。凄まじい描写に言葉を失う。
その飯場に熊谷という現場監督は姿を現したのか。葉山氏は現地で働いていたのだから監督を知っている筈だ。
さらに川村カ子トは版場にどう関わっていたのか。wikiの記述は美談仕立てであるがゆえに鵜呑みには出来ぬ。
仮にそんな扇動をしたと知れたら大事になるし、現場の工事は止まるだろう。殺人未遂で大量検挙となるからだ。
美談と「万福追想」の間の落差が、いずれかが噓つきだと証言する。川村を助けたという監督が熊谷さんだったら桁外れに面白いのだが。
熊谷組設立に向けて資金が集まることと「万福追想」は、悲しいことに内容が矛盾しない。
しかし川村カ子トのwikiの美談とは矛盾する。川村カ子トは熊谷に雇われた現場監督であった筈だ。そして地位と立場を貫いて現場を去った筈だ。
どうも、検証不能であることを逆手にとって美談でアイヌと朝鮮人労働者を接着したかった輩がいるようだ。
川村カ子トの生涯を美しいものにするためには、三信鉄道の現場監督という経歴の言い訳をせねばならぬ。
たとえ無力であったとしても記録を残した葉山氏の姿勢のほうが、真摯な姿勢であり価値が高い仕事だ。 万福追想に引用すべき部分があった。
以下引用
もし、人が、誰だつて構はないが、同情、博愛、共存共栄、社会主義と云ふ風な美徳を帯びて、その上、その美徳を単なる装飾の範囲から、
実行の域にまで移したいと云ふ熱意に燃えてやつて来るならば、工事場には来ない方がいい。
どこにも行かない方がいい、とは、私は思はないが、少なくとも工事場に来ても、法がつかないと云ふ事を発見するのが落ちであらう。
引用終わり
Wiki川村カ子ト氏の項目の美談を創作(言い切る)した奴に読ませたい。
出典リンクを遡ると公益財団法人 アイヌ民族文化財団へ飛んだ。だからこういう団体は嫌いなのである。 野上電鉄の戦前に闇がありそうで探ってみたけれど別に後ろめたい?部分は無かった。
高野山を目指すなどと言い出すから惑わされる。本気度が判らない。
どういう性格の会社だったんだろうか。 近鉄の旧吉野の電機(51・52)、スイス製かと思たら、国産だったんだなw 輸入機スレと間違えたのではないか。
吉野鉄道は、面白いですよね。話題の宝庫。
凶悪なヤクザとヤクザのシマの間という立地運の悪さ。この時点でもう面白い。
樫原神宮と吉野神宮。この二つの巨大神社の建設が周辺の私鉄を寄せ集めました。
吉野鉄道もまた帝国の熱気に踊らされた会社の一つでしょう。
当初描いたようなデ51型牽引の旅客列車は遂に実現しなかったという見解が有力ですが。
つまりはそれぐらい、踊らされまくった会社であり、浮かれたハレの日の電気機関車でした。 >>512
> 樫原神宮と吉野神宮。この二つの巨大神社の建設が周辺の私鉄を寄せ集めました。
橿原神宮、ね。 きょうぼくはまちがえましたが、あやまらないですませました。 ディアゴスティーニが1/87
あれは使えるんじゃね?
キハなんか特に
改軌して 久しぶりに紙の本を買ってしまった。
重くて邪魔なものだな。 >>179
激亀で申し訳御座いませんが
先日、仕事の合間に名古屋の鶴舞図書館に行く機会があったので
中日新聞社の “せとでん100年” 探しましたが、ありませんでした(泣)
こんど愛知県立図書館(旧堀川駅の近く…まぁ関係ないけど)へ
行く機会があったら、探してみます。
鶴舞では他の資料が見られたので、まぁいいか。
フォトパブリッシングの “名古屋鉄道の貨物輸送” は読み応えがありますね。
なかんづく、DED8584・8589が気になったので。
(模型ではDD12は持ってませんが、バックマンのGE44トン機なら持ってますw) ご存知でしょうけど44トンの由来。
第一世代ディーゼル機関車では各社から44トン機が出揃っておりました。
それはワンマン運転が認められる上限が45トンであったため。ディーゼル機関車は釜炊きが要らないので会社側はワンマン運転に注目する訳ですけど、当時の米鉄道業界は花形産業で労組が強い。
連邦政府を巻き込んだ調停案が45トンで、重量から牽引力も限界があるので幹線列車のワンマン化はとりあえず阻止できた。蒸気機関車の恐竜的進化は続く。
各社から出揃った44トン機というのはワンマン運転に特化した存在であり、制限が無くなってからもそういう印象が強い。
制限がなくなるとエンジンの巨大化が優先され機関車はL字型になってゆく。
アメリカなのにキャブが中央にあり、しかも床が高いことが各社の44トン機に強く見られる傾向。
日本がDD51まで44トン機の影響下にあったことは面白い。
シングルエンジンの方が良いことはわかっていたと思うけど、作れなかった。 DD12型は44トン機の発展型で、確かヨーロッパにも送るので車両限界からキャブを低く下げたもの。
重量制限がないので45トン以上の自重があるはず。
エンジンはキャタピラー社製で、軍用にも使われるタイプだった筈。国鉄機になってからも部品は簡単に入手できたらしい。 シレジア地方
ドイツに感情移入できない原因は、知り過ぎた日本と違い近代史の知識が全くないから。
たびたびシレジアという地名が出て来たが、ドイツ内で場所すら判らず何の感情も沸かない。
少し調べたよ。
現在は全域がポーランド領で、オーストリア国境に近い南西の、サツマイモのような形のエリアだった。
そういえば戦前のドイツ領域図で中枢部から東へバルト海沿いに突出した領土の他に、東南方向にも別の脚が出ていたぞ。
その、東欧へ突き出たドイツ人の脚がシレジア地方。
ただ、ドイツ人エリアとも言い切れないらしい。ドイツナショナリズム高揚前は、近所のポーランド語話者が多く住むエリア。
中世末期にオーストリアハプスブルグ家とプロイセンの間で係争地となり、プロイセンの領有となる。
この時にポーランド語方言を話す多数派農民被支配層とドイツ語を話す上流階級支配層という図式ができ、紛争の種となる。
第一次大戦後にドイツの領有が争われた辺境地域の一つとなり、帰属意識について母語を異にする住民間の対立が激化。
埋蔵資源として石炭が注目されたこともあり、ポーランド系住民の幾度かの武装蜂起をドイツ人は弾圧して凌ぎ切る。
ポーランド系住民への弾圧、アメリカなど他地域への転出とドイツ系住民の移民が続き、人口構成も変わる。
そして第二次大戦。戦後にオーデルナイセ線によりシレジアのポーランド帰属が決定。
ロシアは戦前のポーランド東部をベラルーシとして分捕り、代わりにドイツからポーランドの領土を分捕った。
つまり赤軍が支配する戦後のポーランドは、国家全体がドイツ寄りに移動する羽目に。
ロシア領域で暮らしていた多数のポーランド系住民が、それまでドイツ系住民が暮らしていた地域へ移動する。
東西ドイツ統一で新ドイツも現状を追認し、領土問題は決着を見る。
中国人にとって満州という地名が許せないように、ポーランド人にもシレジアという地方名は許せないようだ。
歴史上、ポーランドの縄張りになったことが実はあまりない土地なのだが、それは言わない国際間の約束。 で、何で鉄道に関わるか。
ドイツの手によりこの地域の鉄道電化が積極的に進められたのは、第一次大戦から第二次大戦までの間。
ドイツから見ると領有が不安定な辺境に、大きな炭鉱が多数ありエネルギー依存をしている状態。
火力発電があるし、山岳地帯でもある。初期の化け物のような大型電気機関車が、シレジア地方に集中的に配置された。
しかもこの電化区間、ドイツ南部の電化区間と遂に結ばれなかった、孤立した存在であったらしい。
赤軍が迫ると、入線して日が浅い虎の子の機関車から疎開を計り、逃げ損ねた車両は戦利品としてソ連に運ばれた。
大混乱の敗戦の夏が終わり秋口になり、ようやく新生ポーランド国鉄が支配を確立させたころには電化設備自体が残っていない。
だからポーランド国鉄から追いかけると、辺境の非電化ローカル線という印象が強まる。まるで別の国の鉄道のようだ。
シレジアの石炭は共産圏にも重要資源であったらしく、ロシア鉄道はシレジアとモスクワを結ぶ広軌線を持つ。
ドイツ型の鉄道模型で、ブラゥアが好んで製品化するような、大きな恐竜のような古典電気機関車。
彼らに、シレジアに関わる存在がやたらと目立つのよ。
どこでどのように働いていたのか、模型製品の紹介では触れられないことが多い事情が初めて判った。
日本で喩えれば「満州や朝鮮で働いた日本型機関車」「敗戦後はソ連が持ってゆきました」という車両たちなんだね。
ウクライナ戦争でポーランドの民族右派が紛争拡大を目論んでおり、アメリカやイギリスが警戒しているようだ。
チャンスだからポーランドを東に拡大してやれ的なことを公言する政治家がいるらしい。それが世論に影響し始めてる。
これはNATOは決して正義の味方ではないよと一部の評論家が言い始めたことにも影響を与えているんだろう。
米英はNATOの暴走も止めねばならない。
ポーランドは米英が自国への戦車供給を緩めない方針と知るや、国内に韓国製戦車の製造ラインを誘致した。 シレジアは沼だねえ。
18世紀以降のドイツ史を学ぶはめになった。
特に大モルトケ率いる参謀本部が鉄道を駆使して戦局を有利に運ぶことなど、世界史の授業で居眠りしていたんだろうなと思うほどの学習量。
世界史で扱う内容はほぼ全て飛ばしますね。
シレジア山岳鉄道はオーストリアとの開戦を予想したプロイセンが建設したもので、両国の国境地帯に沿ってプロイセン側を貫くあたりに嫌らしさが光る。
いざ紛争が始まれば、プロイセン側は国境に沿って進退自由な陸軍に潤沢な補給が加わる。
プロイセンとオーストリアに挟まれた位置にあるザクセン王国は当時、どちらの味方に付くか態度が明確ではなかった。
ザクセンとしては最近軍事大国化が目立つプロイセンには反感があり、昔から大国で格上のオーストリアに味方する可能性は高いと言えた。
プロイセンとしては小国ザクセンは個別に占領するとして、仇敵オーストリアには軍事的な優位を保ちたい。だから直接国境を接するシレジア地方で優勢を得る。
この構想は大当たりし、普墺戦争によりプロイセンは短期間でオーストリアを倒すことに成功する。
プロイセンはザクセンはもちろんドイツ南部諸邦までその影響下に置くという、ドイツ統一に向けた戦略目標を達成。
そしてこの時、同じドイツ言語圏としてオーストリアからは領土割譲や賠償請求の類を求めなかった点が潔過ぎて凄い。将来の同盟を予測していた。
さほど間をあけず今度も格上の筈のフランスに鉄道を整えて挑み、倒してプロイセン=ベルリン主導によるドイツ帝国が成立する。
仏語圏とは将来も同盟できないとして、フランスにはドイツ語話者のいるアルザスの領土割譲を要求して揉めまくる点がまた凄い。ここに第一次大戦の導火線は仕掛けられた。
シレジア山岳鉄道は、普墺戦争という第一次大戦の一つ前の段階の戦争が成立に深く関わる。
普墺戦争の戦後、長年の宿敵であったオーストリアとの緊張関係が緩んで平和な場所になったシレジア地方では観光産業が発達し始める。
折から鉄道電化技術が熟成してくると、ベルリンから距離も近いシレジア地方は格好の実験対象となる。
適度な勾配と曲線があり、適度な輸送量があり、さりとて幹線ともいえない。
(戦後のベルリンとウィーンを最短距離で結ぶ重要幹線は旧ザクセン領域内を通る平坦線が確保され、シレジア地方を経由しない。)
草創期の電気機関車はベルリン近辺でちょっと試験をしたら、続々とシレジア地方にやって耐久試験を受けるという流れに。
電化設備も標準化が進み、いまメルクリンの緑色の架線柱と言えば誰もがボンヤリとは見当がつくであろうアレもシレジア地方で確立された。
第一次大戦で架線が金属回収の対象となるなど停滞もするけれども、戦間期はいよいよ本格的な電気運転が始まる。
その消滅は第二次大戦末期。
ベルリンに南方から迫る赤軍集団が、シレジア地方に襲い掛かる。
脱出する避難民で大混乱の中、出来る限りの機関車を引き揚げたものの、電化設備もろともシレジア地方という土地を失ってしまう。
ポーランド国鉄の下で長く非電化線として過ごし、かなり時間が経過してから直流3000Vで再び電化されつつある。
その架線柱の一部はソ連に奪われそこなったドイツ国鉄のものが再利用されているというから、驚きです。 >>525
鉄道の軍事利用なら現在のロシアによるウクライナ侵攻にも影響あるし、
日本の東京大阪のルートも無関係ではない。
鉄道の軍事利用や、軍部絡みのルート選定なんてよくある話。 似ていることよりも違うことを見つけることの方が、この場合は興味深いのですよ。
よくあることで終わるのは惜しいことです。 ついでですけど日本国内で軍事絡みの路線変更の例は例外的と言って良いほど少ないです。
免許申請の際に軍事的価値を入れるのは行埋めみたいなもの。現小海線の佐久鉄道すら軍事的価値を申請書類に上げてました。
軍に見解を問うのもお約束みたいなものですが、意見を受け入れた例は極めて少ない。要塞地帯であろうが構わず線路は通る。
鉄道忌避伝説と同類です。当時の当たり前の手続きの当たり前に流されていた実情まで検証せず、額面通りに解釈していては不味いわけです。 余計な連投ですけど日本の軍部に鉄道利用の重要性を強く叩き込んだ事件がこの、シレジア地方の先進事例。
感銘受けすぎて指導を仰ぐ先生をフランスからプロイセンに変えるぐらいでした。
しかし政府に対するプロイセン参謀本部ほどの影響力は、遂に日本の軍部は得ること叶わず。
その辺まで深読みしてほしいな。日本でよくあることではなく日本ではかなり無理であり、しかし日本軍部が手本にしようとした海外事例です。 大モルトケはその長い履歴の中で鉄道会社の重役を務めるという軍人としては異色の経歴の持ち主。
そこで、活用すればナポレオンが確立した戦術を上回ることができると確信し、シレジアで実行した。
モルトケの孫弟子の様な日本軍がどこまで師に迫れたのか。まず日露戦争が検証対象でしょう。
全て同じことに見えるのならば、それは観察力不足。
まず時系列に並べ思想の伝播を調べて当事者の視点や知識を再現する。
その辺まで深掘りしてほしいなぁ。全て同じに見えてしまう前に。 GE44t
www.militarynewbie.com/wp-content/uploads/2013/11/US-Army-Locomotive-Davenport-Besler-TM-55-1279.pdf
80t、670 hp
www.militarynewbie.com/wp-content/uploads/2013/11/US-Army-Operator-and-Unit-Maintenance-Manual-Locomotive-Model-B-B-160-and-160-4GE747-A1-TM-55-2210-224-12.pdf
USATC TM55 1268
www.chartertoconductor.com/wp-content/uploads/2019/06/Operation_and_Maintenance_of_Diesel_elec-1.pdf
www.liberatedmanuals.com/TM-55-2210-223-12.pdf
www.liberatedmanuals.com/TM-55-2210-223-24P.pdf もう少し日本の鉄道が痛めつけられていたら間近に見る機会もあったのでしょう。
ルクセンブルク国鉄の戦後復興はこういう機関車であったらしいです。
ノルマンディ上陸で車両は根こそぎドイツ国内に引き上げたところにバルジの戦いが起きて、国土荒廃の極みであったと言います。
ベルギーとか自国のことで手一杯。復興できないんなら併合しよか?などと言い出す始末。英は同情的で自国製戦時型を贈ってきた。
東側ソ連占領圏で作り過ぎたドイツ戦時型蒸気がバーゲンセールをしていたのを見ざとく見つけ、まとめ買いしてようやく一息ついたらしい。
そう思うと本土決戦を回避できたことは行幸なのでありましょう。 シレジアの電化線を調べていたら、上越線とのシンクロが気になった。
言われてみれば当たり前の事だが、例えば1923年に生きる人間は伝達に多少の時間差があれど、日も独も同じ情報に接している。
それはいつの時点でも同じで、最新技術は世界のどこでも同じように新しく、未来のことは全く判らない。
上越線は1910年代初めには夢想から具体化へと動き始め、1920年代には予算がつくに至る。
つまり具体的に考え始めたころには国鉄に碓氷峠しか電化区間はなくEC40型しかない状態。
想像してみると面白いが手持ちの駒がそれしかない状態で、先人たちは清水トンネルが前提の路線計画を練り始めていたのです。
気宇壮大と言いますか、結果が後からついてくると言いますか・・・。どんな機関車が走ると想像していたんでしょうか。
1920年代前半はドイツでもサイドロッドを持つ電気機関車が当たり前であった。最後の新造機は何年になるのだろうか。
高速機であればブフリー式が幅を利かせている。1938年製造のE19型で遂に頂点に達し最高速度は180キロになる。
1930年代半ばのE44型でようやく、ようやく吊りかけ式が実用になり急速にロッド伝導を過去のものとしてしまう。
そう思うと同じ1930年代半ばに量産に移したEF53型というのは、世界最先端に喰らいつこうとしていたんでしょうか。
日本がロッド伝導式電気機関車を碓氷峠に封じ込めることに成功?したのは、ただの偶然であったのかもしれない。
東海道線電化時は1920年代の初めの事で、この時にロッド伝導式電気機関車を輸入機に含めなかったのはなぜだろう。
そんなの優劣が頼む時点で判っていたというのは、後知恵ではないか。超能力の類だ。
ハイスペックなED54型を注文したように、東海道線にもサイドロッドを持つ電気機関車が来ても何らおかしくはない筈。
1926年前後というのは、吊り掛けが勝つというには早過ぎる。世界的にそういう年です。
ED41型は、たまたま碓氷峠用であっただけ。
狭軌の台枠内に収まらない大型電動機を持ちサイドロッドで伝導する、1067mm幹線用電気機関車。有り得たんじゃないかな。
そう思うと、Be4/6に国鉄ナンバーをつけて遊ぶのはアリかなと思えてきます。
D型軸配置ながらEF級に匹敵する牽引力を持ち、大きな動輪で速度で優位に立つ旅客列車牽引機。
先従輪もあるけど、重過ぎるかな。EF53型が存在しない、並行世界の日本。 秘められた旅路 ローカル線をめぐる という本がある。以前も触れたかもしれない。
書名を確認したら、著者がご存命でびっくりした。97才でしょうか。
昭和31年の刊行で「ローカル線」という言葉が使われた最初のころのものではないだろうか。
いつごろから、何年ごろからローカル線という言葉を当たり前のように使うようになったのだろう。
戦前の文献では見た記憶がない。
過疎の進行とともに多用されるようになった言葉ではないだろうか。
本の話だが、全通前の大糸線訪問記が好きだ。しかも南線も北線も両方とも訪れているのがうれしい。
確実にC12牽引の経歴怪しい木造客車に揺られた体験記であり、しかしながら文体は平易で読み易い。
大糸線へのC56の進出は全通後らしい。
ほかの「ローカル線」も合わせて読むと異国を旅したような気分になる。
今の姿から見ると、駅長がいた時代があったことが信じられないような駅が出て来ます。 >>535
サイドロッドが国内で普及しなかったのは欧州でも既につりかけ伝動への過渡期だったのだろう。
1920年代に電機を輸入したけど当時、本国の電化すら進んでいなかったのに英国製が多かったのは
海軍の保有艦船を制限するワシントン海軍軍備制限条約で英国を懐柔しようとして英国製電機を大量に輸入したのが原因で
それらは欠陥機で苦労させられたそうだけど、そのおかげで技術陣の技術が向上したという。
ktymtskz.my.coocan.jp/yuge/hidaka6.htm
アメリカ製の電機が優れていたので手本になった。
ktymtskz.my.coocan.jp/yuge/hidaka7.htm >>537
> 今の姿から見ると、駅長がいた時代があったこ>とが信じられないような駅が出て来ます。
交換設備(信号扱い)があったり貨物扱いのポイントがあったら基本駅長が必要だったんじゃない?
あくまで停留所じゃなくて“駅“扱いということで。 高知の路面電車に新地線という支線があった。
御免線の知寄町二丁目から南へ、途中に停留所はあったんだろうかというぐらいに短い。
存在は知ってはいたが、目的が判らなかった。
土讃線開業まで桟橋線が高知の主な外界への玄関であったことを知り、ひょっとしたら他の船会社がこちらにも埠頭を設けたかな、と漠然と捉えていた。
ふと気になって米軍作成地図を見ると、新地線の終点の前の海は浅瀬であり大型船など入れない。
その代わりに稲荷新地という四角い土地に建築がある。
ははぁ・・・遊郭か。
戦前の都市にありがちだが風紀を乱す遊郭は郊外の誰も好まないような土地に隔離する政策があちこちで見られた。東京の吉原に倣ったのだろう。
米軍地図を見ても遊郭以外は湿地帯の記号があるばかりで、さぞ日が暮れたらネオンが目立つことであろう。歩いて帰るなど御免被りたいところ。
道理で戦時中に不要不急線に指定されるわけで、空襲後に料亭が市中に移転した戦後は誰も顧みず忘れられた。
名古屋の中村電車も遊郭目当ての客で賑わったとされるが、終点に遊郭しかない路線というのは珍しいのではないか。
稲荷新地、宮尾登美子さんの小説の舞台ではなかろうか。 天北地方 行ったことがない。天北の荒涼とした風土と炭鉱鉄道の物悲しい雰囲気が好きです。
夕張地方などと異なり、セキ3000型同等の車両がほとんど見られない点が面白い。
天塩炭鉱、留萌炭鉱から南はセキが活躍する地域であり、天北地方とは石炭産業の有り様が大きく異なった。
天北地方は石炭埋蔵量は膨大なものの炭質が悪く、他地域の産炭と同じ取引はできなかった。
コークスに加工するか、地元で暖房用に活用するなどして消費された。だからあまり遠方へは出荷されなかった模様である。
荷降ろし設備がセキ対応ではないのでしょう。冬季など荷降ろしには相当苦労した筈。
輸送中に石炭に含まれる水分が凍結して積荷が岩のように一体化してしまうそうなんである。ツルハシが必要だ。
セキですら厳冬期には車体の鋼板に冷やされガッツリと張り付いてしまい、ホッパーを開けても塊が塞いで落ちてゆかなくなるという。
外から扉をガンガン叩いて落下を促すことになり、吹きっ晒しの高架線の上で大変な重労働であった。叩く音が周囲に響いたらしい。
無駄に時間も喰うので、室蘭港には車体ごと反転させるカーダンパーが整えられた。
その末裔であるホキ2500型の荷扉には、丸い凸模様が一定間隔でついている。いた。
積荷が凍結したら丸を狙って叩きなさいという意味がある。
しかし活躍場所は暖かく、冬季に叩いて回る作業員が必要になったことは無いようだ。
更新車ホキ2000型は扉の構造が変わり丸はない。部品交換されたかホキ2500型からも消えた。
セキの名残で面白く眺めていたものだが過去のものになったようだ。
セキ1000型とセキ3000型で扉の補強の本数が違うのは、叩かれる事への対応でしょう。
ホキ2000型で扉が厚くなったのは、叩かれる懸念がないからでしょう。箱の中は空洞と思います。 いったことがないのにえんえんかたれるぼくはすごいです 日曹炭鉱専用線の記述で一つ腑に落ちない部分があった。開業を危うくさせた登龍隧道の件です。
wiki等によると危険だから隧道内部を木枠で補強せよということになり、それが間に合わないので峠越えの別線を急遽建設したという。
すごくないですか?
地図を見ていても、この隧道がどこなのか全く判らない。ふつうトンネルポータルの前には切通があって、樹木が生い茂ようが判る筈。
開業間もない時点での米軍撮影の航空写真では隧道へ続く路盤がよく判るが、それが現在のグーグルアースでは全く判らない。
しばし眺めていてふと思う。この隧道、要りますか???
登龍峠越えなど仰々しい名前だから、明確な高低差のある地形があると思い込むじゃないですか。現地は川筋から隣の川筋へと低い尾根を越えているだけ。
なぜ、隣の川筋へ移動させるのだろう?谷は緩く広がるのだし最初から目指す鉱区へと川筋を遡れば良い。
以下憶測です。
日曹炭鉱のある谷間の下流側に、豊富(とよとみ)温泉という温泉郷があるのです。この温泉は石油試掘中に発見されたものだとか。
つまり温泉のある一帯は、かつて鉱区が設定されていたという事。
どういう法人が試掘に当たったのかは判らないが、隣接鉱区の日曹とは折り合いが悪かったのではないか。
ライバル日曹の申し込みに対し、うちの土地は通さん!とか子供じみた対応をしたのではないか。
困った日曹は豊富温泉のある谷間を避けて、隣の谷間から遡って具合の良さそうな場所で緩い尾根一つ越えなくてはならなかった。
急遽決まったのだろうか。隧道は大変危険な状態のまま竣工検査を迎えダメ出しを喰らう。
低い尾根とはいえ、隧道を切り通しにしようとすると大変な土量の工事となる。
木枠で補強せよというのだから内壁は剥き出しで、風化が進んだ岩石が主体と想像できる。
崩落の危険は大きかったと思われる。操業開始までの間に木壁の厚みだけ削って拡大せねばならない。
間に合わないので尾根を越えてゆく線路を敷いて、芋づる式に9600型をおねだりしたら貰えてしまった。
この辺りは検査でダメ出しをした役所の温情を感じさせます。アメとムチです。
検査時に大枠の話は出来上がっており、9600型投入を前提に隧道を迂回する線路の設計ができたのでしょう。
開業時点で余っていたのは9200型や8100型の筈で、まだ9600型のおねだりには早過ぎます。
このような経緯を経て開業した尾根越えの路盤跡は、現在のサロベツリフレッシュロードで間違いないと思います。
現在の道路は鳥t家部や幅など若干手を加えたと思われるが、勾配はそのままではないだろうか。短いとはいえ蒸気機関車には厳しかろう。
道路(線路)の片側に、所々にかなり大きな掘削の面があります。西の端では完全な切り通しとなっている。
これが、突貫工事で土を運び去った後に出来た斜面なのでしょう。
9600型を前提に勾配を設定し、人海戦術で切り通しを作る。如何にも北海道の開拓地らしい粗っぽい仕事です。
日曹天塩炭鉱で撮れる石炭の品質は低く、コークスに加工するか家庭用燃料にするかしか用途が無かったという。
そうなると、9600型は何を燃料に動いていたのだろうか。機関車用の高品質な石炭を他の炭鉱から購入していたら面白い。
低品質とはいえその何十倍もの石炭を採掘し運べば割に合う計算なのでしょう。 なるほど、陽に当てるとしばらく出て来ないが日陰のままだとすぐ湧いてくるのか
マジで害虫だな なんでじっしゃ板でやらないんだろう。
無知がバレるから? >>545
小学生時分に “ザ・ガードマン” 見てたら9615号機が出てきたのを
今更乍ら思い出しました。 日曹って旅客営業してたの?
客車は居たみたいだけど 専用線一覧に記載があり時刻表にないので、美流渡などと同等の扱いでしょう。
ただここは31系客車がいたんですよね。なんと珍しい。
9600の譲渡が早かったことと併せ、「当局の格別の計らい」、悪く言えば癒着を疑っておりますw
当時の記事でも、ここまで出かけて写真の一葉でもあれば上出来のような扱いの路線です。
情報が少ない。 10日前から、網走番外地が公式から無料公開されてます。
クライマックスはご存じですよね?
ザ・ガードマンもそうですが昔のドラマは鉄道を舞台にした大掛かりなアクションに挑戦してきました。
今はCGですらやりませんね。それだけ鉄道が生活から遠ざけられたか、それとも子供が真似するという類の自主規制か。 アニメじゃ脱線転覆させてたりするから、生活から遠ざけるだの子供云々だのは的外れだ >>552
難しいことを言いたいだけなんだろうけど、結局は
面白い企画を思いつく人がいるかどうか、ってだけじゃね? 日曹の記事はキネマ旬報蒸気機関車誌の18号D51特集が代表的なもの。
しかし割と最近の、鉄道黄金時代シリーズの7、ニッポンの蒸気機関車9600にも、掲載誌の傾向から機関車主体ですが記事はあります。
ただ判らない事は、どちらも汽車クラブ名義の記事なのですが滞在時間が異なる。片方は一泊しているのに他方は一時間の滞在。
ちょっと面白い謎ですが、長時間滞在の記事の方は国鉄で移動しているのに対し短時間の方は自動車の機動性に触れており、別の訪問機会なのだとわかる仕掛け。
自動車を使うと効率も上がりますが、同時に何かを失っているような気にもさせられる記事でした。 うれうぼくはかっこいいです
…小学生だって、もうちょっと中身あること書けるぞ 日曹炭鉱ネタ続き。
HO641X-C5-10という、昭和39年撮影の航空写真を見て欲しい。
登龍峠を含む区間だが日光の状態がよくて地形の凸凹が把握し易い。
開業に至る峠超え区間の切り通しがまばゆく白く輝き、いまの道路に多くの路盤が転用されている。
この写真の白眉は、旧線の路盤もかなり追跡できる点にある。米軍撮影よりも表現が良い。
豊富市街地側から下エベコロベツ川沿いに遡る線路だが、豊富温泉の手前で支流(名称不詳)に入ってしまう。
この支流を越えたところからすぐに新線が旧路盤から別れる。
斜面を大きく削り高度を上げ、やがて大きな切り通しとなって峠のピークを越えてゆく。
一方で旧路盤は川沿いに進み、やがて隧道に入る。反対側の出口も読み取れるため追跡は容易だ。
問題はその、隧道のあるべき場所にある不思議な地形です。
アリジゴクの巣のような漏斗状の穴が、五つぐらい並んでいる。
これ、竣工検査時に予見された隧道陥没の痕跡じゃないか。
補強もしないまま放棄後から約20年、リアルに陥没してる。地表面に影響が出ない崩落もありそうだ。
隧道の南側出口の位置も驚きだ。
新線は旧線南側出口の切り通しを埋めて、旧線線路敷を越えている。
これで新旧線の高低差が、大まかだが把握できる。この高低差を勾配でつないで新旧路盤が合流する地点は遠い。
この航空写真を見ていると、なぜ面倒な峠越えをしたのか全く判らなくなる。
新しい仮説は、線路が迂回している間の下エベコロベツ川の湾曲が酷いことに注目する。
線路を真っすぐ敷こうとすると何度も橋梁で渡る羽目になる。地形は平坦なようだ。
おそらく湿地帯、氾濫原であり、さらに冬季の凍結など考慮したうえで線路は敷けないと判断したのではないか。 すれがしずむまでがまんしたぼくはえらいです
人に見られたくないなら書くなよ、気でも違ってんのか またやっちまう。
オクで相場に著しく低いと感じる模型を見るとお節介で、ギリ相場より下かなと思う金額で入札する『遊び』
本音で言えば要らないんスけどw
で、時間まで、誰か上回る入札をしてくれないものかと手に汗握り見守るという・・・・。
一種のギャンブルだが、負けても模型が手に入る。 ●蒸気機関車
88622 若松 キット 79616 倶知安 キット C59/C60 戦後型 キット
C55・9600・8620・C59・C60 完成品各種(MODELS IMON)
鹿島参宮鉄道(関東鉄道)竜ヶ崎線4号機(アートプロ)
●ディーゼル機関車
DD16 三菱大夕張 DL-55(アートプロ) DE10 キット(WesterWiese)
●電気機関車
EF66 キット・完成品各種(MODELS IMON) EH500(アートプロ)
●客車
14系14形寝台客車・24系25形寝台客車(MODELS IMON)
丸屋根旧型客車各種(WesterWiese/FAB)
●気動車
キハ82系(FAB)
●電車
103系(アートプロ) 711系(FAB)
●貨車
タキ1900・タキ35000(FAB) タキ2000・タキ9900(HOKUSEI WORKS)
(公式発表のない型式を除く) >>559
そう言う人がいるから結果として値段が上がってくるんだな。
結局欲しい人なんて数少なくて>>559みたいな人が相場を操作しているだけ。 それは資力の裏付けのある度胸の足りないあなたの、八つ当たりでしょう?w
オークションは安く買える場所ではない。自由市場だよ。自由を楽しめ。 >>563
買わずに相場を引き上げる貧乏人の楽しみ方なんですね。
それも投資の一種なのかな? 相場など動かしようがない事もご存じない。
ただ妥当な落札価格に届く金額が用意できないあなた自身の問題なのに、他人を悪者に仕立てて憎しめば問題が解決すると思っている。
オークションに参加するでもない。ただひたすら無駄な時間を八つ当たりに費やすw
憐れみしか湧いてこないよ。おやすみ。 >>565-566
> 相場など動かしようがない事もご存じない。
価格の吊り上げは相場を動かしていることに他なりませんよ。
更新されるであろう金額を入札する貧乏人は、
時間が無駄に有り余っているようですね。 覆されなきゃ俺が安く落札できている簡単なことさえ、理解できてない様子。
怒りと嫉妬で頭が回らなくなっているんだろうねw 日曹は本当にネタの宝庫ですね。
簡易軌道と平面交差していたことは間違いなく、交差部から南が一足先にに廃止となり北の僅かな区間だけが取り残された。
しかし国土地理院地図上ではともに軌道の記号で区別はない。片方は762ミリ馬力で片方はセキも入るというのに・・。
このため日曹専用線に支線があったと誤認する文章がいくつか見受けられた。
こんな馬力線に資料など少なく、きちんと地図を見た証でもあるが。
平面交差の写真が見たいが無理というものだろう。通る車両の格差が大きいので1067ミリ側のレールにフランジウェイはない筈だ。
ウマが通るために枕木の敷き詰めはあっただろうが、トロッコは1067ミリのレールを乗り越えていただろう。
数年で交差部から南は廃止になるが、原因は峠で崩落が起きた事らしい。
現地は固まりきらぬ泥岩の様な土質で侵食されやすく脆く崩壊しやすい。日曹専用線はそこに隧道を掘るという企てに無理があった。
炭鉱のある土地はうまい具合に地質が違う。 簡易軌道で、国鉄線と連絡が絶たれたのちも営業が続いた例って他にあるんだろうか。
しかも長い路線の南北が廃止となった後の中間部だけ。
日曹の残存区間は本当に記事が見当たらないので運営は想像するしかないが、行政の記録では運行停止状態と考えるしかない。
馬力線はトロッコの所有権が曖昧で、自家用の馬で勝手運行がまかり通るらしい。
この残存区間は沿線農家が廃線を活用し続け、地図測量者の現地調査では営業線と認められ日曹専用線と同じ地図記号で記録されたのではないだろうか。
地名が判らないが行政の記録、認識とは一致しなさそうだ。さて、本当に線路が撤去されたのは何年のことなのだろう?
木曾森林鉄道でも公式の廃線後にも数年運行し続けた作業軌道があると聞く。国鉄との接続が絶たれても奥地ではひっそりと知られず生き延びることがあるわけだ。 >>569
> 日曹専用線はそこに隧道を掘るという企てに無理があった。
>炭鉱のある土地はうまい具合に地質が違う。
地質が違うから炭鉱なわけで、
地質が同じなら全部露天掘り地域か、炭鉱自体が存在していないことになります。 なんか勘違いされてる様だけど、一番上にあり続けても平気で書き込むからね?w
書きたいときに書くけど常に書きたいわけではない。当たり前でしょ。
嫌がらせになると思い込んだか、現時点でソコに異様な拘りを見せておるのは約一名だけですし。 ≫579
まあ、違うことを推定するのは当たり前です。地質図を見ると断層が南北方向に走ります。
地質図を探さないと、推論が仮説にならないんですよ。
あなたは既に地質図をご覧になりましたか?未見であれば、常識を元に推論を述べている事になります。
私はソコから一歩でも、たとえ半歩でも先へ進みたい。 >>572でした間違い。
トンネルが崩れることを指摘されたことだけで、そこから、坑道掘りらしい炭鉱との間に断層など地質に影響を及ぼす要素があると推定できたのなら、大したものだと思います。
でも私はそうではないので、地道にデータを集めるしかないのです。 >>573
勘違いされるような実績を積み上げといて、今さらその言い訳はなぁ…
以前同じ話が出た時はだんまりでやり過ごしてた(話してるのが二人いたから?)から、今回のは単なる意地っ張りだろ?w 資産価値ZEROというチャンネルが最近制作した、紀州鉄道不動産50年史というプログラムをご存知か。
磐梯急行から掘り起こした老作で、不動産業界の調査人が「会社の全面協力の下に」作ったという点が資料性の高さを示す。
どうも、蔓延る噂を断つには本当のことを洗いざらい明らかにすより上策はないという、紀州鉄道の悲鳴にも似た意向を感じる。
今回明らかになった三部目では株主がさらに入れ替わり役員構成も変わったことが明らかになっている。
鉄道趣味側からの調査ではなかなか難しかろう。
不動産の話ばかりではあるけど、現状の認識をアップデートしておくには便利です。 [北海道の殖民軌道 聞き書き集 今井啓輔著]という本に、日曹炭鉱専用鉄道と平面交差する軌道についての非常に詳しい記事があった。
その内容は驚くよりほかはない。
また、実は私は「日曹豊富炭鉱」と認識していたのだが、それが誤りであることも判った。[日曹天塩炭鉱]が正しい。
その点についても述べたい。二つの問題の原因が絡み合うので同時に扱いたい。
宗谷本線豊富駅を起点とし、途中豊富温泉を経由しつつ向かう日曹鉱業専用鉄道の終点は「天塩炭鉱」。
一方で専用鉄道の途中駅[駅逓]から接続する762mmの専用鉄道の終点にあったのが「開発当初は豊富鉱山、後に改め赤松炭鉱」。
日曹炭鉱専用鉄道はしばしば、豊富炭鉱鉄道と呼ばれていた。
事情がよく判らないのだが、豊富では炭鉱の名前を被らせたくはなかったのか。
芦別では同じ地域に三井芦別と三菱芦別が同時に存在していた筈ですが、豊富では隣接する鉱区が「三菱豊富」と「日曹天塩」と別れた。
三菱は3年余りで操業を諦め撤退し、その後に赤松なる事業主が引きついて赤松炭鉱と名を改め昭和28年、操業再開する。
つまり三菱撤退の時点で豊富炭鉱を名乗る存在はなくなるのだが、だからといって日曹天塩が改名するわけではない。
豊富炭鉱鉄道と多くの人に認識されていた専用線の終点にあるのは「日曹天塩炭鉱」。
日曹天塩炭鉱専用線の建設時点では植民軌道「幌沼線」が全区間営業していた。全通は昭和11年のこと。
この幌沼線も名称の変化が多くてややこしい。
全区間通しての客貨は少なかったのか、昭和23年に南半分が先に廃線となる。しかし北側は植民軌道沼川線として営業継続。
南半分も、軌道は撤去されなかった。どうも行政が関与を止めたのが昭和23年ということらしい。
道路もないし、沿線住民による台車の運行は続いたのではないか。
いよいよ撤去されたのが昭和27年のこと。
翌昭和28年に操業を始めた赤松炭鉱は、日曹線との平面交差部から赤松炭鉱までの間の廃線敷を利用して線路を再敷設し運行再開。
植民軌道は馬力で機関車は入らないのに対し、赤松炭鉱専用線は最後はガソリン機関車が入ったそうなので線路の造りが違うのだろう。
昭和38年ごろまで赤松炭鉱専用線の線路は残っていた。
以上、まとめでした。 >>579
模型と関係ない話をダラダラと書いて、まとめまで書くぐらいなら、
実車板の方にまとめだけを最初から書くようにしてくれないか? >>581
別にいいじゃんか。どのみち放置スレなんだから。
ここに書かれてアンタにどんな迷惑がかかってると言うの? >>582
鉄道模型板で鉄道模型と関係ない独り言を書かれて上がってくるのは猛烈に迷惑。 放置スレを勝手に使っていいとかいう自分ルールで動いてるやつは、生きておらんで良い >>582
放置スレッドで遊ぶという建前はともかく、
板違いが非常に迷惑。 これだけスレッドがあり出会わずに済むことに何の苦労もしないのに、わざわざ訪ねてきて非常に迷惑というストーカーがいるんです。
どうかしてる。 >>586
上がってきちゃうからね。
荒らしを正当化するキミはどうかしてるね。
あ、どうかしてるんじゃなくてそのままで、
そのものなのか。 >>587
占拠してるおじさんがageてるんじゃなくて、
文句言ってるストーカー君がageてるんですョ。 その通り、ストーカーがわざとアゲるんですよ。
私は出会いたくない人と出会わない様に沈めておりますよ。 >>589
誰にも見られたくない文章を過疎スレに貼り付けるキチガイってのはもう知ってるんで
そろそろ成仏しろ
なんかageられるから見つかるとか思ってるようだが、専ブラ使ってると
どんなに沈んでても書き込まれたのがわかるんだよボケ
つまりお前がやってる対策()は完全に無駄、今後も度々殴られる運命だw その言葉そのまま返すw
お前には俺を止める具体的な手段がない。
お前らに具体鵜的な手段がないことを知らしめることも、俺の目的の一つだ。殴ったことになるのか?w ストーカーの手口をドヤ顔で明かすバカって、なかなかないよなw
手口には興味などないんだよ。当たり前だから。
棲み分けるという、このような場所を使うためのイロハのイが判らないお前のために、お前は棲み分けを学ぶまで続けるしかないんだよ。
一方、俺は書きたいときに書くだけだ。 俺が下げているのは、棲み分ける知恵のある人とは共存できるから。
だからスレを上げる行為は、この場所全体を楽しく使う基本がわかってない「荒らし行為」なわけだw
俺は俺が書かなければ誰も顧みない廃物に誰も読まなくても構わない日記を書いてるだけ。この場所に無害。
お前は棲み分けのルールを無視する荒らし。
立場が判ってないようだが。 蒸気機関車
MODELS IMON … 79618倶知安キット C57−4次 C59・C60戦後
9600・C55完成品各種
アートプロ … 鹿島参宮鉄道(関東鉄道)竜ヶ崎線4号
電気機関車
MODELS IMON … EF66 EF30 EF58 EF81 完成品各種
FAB … EF62キット EF63キット
ディーゼル機関車
MODELS IMON … DF50 完成品各種
アートプロ … DD16 三菱大夕張DL-55 新潟臨海鉄道DD55
鹿島臨海鉄道KRD5
WesterWiese … DE10キット
客車
MODELS IMON … 14系寝台車 24系25形寝台車 35系
FAB/WesterWiese … 32系 35系 丸屋根旧型客車各種
電車
アートプロ … 103系
FAB … 711系
MODELS IMON … 流電52系2次原形 自由形2軸田舎電車
気動車
FAB … キハ81・82系
アートプロ … キハ40系各種
貨車
MODELS IMON … ワムフ100 コキ50000 セラ・セフ1
FAB … タキ1900 タキ35000
HOKUSEI WORKS … タキ2000 タキ9900 ↑
ageたのはストーカー君ではありません。
只のバカです。 >お前には俺を止める具体的な手段がない。
えーと、いつ俺がお前を止めると言った?
そこまでお前のことを考えてくれてるとか勘違いしちゃったの?w
まあ衝撃の事実()を知ってしまって、狼狽えて口数が多くなるあたりは面白かったよw アートプロ製UT17Cコンテナ、日触物流仕様も完売
http://artpro.jp/
アートプロから続々発売されるJR系貨車とコンテナ。今回は日触物流仕様が
完売となった模様だ。残るは関西化成品輸送一種のみ。早くも選択肢が
なくなったことになる。背景はやはりJR系コンテナの販売好調か。
IMON のプラ製コキ50000 も発売がアナウンスされ、成長が約束された
カテゴリ。機関車を含め今後の展開が楽しみ。 芋ワムフ100型の発売予定が2023年8月と出て来てます。
ワムワムフ(ややこしい)をスルーしておいて正解であったか。
御幾ら万円??涌網線を再現したいんですよ。
9600型にワムフ一両でもう決まるじゃないですか。
天賞堂9600型にワールド工芸ワムフが今出番が多いエースなんですけどね。
天プラ9600型の黄色警戒帯付など最高の組み合わせです。
でも汚しが難しい。黄色が煤煙で汚れている有様というのは、私の腕では手に負えない。
レモン色のような警戒帯で走っていらっしゃる。
芋の9600型で、警戒帯仕様は出てくれないものか。SF仕様を即金で買うぞ。
難しい表現こそ塗装済み完成品で出してほしい。
芋の関係者様、芋だなんて言って悪かった。製品化してくれたら芋だなんて二度と言わない。
12mmの9600型は二両、持っている
まず珊瑚初回製品。軸固定の世代で位相も怪しいかもしれない。
随分昔に走らせる努力を諦めてストラクチャ状態。業を煮やして芋9600型を買ってしまった。
同形式の並びは活きた鉄道を感じさせて、大変に好ましいからでもある。
芋ワムフは特定番号ではないようだ。助かる。
これで12mmでも遊べるのだが、贅沢を言えばもう少し小さな半径で遊びたいなあ。 >>179
再度掘り起こし失礼します。
本日たまたま、名古屋の鶴舞図書館に寄ったら、見つけました。
中日新聞社刊の “せとでん100年” を。
前回(>>519)は探し方が悪かったのかな?・・・タワケなので。
まっ(笑)
それは兎も角、18ページにありました! 雨宮製蒸機の写真!
前梁にバッファが付いているから、1925年(国鉄の自連一斉導入)より前かな?
サイドタンクが無いのがちと違和感。
どのみち入換・工事列車専用ゆえ、ウェルタンクだけで間に合ったのかな?
それと、煙室扉にナンバープレートが無いようです。そういえば写真の説明には
“1号機” とも何とも記してありませんでした。
いずれにしても、長年探し求めていた実車写真を見れたのは嬉しいです。 >>600
お役に立てたようで、なにより。
全国レベルで見ても関心を寄せられないことではトップクラス。
どうも、出力的にセルポレー式同等を求めたような気がしまして、瀬戸電鉄史は書き換えが必要な気もするのです。 もう書くまいと思ってはいたが、イモンワムフ販売記念。
かーーーーっ貨車で十万超えて来ましたかw
しかも特定番号。ワムやトムの特定番号は形態のバラエティや考証も気配がない、ただの量産品のレタリング違い。
しかしワムフは製品案内を見るに個体差を表現して来ているらしい。
すでに述べた通り涌網線が狙いな訳ですけど、そうなると選択肢は一つだけ!
(他の選択肢の使い道が残念ながら私には判りません・・・・w)
十万越えに体が震えておりまする。貨車一両に十万超え!特定番号の究極のワムフ! >>602
> 十万越えに体が震えておりまする。貨車一両に十万超え!特定番号の究極のワムフ!
Nにしとけば震えもおさまるよ、きっと。 >>602-603
ハゲオクで十六番のカワイ製品探す、という手もあるw 震えたいから、もう買っちゃったよw
ずっとずっと震えが止まらない。震えさせておくれよ涌網線! 伊勢竹原駅に行ってきました。駅名に心当たりある人は古典的名著、シーナリィガイドを隅から隅まで読んだ人ですね。
いやいやいや、名松線の駅の中でも当時の面影を色濃く残す駅じゃないですか。
写真が多い伊勢田尻駅などは、移転と宅地開発で現存率ゼロどころかマイナスですからね。
伊勢竹原駅は素敵な駅舎が、国鉄ローカル線の駅舎が現存しているのです。
貨物側線があったので信号扱い室の凸部付きで、それが現存。これ貴重なんじゃないでしょうか。
書籍に写真は一枚だけですが背後の商家も建築現存。ただし廃業して長いのか看板がもう読めない。
側線に山とつまれた角材ですが、その書籍写真に映らない外側には木材会社が今も事務所を構えています。
さらに・・・・線路を挟んで反対側の廃屋二棟は鉄道官舎ではないですか?
保線区があったそうですが、国鉄時代は配置された駅員の数が多かったのですね。
もし鉄道官舎だとしたら、廃屋とはいえ現存しているのは極めて珍しい筈です。 天北地方に珍しい石炭車がいると聞き尋ねてみました。
その形式を、セサ100型といいます。
明治39年にアメリカから輸入されたもので、当初の形式をホテセ10型と言います。
数年前に英国より輸入されたホテセ1型と比較のために12両が輸入されたもので、試験の末量産化は見送られ明治44年、夕張地区の某炭鉱へ払い下げられました。
ここで私有車としてコピーされ総数60両余となったところで、鉄道省のオテセ9500型へ仕様統一が図られることとなり大正6年、全車両が道東へ移動します。
昭和15年、天北地方に天塩鉱業所が開所するに際し当時残存していた38両が移籍し今日まで活躍を続けているのであります。
国鉄線で戦後まで増え続けたオテセ9500型、のちのセキ1型の一党とは全長も積載量も何もかも異なり、特にカーダンパーに対応できないことから石狩平野からは引退し、天北地方に封じ込められています。
セサ100型は、台枠こそ鋼製ですが床も側板も木製のまま。これは厳冬期に水分が氷結することで石炭の荷下ろしが難しくなることを抑制するため敢えて車体更新は見送られ続けてきたからです。
木製部分は現在も炭鉱付属の製材所にて修繕が行われ整った外観を保ち続けています。
本車両の特徴はその塗色にもあり、ひときわ鮮やかな丹色に彩られています。
これはセキ1型の一党との区別を容易にするためと言われておりますが、雪中も、また盛夏にも鮮やかな石炭列車は一見の価値ありと思います。
この塗色はトキ25000型に影響を与えたとも言われます。
天北地区にてセサ100型が封じ込められつつも残存できた理由として、産炭はカロリーが低いが無煙であることで知られ、現地で主に暖房用として消費されることで遠隔地への出荷がほぼ見られないことが挙げられます。 ブログの作り方も知らずにこんな所で目が滑る長文垂れ流すしか能がないボケ爺さん
哀れなもんだね ※裏話
リオグランデナローの800型ドロップボトムゴンドラの台車をTR41型辺りに交換して9600型に牽かせてやりたいという、具体化のための作業でした。
ドロップボトムゴンドラは満州鉄道にはあったらしいが、なぜか国鉄は採用しなかった。
サンプル輸入ホテセ1型と量産化オテセ9500型の間には数年の開きがあり、加えて形状は大きく異なるようだ。
日露戦争が邪魔だが、リオグランデナローのコピー車両を間にねじ込むことは充分に隙があろう。競作の上不採用とすればいい。
アメリカは貨車を一両だけ頼むというコピー前提の商売はすまい。製造最小ロットの1ダースは流転の果てに安住の地を見つけて欲しい。
石狩平野では国鉄セキの圧が強過ぎて追い出されるだろうが、道東や道北では格安の中古車として買い手はつくのではないか。
戦後は老朽化の為、汎用無蓋車に仕事を奪われ数を減らして行く。しかし無蓋車は底板が開かないため荷降ろしは人力に依存し、大口取引のある顧客からは評判が悪かった。
石狩地区の閉山ラッシュで鋼製セキに余剰が出来たため、天塩鉱業所の末期には側線で十両に満たぬ数が荒れた姿を晒していた。
しかしその逆風の中でもセサ114とセサ129の二両だけは荷降ろし設備の関係から良好な稼働状態を維持し続けており、もはや古典車両に属する紅色の運炭列車がカラープリントに納められている。
国鉄線直通はさすがに取り消されており、豊富駅の外れにある荷主の貯炭場までの間を月に一往復程度の出番であった。
昭和47年の閉山までこの二両はかろうじて稼働状態を保ったという。保存車両はない。
一時期は黒石病とまで持て囃されたブラックストーンズ社、今はHPすらないんだね。
ドロップボトムゴンドラの中古価格が高騰している。 夕張鉄道セサ500型。
北海道の炭鉱の構内掘りでも坑道を埋め戻すのですね。
鉱山では鉱物を取り去った後の空間を埋め戻すことが多いという事が、私には面白い。
地中にアリの巣のごとく古い坑道がそのまま放棄されているものだと思い込んでいた。ジブリのラピュタに出てくる鉱山町の描写はその点、少々怪しい。
鉱脈を取り除いた後の坑道と、鉱物を運搬する坑道は明確に別の存在のようだ。
鉱脈を取り除いた空間は切り端などと呼ばれて坑道と区別されていることがある。
だから鉱山夫が働く空間は、坑道ではないという事になる。
運転手が小さな電気機関車を走らせているようなトンネルが坑道なのです。
坑道は補強が入念にされているなど、ある程度は永久構築物を目指している。
しかし切り端はいつ落盤が起こるか判らない危険な場所です。
鉱物が層を成している状態を鉱脈と呼びますが、火山を由来とする金属資源になると上下方向が多い。
高熱の地下水が割れ目を移動し資源を貯めてゆくと仮設されています。
炭層のような植物遺体でも、褶曲作用などで斜めか垂直に近い状態になることもある。
またまたジブリの鉱山をやり玉に挙げますが、最新作でもラピュタの飛行石でも、鉱脈という概念が全く無いようなのでご注意を。
土中に散在しているらしい飛行石はどうやって結晶になったのでしょう??
鉱脈は縦方向が多い。鉱山では重力を活かして鉱物資源を効率よく集めたい。
だから縦方向の鉱脈から少し離れてエレベーター付きの縦坑で一旦真っすぐ最下層まで降りて、下から上へ掘り上げようとします。
足場が要りますから、掘った傍から埋めてゆく。地中に壁状に存在する鉱物資源が下から廃土と置き換わってゆくようなやり方です。
鉱山は鉱物を外へ搬出する一方で、同じような体積の廃土を中に運び入れておるわけです。そのイメージはなかった。 鉱山では意外と垂直方向の坑道が多い。だから廃坑探索は非常に危険とされているわけです。
廃坑を紹介するHPでも、底まで光が届かないような深い竪穴がよく紹介されております。
またまたラピュタですが、冒頭のエレベーターで深層まで降りた技師たちの描写はその点、正しい。
また深層にも鉱物が見当たらない所が絶望感を際立たせています。あんなに直径の大きな竪穴がなぜ出来たのかは判りませんw
貝島炭鉱の良書には、かなりのページ数を割いて筑豊炭田が掘る傍から埋めていた事情を解き明かしてくれます。
筑豊炭田の炭層は水平に近いそうですが浅く、地表が水田として利用されているため水抜けが起こると大変な補償額となってしまう。
だから掘った傍から埋めて空間を潰してゆかねばならなかった。それをキッチリやる会社では大きなボタ山は出来にくいが、サボる会社はどんどんボタ山を積み上げてしまう。
事情は農民にバレてますからボタ山の成長具合が会社の外から評価されていたらしい。
水田のすぐ下は、良い炭層があれど難しくて手を付けられなかったとも言います。
倒産寸前の会社は浅いところの手つかずの良い石炭をガッと急いで掘って漏水をそのままに経営者が夜逃げなんてことも、末期にはあったらしい。
だから、同じ筑豊地域で農民と炭鉱はとにかく仲が悪かった。
戦後に選挙になると鉱夫のほうが票の数が多いので、自治は荒れ模様になりがちであったとか。
閉山となり鉱夫が去ってしまうと議員の顔ぶれも変わる。筑豊炭田は地域の歴史として伝承されてはいるが、住民構成の変化も知識として抑えておくべきかと思います。
夕張でも実は同じなのですが。農民は世代を超えて根差すが、鉱夫は定着しない。
なぜ夕張にセサ500?というところまで戻りますが、狭い谷間にボタ山が造れないから、遠方の土取場から運んでいたのでしょうか。
どうせ運ぶなら水で流しこみやすい火山灰?発生したボタの処理はどこで?この辺は謎です。
(地域によりボタ=ズリ、ですが今は用語の違いは無視してます。)
貝島の本でも、蒸気機関車が水田を行く。機関車の関係者と耕作をする人々の間には利害の不一致がある。廃線跡を巡るにしても、状況は知ったほうが良い。
ただ漫然と鉄道模型を走らせるよりも、裏の事情を深く知ったほうが面白いと思うのだ。 全て鉄道模型の肥やしになること。
誰よりも鉄道模型のことを書いておるのになぜ下げる必要があるのかね?w
宇都宮ライトレールのNゲージ鉄コレ走行セット、辛抱たまらんので手を出してしまった。
久しぶりのNゲージである。あまり手を広げずテーブル上のグルグルを楽しむのみとしよう。深みにはまるほどのものではない。
とはいってもトミックス、極端に短い鉄橋や大きな築堤など心くすぐるアイテムがいつの間にか充実してるんだよねえ。
システム上、複線間隔が広過ぎるので単線の田舎電車風に落ち着きそう。名鉄馬面電車買っておくか。
バスコレはなんとなく、手にしたら裏切られる予感がしてるけど。交差点は、そこは手動ではなく遠隔操作そして自動で切り替えてくれよ。
自動運転になれば欧米市場でもファーラーを駆逐できることでしょう。
自動車はそのうち赤信号やコンビニ駐車場で充電とか、車線変更もできるようになるんじゃないかな。ミリ単位で位置を把握する技術さえあれば、道路側に無加工でも何とでもなる筈。
市街地でこまめに充電すれば50cm走れるだけの性能でも構わない。高速道路を再現したい奴はおらんだろ。市街地がにぎやかになった時に手を伸ばすとしよう。
手を出しては一方的に裏切られたような、こちらの期待が激しすぎたのが悪いのだけれども、
Nゲージとは良い関係を築けずにいる。 マグマの通り道は縦だけじゃなくて横にも走るよ。
坑道を埋めるのは、ズリ捨てと、崩落防止の意味もある。
特に収穫率の低い採掘鉱山だと、収穫量よりズリの量が多い。
長い立坑は、底まで一旦落としてから下層のトロッコで運ぶ方が便利だからという場合もある。
トロッコ巡りだけじゃなくて、近くに資料館あったら、寄って勉強した方がいいよ。 麓に鉱口があって上に貼っていく場合、最下層
のトロッコをかつようしたいから、
上の段から最下層まで穴を通して、最下層で積み込んだ方が楽だし。
で、採掘の終わった段は埋めてその上に新しい段を作っていく。
別子銅山か、軍艦島とその周辺の資料館見てきなさいよ。 ブログもSNS垢も作れないIT音痴でこんなところに電波長文を垂れ流すのが生き甲斐の哀れな痴呆爺さん 模型の事も語れず内容についてゆけないお馬鹿さんw
>>一般常識ではなく、私も各地の展示を見ることを重ねて資料を読み込んで得た結論ですよ。
あなたのいうことは概ね正しいが、上から目線過ぎると思いました。せいぜい同レベル。 >>618
>あなたのいうことは概ね正しいが、上から目線過ぎると思いました。せいぜい同レベル。
推測による間違った思い込みご多くて、実は
割と間違っていたり底が浅いレベル。 >>612
>筑豊炭田の炭層は水平に近いそうですが浅く、地表が水田として利用されているため水抜けが起こると大変な補償額となってしまう。
>だから掘った傍から埋めて空間を潰してゆかねばならなかった。それをキッチリやる会社では大きなボタ山は出来にくいが、サボる会社はどんどんボタ山を積み上げてしまう。
地権は地下まで及んでいたはずじゃ?
浅い石炭層を簡単に掘り進んで他人の土地まで行くのか?
あと、炭田で水抜けなんて起こしたら坑道水没で死人が出る事故になっちゃうから、そんな簡単な話ではない。
>掘った傍から埋めて空間を潰してゆかねばならなかった。それをキッチリやる会社では大きなボタ山は出来にくいが、サボる会社はどんどんボタ山を積み上げてしまう。
石炭を選別した後のボタはどうしても発生するし、埋め戻しのためにボタが必要なら、積志ゃの返送でボタ運べばいいだけ。
やらないのは必要がないか、費用の問題。
あと、単純に土で埋め戻しても漏水ならば簡単にはとめられない。
コンクリートで壁を作るなんてわけでもあるまいし。
(コンクリでも漏水は起きる) トンネル工事の話を読むと、崩落、漏水は大変。
鉱山も一緒。
炭鉱火災も怖かったらしいが、そこはあまり深くは知らない。 >>621
炭鉱火災は可燃物あるしふんじんばくはつもあるな。
炭鉱火災じゃなくて坑内火災。 ≫620
表面の所有権と鉱区は別で他人の土地の下をどんどんほっちゃいますよ。
岐阜県で、戦時中の亜炭鉱山が市街地の真下にあって大問題になったぐらい。
そして筑豊炭田で大規模な水抜け事故、実際に何度も起きてます。
貝島の専用線の目的の半分ぐらいは、埋め戻しの砂を運ぶこと。
砂を運ぶ貨車はワールド工芸から製品化されているぐらいですから、ぜひ調べてみて。 鉱山の展示ですけど、多くが坑道の脇に凹みを作って人形を収めて展示にしている。
少し考えればわかるけど、商品価値のあるものが坑道の脇にあるわけがないw
見せやすい様に展示スペースを作ってくれているわけです。
足尾銅山だと思いますが、かつての鉱脈の縦方向の空洞を展示して見せてくれます。
鉱夫の足元までズリで埋めて、鑿岩機が頭上というか、斜め上を向く。
そう言う作業空間を見せてくれる数少ない場所でした。参考になれば・・。 鉱山の話ばかりしてどーなんじゃ、と言う意見もありますが、たとえホッパーしかレイアウトで表現しないとしても、その背景をどれほど深く知ることができるかどうかは私にとって死活問題に近いんですね。
なぜこの無蓋車の側板は板3枚で、こちらは4枚なの??そういう事が全く気にならない人と気がついてしまう人の差がある。
それは1067mmに気がついて仕方がなくなることと方向性は全く同じと思うのですけど、自分は気にしないから他人が気にすることは許さん!と言う人が必ず出てくるw
そういう性質の人も呼び出して晒しあげられたら、とは思います。密かにw ブログもSNSも作れず交友関係もなく独りで長文を垂れ流すしか能のない末期高齢者が
発狂して誰も読まない汚物みたいな長文を連続で垂れ流してるね
この爺さん早くくたばればいいのに >>623
最近あった土地ごの陥没も含めて、陥没は近年土地が開発されて
住宅地になった後にも地下水で土砂が流されて空洞が広がった挙げ句。
埋め戻しの土砂は選別が終わった後の残り滓を使える。
ボタ山っ、あれ全部ゴミだよ。 >>624
>鉱山の展示ですけど、多くが坑道の脇に凹みを作って人形を収めて展示にしている。
>少し考えればわかるけど、商品価値のあるものが坑道の脇にあるわけがないw
>見せやすい様に展示スペースを作ってくれているわけです。
少し考えればわかるけど、
坑内にも待避所や休憩所、事務所も必要なんですよ。
特に深部だときゅうけいのたびに外に行くのも面倒だから、そう言ったスペースを作る。
鉱山だからって、鉱夫の作業スペースだけあればいいってわけではありません。
>足尾銅山だと思いますが、かつての鉱脈の縦方向の空洞を展示して見せてくれます。
石見銀山とか見に行ったことある?
一円電車とか見に行ったことある? 誰も読まない割に反応があるw
>>628
誰もあなたを否定してませんよ。全て網羅しないと負けなんですか?w
何で対抗意識を持とうとするんでしょうか?誰に勝つつもりなんですか? 相手が複雑な事柄を全て網羅しないと見ると、相手を挑発した様な文章を書く。
これってすごく無駄なエネルギーだと思います。平易な文章って書けないんですか?
私はあなたを試していますけど。 本当にどーでも良いことかもしれませんけどボタ山は大手企業の手によるものほど宝の山。
企業の採算ラインに乗らない事が捨てられる条件なので、炭住の住民は今夜の煮炊きの燃料を得るためにボタ山に登る。
子供や老人が燃料探しをするのは貧しい炭住ではお約束の光景であり、農民から見れば理解不能。
企業や政府の公式発表だけ見ていると、色々取りこぼします。
政府や企業からはゴミの山であり、危険な場所に無断で侵入する泥棒が後を経たない状態です。 本当にどーでも良いことかもしれませんけどボタ山は大手企業の手によるものほど宝の山。
企業の採算ラインに乗らない事が捨てられる条件なので、炭住の住民は今夜の煮炊きの燃料を得るためにボタ山に登る。
子供や老人が燃料探しをするのは貧しい炭住ではお約束の光景であり、農民から見れば理解不能。
企業や政府の公式発表だけ見ていると、色々取りこぼします。
政府や企業からはゴミの山であり、危険な場所に無断で侵入する泥棒が後を経たない状態です。 以上、ボタ山については蛇足でしたね。企業にとってはゴミであり、埋め戻しの材料であるという点は正しい。
金属鉱山では回収する事もないので、さらに価値は上がる模様です。
廃鉱山の坑道から漏れ出す廃液の泥は高濃度の金属元素を含む事があって、要するに有毒なわけですけど、最新技術で資源として再処理に回され処理されるそうな。
新技術がゴミを宝にするのです。 >>629
いい加減な推測を断定口調で書き込まれているから
訂正を入れただけ。
対抗意識で誰に勝つつもりなんですか? >>630
平易な文章で長文の間違った推測を断定口調で
書き込まれると、あなたは世間に対する害悪ですね。 >>633
石炭と違って金属鉱山は回収に資本と技術が必要になるので、鉱山の採取カスから一般人が金属を拾い集めるのは多分無理。
ゴミの山から金属類をあさる「都市鉱山」の話と感動していないかい?
>廃鉱山の坑道から漏れ出す廃液の泥は高濃度の金属元素を含む事があって、要するに有毒なわけですけど、最新技術で資源として再処理に回され処理されるそうな。
鉱山から流れ出す廃液じゃなくて、鉱山から有価金属を
取り出した後の廃液垂れ流し方が主な問題じゃね?
廃液をさらに処理して金属を回収する目論見はいろんなところでなされてはいるが。 推測と分かっているのにケチをつけたい、病的な人ですねw
金属鉱山からの回収はもちろん、専門業者ですよ。
全部事細かく書かないと、勝手に間違いだと決めつけて何か付け加えようとする。病的ですねw 今までの文章で間違いの部分って、ないよなあw
この人、何か追加情報を付け加えているだけで、それを自分では訂正って思っているわけ?病的ですねw
他人とうまくコミュニケーションできないとか言われてませんか? >>637
推測していることが間違い、妄想、課題解釈。
>>638
オマエがやっていることで、おまえのことじゃん。 あーこれは頭の病院行き確定ですわ
もちろん強制力は無いんで、おまえには何もできないとかいう勝利宣言()は要らないよ?w >>640
オマエは気狂いだと勝利宣言してるの?
おまえには何もできないとかいう勝利宣言してるの? 自分のこと言われてんのに、気付かないふりして誤魔化す奴って居るよねw てか続きはもういいの?
見られたくないから見せつけるに転換したものの、元々どうでもいいことだから飽きちゃったの? 鉱山系の疑問があるならばこんなとこに垂れ流さないで
それ系の板行って素直に質問すればいいのに。
丁寧に質問すれば、ここ以上に詳しい人がもっと親切に教えてくれるよ、きっと。 1番の目的は、12mmスレを占拠されるとイライラして邪魔したくなる人を釣り上げる事ですからね。他所という選択肢は最初からありません。 1番の目的は、12mmスレを占拠されるとイライラして邪魔したくなる人を釣り上げる事ですからね。他所という選択肢は最初からありません。 本音バラされて開き直っちゃったかー
まあ所詮その程度のクズよなぁw まったく。
そんなことしか言えない輩を生み出してしまったガニ●タ変形規格は
即刻世の中から抹殺しないとな。 >>650
まぁこの人は死にかけたスレッド見つけては妄想垂れ流しているだけの人だからね。
これが12mスレッドだとしたら、12mmは
鈴木がゲージ論垂れ流すしか話題がないってことになっちゃう。 12mm に話題がないなんて、とんでもない。
某メーカーが丸屋根客車のバリ展を行っているが、そのうち食堂車の一部が
予約開始後1週間で完売の勢い、戦前の優等列車志向のモデラーは実物通りの
編成が組めると狂喜している模様。EF53、EF58、C53、C59、C62 といった
かつての大型機関車に光が当たっているらしい。
当方事情がよくわからずイマイチ話題についていけてないが。
このほか、EF66、EF30、DD16、79616、14系客車…
最近の発売ネタだけでもいろいろあるんじゃないの?
煽ってすまん。できれば眼を向けたくないよね。 >>652
自分が買うのかどうかもわからない、発売数量もわからない車両の
完売情報で煽るくらいしか話題がないの?
あいかわらず12mmの話題だけでは話が続かないんだね。 すまん。いくつかは買いましたが。
煽ってすまん。このネタになると必死になるね、ガニ某は。
買ってないことにしたい。広まってないことにしたい。 丸屋根客車食堂車、私が買わなくても完売になっちゃったんだけど。 >>654
何両くらい買ったの?
嘘じゃないんなら写真でも見せてね。
>>655
生産量次第の話ですね。 >>654
何両くらい買ったの?
嘘じゃないんなら写真でも見せてね。
>>655
生産量次第の話ですね。 おいおいおい、12mmの話題を始めるなよ。
俺が一番阻止したい流れだぞ、これw >>658
オマエに従わなきゃならない理由はない。 >>658
ちゅうか、ここって12mmのスレッドだろ。 キチガイの思う壷にならないようにキチガイが行動するという
常人から見れば笑うしかないという状況w 常人だと思うのなら覗かなければ良い。
わざわざ覗きに来て一言言わずにおれないという、異常な心理の持ち主は常の人ではない。 効いてる効いてるw
で、引越し先は決まりましたか? 負け犬さんw >>664
ガ◯マタNゲージは楽しいですか?
Nゲージャーのバ閑西人さん。 IMON の D51 完成。戦時型に偏っているような。
標準型は 170 人吉と 241 追分しかない。半流よりも少ない。
(半流は 1 青森、4 追分、42 延岡、70 追分の4種)
地域も偏在。本州は 1 と 1076、いずれも青森区のみ。ちょっと極端か。
続編はあると考える方が自然だろう。
デゴイチの象徴たるあの集煙装置。中央西線をモチーフに数機種出ても
おかしくなさそうだ。その頃には一時期話の挙がったキハ181系なども
加わり、今とは全く違うシーンを見せてくれたりなんかして。
ちょっとした妄想でした…! C62が出てからやろ
何年先になるかわからんけど
IMON新サイトになって、製品化予定の頁は消えたの?
毎年出る出るのプラ35系客車はどうなったん? 疑惑しかない鍵オタ
そうだよなw
「俺のお盆時期の労使紛争を知らないのかな >>670
>C62が出てからやろ
>何年先になるかわからんけど
TがC62で12mm市場に参入する時のために敢えて控えているとか