後漢末の群雄割拠時代
リカクシ、袁術、陶謙、公孫サン、一応味方だけど袁紹
に囲まれつつ火中の栗を拾いにいく曹操 中国って、人間絶滅とか考える人いないんだよなあ、、、 >>11
人間を人間と思ってなかったり、
人間なんて殺しても勝手に増えると思っていたりするなら
そうなるかもしらんな 官職で太守とか将軍になり、事実上の君主となっていて
日本の戦国時代と似ている そこで、(武公が)家来たちに尋ねて言うことには、「私は兵を動かそうと思う。どこを討伐するのが良いだろうか。」と。 大夫の関其思が答えて言うことには、「胡を討伐するのが良いでしょう。」と。 (それを聞いて)武公は怒り、関其思を殺して言うことには、「胡は兄弟のような国である。(それなのに)お前はこれを討伐しろというのはどうしてか。」 胡の君主はこの話を聞いて、鄭を自国に親しいものだと考え、そのまま鄭(の侵攻)に対して備えをしなかった。 そもそも二里頭文化の発見者である徐旭生は夏王朝の王都(夏墟)を、文献上の夏王朝に関する伝承を元にして探し当てたのだ 驃騎将軍は奮い立って合従連衡し、三秦の地で旗上げして黄河・潼水の流域を支配した。
朝廷を尊ぶ事を基本にしながらも向背常ならず、
その隙を敵に付け込まれ、一門を滅ぼし軍勢を失う事となったが、
道理に背き徳義に反したからであり、鳳や龍に身を託す事になった。
馬孟起を賛える 後漢光武帝すら、
前漢宣帝をベンチマークすると言いながら、
郷挙里選の際の重要科目を孝廉(孝行と清廉さ)とし、
王莽の路線を引き継いでいる。
孝廉などは、推薦する地方豪族たちが結託すればどうとでも、
脚色できるので、後に梁冀などの佞臣を輩出することになってしまった。
構図は全く王莽と一緒で、王莽と同じく偽善をして世の評判を得るのである。
それを郷挙里選の推薦者地方豪族が結託して、
孝廉の評価の裏付けをした。 なぜ光武は、東方で勝利したか。理由は、4つ。
1つ。光武の個人的な指揮能力。桃郷で、張歩をやぶり、臨菑にいった。
2つ。劉永、董憲、張歩の連盟が、ゆるかった。光武が睢陽を数ヶ月かこんだとき、救わなかった。蓋延は、劉永の部将を斬ることができた。さいごには分散して、平定された。佼彊、蘇茂、周建など。
3つ。東方の勢力のもと、地方の守令がそむく。劉永が淮陽でやぶれ、虞県にゆくと、妻子を殺された。サン県の慶吾は、劉永を斬った。周建が死ぬと、子らは入城をこばまれた。張歩と蘇茂が、斬りあった。
4つ。東方の勢力は、兵糧や輜重をかろんじた。寇恂のように、つねに供給するルートがない。2回目に光武が劉永を淮陽でかこみ、城中は食い尽くした。029年7月、光武が昌慮で戦い、五校をまねく。五校は食い尽くして、撤退した。董憲は朐県で、食い尽くした(張歩伝)。光武紀は、029年に斉地をたいらげてから「田畝をふや」した。光武が生産を回復しないと、東部は飢えた。陳俊伝で、百姓はよろこんだ。耿弇は、張歩12郡をとり、10余万をえてから、郷里に返した。農民は流亡して、生産ができなかった。 光武帝劉秀という人は、
前漢を滅ぼしたのは確かに王莽なのに、
王莽が作った制度の大部分を受け継いだ。 皇帝の権威づけに役に立つと考えたか、
光武帝自身が王莽政権の思想自体に共鳴していたか、
と思われるが、私は両方だと考えている。 人材採用制度も、
儒教的考えから孝廉を重視するようになるところからしても、
光武帝は王莽のやり方に共感している。
加えて、自身の権威付けの部分で
メリットがあることから、
王莽の制度を採用した。 その中の一つが陰陽五行説の解釈である。
王莽が前漢は火徳だとしたがそれをそのまま受け継いだ。
この陰陽五行説の考え方は当時相当に広まっていた。
それは、赤眉の乱でわかる。
この乱を起こした人たちは、眉を赤く塗った。
それは、
漢の復興を目指す象徴だったからだ。
火徳の象徴色・赤色を眉に塗ったわけである。
こうして、後漢は火徳となった。
火徳は赤色である。
一般的に、漢は赤色のイメージが強いが、
このような経緯で
ようやく赤色となるのである。 後漢より後、元までは相生説。
後漢からは相生である。
であるが、後漢がみずから相性ですよ、というのはおかしい。
何故なら皇帝=万歳爺であり、永遠に続くことが前提だからである。
ここは光武帝をはじめ後漢の皇帝がこれを認めたということではない。
漢までは相克だった。
それが後漢初で固まっただけである。
積極的に相生説であるとするのはおかしい。
だが、
この五行説の考えは一般に流布されていく。
相克説では廃れ、相生説の方が定着した。
それは黄巾の乱でわかる。 後漢末、相生の概念で、張角は、
「蒼天すでに死す、黄天当立」といった。
これは、相生である。
相生だと、
土金水木火の順番である。
黄色が立つ、とあるが、
これは漢が赤色、火徳だからである。
赤が立たなくなって、黄色が立つということである。
既にここで相克説ではなく相生説が一般化していることになる。
※張角が相克説だったか、相生説だったかは諸説ある。
が私は、相生説に則っていると考えた。
赤眉が赤だからである。 張角のいう蒼天は、五行説とは関係がなく、ただ天を示した。
天=皇帝である。
青色とすると、木徳になるが、漢王朝とは関係がない。 牧伯制の導入により、豪族勢力による地方支配と、豪族の自律が既成事実と化した。後漢の朝廷がもつ権威は、後退が決定的となった。軍閥が割拠する情勢に、拍車がかかった。 ヽ(ヽ>ω<)ヒイィィィ!!●~*ヒイィィィ!!(>ω<ノ)ノ 漢の光武帝は、高祖から数えて九世の孫にあたります。 (景元四年)この月、蜀主劉禅」艾を詣で降り、巴蜀皆平ぐ。…(翌咸熙元年)丁亥、劉禪を封じて安樂公と為す。(『三国志』元帝紀) 【鏡の法則】人生とは自分の心の中を映し出す鏡である 俺の母は認知症では無かったが、腎臓の機能低下で尿の毒素が脳に回って意識障害が起こって、俺の事を自分の子供と認識できてない時があった ほとんど戦の功績は史実に残ってないからね
どうしても戦に於いて最前線での軍師としての評価は低くなりやすい >>そんな彼らでも軍事の天才とは呼ばれてないから、三国時代には軍事の天才はいないだろ。
まあそう言われたら返す言葉もないが
人によってどこからが天才と評価するかが違うからな
「人類の歴史上トップクラスでなければ天才といえない」という考えの人であれば、
確かに三国時代に天才はいないことになる
俺も「諸葛亮は人類史上最強の軍人だ!」なんて言うつもりはないよ
ただ、上にも書かれている通り諸葛亮は同時代の人からの評価がとても高いので、
少なくともこの時代においてトップクラスであった事は間違いないと思う 実績は少ないだけだからな。無駄に多ければ一流の証明と言えるわけでもない。 正史には霊的現象のような非科学的な事象は含まない、と勘違いしてるのは居そうだな。 蜀がちゃんと、九卿でいうと太常とその下の太史令を置いていれば・・ 何進・皇甫嵩・朱儁・楊彪・孔融・盧植・黄琬は後漢末期の忠臣・名臣だから後漢書に伝があるのは判る
董卓・劉虞・公孫瓚・陶謙・劉焉・袁術・呂布・袁紹・袁譚・劉表・臧洪は後漢末期の群雄だから、これもいいだろう
荀ケが曹操に疎まれ自殺した経緯を考えれば、荀ケもOK
でも楊修が楊彪といっしょに伝を立てられているのは違う気がする >>52
楊彪は曹操に疎まれ自分から曹操との距離を遠く置いた事で天寿を真っ当した
楊修は曹操に仕え曹植のサロンの主要メンバーにもなり曹家に深入りし最終的に曹操によって処刑された
この2人の立ち位置の違いと終わり方の対比を知らしめる事に意味を見出したかも