諡号について語るスレ [無断転載禁止]©2ch.net
あの諡号っていい意味なの?悪い意味なの?
とか
あの君主って諡号の割に大したことしてないよねww
とかそういうことを語っていきましょう 流行り廃りでいくと
魏晋南北朝時代の皇帝に「明」が流行ったように感じる
「昭」じゃダメだったのか?と思う
個人的には桓温の「宣武」がお気に入り 曹叡だったかな。明が早くに使われたのは。
「昭」は周の四代目では使われた歴史ある?諡号だよね >>3
「昭」と言えばやはり戦国燕の昭王かなあ
周の昭王は楚征伐に行って行方不明なった王様か
何で「昭」という比較的良い諡号もらったんだろ 絶対に賛同得られないとは思うけど
戦国末期に、文と閔(ビン)が同時期に使われてるから
この二つはごっちゃだったんじゃないかとか思ってる
昭=荘=襄もごっちゃなんじゃね? とか 閔(ビン)春秋前半期の宋にいたと思うけど、
そっちはどうなんだい? >>5
秦に昭襄王とか荘襄王いるから違うんじゃね? >>2
劉宋と南斉の明帝がどちらも一族大量虐殺しているのは偶然の一致? >>8
それはさすがに偶然の一致では
ただ劉ケも蕭鸞も身内には残虐非道だったけどその分政務にはかなり精力的に取り組んではいるんだよな
虐殺の話題が振られた途端に燦然と輝きはじめる石勒という明帝の金字塔 >>6
同時期の君主調べてみるよ
ありがと
>>7
たしか垂虎地秦簡だと、その二人は昭王と荘王。史記の「襄」がどこから出てきたのか不明
また韓非子に燕昭王を指して燕襄王と表記されてたりする
多分、音に対してどの字を当てるかごっちゃだったんじゃないかとか思ってる
思ってるだけで検証してないし、探せば完璧に否定する論文もあると思うけどさ >>4
それをいうなら宋の昭公(春秋時代の方)は悪政の末暗殺され、魯の昭公は三桓に追放されて他国で死んだし、美諡をもらってる暗君は結構いる
孝の概念からしてもなかなか父や兄に悪諡はつけられなかっただろうね 鄭の文公はあまり擁護できないかな
燕の恵王も無理に美諡にしてる気はする >>13
「恵」は柔弱なイメージあるなあ
そこまで美諡でもないような
趙の恵文王とか奥歯に物が挟まったかのような諡号 東晋の簡文帝司馬cは司馬衷がいなかったら間違いなく「恵帝」か「恵文帝」だったと思う
司馬衷は「恭帝」とかで良かったろ >>13
趙だとそっちよりも武霊王とかすごい評価に困ったんだろうなって感じがする 共=恭でいいんだっけ?
楚の共王とか絶対に諡号つけまちがってると思うんだが >>11
傍系から簒奪したり弑逆したりいろいろ胡散臭いことあったりすると容赦ないよな
斉の霊公ってそこまで暗君じゃねーだろ >>19
少なくともその諡号をつけた息子さんよりはマシだね >>21
息子世代もそこまで酷くないと思う
霊王(熊虔)は典型的な簒奪者側の都合でつけられた諡号だろう
平王(熊弃疾)と逆でいいくらい
でもやっぱり共王は遺言あったとは言えもう少し良い諡号あったんじゃねえかな
敗戦ひとつで「霊か獅ナヨロ」なんて自虐すぎ 自虐過ぎとはいうが、失政重ねても省みないアホな君主も大勢いたろうなかで思えば
むしろ美点だろうし、臣下にしてみてもあまりにいい美諡では王の遺命に背くってところで
ぎりぎりのいい諡号だと思うけどな
いささか生真面目過ぎるとはいえ、父親があまりに偉大で次代の身として相当の
重圧はあったろうと察せられる様にも思うし 共で思い出すのは晋の共太子だな。
春秋期に起きた悲劇の五本の指に入ると思う。
>>18-23
楚の共王は鄢陵の戦いで負けて子反の自殺を止められなくて気に病んでたから、
悪い諡号にしてと遺言したくなるのもわかるし、
臣下視点では悪い君主ではなかったから悪くない諡号にしようと考えるのもわかる。
なんか思いやりがあっていい話だ >>16
諡法解に「柔質受諫曰恵(柔和でよく諫言を聞く」とあるけど、
何かで、あまり優れた君主でない場合にそれをごまかすために
恵の字を諡号にしていたって読んだ気がするが思い出せない。
14さんの言うように「恵」は柔弱なイメージっていうのは恵を諡号に送られた人物をみてもその通りだと思う。
歯にものが挟まったというのは全く同感。 諡号恵って漢の二代目もそうだったよな。
母親がアレだったのが原因か 独立党が不正選挙する目的と私の不正選挙追求
選挙は、すべての選挙が不正選挙で健全な選挙などない。
さゆふらっとまうんど https://m.youtube.com/watch?v=DOcjoQSA2k4 >>26
漢の恵帝はまさに文字通りに美諡として使われてる。
でも晋の恵公とか晋の恵帝とかあきらかに暗君の意味合いを隠蔽するためとしか思えない。
霊だの獅セのにしなかったのは、弟に対する文公のせめてもの情けって感じがするし、
西晋の場合もわかっていてもいかにも暗君ぽい諡号を避けたような印象。
楚の共王の諡号をどうするかという話は諡号が決定される過程を描いた逸話で興味深い。
晋の詞はたしかに暴君的な要素はあったが、公室の力を維持しようという詞と貴族たちの政争の結果を反映したような諡号だし。 >>26
よく考えてみたら『史記』には「孝恵本紀」がなく「呂后本紀」がある。 再度考えなおしてみたら、呂氏の勢力を一掃した文帝とその臣下たちが贈った諡号だと推察できることや
『史記』での扱いを考えると手放しで美諡の意味合いとは言えない気がしてきた。
すみません。連投スマソです。 >>29
そうか?母親の傀儡だったようにも見えるが 趙の恵文王ってもっと苦戦してもおかしくないところを、
かなり持ちこたえてた良君だよね。
ところで思ったんだけど、春秋までは〇王or公ばかりだったのが、
戦国以降○○王という形式増えたよね 秦の恵文王も孝公の後で難しい立場なのによく発展させたと思う
商鞅を殺して商鞅の政策を継続するのは中々出来ることでは無い >>35
田斉の威王と魏の恵王が周王室をはばからずに王を公然と称したからねえ。
長江流域の楚、呉、越を除いて春秋時代は周王室を奉る形式をとっていたけど戦国時代はそれがなくなった。 >>35
先代武霊王の頃より趙を取り巻く情勢が厳しかったのは確かだけど、俺の考えでは良君と凡君の中間かなー
リスクをとって機会主義的な領土拡大に走る諸侯の間をフラフラ漂って機会を逃し続けた無難君主という印象
無難すぎたツケを息子が払ってる
>>38
即位元年の商鞅誅殺と直後の政治方針は(年齢的に)恵文王の仕事というよりは重臣の仕事だと思う
秦恵文王の真価は公孫衍・張儀・甘茂・樗里疾・司馬錯ら能臣を起用し中華の外縁部に勢力を伸ばした点かと
息子世代にも秦を超大国に押し上げた魏冉を遺してるし抜かりはない >>35
確かにな。恵文とか昭襄とか二文字の増えたよね 秦の恵文王は商君の法の継続を評価されるけど
父君の代に新法がある程度浸透していたら普通廃さないだろう
統治に便利なんだし暴君暗君の類でもまず間違いなく継続するはず
秦の支配を周縁部に浸透させたのが一番重要な功績だな 恵文王が商鞅の制度を存続させた最大の要因は、唯一王だけは法外の存在である事を
認めてるからだと思うけどな
そうでなきゃ寵臣はおろか王族といえど既得権益を認めない法を続行させるなんて、
よほど覇気と覚悟がなければ撤廃してる
貴族ら支配者層にしてみれば、代替わりにこれ幸いと旧態に復そうと運動するだろうし、
新君主がその圧力に屈する事だってありそうでもあるし >>43氏の認識は結構いい線いってると思われ、恵文王が反対派の抵抗を抑えた話は特にない
秦律は献公、孝公が整備してきた祖法、軽々しく否定はできないでしょう
それに恵文王時代は王族貴人を重用してる上に寵臣権臣の国政私物化が目立つし
てか軍功を重視する貴族戦士向きの法制度はわりと歓迎されるんじゃね?秦国パワーエリートに
>>35
明らかに戦国から二字諡号は増えたけど楚の景平王(平王)みたく略されて一字しか伝わってない春秋君主が結構いると思う 虎狼の国は確かに君権は強いけど君主が強権発動して排除しない限りは基本的に貴戚と寵臣と彼らが推挙した人材が朝廷を牛耳り国を操縦する構造になってるし軍人は世襲色が強い
商君や恵文君の時点でほんとに言われているような制度だったのか疑問ですな
趙恵文王は隣国との小競り合いを除くと常に受動的な政策に終始してる感があって個人的には微妙
故に当たり障りがなく評判は上々だが時代は父王が遺した機動性の高い軍隊と勇猛な民を奮い立たせる王を必要としてたんでわ? >>46
あのとんでもない楚の平王に景などという美諡がついてたの@@
出典は?? 奉陽君わりと好き対秦合従を画策したし(縦横家並み感)
>明らかに戦国から二字諡号は増えたけど楚の景平王(平王)みたく略されて一字しか伝わってない春秋君主が結構いると思う
晋の荘平公とかな
楚王てーと簡大王や聲桓王みたいなオンリーワンの諡号がありますね 創業者以外の皇帝に武って諡号が付いてる時の不穏な感じ >>49
出典はいわゆる清華大蔵戦国簡の《楚居》《繋年》 秦の武王は最後があれだから印象悪いけど、そんなに悪い内容では無いな 悼武王は中原進撃の尊い犠牲となられました!大志ある者に摩擦と挫折は付き物です
>>50
追加:楚の恵王⇔献恵王
>>49
あと他にも竞坪王・競坪王と書かれた銘文が発見されていて(中国の論文を漁った)
これは景平王のことらしい 悼武という諡号、冉魏の冉閔が慕容儁からもらってたな >>54
お返事あり。焚書坑儒で六国の歴史書も焼かれたらしいから司馬遷の時代にわからなくなっちゃったんかね...
諡号から離れちゃうけど、燕の昭王も太子平じゃなくて趙世家にある韓から迎え入れた燕王職の可能性のほうが強くなってる感じだし。 廟号で烈祖って意外と多くてびっくりした記憶が
何で高祖とか太祖じゃなくて烈祖なんだよ どこまで参考にしていいのか疑問はあるけど、
ウィキペディアの同一諡号リストだと、武王が一番多くて(8人)、次に成王が多い(5人)らしいな 公だと
12人……文公・武公
10人……桓公
9人……荘公
7人……孝公・穆公・霊公
6人……釐公・襄公・詞
ってなってて、ちょっと面白いな >>58
武烈天皇「せやな」 新羅武烈王「せやろか」
>>59
加えて司馬遷が拾い損ったor取捨選択した可能性もありますね
燕の昭王=公子職は確定でしょう >>62
王はともかく公は小国で記録に残ってないのがたくさんいるだろうな 先秦伝世文献には女性の諡号も少し記録されているけど一般的ではなさそうかな やっぱり、周建国の文武と五覇(桓・荘・穆・襄)が人気か
孝が思ったより人数いるのが以外なのと、霊・獅フ悪諡が多いのが面白い
そして地味に6人いる釐。釐公と言われても全然思い浮かばないぞー 事績が思い浮かぶのは斉の釐公だけ
己の知識不足を痛感する >>66
パッと名前出るのは臨朝称制した秦の宣太后
あとは趙の威太后、武霊王夫人の恵后くらいですわ >>71
調べたらwikiで中山も入れたら10人いた 俺も釐公で思い浮かぶのは>>68-69の二人だな
あとは戦国時代の魏の安釐王 周王なのに夷王ってどうなん?って疑問に思って調べると案の定ヘンな諡号発掘
その名も𢕌王
>>70
俺も同じ 文献で伝わってることは伝わってるけど司馬遷達の生きた漢代と春秋戦国以前の文化・社会は全然違うから理解は難しい、かなりテキトーに書かれてるのかなあ・・・ 斉桓公はなぜ文や武が諡号でないのかと思ったら、西周期すでに斉武公と斉文公がいるんだね。詳しく事跡を知りたいが文献残ってないよね... >>77
それ言ったら、荘公かぶってるのは一体・・ 「いま都知事選の候補者である小池百合子は、水俣病の患者切り捨てをした人間だ」ということを、水俣病の患者さんに話しました
https://twitter.com/tok aiama/status/755195613298384896
増田寛也はこんなヤツ
■前日まで東電取締役
■舛添もびっくりのファーストクラス出張三昧
■岩手県知事を務めた12年の間に公債費を1兆2000億円強に倍増させ岩手を捨てて逃げた
https://twitter.com/kitahamamikiya/status/754484014552010753
慶応の学生です。大学の教授が今回の選挙についておかしい部分が多いとツイートしています。
500の束のバーコードを他者に振り替えていると考えられると言っています。
例として幸福実現党は都内に信者がある程度いるはずなのに、3区以外はすべて0票。犬丸氏も同じだったと言います。
また、娘さんが練馬区で三宅氏に投票、他知り合いが3人も入れたのに、0票。 池袋、渋谷で0票もおかしいと書いています。
明らかにム サシの機械での操作があった可能性が高いと書かれています。
実は、非常に奇異な点があるのだ。それは、区によって、「票があるところ」と「まったくゼロな区」があるのだ。
三宅洋平の得票では、豊島区ではなんとゼロ票 中央区ではゼロ票。江東区ではゼロ票、荒川区ではゼロ票 足立区ではゼロ票 通常、こんなことは考えられない。 春秋末/戦国初の秦・視、公、時代と諡号は良いイメージないけれど、意外に功績のある君主だな。
>>47
趙・恵文王期の君臣は黄河対岸の先進地域、つまり中原の覇権を狙っていたのかな〜と。
権威を誇示するかのような彼と夫人の陵墓(始皇帝を除く歴代秦王の陵墓に勝るとも劣らない規模)からはプチ覇王風味が。 >>81
積極的に兵を動かしてますね親征もしてるし
鄭の詞なんかもマシな部類、獅フわりに 晋は霊公と詞って悪い諡号がいずれも、
臣下に殺されたという共通点があるな。
何やら運命めいたものを感じる >>83
晋の詞も政争の結果でついた諡号なのは明らかだもんね。
しかし、定公がなくなって出公が追い出されて完全に晋室は力を失った。
しかし、出公ってw諡字調べても見当たらんwまんまだしw 献帝「三国迷の諸君、帝位を献上したから献帝ちゃうぞ」
>>88
出公(衛)とか結構波乱万丈で傍目には面白い
二度も「出」を輩出した秦の出子と出公は悲惨 >>90
確かに恭の諡号は東晋や隋、後周など皇位の禅譲を行った王朝最後の皇帝によくつけられてるな 清の三代目が順治帝だったから、
順=最後というイメージはないな
>>84-86
やられる前にやれなかったのは天命か・・ ヤク中で死んだ晋の「哀帝」司馬丕、まあ妥当と言えば妥当
その一方で恥ずかしい理由で死んだ(痴情のもつれにより寝床で蒸殺)割りに「孝武帝」という美諡をもらっている司馬曜
うーん…何だかなあ 帝王の評価と言えば漢書の古今人表も面白いで
先秦期の君臣男女に班固先生の超評価が炸裂しとる
秦武王の筋力が戦国秦歴代君主、統一秦の諸帝を退けるまさかの展開
紂王オールスターズは案の定全員下之下(残当) 商鞅はそこそこ高い評価なのに秦君は低いね。
>>94
順治という帝号は元号由来で諡号は体天隆運定統建極英睿欽文顕武大徳弘功至仁純孝章(皇帝) >>97
もはやどこをどう褒めてるのかわからんなwww >>94
唐や宋もすごいぞw
唐宣宗
元聖至明成武献文睿智章仁神聡懿道大孝皇帝
宋神宗
体元顕道法古立憲帝徳王功英文烈武欽仁聖孝皇帝
廟号が事実上の諡号と言ってもいい。ちなみに「神」は批判的な意味合いが強い諡字 >>101
中国史オタ高校生がいて唐の高祖李淵(神堯大聖大光孝皇帝)や太宗の諡号は答案に書くかもしれんが
さすがに宋や清の諡号は避けるだろうなw 統一帝国成立後も周〜春秋戦国モデル、先秦みのある諡号が連綿と続いてきたけれど唐で伝統が途絶えますね
古代中華社会の遺風が消滅し中世中国的な文化に取って代わられる、そんな時代の流れを象徴するかのように 武帝とかは正式には孝武皇帝を武帝と読んでるけど、
南北朝の頃は孝武帝や孝文帝みたいに孝がついたまま呼ばれているのが出てくるのは何で? 何でってか漢は皆孝がついてるから略してんでしょ
漢朝オンリーの現象では 桓・荘・穆・襄・昭あたりの諡号って
大体そこそこいい意味っぽいけど、どれが一番いいのか序列あるのか
気になるな >>107
file:///C:/Users/USER/Downloads/KJ00006752661.pdf
> このように,「威」は,あまり寛容ではなく,猛々しく剛毅果断であるとい
うイメージを示す文字であった。すると,崇禎帝にはあるていどは当てはまる
ようでもある。
ただし,『逸周書補注』で「凡そ「桓」の謚は或いは「威」に作る。後人の
避諱に因りて改むるなり」と言い,「威」字が「桓」字と通行していると述べ
ている。
この「桓」字はよくない文字とされていたようである。ただし,『通志』諡
略ではそれを否定する。
少なくとも明代には桓は微妙な諡号だったらしい。
昭も廟号としては唐事実上最後の皇帝で殺された昭宗、北元二代ハーンで明に2度大敗して
病死した昭宗とかいいイメージ無い。
昭徳有労曰昭(功績を譲る徳を持つこと曰く昭)が皮肉でとらえられたのか? file:///C:/Users/USER/Downloads/KJ00006752661.pdf
これよんだけどつくづく廟号は受験生と世界史教師には福音だなw
書経だ易経だ出典調べて諡号解説するなんて一苦労だw
もっともそんなパラレルワールドがあったら諡号の解説が教師用指導書に書いてないとたいへんw
明、清は一世一元制だから廟号がなくても元号で皇帝の名称決まるけど、唐や宋はそうはいかないw
新法による改革は、体元顕道法古立憲帝徳王功英文烈武欽仁聖孝皇帝が王安石を登用して行った。
なんて絶対いやだw 武霊王、恵文王はあっても文武王、文武帝みたいな究極の諡号を付けられる人はいなかったんかな?
日本や新羅にはいたけど >>108
斉の桓公って実は扱い悪かった説?
>>110
文武天皇か・・7世紀末頃だったな。天武天皇と持統天皇の孫だったよな >>111
108だけど後漢〜三国頃に桓の意味が怪しくなってきた感じがする
後漢の桓帝(外戚一族を大粛清するも党錮の禁を招く)、そして張飛の諡号
二人とも剛毅果断だが不寛容なイメージ、以降は後者の意味が強くなったのか
中華・朝鮮とも皇帝・国王の廟号諡号には桓は使用されなかったが
『通史』では悪諡とはしないらしい。
南明最後の皇帝でタイで殺された人物の廟号も昭宗だし、廟号としての「昭」は
最低ランクだと思えてきたw
知ってると思うが「諡号辞典」
http://www.toride.com/~fengchu/sigou/
中国歴代王朝歴代君主諡号・廟号・陵墓事典
http://www.geocities.jp/aydahn42df5/shigou.html
ただし諡字の解釈は一定ではないし、廟号諡号を複数持ったり、変更された皇帝もいる 桓武天皇はポジティブな意味で桓を使ってると思うがな〜 >>113
桓武天皇は辟土服遠曰桓(四夷を討伐すること)で
蝦夷討伐の美諡だと思う 文公には外れあるけど武公には外れがないよなって最近思ったんだけど
異論ある? 色んな国の武公
鄭……民の返却を渋った東方諸国を滅ぼして鄭の基礎を固める。荘公と共叔段の父。
晋……翼の本家を滅ぼして諸侯に認められる。献公の父。
斉……周が共伯和で混乱してた頃の君主。詳しい事績は不詳
魯……末っ子が周宣王に気に入られて無理やり太子を替えられる。帰国後急死して案の定内乱に。
曹……事績不詳
陳……事績不詳
衛……周平王を助けて公爵になる
宋……狄を打ち破った(BC8世紀)
秦……弟の死後即位。弟を殺した家臣を誅殺し、周辺諸国を切り従えた。初めて殉死が行われた。
趙……弟を後継者に指名したが、自分の息子も君主にしてねと頼んだ。死後、案の定内乱に。
中山……事績不詳
比較的名君多いけど、後継者が内乱起こしてるケースが目立つ印象持った 武帝になるとトンでもない連中がそろい踏みするな
春秋戦国期までの「武(剛彊理直曰武)」よりは「荘(兵甲亟作曰荘)」に近いイメージ >>121
秦の武公は知名度ゼロやけどかなりの名君っぽいな(今調べた)
その時点で西方の覇者に限りなく近いレベルまで到達してる感じ
周の宣王って良くも悪くも結構やらかしてるな>魯 魯は安定って自分が余計なことした後始末をしただけだと思うが 宣王は魯の孝公が東方諸侯を指導する役割を担うことを期待していたらしい。本当に、ただの余計なことだったのかな?
近隣の斉国も何度か王軍の征討対象になってるし、介入しなければならない情勢が東方にあったのかもしれないよ。 周ってイメージないから言われてもピンとこないな
Wikipedia見ても周王朝の記述はすっからかんやし
なんか王に《夷王》とかいう妙な諡号の王がおられるけど“夷”でいいのか?w 諡号が生まれて初期のころは、
後世と意味が違ったりしたんじゃね 西周の頃だと生前から諡号で呼ばれてたり
周の与国のはずなのに国元では王号名乗ってるの居たり
商系の諡号が使われてたりするケースとか後世目線から見ると結構カオスだしな >>133
商系の諡号って、姜斉の諡号で、丁公、乙公、癸公っていて、すごい異様に感じた。
>>131
克殺東正曰夷という意味では悪諡だけど、安心好静曰夷なら平諡と言える。
姜斉と陳には胡公っているんだけど。胡って何w 周系の諡号に変わった最初の例が
周に処刑された斉哀公っていうのが何かもう色々考えさせられるよなあ 紀侯の讒言による誅殺ってのはテンプレパターンじゃなさそうですな >>134
年取って喉の肉が垂れた様子が「胡」じゃなかった?
治世が長いという意味で良い諡号だったはず 私は元創価の会員でした。
すぐ隣に防衛省の背広組の官舎があるのですが、
自分の家の窓にUSB接続のwebカメラを貼り付けて、そこの動画を撮影し続け、
学会本部に送っていました。
別に大したものは写っていません。ゴミだしとか奥さんが子供を遊ばせている所とか。
官舎のほうが老朽化し使われなくなってから、
今まで法人税(うちは自営業です)をほぼ払わなくても済んでいたのが、
もう守ってやれないのでこれからは満額申告するように言われました。
納得がいかないと言うと、君は自業自得で餓鬼地獄に落ちる、
朝夕南無妙法蓮華経と三千回ずつ唱えて心をきれいにしなさいと言われ
馬鹿らしくなって脱会しました。
それ以来、どこへ行くにもぞろ目ナンバーの車につけまわされたり大変な日々です。
全ては自分の出来心から起きた事で、どこに訴えて出ると言う訳にもいかないのですが、
なんとかあの人たちと縁を切った上で新しい始まりを迎える方法はないんだろうか。 >>135-136
後代の斉桓公が増長したのはもしかして…
諌めた管仲は周的な思想(体制)の擁護者だったりするかも 伐楚問責・封禅撤回・上卿の礼辞退のことかな?
たしかに周王朝、天子の立場を尊重する殊勝な陪臣といえるね。 死んだことにされただけで、どこかで生きてたかもしれないよね。
ところでID:QWYzQ7Ox0氏とあちこちのスレで会うなw
この板の人口の少なさがry 明確に南征で亡くなったと書いてある先秦の文献はないはず 中国英雄板に常駐してる民は(紀元前を扱ったスレに限る)三人ぐらいの感触
過半数のスレがほぼ死んでるし >>149
紀元前……というか先秦に絞れば確かに少ない感触
楚漢はときどき人が涌く >>149
大昔、洋楽板住人三人説とかあったな
懐かしい 五胡(と言いつつ魏晋南北朝)、劉備天下統一、宮城谷スレが勢い三強で内容も充実している印象
項劉、周後半春秋戦国はもう少し人気ありそうな気もするけど微妙
名宰相や名将議論スレはかなり低調、語り尽くした感じかなあ 劉備スレは三戦の蜀滅亡スレの新スレが立たなかった影響で人が流れてきた感がある >>147
楚の言い分としては「うちら殺してないッスよ」だから
多分交戦する前に昭王が行方不明になっちゃったんだろうね
洪水巻き込まれ説とかあるんだっけ? >>155
晋の六卿スレとかはもっと閑散としてるな
>>157
周側内部の権力闘争で暗殺されたとかは考えられない? 春秋戦国は分散しすぎだろう
昭って諡号、業績を残す前に志半ばで死んじゃった(詰めが甘かった)人が多い印象
燕の昭王とか蜀漢の昭烈帝とか >>159
その二人って出発点の低さから考えると、ちょっと酷な気もする。
昭って諡号でもっといい死に方できなかったのがいると思うが ついでに言うと、この板は平日のほうがスレ進行が速い印象があるな。 >>138
ご教示さんくす。漢和辞典では書いてあった。ネットではみあたらなかった。諡法解の原典にあたらないとないのかな...
>>139
いわんとすることはわかるから;;インカの伝説上の初代皇帝と似たような話; >>160
北斉の孝昭帝は落馬で亡くなっている。
晋の昭公については、世家に即位して6年で死んだと書いてあるだけ。
前漢の昭帝、燕の昭王、楚の昭王、蜀漢の昭烈帝は普通の死に方だと思うが...
暗君や暴君ではなくむしろ名君かもしくは名君に近い人物が多いが、なんか終わりがよくなかったり、業績が中途半端のようだとは思う。 >>164
楚の昭王って孔子に
「あんなに英明な君主がいるんだ、楚が滅びないのもわかる」
と評価された人だよね。幼少で即位して10代のころに呉に滅ぼされかける
という苦難が成長を促したんだろうな >>159
乱立したスレを統合したほうがいいんかねぇ? 東晋の穆帝がなぜ「穆」なのかずっと考えていたんだけど
この人も秦の穆公と同じで「繆」とのダブルミーニングっぽい感じがするんだよねえ
東晋の版図を急激に拡大して黄河流域まで一度は回復したこともあったけど
(武安の才をもって疆場を啓く、文王の風をもって江漢を被う)
権臣桓温の増長を招くなど、負の功績も確実に遺した人物だった
幼児期も含めて十数年間北伐に関与し続けた治世でもあった
北伐のために宮廷の食費を削ったり、水路開鑿を目的とする労役の負担増を強行したり
どうも「徳を広め私せず、義を執ること」という謚法解の評価まんまじゃなさそう
「名は美しいが実の傷ついていること」という「繆」が言外に含まれていそうな感じ >>121
>魯……末っ子が周宣王に気に入られて無理やり太子を替えられる。帰国後急死して案の定内乱に。
まるで暗殺されたみたいだなww http://www.toride.com/~fengchu/sigou/
諡号の話があるサイトってなかなか少ないな。
一つ見つけたのでageがてら >>172
さんくす。しかしここの住民は知ってると思う ここって君主だけでなく臣下の諡号の話もあり?
范武子とか晏桓子とかそういうの 周王を戴く周系諸侯による覇権が久しぶりに成立したじゃないか! そういえば魏は姫姓だったし、
ある意味そうかもな。 もう一つ言えば、まだ晋公も魏を盟主とする三晋に推戴される形で生き延びてる。
久方ぶりに姫姓諸侯主導の国際秩序を回復した偉大な王かもしれない。 魏の覇権が継続していたら千年王朝も夢じゃなかった、惜しい。 文侯
↓
武侯
↓
恵成王
周初を意識していたのかな。
>>183
呂氏の胤は続かんなぁ... 晋国が確立した天子を保護し諸侯を指導する覇者体制は唯一無二に近い
魏国の発言力を最大化してくれる体制を自ら放棄するなどまず有り得ぬ 魏氏の祖先は周の武王の弟だから血胤は甚だよろしい!w >>188
元々母親は、魏氏って魏の王族だった。
魏が滅んだ後に、薄氏との間に薄姫が生まれた。 荘って春秋戦国で多いけど、
そのあとの時代にあまり見かけないよね 北魏の孝荘帝くらいかな?
廟号なら後唐の荘宗とかはいるけどね
逆に明は春秋戦国にはないけど、後漢以降はよく見かける >>192
皇太后でよけりゃ、清に荘は使用例はあるな。 >>191
そうなんだよね
荘って木に葉が繁るって意味だからいいはずなんだけどな たくさん戦に勝った君主に贈られるって聞いたことがある 荘って、後漢の明帝の諱だよね。確か。
それで、荘を違う漢字にして史書に載せた例があるから、
案外と遠慮したのかなぁ? >>192 >>198
荘と明が入れ替わってしまったのか・・な?
なかなか面白い >>198,>>199
荘の代字は、厳なのにねえ... 酒と女と音楽の平公は聞いたことあるけど二番目おったっけ? 同一人物ですよ
昔このスレに春秋期の隠れ二字諡号君主を何人か書いた覚えがあるけどもう一度書く
晋:平公(壮平公)
楚:平王(景平王)、恵王(献恵王)、簡王(柬大王)、声王(聲桓王)、悼王(悼哲王) おお、なるほど
平公のイメージってなんかの又聞き程度しか持ってねぇけど
荘を冠すると腐っても覇者って感じするなー 二文字以上の名称は、伝統的に省略好きな中国知識人がどんどん省略するぜ
中国語と漢文の性質上しゃーないけれども
春秋時代の楚王の諡号からは、そこはかとなく敬意のようなものを感じる。乱暴な君主多いのに悪意がない そりゃちょっとくらい乱暴さがあったほうがいいお土地柄だったからじゃないの?
>>205
ある意味ハッピー☆な男だよなw>平公のイメージ そりゃやっぱり楚は王権が強くて王に対する畏敬の感情が薄れる事がなかったからじゃね?
この辺りをエンターテイメントにした日本人は90年代の宮城谷のみ
平公のハッピー☆イメージの本もそこからやな 本格派の中国史ベストセラー作家は氏を最後に絶滅っぽいから一般イメージはもはや更新されそうにないな・・・ ただ日本史も戦国か幕末に集中してて
室町時代や鎌倉時代を舞台にした作家って北方以外は皆無やし。 小説家はそうでも日本史は戦国以外もネタが多く歴オタの層が桁違いに分厚い
新しいイメージ(歴史認識)は結構な頻度で語られていると思うよ
掘り起こし可能な歴史素材の魅力は古代中国史より日本史の方が上だから比較対象にならぬが >柬とか聲とか見慣れない字だな。
金文によれば中国文化の本宗にして諡号ネーミングの手本たるべき西周王室にも
見慣れない諡号の王が存在する時代なのよね 134 曰く
克殺東正曰夷という意味では悪諡だけど、安心好静曰夷なら平諡と言える。
とのこと。
>>208 >>209
仮にイメージ更新するならどんな風になるんだろう。 俺みたいな情弱には諡号とか廟号とかなんたら号とか言われても区別がつかぬ >>218
〜宗というのが廟号、文、武、昭、宣。霊などの「(明や清みたいに)元号でない」〜公、〜王、〜帝というのが諡号(おくりな)ととりあえず覚えておけばいい。 >>218
>>124のリンク(wiki)も見ると役に立つよ 諡号風な諱を持っている人一覧とか作ったら面白いかと思ったけど、
すごい手間がかかりそうであきらめた自分がいる >>221,>>222
五胡十六国までやってあきたwww
周 脂、(胡)、宣王(静)、簡王(夷)、慎靚王(定)
晋 孝侯(平)、哀公(光)
趙 成季(衰)、文子(武)、景叔(成)、敬侯〈章〉
韓 王安
姜斉 胡公(静)、孝公(昭)、恵公(元)、荘公(光)、
田斉 孟荘(湣)、太公(和)、孟嘗君(文)
呉王闔閭ももともとは公子光
楚 恵王(章)、考烈王(元)
前漢 少帝(恭)
後漢 明帝(荘)
司馬晋 宣帝(懿)、文帝(昭)、恭帝(徳文)
後趙 石宣
西燕 慕容冲※後漢に冲帝がいる。 南燕 慕容徳
つかれたw気が向いた方は続きよろw 光なんて諡号あったかなと思ったら光武帝がいたか。
>>223
乙 庶人大王というエキセントリック称号
まあ諡号ではないんだけどね 夏 赫連定
後涼(呂氏) 懿武帝(光)
劉宋 江夏王義恭 南郡王義宣
南斉(蕭氏) 高帝(道成) 海陵王(昭文)
梁(蕭氏)長沙王(懿)
北魏(拓跋氏) 広平王(懐)、節閔帝(恭)
隋(楊氏) 元徳太子(昭)※煬帝の子
宋(趙氏) 欽宗(桓)
遼(耶律氏) 太宗(徳光)
金(完顔氏) 顕宗(允恭)
いちおう清まで目を通した。もちろん五代十国もw。
万一見落としあったら捕捉ヨロ >>222
手間なのは間違いない。>>223は9割知ってたけど、>>227は半分くらい。
即位してない人とか在位年代短い人とかさすがに無理。 >>223>>227
スゴイっすね。
こう言うのって、なんか資料あるんすか? >>230
ほかはどうか知らないけど三省堂や朋友出版の歴史年表の巻末の系図に諡号と諱のってるので拾った。
春秋戦国、五胡十六国、五代十国までのってる。
筑摩書房の貝塚茂樹編「春秋左氏伝」(世界古典文学全集13)の巻末には王や諸侯以外の大夫クラスの系図もあること思いだしたが
そこまではめんどうだから見てない。 >>227
日本の話になるけど古墳時代に允恭天皇がいたな >>232
諡号風ってことで入れてみた。允恭も諡号のはず。 >>231
レスありがとう。
そんなのあるんですね。すごいなぁ。 >>223
姜斉 孝公(昭)の次が昭公(潘)とか紛らわしいぞボケって昔思った記憶 >>235
おおナカーマwもしかして>>223全部知ってたクチ?。
考えてみればこの板の住民は、左伝、史記や宮城谷さん読んでるから、
9割かw少ねえw>223?全部知ってたわw。
っていう人がごっそりいて当然なんだよな。 >>235
そのころは避諱についてうるさくなかったんかねぇ
>>198 の件を考えると後漢以後にはかなり厳密さを感じるけど 偏諱がいつから発生したのかは気になる所
史記にすでに存在してるから、そこまで遡れるか >>237,>>238
小林信明編『新選漢和辞典』には、「東周以後行われた」とあり、最も古い例は始皇帝と荘襄王の例が挙げられてる。 史諱挙例は書虫で安いと思ったけど新本入手困難、古書見積もり要、史諱辞典は高いから国会図書館に見に行こう... >>241
正解
史諱挙例も史諱辞典も関西館だから取り寄せ要みたい... 鄭の霊公の件なかなか面白いな。
最初は幽だったとは 光武帝25-57
明帝57-75
章帝75-88
和帝88-105
殤帝105-106
安帝106-125
少帝懿125
順帝125-144
沖帝144-145
質帝145-146
桓帝146-167
霊帝167-189
少帝弁189
献帝189-220
後漢の歴代皇帝を並べると、霊帝だけはどうしても庇えなかった感が滲み出てるねw ☆ 日本の核武装は早急に必須です。総務省の、『憲法改正国民投票法』、
でググってみてください。現在、衆参の両議員のそれぞれで、改憲議員が
3分の2を超えています。私たち日本人の、日本国憲法を改正しましょう。
憲法改正国民投票法、でググってみてください。お願い致します。☆☆ 宣帝が即位の時に忌諱が無理だから病已から詢に変えたってのは面白いな
忌諱って何のためにあるのか本末転倒 李世民も「『世』と『民』を避諱とか無理だから続けて使わなけりゃおけ」とか言ってたしな。 清道光帝に至っては本名の綿寧じゃ皆が困るだろうからと、わざわざ学者に綿に近い字で使用例が少ない字を探させて
「旻」なら似てるし使用例は余り無いからと即位して直ぐ「旻寧」と改名しちゃってる。
まあ確かに綿じゃ一般生活に困るからその通りなんだけど。 諡号ではなく廟号について、明の永楽帝は当初は太宗だったが、嘉靖帝の時代に成祖と追尊されているのは何故だろう? 廟号どころか、氏・姓・諱・字
名前の話題全部統合でもいい気がする >>246
日本史でも書いたが、「安帝」と「少帝懿」を見ると、日本の第3代・安寧天皇と第4代・懿徳天皇の頭文字になってるのが気になるな。
ついでに言うと、安帝が幼いとき摂政をしていたトウ太后・綏は第2代・綏靖天皇の頭文字。
ちょっと偶然とは思えん。この天皇たちの諡号は奈良時代に贈られたらしい。日本書紀の年代は間違いで後漢時代に生きていたことを暗示しているなら面白いんだが、一般には架空の天皇だと言われている。 >>246
さらに言うと初代の神武天皇の「神」は「カムヤマト(神倭)イワレヒコ」に因むが、倭→和だから和帝に通じる。
6代孝安の「安」と桓帝の「桓」、8代孝元の「元」と献帝の「献」は読みが似ている。7代孝霊の「霊」と霊帝の「霊」は同じで、順番通りになる。 >>246
第5代孝昭天皇は神武天皇の末っ子で、綏靖から四人兄弟だったと思う。昭帝は前漢の武帝の末っ子だった。 昨日NHKの名前番組見たけど、台湾じゃまだ人名に輩行に基づく輩字が生きてるとの事だった。
でも輩字が分かっても、同世代と言いながらその世代の年齢差は無茶苦茶なのは昔からお決まりだわな。 ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と生活保護
を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人全員に支給する、『ベーシックインカム』
の導入は必須です。月額約70000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。♪♪ 廟号では、太宗、世宗、高宗、宣宗、孝宗、仁宗、聖宗、憲宗が名君に贈られるイメージだな。 王莽の諡号はたぶんないし、あったとしても伝わってない。
武則天の諡号は則天順聖皇后。 楚の竿心は義帝(項羽は西楚覇王)
順の李自成は永昌帝
でいいのかね 株については、買うのも、売るのも11月16日まで。
国家も市場も一転するような出来事が起きると考えられるからである。
://lavender.5ch.net/test/read.cgi/china/1660387959/l50
初歩中の初歩な質問なら気がするんですけど、
隋の文帝はどういう理由で文帝になったか教えて頂きたい。
大体初代皇帝は武なパターンが多くて文っていうのは珍しいと思うんですけども。 冉魏の皇帝冉閔が一代限りで短期間で滅んだにもかかわらず「武悼天王」という諡を贈られたのは、死後に前燕を滅ぼしかねないレベルの祟りをなしたから。
処刑後、処刑地の周辺の草木がことごとく枯れ果てる怪異が起きた。加えて、前燕各地で半年以上も雨が降らず、大旱魃と蝗害が発生した。
前燕の皇帝慕容儁はこのままでは冉閔の祟りで国が滅びると震え上がった。武悼天王という諡を贈って盛大に祀ったところ、お礼だとばかりに大雪が降ったのだった。 >>253
嘉靖年間は北元関連でナショナリズムが勃興し、元から贈られた孔子の諡号至聖文宣王が廃されて万世師表と代用されたりした程で
北元に親征しオイラトを押し返す成果を上げた永楽を殊更称える目的かと。
実際永楽の親征以降は余り目立つ大勝は無く、逆に皇帝が捕虜となっている訳で嘉靖としては大勝した祖先を持ち上げたかったのだろう。
もっともその頃の北元は同族での勢力争いでハーン家がコロコロ代わったりした果てだったけど。