東晋の英雄桓温について語る
慕容垂にボコボコにされた東晋一の快男児桓温について語ってみよう 語ってもいいけど
両晋英雄スレが去年の10月から
80もレス付いてないよ とりあえず桓温の歴史小説って、誰か書いて欲しいなあ。 劉裕は冷酷なところがあるから俺は桓温の方が好きだな
劉裕と比べるとちょっと抜けてるところがあるけどそこがまた魅力 むしろここは謝恩が邪魔しなければ新王朝樹立してた桓玄を語ろうではないか なるほど、それなら桓温と桓玄一緒に語ってもいいんじゃないかな。多少とも幅を広げないと話題が持たないと思う。 『裏切り者の中国史』という本には、司馬懿に殺された桓範の子孫じゃないかって書いてたな。 長沙の人なら
孫堅の遺体を引き取った桓階に繋がりあるのでは? 父親の桓彝の伝(『晋書』巻七十四)によれば譙国龍亢の人でしょう。 桓温が晩年の時に、突然一人の尼僧が遠方から来て、桓温に旦那となってもらい、屋敷に逗留した。
この尼僧は学才も挙動も常人とは違っていたので、桓温は鄭重にあつかい、屋敷内に住まわせた。
ところが尼僧は、入浴の時にはいつもきまって長い時間をかける。
桓温が不審に思って、覗いてみると、尼僧は裸になって刀を持ち、腹を裂いてはらわたを取り出し、
首を切り落として手足を細かくきざんでいた。桓温はあっと驚いて引き返したが、部屋に帰ったころ、
尼僧は浴室から出て来た。姿はもとのとおりになっていた。
桓温が正直に見たままを話すと、尼僧は答えた。
「お上(晋朝)に取って代わろうなどとする者は、きっとあんな姿になってしまいますよ」。
ちょうどこの時、桓温は帝位を奪おうと企んでいたところだったので、尼僧の言葉を聞いて意気消沈した。
この為に行動を慎み、臣下の本分を最後まで守り通したのであった。
尼僧の教えを信じた桓温は幸いに身を全うしたが、その子の桓玄は謀叛を企てて、彼女の予言通りに亡ぼされた。
この話の出典って晋書?
時有遠方比丘尼名有道術,於別室浴,温竊窺之。尼イ果身先以刀自破腹,次斷兩足。浴竟出,温問吉凶,尼云:「公若作天子,亦當如是。」
晋書だとこれだけ。さらに詳しいのは『幽明録』『捜神後記』『冥祥記』あたり >>14
確か捜神記だか捜神後記だかが初出だったと思う。
でも晋書の本伝にも、省略された形でちゃんと載ってる。
さすが、毒にも薬にもならない畢卓(別に何をしたわけでもない
ただの飲兵衛)の伝は立てても、斉万年の乱で討ち死にした
馬敦には帝紀ですら全く触れない、現行晋書の面目躍如だな。
(馬敦については、潘岳が書いた追悼文が文選に引かれてるぐらいだし、
現行晋書編纂時に底本になった臧栄緒晋書には、ちゃんと記述がある。
なんで房玄齢たちは削ったんだろ? 太宗のワンマン? 単純作業ミス?) >>15-16
レスありがとうございます。
こんな実際にあったかどうかかなり疑わしい話も正史である晋書に載ってるんですね。
それにしても尼僧の入浴を覗くとは桓温も相当なスケベだな。
いつの時代だったか忘れたけど、今のカンボジアのあたりへ、
使いに行った中国人たちが、
現地の女が川辺で水浴びをしているものだから、
連れ立って見に行ったそうなw >>20
なんてこった…、将来の敵を見出してたなんて……(呆)
やる事が春申君と一緒じゃねえか…。
>>17
晋書の評価は史記や魏書呉書蜀書に較べると遥かに低いからな… >>20>>21
そういうところもまた、桓温の魅力の一つ この時代自体がマイナーなせいなのか
それとも皇帝になりぞこなったからか 時代自体の注目度が低いのが大きいと思う。
桓温自体については、これほど個性的な人物もそうはいないし。 桓温を紹介するいいコンテンツがあればいいんだけどね。 紙が一般に普及し始めたのはこの人のおかげとか聞いたことあるけど、
なんか根拠があるのだろうか? >>29
一般に広く好かれてはいる人物だとは思うけど、
スレを盛り上げるような熱烈なファンがまだこの板には登場していない。 空前の桓玄ブームが訪れようとしている昨今ですが、どれだけ好意的に人物像を妄想、
もとい考査してもアホの子にしかなりません。まだまだ功夫が足りないようです。
どなたか拙い私めの代わりに彼の名誉を守ってあげて下さい。まじおながいします。 え?来てるだろ?俺の周りじゃ猫も杓子も桓敬道だぜ? >>37
王敦の場合は劉弘以来の江陵軍閥に乗っかった感があるからな〜
王猛、慕容垂らの各国のナンバー2と比べると、単独で軍事行動を
起こせる実力を持っているだけ両名より作戦決定の自由度は高かった
のだろうが
北伐の頓挫は、いったい何がいけなかったんだろうか? >>38
足場を固めきる前に焦って北伐やっちゃった感じだからなあ。
劉裕みたいに政敵をしっかり葬っておくべきだった。 こいつはそこがいいんだよ。 なんか足りないんだよね
なんか一手抜けてるよね みたいなのが。 桓温は清談家としてまず話し合うことが多い。
王猛、謝安、孔明の従僕だった爺、劉琨の家妓だった婆などに、わざわざ面会を持ちかけている。
あんまり殺伐としたイメージがないのが魅力になってそうだな。
そうでなければ凄まじい腐臭を遺していたはず。 >>32
宇宙将軍のスレってあるの?
無かったら立てようかな 通鑑だと、王猛は面会後に桓温の部下として従軍してるんだよね。
最終的には「やっぱ合わん」と江南行きを断ってるけど。
しかしその箇所の胡注、
「ここで王猛を殺しておけば良かったものを」
はいくら何でも無いだろうよw
どうせ殺したら殺したで、
「あたら有為の士を殺すとは。桓温は所詮逆臣の徒、人の情を知らぬ」
みたいな注を入れたんだろうなぁww
ところで司馬光って、苻堅の批判になると凄く筆が冴えてる気がする。
最近は、「実は好きというかアンビバレンツな感情を持っていたのか?」と
疑ってるんだけどね…。 司馬光の人物評ってよく読んでいくと面白いよねw
訳分かんないとこにケチつけたりするし しょせん野蛮な異民族風情が小賢しいwww
って感じだよな。
奇妙な美意識で筆が走る、走る、走る。
なんか愉しそうだよね。 桓溫,祖逖,冉閔,劉琨,謝安,陳慶之,都是大英雄
至于狄夷禽獸之類,如石勒,縱然快意一時,但最終,不僅身死,並且族滅,被掃進歷史的垃圾堆,這是必然的 晋書桓温伝の和訳が無いようなので
いっちょ翻訳してみたろうかと思ったが
漢文を離れて幾星霜が経た俺には、荷が重かった…… しかし、戦績は凄いんだよな桓温
成漢攻略は言わずもがな
関中侵攻の北伐では、一進一退ながらも敵将苻萇(苻健の子)を討ち取っているし
洛陽快復における北伐においては、羌族姚氏集団を一蹴させている
北府軍も自陣営とは言え、きっちり政治的に弱体化するようにしむけており
大敗らしい大敗って本当に枋頭の退却戦ぐらいのような気がする
王猛や慕容兄弟たちがいなかったら、天下は目の前だったんだろうが
これこそ、実力足らずゆえの三国鼎立ではなく
英雄同士での高いレベルで拮抗した三国の抗争だったと思うんだよな 枋頭の退却戦にしても、袁眞が故渠開鑿を失敗した結果、船による輸送が
できずに補給が途絶したのが原因だしね。
袁眞について調べてみると、桓温の政敵だった殷浩と親友関係みたいだ。
前燕への北伐では、東晋政府が推薦して、それを桓温が受け入れた形だね。
もしかすると、故意にサボタージュしていたのかもしれない。
戦後に桓温が激怒するのも、当然と言えば当然かも。
結局、袁眞は反逆して前燕に投じるわけだけど、袁眞としては
「東晋政府ふざけんな! 言われた通りやったのに、少しは守ってくれよ!」
という抗議の気持ちがあったのかも…と思う。
と言うか、補給途絶から三ヶ月も敵中に対陣し続けた西府軍が精鋭過ぎる。
もしも万全の状態で戦っていたなら、慕容垂・慕容徳の軍団と壮絶な戦闘を
繰り広げてたんだろうね。 桓温も面白い奴だけど、腹心の郗超も中々の曲者で面白い人物だな 郗超のエピソードでは、門地に関係なく人物を登用した話が好き
登用された人々は、郗超の死後に死者を弔うシノビゴトを書いて、
故人の冥福を祈ったっていう佳話に繋がってる
桓温の西府が、名門寒門関係なく人々を集めてたことの証左となる
エピソードだね
だから郗超が陰険邪佞の人物だとか、謝安にいいように振り回された
小人だとか評されてたりすると、少し違和感がある
謝安って、面会を求める相手が寒門の場合、シッシッと追い払っちゃう
人なんだけどなあ…
現代的な感覚だと、謝安の方がエグいと思える >>54
後方兵站の途絶・脆弱性は、祖逖、桓温、劉牢之等の
各司令官が北伐を実行するたびに
東晋政府はやらかしているからなあ
最早、確信犯の域だろ
郗超は謝玄抜擢のエピソードがやっぱ良いな
身内・他人の別なく傑物を登用することが出来る謝安と
嫌いなやつでも評価することのできる郗超との対比が面白い
桓温時代の西府軍はクセあるやつらが多いなあ >>56
なんかオヤジが溜め込んでたカネを気前よく散財したエピソードとかあったな
あと仙人っぽい連中との付き合いも好んだとか
桓温を皇帝にするために敢えて悪人になろうと無理してたようなところがある
親父の郗愔は東晋朝廷の信奉者だったのに、
息子の郗超は桓温に加担するどころか東晋簒奪を
煽ってるところすらあるってのがなんか面白い。
あるとき郗愔が桓温にあてて書いた手紙を郗超が見つけると
その手紙を破り捨てて父親の筆跡を真似て偽作したものを桓温に見せた
っていうエピソードがあるけど、郗超は何でこんなことしたんだろ?
合理主義者なんだよ
現代的な視点からは、けっこう共感できる部分がある人物 宮崎市定御大は、朱序が肥水の戦いで裏切って第一の勲功を得たことを
酷評していたけど、個人的には桓温の指揮下にいた頃の活躍を考えると、
(襄陽籠城戦は言わずもがなだが)朱序はやっぱ凄えヤツだったと思うんだがなあ。
肥水だってたまたま勝ったから良かったんだけど、あれはどう考えても勝ち目がない
戦だったんだから、やっぱ度胸ある男なんだよ、こいつは。
ケ遐・朱序の猛将二枚看板は、西府軍って感じがして好きだわ。 >>27
この時代を描いてて、劉裕を準主役っぽく据えている武侠小説がある
黄易著「辺荒伝説」
自分やっと第1巻の終わりまで訳してみたけどまだあと19巻ぐらいあるらしい
面白いけど先長すぎ
慕容垂などいつになったら出てくるのやら 桓温の簒奪が成功したとしても長続きはしなかっただろうな
桓玄と似たような末路を辿る可能性が高いし、後継者の桓玄も幼少だし >>63
桓玄は末子だ、6人兄弟の末っ子(女子も名前は載っていないがいたかもしれん。)
桓沖による、桓温の息子たちの追放劇は結構サラっと流されるんだよな。
陰謀好きな東晋貴族たちのことだから、桓温の息子たちと言えども篭絡されていた
可能性は十分にあったと思う。
桓沖の行動は、人間として結構問題ある行為かもしれないが、「西府軍」という
組織にとっては最善の選択 陶淵明の先祖の陶侃だけど…日本人の中高齢者の下の名前に「侃」を付けた人も案外いますよね?この名を見る度に「やはりこの人の親は陶侃が好きだったからかな?」と思ってしまいます。 この人は名言がいいよね。
野心勃々ながら結局裏切らなかったというところにも
人生の機微のようなものを感じる。 断腸の思いの語源のエピソードを読むと案外根はいい人にも思える 昔三国志かなんかの本で桓玄が知り合いに酒を温めてといわれて親の名前出されて泣いてしまったというエピソード見て
いい人なんだなあと思ってしまった
実際は結構えげつないな >>67
激情家だが、その分凄え情に篤いイメージがあるな。
冷徹で陰謀家な王猛よりは、ずっと仕え甲斐があるし
慕容恪とは違った意味で頼りになる上司だと思う。
その情の篤さこそが、結局簒奪できなかった一番の理由だと思うんだよなあ。 世説新語読むと桓温桓玄に惚れるとおもう
でも今手頃な全訳て無いのかね
平凡社のは品切れだし >>69
成漢の皇帝も殺さなかったし、意外と寛大だしな 桓温桓玄の失敗を反面教師にして簒奪に成功したのが劉裕
でも劉裕は容赦なさすぎて好きになれない 「竹馬の友」とか「断腸の思い」とか桓温が語源になってる諺が多い >>79
確実な根拠は無いんだけど、あえて年端もいかない子を
後継者にすることで、
「建康政府に対して桓氏は内戦を起こしませんよ」
という意思表示をしたのかもしれない
桓温が桓玄を後継者に指名したのが、臨終の時だったことを
考えると、自分の死後に兵乱が起こるのを避けようとしたんじゃ
ないか?
王敦みたいに、死体を首チョンパされたくもなかっただろうし
…と、適当なことをふかしてみるw >>79
母親は不明だが、桓煕は「世子」と記述されていることを考慮すると
南康長公主の産んだ子どもの可能性が高いと思うんだよね
(この人が嫉妬深くて、桓温が李勢の妹を妾にしたときにぶっ殺そうと
襲撃かけるくらいの鬼嫁、なぜかその後、公主も李勢の妹に萌えまくって
仲直りするという変なエピソードになっているが)
そう考えると、桓煕が晋室に靡く可能性は相当高かったのではなかろうか?
因果関係は不明だが、桓煕・桓済兄弟は、桓沖暗殺事件を起こして失脚している
桓温生前から、息子たちが父親の簒奪劇を快く思っていなかったのかもしれない
桓温って本当に甘いよなあ 南康長公主がもしも庾文君の娘だったならば
桓温ともども、親を蘇峻の乱で失ってしまったことになる
(桓温の場合父親になるが)
この二人、世説新語の賢媛篇から察するに
何だかんだ言いつつ、似た者夫婦というか、仲好さそうなんだよな
案外、公主が存命だったならば桓温も簒奪しなかったのかも 上の息子たちが篭絡されてる上に後継者が幼少じゃ
簒奪なんてどう足掻いても無理だな
桓玄は成功し掛けたけど三ヶ月で政権崩壊したし あのタイミングで簒奪すると桓温の建てた新王朝は、
前秦に滅ぼされかねないような気がする
晋の残党の跋扈で国内を一統するのも大変なような気が 既に後世に芳を流す能わず、復た臭を万載に遺すに足らざるか
男子、芳を百世に流すことあたわずば、また臭を万年に遺すべし
どちらが本当の発言なんですか? 前者が晋書、後者が資治通鑑・十八史略ですね
晋書の成立が唐代、資治通鑑は宋代、十八史略は元代
最も古く成立した晋書の段階で、すでに桓温の時代より250年経過してるので、
桓温が実際にどういう言葉回しをしたのかは
考古学で、桓温の書簡でも見つからない限り分からないでしょうね
そういう訳で、本当の発言かどうかでいえば、
どちらも偽、と捉えておくのが無難ではないでしょうか >>87
ありがとうございました。
その時代の桓温観が表れているんですかね。 863:名無しさん@お腹いっぱい。 :2016/01/28(木) 00:54:24.03 ID:0JpWltiH0 [sage]
桓温の北伐について
369年7月以降の燕の龍城遷都議論、袁眞の石門攻略失敗による晋の兵站の停滞、
9月の慕容徳が1万余の兵を率いて桓温の後方に進出して糧道を攻撃、
そして慕容垂8千騎による追撃戦(追いついた場所は襄邑だけど)あたりは
有名だけど、それ以前の流れっていつも省略されるよね
ちょっと書いてみると
369年4月 桓温が歩兵・騎兵5万を率いて姑孰を出発
6月 晋の建威将軍檀玄が湖陸を攻略し慕容忠を捕虜にする
燕は下?王慕容獅征討大都督として派遣するが黄墟において大敗(こいついつも負けてるな)
燕の高平太守の徐翻が郡を挙げて晋に降伏
晋の前鋒であるケ遐と朱序が林渚において傅顔を撃破(桓温伝だと慕容垂含む8万の燕軍を撃破)
燕の楽安王慕容藏が諸軍を統括して桓温の拒否を図ったが、桓温の攻勢を阻むことはできなかった
7月 燕のもとの?州刺史孫元は桓温に呼応して一族郎党を率いて挙兵した
桓温は武陽、次いで枋頭に駐屯した
燕の人口が約900万余、東晋の人口が(後の宋を参考にすると)約500万余と見積もられ
動員兵力では鮮卑の部族を擁している前燕の方がかなり有利となるものと予想される
(後年、30万〜40万を徴集して前秦の侵攻の阻止を図った実績がある)
そういう中でわずか5万で勝ちに勝ちまくった桓温はやっぱ傑物だろう
(まあ?超の話を聞かなかったのはかなりの減点だけど)
どう見ても前燕滅亡寸前である 864:名無しさん@お腹いっぱい。 :2016/01/28(木) 01:49:16.26 ID:0JpWltiH0 [sage]
桓温の北伐、特に第三回目は「声望を高めるため」と紹介されることが多いが
(三ア先生もそう書いているけど)
個人的には、慕容恪によって侵食された河南〜淮北を奪回するための純粋な軍事行動、
即ち東晋にとって安全保障上の危急の案件だったのではないのかなと思っている
362年、反復常なき呂護(この時は燕に属す)の動向から始まる前燕の洛陽攻略は
一進一退の攻防を繰り返しながら(途中で桓温による洛陽遷都の建議もあったりしたが)
363年4月には?陽太守の劉遠が魯陽まで敗走させられてしまい
ここに及んで5月、桓温に侍中、大司馬、都督中外諸軍、録尚書事、仮黄鉞が加えられる
その後姑孰に屯して以降は、土断やったりとか省官併職やったりとか桓温の改革政策が
矢継ぎ早に繰り出されることになったが、明らかに前燕の南進がトリガーになっていると思うんだよね
364年3月には許昌まで燕の手に落ち、翌365年3月に洛陽が慕容恪によって陥落された
桓温が揚州牧も加えられ入朝して以降、司馬勲の反乱(365年10月)や前秦の荊州侵攻(366年7月)
が相次いで起こり東晋の従来までの防衛ラインは破綻しつつあった可能性が高い
東も西も押しに押されている状況で果たして北伐の理由が「声望のために」であろうか?
桓温が後に簒奪を図った関係上、その行動は野心塗れに見られがちではあるが
さっさと反撃に打って出ないことには東晋もジリ貧だった可能性も否定はできない
ただ、慕容恪が死ぬまで反撃に打って出ない辺りが何とも桓温的と言える >>67
母親が片親で育ててくれた経緯があるから母親というものに対する思い入れは深そうなんだよね 何充って王導、?ユ亮亡き後のキーマンだよね
?ユ翼が征西府を息子じゃなくて桓温に譲り渡すことになったのも何充の推薦のおかげだし
しかし、三?ユの実力怪しいのに北伐したがり病は深刻だわ 司馬興男という上げマンネームな南康公主
中華のWikipedia維基だとユ皇后の娘にされてるな
まあ、明帝のほかの夫人が記録に残ってないからそうなるわな なぜか魏晋南北朝スレが落ちた
芳名はおろか悪名すら残せないのか… レス数が200ほどごっそり消えてたりしたし、何か不具合にまきこまれたのかもしれんね このスレを僑郡にするか
たぶんdat落ちしたスレが残ってると重複判定食らって強制dat落ち食らう仕様になっているんじゃないかな?