周瑜 魯粛 呂蒙 陸遜 陸抗 呉の軍師を語るスレ 6
>>499
そうかなあ?
この人は事績がたいして伝わっていないので、軍事的才能があったのかどうかわからないよ。 >>506
郭嘉は軍事祭酒だから
軍師でおkだが酒飲んでないとダメなポジのイメージw >>505
校尉て武官で
軍内の部曲を率いる高級武官
軍師とは少し意味合いが違う
まあ魯粛は校尉でも赤壁の戦いではほとんど武官らしい仕事していないし
軍師もほぼ軍師将軍という職がデフォなので >>507
祭酒は元々戦国斉の稷下の学士の筆頭のこと
「祭酒」の意味は祭りごとの席で乾杯をする年長者。それが転じて長って意味になった >>510
祭酒て役職
飲み会の多い会社や大学サークルに必要だと思うが
日本で普及していないのは残念 そもそも死体鞭打ちエピソード自体司馬遷の創作臭いし
(左伝にはないエピソード) よく平王みたいな悪人から
昭王みたいな名君が生まれたもんだ 平王の息子は基本みんな良い子で優秀だからなぁw
昭王の兄達もみな優秀 平王「俺ってそこまで悪人か?春秋の貴人としてはわりと普通じゃね? 王朝を潰しかけたのは息子だし」 俺が不思議に思うのは、
どうして曹丕は劉備死後の蜀を攻めずに、呉ばかり攻めたのかということ。
曹丕は劉備死後直後の蜀に書状を送り、降伏を勧めたが、孔明に一蹴されて終わっている。
普通に考えれば魏は、関羽張飛黄忠馬超といった名将を立て続けに失い、
荊州をすべて失い、
夷陵の戦いで大敗し、国力が大きく疲弊していた
軍事的にみれば、弱った蜀に対して大軍で漢中奪還へ着手し、
蜀を攻めるべきではなかったか?
イデオロギーからみても、
漢から帝位を簒奪して誕生したのが曹魏なので、漢朝再興を国是とする蜀に対して
一番に討伐すべき対象だ。
三国志演義では曹丕は司馬懿提案の五路の計で、五方面から蜀を攻めようとしたと
物語られているんだから、曹丕が蜀を攻めてもおかしくはなかったと演義の作者にも思われたんだろう >>523
4行目書き間違えた
正しくは「普通に考えれば蜀は」だった そりゃ史実じゃ関中や関西ちほーは実効支配ちゃんとできてるか怪しい状態だったし。 魏の長所はやっぱ「国力」だが、蜀の山は大軍で攻めるのが難しい
呉は代わりに船と水軍が要るけどそれはしっかり準備すればなんとかなる
だから恐らく曹丕は呉から倒すつもりで計画を練っていた
…とここまでは戦略的に正しいのだが
だがいざ攻めるあたりで呉は夷陵で大勝利しおった
よって色んな軍師が「勝ったばかりの軍を攻めるは下策ですよ!」って呉攻めを反対したが
曹丕はやっぱ臨機応変の才がなかったんだろな
計画力と行動力はあるんだけど情勢の変化に対応できなかった でも魏は張魯を降して漢中を領していた経験があったんだから、
その経験を活かして漢中奪還に本気になるべきだった
漢中さえ奪還できれば、蜀は漢室再興と称して中央へ躍り出る糸口を失ったも同じ 曹操の漢中征伐は張魯=漢中が孤立無援だったから成功したんでしょ
後ろ盾を得て抵抗する気満々の漢中を同じ勝手で落とせるとは思えない 魏が内政を充実させて朝廷を固めて守成に専念してたら勝てたかな? >>528
コスパ考えると漢中奪還するなら一気に蜀まで取らないとキツイ
中途半端に漢中だけ落としても曹操が根こそぎ五斗米道信者中原に移動させて
鶏肋の地と化した漢中を中途半端に維持するのも当時なら大きな負担
蜀も漢中の兵站維持するのにかなり消耗しているからな
あと蜀が漢室再興を掲げて漢中取って漢中王だの僭称しても
漢の終焉を願っていた当時の中原では全く響いていないのでな 曹丕の帝位即位後・・・
蜀の文武百官「天下万民は、漢を滅ぼした逆賊曹丕を憎み、
慈雨を乞うがごとく、漢の復興を願ってやみません。
わが大王が帝位に即位され、漢の社稷を再興されれば、
、曹丕に表向き従っているだけの中原の者たちは、続々と曹丕への反乱の狼煙をあげましょうぞ!!」
劉備「よくわかった!!これより即位するぞ!!!」
即位後・・・
劉備「おかしいな・・魏で曹丕への反乱の兆しがない・・・」
孔明「曹丕におどされているのです。北伐軍を送れば、
漢室を慕う者たちが我も我もと続々帰順し、魏はわが軍と戦う前から自壊しましょうぞ!!」
北伐後・・
孔明「おかしい。誰も帰順してくれない・・・。益州一州の兵力だけで中原を支配する大国を滅ぼせるわけがない。
出師の表まで書いて成都の宮廷で大見得を切って出陣したのに、今更北伐を撤回できないし、どうしたものか・・・むむむ」 >>53
蜀臣「皇帝になった今こそ魏へ討伐のための軍を起こすべきです!」
劉備「は?関羽の仇打ちのために呉を攻めるぞ」
諸葛亮「荊州必要だからしゃーない」 >>531
何年待つかによるけど、数百年後には江南の生産力が北を上回るようになるが ずっと気になってたんだが陸遜も周瑜も魯粛も割と名家だったんだろ?
陸遜が呉の四姓なのは知ってるんだが魯粛と周瑜はどの程度の家柄なんだ?
他にも名家っていうと袁家とかあるけど名家のランクというかスケールが知りたい 周瑜のご先祖と袁紹のご先祖は和帝の頃は同僚で和帝の側近として外戚竇憲の専横を防いでた仲。
より正確に言うと袁紹のご先祖の袁安の故吏だったのが周瑜のご先祖の周栄で、司徒時代の袁安が県令をやってた周栄を自分の幕府に招いてスピーチライターを任せて竇憲陣営からは「周栄は袁安の腹心。奴を除かねば」と警戒されてた。 袁紹の先祖は袁術の先祖でもある、というところがミソかな ということは袁家>周家>呉の四姓って認識であってる?
周瑜相当な名門なんだな
よく周家が孫堅ならまだしも孫策についていくことを了承したよなぁ 確か外祖父の周景も跋扈将軍粱冀のスタッフで大尉や司空になってて清流派をどんどん推薦してたりする。
袁家ほどではないにしてもバリバリの名門 跋扈将軍系:清流
宦官系:濁流
そう考えると宮仕え自体穢れな世の中だな
後漢が終わるのも無理もない話 そんな名家に生まれたおぼっちゃん周瑜なのになぜ誰からも孝廉や茂才に推挙されてないんだぜ? >>543
孝廉や茂才に推挙される前に官職に就いたら推挙されないんでは? 周瑜が建威中郎将の官位を得たのは24歳の時。それまで推挙の記述なし。
孫権は15歳で孝廉、茂才に推挙されてる。周瑜はなぜ放っとかれたのか。 >>545
孝廉は前漢時代に毎年国郡ごとに孝者、廉者各1名とか決められたけど
後漢時代に資格満40歳以上(ほぼ例外多々)、試験ありとか面倒臭くなってるので
あまり官職への欲望の感じられない周瑜が孝廉時代してもおかしくないが
だから周瑜は偏将軍止まり >>538
>>541
周栄=反外戚
周景=親外戚
どうしてこうなった 呂蒙って三国志の創作の中では一周回って横山が一番扱いいいよな 蒼天航路なんか荊州争奪編は関羽が完全に主役だし
北方三国志でも関羽が一番目立ってたな
史実重視の宮城谷三国志でも関羽がかなりヨイショされてた気がする
日本の作家が関羽好きすぎるんじゃね? それでも人形劇は悪意が有り過ぎ
スリキンも関羽をクソ野郎扱いした上でKY扱いで毒殺て… 元蜀の文官ですら劉備は何とか庇っても張飛共々関羽は自業自得と明記してるのに何で呂蒙とかにとばっちりが来るのかね
少なくとも俺達が関羽か呂蒙どちらの部下になりたいかという話なら呂蒙じゃないか?
関羽みたいなパワハラの話は無くて和解の約束破ったら相手が甘寧であっても追い込みかけるくらいの面倒見の良さなのに >>555
それが三国演義クオリティ
職贔屓にする為に他の善良な人の性格や寿命まで変えてしまう
通俗小説売る為に先人に対する敬意が全くないのが羅貫中の悪い処 羅貫中「お前らの陸抗が羅憲相手にやらかした話はカットしてるんだから勘弁してくれや」 羅憲って歩協相手に長江戦で負けてんじゃん
やっぱり都合の悪い事はカットするんだねえ そりゃ羊コvs陸抗が演義終盤じゃ数少ない見せ場やし…… >>558歩協が長江で羅憲を破り
次に羅憲が永安で歩協を破って
それで陸抗が援軍に来たっていう流れだっけ? なのになぜか一貫して羅憲vs陸抗だと思い込んでる人間が少なからずいる
で呉軍が退いたから「羅憲に陸抗が負けた」って単純な結論が往々に 羅憲の事は朱然に比べたら取るに足りない事
魏史上一番とも言える陣容で攻められてかつその中でも一番な激戦区を守りきった功績を挙げたはずが
まさかのその前に戦死とはね >>556
先人を魔改造(雑)するのは古代中国以来の伝統文化だから…
作者の都合>>>越えられない壁>>>事実・敬意 山本伸一の一行は、中州賓館に一泊することになり、宿舎に移った。
突然の訪問にもかかわらず、中国人民対外友好協会の河南省分会の関係者が、熱烈歓迎
してくれた。
夜には、食事を共にしながら、歓談のひとときがもたれた。
伸一は、河南省分会の責任者に言った。
「雷雲のために、憧れの鄭州に泊まることができ、こうして新しい中国の友人と出会えま
した。雷雲に心からお礼を言わなければなりません」
笑いが広がった。
鄭州の人びととの、せっかくの出会いである。伸一は、この機会に、未来にわたる強い
友誼の絆を結ぼうと思った。
それには胸襟を開き、どこまでも誠実と情熱を尽くし、魂と魂の触れ合う対話をするこ
とだ。
語らいは弾み、河南省の文化や歴史について話に花が咲いた。そして、三国時代には、
中原は魏の国の曹操が制していたことから、話題は「三国志」に移っていった。
伸一は語った。
「私の恩師である、創価学会の二代会長・戸田城聖先生は、『三国志』などを青年に読ま
せ、指導者論や人間学などを講義してくださった。
その先生がお好きであったのが、蜀漢の名宰相・諸葛亮孔明の晩年をうたった、『星落
秋風五丈原』の歌でした。
これは、日本を代表する詩人である土井晩翠の詩です。
今日は訪中団の青年たちが、皆さんにこの歌を披露いたします」
拍手が起こった。
同行の青年たちが、立ち上がって歌い始めた。 >>561
で何故か「火事場泥棒」とかいう謎のキーワードが出てくるんだよな
既に蜀の地は魏に降伏して自身も魏の人間になったんだから
羅憲が呉に攻められても当然だったろうに
263年10月に蜀が呉に救援要請して
263年11月に蜀が魏に降伏してるんだから
呉にどうする事もできなかっただろう >>562
朱然「羅貫中、貴様俺の27年間の人生を返せ!」
劉j「俺もそれぐらいもしくはそれ以上の人生を羅貫中に奪われた可能性ある!」
黄忠「その分おいらは羅貫中に人生伸ばされてるし」
馬超「んだんだ」 羅貫中「当時の庶民がそれを求めたのだ。私は悪くない」 >>566
朱然「死に場所得た黄忠はともかく、馬超は5年程寿命延ばされてやったことって鮮卑追い返しただけだろ。しかもいつの間にか死んでる扱いだしw」 >>567
羅貫中被害者の会「訴えてやる!(ダチョウ倶楽部上島竜兵風)」 >>571
羅貫中「くるりんぱ!(ダチョウ倶楽部上島竜兵風)」 >>568
劉封「俺と一緒に法正黄忠も一緒に処刑扱いにしてくれれば」 >>567
羅貫中「いいか、押すなよ絶対に押すなよ」 孫権は陸家は有力な家だから
それなりに警戒してたんだよね? 孫策以降孫晧までは呉郡孫氏の方が呉郡陸氏よりも上の立場なので
関係が微妙な時がところどころみられたが
孫呉滅亡以降は呉郡陸氏の方が上なので結構仲良しな関係
陸機陸雲ら一族の族滅に孫拯が殉じたり リレーでなくこの4人全員で孫権支える時代があれば呉はどこまでいったのだろうかという夢 >>583
陸遜が孫権に仕えた建安8年(203年)から
周瑜が亡くなった建安15年(210年)まで
この4人全員で孫権支える時代が有った >>584
そういやそうだ
まあその時代は引き継ぎのゴタゴタと事後処理や山越に追われて孫権自体が動けないって時期でもあったし期間の短さがな
みなが60くらいまで長生きしてたらってifだよ >>581
あったし、上大将軍とか大司馬よりも軍師がついてる必要があるっぽい
というか官職インフレし過ぎてる
魏も漢も王だった頃は前将軍が武官筆頭だったのに
呉は皇帝を名乗る前から普通に丞相とか大将軍とかいるんだよなあ
上大将軍というなんかダサい名前のも >>565
わずか1ヶ月では準備して援軍出すのも容易ではない
蜀が関羽ピンチの時は関羽ピンチに陥ってから関羽死亡まで
ほぼ同距離未満で時間2ヶ月以上あるのに蜀は援軍出す気配すらなかった 呉に対して漢の記紀に救援も出さずとか言うけど
3ヶ月で滅びてるんだから間に合わなかったんだろってね
というかテイホウだっけかがその3ヶ月でラケンのところに到着してるんだから
実は結構頑張って援軍出してるような? 結構急いで準備したと思うよ
滅びたら自分らも危険だしね
その後の仕方なく蜀を切り取る行為も晋にまるまる与えたらこっちがやばいんだから誰だって同じ作戦でいくと思う
>>587
あれはなんでだろうね 三国志演技でも目上の人(劉備)に自分の妻を料理として差し出すって美談(!)があったな
晩年の奸臣ぶりがなけりゃ儒家の教えの体現者としても(少なくとも中国では)もてはやされていただろうに、まあ料理の神様にはなっているが
あくまで明代に成立した作品での描写だから、そのまま鵜呑みにするのは危険だ。武具や服飾の描写は明代そのままの作品だし。
漢代では食人はタブーだった(王忠のエピソードを参照)が、明代では人肉はありふれた食材だった。こうした影響は、水滸伝などの明代に成立した作品全般に見られる。 >>588
蜀が滅亡してから間もなく到着したのが盛憲
ケ艾や鍾会や姜維らが死ぬ前に到着していると思われるので
蜀が滅亡してから1〜2ヶ月ぐらいでの到着
その後蜀が滅亡してから3ヶ月しないうちに到着したのが歩協
更にその後到着したのが陸抗(留平の到着時期は不明)
今考えると当時としては驚異的なスピードで到着している模様 263年05月 魏の蜀征伐決定
263年05月 呉の交州で呂興が反乱(-271年まで続く)
263年08月 三路より魏軍進入
263年09月 漢中陥落
263年10月 ケ艾が剣閣迂回して江油制圧
263年10月 蜀から呉へ救援要請 呉は寿春・沔中を攻撃 更に蜀へ援軍準備
263年11月 蜀降伏
263年12月?呉の盛憲が永安到着 羅憲と交戦状態に
264年01月 鍾会の乱 鍾会・姜維・ケ艾ら死亡
264年02月 呉の歩協・留平が永安到着 羅憲と交戦して敗北
264年02月 呉の陸抗の援軍到着して永安包囲 羅憲は陳騫に援軍要請
264年03月 劉禅を洛陽に移送 霍弋が魏に降伏
264年07月 胡烈の援軍により呉軍撤退
蜀が呉に救援要請して呉の援軍が到着したのが約2〜4ヶ月
羅憲が魏に救援要請して魏の援軍が到着したのが約5ヶ月
どうみても呉は結構頑張って援軍出してる方だなとしか
ちなみに『晋書』の羅憲伝読むと習鑿歯の『漢晋春秋』丸写しで
羅憲伝には本文に明らかな誤り有るのに訂正せずそのまま丸写しで
それらの事例もあって『晋書』は現代では
イエロージャーナリズムと揶揄され低評価となっているという・・・ もうちょっと蜀がもってればなんとか間に合ったのかもね
にしても火事場泥棒のイメージになってるのは悔しい っていうか漢中落とされた時点で援軍要請してくれば間に合ったのになあ
黄皓… >>594
遅くても魏軍進入した時点で援軍要請しないと厳しいと思う
漢中落とされた時点ではケ艾が別路から侵攻してて
援軍来ても蜀滅亡待ったなしの感が >>589
>あれはなんでだろうね
唯一関羽に援軍気配あるとすると上庸の孟達劉封辺りか
上庸制圧したばかりで余裕がなく無理だったが
それよりも兵力多くて意外と荊州近くて
上庸と同じく灌水下れば関羽支援できる漢中が全く援軍出す気配無かったのが不思議 三国志14 (巻52張顧諸葛歩伝、巻54周瑜魯粛呂蒙伝、巻58陸遜伝)
統率 武力 知力 政治 魅力
周瑜 97 71 96 86 94
魯粛 81 56 92 92 89
呂蒙 92 81 89 78 84
陸遜 96 69 95 88 91
張昭 33 3 84 97 81
顧雍 43 18 80 90 78
諸葛瑾75 34 81 89 90
歩? 75 51 84 86 71 >>596
> 上庸と同じく灌水下れば関羽支援できる漢中が全く援軍出す気配無かったのが不思議
① 当時の漢中には誰が駐屯していた?
② 船が少なすぎて軍勢が移動できなかった可能性は? >>598
@魏延は確定だろうが他は調べてみないとわからない
関羽危機の時は劉備漢中王僭称ごっこで
主だった人物全員成都に引き上げてる可能性あるが
A孟達・劉封は益州・漢中方面から上庸攻略してると思うが
その時に船を使い果たしていたら船不足の可能性あるが
そもそも漢中方面から必ず船使わないと移動できないのかは不明
確かに船使った方が楽に援軍派遣できるが 上庸と樊城の距離は地図で見る限りでは直線距離で350キロ前後
苑城と樊城の距離は直線距離で250キロ
魏から荊州への援軍派遣する際に巨大な後方支援基地としての役割を担ったのが苑城
歩兵と一部荷駄隊を含める編成での1日の行軍距離40キロとして苑城から樊城へは最短で7日前後
騎兵のみでの強行軍で最大90キロで3日
一方で上庸から援軍を送るにしても樊城へ騎兵のみで急いで4日では厳しく5日
魏が苑城から継続的に増援や物資の輸送をしてくるので歩兵荷駄も確実に送らなければ騎兵は樊城で一撃離脱した後現地で崩壊
歩兵を送るとなると9日
しかも送れるのは占領して間もない上庸から割ける2,3000人だろう
関羽から要請されようが「送ったところで…」という判断にしかならんだろうな