【酔っ払っているうちに】 趙匡胤 【皇帝になった】
酔っ払っているうちに皇帝になってしまったという、趙匡胤について語りましょう。
およそ三百年に渡って続いた宋朝の太祖皇帝です。 >>101
趙匡胤の肖像画、台北故宮で買ったのを自室に飾ってあるんだが
母親には角田信朗って言われた('A`) この人を脳内でイメージすると、何故か本宮ひろしの絵で思い浮かぶ この人のお母さんは肝っ玉母ちゃんだったりしたのかな? それはイメージが先行しすぎていると思うが…
漫画とかにしたら、そういうキャラでもいいかも。
趙匡胤は戦場では果てしない勇者だけど、皇帝になるととたんに小心で神経質になった。
しかもそれを隠そうとせず、肚を割っている、あるいはそれを言うことによって相手の反応を確かめる
といった感じ。
特に趙普には言わずもがな事を言っては激しく叱られもした。
弟からは生暖かい視線が送られていたに違いない。
へんなプライドがないんだろう。自然体というか。
打算もある。
柴栄には疑われないよう、細心の注意もしたし、かいがいしく尽くしもした。
武勲に比して直後には高位につけなかったということもあり、それでやや柴栄を恨んだ、という話もある。
(でも自分も曹彬に同じことやってるんですよね)
キャラ的には豊臣秀吉っぽい部分も多い。 飛龍伝、あまり史実に厳密にこだわらなくてもいいから、
軽いノリの、陽気なヒーロー像で、誰か小説に書いて欲しいな。 >>106
故宮崎市定博士は宋太祖を秀吉になぞらえていた。
ちなみに弟の光義は家康に似てるとおっしゃっていた。
確かにこの二人、秀吉と家康に似てる。 >>108
柴栄はエピソードも信長チックなものが多いよ。 >>107
いっそライトノベルで出すのも手かも
人気が出て、この時代のファンが増えるやも知れぬ >>111
いろいろ書き手はいるようだけど、まだまだ下層域みたいよ。
また、それが受け入れられるかどうかもわからんしね。
どんな駄作でも一応は購入するが。この時代の作品なら。 何気にあの五代末趙初の動乱期、一番不幸な死に方をしたのが、勝利者の
この人かもしれないんだな 弟に殺されたという説をとるならば、言えるかもしれん。
朱温は息子に殺されても、それは自業自得だし。
つか、唐末から趙匡胤の死まで、自業自得で死ぬ皇帝多いな。 >>115
簡潔に言うと、DQNが政治を牛耳っていたと思えばいい。 その皇帝になった時に趙匡胤が飲んでいた酒ってどんな酒だろう?
皇帝になれる酒、って売り出せないかなw 趙匡胤が着せられた黄袍のほうがいいアイテムになりそうだが… まずいかw 漁師の阮のとこの七男坊がそういって売りにきたんだけど >>117-119
趙匡胤の性格だと、財政危機に陥ったら、
財源確保のために商売始めるかもね。
「これで私も皇帝になれました」ってw 趙匡胤の性格なら、財政危機に陥っても顧みないで、常と変らず酒飲んでると思う。
青くなった弟や石兄弟が必死でなんとかしている感じ。 でも趙匡胤は、酒さえ用意しておけば、あまり極端に酒池肉林には走らなさそうなので、
その方面での出費は抑えられるかも。 足利尊氏みたいなもんで、無能か有能か評価が分かれる人物だと思う というか柴栄と弟が受けるべき評価まで吸収してる感じだ。 でも趙匡胤は死ぬまで後周の世宗の事を尊敬していたぞ。 柴氏の子孫を保護したことは、後世における評価の上では、
大いにプラスに働いた。
逆に弟の方は、南唐へのあの仕打ちで評価を下げた感じ。 自分は柴栄の武将としての趙匡胤、という視点が強いのだけど、それでも
普通とか無能とかは思えんなぁ。
陣頭の猛将が皇帝になったわけだから、劉邦よりは普通かもしらんが、それはあくまで
皇帝としての業績や在位年間が少ない、とかいう類のもので、「普通」という言葉から
うけるニュアンスとは、ほど遠い人なんだけどな。
まして、無能との評価を下す人がいるなら、いったい何を見ているんだ、と言いたくなる。
>>132
趙匡胤と趙匡義を比較すると、より皇帝としてふさわしいのは、趙匡義だと思う。
もちろん、趙匡胤という人格があって、殺伐した乱世に潤いがもたらされたあとの話だけど。
そういう意味では、趙匡胤という個性はなくてはならなかった。
しかし為政者としては、ある種の冷徹な側面もなければまとまりに欠くわけだから
その点で、後継者が趙匡義以外には当時考えられなかっただろう。
趙匡胤だけでは、あれほどの君主独裁体制が確立できたかは怪しいところ。
どうも詰めで甘い人だから。特に、対人関係の伴う政治であれば。
戦場ならとんでもない武勇を示した人が、一方では繊細でやや小心的な面をみせる。
ところで、柴栄の子、柴宗訓は7歳で即位し、翌年、陳橋の変により趙匡胤に禅譲するのだけど
房州に遷された後、20歳で早世している。
なんか謀略の臭いがするのだが、うがちすぎ?
その後、房州の柴家は南宋まであるので、たぶん邪推の域かと思うが、成人するまでは生かしておき
成人後は担ぎ上げの対象となるから、謀殺した… などと、ふと思った。 その兄・弟感まで尊氏・直義と一緒でさ、凄くステレオタイプに兄=茫洋としてて懐深い・弟=怜悧な法律家・政治家
って見方がなされてて、結果>>130みたいに兄は弟の評価を吸収してるなんて言われるが、
逆だよね。そういう評価はむしろ弟の評価を高めて、兄を貶めている感じがする >>135
>>兄=茫洋としてて懐深い・弟=怜悧な法律家・政治家
中国の物語でもオーソドックスな設定ですよね。
でも、飛龍全傳の趙匡胤は、知恵と徳の備わった張飛ですからっ
う〜む… >>94の負の側面についても語ろうぜ
・言論によって人を殺さなかった
は党争の激化の元凶の一つだと思うが
>>137
それはそうだが、言論封殺は社会を萎縮させるので、それ自体がどうしようもなく悪いわけではない。
悪いのは、それらを自分の都合のいいように利用しようとか、そういうセコイ思惑がある当事者たち
ということになる。
どの時代であっても、システムの問題より、それを運用する人間にこそ問題が多いから。
逆説的に言えば、「負の面」として、悪い方向に作用したことは、そのとおりと思うがね。 なんとなく弟が足利直義みたいに補佐してくれたから
考え方や性格の違いを越えて国が作れたような気がしないでもない 弟だけじゃなく、趙普の功が影響大なわけだけど。
君主として、皇帝としてより向いているのは弟の方だと思う。
とはいえ、趙匡胤のあの個性でなければならなかった、という側面も大いにあるので
最初から仲悪くなくて、よかったとは思う。
これで、最初から足の引っ張りあいしてたらと思うと… 中国では、趙匡胤のようなタイプの方が、多くの人が従うね。 栄光や、成功を分かちあえないだけで、苦労や、艱難辛苦を共に味わい、
それを克服していくことは出来るタイプ。
逆境を跳ね返すバイタリティと、リーダーシップがあって、
その半生は、快男児の一代記の様子を呈している。
もし彼の生涯を前期、後期と分け、それぞれ別の人物による
2代に渡る天下統一であったなら、全く異なる印象になったであろう。
最下層の貧民から身を起こし、天下の覇権を争うまでに昇りつめた男。
国を一つにまとめ、民に平和と安寧をもたらす男。
コレは、この兄弟に似てないか?
そういう意味では、朱元璋の名が出るのは得心する。
ただ朱元璋は、平和と安寧を願うあまり、それを乱しそうな因子は、
片っ端から摘み取ろうとし、その惨劇は酸鼻を究めるのだが。 >>52の
>怒りに任せて家臣をぶん殴り、前歯折ったとかそういう逸話
って司馬光『涑水記聞』(と『續資治通鑑長編』)に出て来る記事だけど、
ネット上で大分ニュアンスの違う紹介がされているみたいなので
僭越ながら訳してみた。
太祖嘗彈雀于後園、有羣臣稱有急事請見。太祖亟見之、其所奏乃常事耳。
上怒詰其故、對曰、「臣以尚急于彈雀。」上愈怒、擧柱斧柄撞其口、堕兩齒。
其人徐俯拾齒、置懷中。上罵曰、「汝懷齒欲訟我耶。」
對曰、「臣不能訟陛下、自當有史官書之。」上悦、賜金帛慰勞之。 太祖は嘗て後園にて「彈雀」に興じていたが、群臣のなかに火急の用件と称して
謁見を求める者がいた。太祖は急ぎ彼に会ったが、
彼の奏上する内容は通常の用件であった。陛下は怒って理由を詰問したところ、
彼は「私は『彈雀』に比べればまだ火急だと思います」と答えた。
陛下はますます怒り、柱斧(水晶製の小さな斧らしい)の柄をふるって
彼の口をつき、彼の歯が2つ落ちた。彼はゆっくりとかがんで歯を拾い、
懐中に入れた。陛下は「お前は歯を持って私を訴えようとするのか」
と罵ったところ、彼は「私(臣下?)が陛下を訴えることはできませんが、
おのずと史官が書き記すことになるでしょう」と答えた。
陛下は悦んで、金帛を下賜して彼を慰労した。
訳の正確性は保障できんが、こんな感じかな。
彈雀については具体的な描写が無いので断言できんが、「弾弓」と呼ばれる
(博打じゃないほうの)パチンコのような物があったらしいので、
「弾弓」で何かの弾丸か小石かを雀に向かって弾き飛ばして遊んでいたのかな。 >>146
はー、なるほど
要するに遊びに夢中になってたところに火急の用件ということで
謁見を申し込まれ、会ってみたら大した用じゃない。
「ちっとも火急じゃないじゃないか、何でこんなことした」と怒ったら
「遊びよりは火急だと思いまして」と返されて思わずキレて殴ってしまった、と。
しかし斧の柄で殴るとは…最後の斧振るいのシーンといい、
この人って斧の逸話に縁があるんだなw >>おのずと史官が書き記すことになるでしょう」と答えた。
>>陛下は悦んで、金帛を下賜して彼を慰労した。
ここで、その直言に喜んだのが、大度なのか弱気なのか、判断に迷うところ。
太祖が実は小心で神経質なところがあったんじゃないか、と言及しているのは
「独裁君主の登場」で、なんだけど。ははぁ、と思ってしまった。
雀撃ちみたいな遊戯でもあったのかな?
でもあんまり雀を撃つと、先君への不孝になるぞ?(郭威のあだ名は雀児) >>150
石に刻んだ遺訓で「言論を持って士大夫を殺すことなかれ」みたいなのを残す人だから
「やべぇ!」と焦りながらも咄嗟にそれを実践したとか? >>151
そういう雰囲気のある人だ、趙匡胤は。
そういえば、柴栄が常々「一時の感情で功臣を罰したりはしない」と言っていたから
趙匡胤もその線で踏みとどまったか。
>>153
ドラえもんがどらやき横取りされたのと、似たような反応だよね。
それはおいといて、周世宗も宋太祖も、口だけの仕事しないやつは大嫌いみたい。 でもいずれ趙匡胤が殺される
で、2大まっとう?創業者の匡胤と劉秀は性格が合わず仲悪そう 劉秀と仲良くなるのは、たぶん弟の方。
憧憬をもって付き合うだろう。
で、家に帰ってくるとだらしないアニキ見てがっかりする。
その弟も、李世民みるととたんに同族嫌悪ではじき飛ぶだろうw 何故だろう、劉邦と仲良くなりそうな人が思い浮かばない。 >>158
アルティミット・シイング・カーズと同じ
頂点は常にひとつ 評価が弟とセットじゃなく朱元璋とセットになってるケースが多い気がするw 王朝の基本方針が、創業者の個人的な能力と一致するわけではないからね。
武力に秀でた人で、その組織に身を置いて暗部も見てきたから、かえって
その危険性を十分に認識した、という点が強い。
宋の権限分散型の体制は、自分がやってきたことへの反省と軽い否定につながる。
仮にまだ一部将だったときに、こういう施策がなされれば、あるいはクレームつけた
かもしれないが、趙匡胤という人格を考えると、そうはならなかったかもしれない。
趙匡胤は、対南唐戦では、激戦区を少数で任され、期待に応えている。
激戦区だけに要地なわけで、本来もっと増員して確保しろよ、と言うところだけど
なぜか趙匡胤の部隊だけで守り通させている。
初期の南唐戦で戦線が崩壊しなかったのも、彼の奮闘が大きいと思う。
しかし激戦には違いなく、このとき父親の趙弘殷を失うという悲劇もあった。
そういう彼には、もっと武勲に報いてもおかしくなかったが、地位が一段上がり
戦役終結のときは、節度任地が変わっただけだった。
これは武勲に比して軽すぎるという意見も朝野にあったそうな。
しかしながら趙匡胤は、後周世宗の北伐のおり、つねに側近に侍り竜船で御前指揮をとった。
上陸のとき、本陣に1000人ほどしかいなかった隙を衝かれて襲撃を受けたとき、その旗本のみで
契丹騎兵を撃退するなど、身を挺した奮戦振りは変わらなかった。
李嗣源に対する石敬瑭、石敬瑭に対する劉知遠、皇甫遇に対する杜知敏のような
危難にあって主君を守ってきた部下という、五代のこれまでの例にある主従という感じで、
出世欲が強い輩とは根本的に違うと思えるので、報いが不当と思ったかどうか。 >>本陣に1000人ほどしかいなかった隙を衝かれて
「一旅に満たず」を1000人ほどと見ましたが、「一旅」は500人の集団でした。
なので、500人に満たない旗本(侍衛軍→殿前軍だと思う)で、皇帝の左右を固めていたわけです。
皇帝親征なので、多くの文官が随従していましたが、その随官たちは一様に恐懼していたそうです。
そういうところを契丹に狙われたけど、趙匡胤のおかげで近寄ることすらできなかった。
さらに趙匡胤はそのわずかな守兵から、さらに割いて、瓦橋関を陥としました。
あきれた少数精鋭っぷりです。
かつて自ら選抜した武芸の勇者を指揮下に置いているわけですから
手足のように統率したんでしょうかねぇ。
王朝創業者はやっぱり名将が多いね。
他の部分で注目されて、戦績とか埋没しがちだけど。 sugawaramasanorisinekuzuzisatusiro >>169
現代人をもってこられると、イメージが崩壊するからやめてー >>165-166
趙匡胤って、スレタイの話からちょっとユーモラスなイメージがあったけど
普通に名将なんだな。
もしかして五代スレの人? 名将というのにも、いろいろタイプはあれど、件の淮南攻略戦のときの趙匡胤は
猛将タイプの勝ち方(?)と知将タイプの勝ち方(?)のふたつを実例している。
猛将的な勝ち方とは、清流関での戦いで見せた、一直線に敵陣に乗り入れ、敵大将
ふたりを生け捕ったこと。
「狙うは敵大将が首」と叫んで(そういうセリフじゃないけど似たようなの)馬を煽って敵本陣に突入
して、瞬く間に敵大将を擒え敵軍を戦闘不能に陥れたそうな。
南唐3万VS趙匡胤2千。両軍ともにほとんど損害を蒙らない戦いだったみたい。
知将的なのは、清流関に至る前、淮河を封鎖する南唐水軍に対して攻撃をかけたとき。
100騎ほどを敵本陣に迫らせてわざと敗走させ、追ってくる敵を伏兵で混乱させ、
その隙に強襲をしかけて、南唐水軍の戦艦50余艘の拿捕と、大将を斬った。
南唐1万VS趙匡胤2千。南唐軍は大敗。
さらに呉越軍を撃破して勢いに乗った南唐軍が、揚州を奪回するため分進合撃した
作戦のとき、六合から進入する南唐の斉王・李景達が率いる主力を相手にするとき
趙匡胤は部下が速戦を主張する(これまでそれで連勝していたこともあるし)のを退け、
味方が少数であることを隠匿するために、敢えて敵のほうから仕掛けさせ、かえって
相手の積極性を殺いだかたちで、開戦にもちこみ撃破している。
南唐2万VS趙匡胤2千。南唐の損害、斬獲5千、敗残兵の1万余人のうち敗走時に
溺れ死んだものははなはだ多かったらしい。
(2千で5千も斬ったり捕らえたりって、一人で必ず2,3人は始末しないと無理… 味方の死者も
あるだろうから、少なくとも5人は始末している?趙匡胤は素で100人くらい殺してそうだけど)
戦場にあっては常に目立つ格好をして、馬にも装飾をこらし、自身の甲冑もきらきらしたものを
着用していたそうで、「我、ここにあり」を見せ付けていたのだとか。 そういえば太祖の父親の趙弘殷もなかなかの名将だったんだっけ? 宣祖、趙弘殷か。宋史の太祖本紀にあるのくらいしか知らんけど。
趙王、王鎔の騎将で、李存勗を援護するため合流したとき、えらく気に入られ
むりやり留め置かれたことから、晋王軍に属するようになったそうな。
李存勗は勇者がお好み。
後漢が立ってすぐ、鳳翔や長安に異変があって、長安の節度使が不安になって
鳳翔の節度使をたぶらかして、ともに後蜀に降ろうとしたので、後漢はすぐに討伐軍を派遣した。
鳳翔側に趙弘殷は派遣され、大将の王景とともに、鳳翔の救援に出てきた後蜀軍の張虔釗
や韓保貞らと陳倉で交戦し、左目を打ち抜かれたけど気力は衰えず、かえって奮戦して
蜀軍を大破した。
この功績で護聖軍に転出し、後周が立ってからは鉄騎第一軍、龍捷軍右廂指揮使(侍衛親軍の
騎兵右将軍)と、禁軍の大将を転籍。岳州防御使が最高の役職だけど、これは遥領。
また検校司徒、天水県男とされ、禁軍内部では息子の趙匡胤と、かなりはばを利かせていたようだ。
そして>>153が指摘しているように、寿春で柴栄が餅屋を殺そうとしたとき、諌めまくったのが
なにより最大の功労よ。 >>174
確か何かの拳法の創始者じゃなかったっけ? 「太祖拳」とか何とかいうやつ 少林長拳(太祖拳)の創始者かつヌンチャクや三節棍の考案者とされてるね
太祖が居なかったらカンフー映画随分変わってたってことか?w 若い頃、浪人暮らしみたいなことをしていた時期があるから、
江湖の渡世人、武術の使い手みたいなイメージがつきやすいね。 宗って弱小国家のイメージ強くて余り興味なかったがこのスレ見て興味湧いてきた!なんかお勧め小説ありますか? >>182
w
宋っつても、初期と中期と後期で、随分様相が変わってくると思うけど。
初期ならば何をおいても、『飛龍伝』『楊家将演義』
中期は『三侠五義』『百家公案』とか包拯モノかな。狄青のは知らんw
後期は『水滸伝』しかなかろうなぁ。
>>181
まぁ上のようなところだけど、『飛龍伝』はさすがに難しいと思う。日本語で読むのはね。
お勧めは『宋史軍談』。図書館にならあるんじゃない、知らんけど。
で、宋を弱小国家というけど、中期以降だね。
初期や中期のはじめは全然そんなことはなかったよ。
遼に負けたのは、そのときの遼も実は最盛期だったということも大きい。
国力が充実し、さらに軍民の士気の高い統一国家同士のガチンコなんだよね。
防衛戦になった遼の勝ちになったけど、さて、それをもって北宋が貧弱だったとは
さすがに言えないと思っている。
北宋の軍事システムは皇帝が能動的に動いてなんぼだから、動かない皇帝のもとでは
軍事だけでなく全体が緩慢になってしまうんじゃないだろうか。 遼と本格的に当たった時期はもう太祖居ないしね。
太宗は名君だと思うけど軍事面で兄と比べると相当見劣りするし。 >>184
そお?
世宗も太祖も陥とせなかった不落の晋陽を攻略したのは、評価に値しないと?
圧倒的国力差で臨み、なおかつ劉継業の降伏の勧めがあったおかげだから
軍事についてはなにもしていないのと同じ、とか?
しかし、朝廷が先の二帝の失敗を挙げて慎重論を諭すところ、積極的に攻勢にうつり
北漢を攻めた決意と実行力は評価できると思う。
さらに、実戦においては潘美を主力にする一方で、契丹の来援を阻む地点に
あらかじめ予想して兵を配備し、契丹の将・耶律沙をして一歩たりとも北漢の領土に
立ち入らせなかった。
さらに、攻城戦に移っては、自ら督戦して猛攻を仕掛けさせ、補給路も完全に
遮断して攻囲し、これまでの例になく損害を最小限にして晋を平定したのだから
高いレベルの戦略眼を持っていると思えるけど。
実際に体を使って戦う技能は太祖に相当見劣りするけど、戦略用兵の面で、劣っているにしても
それほど極端に劣っているようには思えない。
ただ軍事とは関係ないけれど、この人の冷酷でイヤなところに、晋陽が徹底抗戦したから
憎いとはいえ、晋陽の住民を強制移住させ、城と住居を焼き払ってしまったことが挙げられる。
強制移住まではいいけど、住居を焼き払うとき、民衆の避難を最優先させず
追い立てるように、逃げ遅れもろとも焼いたというから、凄まじい。
それが少ない数であったとしても、この点で仁君とは言えまい。
もともと仁君と呼ばれたいとは思っていないかもしれないが。
遼にしてやられた大敗北を思い出したくないために、論功もきちんと取り上げなかったり
その辺太祖のような人情は、持ち合わせが少ないのだろう。 北漢戦って割合やるべきことはっきりしてる戦だと思うんだよね。
前2回の失敗を糧に冷徹なとこのある太宗が思案を重ねて戦略練れば不測の事態を極力減らせるくらいに。
作戦練りに練ってその通りに進めれる状況の侵攻戦なら大変有能なんじゃないかな。
ただほぼ前例のない遼への侵攻で遠征軍繰り出した時に遼の防衛戦術にまんまと嵌ったあたりに
限界が見えるように思う。
まぁ世宗なんかも危うい局面多くてあんまし褒められたもんじゃないけどさw >>186
>>遼への侵攻で遠征軍繰り出した時に遼の防衛戦術にまんまと嵌った
勢いに委ねた侵攻戦って、ちょっとみ世宗を彷彿とさせるけど、幽州にてこずって
耶律休哥の速戦にしてやられてしまった。
さすがは幽州の難攻不落ぶりなんだけど、次のいかにも大陸的な、大規模な分進合撃作戦
も、その意図するところは非常に理に適っているように見える。
ちょっとしたことで破綻をきたすのが、大軍統率の難しさなのだろうけど、自分的に
ここは、少数でたちまわった耶律休哥がすばらしい、としか思えないわけで。
結局そこが限界だというのは、そうであるには違いないけど。 >>世宗なんかも危うい局面多くてあんまし褒められたもんじゃないけどさ
世宗のそれは他の誰にも真似しようのない、彼の個性が成せる業だろうと。
即位早々の世宗と同じように太宗も幽州で、「若気の至り」の大敗を喫しているわけだけど、
あるいは太宗は世宗にかなり影響を受けていたのかもしれない。
世宗が北漢を攻めて、晋陽の堅固さにてこずって契丹騎兵に補給線を断たれ
光の速度で逃げ出したのも、程度は違えど太宗のと状況は似ている。
世宗の場合、そのとき大反省して先帝の墓前で号泣してから、惨めな敗走をしないように
はなったけど、はたから見てて危なっかしいことの連続ではあった。 初見なら悪くないと思ってるよ。
趙匡胤ものって、いまのところソレしかないけどね。
ただなぁ… 見せ場を盛り上がらせる演出に乏しいのだわ…
せっかくの趙匡胤in真・三國無双みたいなシチュエーションをあっさり流している。
もったいないなと思ったもんだよ。 趙匡胤物語には、まだ正史厨も演義厨も沸いてないから語る余地は多そうだ。
これも三国志みたいなことになったら笑うな。 小ねた。
趙匡胤があるとき家臣とともに野外宴会していたところ、急に雲行きが怪しくなって
とうとう雨が降ってきてしまった。
「雨なんぞ降りやがって」と毒づく趙匡胤。
それを聞きとがめた趙普は「最近は雨が降らず田畑は干上がっていましたからねぇ
天下百姓は皆大喜びしていることでしょう。ひとつ難があるとすれば、宴会が中止
させられることくらいですねぇ」と皮肉った。
ぐっ、と言葉に詰まった趙匡胤。
ここで怒鳴ってはだめだ。その言葉を善しとして大度のあるところを見せねば負ける。
とでも思ったか、趙匡胤は大いに喜んだという。
上の雀撃ちの火急の用件のときもそうだったけど、なんとなく劉邦チックなエピソードも
多い趙匡胤。
しかし、その姿かたちは、四角い顔に福耳で、長い手とくれば、まるで劉備。
しかも生まれは涿郡…(郡名は漢代なので、本当は涿州。でもなぜか宋史
には郡で書いてある。ハテナ) >>194
この人、臣下に色々言わせすぎだw
うっかり文句や愚痴も吐けやしないw まぁそもそも趙普かなりイイ性格してるからなw
謹厳な君主の下だったら絶対あんな地位にいけん そこいくと、謹厳で導火線の短い(それ謹厳か?)柴栄に究極の皮肉を放言した
馮道はこの時代最強の宰相でしょうw
でもまぁ、イメージとしては、柴栄は言い返す、言い負かすタイプで(負けん気強いから)
趙匡胤は、引きつりながら笑い納めるって感じでだなぁ…
弟に諭されたりしたら、「はい、すみません」とか言いそうだし(13歳年下相手に)。
いや、これは妄想がすぎるか。 趙匡胤「ちっとも火急じゃないじゃないか、何でこんなことした」
臣下「遊びよりは火急だと思いまして」
趙匡胤「雨なんぞ降りやがって」
趙普「最近は雨が降らず田畑は干上がっていましたからねぇ。天下百姓は皆大喜びしていることでしょう。
ひとつ難があるとすれば、宴会が中止させられることくらいですねぇ」
趙匡胤「なぁ…俺、皇帝なんだけど…」
趙匡義「筋書き書いたの俺じゃん。アンタ酔っ払ってただけだし」
趙匡胤「…orz」 厳密に言えば、趙匡胤が皇帝になった時点で諱を避けて趙光義に
したわけだけど、わかるんだからいいんじゃないの。
とかテキトー言ってみる。
ちなみに、趙匡胤の標準装備は棍棒、烏油棍です。
講談などでは、「棍棒」の演目に分類されていて、花和尚、武行者とともに
演題が挙げられていて、人気があったとか。
乱暴者のイメージがありながら、彼や弟の系列である宋という国は、実に暴君が
出ていないことでも知られていますね。
あと、漁色家の皇帝もいないということで、昼ドラ的展開がないのも、特徴のひとつとか。