【酔っ払っているうちに】 趙匡胤 【皇帝になった】
酔っ払っているうちに皇帝になってしまったという、趙匡胤について語りましょう。
およそ三百年に渡って続いた宋朝の太祖皇帝です。 >>209
趙匡胤は、中国史上最高ではなく、ある意味最強の皇帝じゃないか。
猛将が皇帝になったから、武勇の点ではそうそう遅れはとらない。
李世民に似ているっていえば、弟の趙光義。
で、両者ともかなり、法家である劉秀を意識していたりする。
まぁ、趙光義の場合、直近に世宗がいるから、そっちの影響もかなり受けてるような
気がしないでもないが。 >>201
宋の皇帝は可もなく不可もなくな
一言で言うと地味なイメージ この人が料理人にキレてぶっ殺したってのはこのスレではじめて知ったんだけど、
この逸話って民間伝承レベルのもので正式な記録にあるものではないのかな?
ぐぐってもそれらしいのは>>47のやつだけで・・・
彼のエピソードもっと知りたくなった >>219
趙匡胤は子供の頃、陳学級って人のところで、学問を学ぼうとしてたんだけど
この人が非常に厳格だったので、趙匡胤は嫌い、あまり勉学をしなかった。
そのあと、趙学級って人がやってきて、これに師事すると、趙匡胤は不思議と
なついてしまった。
ちなみに、弟は陳学級のほうで、勉学したそうな。
さて、時は過ぎ、趙匡胤は立派な武将に成長しました。
ときは、後周世宗が天下制覇を狙って起こした淮南戦役。
初戦に勝利した世宗は、淮南の中央にあたる滁州の攻略を
趙匡胤に命じました。そこは、南唐軍の迎撃部隊15万が駐屯する要衝。
しかし世宗が趙匡胤に与えた兵力はわずか2千。
寡をもて衆を討つことに知恵を絞る趙匡胤。
まぁいいや、と清流関に進みましたが、そこで滁州の敵軍と遭遇し
衆寡敵せず。みんな逃げろとばかりに解散させ、山を降りて再集結しました。
途方に暮れかけたとき、近隣の住人から、ここには博識の学士がいるから
その方に知恵を借りてみては、と言われ、その通りにする。
するとその人こそ趙学級ではないか。
趙匡胤は、彼の知恵を借り、山間の小道や小川から、滁州の搦め手に出
一気に場内に討ち入り、敵大将二人を捕縛したのでした。
《十国春秋》の南唐皇甫暉伝に引くところの、《史纂左編》によれば、この趙学究は
趙普のこととしている。
しかし、趙普がこんなところで隠者みたいにはしていないし、このときはまだ
雍州(長安)の属官でしかなかった。
滁州攻略後に、趙匡胤の佐官として配属されることにはなるけれど。 >>207
加藤徹明治大教授は著書「貝と羊の中国人 (新潮新書) 」で、
趙匡胤はトルコ国家の後唐の近衛兵の世襲軍人家系だからトルコ系の可能性はかなり高いって書いてる。
>>223
後唐の近衛の世襲軍人家系だから
ってのが、その根拠になるというものどうかと。
もちょっと、前後にいろいろ説明なかったですか?
というのも、趙家の祖は唐に仕えた地方州官であり、沙陀政権である後唐に
仕えるようになったのは、趙弘殷すなわち宋宣祖の代からだからです。
しかも趙弘殷は、当初、趙王王鎔の麾下にあり、ずっと沙陀軍閥だった
わけではない。
趙家が突厥系という根拠のひとつは、その出身地の地域性にあるかも。
涿州は、幽州節度の管轄内で、北方国との交わりが強かったのでは。 よくわからないんだが
太祖と太宗って日本でいえば
豊臣秀吉と羽柴秀長みたいに兄弟で手を取り合って天下をとったんだよな >>226
兄貴が武闘派、弟が実務官僚チックなところがな ただしこの二人は別に足利兄弟みたいに対立してないけどな。
民にしてみれば有能な兄弟君主が二代続いたわけで万々歳だろう。
太祖趙匡胤の息子が有能かどうかなど誰にもわからないんだし。
実績と人望のある弟趙光義が帝位についても何の問題も無い。 13歳も離れていると、いい感じで世代が移りますしね。
たしかに嫡子よりは実力ある弟の方が、って風潮
まだその頃には残ってたでしょうし。
ま、遼にはボロクソにやられましたが、それ以外のところでは
北宋の強固な君主権確立という点で、比類ない実績をあげたのは
たしかなこと。
>>227
兄貴が気分屋で弟が堅物な所までソックリ >>酔っ払っているうちに皇帝になってしまった
聞いてるだけで愉快になりますな。
皇帝になりたくて策めぐらしたり人殺したりしたやつらが多かったんで
しょうに、それを酔って寝てるうちにってねえ…
いや、人望あったんでしょうな。 >>232
幼帝だと国が危ういから、みんなが軍の最高実力者の趙匡胤を立てただけで、
良くあるクーデター。策めぐらしたのが他の連中だっただけで。 >>233
いや、そりゃまああたしだって陳舜臣のナニくらいは目とおしてますけどね…
アンタもう少し情緒ってものを…
まぁまぁ。
中身はただの野心を抱いた実力者が、軍事力を掌握して
幼い皇帝をおどして帝位を奪ったという、よくある話でも
酔っ払っているうちに皇帝になるっていう戯言がまかり通るような
ゆるい雰囲気が趙匡胤にはあったのだろう。
でないと、そんな逸話にならない。 おお、>>235が気持ちよくまとめてくれたwww感謝 王朝の初代皇帝でここまで後ろ暗い事が少ない皇帝も珍しい その代わり弟が真っ黒黒だけどね
松永久秀の師匠って感じ 郭威の粛清→枢密使の王峻と、禁軍司令の王殷。
柴栄の粛清→何徽と樊愛能、他70名の禁軍将。
軍装調達してた符令光。工事監督してた宦官。あとなんやかんや4、50人くらい。
こうしてみると、実は柴栄は勲功ある大物の粛清は一切してないんだなw
弊風とかの見せしめで綱紀を粛清した感じ。
趙匡胤も怪しいところといえば、李重進の討伐と、柴宗訓の早世(20歳)、孟昶の頓死(滅亡7日後)あたり。
徽宗さんの逸話とかもそうなんだが趙家の人間って立場を考えずにフラっと外出するの好きじゃね? >>244
狡猾といえば、平江南に先立ち、洪州の林仁肇を離間の計で後主に殺させたあれはえぐい。
後主の方も逆らえないもんだから、無理強いと判明しても殺さないとしゃーなかったというか。
>>245
趙匡胤の場合、立場を利用して「天子のすることに文句を言うのか!」
って言い張るんだよ……。
まだ澶州で東西班軍士だった頃は暇だったろうけど、節度使を与えられたときから
天子に至るまでふらふら微行するのは日常的だったと断言できるのでは。 なんで趙匡胤の息子じゃなくて趙光義が即位して
その後も趙光義の子孫が皇位を独占していったんだ? 趙光義の政略だな。
そもそも兄弟で13歳年の差があったから、割と自然に帝位の継承が流れたような気もするが。 太祖の次男の燕王徳昭と四男(末子)の秦王徳芳だな。
太平興国元年(976)当時で26歳と18歳。
有名な話で《遼史》景宗紀の保寧八年(976)十一月の段に
「宋主匡胤?,其弟炅自立」
とあって、簒奪みたいなもんと他国に思われてる。 このスレ読んでたら趙匡胤が好きになってきた
今まで気にも止めなかったのにな 僕は趙宋の末裔です。家系図は上海図書館に所蔵しています。
太祖から第35代目、燕王徳昭の系統です。
上海復旦大学人類遺伝子課題組にYDNAサンプルが取られました。
YDNA遺伝子SNP結果はO1a1-P203です。
その結果トルコ系ではないと証明されました。 太祖の陵は盗掘されてないのかな?
太祖の遺骨を知らべれば、千載不決の疑も晴れるのでは??
最近では光緒帝の遺髪も調査したくらいだから、やって欲しいね。 漢・唐・宋・明・清の皇族はなんとか子孫が残っているね
秦・晋・隋・元の血統は断絶してしまったが ああ皇族か。ジンギスカンの子孫が数千万人のニュースを思い浮かべた。 >>255
秦は諸蕃の秦氏、惟宗朝臣、東儀家等として日本に残っている。 趙匡胤の人生について
詳しくわかる和書はないですか?
宋史からあたって見たいけど
和訳されてないようで・・・ 清水新書の「独裁君主の登場」
が、唯一最適な和書でしょ。 名君四天王 光武帝、李世民、趙匡胤、康熙帝
暗君四天王 西晋の恵帝、高緯、陳叔宝、万暦帝
暴君四天王 始皇帝、石虎、煬帝、朱元璋 北宋の太祖・趙匡胤(927-976)のY染色体は、ハプログループO1a1a1a1a1a(O-F492)であると推定される(注1)(注2)。 趙匡胤の出生地である洛陽の宋太祖祠って今もあるの?
何度ググっても見つからないんだが。
もしかして、けざわひがし君の文革で破壊されたの? 強化版劉祐みたいな
あの時代の皇帝で、奇跡的な人格者と思う