陸 秀 夫
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崖山の戦いの結末は、悲惨だねえ。
300年に渡って続いた宋朝の最期としては、ある意味相応しいものだったのかも知れないけど。
次々と擁立された幼い皇帝たちが可哀想。 >>1
名前に空白を入れるのはやめてくろー
検索が当たらないから陸秀夫を探してる人がここを発見できない まー、陸秀夫を探す人もそんなにいないだろうけどw
にしても、崖山の光景は凄まじかっただろうな。
何万人もが海に身を投げたんだから。
平家の壇ノ浦の百倍の規模だし。 日本に逃げようとは考えなかったのかねえ。
文永の役で元軍と交戦した事とか、度重なる服属要求を拒否し続けてることとかは
伝わってたと思うんだが。 日本ではなく、ベトナムのほうに逃げようとしていたでしょ。
陳宜中が使者に行ったのに、姿くらましたもんだから、進退窮まって崖山で悲壮な戦い…
文天祥は華南の山岳地帯でゲリラもどきの転戦を…
降伏ではなく全滅を選んだこの人たちの胸中、どのようであったのか。 他の時代でもなかなか例をみないな。
普通、皇帝とかそのアホとりまきはさっさと逃げ出し、途中で捕らえられるとか、皇帝殺して首を差し出すとかするのにね。 宋朝って情けなく言われることも多いけど、
あれだけ殉じた人がいたんだから、なんだかんだで偉大な王朝だったんだなと思う。 張世傑でもなく文天祥でもなく陸秀夫か……。
この人、最期の話しか知らないんだけど、それ以外になんかやったの? まあ、臨安陥落以前は、元朝との和睦交渉に当たって失敗したというぐらいしか、特筆することはない。
でも、悲劇的な最期は、今でも多くの人々に哀惜の念を与えている。 宋朝は民に害を成すような暴君はいなかったんだよね、無能は、Kゲフンゲフン
それが悲劇をひきたたせてる 蒙古の侵略はどっからどうみても「外圧」だからね。屈したくなかったのだろう…
これまでの興亡は、とにかくも中国の内乱という捉え方をしていいと思う。
それゆえの征服王朝時代なわけだが…
>>10
だから何故日本じゃなくベトナムに行こうとしたのかと小一時間(ry
日本に来ていればあんな事にならずに済んだだろうに。
鎌倉幕府も朝廷も無下には扱わなかっただろうし。 日本への制海権がすでに手中になかったからだろうよ。
あの時代、いかに宋の操船技術と造船技術が優れていても、南シナ海から延々と日本を目指すのは危険が大きすぎ、二の足踏むのも仕方ないとおもうがなぁ。
それより、似たように無下に扱わないであろう、大越陳朝の方が近い上に気安い感覚もあったと思う。
ただ、思ったほど色よい反応もなく、使者も姿を晦ましてしまった不幸。 陳朝にしても、下手に亡命政権を受け入れたら、元朝と全面戦争だからなあ。
厄介ごとは抱え込みたくなかったのだろう。
結局、侵攻は受けたけど。
>>17
日本に宋朝の子孫が来ていたら、どうなっただろう?
公家の立場を与えられるか、あるいは亡命政権の樹立を認められるか?
亡命政権なんか認めたら、元朝と全面対決になりそう。
まあ、元朝がどう頑張っても、海に囲まれた日本を占領することはできないだろうけど。 >>20 そんな交通に難儀する辺境の小島を制圧しても旨みがないだけ。
しかも上陸を試みて二回とも撃退されてる。
逆に言えば、海上封鎖するだけで、日本を干上がらせることができるのだけどね。
それは現在のほうにこそ有効か。 当時は日本国内も結構裕福だったようだし。 つくづく日本は海に囲まれててよかったと思う。
朝鮮半島と地続きで繋がっていたらと思うと、ぞっとする。 >>21
フビライは海上封鎖どころか日本との交易禁止すらしてないな。
その辺は割とおおらかな性格だったんだろう。
文天祥にしても破格の扱いだし。 >>23
フビライは、モンゴル帝国諸国とその周辺が一体化した、
ユーラシア大陸全域を巻き込んだ巨大な交易圏の構築を企図していたんだと思うよ。
内陸部の遊牧民出身なのに、海上交易にも関心が強かったようだし。 モンゴル人は結構考え方が素朴だけど、
隊商とかを通じて、商いが儲けになることは理解していたからね。 >>25
むしろあちこち移動する遊牧民の方が経済に明るいと思うよ 住人諸賢は何を見て(読んで)陸秀夫を知りましたか?自分は田中芳樹の『海ショー』なんですが…。
陸秀夫について深く書かれた本などを御存知であれば御教示願いたい。 十八史略だったか何だか忘れたが、
なぜ宋朝の遺臣たちはあれほど忠節を尽くしたのかというと、
歴代の王朝と比べて官僚の給料が高かったから、と書いてあった。
宋朝は官僚(士大夫)を最も優遇した王朝として有名だからね。
高官が引退しても名誉職で恩給形式で貰えたし。
>>30
顧炎武が「俸薄の害」と呼んでいたな。
薄給なので副収入(いわゆる賄賂)が無きゃ家族を養えなかった官僚が大半。 北宋にしろ南宋にしろ、内乱ではなく外圧で滅んでいる。
これは中国の王朝で稀有な例じゃないの?
宋は中国の王朝の中では一番まともだと思う。 >>33
外圧によって倒れるのがまともな王朝ってこと? それは、マトモというより、内乱・腐敗と外圧で滅びる王朝が、古今東西「よくある例」だということでしょ。
小国でも、外圧「のみ」で滅びる王朝は数が少ないと、そういうこと。
王朝の終焉は、根本的に内部腐敗からだから、実際南宋朝とて例外ではないのだ。
ただ、腐り始めたばかりのところを、強力な外圧によって押しつぶされたものだから、中の人が他国の支配を享受できないかったのだろう。
南北宋の稀有なところは、暴虐や漁色の皇帝が出なかったことにつきる。 そーかあ?
南宋はともかく、北宋はかなりやばかったと思うが。
結果的に外圧で滅んだが、実質すでに王朝末期の様相を呈していたと思うよ徽宗の代ですでに。
徽宗は個人の性格は温和だったが、その代の統治は暴政といってさしつかえない。個人的に、
この人の統治は明の万暦帝と被る。もし精康の変がなかったら、徽宗と蔡京の統治がさらに続いた。 だが、文化的に宣和年間は盛況だったわけで。
王朝末期に漂う黒々としたものが、顕在化する前に拉致られたような状態。
むろん、徽宗の治世がまともと言っているわけじゃなく、どうしようもなくなる前に無理やりリタイヤさせられたことを言っている。
続いており、蔡京ら六奸臣がのさばったままだと、王朝末期の内乱に大突入したことは、想像に難くないわな… >>35
内部を有力者に食い尽くされて平和裏に禅譲。
>>36
>ただ、腐り始めたばかりのところを、強力な外圧によって押しつぶされたものだから、
いやー、宋朝の内部腐敗もかなり根が深かったと思うがなぁ…
徽宗の治世は党争の嵐だったし、南宋でも秦檜、史弥遠、カ似道なんかは国を傾けてんだろ。 >>39
統一王朝でそういう終わり方したのは前漢→新くらいかなぁ。
その後大乱になったけど。 >>41
賈似道だって政治家としてはそれなりに有能だ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています