陸 秀 夫
徽宗の代でも別に全国的な統治力を失っていたわけではないから、それ程末期的な症状ではなかったのでは?
北方政策さえ間違わなければ、北宋はもっと続いたと思う。 徽宗皇帝も親王だったら良かったのになぁ(´・ω・`) ? 皇族男子のままだったら、優雅で好きな暮らしができていたろうに… という意味だろうなぁ。
もともとはそうだったんだよね。神宗の11子だったから。 特に皇位継承で有力だったわけでもないみたい。
哲宗期の皇太后、つまり神宗の皇后が、哲宗のあとに徽宗を据えてしまった。
兄→弟というスライド。
哲宗が若死にしたため、そういうことになったようだが、哲宗も名君神宗の子にしては、できがよくなかったようだから、どっちに転んでもあんまり、ねぇ…
基本的に、皇太后とかの摂政時代のほうが北宋は安定していたという… >>44
で、徽宗や蔡京や童貫がそのまま続いて花石鋼やらなにやらがそのまま続行されると。
第二、第三の方ロウの乱が続発するだけだと思うが。
よく「繁栄の絶頂から〜」などといわれるが、実際に繁栄していたのは東京やその他
一部であって、他の大部分では搾取であえいでいた。
さらに国家システムも以前から相当のガタがきていた。それを解消しようとしたのが
王安石の新法だが、これも結局は失敗に終わっている。
正直、不安材料しか見当たらないのだが。 >>47 不安材料があって、現在はともかく未来はやばそう、というのは皆一致していると思う。
おれが言いたいのは、それでも隋末のようなどうしようもない状態になる手前で、他勢力に潰されたから、それを享受できない、あるいはしたくないと感じた人民が比較的多かったのじゃないかな、と。
と、いっても南方に逃れて亡命政権打ち立てるのは、前例もあることだし、それだけが反金の原動力になったとは言えないかもだけど。
東晋期にも、北からおもいっきり圧力受けていたら、海にまでしぶとく逃げたかもしれないなぁ… やっぱり宋代それまでの単なる大貴族代表みたいな皇帝と違って皇帝権力が確立されてるし、
国家自体も強固になってるんじゃないかな。
だからちょっとやそっとの反乱じゃ滅びないし、権臣による簒奪も発生しにくい。
結果、(決め手としては)強大な武力を持った外国によって侵略されて滅びるしかない。 北宋は徽宗以外には暗君は出てないから、徽宗一代さえ乗り切ればもう少し何とかなったのでは?
>>52 一般には、真宗も暗君とされる。
だけど、真宗のときは、あの寇準がいたために、大事に至らなかった。
それだけじゃないけど、徽宗期と比べれば官僚の質がはるかによかったのは間違いないだろう…
金軍に人質に出されてラッキーだったね。
でも、親族が全部金に捕らえられているってどんな心境だったんだろう。
元に降伏した南宋の一般の皇族はどうなったんだろうか? 陸秀夫(りくしゅうふ、1236年 - 1279年)は、南宋末期の重臣で、文天祥や張世傑らと共に南宋における三忠臣
(亡宋の三傑)の一人として数えられる人物。
1260年、科挙に及第し、進士となる。
1276年、バヤン率いる元の軍が南宋の首都臨安に迫ると、和睦の交渉をすすめて国難を救おうとしたが失敗。同
年1月、臨安は無血開城し、南宋皇帝の恭帝は元に降伏するが、宋王朝の滅亡を潔しとしない陸秀夫は、前皇帝
度宗の遺児を連れだして臨安を脱出、南方に逃れ、張世傑と協力して亡命政権を打ち立てた。
しかし、亡命政権は内部が安定しなかったうえ、1278年には皇帝として擁立した端宗が病死してしまうという非常
事態まで発生してしまった。このため、陸秀夫は端宗の幼い弟衛王を皇帝として擁立し、自身は宰相となってなおも
抵抗運動を続けたが、1279年、南宋残党を追撃する元軍の猛攻の前に遂に南宋の滅亡は決定的となり、崖山の戦
いにおいて自身の妻子を殺した後、自分も幼帝と共に海に身を投げて自殺した。
日本の壇ノ浦の合戦にも似た崖山における陸秀夫と幼帝の悲劇的な最期は、現在においても多くの人々に哀惜の
念を与えつづけている。古くから伝わった筝曲に「崖山哀」という曲目があるぐらいである。崖山を生き延びた張世傑
もまもなく死に、南宋最後の抵抗は儚く潰えることになる。 徽宗のときに外圧がなくて次代以降の皇帝がなんとか乗り切れば玄宗以降の唐ぐらいには生き残れたかもしれない >>63 実際に、南宋というかたちで生き残ってるじゃん。
玄宗以降も、河北は支配下に入っていないとみてもいいかたちだから。 >>63
外圧がないという設定からして無理があるな。 >>63
その場合、金との間が上手くいって、遼の位置に金が収まり、
かつ金は宋を侵略する意思がないと言うこと?
最低でも歳幇はやらんといかんだろうなあ。 万暦帝の頃に明は滅びなかったが、海賊や後金の圧迫も受けていたし、
結局その後に財政が厳しくなって崩壊した。
強大な敵が間近にいる北京にいてすら、財政改革は出来なかった訳だ。
いずれ宋も同じことになっていただろう。 徽宗の後の欽宗の皇帝としての能力はどんなものだったんだろう。
歴史上では、父親の尻拭いをさせられる格好で、
もうどうしようもない状態になってから即位させられたけど。 長子の欽宗趙桓はわりと真面目だったらしい。
三子の鄆王趙楷の性格が父親の徽宗趙佶に似ていて、
一番気に入られていたらしい。 趙楷を跡継ぎに擁立しようとした謀反まがいの騒動も起こっているしね。 張世傑が、逃げたと見せかけて、陸秀夫達を救うために再び戻って来たって本当ですか?時すでに遅しだったのですが・・・ 開封にいた宋の皇族は全員連れ去られたわけだけど、
後で南宋が太祖系の皇族を迎え入れているところを見ると、
太祖系の皇族は地方に住んでいた者が結構いたんだろうか? あまり優遇されてはなかったみたい
だから地方に飛ばされてたのかもしれん チンギス・ハーン4での彼の能力はイマイチだったが…。 忠誠心と義理は高いから、後方の城の留守番が適任だな。 三忠臣の中では、張世傑が一番戦力になるかな。
忠誠心だけじゃ戦えないし。 文天祥はゲリラ的な抵抗戦したおかげで伏兵とかのスキルもってるしな。 \
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tニゝ この人が出てくる小説って田中芳樹の海嘯以外にある?
興味はあるんだがこの時代の知識があんまりなく
まずは取っ付きやすい小説から入りたいと思ったんだけど 増田寛也はこんなヤツ
■前日まで東電取締役
■舛添もびっくりのファーストクラス出張三昧
■岩手県知事を務めた12年の間に公債費を1兆2000億円強に倍増させ岩手を捨てて逃げた
https://twitter.com/kitahamamikiya/status/754484014552010753
広瀬隆です 16/07/18 (月)
九州の講演会で水俣から帰宅しました。
「いま都知事選の候補者である小池百合子は、水俣病の患者切り捨てをした人間だ」ということを、水俣病の患者さんに話しましたら、
みな「そうだ、そうだ。トンデモナイ人間だ」と怒っていました。
https://twitter.com/tok aiama/status/755195613298384896