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北条時行のwikiソースだけと

〉なぜ時行が鎌倉幕府と父の高時を滅ぼした後醍醐天皇に与党したのかについては諸説ある。

〉軍記物語『太平記』が描く伝説によれば、時行は父の高時の没落そのものについては高時の側に非があったと納得しており、後醍醐天皇のことは恨んでいなかったという[40]。その一方で、足利尊氏が今の地位にあるのは鎌倉時代に北条氏が恩恵を与えてきたからであるのに、北条氏を裏切って幕府を滅ぼし、さらに後醍醐帝までも裏切って室町幕府を建てたことに憤りを感じていたという[40]。そして、時行とその一族は尊氏とその弟の直義への復讐を願っており、それを果たすために南朝へ帰順したのだと描かれている[40]。

〉亀田俊和は北条一門と代々婚姻関係を結んできた足利氏の裏切りが許せなかったとする見解を著書に紹介し、「近親憎悪の類に近い」と記している[42]。

〉『太平記』説に対し、日本史研究者の家永遵嗣は、元々時行は持明院統(北朝)の光厳上皇と結んで活動してきたが、中先代の乱後に上皇が足利尊氏と結んで持明院統を復活させる方針に転換し、尊氏と戦ってきた時行はこれを上皇の裏切り・切り捨てと解して、南朝と結んで尊氏と戦う道を選んだと解している[14]。

〉一方、鈴木由美は、『太平記』の描写そのものは著者による創作であることは認めつつも、実際の時行とその一族の心情を言い当てているのではないか、と推測している[40]。たとえば、佐藤進一の説によれば、鎌倉時代の武士には奉公した期間によって主に忠義を尽くすべき度合いが違うと考えられており、新参は逃げてもよいが、譜代の重臣は主と命を共にすべきだと考えられていたという[40]。そのため、鈴木によれば、足利氏は名目上は北条氏の直接の家来ではないとはいえ(公的には御家人として対等の立場である)、鎌倉時代に北条氏は足利氏に対して縁戚関係や偏諱などの長年の優遇措置を与えてきており、その事実上の譜代の臣が離反したことが許しがたかったのではないか、という[40]。なお、時行はこの後、得宗家と父の高時を直接滅ぼした武将である新田義貞の子の義興や義宗らとは連携して行動している[40]。鈴木によれば、これは義貞の鎌倉攻略が新田氏主導ではなく尊氏の指示であると知っていたからではないかという[40]。