《 蜷川虎三 》
京都帝国大学経済学部に入学後 1923年に卒業。1927年、同助教授となる。
1960年代からは革新勢力が都市部を中心に支持を拡大した。これに対して自民党は京都財界や地方マスコミ(京都新聞。近畿放送の放送免許交付などを条件に自民党に有利な記事を書かせた)を味方にし後には民社党や公明党とも連携するようになった。
社会党や共産党などの議会与党のほか府職員労働組合、府教職員組合、府医師会などは引き続き蜷川を支持し保革対立の様相が色濃くなった。また 1960年代後半から蜷川と政策的に協調する事が多くなった共産党は都市問題などのイシューに上手く対応した事もあって 1970年代に京都府議会で急速に勢力を拡大した。
初当選以来、府議会で蜷川府政を支持して行政にも食い込んでいた社会党が同和問題などで蜷川と京都府庁に無理難題な要求を度々するようになり、あまりの露骨さに呆れた蜷川は同じく府政を支持していた共産党に肩入れするようになった。