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【池泉式】日本庭園【枯山水】
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0001列島縦断名無しさん
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2013/10/24(木) 22:09:39.11ID:o8u7TMSS0
日本庭園を見るなら、どの季節、どこがおすすめ?
お気に入りの庭は、どこですか?
各地の日本庭園の魅力を語り合いましょう。
0554列島縦断名無しさん
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2021/01/10(日) 08:05:31.27ID:VEznABzo
和気王は霊媒でもある益女に降霊を依頼した。
先霊(祖霊のこと)を降ろしてもらったのである。
そして益女に憑依した先霊に己の願いを伝えた。
逮捕後の捜査でこの先霊への願文が発見されたという。
和気王にとっての先霊とは、祖父の舎人親王であり、曾祖父である天武天皇
である。
願文には「心に念じていることを成就させたいただいたならば、遠流に
処せられている尊き霊の子孫を都に召還して臣下といたしましょう」と
書かれてあった。
そしてそのために「己が恨む男女二人在り。此を殺し給へ」と書かれて
いたというのである。
この「男女」が称コと道鏡を指すのであることは言うまでもない。
「遠流に処せられている尊き霊の子孫」とは自分の叔父たち、すなわち
船王や池田王とその子供たちを指す。
(淳仁を指していると捉える余地もある。後述。)。
和気王の願いは、称コと道鏡を殺して欲しい、そうすれば(自分は天皇に
なり)他の舎人系の皇族を臣下にして朝廷を支配するであろうということで
あった。実際に淳仁廃位の後、和気王は有力な皇位継承者とされていた。

呪詛の噂が立っただけで和気王は逃亡した。率川社(いざかわしゃ、
奈良県最古といわれる神社)に隠れたが、逮捕されて伊豆に配流とされた。
率川社の率川とは地名である。春日山から率川という川が流れていた。
今は率川神社とよばれるこの社は、近鉄奈良駅の南数百メートルの街中
である。
興福寺や猿沢の池に近い。
平城京から見ると、東大寺など仏教寺院が建ち並ぶ宗教エリアのとっつきで
ある。都人の行楽地である浅茅ヶ池も近くにあった。
人や牛車が通る往来からさほど離れた場所ではない。
もちろん率川社自体は薄暗い森の中にあった。
昔の川は今のように一本の流れになってはいない。
率川は森の中をいくつかの細流になって流れていたのかも知れない。
この頃の率川社は、紀益麻呂の一族と関係があったのだろうか。
都から行楽にやってきた人々が占いにでも立ち寄る場所であったような
気もする。何人もの巫女や祈祷師がいて人々の需要に応えていた。
益女は率川社の巫女だったのかも知れない。
0555列島縦断名無しさん
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2021/01/10(日) 08:05:59.21ID:VEznABzo
和気王は、護送の途中、山背国相楽郡(さがらかぐん)で絞殺された。
南山背の木津川流域は、当時は帰化人の多く住む地域であった。
秦氏の支族が拓いた地域であるらしい。
越前や近江との交通の要衝であった。
六世紀頃にすでに越前敦賀に入港した高句麗や新羅などの商人や使節
などを迎えるための館(むろつみ)があった。
この当時も、何かの朝廷の施設があったのかも知れない。
山背の国ではあるが、平城京から半日ほどの距離に過ぎない。
和気王は、平城京を発ってその日のうちに殺されたと思われる。
遺体は狛野に葬られた。
現在狛野という土地はないが、下狛などの周辺の地名からおおよその
位置は確定できる。船で行けば、相楽郡から七、八キロほど下った
木津川の西岸である。
もともと大化以前から狛氏が支配していた土地である。
狛氏は高麗氏で、高麗(こま、高句麗)から渡来した氏族であるという。
狛氏が衰えた後は秦氏が進出していた。
紀益女も山背国綴喜郡松井村(今の京田辺市松井)で絞殺された。
狛野からさらに木津川を下った左岸にある湿地帯の中の集落である。
古代の官道(山陽道)が通っていた場所でもある。※
このあたりで処刑されて埋められたということは、処刑を担当したのは
古代からの豪族ではなく、帰化人の部族であったということである。
古代からの豪族では、皇族を処刑することは憚りがあり、出来なかった
のだろう。
0556列島縦断名無しさん
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2021/01/10(日) 08:06:42.01ID:VEznABzo
※奈良時代、山陽道は平城京と太宰府を結ぶ道路として最も重要視されていた。
平城京から木津川沿いを北上し、河内国交野郡(現、枚方市・交野市)を経て
淀川を渡り、対岸の摂津国島上郡(現、高槻市・島本町)を経由して三木を通り、
姫路に出て瀬戸内海沿岸を西に向かう道路であった。

なお、和気王も益女も、その処刑地や埋葬地を見ると、山陽道を護送されたと
見るのが一番自然である。流刑地が伊豆というのは何かの間違いではないか。
それとも、和気王を支持する勢力による奪取を懼れて行方をくらましたの
だろうか。
もちろん流刑は方便で最初から殺害するつもりであったなら、流刑地など
何処でもいいわけである。

和気王と親しかった公卿も左遷され、任地で幽閉されて妻とともに没した者や、
任地で自殺した者もある。
粟田道麻呂は和気王と親しく、その邸に出入りしていた。
和気王の謀反に荷担したとして処刑されそうになったが、道鏡の取りなしで
飛騨員外介として左遷されるにとどまった。※
しかし任地で妻ともども一院に幽閉され、数ヶ月の後に死亡した。

※員外介(いんがいのすけ)とは、定員以外の官吏。
律令制の下では、令によって官吏の定員が決まっているところ、激職である
など定員では足りない場合もある。その場合に臨時に増やされた定員以外の
官吏のことを言う。員外介になることは普通は左遷を意味しない。

石川永年も和気王と親しかったため事件に連座した。
解官のうえ隠岐員外介に左遷され、任地で自殺した。

大津大浦も連座して日向守に左遷。その二年後にはその職も解かれ、その
所持する陰陽学の書籍も没収された。
のちに赦されて陰陽頭、安芸守に任じられる。

それにしても、和気王とその党与への処罰は厳しい。
特に和気王の場合、皇位に近い皇族に対し空前絶後の厳罰というべきである。
0557列島縦断名無しさん
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2021/01/10(日) 08:07:10.47ID:VEznABzo
−弓削行宮−
深日行宮は和泉国である。
深日行宮を出立し、河内国に至った称コは、そこに置かれた弓削行宮
(ゆげのあんぐう)に五日間滞在する。
弓削はもちろん道鏡の故郷である。
その間、二度にわたり弓削寺に行って仏像を拝み、その庭で唐・高麗楽
(とう・こまがく)(唐・高句麗由来の音楽)の演奏なども行わせた。
紀伊の神々に詣でる神聖な行幸を終えて解放された気分になったのだろう。
さらに行幸中に和気王を絞殺せしめ、さらに憎き淳仁の処刑も終えた。
もはや自分の地位を脅かす存在はない。
称コは安心感に浸り、勝利感に酔った。
人を殺したことに対する畏れも感じなかったと思われる。
称コは道鏡の法力を信じ、悪いものすべてを道鏡が跳ね返してくれると
信じていた。思えば、保良宮で道鏡に出会ってから称コの運命は好転した。
藤原仲麻呂という、自分を太上天皇という地位に追いやった宿敵を破り、
その一族を全滅させた。さらに仲麻呂の傀儡である淳仁帝を廃帝とし、
天皇の地位を取り戻すことができた。
その天皇の地位を虎視眈々と狙っている和気王やその一党も抹殺した。
そして淳仁を殺して自分を侮辱したことへの復讐も果たした。
道鏡は称コにとってあらゆることを可能にしてくれる万能の神であった。
称コは、仲麻呂に対する不満が宮中に充満していたことなど知らず、
仲麻呂が脆くも敗退していった政治力学も分からない。
ただ、道鏡の叡智と僧侶団の祈祷の力が自分を助けているのだと
感じていた。いうなれば仏法の力である。
称コは、現代の新興宗教の熱狂的信者と変わらない心理状態にあった。
道鏡と仏教に身も心も投げ出していた。
称コにとって、道鏡は師であり恋人であり夫でもある。
道鏡といれば、父聖武や母光明と暮らしていたときのような安心感に
包まれる。
弓削での五日間は、夢見心地で幸福に酔ったような状態だったと思われる。

称コは、有頂天のまま、この行幸の最大の目的である行動に出た。
道鏡を太政大臣禅師に任じたのである。
道鏡を太政大臣に任命したその日、称コは行幸に供奉した官人たち
すべてに道鏡を拝賀させた。
平城京に戻ったあとは、行幸に随わなかった官人全てに道鏡を拝賀させて
いる。
0558列島縦断名無しさん
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2021/01/17(日) 23:56:40.74ID:ORDEvu0R
>>557
>さらに行幸中に和気王を絞殺せしめ、さらに憎き淳仁の処刑も終えた。
について。

和気王が絞殺されたのはいつか。続日本紀には天平神護元年八月庚申蜘条に
書かれている。そのため八月とする説が多いが、紀伊行幸中とする説もある。
当初は紀伊行幸中という立場で書いていたのでこのような記載になった。
以下のように訂正する。

さらに行幸中に憎き淳仁の処刑も終えた。
0559列島縦断名無しさん
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2021/01/18(月) 00:08:56.35ID:ZT/lCe/t
紀伊行幸を終えた称コが休む暇もなく始めなければならなかったのが
大嘗祭の準備である。
孝謙は淳仁を廃位させ、同時に重祚して称コ天皇となったのである。
しかし、大嘗祭を経ないと正式に即位したことにはならない。

大嘗祭の時期について再説する。
大嘗祭は、天皇が即位後に初めて新穀を神に供え、神とともに食する
儀式である。11月の下卯の日が祭日とされた。
七月までに即位していればその年のうちに、八月以降であれば翌年の
11月に行われた。稲の生育の関係からこのように定められていた。
孝謙が重祚したのは十月であるから、翌年の11月に行われたのである。
天平神護元年11月22日のことであった。

大嘗祭は、朝堂院前庭に建てられた大嘗宮で行われた。
称コの大嘗宮がどのような建物であったかは、文化財研究所の調査報告書で
見ることができる。
file:///C:/Users/222/AppData/Local/Temp/heijo_376.pdf

大嘗祭は、神聖な悠紀(ゆき)田・主基(すき)田でとれた新穀の飯と酒を、
天皇が祖先神と共食することで、天皇としての霊位と資格を承継する
祭儀である。
令和天皇の大嘗祭は、悠紀田が京都府に、主基田が栃木県に定められた。
それぞれ悠紀国、主基国という。
称コの初度の(孝謙天皇となるときの)大嘗祭は、因幡国が悠紀国、主基田が
美濃国であった。
称コ天皇となっての大嘗祭は美濃国が悠紀国、越前国が主基国であった。
0560列島縦断名無しさん
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2021/01/18(月) 00:09:13.41ID:ZT/lCe/t
最初の大嘗祭と異なるところは、称コが出家していたということである。
出家した天皇の行う神式の祭儀ということで、何もかも異例づくめであった。

奈良時代より後の資料であるが、「延喜式」には、天皇親祭に先立ち、
皇太子をはじめ大臣以下百官が大嘗宮の前に設けられた幄下の座につき、
宮中で跪いて八開手(やひらで)の拝を行うとある。
八開手とは、八度柏手を打つことである。
跪いての八開手の拝とはどのようなものか、伊勢神宮では現在も行われて
いるので参考になろう。

https://www.youtube.com/watch?v=XTjFoHqR_gg

この八開手の拝の儀式に、僧も参加しているのである。

大嘗祭が終わった後には直会(なおらい)という百官を集めての酒宴が
行われる。豊明節会(とよのあかりのせちえ)ともいい、三日間ぶっ続けて
宴会が行われるのである。
この直会にも、僧を参加させている。

道鏡は、大嘗宮の中での天皇により行われる秘儀に立ち会った可能性がある。

当時、神事と仏事はみだりに混同してはならないという観念があった。
(神仏混淆ははじまったばかりであった。)
称コは、すべての儀式が終わった後の直会の日の初日にわざわざ宣命を
発している。

1.自分がふたたび皇位についたのは、仏弟子として菩薩戒を受けた身と
して仏に仕え、神々を敬い、天下を治めるためである。

2.人々は神々を仏から遠ざけ、神々は仏に触れてはならないものと思って
いるがそれは間違いである。仏典を見れば仏法を守護し敬うのは神々であると
書かれている。だから出家した僧と俗人が一緒になって神事に参列しても
支障があるはずはない。
そこで僧侶も俗人と一緒に大嘗祭に参加させ、奉仕させたのである。
0563列島縦断名無しさん
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2021/01/26(火) 23:11:17.77ID:QDREjvr4
大嘗祭の翌766年10月、法華寺の東南隅にある海竜王寺から仏舎利があらわれた。
このことを祝して、称コは道鏡を法王※とした。
王とは天皇と特別な関係にある皇族に与えられる身分。
古代律令制では、天皇の兄弟・子を親王・内親王、孫以下を王・女王と称した。
法王とされたということは、皇族として遇することを意味する。
これまでの位階と決定的に異なるところは、法王は臣下ではないことである。
大臣禅師や太政大臣禅師はあくまでも臣下であるが、道鏡は、臣下としての
身分を離れて法界の王となったのである。
俗界の王である天皇と並ぶ立場になったと言ってよい。

※法王とは、本来は如来もしくは釈迦をさす。それが貴族社会においては
仏教界における天皇と受け取られていた。
俗世間を離れた道鏡が就きうる最高の地位であった。

翌767年3月には「法王」道鏡のために、その家政機関として「法王宮指職」
(ほうおうぐうしき)が設けられた。
法王職ではない。法王「宮」職である。宮であるから完全に皇族として扱われて
いるのである。
769年(宇佐八幡託宣事件の年)正月、道鏡は大臣以下の朝賀※を受けた。
現在正月に皇居で一般参賀があるが、1948年以前は太政大臣以下臣下が
なすことであった。
朝賀を受けるということは天皇の地位にあるということである。
白馬節会(あおうまのせちえ)の宴も法王宮で催された。※2
月料も供御扱いであった。※3
飲食だけでなく、天皇の乗る輿の使用が許された。
0564列島縦断名無しさん
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2021/01/26(火) 23:12:01.29ID:QDREjvr4
※ 朝賀とは、元日の朝、天皇が大極殿において文武百官の拝賀を受ける
ことを言う。拝賀は漢語で、和語では「みかどおがみ」と言ったようである。
朝賀のことは、「あらたまのとしのついたちのみかどおがみ」と言った。

※2 白馬節会とは、陰暦正月7日、左右馬寮 (めりょう) から白馬を紫宸殿
(ししんでん) の庭に引き出し、天覧ののち、群臣に宴を賜った。
一応このように言いうるが、この説明は平安時代以降のものである。
奈良時代には文字どおり「青馬の節会」であった。
灰色の青みがかった馬を青馬と呼び、馬は陽気の生き物であり、春は「青」の
季節である(青春)。
春先に青馬を見ることはめでたく、一年の邪気を祓う行事とされたのである。
法王宮職で、道鏡を主催者としてこのような宮廷行事がなされたのである。
天皇と同格、控えめに見ても天皇に準じる扱いがなされたと見てよい。

※3 月料とは、律令制下において皇族・官吏に毎月支給された食料給与をいう。
供御(くぎょ)とは天皇の御膳(食事)をいう。
律令制下では、畿内の官田から納められた供御稲を宮内省の大炊 (おおい) 寮に
収納し,内膳司に分配して調理のうえ御膳に供した。
魚や野菜なども宮内省の指定した供御人に献上させた。
0565列島縦断名無しさん
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2021/01/26(火) 23:12:30.80ID:QDREjvr4
道鏡が法王とされた同日、藤原永手が左大臣に、吉備真備が右大臣に任じ
られた。この二人は九ヶ月前にそれぞれ右大臣と中納言に任命されたばかりで
あり、明らかに道鏡の法王への抜擢に対応した人事である。
この人事の意味は、おそらく、道鏡を法王にはしたが、法王は実権を有さない
ことを明らかにするためと思われる。
法王宮職の人事にこの趣旨が現れている。
法王宮職の官人は、いずれも渡来人であった。
長官である法王宮大夫に任命された高麗福信は、高句麗から渡来した
背奈福徳の孫である。次官の法王宮亮に任じられた高丘良麻呂は、百済から
渡来した沙門詠の孫である。
以下いちいち具体例を挙げることを避けるが、法王宮職の主要メンバーが
いずれも渡来人であることは顕著な事実である。
渡来人の多くは才学や技術をもって優遇されたが、政治の中枢に参与する
ことはなかった。
法王宮職の要職に渡来人ばかりが充てられたということは、その職務は
世俗的な権力を伴うものではなく、さらには出世につながるものでも無かった
ということを意味している。

さらに、道鏡は女帝に寵愛されたことから法王になったに過ぎず、本来は
看病禅師団の一員に過ぎない。弓削氏というのもただの河内の弱小氏族
である。法王宮職の官人となって道鏡に仕えるのは、日本の伝統的氏族に
とっては、抵抗があっただろう。
そのことも法王宮職に渡来人が数多く任命された理由であると考える。
法王宮職が渡来人ばかりで、有力な日本の氏族がいなかったということは、
内容が空虚で形ばかりの役所であったということだろう。
0566列島縦断名無しさん
垢版 |
2021/01/26(火) 23:17:38.74ID:QDREjvr4
道鏡の天皇まがいのふるまいについて詳しく述べる。
既述した部分もあるが諒解されたい。

1.法王就任の祝賀として大臣以下から拝賀を受けた。
 場所は西宮前殿の前庭である。
 続日本紀は「前殿」とするが、おそらく正殿のことである。
 西宮殿は称コが居所(御在所)としていたところである。
 日常座臥の場所なので、西宮正殿の北側には西宮寝殿と呼ばれる後殿が
 あった。正殿と寝殿は屋根つきの回廊でつながっている。
 実質上一つの宮殿である。
 その前庭を拝賀の場所とするということは、称コと同じ場所で暮らしている
 こと、即ち夫婦同然であることを公然と示すことに他ならない。
 もしかして、称コは「夫」が欲しかったのではあるまいか。
 天皇である自分は夫を持つことはできない。しかし、僧ならば(婚姻は禁じ
 られているから夫とはできないが)側に置くことはできる。
 その僧を法王とし、天皇である自分と一緒に天下を治めるのであれば、
 それは夫を持つことと同様である。
 道鏡を法王として群臣に拝賀させたことは、道鏡を自分の「夫」として
 皆に認めさせたかったのではあるまいか。

2.臣下から拝賀を受けた天皇は、それに応えて宣命で応じる。
 宣命とは、本来漢文の形で下される詔勅の類を和文化したものである。
 宣命体と呼ばれる独特の文体で現される。
 天皇が宣命を下したという場合、実際は臣下が代読していることが多い。
 道鏡の場合は、さすがに宣命というわけにはいかず、寿詞を告して
 拝賀に応えたという。しかし、寿詞は自ら読み上げたという。
 読経で鍛えた声なので、百官の前でも堂々と読み上げることができたの
 だろう。しかし、宮殿の前庭で畏まっていた貴族たちは、どのような気持ちで
 それを聞いたのだろうか。
0567列島縦断名無しさん
垢版 |
2021/01/26(火) 23:18:28.80ID:QDREjvr4
3.道鏡の法王就任は、偶寺(すみでら。海竜王寺)の毘沙門像から仏舎利が
 出現したことをきっかけとする。その報をもたらしたのが基信という僧である。
 偶寺とは、法華寺の隅にあったことからその名がついたという寺である。
 法華寺は前述したように光明皇后の皇后館の跡で、称コも淳仁と決裂した
 後にそこに住んだ。もともと藤原不比等の邸であり、光明皇后の実家である。
 その法華寺の一部をなす寺の住職であったのだから、称コは身内として
 遇していたことになる。
 基信は道鏡の弟子である円興の弟子である。
 道鏡の孫弟子ということで宮中に入り、法参議・大律師に任じられていた。
 法参議とは役人としては「参議」のことである。
 僧なので「法」の字がつけられているだけである。
 参議とは、太政官の組織の中で太政大臣、左大臣・右大臣、大納言、
 中納言の下にある重職である。
  原則として三位(以上)の位階を持っており、蔵人の頭・左右大弁・左中弁の
 いずれかを勤め、もしくは左右近衛中将を長年勤め、または式部大輔で
 天皇に教授した経歴のある者の中から選ばれる。
さらに、五カ国の国司を無事に歴任した経歴が必要である。
 中央の官吏として重職を歴任し、さらに地方官もそつなく勤め上げた実務の
 ベテランを国政に参与させようという趣旨の官職である。
 その要件を一切充たさないただの僧が、道鏡の孫弟子というだけで参議と
 いう地位に就いていたのである。
 基信には、物部浄之(きよし)朝臣の姓が与えられていた。
 僧は俗人ではないので、本来姓を名乗るということはない。
 それ故、姓が与えられても辞退するか、一度受けて返上するのが通例であった。
 基信はためらいなく受けてしまっているようである。
 仏舎利出現報告の功労を賞してのことであろうか。
 以下に伸べる基信の性格や行動からすると、基信が望んだことのようにも
 思われる。
 
0568列島縦断名無しさん
垢版 |
2021/01/26(火) 23:19:31.53ID:QDREjvr4
 基信は、法参議となって隋身の兵8人を与えられると有頂天となり、気に入らぬ
 者には兵を使って遠慮なく制裁を加えた。
 「道路これを畏れて、避くること虎を逃るるごとし」(道行く人々は基信を畏れて
 虎から逃げるように基信を避けた)という。
 道鏡の権威を笠に着て好き放題にふるまったのである。
 そのうちに、あろうことか師の円興まで侮辱し、欺いた。
 師を侮ったとあればさすがに道鏡も放置することもできず、飛騨に放逐した
 という。ただしこの事件については異説がある。
 続日本紀は、この事件とは関係なしに、二年前の十月に偶寺で発見された
 仏舎利が偽物だったことが露見したことを記している。
 仏舎利が顕れたからこそ、これを瑞祥として道鏡は法王になれたのである。
 それが偽物であったということになると、道鏡は安泰ではいられないはずである。
 ところが道鏡にも、基信の師である円興にも影響は一切なかった。
 これは、仏舎利発現が嘘であったことの責めを基信一人に負わせ、飛騨に放逐
 して幕を引いたということだろう。
 続日本紀は仏舎利が偽物だったと断言するが、おそらく続日本紀の編者が
 後からそのように断定しているだけのことで、当時は曖昧なまま問題化せずに
 終わったのだろう。
0569列島縦断名無しさん
垢版 |
2021/01/26(火) 23:20:41.75ID:QDREjvr4
4.基信を切り捨てたということはあったが、道鏡(ならびに称コの) 僧に対する
 特別扱いは続いた。神護景雲元年(767)の六月から七月にかけて、平城京や
 伊勢の外宮、さらに三河国の空に「祥瑞の慶雲」が出現し、それは称コと道鏡の
 治世を祝福する瑞祥とみなされた。
 そこで八月八日(末広がりということか)、僧600人を称コが起居していた西宮に
 招いて食事がふるまわれた。
 続日本紀は、「しりょ(僧侶)の進退、また法門の趣なし。手を拍ちて歓喜すること、
もっぱら俗人に同じ」と記している。僧侶たちのふるまいは仏門にある者とは
とても思えないものであった、手を拍って歓喜する様子は俗人と変わりなかった、
というのである。

なお、ここに言う「手を拍ちて」とは、神や天皇、貴人に対する儀礼であった。
今日、我々は神社では柏手(かしわで)を拍つが、それと同じような動作である。
魏志倭人伝では、貴人と出会うと敬い拝跪して拝手を拍つと書かれている※。
拍手(かしわで)という両の手のひらを打って音を立てる礼拝作法は、古くから
日本で行われていたのである(もちろん今日のように二回とは限らない)。
しかし、それは厳密には神(天皇も神)に対する作法であり、それを仏教の僧侶が
行っていることに周囲は驚いているのである。
食事には当然酒もつけられただろう。僧たちは酔っ払い、上機嫌になって
柏手を繰り返した。そこにいた貴族たちには異様な雰囲気と映ったはずである。
※「見大人所敬 但搏手以當脆拝」。
柏手の作法は、中国の呉の国習俗であり、それが日本に伝わったという
説もある。

5.上記僧侶たちを招いて食事をふるまったのが767年で、その二年後の769年
には西宮前殿で天皇もどきの朝賀を受けている。
道鏡が仲間である僧侶たちから柏手で祝されたのはまだ理解できるが、二年後
には大臣以下百官の拝賀を受けているのである。道鏡は、二年で絶頂に達したと
いうことができる。そしてこの年、宇佐八幡神託事件が起きるのである。
0572列島縦断名無しさん
垢版 |
2021/07/14(水) 07:48:30.46ID:dA3U3Ml4
↑の571 は5月14日に書き込まれてる。

今日は7月14日だろ。二ヶ月間全くの空白だったのか・・・

道鏡の続きでよければ書くぞ。退屈じゃないかな

平安時代以降になれば庭の関係で書くことはいくらもあるんだ。
だがそこに行く前に奈良時代を終わらせないと。
称コ・道鏡は避けて通れない。
もともとは宇佐八幡宮の神池に触れるだけのつもりだったが、そうはいかなかった。
0575列島縦断名無しさん
垢版 |
2021/10/07(木) 20:50:42.72ID:zzKVp/MW
上述の如く、道鏡は763年に慈訓に代わって小僧都に任命されている。
小僧都は律令官制下における僧官の職の一つである。
仏教の僧尼を管理するための役所として僧綱所(そうごうしょ)が置かれ、
僧正を筆頭として、大僧都・小僧都・律師などの位階があった。
僧都というような呼び名はすでに推古女帝の頃からあったが、二色九階の僧位が
定められたのは孝謙天皇治下の760年(天平宝字4)のことである。
大僧都(だいそうず)となった良弁(ろうべん)、小僧都となった慈訓(じくん)、
律師(りっし)となった法進(ほうしん)らの奏請によって、孝徳の時代にはじめて位階が
定められたのである。
律師は数名いるが、僧正や大僧都、小僧都などは各一名の定員であり、小僧都といえば、
かなりの地位といえる。大宝令※の時代に僧都の地位は、俗人とすれば五位にあたると
されたが、孝謙(称コ)の時代のそれを同様に考えることはできない。
(※大宝律令の律とは刑法のことであり、令とは今日でいう行政法である。大宝律令とは
大宝律と大宝令で出来ている法典である。)。

大宝律令が施行されたのは令が大宝元年(701)から、律が翌二年からである。
大宝令が出てから孝謙が皇位に就くまでの間はほぼ半世紀である。
749年に孝謙が皇位に就く。孝謙が道鏡と知り合い、淳仁と対立してこれを廃帝とし
重祚して実権を握ったのが764年である。
764年から称コが没する770年までの六年間が称コ・道鏡時代である。
この時代の僧たちの地位というものは、大宝令の時代とは比べものにならない。
ちょうど後世の軍人の地位に近いかも知れない。

なお、天平宝字元年(757)に大宝律令が廃止され、「養老律令」に代わった。
だから孝謙・称コ時代の律令は養老律令の話でなければならないのだが、養老律令は
藤原仲麻呂(恵美押勝)が自分の中国趣味に合うよう大宝律令の表現等を変えたものに
過ぎず、中身はほとんど変わらないといわれる。
それ故、養老律令はあえて無視した。
0576列島縦断名無しさん
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2021/10/07(木) 20:51:30.93ID:zzKVp/MW
大正の軍縮時代、日本では軍人蔑視の風潮があった。
軍人たちは道を歩いていると、通行人から「税金泥棒」と揶揄されたりした。
60年安保時代の自衛隊員と同様だったかも知れない。
そもそも「世論ニ惑ハズ政治ニ拘ラズ」(軍人勅諭)、純粋に軍事にのみかかわるのが
軍人の本分であるはずだった。軍人は軍務に精励していればよく他のことは考える
必要はない。いってみればただの技術官僚で、きわめて地味な存在だった。
しかし、ある時期から軍部に別の風潮があらわれた。
将校たちは政治化して派閥を作るようになる。
政治的行動をとるようになった軍人たちは、政党政治に揺さぶりをかけ、根底から
破壊してしまった。最終的には軍閥が国政を支配するようになる。
大正時代の軍部と昭和の軍部はまるで性格の違う存在であった。
しかし、その変化を辿ると、わずかに十数年のことに過ぎない。
政治化の過程を具体的に辿ると以下のようである。
昭和三年の関東軍の独断専行による張作霖爆殺あたりから急激に政治化し、昭和6年の
満州事変・7年の満州国建国以降、日本の政治は軍部に振り回されるようになる。
昭和11年の2.26事件で政党政治は一気に息の根を止められた。
この頃の若手将校たちは制帽のマチを立ててナチスの制帽のようにし、ドイツ軍人の
ような歩き方で街を闊歩していた。
あれよあれよという間に日本は軍国主義・全体主義の国家となり、日米開戦によって
一挙に破滅に向かうことになる。

大宝律令の時代の僧侶たちというのは、大正軍縮時代の軍人のようなものであった。
国家の用意した学問所である寺の中で教典の究理に専念していればよかったのである。
ところが、称コ時代の僧侶は異様な変質を遂げるのである。
昭和の軍人のように突然のように政治化し、国政を左右するようになった
0577列島縦断名無しさん
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2021/10/07(木) 20:52:17.00ID:zzKVp/MW
奈良時代の寺は官寺(かんす)であり、僧は国家により養われていた。
僧は公務員だったのである。だからこそ僧には国家の定めた位階があり、僧は互いに
位階を競っていた。
僧は本来的に官人であり、その仕事はひたすら仏典(漢訳されたインド仏教の教典)の
内容を究めることであった。
教典に精通した僧の祈祷には特別の功徳があると信じられていた。
功徳とは、奈良仏教の場合は鎮護国家である。
仏像を祀り、僧が仏に祈祷を捧げることによって国家が鎮まり、平安がもたらされる
ものと信じられていた。
鎮護国家の中にはもちろん皇室の安泰も含まれる。皇室の安泰の中心は天皇の健勝で
あった。だからこそ御所の中には祈祷所(内道場)が設けられ、看病禅師たちが詰めて
祈祷していたのである。
僧は互いに位階を競い出世競争をしていたが、出世を競えば勢い仲間を作り派閥を
形成するようになる。派閥抗争をするのは一般の官人と異ならなかった。
西の京といわれる奈良の宗教エリアには、薬師寺や興福寺、元興寺や東大寺、法華寺、
西大寺、西隆寺、大安寺などの大寺が甍を誇っていた。
これら巨大寺院は国家が造営したものであり、そこに僧たちが溢れかえっていた。
各寺院の中でも派閥抗争があり、寺院相互間でも抗争がある。
寺院の代表者のような僧たちが集まる朝堂でも権勢を競いあった。
僧たちのグループは、常に激しく抗争をしていたのである。
0578列島縦断名無しさん
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2021/10/07(木) 20:54:36.12ID:zzKVp/MW
小僧都は御所内の仏事を取り仕切る地位であり、天皇に近持する。
道鏡は小僧都になると同時に、看病禅師団のメンバーを入れ替えたであろう。
慈訓時代の古参の僧は職を解き、自分の子飼いの僧ばかりにしたと思われる。
内道場の祈祷僧の一人に過ぎなかった道鏡は、いきなり小僧都として朝廷内の仏僧の
頂点に立った。
大宝令によって官僚機構の一部に組み込まれた仏僧たちは、上記のように激しい
派閥抗争を繰り返したが、この時点で最終的に頂点に立ったのは、道鏡とその率いる
禅師団であった。
このグループが当初から目論んでいたことは、朝廷の仏教化であった。
当時は祭政一致であり、朝廷の祭礼は国家行事である。
祭礼の中心は祖先の祭祀である。皇祖皇宗を祀るのが祭祀の中心であった。
この他の様々な政治的行為も祭祀の形を採っていた。
祭祀の様式はもちろん伝統的なものである。今日では「神式」と呼ばれるが、古代から
朝廷に伝わる儀式の様式であった。
これらを仏式に変え、自分たちでなければ宰領しえないものにすれば自分たちの支配は
万全なものとなる。
この一環として、宇佐八幡と伊勢神宮の仏教化も勧められた。
皇室の祭祀だけが仏教化するのはいかにも異様である。
皇室と並んで古い伝統のある宇佐の八幡や伊勢神宮において、祭祀が仏式でなされる
ようになれば、皇室の仏教化も自然に受け入れられるようになる。
しかし、古代からの神祇信仰を一挙に廃棄するわけにはいかない。
両者を融合させるのが望ましい。これが神仏混淆である。
神仏混淆とは、日本土着の神祇信仰(神道)と仏教信仰(日本の仏教)が融合し一つの
信仰体系として再構成(習合)された宗教現象をいう。

道鏡が小僧都となった763年、宇佐八幡では観音菩薩などの仏像を安置した(御託宣集、
威巻七)。これは、道鏡が孝謙に勧めて寄進させたものと言われる。ただし朝廷からの
寄進であることは記録にはない。道鏡が個人的に行ったことかも知れない。

伊勢神宮には神宮寺が作られた。766年頃のことだという。
神宮寺は、神域全体を統括する本部のようなものである。
寺であるから仏像を祀り、最高責任者(後に別当と呼ばれる僧)がそこで執務する。
神宮寺の性格は官衙(かんが、役所)と捉えた方が分かりやすい。
そこにいるのは僧であり、僧形の役人なのである。
0579列島縦断名無しさん
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2021/10/07(木) 20:56:41.22ID:zzKVp/MW
764に藤原仲麻呂の乱があり、仲麻呂は一族一党とともに滅びる。
その直後に道鏡は大臣禅師となる。大臣禅師という名の官職はそれまで存在しないが、
僧だから禅師と付いているだけのことである。内実は大臣に他ならない。
大臣とは太政官の一員で、臣下の最高位である。
大臣中の最高位として太政大臣があるが、これは仲麻呂就任までは皇族しか就くことの
できない地位であった。大臣が臣下中の最高位であることは変わりないのである。
位人臣を極める(くらいじんしんをきわめる)という言葉があるが、大臣になるという
ことは、まさに臣下として最高の地位につくことを意味するのである。

藤原仲麻呂の滅亡と同時に道鏡が大臣になった。ということは、道鏡に仲麻呂討滅の
ための功績があったということだろう。その功績とは何か。
間違いなく仲麻呂調伏の祈祷であろう。おそらく道鏡は、仲麻呂の乱発生と同時に
祈祷僧団をこぞって内道場に籠もり、怨敵退散の祈祷を続けたと思われる。
ちなみに後世、承久の乱において、後鳥羽上皇は御所内で護摩を焚き続けた。
弘法大師の遺品である袈裟を身につけ、護摩壇の前で一心不乱に真言を唱え続けたという。
道鏡もそのようであったと思われる。
山岳密教系の僧である道鏡は、護摩焚きの呪法のようなものこそが真骨頂であった。
精力絶倫の道鏡は、乱の間中不眠不休で真言を唱え続けた。
七日後に戦勝の報があり、その夜仲麻呂の首が届けられた。
朝廷側の完勝であった。
御所内で道鏡の様子を見ていた称コは、道鏡の法力に驚嘆したことであろう。
道鏡の祈祷こそが勝利をもたらした所以であると確信したのである。

なお、道鏡が大臣禅師となったと同時に、宇佐八幡には戸二十五烟が与えられた。
(烟とは戸数を数える単位である。)。
時期的に仲麻呂討滅への恩賞としか思われない。
おそらく宇佐八幡も仲麻呂退散の祈祷を行ったのだろう。
古くは養老四年(720)、隼人の反乱に際し、大伴旅人が征隼人将軍に任じられて
九州に赴いた時に、宇佐八幡に八幡大神への戦勝祈願を依頼したとされる。
聖武天皇時代に、藤原広嗣の乱が集結した際(741)、宇佐八幡に戸二十烟が施与
された。皇室を脅かすような争乱があった場合には宇佐八幡に戦勝祈願を託し、願いが
成就すると宇佐八幡に封戸を奉るという関係は聖武の時代から存在したのである。
後世、承平・天慶の乱にあたり、朝廷は各地の寺社に調伏の祈祷を依頼している。
また蒙古襲来のおりにも、各地の寺社に命じ、敵国調伏の祈祷を行わしめた。
朝廷が中心となり官寺や祈願寺をこぞって行う祈祷(法会)は平安以降無数に行われたが、
宇佐八幡が行った調伏の祈祷はその最初のものかも知れない。
宇佐八幡と朝廷との関係は、厭魅事件(754年)※1.2の後、途絶えていた。
仲麻呂の乱を契機に、宇佐八幡との関係が復活したのである。
0580列島縦断名無しさん
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2021/10/07(木) 20:57:32.51ID:zzKVp/MW
※1.厭魅事件
厭魅(えんみ)とは、まじないで人を呪い殺すことである。
人を呪い殺そうとしたという罪で、薬師寺の僧・行信と八幡宮の神職・大神田麻呂
(おおがのたまろ)が罰せられた事件である。
(なお、大神は「おおが」と読むが、「おおみわ」と読む人もいる。)。
この事件の詳細は一切不明である。
厭魅事件でありながら、誰を呪い殺そうとしたのかさえ明かにされていない。
しかし、この事件を処断したのが藤原仲麻呂であるところから、橘奈良麻呂と結んだ
行信が、宇佐八幡に仲麻呂の呪詛を依頼したことから起きた事件と言われている。
この事件は続日本紀の天平勝宝6年(754)11月24日の条に記載がある。
同日に行信について、下野の薬師寺に左遷された旨の記載もある。
大神田麻呂の処罰については三日後の27日の条にある。
ここでは大神田麻呂の他に巫女の杜女(もりめ)も罰せられているので、呪詛を行った
のは杜女であったことが分かる。両人とも位階・姓を剥奪され、封戸も位田も没収
の上、田麻呂は種子島、杜女は日向に流罪となった。
この時、宇佐神宮は朝廷より与えられていた封戸1400戸の返上を申し出ている。
なお、仲麻呂の乱が終結(764)した後、766年に大神田麻呂は復位している。
位階は元の五位に戻され、さらに豊後の員外掾に任じられている。
呪詛した相手は仲麻呂だったのだから、仲麻呂が誅殺された後は復位して当然であると
一応言いうる。しかしながら、厭魅という行為の陰険さから、ふつう復権は無理である。
仲麻呂が滅亡した764年には復位しなかったのはそういう理由だろう。
その二年後に復位したのであるが、時期的に道鏡が法王になったと同時期であるから、
道鏡が復位せしめたと考えるのが妥当である。
なお、復位は田麻呂のみであり、行信と杜女については一切の記録がない。
おそらく二人とも配流の十二年の間に死亡したものと思われる。

※2
なお、厭魅事件は、大仏開眼会(だいぶつかいげんえ)に大僧都行信が一切かかわる
ことができず、八幡神(事実上は杜女と田麻呂)も招かれなかったことが原因である
とする説が有力である。天平勝宝4年(752)の開眼会では、婆羅門僧菩提が開眼師
となり、唐から来日した僧・道?(どうせん)が呪願を務めている。
これに先立ち、菩提は大僧正とされ、道?は律師に任じられている。
それまで僧綱のトップであった大僧都・行信は菩提にその地位を奪われ、開眼会でも
全く閑却され、何の役割も任されなかった。八幡神も三年前の華々しい入京と神輿に
乗っての大仏拝礼が嘘のようである。全く登場の機会を与えられなかった。
大仏開眼会の当時、太上天皇である聖武は既に衰弱しており、実際に朝廷を取り仕切って
いたのは藤原仲麻呂であった。
仲麻呂は神祇好きで仏教にはさほど関心がなく、僧綱の僧たちには冷淡であった。
さらに、外国好きで、婆羅門僧や唐僧など外国から渡来した僧を珍重する傾向があった。
これらのことで行信が不満を感じていたところに、開眼会での無視が重なる。
おそらく教養人の仲麻呂は、八幡神が輿に乗って大仏を拝む(杜女は八幡神の依巫)と
いった演出は馬鹿らしくて出来なかったのだろう。
ここに行信と宇佐八幡(田麻呂・杜女)が結託する原因があった。
確かにこの二者の立場になってみると、仲麻呂がいる以上は将来は無い。
反仲麻呂の橘奈良麻呂に与する気持ちになっても不思議ではないと思える。
0581列島縦断名無しさん
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2021/10/07(木) 20:59:18.04ID:zzKVp/MW
なお、上記宇佐八幡への封戸二十五烟の施与は、大神(おおが)氏に対してなされた
のでないことは当然である。大神氏を代表する人物(多麻呂や杜女)は配流されており、
氏族全体が自粛の状態であった。戦勝祈願の祈祷も出来るわけがないからである。
封戸二十五烟は、宇佐八幡の比売神(?比売大神)に対する報賽である。
すなわち、実際には比売神を主祭神とする宇佐・辛嶋氏に下賜されたものである。
さらに、二年後の天平神護二年(766)、朝廷は宇佐八幡の比売神に封戸600を
献納した。この600戸は厭魅事件のさいに宇佐八幡宮が返上したものの一部である。
すなわち、厭魅事件の後、宇佐八幡宮は朝廷への謝罪の意思で封1400戸を返上した
のであるが、1400戸は元々大仏造立への貢献に対する報賽であった。
その内容は八幡神に奉られたのが800戸で、比売神に奉られた分が600戸であった。
今比売神に600戸を奉るということは、返納された1400戸のうち、比売神の分で
ある600戸を元に戻すということに他ならない。
すなわち、宇佐・辛嶋氏を復権させるという意思の表明に他ならない。
(厭魅事件は大神氏が起こしたものだが、宇佐・辛嶋氏も責を負い自粛していた。)。
そして、600戸を施入した翌年の神護景雲元年(767)、朝廷は比売神のための
神宮寺建立を命じている。とはいえ費用は朝廷持ちではない。
造営に使役する役夫は比売神の封戸の民を徴発せよというのである。
先の600戸の封戸の復活は、神宮寺造営のために予め行われたものだったのだろう。
神宮寺を建てるということは、仏教寺院がその神域全体を支配するということである。
具体的には主神(かんずかさ)や禰宜、祝(ほうり)といった神職の者が、すべて出家
して法体(ほったい)になるということである。
地方の宗教勢力が神仏混淆となるのは、仏教国家化という朝廷の方針に賛同し、国家
体制に参加・協力することを意味する。宇佐・辛嶋氏の奉ずる比売神も、朝廷の認める
ところとなり、今や仏教広宣に協力する神となったのである。
朝廷(称コ・道鏡)の宇佐八幡信仰は、はっきりと比売神の方を向いたというべきだろう。

766年に大神田麻呂は許され復位した。道鏡のはからいであることは既に述べた。
従来、宇佐八幡の神職団の中で、朝廷とのパイプを持つのは大神氏だけであった。
宇佐八幡は聖武の地代から朝廷とつながり、戦勝祈願や大仏建立への協力を惜しまなかった。
実際にそれらの行為をしていたのは大神氏であったが、754年の厭魅事件で失脚する。
その後の大神氏の行動は何とも異様である。
事件後、八幡神は託宣を下した。
大神田麻呂と杜女によって社殿が穢されたと怒り、「汝らが穢れ過有り。神である吾れ、
今よりは帰らざりし」として宇佐より飛び去り、四国の伊予宇和嶺に遷座した。
八幡神はその後12年間伊予の地にとどまり、宇佐には還らなかった。
ただし、託宣は伊予から宇佐に飛来してなしたというのである。(八幡宇佐宮御託宣集)。)
これは、大神氏が一族を挙げて伊予に移ったということだろう。
大神氏が自分たちの意思で、朝廷への謝意を表するために自らを島流しのような立場に
置いたのか、それとも宇佐氏・辛嶋氏に追い出されたような形だったのかは分からない。
この遷座と同時に、大神氏は朝廷から下賜された封戸を返上している。
封戸の返上は宇佐・辛嶋氏もなしている。
宇佐八幡全体として朝廷に対する謹慎の意を表すために行ったのだろう。
0582列島縦断名無しさん
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2021/10/07(木) 21:00:11.39ID:zzKVp/MW
上述したように、八幡神を祀る神職団が大神氏であり、比売神を祀る集団が宇佐・辛嶋氏
である。大神氏が伊予に去った後、宇佐八幡宮は宇佐・辛嶋氏が支えていくしかないわけ
だが、八幡神は宇佐・辛嶋氏が奉齋することはできないのである。
厭魅事件によって杜女が失脚したあと、翌年の755年に辛嶋勝久須売(からしまのすぐり
のくすめ)が杜女に代わって禰宜になっている。
しかし、久須売には、八年の在任中一度も託宣がなかった。
神が久須売には降りなかったのである。
このため、九年目に久須売は禰宜を解任されている。
久須売に託宣がなかったのは当然といえよう。八幡神は伊予の宇和嶺に遷座しているし、
久須売は辛嶋の一族だからその身に八幡神が降りることはない。
一方、比売神は降ろすことはできるが、それはしなかった。
宇佐・辛嶋氏としては大神氏に遠慮があり、沈黙を守る方向を選んだのだろう。

久須売が解任されると、辛嶋勝与女曾(からしまのすぐりのよそめ)が禰宜となった。
(八幡宇佐宮御託宣集によれば禰宜は与女曾である。しかし他の資料では禰宜の名は
辛嶋勝志奈布女または志奈女である。両者が同一人物なのか別人なのかは分からない。)。
その二年後、八幡神が宇佐の地に戻ってくることになる。
天平神護元年(765)3月、八幡神が宇佐神宮の禰宜・辛嶋志奈女によって降臨した。
(八幡神が辛嶋志奈女には降りたらしい。)。
 そして「今の宇佐八幡宮は吾が安んずる処ではない。願わくば、浄き処に移って朝廷を
守護し奉りたい。その処は、吾が指示に従え」と託宣し、古来鎮座していた小倉山ではなく
東の大尾山に帰来したという。
道鏡神託事件が起きたときには、八幡神は大尾山に座(いま)したことになる。
0583列島縦断名無しさん
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2021/10/20(水) 11:39:03.82ID:arnht1sp
−−−−−−
以下は道鏡が小僧都となって歴史に登場した以降の経過を概説する。
多少記載が重複するがご容赦願いたい。

道鏡が小僧都として宮廷内の僧のトップの地位に就いたのが763年である。
道鏡を大臣禅師としたのが764年。その翌年の765年閏10月、紀伊国行幸の帰途、
弓削行宮において、称コは道鏡を太政大臣禅師に任じた。
太政大臣は大臣中の首席であり、仲麻呂が任じられるまでは皇太子など皇族しか就任
できない特別の地位であった。
おそらくこの任命には多くの反対が予想され、だからこそ紀伊国行幸という舞台が
用意されたのである。
まず行幸は三関を閉じた上で行われる。三関を閉じるのは、天皇が留守の間の不測の
事態に対応するためである。三関を閉じることを固関(こげん)といい、その効果は
今日の戒厳令に等しい。道鏡の大臣禅師任命は戒厳令下の国家行為として行われたと
同様であった。仮に反対勢力があっても身動きの取れない状態だったはずである。
次に、行幸には多数の貴族・高官が随行する。
行幸に随行している間、これらの者は皆、人質になったと同様なのである。
人質同様の者たちが反対することは無理だし、平城京に残留した者たちが反対することも、
人質を取られている以上は無理である。
また、行宮の途上というタイミングも人々の意表を突くものであった。
あまりにも出し抜けで、随行の誰も予想しておらず、是非を論じる余裕もなかった。
しかも、任命を発表しただけでなく、その後の措置が徹底していた。
道鏡を太政大臣禅師に任じたその日、称コは随行の貴族官人全員に道鏡を拝賀させた。
この場合の拝賀には、踏み絵と同様の意味があった。
拝賀を拒めば身の破滅しかない。
さらに称コは、平城京に帰還後ただちに随行しなかった官員全員に道鏡を拝賀させた。
行幸に随行したのは貴族・官人の中でも主要メンバーが多かったから、彼らが拝賀した
以上、残留組もそれに倣うしかなかった。
行幸の随行組と残留組の二段階に分けて拝賀を行わしめたのは、巧妙な策といえた。
さらに驚くべきは、拝賀させるという手段である。
拝賀を命じられた貴族官人たちは、当初は目を白黒させ、呆然としたことであろう。
しかし結果的には、全員が屈服せざるを得なかったのである。
拝賀という行為の強制には、人々の反抗心を挫くという目的があった。
だが、それ以上に貴族官人たち全員が拝賀する姿を称コが見たかったのだろう。
称コは安心したかったのである。
自分の重祚を本当に認めているのかどうか、大嘗祭を無事に済ませることが出来る
のか、称コは自信が持てず、疑心案気に取り憑かれていた。
大嘗祭は称コ一世一代の賭けであった。
0584列島縦断名無しさん
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2021/10/20(水) 11:39:31.04ID:arnht1sp
称コの重祚は、後世から見れば滞りなく行われたものである。
しかし大嘗祭を控えた称コの胸の内は、不安と焦燥だけであった。
重祚自体がふつうの践祚(せんそ)とは異なり異例のことであるだけではない。
先帝である淳仁を廃し、しかも(淳仁は自然死したかのように扱われてはいるが)
その命を奪っての践祚なのである。
本来は晴れがましい祭祀であるはずの大嘗祭を控えながら、朝廷の内部は重苦しい
雰囲気が立ちこめていた。
一番の危惧は、自分は出家し僧形となっていることである。
出家した天皇が大嘗祭を行う先例はなかった。
父である聖武は出家して法体(ほったい)であったが、それは天皇になった後のことで
あり、しかも娘(孝謙)に譲位した後のことである。
朝廷に伝承されてきた神祇祭祀は、天皇以外に主催しうる者はない。
はるかな古(いにしえ)より伝わる神祇祭祀を司どる地位にあることが、天皇の権威の
源である。その天皇の行う祭祀のうちでも、大嘗祭は最重要のものであった。
これを僧形の己がなしうるのか。
無理に行ったところで誰も納得しないのではないか。

紀伊国行幸に続いて行われた大嘗祭では、道鏡は大嘗宮の深奥で行われた秘儀(いわゆる
天皇親祭の儀)に立ち会った可能性が高い。朝廷の伝統的神事に、仏教の僧侶が参列する
こと自体あり得ないことであるが、そのことは措くとして、大嘗宮の中の深夜の祭典は
貴族の中でも特別な者しか立ち会うことは出来ない。
平安時代の「貞観儀式」によると、儀式の行われる部屋の外陣に関白の席が設けられて
いたという。
関白とは令外官(常置されない官職)であり、天皇の代わりに政治を行う。
実質的に公家の最高位の官位であった。
奈良時代には関白という官職はないが、官職中の最高位ということであれば太政大臣が
これに該る。とすれば、奈良時代には太政大臣ほどの地位がなければ深夜の祭典に列席は
できないことになる。
称コが大嘗祭に先立つ紀伊国行幸において道鏡を太政大臣(禅師)に任じたのは、ただの
大臣では秘儀への列席ができないからだと考えられる。
称コは、正式に天皇になるための最重要儀式である大嘗祭の、その中心となる儀式である
天皇親祭に、どうしても道鏡を立ち会わせたかったのである。
道鏡を立ち会わせ、また道鏡の率いる僧侶団を参列させなければ、出家天皇である自分の
大嘗祭はなし得ないと考えたからであった。
0585列島縦断名無しさん
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2021/10/20(水) 11:41:38.28ID:arnht1sp
大嘗祭が無事に終わっても、それで称コが安心したわけではなかった。
大嘗祭の後の酒宴(豊明節会、とよあかりのせちえ)の場において、称コは宣命を発した。
勅諭は以下のようである。
1.自分は三宝(仏)に仕え、天津神・国津神を敬い、さらには天かを治めるために
再び皇位についたのである。
2.人々は神々は仏に触れてはいけないものだと思っている。しかしそれは誤りである。
仏教の経典には、仏法を守護するのは神々だと書いてある。
だから僧侶と俗人が一緒に神事に参列しても支障はないのである。
だから今回の大嘗祭には僧侶も参加させ、俗人と一緒に奉仕させたのである。

称コの宣命は、すべてが弁明のように聞こえる。それは当然である。
出家天皇が神事を行うことに違和感を覚えない者はいないだろう。
称コはそれを押し切ったのである。押し切るのは称コ一人では無理であった。
道鏡が傍らにいたからこそそれが出来たのである。
大嘗祭は、道鏡が付き添い、道鏡に従う多数の僧侶たちの力によって成し遂げられた。
少なくとも称コの実感ではそうであった。

道鏡を太政大臣禅師に任じてから一年後の天平神護二年(766)、称コは道鏡に
法王の位を与えた。法王は「王」であるから皇族ということになる。
道鏡を法王とした同日、大僧都円興が法臣に、基真が法参議・大律師に任じられた。
法臣とは大臣のことである。僧なので大臣を法臣としたのである。造語だろう。
基真に与えた大律師という位階もそうである。律令官制の中に大律師という位階は
無いが、律師の中の最高の地位ということで大の文字をつけたのだろう。
称コは造語のようなことをするのが好きだったようである。
女児が人形の名前をつけるような感覚だったのだろうか。
(勝手に言葉を作る傾向は発達障害の子供によく見られる。称コにはそういった障害
があったのかも知れない。)。
称コは、基真には位階を与えた上に、物部浄之(きよし)朝臣の姓を賜っている。
僧は俗人でなく、氏姓とは無縁の存在であるはずだが、おかまいなしであった。
基真に浄之の氏姓を与え、「きよし、きよし・・・」と呼んでいたのだろう。
ちなみに、道鏡の弟・弓削浄人(きよんど)は764年に賜姓され、「御浄」(みきよ)
と名乗らされていた。弓削御浄朝臣浄人(ゆげのみきよのあそんきよんど)となる。
浄人のことは「みきよ、みきよや」と呼んでいたのだろうか。
道鏡の弟であるから身内扱いで、「きよんど」と名前を呼んでいたかも知れない。
称コは、いつも道鏡とべったりと二人でいたようなイメージがあるが、道鏡の腹心の
僧たちに囲まれていることも好んだようである。
円興は元は元興寺の僧で、道鏡の弟子といわれる。道鏡が修業時代からの知り合いで、
道鏡の推薦によって宮中に迎えられた僧であった。
道鏡よりやや若いぐらいの年齢であろうか。
基真は興福寺の僧で、円興の弟子である。自分の弟子ではないが、道鏡も基真を
可愛がっていたようである。
基信は道鏡ばかりでなく、称コに気に入られていた。
性格が明るく愛嬌があって、中年女性に好かれる資質があったのだろう。
基真は称コの寵愛に慢心し、従者たちを手足にしてあちこちで乱暴狼藉を働いたと
いうが、そういう悪童のような子供っぽさが称コに愛されたのかも知れない。
称コは、道鏡をはじめ、円興や基真ら僧たちと一緒にいるときは心から寛げた。
孝謙時代の、孤独で虐げられた生活とは正反対であった。
仏僧団に囲まれていると安心感が得られ、朗らかな気持ちになれたのである。
0586列島縦断名無しさん
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2021/10/20(水) 11:42:02.35ID:arnht1sp
称コが道鏡を法王にした目的は何か。
まずは宮殿に一緒に住むことを可能にするためだろう。
平城京の西宮殿が称コの御在所であった。
西宮殿は、それ以前の大極殿の跡地に建てられた御所の中心である。
奈良文化財研究所の発掘調査の報告書に、西宮殿の想像図が掲載されている。
https://www.gensetsu.com/20140308heijou/doc1.htm
広大な前庭があり、正月など儀式の際は多数の幢旗が立てられ、百官が整列した。
近年、幢旗を立てるための七つの柱穴が発掘されている。
https://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2016/03/tanken128.html
前庭側の正殿は公務のためのものだが、北側の寝殿は私的な領域であった。
道鏡は称コとともに寝殿に居住し、正月元旦に正殿の前殿(まえどの)に姿を現し、
群臣から朝賀の儀を受けた(769)※。

※続日本紀 神護景雲三年正月壬中 (三 日 〉条
「法王道鏡居西宮前殿 。大臣巳下賀拝。?道鏡自告寿詞。 」。

それ以前は道鏡は称コのもとに通っていたのである。それも何らかの用件を構えての
ことであった。いくら何でも、臣下である者が主上の御在所で寝食をともにできる
わけがない。しかし、いつのまにか同居状態になったのではないか。
それならば、こそこそ称コと同居しているより、正殿から登場して堂々と群臣の前に
姿を現した方がよいと判断したのだろう。
その前提として、法王という皇族の身分が与えられたのである。
道鏡が朝賀を受けたのは、自分はもはや「臣下」の立場ではないとの宣言であった。
0587列島縦断名無しさん
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2021/10/20(水) 11:42:37.00ID:arnht1sp
道鏡を法王にした目的は、もう一つあったと思われる。
称コは、道鏡を「師」として迎えたかったのである。
道鏡は称コの尊崇を受けているといっても、あくまでも臣下である。
一方、天皇である称コは、身分が違うというより次元の異なる存在である。
道鏡は仏道では称コを導く立場であるといっても、臣下の礼をとり、この上なく
恭しく接しなければならないのは当然である。
このことが称コには不満であった。
自分に対して師として厳しく接して欲しいのである。
否、むしろ称コは道鏡に弟子として仕え、奉仕することを望んでいた。
弟子として道鏡の傍らにあってその導きを受け、時には叱責を受けたりしたかった。
称コは道鏡を西宮に迎え、西宮で師僧に仕える弟子としての生活をしようとした
のだと思われる。
道鏡が西宮に住めば、道鏡の弟子たちも側に詰めることになる。仏僧団も頻繁に
出入りするようになるだろう。称コにはそれも望ましかった。
称コの感覚では、仏僧たちに囲まれて暮らすのは自然であった。
称コの父である聖武は、称コ(孝謙)に譲位すると直ちに出家してしまった。
というより、出家するために譲位した。
出家しながら、一方で太上天皇として娘の治世を支え続けた。
母の光明皇后も出家して光明子と名乗る。当然ながら光明皇后も出家の後は僧形で
あった。光明皇后は、自分の里である藤原不比等の住居であった建物を皇后館として
住まいしていたが、出家の後に総国分尼寺として建て替え、寺号を法華寺とし、
そこで尼僧として暮らしていた。そこに侍る従者たちも僧形であった。
光明子は、自分の私淑する僧(男性の僧)たちのために寺を建ててやり、法華寺の
周囲に住まわせていた。
僧形の父と母に支えられながら、天皇の地位にいるのが称コ(当時は孝謙)にとって
一番居心地がよかった。
僧たちに囲まれた西宮の生活は、両親がいた当時の再現であった。
称コは無意識のうちに道鏡を父になぞらえ、父が太上天皇として自分を支えてくれた
ように、道鏡が自分を後見してくれることを望んでいたのだろう。
称コが道鏡を自分の父である聖武の身代わりのようにしたかった。
それは道鏡の装束からも分かる。
0588列島縦断名無しさん
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2021/10/20(水) 11:43:28.00ID:arnht1sp
「道鏡の装束」
道鏡は僧形というより、天皇のような格好をしていた。
称コが道鏡をどう扱ったかについて、続日本紀は「崇(たか)むるに法王を以てし、
戴(たい)するに鸞輿を以てす。衣服・衣食もっぱら供御に擬(なずら)う」と
記している(宝亀3年4月6日条)。
「鸞輿」(らんよ、らにょ)とは天皇の載る輿(こし)のことである。
供御(くぎょ)とは天皇の飲食物。
道鏡を高めるために法王にし、天皇の載る輿を使うことを許し、衣服や食事は天皇と
同様のものにした、というのである。
奈良時代から江戸期まで、天皇や皇后は中国人の格好をするのが正装であった。
袞衣(こんえ)といい、中国皇帝の衣装である。
衣服には日や月、星辰、鳳凰、山や川の模様が織りこまれ、または刺繍されている。
頭には冕冠(べんかん)という冠を被った。
冕冠を被る後醍醐天皇の御像は有名である。
https://premium.toyokeizai.net/articles/-/21421
衣装の袞衣は赤が多いが、正倉院に残された聖武帝や光明皇后の袞衣は白である。
だから道鏡も白い袞衣を着ていたかも知れない。
当時の僧衣は白だったから、袞衣も僧が着るなら白色だったと思われる。
後醍醐天皇の御像は、袞衣・冕冠に袈裟を身に纏っている。
道鏡も袈裟を身につけていたはずである。御像のような感じだったのかも知れない。
0589列島縦断名無しさん
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2021/11/17(水) 07:19:22.71ID:jWSvwBk4
「宇佐八幡神託事件」

道鏡が法王になったのが天平神護2年(766年)10月。
それからほぼ三年後の神護景雲(769)3年9月、有名な宇佐八幡神託事件が起こった。
新暦では10月28日のことである。
続日本紀には神護景雲三年九月己丑条(769年9月25日条)にみえる。

原文は以下のとおりである。
「始大宰主神習宜阿曾麻呂、希旨。方媚事道鏡。因矯八幡神教言。令道鏡即皇位。天下太平。
道鏡聞之。深喜自負。天皇召清麻呂於床下。勅曰。昨夜夢。八幡神使来云。大神為令奏事。
請尼法均。宜汝清麻呂相代而往聴彼神命。臨発。道鏡語清麻呂曰。大神所以請使者。
蓋為告我即位之事。因重募以官爵。清麻呂行詣神宮。大神詫宣曰。我国家開闢以来。
君臣定矣。以臣為君。未之有也。天之日嗣必立皇緒。無道之人。宜早掃除。清麻呂来帰。
奏如神教。於是、道鏡大怒。解清麻呂本官。出為因幡員外介。未之任所。尋有詔。
除名配於大隅。其姉法均還俗配於備後。」。

『始め大宰の主神習宜阿曽麻呂、旨を希いて方に道鏡に媚び事え、因りて八幡の神教と
矯りて言う。「道鏡をして皇位に即かしめば天下太平ならん」と。』
太宰府の主神(かんづかさ、かんづさ)習宜阿曽麻呂(すげのあそまろ)が、旨を希いて
(しをこいねがいて、自分を気に入ってほしくて)方に(ことごとく)道鏡に媚び事え
(こびつかえ)ていたところ、八幡神の神教(お告げ)と矯りて(いつわって)申し上げた。
「道鏡を皇位に即ければ天下は太平になるであろう」と。これがことの始まりである。

『道鏡これを聞き、深く喜びて自負す。』
道鏡はこれを聞いて深く喜び、なるほど己は天皇にふさわしいと考えた。

『天皇、清麻呂を床下※に召し、勅して日く。』
称コ天皇は、清麻呂を床下に召し、勅書を読み上げた。
※「床下」は寝台の下の意であるが、原典には「床」という字は使われていない。
「牀」の字を用いて「牀下」としており、玉座の意味である。
だから「玉座近くまで招きよせて」と訳するのが正しい。
(ただし、称コは尼僧なので、従来の天皇の玉座を用いるようなことはなかっただろう。
勅するときは、仏僧が読経するときに座るような牀?几※を用いていたのではないか。)。
※しょうぎ。「腰掛け」のこと。

『昨夜夢みるに、八幡の神使来りて云う、大神事を奏せしめんが為に尼法均を請うと。
宜しく汝清麻呂、相代わりて往きて彼の神命を聴くべしと。』
昨夜夢に八幡神の使いが現れて、八幡神が「事を奏せんが為に」つまりある事を天皇に
奏上させるために法均尼を遣わすようにと言った。清麻呂よ、よろしく法均尼に代わって
宇佐まで行って神託を聞いてまいれ。
0590列島縦断名無しさん
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2021/11/17(水) 07:20:43.45ID:jWSvwBk4
『発するに臨みて道鏡清麻呂に語りて日く。大神の使を請う所以は、蓋し我が即位の事を
告げんが為ならんと。因りて重く募るに官爵を以てす。』
清麻呂が出発するに際して道鏡が清麻呂に語りかけこう言った。「八幡神が使者をよこせと
いうのはこの己の天皇即位の事を告げるためだろう。」と。
次ぎの文章の「重く募る」とは、重く用いるという意味である。
であるから「因りて重く募るに官爵を以てす」とは、官位や爵位のことを持ち出して
重く用いてやるぞ、と道鏡が言ったというのである。

『清麻呂、行きて神宮に詣る。大神託宣して日く。』
清麻呂は宇佐八幡まで行って神宮に詣でた。
八幡神は(巫女に)託してこう宣(の)りたもうた。

『我が国家、開闢より以来、君臣定まれり。臣を以て君となすことは未だこれ有らず。
天之日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除すべし』と。
わが国は、天地のはじめより君臣の秩序は定まっている。臣下の者を天皇と成すことは
いまだになされたことがない。天之日嗣(皇嗣のこと)には必ず皇緒(皇族のこと)を
立てよ。この道理にはずれている者は早く取り除け」と。

『清麻呂来り帰りて、奏すること神教の如し。』
清麻呂は宇佐から帰ってきて、天皇に八幡神の託宣をそのままに奏上した。

『是に於て道鏡大いに怒り、清麻呂の本官を解きて出だして因幡員外介となす。』
この結果に道鏡は大いに怒り、清麻呂の官職を解いて因幡国の員外介とした。
(員外介(いんがいのすけ)とは地方官の補充員のようなものである)。

『未だ任所にゆかず、尋いで称コ天皇の詔有りて除名し、大隅に配す。』
清麻呂が未だ因幡国に赴任しない間に、尋いで(次いで、続いての意味)称コ天皇の
詔勅が下って、清麻呂は除籍となり、大隅に流罪となった。
(除名とは官員の位階や官職を記した名簿から抹消すること。これによって何の身分も
有しない庶人となるのである。)。

『其の姉法均は還俗せしめて備後に配す。』
清麻呂の姉法均は僧籍を剥奪して俗人に戻し、備後国に流罪とした。
0591列島縦断名無しさん
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2021/11/17(水) 07:23:19.71ID:jWSvwBk4
現代語訳
初め、大宰府の主神の習宣阿曽麻呂は、道鏡に気に入られようと振る舞って仕えた。
そこで、宇佐八幡宮の神のお告げであるといつわって、「道鏡を皇位に即ければ天下は
太平になるであろう」と言った。道鏡はこれを聞き、深く喜ぶとともに自信を持った。
天皇は清麻呂を玉座近くに招じて、「昨夜の夢に八幡神の使いがきて『大神は天皇に
奏上することがあるので、尼の法均を遣わせることを願っています』と告げた。
そなた清麻呂は法均に代わって八幡大神のところへ行き、その神託を聞いてくるように」
と詔した。出発するのに臨んで道鏡は、清麻呂に語って言うのに、「大神が使者の派遣を
要請するのは、おそらく私の即位の事を告げるためであろう」と、そのようであれば、
重く用いて官爵を上げてやるぞと持ち掛けた。清麻呂は出かけて行って神宮に詣でた。
大神は託宣して言うには、「わが国家は、天と地が初めてできた時以来、君臣の秩序は
定まっている。臣下の者を君主と成すことは、いまだかつてなかったことだ。皇位には
必ず、天皇の血統を立てよ。道理にはずれている者は早く取り除け」と。
清麻呂は帰京して、神のお告げをそのままに天皇に奏上した。これによって、道鏡は
大いに怒って、清麻呂の官職を解いて、因幡員外介として左遷した。
清麻呂がまだ任地へ行かないうちに、続いて詔があって、官職を剥奪し除籍し、大隅国へ
配流した。その姉の法均は俗人に戻させられて、備後国へ配流された。
0592列島縦断名無しさん
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2021/11/17(水) 07:26:57.37ID:jWSvwBk4
広虫の改名について

続日本紀の別の条に、追放に際して清麻呂は姓を「別部(わけべ)」、名は「穢麻呂
(きたなまろ)」に変えられた。また法均尼は名を「広虫売(ひろむしめ)」とされた
とある。
一方、承和七年(840)に編纂された日本後紀の方では、清麻呂は続日本紀と同様に
「別部穢麻呂」だが、法均尼は「別部狭虫(わけべのさむし)」とされたとある。
おそらくこれは続日本紀の方が正しい。
広虫は還俗させられたのだから、元の俗人であったときの名に戻って当然である。
元の広虫に戻ったのである。「広虫売(ひろむしめ)」とされたのは特別の意味はない。
当時の女性は正式に名乗るときは名前の後に「女」や「売」をつけた。
ふだんは広虫と呼ばれ、公的には「広虫売(ひろむしめ)」とされただけのことである。
姉の方は改名されていないのである。
おそらく日本後紀の編者が広虫は改名されていないことに気づき、清麻呂とパラレルに
するために「狭虫」という名を考え出したのだと思われる。
実際にも、姉の広虫は何一つ称コの意に反するようなことはしていない。弟に連座した
だけのことである。さすがの称コも、広虫を狭虫に改名したりはしないはずである。
0593列島縦断名無しさん
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2021/11/17(水) 08:38:20.06ID:jWSvwBk4
宇佐八幡神託事件を記している史書は、おおまかに「続日本紀」、「日本後紀」、
「宇佐八幡託宣集」(八幡宇佐宮御託宣集)の三つである。
予め、これら三書について説明しておこう。

続日本紀は平安時代初期に編まれた勅撰の史書である。
文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱う。
奈良時代のほぼ全部を編年体で叙述するもので、全40巻からなる。
延暦16年(797年)に完成した。
宇佐八幡神託事件より約30年後の完成であり、事件に一番近い段階で記録された
史書である。

日本後紀は承和7年(840年)に完成した官撰史書。
続日本紀よりさらに40年以上経ってから編纂された。
事件からは70年以上経っており、おそらく事件当時のことを覚えている人間はほぼ
誰もいないような時代になってから記されたものである。
日本後紀は792年(延暦11)から833年(天長10)まで、桓武・平城・嵯峨・淳和の4天皇、
43年間のことを記すものであるが、その史書に何故八幡神託事件が取り上げられて
いるのであろうか。
神託事件は、「日本後紀」延暦一八年二月乙未条の和気清麻呂薨伝に記載されている
のである。「薨伝」とはその人物の略歴を記したものをいう。
和気清麻呂は桓武朝と平城朝で重臣として活躍した。
平安遷都に大きな役割を果たしたことは知られている。
この清麻呂の事績のうち、一番大きなものは宇佐八幡神託事件へのかかわりである
から、日本後紀でも当然これに触れられているのである。
事件から時代を経ているので、内容は事実による制約が緩み、やや物語風になっている。
さらに、時代的に神仏習合が進み、日本の神も仏教的なイメージで捉えられている印象
がある。

宇佐八幡託宣集は1313年(正和2、)宇佐弥勒寺学頭僧神吽(しんうん)が編纂した
宇佐八幡宮の縁起書である。神仏習合がさらに進んだ時代に仏僧が著したものであるから、
宇佐八幡の神仏習合の歴史を展開した書物であるともいえる。
鎌倉時代の人の仏教観もよく分かる本である。
0594列島縦断名無しさん
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2021/11/17(水) 08:48:59.51ID:jWSvwBk4
日本人が宇佐八幡神託事件の各場面ついて抱いているイメージは、日本後紀や
託宣集の影響によるところが多いと思われる。
続日本紀ではまだビジュアル的な要素が弱いのである。
日本後紀などになると、奔放な空想が加わるようになる。
イメージは具体的になり、芝居の台本でも読んでいるような気になってくる。

和気清麻呂が宇佐八幡の託宣を確認しに訪れたときの八幡神の託宣の場面を
見てみよう。


まず、上述のように、最初の託宣のときに巫女・辛嶋勝与曾売が語った言葉は分からない。
「道鏡を天位につかしめば国平らかならん」との言葉は、あくまでも沙庭である中臣習宜
阿曽麻呂が判定し上奏した言葉である。
だが、おそらく辛嶋勝与曾売も同様のことを言ったのだろう。
というのは、清麻呂が行った二度目の託宣のときに、辛嶋勝与曾売は再びの託宣を
拒んでいるからである。具体的にはこうである。(以下「日本後紀」による。)。
天皇の勅使として八幡神の神託の真偽を確かめに来た清麻呂は、浄衣に身を包み、
神前に額ずいたあと神饌を捧げ、宣命(せんみょう)を読み上げようとした。
宣命とは天皇の命令文書であるが、この場合は八幡神に宛てた「何とぞ神意をお示し
下さい」との願文である。その時に辛嶋勝与曾売は、「すでに一度神託をなしたので
あるから二度は無用である。宣命は受けぬ。」という意味のことを言い、宣命を受ける
ことを拒んだ。宣命は八幡神に宛てたものであるから、その拒絶は八幡神でなければ
できないはずである。ということは、このときには八幡神は与曾売を憑坐(よりまし)と
してその場に降臨していた。
拒絶の言葉は、神が辛嶋勝与曾売の口を使って話したのである。
二度は無用であるというのだから、前の託宣では神が降り、神託をなしたことを肯定
したことになる。そうであれば最初の託宣では巫女(八幡神)も「道鏡を天位につかしめ
ば国平らかならん」というような事を言ったのだと思われる。
0595列島縦断名無しさん
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2021/11/17(水) 08:50:53.89ID:jWSvwBk4
ここから日本後紀はどのように展開させたか。

日本後紀によれば、八幡神が辛嶋勝与曾売に語らしめた宣命の拒絶に対し、清麻呂
は「我は勅使なるぞ(意訳)」と怒ったとある。
勅使が託宣をせよと命じているのに拒絶するとは何事かと言うのである。
これは与曾売に対して言っているようである。
神に怒りを向けるわけにはいかないから巫女を叱ったということなのだろうか。
八幡神の託宣拒否に会っても清麻呂は引き下がらない。
清麻呂は八幡神に祈ってからこう言った。
「いま八幡大神の教へたまふところ、これ国家の大事なり。託宣は信じ難し。願はくは
神異を示したまへ。」。(原文は「祈曰。今大神所教。是国家之大事也。託宣難信。
願示神異。」)。
清麻呂は必死に祈り続け、与曾売も真剣に神寄せをしたという。
すると身の丈3丈(9メートル)もある大入道が現れ云々、という流れとなる。
(神即忽然現形。其長三丈許。色如満月。清麻呂消魂失度。不能仰見。)。
巨大な仏僧となって現れた八幡神に対して、清麻呂は仰ぎ見ることもできず平服
するのみ。※1

ここにおいて大神はようやく神意を示した。
「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。
天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし※2」との神託を
下したのである。 
「於是神託宣。我国家君臣分定。而道鏡悖逆無道。輙望神器。是以神霊震怒。
不聴其祈。汝帰如吾言奏之。天之日嗣必続皇緒。汝勿懼道鏡之怨。吾必相済。」。
我国家は君臣の分定まれり、而して道鏡悖逆無道、たやすく神器を望む。
これをもって神霊震怒す。その祈りを聴かず。汝、わが言のごとく奏せよ。
汝、道鏡の怨みを懼るるなかれ。吾、必ず相救わん。

ただし、この信託は与曾売の口を借りて下されたものではない。
神前に額づいて祈り続けた清麻呂は疲労で意識朦朧となった。
深更、その清麻呂の耳にはっきりと聞こえたというのである。
0596列島縦断名無しさん
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2021/11/17(水) 08:52:11.50ID:jWSvwBk4
※1天応元年(781年)に朝廷は宇佐八幡に大菩薩(はちまんだいぼさつ)の神号を
贈った。菩薩とは如来(仏)になる前の仏教修行者のこと。仏に準ずる者である。
信仰を集める菩薩は、観音菩薩や弥勒菩薩、地蔵菩薩など数多い。
本地垂迹説が広まると、八幡神は僧形で観念されるようになる。
もっとも有名なものは東大寺の僧形八幡神である。
手向山八幡神社のご神体であったが平家の焼き討ちで焼失し、鎌倉時代に再建
された。快慶作である。剃髪し袈裟を纏った僧侶の姿である。
https://art.iroiro.co/article/art/buddha/todaiji-sogyohachimanshin/
鎌倉時代には「僧形八幡神(そうぎょうはちまんしん)」と呼ばれる菩薩像や
画像が盛んに作られたが、東大寺のものもその一つである。
他に神護寺の八幡像画像が有名である。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~koua/tamio/kusaoka_emakimono9999.htm

東寺の八幡三神像は、平安初期のものとされる。
東大寺の僧形八幡神は再建であるから、東寺の像がもっとも古いことになる。

八幡神は、円相(満月のような丸い輝き)の中に現れる僧形の巨人とイメージ
されていたようである。


※2八幡宇佐御託宣集によれば、
「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人(道鏡)は宜しく早く掃い除くべし」
である。
0597列島縦断名無しさん
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2021/11/17(水) 08:56:04.89ID:jWSvwBk4
では実際はどうだったのか。

与曾売(八幡神)はおそらく何も語らなかったはずである。
託宣を複数回行うことは、神託というものの構造から不可能なのである。
神の意思は絶対なのであるから、二度目の託宣で前と異なる神意を示すことは
あり得ない。問い直しは神意の絶対性を疑う行為であり、神が応じるわけもない。
再度の託宣を行いうるとするなら、それは前の託宣が偽であった場合だけである。
しかし、巫女が偽託宣を認めれば、託宣の真実性は根本から崩壊する。
いずれにせよ二度の託宣は出来ない。
託宣をやり直すこと自体がナンセンスなのである。

八幡神は、宣命は受けぬとの神意を示した後、その場を去ったのだろう。
辛嶋勝与曾売は、清麻呂が何を言おうと、ただひれ伏して沈黙するのみであった。
和気清麻呂が持ち帰って上奏した「わが国は開闢このかた君臣の分定まれり・・・」
という世に名高い神託は、清麻呂の創作である。
神託を上奏した清麻呂は罰せられ、大隅国に流される。
姉の広虫も、狭虫と名を変えられ備後国に流刑となった。
しかしその約一年後、称徳天皇は崩御し、後ろ盾を失った道鏡は下野国薬師寺の
別当を命じられる。これは形の上では配置換えであって、処罰の要素はない。
せいぜい左遷といったところであるが、道鏡は赴任二年目に死ぬ。

実際はただこのような事件に過ぎない。
ただ、どのような経緯で神託事件が起こったのか。
それが重要なのである。
0599列島縦断名無しさん
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2022/05/12(木) 17:41:42.18ID:9QqfzWXE
ラッパもだと思うけど
ししおどしって節を外して全体を空洞にしないと音が響かないんじゃないの
なんかボツとかガト、とかそんな音のやつばかり見かける
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